第二話 白と黒と夜と
先を歩くサザナミの表情はヒカルには窺えない。
ファートの街はすでに薄暗いが、ギルドで薦められた宿への道順は簡単で間違いようもない。
ついでに言うなら、ニートがバレたのも疑いようが無い。
あれからサザナミの口から出た言葉は『宿屋に行きましょう』の一言だけだ。
しゃんと背筋を伸ばして歩くサザナミに、肩を落としたヒカルがとぼとぼとついていく。
無言で暗い中を女性を尾けるとか、ニートを卒業したのに、スのつく職業になってしまいそうだ。
現役の女子高生が元28歳のニートの事をどう考えているのか。
そんなアンケート結果が目の前にあっても今のヒカルには怖くて手に取れない。
人生の失敗なんて思いもしない、そんな若さと希望に輝く年頃だけに、人生の敗者はより見苦しく映るのぐらいは分かる。
目の前にサンプルが居るんだから聞けばいいじゃない、なんて気のきいた回答は彼には必要無いだろう。
恐らくこの世界の人間はニートが何か知らない。
唯一の例外はサザナミだ。
彼女に知られたくないと思うのは恥ずかしいからだけじゃなく、自分を良くみせたいからだとヒカルはもう自覚している。
何気ない仕種の端々からも好印象が滲む抜群の美少女は、この世界への戸惑いを共有できるただ一人の同郷人で。
しばらく一緒にやって行こうと約束はしたが、それを十分にブチ壊すだけの爆弾をヒカルが抱えていた訳だ。
この危険なアルフェリアでハンターという命懸けの仕事をやっていく――。
そんな生活を信用できない人間と歩むなんて自分の命を危険に晒すだけ。
見捨てられてもヒカルには文句を言う筋合いすらない。
この異世界では信用なんて形の無いモノまで重さを増しているのだ。
ヒカルがいくら頭を抱えても、零れたミルクをワインで補うようなスキルなんてある筈もない。
仮にそんなスキルがあったとしても、床に漂う異臭まで消せはしないだろう。
結局、何の打開策も思い浮かばないうちに、辿りついた宿屋の1階は酒場兼食堂になっていて、客入りは半分程度。
見るとはなしにぼーっと眺めるヒカルに、ギルドで聞いていた通り恰幅のいいおかみさんが声を掛けてきた。
「泊まりなら、クラスカードの確認させてもらうよ」
目端が利くのだろう、あっさり新規の客と見破り、二人をグイグイとカウンターに連行していく。
ヒカルが左手からクラスカードを出せば、おかみさんが用紙に記入してくれた。
日本では客が書くものなのだが、そういえばハンターギルドでも何も書かなくて良かったと、ヒカルはぼんやりおかみさんの手元に目を遣る。
「部屋は二人部屋でいいかい?」
「えっと……」
「一人部屋を二つでお願いします」
一瞬詰まったヒカルがサザナミに目を遣れば、ジロリと睨まれた。
お金が心もとないから二人部屋の方がいいかもしれない、と思っただけでヒカルはちょっとしか変な事は考えていない。
もしかしたらドキムネがあるかも……、バカじゃないのか。ヒカルはこの期に及んでそんなことを妄想した自分に愕然としつつも、カウンターの料金表に目をやってごまかすことにする。
夕食が1千ゴールドで朝食が7百ゴールド。一人部屋なら部屋代が3千3百ゴールドで合計5千ゴールド。
宿泊代が少し安い気がするが、食事代金を考えると、概ね日本円とゴールドという通貨の価値は似たような感覚なのだろう。
「一泊、二食付きでお願いします」
「先に食事してくれたら隣同士の部屋を用意しとくけど?」
合計1万ゴールド、サザナミは、金貨を1枚手渡しながら頷いた。
サザナミの手に残ったのは金貨が5枚、のこり5万ゴールドだ。ふたりで生活すると宿だけで5日で破産する計算になる。
いくつかある丸テーブルの小さいものを選び、向かい合って席に着く。
腰を下ろした時に二人が顔を顰めたのは、悪意や押しピンの類では無く、拷問マシーンのせいでお尻が痛かったからだ。
それでも、空気は和まないが。
目を見合わせてお互いが切り出せない沈黙に、低い鐘の音が割って入る。
一度、二度と、除夜の鐘のような重く響く音が六回。
長い余韻を聞き終えてサザナミが切り出した。
「じゃあ、今後の事を話し合いましょうか?」
「後で俺の部屋で話そう。……ここじゃダメだ」
「部屋で二人っきりとか、変なコトする気でしょ」
今後の事を話すのに魔法の話は切り離すわけにはいかない。
魔法を考え無しに使って一度殺されそうになった以上、ヒカルとしては軽々しく他人のいる所で話せないという考えただけなのだが、サザナミの受け止め方は違った。
自分が女性を襲ったりするように見えるのかと内心傷つきながらも、ヒカルは即座に否定する。
「いくら俺でも真面目な話をするときにそんなことはしない」
「だって……、ニートだし。信用できない」
「ニートと一緒にしないでくれ。俺は、ネオニートなんだっ!」
「IT系とか言ってたくせに。うそつきっ!」
緊張の糸が張り詰めていたのが、宿に辿りつき緩んでしまったのか。
二人の言い合いは次第にヒートアップしてゆく。
今後の事がニートの事にすり替わっているのはニートの偉大さ故か。
「これでもサイト運営とかで年収3百万はあったんだ! それに、サザナミだって親のスネかじってる学生だろーが」
「これでもアタシはT大A判定なのよっ、将来性十分なのっ! ニートなんかに言われたくないわっ!」
超有名なんて言葉ですまない、ヒカルですら知る紛う事無き日本の最高学府のひとつ。
容姿に恵まれ、なおかつ頭脳明晰。
どうりであふれ出る雰囲気すら輝いていたわけだ。
サザナミがただの高校生だと思って、「ふふん、俺はIT系なのさ」なんて調子に乗って背伸びしたニート。
どれだけ滑稽で惨めだったのか。
ヒカルはつい、届きすらしない壁に子供の様な感情をぶちまけてしまう。
「い、いくら頭良くたって、無収入だったんだろーが。そんなヤツに言われたかねぇよっ!」
「アタシは親に感謝してるし、いつかはきっと恩を返すつもりだったわ。でも、アンタは違う。それだけ収入があるのにニートって判定されたってことは、家に生活費も入れてないってことよね? それって、お金も払えない普通のニートよりタチが悪くない? ニートがただの寄生なら、ヒカルのは根性のひんまがった身勝手な寄生よね!」
「ぐはっ!」
可愛い顔をして、痛烈な毒を吐く聖女。
全くもって正論で弁解の余地すらない勇者。
いろいろあってヒカルは親とは不仲で、家に住みながら生活費すら払っていなかったのは事実だが、流石にそういう言葉が胸に刺さらないわけではない。
「好きで引きこもってニートやってたわけじゃない……」
「しかも、引きこもりって……」
動揺のあまり自爆。
ニートから根性のひんまがったニート、さらに引きこもり属性まで追加してしまう。
ダメージを喰らう毎に、正体を晒していくある意味魔王のようなヒカルの印象は最悪だろう。
ヒカルだって、ニートに好感を抱く方が間違っているのは理解している。
それでも、せめて
「俺だって――!」
――分かって欲しい、と。
そんな思いが、彼の両手が、テーブルを衝いて。
バンと思ったより大きく鈍い音がヒカルの耳を打ち、思ったより冷たく鋭く、立ち上がってしまった彼の身体を通り抜けた。
――白くて、黒くて、冷たくて……。
「泊まりのお客さんは定食だよ。部屋は二階の一番奥とその隣。あと喧嘩するなら余所でやっとくれ!」
立ったまま固まったヒカルを窘めるように、おかみさんが食事を運んできた。
視線がテーブルの上を滑らされたトレイを追い、料理と一緒に乗せられた鍵に移ったことがヒカルには有難かった。
一瞬、喉の奥に湧いた黒くて冷たいモヤモヤを呑み込めたから。
「……そう、だよな」
掠れてしまったヒカルの声は誰に答えたものでも無いし、誰にも聞こえてはいない。
ストンと椅子に落ちると、ヒカルは出された食事に手を伸ばし、黙々と口に運ぶ。
異世界初の食事は沈黙の中。
野菜のスープに何かの肉を焼いたもの、大振りのパンがひとつ。
量も多いし、味も悪くない、ようだ。
話すべき相手がいながら、店のざわめきと互いの食器の鳴らす音しかない事が、ヒカルの味覚から色を削る。
砂を食むような感覚は家庭の食卓と同じ、
彼は慣れては、いる――。
「明日、どこかで話し合おう」
食事を終え、階段をヒカルが先に登っていく。
用意された部屋は二階の一番奥。
パタンと音を立てたドアが背中の後ろで彼と何かを切り離す。
あの頃と同じだな、と呟いて、ヒカルはベッドに倒れ込む。
この世界にきて浮かれ過ぎていた――。
ヒカルは目を閉じ、枕に顔を押しつけて思考に落ちる。
元の世界から「日比野ヒカル」という人間だけが切り離されて、新しい世界に来たこと。
両親を含めて他人との関係が完全に消去されたこと。
本来悲しむべきことかもしれない。
だけど――。
「ニート……、か」
ヒカルは高校三年で中退し、その後アルバイトを転々としたが、どれも長続きはしなかった。
クビになったのではなく、ヒカルなりの『事情』があって辞めたのだ。
しかし、彼がどこに行っても同じ結果が待っていた。
二十歳を過ぎて、仕事をしようとしたこともあった。
職業安定所にも顔を出したし、面接もそれなりに受けたが、どこでも聞かれることは似たり寄ったりで。
――中退した理由は?
――アルバイトも長続きしていませんが?
――最後に働いてから、数年、職歴がありませんが、何をしてました?
ヒカルが仕事の選り好みをしていなかった、と言えば嘘になる。
しかし、地球、いや日本は、一度ドロップアウトした人間に厳しかった。
努力が足りない? そうかもしれない。
結局、ヒカルは現実から逃げ出したのだから。
光の、電波の、LANケーブルのその先の、ネットの世界だけが、他人と関わり合う世界。心安らぐ世界。
誰も彼のことを知らない世界。
そう、誰もヒカルを知らない。
そう、この異世界と同じ。
ヒカルにはそれがなにより嬉しかったから。
確かに向こうで人生をやり直す覚悟はできていた。
できてはいたが、内心はやはり怖かったのだ。
こちらに来た時の彼の心の奥からの解放感がそれを証明している。
「別の世界に来ても、また向こうの過去が足を引っ張る、なんて、な」
どうしようもない無力感。
――なんでこっちの世界まで俺を付け回すんだ?
同級生の瞳。
――俺じゃないっ。
町の人の瞳。
――違うんだ。
親の瞳まで。
――なんでだよっ!!!
叫んでも叫んでも、届かない瞳に滲むのは侮蔑や疑いだけで。
白くて、黒くて、冷たい。
――サザナミの瞳も。
月明かりの中ヒカルの口元が自嘲の弧を描く。
『自分って他人だからさ、優しくしてやらないとダメだぞ――』
たった一度しか会ったことの無い、たったひとりの親友を思い浮かべれば、同じ弧が意味を変える。
(それでも、信じて、いや、受け入れてくれたヤツがいたんだったな)
ヒカルはごろりと寝がえりを打ち、膝を抱えて座り込めば――
「いぎっ!?」
お尻の痛みが現実に戻れと主張する。
(……感傷的になりすぎた)
明日からの事はまだ分からなくても、一人でやっていくと割り切って。
痛みに眉を寄せ、うつ伏せに寝なおしながら、ヒカルは今日の出来事を想う――
異世界アルフェリアは、大切なおケツを狙っているのだろうか? と。
◆■◆
「寝てた、……か」
いつしかまどろんでいたヒカルは重く響く鐘の音で目を覚ます。
一人でやっていく決意をして、気持ちが落ち着いたのかそのまま寝てしまったらしい。
明日、やるべき事すら考え終わっていない事に苦笑してみても、まだ頭がスッキリしていない。
(コーヒー、この世界にあるのかな?)
そんな嗜好品に手を出す余裕なんてないのだが、ヒカルはそこには気付かない。
異世界のコーヒーに思いを馳せるヒカルを、軽いノックの音が引きもどす。
サザナミは部屋には来たくないと言っていたから、宿のおかみさんだろうか。
そんな風に考えて、ヒカルはうつ伏せのままお尻を突き出すと、尺取り虫が立ち上がるような奇怪な動きで立ち上がる。
部屋は暗いが、窓から差し込む月の明かりでそれなりに室内は分かる。
鍵をかけ忘れたドアを開ければ、黒髪の少女がそこにいて――。
「っ! ど、どうぞ」
「……お邪魔します」
思わずどうぞ、と口走った己の迂闊さに、しまったと焦るヒカルだったが、予想外の返答に困惑をさらに加速させる。
やましい事なんて考えていないが、女性を部屋に招き入れるというだけで、ヒカルの心臓は跳ねてしまう。
緊張をほぐす為に細く長く息を吐きながら、改めて部屋を観察する。
室内はビジネスホテルのような作りでそう広くはなかったが、それでも書き物用の机と木製の椅子は備え付けてあった。
ヒカルがベッドに座り椅子を勧めるのがいいだろう。
ベッドを指差して、どうぞ、なんて言う勇気は彼には無い。
「ちょっと待って」
彼女も馬車に乗ったのだからお尻が痛い筈だと思い当たったヒカルは、毛布を引き抜き畳んで椅子に敷く。
持ち手のついた行燈を持ったまま佇むサザナミに改めて椅子を勧めつつ声をかける。
「えっと、それで?」
行燈を机に置くサザナミを眺めながら、要件は今後の事だろうとヒカルは軽く息を吐く。
金はサザナミが持っていて、別行動するならヒカルは文無しになるがそれでいい。
覚悟を決めてしまった彼の心は落ち着いている。
月明かりの中で揺らめいている行燈の灯のせいかもしれないな、なんて思えるぐらいには。
――そういえばまだ月を見ていない。
そんな事を考えながらヒカルはサザナミの口元を見つめ、言葉を待った。
「さっきはごめん。言いすぎたわ。アタシ、知らない世界に来て死にそうになったり、奴隷にされるとか言われたりして……」
「それはもういいよ。俺だって気が立ってた。引きこもりでも27年生きてたんだ。年上なのに、ムキになって悪かった」
お互いに頭を下げ、ヒカルはようやくサザナミと目を合わせた。
じっと見つめてくるその瞳は、黒くて、白くて――。
落ち着いた筈のヒカルの心が戸惑いに揺れる。
思わず目を伏せたヒカルは動揺を隠す為に話を強引に進める。
目を逸らせてしまったのは、不快感ではなく羞恥心。
ヒカルは戸惑いを飲み込みながら話を進める。
「明日からどうする?」
「ギルドに居た人達って何人かのグループで行動してたみたいだったわ。アタシ達も他の見習いの人を探して、仲間になってもらうのがいいと思うんだけど」
ヒカルは目を閉じてぐっと拳を握り込む。
サザナミには「アタシ達」と言うただの言葉がヒカルにとってどれだけの重さを持つか分からないだろうから。
それは今後も一緒に行動する、と言う事。
ヒカルはしばらく動かない。いや、うつむいたまま動けない。
黒くて、白くて、
――真摯な瞳のサザナミがいて。
月明かりが丁度途切れたのが有難かった。
ヒカルはサッと目じりを拭い、誤魔化すように言葉を繋ぐ。
「……それは、やめよう」
「どうして? 人数多い方が楽だと思うけど……。あ、お金の分配が減る?」
「いや、魔法だよ。俺の【火球】もサザナミの【癒しの光】も詠唱がいらない。ガドゥさんは人族は詠唱無しじゃ魔法を使えないって言ってた」
「でも、それってホントはすごい事よね? 他人にできないことができるんだから、強みになると思うんだけど」
「確かにそうだけど、俺が怖いのは、『魔女狩り』なんだ」
「アタシ達クラスカード見ても『人族』だけど?」
サザナミとの会話で知らず知らずの内に落ち着きを取り戻していくヒカル。
ポンポンとテンポよく返ってくる的確な質問が、ヒカルに余計な事を考える余裕を作らないのだ。
サザナミの言葉は質問と提案。
ヒカルは気付いていないが、回答と決定という主導権を委ねられているのだ。学生と教師、部下と上司の関係に近い。
なんとなく頼られているという雰囲気に、自然とヒカルの背筋も伸び、会話に没頭してゆく。
「あ~、なんて言うのかな。魔法がある世界ってさ、神様への信仰が篤かったりする気がするんだよな。怖いのは宗教的な問題が無いかってこと。地球の魔女狩りだって、実際に『魔女』を狩ったわけじゃないだろうし」
「確かに……。教会もあったし宗教があるのは間違いないわね。あの優しそうなガドゥさんが『本気で殺すつもりだった』とか言ってたし」
ガドゥは「人族」というのを確認して納得したが、実際の魔女狩りには宗教的な要素が少なからず関わっている。
他人にできない事が出来るというのは確かに強みではあるが、宗教がある以上、人族でも「異端」とされる可能性は否定できないのだ。
切羽詰まって魔法を使ってしまう恐れがある以上、仲間を得るメリットより仲間に見られるリスクのほうが大きい。
ガドゥの異様な反応を考えれば、リスクは「死」なのだから。
「正しい詠唱ってのが分かれば、ごまかしは効くんだろうけどなぁ」
「そこまでしなくてもいいと思うんだけど……、適当に詠唱っぽいことを呟いてみるのはダメ?」
二人とも魔法名だけで魔法を発動できるが、それで使えてしまうために本来行うべき詠唱がわからないのだ。
ヒカルが言うのは「正しく」魔法を使う事だ。正しい詠唱の後、魔法名を唱えて魔法を使えばいい。
サザナミの言うように小声で詠唱している振りをして発動させる手もあるが、仲間を募ればいつかは聞き咎められるだろう。
回復魔法なしで戦闘をやっていく自信がない以上、二人でやって行くしかない。
二人は生きていくために話し合った。
手持ちの情報だけでは判断できない事も多かったが、当面の行動方針はある程度決まった。
あとは気持ちの問題だ。
ヒカルが話の最中ずっと気になってはいたものの、言いだせなかった事。
今更、卑怯な後出しで免罪符を求めるような情けない行為だろう。
言いたくは無いのに、敢えて口に出したいというむず痒い思いでヒカルは居住まいを正す。
「俺はニートだけど……、いいのか?」
「……正直言うと、信用できないかな?」
思わず、「ですよね~」なんてふざけた言葉が出そうになるのは、サザナミの言葉に棘が無いからだ。
ヒカルの行動に釘を刺しているだけだろう。
信用できないなんて言われてホッと安心できるのは、ヒカルの頭がおかしいからでは無い。
釘が刺さるより棘が刺さる方が怖いというのはおかしな話だが。
「アタシ少し前にね、お兄ちゃんに『ニートを馬鹿にするなっ!!』ってすっごい怒られた事があるの」
「マジか!! 兄貴がニートなのか!?」
「冗談じゃないわよっ! アタシのお兄ちゃんは超・超・超~っ最っ高なんだからっ! ヒカルと一緒にしないでよっ!!」
「……す、すみません」
ヒカルは心底日本人に生まれて良かったと思う。無駄なく丁寧に謝罪できるのは民族性の成せる業だ。要するにペコペコ頭を下げている。
話の流れで行くと、兄はニートと受け止めても仕方がないと思うのだが、余計な事を言ってこれ以上地雷を踏むわけにはいかない。
サザナミの目が三角になっている。最近流行りのお兄ちゃん病を患っているのかもしれない。
しかし、クールな見た目のサザナミが、ムキになっているのはヒカルにとってはご褒美と言うかプリチーでもある。
また怪我をしない程度にいじれば、聖女のご褒美を堪能できそうだ。
「お兄ちゃんはねっ、T大生で医学部なのっ!」
「……」
なんとなく平伏したくなるのは社会の格差か、遺伝子の格差なのか。ともかくもう二度とこの話題はしないとヒカルは固く心に誓う。
ジトっとした視線を返すことしかできないが、ささやかな抵抗を目に込めておくのは忘れない勇者。
――お兄ちゃんだったら、遺伝子が似てるから問題あるんだからねっ!
「と、とにかく。嘘をつかれるのはイヤ、かな」
「IT系のこと?」
ヒカルの眼力が通用したのか、急に素に戻ったサザナミが言う事はもっともだ。
嘘を吐く人間を信用するのは難しい。つい出来ごころで、とヒカルは素直に頭を下げる。
しかし、あれはネットの知り合いにヒカルが名乗っていたなんちゃって肩書なのだ。
「あれは実はネタだったというか何と言いますか……」
「本気で言ってたみたいにしか聞こえなかったけど、一応聞くわ」
「怒らない?」
悪さをした女の子のごとく、ヒカルがコケティッシュな視線を送れば、溜息をつきながらもサザナミが首を縦に一度。
少し怒られるぐらいならいいかもしれないな、なんてヒカルが思うほどには二人の間の空気は良くなっている。
「……いつでも邸宅警備」
「いつでもていたくけいび?」
「ハイ。正確にはITKです」
ヒカルのネット仲間には好評だったのだが、サザナミはお気に召さなかったようだ。
こめかみを押さえて目を閉じてしまった彼女の溜息が、少々痛いヒカルだった――。
帰るサザナミを見送って、
ヒカルの目の前でパタンとドアが閉じる。
いつものようにヒカルの世界を切り抜いて。
だけど、あの頃とは違う。
――じゃあ、また明日。
そんな短い音の羅列が、サザナミの足音を消させない。
ヒカルの額がこつんとドアに触れて、
「……また明日」
――そんな、遅れてしまった呟きが、漏れた。