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吸血鬼

作者: 石月煤子



朝、目覚めると下腹部に微かな痛み。

洗面所で顔を洗い、目線を上げると、まだ眠たそうな顔が鏡に写る。

一重の黒目がちな眼は中学生にしては鋭いとよく言われ、日焼けしにくい肌は病的なくらいに白く、今日はいつにもまして顔色が悪かった。


「おはよう、香織」


トーストとコーヒーの香りに満ちたリビングに向かうと、ダイニングテーブルで新聞を読んでいた父がにこやかに笑いかけてきた。


「…顔色が悪いね」


私の顔を改めて見、父が常に優しい眼差しを紡ぐ二重の眼を瞬かせた。


「熱を測ってみなさい。微熱があるなら学校は休んだ方がいい」


最近、早退や欠席を繰り返している私はとりあえず登校するつもりだと父に告げた。


「そう。無理はしないように」


食事の途中だった父はわざわざテーブルを立ってグラスにオレンジジュースを注ぎ、私の前に置いた。

トーストを齧って、喉奥に流し込む。テレビは各地の天気予報を流している。

まだ、下腹部に熱を伴う痛みがある。

私は無視を決め込んで学校へ行った。



父は優しい人だった。

三十代には見えない瑞々しい色艶を備え、人目を引く程に端整な顔立ちをしていて、立居振る舞いもしなやかで見栄えがよかった。

それでいて、白髪交じりの頭だから、年齢不詳でもあった。

父はどんな時も私に優しい人だった。



痛みが徐々にひどくなり、三限目の授業が終わると保健室に向かった。


「あら、水無月さん…」


顔なじみの保健医は蒼白な私を見るなりデスクから腰を上げ、足早に駆け寄ってきた。

体温を測ってみると微熱あり。

保健医は親切にベッドまで案内してくれた。



白いシーツの上で横になり、授業半分近くの睡眠を得て、目を覚ます。

起き上がった私はそれに気がつく。

さっきまで真っ白だったシーツの上に赤い染みができていた。



その日、私は初潮を迎えた。

父に言えるわけがなかった。



その日から私は重たげな痛みと執拗な睡魔に襲われるようになった。

保健医に教えてもらい、適切な処理はしているが、父に知られたらと思うと不安で堪らなかった。

薬局で必要なものを買うのも不慣れで恥ずかしかった。

他の子はどうしているのだろう? 

やはり母親に買ってもらうのだろうか…。

吐き気と眩暈に苛まれて倒れそうにもなった。

七日間。

私は耐えられるだろうか。

どうしてこんな痛みを覚えなければならないのだろう?



「香織、本当に大丈夫なのかい」


三日目、夜の食卓で父に問われて、私は何とか必死で取り繕った。


「…そう。何でもないのならいいけれど。睡眠時間も十分にとっているようだし。うん、それならいいんだ…」


父には絶対に知られたくない。

残りの四日が早く過ぎ去ってしまえばいいのに。

ああ、どうしてこんなに痛むのだろう?


「香織、週末は家で休んでいなさい」


父の言葉に私は虚ろな気持ちで頷いた。



土曜日、私は一日中眠ってばかりいた。

五時過ぎの夕陽を自室の窓から見上げていたら何だか悲しくなった。

正常な事なのに異常に思えてならない。

まるで私だけが背負わなくてもいい痛みを課せられているようで、遣りきれなかった。



近くのスーパーへ買い物に出かけていた父は帰ってくると夕食の準備にとりかかった。

眠気と痛みを未だ持て余す私はリビングのソファでテレビを見ていた。

騒がしい音声と鮮やか過ぎる色彩が私の中を通り過ぎていく。

うつらうつらとなりかけていたら、キッチンの方で、不意に父が小さな声を上げた。


急に眠気が速やかに遠退いていった。

揺らいでいた視界が鮮明となって、気のせいか痛みが軽くなったような気がした。


キッチンを窺ってみると父は胸のところで両手を重ねていた。

どうやら包丁で怪我をしたらしい。

私は急いでカウンターの内側へ回って父の隣に立った。

左の指先から赤い雫が滴っていた。

父の白く細長い人差し指に、赤い、血が。


「…香織」


私は父の腕にしがみついてその指先の血を舐めた。

痛みが、嘘のように引いていく。

私を苦しめていた下腹部の呪いが父の血によって消されていく…。


「やっぱり、そうだったんだね、香織」


指先の血を綺麗に舐め取った私に父はそっと微笑んだ。


「迎えたんだね、とうとう」


私は、黙っていた事を謝った。

今日まで知られるのがとても嫌だったのに、一つの衝撃によって、恥ずかしさや絶望感は薄れていた。

何だ、そうだったんだ…。

私は今初めてわかった真実に胸を撫で下ろす。


血はなくなっていく一方では駄目なのだ。

たった一滴でもいいからこうして口にして、父から補えば、痛みや睡魔は蹴散らされるのだ。


私がそれを言うと、父はまた一層優しげに笑ってみせて、頷いた。


「うん、でも、人に言ってはいけないよ…繊細な事だからね」


私は何の疑いもなしに頷いた。


「うん、それでいいよ、香織」


煮立った鍋が鈍い音を立てている。

恐ろしいくらいに赤い夕焼けが窓の外に満ちている。

頭を撫でてくれる優しい父と、口の中に残る血の滑りに、私は心から安堵するのだった。



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