プロローグ1
――ドクン…
深い闇の中で鼓動する音が響く。
――ドクン…
その闇の中で、鎖を幾重にも巻かれた剣が淡い光を放ちつつ、脈打っていた。
――ドクン…
「凄まじな、この力の波動は」
忽然と、男特有の低い声が響く。
「ついに、あの劣悪種共に…!」
――ドクンッ!
憎しみの篭った声で呟いた男が、歯を鳴らす。
すると、剣が反応するように大きく脈打った。
「……素晴らしい。私の感情に呼応するとは」
――ドクン…
「あとは完成を待つだけだ」
そう呟くと、男は闇に溶け込むように消えていった。
※
過ごしやすい陽気に、穏やかな風が舞う広大な草原。草花には空から、暖かい陽の光が降り注いでいる。
そんな草原の一角に、陽の光を遮る大小2つの影が伸びていた。
「あまり遠くへ行かれませんように」
大きい影の持ち主である、成人の女性が声を出す。
深緑の髪を腰まで伸ばし、琥珀色の瞳は優しげな視線を向けていた。メイド服に身を包み、緊張した様子で背を伸ばしながらも、物腰柔らかな雰囲気を纏っている。
「わかっています! まったく、エリスは心配性なんだから……」
小さい影の持ち主が顔を上げると、唇を尖らせながら、そう言った。
降り注ぐ陽の光を浴びて、金色に輝く美しい金髪と、濁りのない蒼く澄んだ瞳を持った少女は、幼くも神々しさを感じさせる。しかし、そんな外見とは裏腹に、歳相応に可愛らしく頬を膨らませると、抗議するように答えた。
「申し訳ありません。ですが、性分ですので……。それに、マノリお嬢様をくれぐれもよろしく頼む、と旦那様から仰せつかっております」
「もぉ! お父様も相変わらずね」
マノリと呼ばれた少女は、少し恥ずかしげな表情で身を揺らす。
「あっ! 見て、エリス! こんなに綺麗なお花が!」
そう言うと、膝を折り、白い花を眺め始めた。笑顔で花を見つめるその姿は、エリスに笑みを浮かべさせる。
しばらくすると、何かを思い出したのか、急にマノリの顔がエリスへと向けられた。
「そういえば、今日はまだ商人さんが来ないわね」
「左様でございますね。いつもでしたら、すでにお屋敷にお出でになられるのですが……」
軽く首を傾げながら問いかけるマノリの言葉に、エリスも同意して、不思議そうな表情を浮かべた。
「きっと、こんな素敵な陽気だから、どこかでお昼寝でもしているのね」
マノリは言い終わると、花を避けるようにその場で仰向けに寝転ぶ。
草花の香りが鼻に届き、温かい陽の光と心地良い風に包まれる状況に眠気を誘われたのか、大きなあくびをした。
「そうだとしますと、随分とお気楽な商人ですこと。ふふ」
エリスは少し行儀の悪い姿を窘めることなく、クスクスと笑いながら答えた。
「うぅ~、なによ! 人を脳天気みたいに!」
マノリは笑われたことが気に触ったのか、勢い良く上半身を起こして、エリスを軽く睨みつける。その顔は不機嫌さを示すため、頬を目一杯膨らませていた。
「失礼しました。あまりに可愛らしいお嬢様に、少し意地悪をしてみたくなりました」
本人は精一杯怒りを表しているが、その姿がエリスにとって可愛らしく映るようで、笑みを堪えるため、口元に手を当てて隠している。
しかしすぐに、笑いを堪えたのか、口元から手を放すと、大袈裟に頭を下げて謝罪をした。
「エリスのいじわる!」
エリスが真剣に謝罪していない事が分かっているのか、マノリは拗ねるように唇を突き出す。
だが、何かを思い付いたのか、一転して含んだ笑みを浮かべると、跳ねるように身体を起こし、そのままエリスに飛びついた。
「とりゃ!」
「きゃっ! お嬢様?!」
抱きつき腹部へと、顔を押し当てる。そして、ぐりぐりと頬ずりしながら、柔らかな感触を堪能し始めた。程よい弾力感と、心地良い感触により気持ちよさそうな表情をするマノリを、エリスは愛おしげに撫でる。
「えへへ。でも、本当に商人さん遅いわね」
「ええ。何かあったのでしょうか?」
「そうよね。いくらなんでも遅すぎる……あっ! 来たみたい!」
エリスから離れ、キョロキョロと草原を見回すマノリが、こちらへと進んでくる1台の馬車を見つける。それを、嬉しそうな表情でエリスに報告しながら、馬車が見える方向を指さした。
「少し遅れていただけのようですね。ふふ、本当にお昼寝をなさっていたのかもしれません」
「もういいでしょ、そのことは!」
マノリに促されるまま、視線を指の先へと向ける。そして、馬車の存在を確認して、エリスは頷きながらもマノリの言葉を思い出し、再び笑みを浮かべた。散々弄られた事をまたも掘り返し、誂ってくるエリスを、マノリは威嚇するように怒りを示す。
「エリスは意地悪ばっかり!」と、不満を口にすると、エリスは少し度が過ぎたと感じたのか、今までとは比較的真剣に謝罪をする。しかし、今度はそれにマノリが慌ててしまう。責めるつもりはつもりはなかった、と首を振りながら不安気な表情でエリスを窺っている。それに、「わかっています」と、頷いて、またマノリの頭を撫で始めた。
そんな、ほのぼのとしたやり取りを2人がをしてる間も、馬車は速度を緩める事なく進んでくる。遅れを取り戻そうと急いでいるのか、かなりの速度を出していた。
馬車の車輪によって、草原の草花が抉り刈られ、下にある土がむき出しになる。刈られた草花が、風によって飛ばされ、車輪の衝撃によって砂煙が立ち上っていた。
途中、転がっている石に乗ってしまったのか、時折荷台が大きく跳ねている。中に敷き詰められているであろう商品を、全く気遣った様子のないその走りに、エリスは顔を顰めた。
「お嬢様、少々様子がおかしくありませんか?」
「うん……なんだか、すごく慌ててるみたい。どうしたのかな?」
どこか異変を感じて訝しげな視線を馬車に向けながらも、その場で馬車の到着を待つため佇んでいると、馬車の後方にある黒い物体が2人の瞳に映る。遥か遠くに見えるが黒い物体には禍々しいオーラが窺え、よく目を凝らすと少しずつこちらへと移動してきているようだった。
【ーあれは危険だー】
本能がそう叫び、頭にガンガンと響かせるように警報を鳴らす。
「エ、エリス。あれ……なに?」
突如現れた未知の物体に、マノリは恐怖に顔を歪ませたまま数歩後ずさる。そして、エリスを怯えた表情で見上げると、縋るような声で問いかけた。
「ま、魔物…? そんな! どうしてこんな場所に!? ……いけない…! お嬢様、早くお屋敷に!」
ありえない事態に驚愕の表情を浮かべてしばし硬直するが、本能の警告に我に返ると、素早くマノリの手を取る。そのまま引っ張る形で危険な物体から逃げるために、それとは逆の方向へと走り出した。
「お屋敷付近まで逃げれば、監視の兵が異常に気付き、護衛に駆けつけてくださいます。それまで頑張りましょう!」
「う、うん!」
見たこともないエリスの慌てた様子に、マノリは事態を悟ると力強く頷く。そして、繋がれる手を握り返し、懸命に足を動かし始めた。
屋敷の方角へと草原を駆ける2人に、先程までの穏やかな表情は一切ない。とにかく、『恐ろしいものから逃げたい』『安全な場所へ』、との考えが、頭の中を占めていた。
「大丈夫です。お嬢様は私が命に代えてもお守りいたします!」
走りながら、そう決心するかのようにエリスは力強く声をかける。
使命感と禍々しい黒から目を離したことで、若干ではあるが恐怖心から開放され混乱していた頭が冷静さを取り戻す。すると、今度は疑問が浮かび上がってくる。なぜ、このような事態が起こっているのか、と……。
『なぜ魔物が? 馬車を追いかけて、このような場所にまで出てきたというの? ーーいいえ、ありえないわ。この周辺は、定期的に魔物討伐がされている。それに、この付近で目撃されるのは下級魔物。馬車の護衛でどうにかなるレベルのはず。それなのに、距離が離れているにもかかわらず、この存在感。少なくても中級魔物だわ……』
冷静さを取り戻した頭を回転させ、エリスは黒の正体を探る。しかし、考えれば考えるほど後ろに見える存在が、危険なモノであると気づくばかりだ。
『先日も、この辺りの魔物討伐が実施されたと報告を受けたから、お嬢様をお連れしたのに……。くっ、完全に私の失態です。どうにかお嬢様だけでも……』
久々の心地良い陽気のため、少しお屋敷を離れて、草原まで足を伸ばそうと提案したことをエリスは激しく後悔する。
もちろん、マノリの父である領主には許可を得ている。お屋敷から離れ、少し遠出できることに喜びの表情を浮かべるマノリを見て、提案してよかった、と思っていた程だ。
(ハァ…ハァ…)
思考を巡らせるエリスの耳に少し荒い息づかいが聞こえてくる。エリスは、ハッと後ろを向くと、そこには息を切らせ顔を赤く上気させながらも、必死に足を動かすマノリの姿があった。
『いくら危険な状況だからといって、お嬢様に気を配れないなんて!』
足に疲労が蓄積し、だんだんと走る速度が衰えてきている。そのため、エリスに引きずられる形で走っているマノリの姿は痛々しげに映った。
そのことに、今になるまで気付くことすら出来なかった自身の配慮の無さに、呪うように叱咤する。
『このままでは、お屋敷までお嬢様の体力が保たない……』
屋敷に着かなくとも、監視の兵士たちが目視できる範囲まで逃げることができれば、すぐに騎士たちが状況を感じ取り護衛に馳せ参じるだろう。
しかし、屋敷までの距離はまだある。エリスの体力なら問題なく逃げ切れるのだが、マノリは違う。ここから屋敷までを、全力で走って戻る事のできる体力を持つ身体ではない。現に、マノリの体力は限界に達しつつあることが見て取れた。
「……それなら!」
何かを決断するように声を出すと、エリスは走るのを止める。
「えっ!? きゃっ!」
急に止まるエリスに驚いて戸惑った声を上げる。とっさのことに判断が追いつかず、足をもつれさせるが、それを助けるように手を強く引かれ踏み留まる。
すると、身体が浮かび上がる感覚に襲われた。
「エ、エリス!?」
マノリは自身に起こっている事態に困惑する。そして、その原因となっている者の名を、戸惑った様子で呼んだ。
「お嬢様、しっかり掴まっていてください!」
マノリを優しく、しかし落とさないようにしっかりと腕に抱きかかえる。そして、指示するように声をかけると、エリスは再び走り出した。
呆然とした表情で抱えられたままだったマノリは、思考が回復すると激しく首を振る。
「駄目よエリス! 私を抱いたまま走るなんて無理だわ!」
「心配いりません! これでも、体力には自信がございます!」
降りようと身体を捩り、必死に腕から逃れようとするマノリを一度強く抱き締める。
それによって動きが止まると、ゆっくりと顔を上げて不安気な表情で見つめてきた。それに安心させるように、「大丈夫です」と言うと、微笑みを返してから走る速度を上げる。
『私の体力が続く限りお屋敷まで。最悪、監視兵の警戒範囲に入れれば、それで良い。もしそれが無理だとしても、途中で商人の馬車に飛び乗り、お屋敷まで逃げ切ってもらう』
エリスは後ろに目をやり、馬車と魔物の速度を観察しながらそう判断する。
僅かではあるが距離が縮まっているものの、馬車と魔物の距離は大きく離れている。2人が馬車に乗る時間を計算に入れても、十分に屋敷まで逃げ切れるはずだ。
『たとえ魔物が、何らかの方法で移動速度を上げて馬車までの距離を縮めたとしても、私が囮になり足止めをすれば……』
最悪はここで全員が殺されることである。
あのような高レベルの魔物がこんな場所に姿を見せただけで一大事。すぐに領主や国に報告をし、ギルド経由で冒険者を募って、魔物が出現した原因を調べなければならない。ここで全員が殺されれば、その報告すら出来ず、魔物の被害が拡大するだけだ。
『私一人の犠牲で済めば、それでいいわ』
最悪の想定から自己犠牲を選択肢に考え始めたエリスに、マノリの声が届いてくる。
「エリス……。帰ったら、エリスの淹れてくれた紅茶が飲みたいわ」
エリスが顔を下げると、弱々しく笑みを浮かべている顔が映った。
必死に、内から込み上げる恐怖心を押し殺そうとしているその姿は、強く握ってしまえば壊れてしまうのではないかと感じさせるほど、儚げであった。腕をいっぱいに伸ばして背中へと腕を回して掴まり、手で縋りつくように服の一部を握り締めている。
『お嬢様…!』
そんなマノリの姿に、エリスはよりいっそう使命感を募らせる。
「はい! 今までで、最高の紅茶を淹れさせていただきます。今日の私は、どんな事でも出来てしまいそうです!」
そう口にすると、エリスの身体の中から恐怖心が消え去った。
『身体の疲れや、領主への報告、そんなもの関係ない。そんなことよりも、今はやらなければいけないことがある。それは、こんな状況でさえ花のような笑みを自分に向けてくれる、小さな主人を守り通すことだ。それ以外の事など、知ったことではない。どうにでもなればいい』
吹っ切れた思考に満足したのか、エリスの顔は清々しささえ窺わせる。
「ふふっ、ありがとうエリス。楽しみにしているわ」
そんな、気を引き締めたエリスの顔を、マノリは安心した表情で見つめる。そして、その表情は先程までの弱々しい笑みから、本当に嬉しそうな笑みに変わっていった。
『お嬢様は絶対に死なせない!!』
そう決心すると疲労を訴える自身の身体を鼓舞し、更に速度を上げ草原を駆けた。
遅筆・亀更新ですが、少しずつ完結を目指していきたいです。