3章④
映像解析室は、静かだった。
唯一、壁一面のモニタに連なる映像と、データベースを走る検索音だけが、機械の呼吸のように空間を満たしていた。
「対象:識別不能。顔データ、該当なし。照合不能個体です」
AIが告げる。
映っているのは、冬の午後──ドーム寄りの立体歩道の下。
監視カメラの死角を意識しているのか、わざと露出の低いルートを選び、男は現れた。
顔には黒いマスクとフード。さらに反射材入りのスカーフで下顎を隠している。どの角度からも顔が読めない。
だが、姿勢、歩幅、肩の張り。癖のある左腕の振り。
すでに数百時間の解析で、彼の「骨格的プロファイル」は割り出されていた。
「──一致。個体Zと推定される人物です。信頼度92.7%」
オペレーターが画面を指差した。
その瞬間、男の足が止まる。待ち合わせていたかのように、すでにベンチに座っていた人物が立ち上がる。
顔は、明確に映っていた。
「顔認証マッチ、ID照合完了。登録コード:E-9A13、対象:エリザ・フォルド、所属:ヴェルディア総合重工、秘書課───」
モニタに、女性のプロファイルが自動的に展開される。端整な顔立ち、長いブロンド。正装スーツ。公的ID写真と完全一致。
密会は、わずか8.4秒。
エリザが黒のケースを差し出し、フードの男がそれを受け取る。互いに言葉は交わさない。すぐに男は姿を消し、エリザは手元のスマートレンズで何かを確認し、歩き去った。
「……ようやく、見つけましたわ」
モニカがつぶやいた。
男は、依然として『誰でもない』が、彼と『つながった誰か』が、今こうして可視化された。
そしてそれが、大企業の中枢と結びついているのなら──この取引は、ただの金銭授受では終わらない。
記録されたデータが、静かに証拠フォルダへと送られていく。
そこから、戦いが始まるのだ。
セラとカイを呼び、映像を見せる。
合わせてその人物のプロフィールも示した。
「エリザ・フォルド、ヴェルディア総合重工……」
セラが呟く。
その個人名には聞き覚えはない。
しかしヴェルディア総合重工を知らないものはいない。
ヴェルディア総合重工は、「ポスト国家時代の覇者」と呼ばれる企業連合の一角である。
もともとは宇宙軌道建設と気候安定技術を専門とする複数の先端企業が合併し、「地球の延命」と「宇宙への出口戦略」を二本柱に掲げて拡張を続けた。
地球環境の破綻が顕在化した2070年代、世界各国が機能不全に陥る中で、ドーム型居住区の建設事業を単独で請け負い、各シティを実質的に支配下に置く。
企業本部は、地球圏軌道上に浮かぶ塔「カレドニア・スパイン」に設置され、地上の影響を受けず、各惑星間ネットワークと直接リンクしている。行政・金融・法務・軍事の全セクターに渡って、ヴェルディアの名前は刻まれており、彼らの承認なくして大規模開発はまず不可能とされている。
また、独自の警備組織「ヴェルディア治安統制局(VIS)」を設立。各国政府と並ぶ準軍事力を保持し、以降は一企業でありながら、国境と主権を越えた“準国家機構”として振る舞うことが常態化している。
「……むしろ、そんな大企業の秘書様が、ドーム外に出てきて直接金銭の授受をしている方が信じられないんだけど、大丈夫かモニカ。罠じゃないよな?」
しかしその疑問には、AIが答えた。
『エリザ・フォルド。
登録コードE-9A13。
ヴェルディア総合重工・本社秘書課配属、新卒1年目。年齢22歳。
旧ロンドン学術圏の最高ランク校「セント・アルノー連合大学」主席卒業。
神経情報理論と社会構造設計の二重専攻を短縮単位で修了し、博士課程への進学資格を得ていたにもかかわらず、ヴェルディア総合重工へ就職。
家柄は特筆すべきものではない。
中小規模のエネルギー関連企業に勤める平凡な家庭。いわゆる『成り上がり』の典型。
実力と将来性は折り紙付きだが、その分、組織内での序列は下位。
命令には忠実。過去の交友関係や交際歴も特に問題なし』
「とのことですわ。使いパシリにするには惜しい人材にも思えますが、逆に言えば家柄的には彼女しかいなかった、のかもしれませんわね」
少し引っかかる。
しかしやっと見つけた手がかりだ。
この線より探す他はない。
「しかし、ヴェルディア総合重工が出てくるとわね。ここからの攻め手が思いつかない。ひとまずこの秘書から情報を得てみるか?」
「まぁ、それしかありませんわね──」
直後、施設に警報音が鳴り響いた。
> 【外部からの侵入波検知──多数の反応】
【熱源あり/無人機多数接近】
「あら、どうやらあちらさんから、いらしていただけたようでして」
---
セラとカイが施設の外に出ると、そこはすでに襲撃の爪痕に覆われていた。
外壁には焼けた痕、装甲ドアには焦げた弾痕。
白い煙。吹き飛ぶ天板。
そこから降りてきたのは、鋼鉄の四肢を持つ量産型兵器部隊だった。
「あらら、随分と派手に散らかしてくれましたわね」
外ではモニカの部下たちが、銃器を担いで応戦していた。
「下がっていてください、モニカさま」
しかしモニカは、下がるどころか前にでる。
モニカが片手を掲げると、施設全体の照明が落ち、壁面から防衛型ドローンが一斉に起動する。
「対無人戦闘プロトコル、解放ですわ」
その瞬間、機械同士の閃光と雷が空に交差した。
セラは、自分の中の熱を感じていた。
この戦いがただの襲撃ではないこと。
量産型兵器が、セラの背後から現れる。
防衛型ドローンが即座に反応し、セラを守った。
沈黙する量産型兵器、その残骸にセラが駆け寄り、コアに触れたとき、視界に光が走った。
【制御信号起動──プロトコル昇格】
「セラ、何をした?」
カイの声が飛ぶ。
セラは顔を上げた。その目には、ただの人間ではない光が宿っていた。
指先が開き、十数本のファイバー触手が蠢きながら機体内部に侵入していく。
銃弾がカイの後方を掠める。敵兵の一体が武器を振り上げ、焼夷レーザーを放つが、すんでのところで遮蔽壁が起動。セラの背をかばうように、電磁シールドが一瞬、青白く閃いた。
「こいつの管理権限を奪った。信号をたどれば、どこから本体がわかる」
セラの腕輪が光を帯び、脳裏に情報が流れ込む。奪った機体のコアから、通信の『送り先』を逆流で割り出す。
セラが、もう片方の手でホロディスプレイを構築する。マップが映し出され、市街地から外れた『工業廃棄区・N-13ブロック』に一つの点が灯る。
「見つけた。こいつが大本」
「どうなってんだよそれ」
言うより早いか、カイが走る。
「でしょ」
セラが笑うと同時、接続していた機体の目が青に染まり──次の瞬間、セラの命令で、残る敵兵のひとつにレーザーを発射した。
不意を突かれた一体が火花を散らして倒れる。
「せっかくだから、もう1個もらうね。こいつに護衛させるから、カイさんは本体のところへ!」
「わかった!」
---
カイは駆けた。
夕暮れの工業廃棄区。
錆びた鉄骨と崩れかけた配管の迷路を、風を切って突き進む。人工筋肉が悲鳴を上げることもない。加速は直線を無視し、空気抵抗を殴り飛ばす速度。
──発信源、あと500メートル。
義眼のARインターフェースに、逃走軌跡が赤線で表示されている。
敵はすでに察知していた。
薄汚れたガスタンクの影から、ひとつの人影が飛び出す。暗視対応のローブ。遮断マスク。軽量のステルスシューズ。いかにも、逃げるために生まれたような装備だった。
しかし──
「……遅い」
カイの加速が、一段階跳ね上がる。
脚部駆動が全開になり、踏みしめた地面が粉砕音を立てた。
一瞬、視界がブレる。コンクリートを跳ね、壁を蹴り、ルートを無視して一直線に接近する。逃げ手は遠ざかるどころか、等速で視界に引き込まれていった。
次の瞬間、音すら置き去りにして──
捕えた。
カイの腕が、逃走者の首元を正確に掴んだ。衝撃で男は空中に浮き、喉元を押さえたまま地面に叩きつけられる。
「攻撃、止めろ」
男は、抵抗を試みようとした。しかし、掴まれた手から力が抜けていくのを悟ると、わずかに頭を振った。
背後の戦場で、ドローン兵器が一体、また一体と沈黙していく。指令中枢からの電波が、遮断された証だった。
「お前の目的は──何だ?」
口元にマスクが貼りついたまま、男は一言、かすれるような声で何かを呟いた。だが言葉にはならなかった。
次の瞬間、男の体が痙攣する。
「……毒か!?」
カイがすぐに診断プロトコルを展開する。だが、すでに遅かった。
男の全身から泡立つように汗が吹き出し、心拍が跳ね上がったあと、ストンと、鼓動が途絶えた。
わずか数秒──それが、自らの口を封じるために埋め込まれた『最後の保険』だった。
---
遺体を持って、セラの元へ戻る。
白い照明の下、男の顔からマスクが取り除かれる。網膜からIDデータが抽出され、ホログラム上に照会結果が浮かび上がった。
「登録名:ケル=ヤン。スラム街K区画に所在確認。職業、無し。裏レコードにて複数の殺し依頼を受託。通称《赤煙のケル》。生体部位の一部が、民間軍事企業製の義体に換装」
「間違いなく殺し屋……ってことは、雇ったやつがいるってことだね」
セラが背後から言った。
カイは頷き、マップ上にケルの過去行動データを重ねた。襲撃日前、一度だけある企業区画の出入りが確認されていた。
「ヴェルディア総合重工──内部の誰かが、この襲撃を発注した。ターゲットは……俺たちか。なんでわざわざ攻撃してきたのかは分からないけど」
「来いってことじゃない?」
セラの声は、少し低かった。
情報は揃った。次の狙いは、確実に『そこ』だった。
あくる日。
セラとカイは、モニカの元を出発することにした。
「てかさ、モニカさん、なんかすっごい裏がありそうだけど、なんであんなに協力的なの?」
無論、カイが公権力だから、手を貸してくれたと考えるのが普通だが、しかし報酬もそこそこに、全面的に協力してくれるのはなぜだろう。セラは不思議に思っていた。
「あれ、言ってなかったかな。俺とモニカの関係」
「何も聞いてないけど……」
「一応、夫婦だからね」
その一言に、セラは文字通り固まった。
「……は?」
目をぱちくりとさせて、カイをまじまじと見つめる。
まるで彼の顔に『冗談って書いてないか』とでも探すように。
「え、え、ちょっと待って、マジ? ガチの夫婦? 戸籍上?」
「うん、まあ法律的にも、ちゃんと夫婦だよ」
「……いやいやいや、待って待って。だってさ、モニカさん、あんな感じでしょ? 強いし、美人だし、あれでしょ、なんか何でも知ってそうで、簡単に人を裏切るタイプのあれでしょ?」
「具体的すぎる偏見だな、それ」
「いや、だってそんな感じだったじゃん!」
セラは頭を抱えた。
まるで世界の軸が少し傾いたかのような感覚。
あの無表情でクールなスラムの情報屋が、カイと「夫婦」と聞かされて、思考が完全にバグっていた。
「じゃあ……あの感じって、カイにだけは違ったりするの?」
「まぁ……たまには、な」
「ていうか、それじゃあつまりさ、今回の事件って、家族で捜査してるってことになるわけ? やば、超アットホームじゃん」
「そうなるね。まぁ、使えるもの使わないとね」
セラは肩をすくめ、大きくため息をついた。
「ま、でも……だからか。なんか妙に噛み合ってたもんね、あの二人。無言で情報のやり取りして、たまにうなずくだけで会話終わってるし」
「まぁ4年くらいたつしね。言葉より、行動で通じることもある」
「うわっ、なんか名言っぽいこと言い出した」
「そうか?」
カイがわずかに目を細めて笑ったのを、セラは見逃さなかった。
――モニカ。
スラムに生き、情報を売り、誰にも縛られずに生きる女。
そして、カイという不器用な男の、唯一の安息。
セラは改めて、二人の関係に言葉を失い、少しだけ胸がくすぐったくなるような気がした。
「……なんかさ、いいね。そゆの」
「そうか?」
「うん。ちょっとだけ、うらやましいかも」
カイは何も言わず、ほんの少しだけ視線を伏せた。
その目の奥に、一瞬だけ柔らかなものが灯ったのを、セラは見た気がした。