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02 晴れて夫婦に



 レイベリー邸での生活はそう悪いものではなかった。

 いまは冬だから景色は乏しいけれど、きちんと整地された裏庭があるのがいい。山間の領地だから自然にも恵まれていて、朝は鳥の歌声で目を覚ますことができる。


 使用人たちは『仮面伯爵』の妻が私のような気取らない女だとわかってほっとしたようだ。

 家の中のことで──肝心の夫はどうなのかまだわからないけれど──トラブルは起きそうになく、領内の人々も穏やか。教会も近くにあり、私はさっそく聖歌隊のメンバー入りを果たしたのだった。


「きみはほんとうに歌うのが好きなんだな」


 ある日、鼻歌を歌いながら屋敷の中を歩いていたらばったり出くわした『仮面伯爵』──エリックにそう言われた。


「ええ……」


 それがなにか、と尋ねると「そうか」とだけ彼は言って自分の部屋に入っていく。


 彼なりにコミュニケーションを取ろうとしたのだろうか。だったら私のほうからもなにか話を振るべきだったのかしら、謎だわ、と首を傾げながら私も届いたばかりの手紙を手に自室にもどる。


 パティは相変わらずボランティアに精を出しているようだ。

『今度の絵本は『時戻りの魔女』を題材にして作ります』と書いてある。彼女が下絵を描き、そこに孤児院の子供たちが自由に色を塗って一冊の絵本を完成させるそうだ。


「時戻り、ね……」


 ブランニュー地方という田舎に伝わるおとぎ話で、パティはそこの村に住む大祖母から聞いたそうだ。

『時戻りの魔女』と呼ばれる老婆になにかひとつ代償を捧げると六十秒だけ過去にもどしてくれるという。人生でたった一度限り。


 私がもどるとしたら、やっぱりそれは……。

 幼馴染の手紙を前に気持ちが沈みそうになり、私は首を横に振ると手紙の返事を考えはじめた。


 そして──その七日後。


 突然、食堂のテーブルについた私の前にことんと小瓶が置かれた。

 そしてなにも説明がない。置いた本人、エリックは黙って私の向かいに座る。


「あの、これは……?」

「──ああ」


 意味がわからなかったので尋ねると、「蜂蜜だ」と彼は答えた。


「聖歌隊に入ったのだろう。素晴らしいことだと私は思う。だからこれを取りよせた」

「だから、と言うのは」

「喉にいいのだろう。蜂蜜は」


 私はエリックと蜂蜜の瓶を見比べる。

「どうした」と尋ねられ、「……い、いえ」とあわてて首を横に振った。


「驚いたので。……ええと……ありがとうございます」

「礼はいらない。私がしたいと思ったからしただけだ」

「ですが──」

「だが……そうだな」


 もしなにか返してくれるというのなら、と彼は言う。「きみの歌を聞きたい。教会ではなく、ここで」


「……かしこまりました」


 まだ夕食が出てくるには時間がある。私は席を立つと讃美歌をアカペラで歌うことにした。


 優しさ、なのだろう。うたうことが好きな私の喉を気遣って蜂蜜をわざわざ取りよせてくれたのだから。

 彼は──情のない冷酷な男なのではなかったの?


 歌が終わるとエリックは拍手をしてくれた。


「まるで湧き水のような歌声だ。透きとおっていて聞いていて心地がよい」

「ありがとうございます」

「次はリクエストをしても?」


 そのとき「給仕を始めてもよろしいでしょうか」と執事が遠慮がちに声をかけてきた。

 エリックはうなずき、リクエストは晩餐のあとに持ち越しとなった。





「あなた、右足の太ももに傷がありますよね。なにがあったのか聞いてもよろしくて?」


 エリックの部屋で彼のリクエストに応えて何曲かうたい、他愛のない話をしばらくしたあとで私はソファの隣に座っている彼に尋ねた。

 ああ、と彼は右足の太もも──古傷がある場所をさする。


「六歳のときに知人の屋敷の庭の木から落ちたんだ。子供たちみんなで冒険をしているときでね。あいにく、私が落ちたところには鋭い石があって……脚の大事な神経を傷つけてしまったらしい。もう右足は動かないだろう、と医者に言われたよ」

「まあ……」


 そんなに大ケガだとは思いもよらなかった。彼の歩き方に不自由なところは見られなかったから。


「けど、そう言われるとかえって奮起するものだろう?」とエリックは言う。

 淡々と、でも、すこしだけ負けん気の強い少年の顔を覗かせて。


「私は必死にリハビリをした。動かないと言われたものを動かすんだ、並の苦労じゃなかったよ。体を引きちぎれるような痛みに耐えて、友人と遊びたいのも我慢して、ひたすらリハビリをつづけた。また歩けるようになるまでに一年かかった。走れるようになるには三年だ」

「そんなに……!」

「ああ。でもやってよかったと思っている。自分の足で歩けるという喜びは何物にもかえがたいからな」

「さわってもよろしいですか?」


 彼はうなずく。私は手を彼の右の太ももにのせて、傷のある辺りをそっとなでた。


「痛くありません?」

「ああ、もうだいじょうぶだよ」


 リハビリは想像を絶するほどの苦痛だっただろう。


 エリックのことだからきっと周りより大人びていたと思うけれど、それでもまだ六歳の子供だ。

 彼もやっぱり泣いたはず。のちに、『仮面伯爵』とまで呼ばれるほど無表情になる顔を歪めて。


 生半可な覚悟ではやり遂げられなかったにちがいない。慈しみを込めて彼の太ももをなでていると、彼が私の名前を呼んだ。


「……シェリル」


 こんなときでも彼の声に表情はない。けれど、エリックがなにを求めているかはわかった。


 ランプの灯りの中で私は彼とキスをする。

 結婚式のときよりも、相手の唇があたたかく感じられるのを不思議に思いながら。

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