鍵なき密室
「鍵なき密室」
ワトソン(手記):
一八八八年は、ホームズがとりわけ精力的に事件へ取り組んだ年の一つであった。
とはいえ彼も時に気分転換を必要としたらしく、その夜、我々はオペラを観賞し、軽い夕食を済ませてからベーカー街の我が家へ戻ったのである。
(玄関に入るや、ホームズは即座に室内の様子に目を走らせた。)
ホームズ:
おや、ワトソン。我々の留守中に訪問者があったらしい。――見たまえ、この日傘を。
ワトソン:
なるほど、見慣れぬ品ですな。忘れていったのでしょうか。
ホームズ:
いかにも。そのようだ。さて――キミも私のやり方を多少は学んでいるはずだ。この持ち主について、ひとつ推理してみたまえ。
ワトソン:
では。女性用の日傘で、材質や造りから見てかなり高価なものです。こうした品にそれだけの費用をかけられるのは、裕福な人物――おそらく年配の女性ではないかと考えます。
ホームズ:
ふむ、観察は悪くない。しかし結論がやや急ぎすぎている。
まず、この取っ手に注目したまえ。内側に「H to A」と刻まれている。
ワトソン:
イニシャル……贈り物ですか。
ホームズ:
その通り。既製品の印ではない。特定の人物に宛てた私的な贈答品だ。しかも刻印は外から見えぬ位置にある――見せるためではなく、持ち主自身のためのものだよ。
ワトソン:
なるほど、確かに。
ホームズ:
さらに、この骨の部分には丁寧な修理の跡がある。高価な品でありながら買い替えず、あえて使い続けている――これは単なる所有物ではない、感情のこもった品だ。
ワトソン:
すると、大切な贈り物というわけですな。
ホームズ:
そう考えるのが自然だ。では次に、この布地を見たまえ。色合いと装飾が軽やかで、流行に即している。これは若い女性の好みに適う意匠だ。年配の婦人であれば、より落ち着いた柄を選ぶだろう。
ワトソン:
……確かに、言われてみればそうです。
ホームズ:
ゆえに持ち主は若い女性。そして親しい者――おそらく配偶者か、それに近い関係の人物から贈られた品と見てよい。
にもかかわらず、これを置き忘れている。
ワトソン:
それほど大切な物を?
ホームズ:
その通りだ。したがって、単なる不注意ではない。何かしら気を奪う事情――相当の心の動揺があったと考えるべきだろう。
――結論は一つしかあり得ない。この持ち主は問題を抱えた若い女性であり、我々を頼って訪れた依頼人だ。
ワトソン:
見事というほかありません、ホームズ。
(そのとき、呼び鈴が鳴る。ホームズは静かに扉を開く。)
女性:
失礼いたします……日傘を、こちらに忘れてはいませんでしょうか。
ホームズ:
ええ、お預かりしております。どうぞお入りください。――お困りのご様子ですな。
ワトソン(小声で):
相変わらずの冴えですな。
ホームズ(微笑して):
なに、事実をそのまま見ているに過ぎんよ、ワトソン。
アメリア:
私はアメリア・テイラーと申します。ホームズ様、どうか夫ヘンリーをお助けください!あの人はいま、殺人の容疑をかけられているのです……!(彼女は蒼白な面持ちで言い募り、手にしていた手袋をきつく握りしめた。)
ワトソン(手記):
その言葉は、室内の空気を一変させるに充分であった。ホームズの双眸が、かすかに鋭さを増したのを私は見逃さなかった。
ホームズ(静かに手を差し出して):
どうぞ、ミセス・テイラー。まずはお掛けください。――ご安心なさい、取り乱すには及びません。
(彼は暖炉脇の椅子を優しく示した。)
ホームズ(やや柔らい口調で):
ここでは誰も、軽々しくご主人を断罪したりはしません。
事実がすべてを語る――それが私の流儀です。
(アメリアが息を整えるのを待つ)
ホームズ(落ち着いた調子に戻り):
さて、ミセス・テイラー。順序立てて伺いましょう。
ご主人が疑いをかけられるに至った経緯――それを最初からお話しいただけますかな。
ワトソン(手記):
その声音はいつものごとく穏やかであったが、同時に一切の曖昧さを許さぬ厳しさを帯びていた。
アメリア夫人はそれに導かれるように、ゆっくりと語り始めたのである。
アメリア:
今朝のことでございます……。夫がオフィスに到着いたしますと、同僚たちがすでに入口の前に集まり、扉の前で立ち尽くしておりました。
どうやら、鍵が開いていなかったのです。
ホームズ:
ほう。
アメリア:
いつもはチャールズ・モートンが最も早く出勤し、鍵を開けるのですが……その日はどういうわけか姿を見せず、皆、彼が遅れているものと思っていたようです。
そこで、鍵を持つ夫が到着するのを待っていたとのことでした。
ホームズ(静かに):
従業員は、他に何名おりますかな?
アメリア:
はい。チャールズ・モートン、夫ヘンリー、それにエドワード・ブラウン、そしてモートンの秘書であるエミリー・カーターの、合わせて四名でございます。
ホームズ:
なるほど。
アメリア(声を震わせて):
同僚たちが見守る中、夫が自分の鍵で扉を開けました……。
すると中で――チャールズ・モートンが……すでに息絶えていたのです。
アメリア:
ヘンリーたちは大いに動揺したようですが、すぐに警察を呼びました。
その後の調査によりますと――チャールズ・モートンは、室内にあった真鍮製の文鎮で頭部を殴打され、それが致命傷となったとのことです。
(彼女は一度言葉を切り、続ける)
さらに奇妙なことに、部屋の窓はすべて内側から厳重に施錠されており、外部から侵入した形跡は一切認められなかったのです。
ワトソン:
となると、完全に閉ざされた空間……。
アメリア(うなずいて):
はい……。
そして鍵についてですが、もともとその部屋の鍵は二つ――夫ヘンリーと、被害者チャールズ・モートンがそれぞれ一本ずつ所持しておりました。
ホームズ(静かに):
ほう。
アメリア:
しかし……モートンの鍵は、発見されたときには彼のポケットの中に入っていたのです。
(沈黙)
アメリア(絞り出すように):
この状況から、警察は――夫の犯行以外にはあり得ないと結論づけ……
ヘンリーを拘束してしまいました……。
(室内に重い沈黙が落ちる)
ホームズ(静かに):
警察の担当者は、誰でしたかな?
アメリア:
たしか……レストレード警部とおっしゃっていました。
ホームズ(わずかに眉を上げて):
なるほど、レストレードか。
ワトソン(小声で):
何かお気づきですか、ホームズ?
ホームズ(落ち着いた調子で):
いや、彼は有能な男だが――結論を急ぎすぎるきらいがある。
今回も、おそらく状況証拠をそのまま受け取ったのだろう。
アメリア(身を乗り出して):
では……夫は……!
ホームズ(静かに、しかし断然と):
ミセス・テイラー、ご安心なさい。
この事件には、まだ見落とされている事実がある。
ホームズ(立ち上がって):
すぐに出発だ、ワトソン。――当然、嫌とは言うまいね?
ワトソン:
もちろんだとも。すぐに準備しよう。
アメリア(立ち上がりつつ):
ありがとうございます……本当に、ありがとうございます。
ホームズ(穏やかに):
礼は無用です、ミセス・テイラー。真実が明らかになれば、それで十分ですよ。
ワトソン(手記):
こうして我々は、急ぎ支度を整えた。
まずはアメリア夫人を自宅まで送り届け、その足で問題のオフィスへ向かうこととなったのである。
夜気はまだ冷たく、馬車の車輪の音が石畳に乾いた響きを立てていた。
だが私の心は、それどころではなかった――あの不可思議な状況が、頭から離れなかったのである。
やがて我々は現場へと到着した。
通りにはなお、警官の姿が見え、建物の前には重苦しい静寂が漂っていた。
レストレード(帽子を軽く上げて):
これはお早いお着きで、ホームズさん。電報は拝見しましたよ――ヘンリー・テイラーが犯人ではない、とのことでしたな。
正直なところ、私には彼以外は考えられませんがね。
(肩をすくめて続ける)
ご指示どおり現場はそのまま保存してあります。こちらの捜査は一通り済んでおりますので、どうぞご自由にお調べください。終わりましたら、一声おかけ願いたい。
ホームズ(軽く会釈して):
ありがとう、レストレード。やはり君は抜かりがない。現場保存は犯罪調査の基本――その点については、君の手際に感謝しているよ。
ワトソン(手記):
ホームズはそう言うなり、ほとんど間を置くことなく室内へと入っていった。
彼の関心はすでに我々との会話から離れ、現場そのものへと向けられていたのである。
(ホームズは室内をゆっくり歩きながら、窓や扉へと視線を走らせる。)
そして次の瞬間には、すでに捜査官というよりも、何か異様な観察者のごとき態度で周囲を調べ始めていたのである。
彼はまず窓辺へ歩み寄ると、窓枠に指先を滑らせ、積もった埃の状態を丹念に確かめた。
続いて、例の大きな虫眼鏡を取り出し、扉の蝶番や鍵穴を、まるで獲物を逃すまいとするかのように入念に検分し始めた。
(ホームズは身を屈める)
やがて彼は床へとしゃがみ込み、扉の前の床板を這うようにして調べ始めた。その様子は、事情を知らぬ者の目には、幾分風変わりにすら映ったことであろう。
レストレード(眉をひそめて):
……相変わらずですな、ホームズさん。
(彼は半ば呆れたように肩をすくめた。)
ワトソン(小声で、穏やかに):
どうかお気になさらず。これが彼のやり方なのです。
――そして、最も成果を上げるやり方でもあります。
ワトソン(手記):
事実、その奇妙とも思える挙動の裏には、常人には見過ごされがちな事実を拾い上げる、彼ならではの洞察が隠されている。
私はそれを幾度となく目にしてきたのである。
ホームズはなおもしばらくのあいだ、室内をくまなく調べ続けた。
やがて立ち上がると、満足とも不満ともつかぬ表情を浮かべて振り返った。
ホームズ:
関係者から話を聞きたいところだが、可能かね、レストレード?
レストレード:
それは問題ありません。明日にでもスコットランド・ヤードへ召喚し、事情聴取の場を設けましょう。
ホームズ(軽く頷いて):
結構。では、本日のところはこれで切り上げるとしよう。
ご苦労だった、レストレード。
レストレード(帽子を取りながら):
ホームズさんも。
(建物を出る)
ワトソン:
ホームズ、何か――物的証拠は見つかったのかね?
ホームズ(淡々と):
いや、何もなかった。
ワトソン:
何も……?
ホームズ(かすかに微笑して):
そうだ。いたって結構なことだよ。
“問題が一つも存在しなかった”――それが本日の最大の成果だ。
ワトソン:
しかし、それでは……君の才能をもってしても、証拠に辿り着けなかったということではないのか?
ホームズ(ゆっくりと歩きながら):
いや、ワトソン。
“証拠がないこと”そのものが、最も重要な証拠なのだよ。
ワトソン(戸惑って):
どういう意味だい?
ホームズ(足を止め、わずかに振り返る):
極めて単純なことだ。
あまりにも整いすぎている――その事実こそが、この事件の不自然さを物語っている。
ワトソン(手記):
その言葉の真意を、私はこのときまだ十分には理解していなかった。
ただ、彼の声に込められた静かな確信と、どこか冷ややかな響きが、私の胸中に言いようのない不安を呼び起こしたのである。
こうして我々はベーカー街への帰路についた。
だがその道すがら、私の心を離れなかったのは――
“何もなかった”という、あまりにも奇妙な事実であった。
翌朝、我々は早々にスコットランド・ヤードへ赴き、関係者から事情を聴く場に臨んでいた。
ホームズ:
ではまず、ミス・カーター。
当日の朝の様子を、できるだけ詳しくお話しいただけますかな。
エミリー・カーター(落ち着いた声で):
はい……。
当日、私はいつもどおりの時刻にオフィスへ向かいました。
オフィスに着きますと――どういうわけか、エドワード・ブラウンが入口の前で立ち止まっていたのです。
ホームズ:
ほう。
エミリー:
私が「どうしたの?」と尋ねますと、彼はドアノブを何度も回して見せながら、扉に鍵がかかっている、と申しました。
実際、開く様子はなく……。
それで私は、チャールズ・モートン氏が何か事情で遅れているのではないかと考えたのです。
ホームズ(静かに):
そのとき、他に誰かいましたか?
エミリー:
いいえ、そのときは私とブラウンだけでした。
やがて二人でそのような話をしているうちに――
(彼女は少し言いよどむ)
ちょうど、ヘンリー・テイラーさんが到着なさって……。
ワトソン(小声で):
それで?
エミリー(震える声で):
ヘンリーさんがご自分の鍵で扉を開けますと……
中で――チャールズ・モートンが……あのような状態で発見されたのです。
(室内に一瞬の沈黙が落ちる)
ホームズ:
では次に……ミスター・ブラウン。
あなたにも、当日の朝のことを伺いたい。
エドワード・ブラウン(やや硬い声で):
……ええ、構いません。
ホームズ(穏やかに):
あなたが最初にオフィスへ到着したのですね?
ブラウン:
はい……いつもより少し早く到着しまして。
ホームズ:
そして扉の前に立ち、鍵がかかっていると判断した。
ブラウン(うなずいて):
ええ、その通りです。ドアノブを回しても開きませんでしたから。
ホームズ:
なるほど。では確認しますが――
あなたは「鍵がかかっている」と断定した。
ブラウン(やや苛立って):
断定も何も、開かなかったのですから当然でしょう!
ホームズ(穏やかなまま):
開かなかった、ですか。
それは“鍵がかかっていた”からですか?
それとも、単に“閉まっていた”だけですかな。
(わずかな沈黙)
ブラウン:
……どういう意味です?
ホームズ(ゆっくりと言葉を区切りながら):
つまり、あなたは実際に「鍵が施錠されている」ことを確認したのか――
ということです。
ブラウン(言葉に詰まり):
……それは……ドアは開きませんでした。
ホームズ:
ええ、それは結構。
しかし「開かない」ことと「施錠されている」ことは同義ではない。
レストレード(腕を組み):
……なるほど。
ホームズ(さらに一歩踏み込む):
ミス・カーターの証言によれば、あなたは彼女に向かってこう言った。
「鍵がかかっている」と。
ブラウン:
それは……そうとしか思えなかったのです。
ホームズ(微笑して):
思った、ではなく――
“そう言った”のです。
(ブラウンの額に汗が浮かぶ)
ホームズ(静かに決定打を放つ):
あなたはその時点で、すでに“状況”を作っていたのだ。
鍵は一つしかない――そしてそれを持つのはヘンリー・テイラー。
その前提を、周囲に植え付けるために。
ブラウン:
……ち、違う……!
ホームズ:
では問おう。
あの扉は、最初から鍵がかけられていたのか?
(沈黙)
ホームズ(低い声で):
答えは否だ。
――扉は、ただ閉められていただけだった。
レストレード(鋭く):
ブラウン……!
ホームズ:
あなたはモートンを殺害した後、扉を閉めて立ち去った。
そして翌朝、最初に現場へ来たあなたが「鍵がかかっている」と言い出すことで、
すべての疑いをヘンリー氏に向けたのだ。
ブラウン(崩れるように):
……あいつが……あいつが全部悪いんだ……
ワトソン(小声で):
崩れましたな……。
ブラウン(うなだれて):
……もう、逃げられないのか……
レストレード(前へ出て):
エドワード・ブラウン――殺人および偽計による証拠操作の疑いで拘束する。
ワトソン(手記):
現場から戻ったのち、ホームズは暖炉の前の椅子に深く身を沈め、長いあいだ一言も発さず、瞑想するかのように目を閉じていた。
やがて私は、その沈黙に耐えかねて口を開いたのである。
ワトソン:
ホームズ――今回のからくり、君はいつ見抜いていたんだい?
ホームズ(薄く微笑して):
オフィスを調べ終えた直後には、すでに犯人の見当はついていたさ。
ワトソン:
……なんですって?
ホームズ(ゆっくりと語り始める):
思い出してみたまえ、ワトソン。
「鍵がかかっている」と最初に言い出したのは誰だった?
ワトソン:
確か……あの同僚の男だ。
ホームズ:
その通りだ。彼が最初に「開かない」と主張し、周囲の認識をそのように固定した。
だが実際には――誰一人として“施錠されていること”を確認してはいなかったのだ。
ワトソン(息をのむ):
では……扉は……。
ホームズ:
単に閉まっていただけだよ。鍵など最初からかかってはいなかった。
そしてその事実こそが、この事件のすべてを説明している。
ワトソン:
しかし……それだけで……?
ホームズ(ゆるやかに首を振る):
それ以外の可能性は、すべて不可能だった。
となれば残る結論は一つ――
ホームズ(静かに断言する):
“密室に見せかけた”のだ。
ホームズ:
鍵が一つしかないという前提を利用すれば、疑いは必然的にヘンリー氏へ向かう。
犯人はあらかじめ被害者を殺害し、ただ扉を閉めて立ち去った。
そして翌朝、自ら「鍵がかかっている」と告げることで、その状況を完成させたのだよ。
ワトソン:
……なるほど。
それでは誰も疑わなかったのも無理はありませんな。
ホームズ(暖炉の火を見つめながら):
人は一度「状況」を与えられると、それを疑うことをやめてしまう。
今回の犯人は、その習性を巧みに利用したに過ぎない。
ワトソン:
では……ヘンリーは完全に無実なのだね?
ホームズ(静かに):
ああ、疑いの余地はない。
あとは彼――ブラウンを調べれば、動機も証拠も自ずと揃うだろう。
ワトソン:
見事です、ホームズ……。
あの密室の正体が、まさかただの思い込みだったとは。
ホームズ(軽く肩をすくめて):
なに、密室というものの大半はそんなものさ。
(わずかな間)
ホームズ(静かに結ぶ):
“閉ざされている”のではない――
“閉ざされていると信じ込まされている”だけなのだよ。




