01 『仮面伯爵』
彼女は叫んだ。声を震わせて。
「あなたとの結婚はほんとうに最低だったわ」
美しい橙色の瞳は激情で燃えていた。
その目で彼女は彼をにらみつけ、叩きつけるように言う。
「もしやり直せるならあなたとは結婚したくないわね。あなたと一緒にて楽しい時間なんてひとつもなかったもの。私がなにを言ってもつまらない返事しかしなくて」
「あなたは私になんてぜんぜん興味がなくて」
「あなたは、私を一度として愛してくれなかったのよ……!」
そして最後に彼女はこう言った。ふたりの関係を決定的なものにする言葉を。
「この結婚は失敗だったわ。あなたと一緒になるんじゃなかった」
彼女は、右手を固くにぎりしめていた──。
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「あの仮面伯爵のもとへ……ですか」
私は顔が引きつるのを隠せなかった。
サマドーア男爵家の長女である私にきた縁談の相手はエリック・レイベリー伯爵だったからだ。
「そんな顔をするな。実際会ってみたらいい男かもしれないぞ」
「そうですよ、シェリル。ただちょっと無表情でただちょっと冗談が通じなくてただちょっと冷淡というだけではありませんか」
「おかあさま……自分が嫁ぐわけじゃないからって……」
レイベリー伯爵のあだ名は『仮面伯爵』。
黒髪青目の端麗な器量と申し分のない家柄を持ちながら、まったく表情を変えないことと情が薄いことから社交界でははっきり言って避けられていた。
こんな逸話がある。とあるパーティで某令嬢が『あの男爵、また一段とご立派になられましたね。横に』と太っている男爵の容姿をからかったらレイベリー伯爵は『それはどういう意味なのですか』と真顔で尋ねかえしたという。
『横にご立派になられたとは。領地を拡大されたという、そういうことでしょうか』
『え、あ、いえ』
『詳しく教えていただきたい』
某令嬢はたじたじとなり、知り合いを見つけたふりをしてその場を逃れたそうだ。
仕事でちょっとしたミスをした使用人を一睨みで殺したという噂もある。
これはさすがに盛られているだろうけど、冗談が通じなければ温情もない、ひととしての感情が欠けている『仮面伯爵』のもとへ嫁いでも苦労させられるというのが私たち令嬢の共通見解だった。
「ほかにお話はいただいていないのですか?」
「…………」
「…………」
私が尋ねると両親は無言で目を逸らす。はっきり言われるよりもかえって傷ついた。
「いえ、あなたはなにも悪くないのですよ、シェリル。カイルのことがあったから……」
「……それはそうかもしれませんが」
私の五つ上の兄、カイルは一時期ギャンブルにはまっていた時期があった。
最初に一度勝っただけなのに自分には博打の才能があると思いこみ、負けつづけてもやめられず、婚約者の家や親戚、友人知人からお金を借りてまでのめりこんだ。
婚約者にやめなければ私は命を絶ちますと脅されてなんとか手を切ったものの、その頃にはもう兄のギャンブル狂いの噂は広まってしまっていた。サマドーア一家ごと遠巻きにされてしまうほどに。
実際、兄のことがあってサマドーア家の財政は傾いた。婚約者は辛抱強いひとだからいつまででも待つと言ってくれているけれど、そのせいで兄の結婚はなかなか実現しないでいる。
──私が伯爵家に行けば……すこしは楽になる?
カイルのことははっきり言ってよく思っていない。でも、その婚約者はほんとうに素晴らしいひとなのだ。彼女の負担をすこしでも軽くするためになにかしたかった。
──それが『仮面伯爵』に嫁ぐことだとしても……。
「……わかりました。その縁談、お受けします」
「シェリル……」
「ほんとうにいいのね?」
「どのみち、私に選択の余地などないのでしょう?」
『仮面伯爵』に失礼だとは思ったけれど、私の口からはつい溜め息が漏れてしまったのだった。
縁談の話はするするとまとまった。
お互いにこの機会を逃すまいとしているのかと思うとちょっとおかしかったけれど、いざ結婚式の日が近づいてくると面白がる余裕もなくなってくる。
「結婚、ねえ……」
サマドーア邸の庭にて。
ドレスのラインに響かないように一ヵ月前から私は『節制』を命じられていた。砂糖もミルクも淹れていない紅茶を飲みながらつぶやくと、「憂鬱そうね」と幼馴染のパティが苦笑する。
「べつにいいじゃない。周りに興味ない男ならこっちがなにをしても口だしてこないでしょ」
「どうかしら。逆に、俺の気に食わないことはするななんて言われてしまうかも」
パティは慈善事業に熱心だ。主に恵まれない子供たちのための活動を中心にしていて、いくつもの孤児院に出資をしている。
さらに時間さえあれば孤児院を回って子供たちへの読み聞かせや掃除洗濯などの手伝いまでしていた。
幼馴染ながら彼女には頭が下がる。けれど男性にはその立派さが重荷に感じられてしまうようで、パティのところにきた縁談はどれも実を結ばずに立ち消えとなっていた。
「それよりレイベリー伯爵のもとへ行ったらはなればなれになっちゃうわね。シェリルとはずっと一緒だったからさびしいわ」
「手紙をだすわよ。それに、案外はやく帰ってくるかもよ?」
「やめなさいよ、まだ嫁いでもいないのに」
貴族の家に生まれた以上、恋愛結婚なんて望めるはずもない。それはわかっているつもりだったけれど。
もし相手が愛する旦那さまなら。
幼馴染と離れてもさびしくないんだろうな──と、つい考えてしまう。
「結婚なんてしたくないわ……」
「聞かなかったことにしてあげる。それよりシェリル、向こうの家に行ってしまう前にまた歌を聞かせて。シェリルの歌を聞くと元気がでるの」
「いいわ。なら、いまここで歌ってあげる」
私の唯一の特技は歌だ。聖歌隊でも心が洗われるようだとよく褒めてもらえる。
私はイスから立ちあがり、大好きなパティのために心を込めて歌った。この世の喜びをうたう歌を。
どんなにいやだと思っていてもついにその日がきてしまう。
結婚式は歴史ある大聖堂で挙げられた。
神々しいステンドグラスの光はこの結婚を俗っぽい目で面白そうに見守る貴族たちにも、白いドレスに身を包んだ『貧乏男爵令嬢』と白いタキシードをまとった『仮面伯爵』にも等しく降りそそぐ。
漆黒の髪。アイスブルーの瞳。冷えきったオーラ。
整った顔には噂通りなんの感情も浮かべていない。妻となる女を目の前にしているのに、だ。
──彼もこの結婚をつまらないものだと思っている。私が思っているように。
そう気づくと、重荷だったはずの結婚が急にどうでもいいものに感じられてきた。
家のためだけの婚姻。それで充分だ。
ほかになにを望むというのだろう?
「健やかなるときも、病めるときも──」
せいぜい気楽にやらせてもらおう。愛のない結婚でいい。兄のことで避けられている私にとって、もらってくれる相手がいるというだけで贅沢な話なのだから。
「──その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか」
神父さまが誓いの言葉を述べる。誓います、と私たちはそれぞれ答えて。
誓いのキスをするために彼は私のベールをあげた。そして。
「ようやく一緒になれた。私の、生涯の妻」
石の壁だってもうすこし表情があるだろうと言いたくなるような声色でつぶやいたのだった。
「……え? いま、なんと?」
彼は黙って私を見つめている。
──ああ、もしかして、と。
彼なりに冗談を言って私に好印象を持たれようとしたのかしら、と思ったのは彼にキスをされている最中にだった。彼の唇は氷のように冷たかった。
──このひとでも冗談を言うのね……
……だとしたら、言うタイミングが微妙すぎたけれど。