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03 リクニスの花



 季節は冬から春へと変わった。

 裏庭の花々が開花するのをいまかいまかと待ちわびているとき、「よかったら庭を歩かないか」とエリックのほうから誘われた。


 表情はやっぱり変わらない。──と、ほかのひとが見たら思うであろう楽しそうな顔で。


「ええ、喜んで……!」


 ささやかながら、これはデートだ。私は侍女に申しつけて新しいドレスを身につける。


 繊細なレース飾りをほどこしたアイスブルーのドレスだ。同じ色の宝石をあしらった髪飾りもつけて、ヒールもドレスにあわせて履き替えてから私は裏庭へとでる。


「時間がかかっていると思ったら」彼はいつものシャツと吊りズボンだ。「わざわざ着替えてきたのか」


「新しいドレスよ。どう?」

「春の妖精みたいだ」


 真顔で言われて私は吹きだしてしまったけれど、彼は本気だ。本気で私を『春の妖精』だと称えている。


「ふふっ……」


 おかしくてなかなか笑いが止まらない。

「どうした」とエリックに問われて、「だって、あなた」と私は答えた。


「真顔で言うんですもの。春の妖精、だなんて」

「ほんとうにそう見えるのだから仕方ないだろう」

「面白い方ね、ほんとに」


 彼は目を丸くする。ほんのちょっとだけ。「そんなこと初めて言われた」


「そうよ。私しか知りませんもの。──さあ、デートにしましょう?」

「ああ」


 私は彼の腕を取って、ふたりで歩きだす。


 裏庭は花の甘い香りでいっぱいだった。

 石畳の道の脇をネモフィラの青色が満たし、その先にライラック、スターチスが広がる。その間にもかわいらしいスズランやゼラニウムが気持ちのいい風を受けて揺れていた。


 こじんまりとしているけれどいい庭だ。花々が喜びをうたっているのが聞こえる。


「きれいね」

「そうだろう。──シェリル、よかったらそこに立ってくれ」

「ここ?」


 道の脇に私は立ち、彼を振りむく。彼は指で額を作るようにし、「やはりきみは絵になるな」としみじみうなずいた。


「……もう、エリックったら」


『仮面伯爵』とまで呼ばれたひととこんなやりとりをしているのが不思議だ。まるでふつうの新婚みたい。

 私は彼の横にもどり、「ねえ」とふと思いだしたことを聞いてみる。


「どうした?」

「私、前に聞いたことがあるの。なんとかという令嬢があなたに『あの男爵、また一段と横にご立派になられましたね』と言ったら何の話かわからないっていう反応したって」

「ふむ。そんなことあっただろうか」

「だからあなたと結婚する前は面白みのない方だと思っていたのよ。いまだから言えるけど」


 彼は歩きながら考えこむような顔をする。やがて、「ああ……」とつぶやいた。


「思いだした。そう、たしかに言われたよ。でもそれは意味がわからなかったからじゃない。あの男爵は不摂生ではなく病気で太っているんだ。なのにそれを揶揄してはいけないと思ったから、わからないふりをして話を終わらせたんだ」


 私は思わず立ちどまる。「そうだったの?」


「ああ、そうだよ」

「じゃあ……あなたがちょっとしたミスをした使用人を睨みつけて殺したっていうのは?」


「そんなことできるものか」彼は苦笑したそうにして、「ちょっとしたミスではなく、同僚の金に手をつけていたメイドがいたから即クビにしたことならある。形だけでもいいから謝罪の言葉を引きだしたくて睨みつけはしたがね。それに尾ひれがついたのだろう」


「そうだったの……」


 ……なんだ。それだけの話だったなんて。

 それだけの話をずっと信じていたなんて……。


 私は彼の腕に回した腕に力を込める。


「シェリル、どうかしたか?」

「……悔しいのよ」

「え?」

「そんな噂に惑わされるなんて。──もっとはやくあなたがこんなに素敵なひとだって気づくべきだったのに!」


 エリックはきょとんとしたあとで笑いだす。


「そんなの、私は気にしないよ」

「私が気にするの!」

「べつにいいじゃないか。それまでの時間より、もっと長い時間を私たちは過ごすんだから。

 それより、シェリル。あそこを見てくれ」

「なに?」


 エリックが指さした先には赤紫色の花がたくさん咲いていた。私ははっとする。


「リクニスの花……」

「そうだよ。きみが好きだと聞いたから植えさせたんだ」

「え──?」


 私は彼の横顔を見る。「私……そんなこと話した?」


「あ、ああ。たしかきみのご両親から聞いたんだ」

「そう……ですか」

「なにか思い入れでも?」


 私は彼から離れ、リクニス──正確にはリクニス・コロナリアという──の花の前にしゃがみこむ。

 花は五角形に似た形をしていて、深緑色の葉や茎はやわらかい毛で覆われている。


 弟は花ではなくこの葉っぱが好きだった。ふわふわした面白い手触りを気に入っていたのだ。


「弟が。この花を気に入っていたんです」

「弟がいたのか?」

「私が七歳のときに病気で亡くなりました。弟……コニーはまだ五歳でした」


 彼は痛ましそうな沈黙を返す。

「どこかから種が飛んできたのでしょう、いつの間にか近くの野原に咲いていて」と私はつづける。


「外に遊びにいくと彼は必ずこの花を摘んで私に持って帰ってきてくれました。この葉っぱさわると面白いんだよ、なんて言って。よく憶えています」

「…………」

「コニーがリクニスの花を見られたのは最後の年だけでした。あの子は冬を越えられなかったから。だから──この花を見ると、コニーにもっと見せてあげたかった、さわらせてあげたかったって思うの」


 弟が亡くなってから。リクニスのシーズンの間は、花屋に頼んで屋敷にこの花を切らせないようにしていた。それで両親は私がこの花が好きだと思ったのだろう。


 もし『時戻りの魔女』に出会えたら、私はコニーにこの花を贈るだろう。彼が大好きだったこの花を。そしてもう一度だけ抱きしめるのだ。


 エリックは私の斜め後ろに立つ。

 そして、「私には見えるよ」と初めて聞く優しい声で言った。


「きみの弟がきみの横でリクニスの葉をなでているところが」

「……ええ……」

「ほら、いまきみのほうを見たぞ。笑顔だ。姉さまもさわってごらんと言っている。きみがそんな顔をしていてはよくないよ、シェリル」


 私はこみあげてきた涙を堪えながらうなずく。

 リクニスの花が好きだったのは弟であって私じゃない。むしろ、見ると幼くしてこの世を去ったコニーのことを思いだして悲しくなるだけだった。


 けれどエリックに優しく語りかけられて──

 私は初めて、この赤紫色の可憐な花のことを愛しいと思えたのだった。





 このとき私は想像もしていなかった。


『仮面伯爵』の仮面は他人が勝手につけたものだった。素顔の彼は(変化を見分けるのに難しいことは認めるけれど)ほんとうは表情豊かで、他人のことをちゃんと見ている思いやりの深いひとだった。


 そう気づけたことが嬉しくて。

 仕方なく嫁いだはずの旦那さまが、実は素敵なひとだったことが嬉しくて。


 まさか自分たちにあんな未来が訪れるだなんて、このときの私は想像もしていなかった。



 七年後。私は彼に告げる。


「この結婚は失敗だったわ。あなたと一緒になるんじゃなかった」

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