凛の決意
終業時間直前、私は意を決して重役フロアにやって来ていた。
「きっとあなたから来てくださると思っていましたよ」
そう言って専務は私にソファをすすめたので、私はかるくお辞儀をしてから腰を下ろした。すぐ逃げられるように、なるべく浅めに座る。
専務にお茶を頼まれた秘書の女性が出ていき、部屋には私と専務の2人だけになった。
「よいお返事を、聞かせていただけますね?」
「…そのお話の前に、お聞きしたいことがあります」
「なんでしょう?」
「夫のドイツ行きは、あなたが仕組んだことだったんですか?」
私の不躾な発言にも、専務は笑顔を崩さない。
「仕組むだなんて、人聞きが悪いですね。優秀な人材を適所へ送るのは、上司としての役目ですよ」
「S社とのプロジェクトは、専務も責任者のお一人ですよね。その立場を利用して、私から夫を引き離した…。私のために早く帰国しようと、夫は仕事にまい進していました。そしてその成果を認められ、今度はドイツ支社に異動。外から見れば単なる華々しい躍進ですが、その影にはあなたの策略がある」
「…そう。その通りです。彼は実際、とても仕事ができる人だから、多少強引な人事異動でも不思議に思う人はいない。しかし、それだけでは弱かった。そして、あなた自身も仕事をする身だから、簡単にはここを離れられない。それを利用したんです。吉川さんの異動はほぼ決定事項です。新婚のうちに単身赴任で離れ離れになって、それでも続く夫婦なんて…きっとほぼいないでしょうね。僕と結婚すれば、あなたに決して寂しい思いはさせない。あの人以上に大切にします」
「もう、やめてください」
専務の言葉をそれ以上聞いていたくなくて、無理やり言葉を遮った。
いつの間にか、テーブルに置かれていたお茶の表面が振動している。
「……私の夫は、大斗さん以外には考えられません。私にとって、あんなに素敵な人はほかにいません…。今回のドイツ行きだって、最後まで私のことを心配していました。新しいところへ飛び込んでいくんだから、不安でたまらないはずなのに…、彼は寂しがる私を元気付けてくれた。それに、大斗さんはこんなふうに私を困らせるようなことは絶対しません。万が一、私が専務を好きだといったら、彼は私の意思を尊重して身を引くでしょう。そんな大斗さんだから、私は彼を愛しているんです」
専務は私の顔を見つめ、黙って聞いていた。もう笑ってはいない。
「先ほど専務は、私は“簡単にはここを離れられない”と言いましたね。それは違います。確かに、入社4年目で課長補佐という役職もいただいて、この会社には大好きな仲間もたくさんいます。でも…、大斗さんがいないなら、ここにいる意味なんて私にはないんです。大斗さんと知り合う前は、ただ仕事が面白くて、好きな仕事をするためだけにここにいるんだと思っていました。けど、彼と出会ってから、私にとって『何をするか』よりも『誰とするか』のほうが大切だと気づいたんです。結婚を機に部署は換わってしまったけど、大斗さんと同じ事業に携わっているんだと思ったら、それまでと同様、仕事に打ち込むことができました。私にとって、プライベートだけでなく、仕事の場でも彼は大きな支えなんです。ですから、大斗さんがいないなら、私はここにいる意味がありません。彼がドイツから帰ってこられないなら、私が仕事を辞めてドイツへ行きます。何があっても、私が専務を選ぶことは決してありません」
きっぱりと言い放った私を、専務は何も言わずにしばらく見つめていた。




