1杯のカフェオレ
私の姓が吉川になり、およそ半年が過ぎた。
入社3年目の去年、総務部人事課へ異動になり、今年度は新卒採用チームに加わることになった。大学生向けの会社説明会のために東京や大阪を飛び回っているので、毎日大忙しの日々を送っている。
「あっつーい!この暑さ、どうにかならないんですかねえ…」
私の隣のデスクでは、2つ後輩の神崎さんがジタバタと暴れている。
…まあ、暴れるのも無理はない。
社内規定で、空調を使えるのは7月以降と決まっているため、6月下旬の今はまだ使えないのだ。梅雨のじめじめとした蒸し暑さに、社内の空気も淀んでいる気がする…。
「暴れると余計に暑くなるよ。冷たいものでも飲んで来たら?」
すると彼女は椅子をくるっと回転させて、私のほうを向いた。
彼女の涼しげな白いシフォンのブラウスが、ひらりと波打つ。
「じゃあ、凛先輩も一緒に行きません?ちょっと休憩しましょうよ!ずっとこんなところにいたら、体調悪くなっちゃいます」
「そうだね。切りがいいし、つきあうよ」
「やったー!」
総務部があるフロアのカフェスペースには、数人の社員がいた。やっぱりみんな考えることは同じで、冷たい飲み物を飲んで涼をとっているのだ。
「あたし、メロンソーダにしようっと!」
神崎さんが流行の曲の鼻歌を歌いながら、点滅する緑のスイッチを押す。一緒にカラオケに行ったこともあるけど、彼女はなかなか歌がうまいと思う。
「先輩、どうぞー」
「うん。ありがとう」
小銭を入れて、1番好きなメーカーのアイスカフェオレを…押そうとしたら、残念ながら売り切れの表示が出ていた。
「あ、先輩の好きなカフェオレ、売り切れちゃってますねえ…」
「うーん、残念。他のにしようかな」
諦めて別のメーカーのものを選ぼうとしたら、真横からカップがすっと差し出された。
「よかったら、どうぞ?」
「え…?」
そこに立っていたのは、……誰だろう。総務部の人ではなく、見たことのない男性社員だった。
きれいに整えられた髪に爽やかな顔立ちで、清潔感のあるグレーのスーツを着ている。
身長は大斗さんと同じくらいだろうか。
「さっき僕が買ったら、ちょうど売り切れになってしまったんです。同じものを家でも飲んでいますし、これはまだ口をつけていませんから」
「でも…」
「どうぞ」
笑顔でぐいっと差し出され、受け取らざるを得なかった。
「…ありがとう、ございます」
お礼を言うとその男性社員はにこっと笑い、カフェスペースを出て行った。
歩き方にも、なんとなく品格が漂っているように思う。
「い、今の人って専務ですよね!?きゃー!初めて間近で見たっ」
神崎さんが興奮して、目をキラキラさせている。
「えっ、そうなの!?」
せっかくもらったカフェオレを、驚きのあまり落としてしまいそうになる。
「先輩、知らなかったんですか!?イケメンだから雑誌にも何度か載ってるし!たしか社長の息子さんですよ」
「もちろん話は聞いたことがあるけど、お顔は知らなくて。そうと知ってたら受け取らないよー。…あっ、お金…!」
慌てて専務を追いかけようとしたけれど、すでにエレベーターに乗っていってしまった後だった。
…また、何かの機会に返そう。
なんだか、またどこかで会えるような予感がしていた。