3章
見渡す限りの地平。
焼け焦げたような岩盤の大地と、その上に積もる褐色の細砂。
風が吹けば、地面の粒子が舞い上がり、視界の輪郭を曖昧にする。
それはまるで、巨大な墓地の上に立っているような感覚だった。
かつて都市だったと思しき構造物が、点在していた。
倒壊した高層ビル。爆風で丸ごとえぐれたドーム基部。
遠くの地平線には、半分崩れかけた送電塔のシルエット。
都市機能の残骸が、骨格だけの獣のように突っ立っている。
カイが低くつぶやいた。
「ここはがかつて、セクター・シティが生まれる以前の、この国の都市の中心部。アイリス・ドームにも引けを取らないくらいの都会だろ?」
「……人っ子一人見当たらないけどね。誰も住んでないの?」
「いないように“見える”だけだよ。外縁スラムの住民や追放者たちは、廃墟の地下や残響シェルターに隠れてる。表に出るのは夜か、武装してるときだけかや」
セラが不意に振り返る。
砂の向こう、建物の影に何かが動いた気がした。
「……今、見た?」
「見えても、見ないほうがいいよ。ここの連中は、敵か仲間か、あるいは獲物か狩人かを観察して把握する。あんまりジロジロ見てると、敵認定されかねない」
「敵認定……されるとどうなるの?」
「しつこく付きまとわれるよ」
苦虫を噛み潰したように、カイが答えた。
「ドームのことは知らない癖に、ここのことは詳しいんだね」
「この星に来たとき、最初に赴任したのはリングの治安警備部隊だからね。4年はここで暮らしたよ。友達もたくさんできたし、敵もたくさん作ったかな」
リングとは、ドーム外の外周をぐるりと囲むように作られたスラムのこと。
ほとんど見捨てられた場所ではあるが、ここにはいくつかの『企業』がつらなっている。
ドーム外の人間を就労させ、社会復帰を目指すことを目標にして作られた、官民が協働する第三セクターだ。
現在はその『官』の部分は大分薄れ、独自に事業を拡大した結果、脱法的な企業が立ち並ぶ結果となったが。
カイの所属した治安課部隊は、元来三セクの警備が主な仕事だった。
時代の変化と共に、その役割も変質し、カイが所属する頃になると、非合法的な企業を取り締まるのが主となった。
その過程で得た情報と繋がりが、現在のカイ形成している。
二人は無言のまま歩く。足を取られる細砂、踏みしめるたびに散るガラス粒のような砂礫。
ドームの整った床とはまるで違う、“生”の地面。
セラは、肌に当たる風の温度と硬さに、ある種の実感を感じていた。
「こんな世界……一生見ることなかっただろうな……」
息を切らし、足元の小さな砂岩に軽く躓く。
心身ともに大分疲労を感じていたが、不思議と気持ちは高揚していた。
殺されて、事件の真相を解き明かすために、これから非合法的な企業へと向かうというのに、セラは、初めて親に黙って友達と買い食いをするような、背徳的な享楽を感じていた。
「どうなんだろうね。もしかしたら、見せたくなかったのかもしれないね。君のお父さん、企業理念に何を掲げていたか知ってるか?」
「まぁ、一応」
自由と平等。
歯の浮くような理想論。
セラは、父親が事ある毎に語っていた夢を覚えている。
幼い頃は何とも思わず、素直に応援していた気がするが、物事を知るにつれて、父親がいかに愚かしいことを語っていたのかと、嫌悪感を抱いたこともあった。
「君の父親は、真の平等を目指していたらしいね。その思想的背景は分からないけど、ORACLEを使って秩序を再設計しようとしたことは分かっている。でも、それを恐れたやつがいた」
「……殺されちゃ意味ないよ」
「その意思は受け継がれていくと思うよ。君が今回の事件にどう向き合い、どのような結論に向かうのかは分からないけど、何れにせよ、意味のない終わり方にはならないと思うよ」
「なにそれ、哲学?」
「いや、倫理だよ」
セラは、その意味を今一理解できなかった。ただ、少なくともカイは、慰めているのだと思った。自分を、クワトロ=ミレアの娘として扱っている。
思えば、はじめからそうだった。
記憶と人格を受け継いだだけの、ただの模造品。
感情をコントロールされ、深層心理において、自分を『オリジナル』と同一視しない。
それが、蘇生体に施された安全弁だ。
記憶を呼び覚ます過程で、どういう訳かその安全弁開かけているが、この『セラ』の認識は、あくまでも自分は『蘇生体』であり、本物とは違うと思っている。
もしも今ここに、オリジナルのセラが現れたとしたら、自分はすぐさまその称号を受け渡し、2度目の死すらも享受しようと考えている。
それが安全弁の役割であり、この社会における必然だから。
しかしカイは、それでもなお、自分を本物の『セラ』として扱っている。
仮に蘇生体であろうと、今ここにある『自分』は、他の何物でもない。
カイと接していると、言外にそう訴えてくる彼の情念が、セラにはひしひしと伝わっていた。
「まぁ、何だっていいけど」
その後は、目的地を目指して、ただひたすらに歩いた。
話では3日と言っていた。
徐々に日が暮れ、カイが「休もう」と提案した頃には、太陽が地平の端まで降りてきていて、大気を赤々と照らしていた。
空気中のチリが太陽光を乱反射して、夕焼けはドーム上に映し出されていたものよりもボヤケていたが、まるで燃え盛る炎の中にいるようで、少し怖くすらあった。
休憩場所となったのは、岩肌に隠れた小穴だった。廃虚の中には入らないのかと聞くと、先住民がいるとのこと。
「心配しなくとも、1日見張ってるよ」
「寝ないの?」
「言ってなかったけど、俺は8割方機械なんだ。頭は寝てても、機械部分が勝手に動く」
「それって大丈夫なの?」
「心配はいらないよ。俺の十年来の相棒だからね」
「カイがそう言うなら……」
不安もあったが、疲れていたのも事実。
ゴツゴツした岩肌を枕にして横になり、目をつむるとすぐに眠りに落ちた。
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歩き続けるうちに、遠くに見えてきたのは――朽ちた広告ホログラムの残骸。
風に吹かれてちらつく映像のなかに、“赤毛の女”の顔と名前が残っていた。
《モニカ・リンク》/合法と違法の間で、記憶を売る女
それは広告というより、“目印”のように見えた。
カイが頷いた。
「モニカ・リンク。相変わらずっぽいな」
「え、モニカ・リンクって会社の名前じゃないの?」
「会社の名前で、人の名前だよ。別に珍しくはないだろ?」
「そりゃあまぁ、そうだけど」
砂煙にチカチカと明滅するホログラム。
妖艶という言葉の似合う、赤毛の女の映像に、セラは何もなく、不安を覚えた。
「この人が、モニカ、さん?」
もう少し近くで見てみよう。
ホログラムに近づこうとしたセラが、ふと、立ち止まる。
誰かの“視線”を感じた。
背後の砂の丘、崩れた建物の割れ目、風に揺れる電線。
見えない。けれど、確かに観察されている。
セラは、右手にはめた腕輪にそっと触れた。
殺気、というものがあるのかは分からないが、何となく、雰囲気を感じた。
睨めつけるような視線を感じたのだ。
まるで、品定めでもするような。
「どうにも、囲まれてしまったみたいだね」
気が付くと、隣にカイが立っていて、右手が肩に乗っていた。
後ろに下がるように促す右手に、セラは素直に従い、半身をカイの陰に隠した。
カイの右目が、めまぐるしく動いていた。
かと思えば、黒目の部分が小刻みに震えて、カイに索敵の情報を伝えていた。
反応あり――複数。
周囲に3〜4体の生体反応。姿は出さず、距離を保っている。
「……大丈夫なの?」
「心配しなくていいよ。殺すつもりなら、既に撃ってきているはずだ。今のところは、見ているだけ、だと思うよ」
「なんで?」
「社長の登場を待っているのさ」
すると、地面軽く撫でるだけの、穏やかな風が止んだ。
静寂の中、砂礫の向こうに人の気配が現れた。
赤い、髪だった。
濃いルビーのような色合いが、スモッグの黄褐色を切り裂くように揺れていた。
髪型は精緻なボブカット。だが襟足のあたりはやや刈り上げてあり、無造作なようで完璧に計算されたシルエット。
黒革と銀の鋲が打たれたパンク調のジャケットを着ていた。片袖だけが切り落とされており、右腕にはタトゥー風の電子回路模様が刻まれている。下は赤黒のタータンチェック柄のパンツに、厚底の機械式ブーツ。
誰の目にも異端だとわかる。だが同時に、目を奪われずにはいられない。
妖艶な切れ長の目が、こちらをゆっくりとなぞっていた。睫毛は長く、ライナーは深く。瞳の奥が、虚無ではなく「情報で満たされている」ような、異様な知性を放っている。
彼女の体型は明らかに洗練されていた。スーツに包まれたセラでさえ息を飲むほど、腰のラインと背筋、動作の緩急に隠しきれない肉体の緊張感があった。
ただの情報屋ではない。鍛えている。もしくは、かつて“戦っていた者”の身体。
そして彼女は、壁にもたれながら一本の電子煙草をゆっくり吹かしていた。
「まあ。こんなところまで歩いてくるなんて、正気の沙汰ではございませんわね」
セラは思わず眉をひそめる。その場にそぐわない“上品な言葉”が、砂混じりの空気の中で異様に響く。
「あなたが……モニカ・リンク?」
「ご挨拶が遅れましたわね。モニカ・リンクと申しますの。『一瞬を、永遠に』株式会社モニカ・リンクを、ぜひよろしくお願いします致しますわ」
カイが息をつくように言った。
「相変わらずだね。元気そうでなにより。その変なお嬢様口調も」
「当然ですわ。たとえ世界がどれだけ堕ちようとも、言葉だけは気高く在りたいのですもの」
彼女は軽く頭を下げ、優雅な足取りで近づいてくる。
歩くたびに、厚底のブーツが乾いた音を鳴らす。
「さて。お嬢さま。あなたがセラ=ミレアの『複製体』でいらっしゃいますね? とても……とても良い目と良いカラダ、そして良い頭を思い出すこと!」
「……あなたなら、私の記憶のを元に戻せるの?」
「『私の記憶』……でございますか? うふふ。すべてとは申しませんけれど――“真実の一端”くらいは、御覧にいれましょうか」
モニカの切れ長の瞳が笑った。
「地獄の裏口へようこそですわ、セラさま。ここから先は……人間の記憶と魂が値段で売買される領域でございますのよ」
セラは、その言葉に何か寒気のようなものを感じた。
熱を帯びていたはずの身体の芯が、ほんの少し、冷える。
父の死、リリサの絶叫、自分の死体を見下ろしたあの感覚。――それらの現実が、まるで誰かの掌の中で取引されていたのだとしたら?
「つまり、私の記憶が、売られてたってこと……?」
「さて、どうなのでしょうね……? 知らないほうが、し・あ・わ・せ、ということもありますのよ?」
「……」
吐き出しかけた言葉を飲み込む。
言葉にしてしまえば、自分が怯えていることを認めることになる。
それは、許せなかった。
セラはゆっくりと、カイの前に出て、さらに足を一歩、前に出す。
その視線は、モニカの瞳をまっすぐに見返していた。
「……でも、それを知らないまま生きる方が、きっとよっぽど地獄ですわね」
モニカがわずかに目を見開き、くすりと笑った。
「あら。お上品な皮肉まで使えるとは、たいしたものですこと」
「私は、本物の『お嬢様』ですから」
「……ふふ、くく『本物』……ふくくっ、気に入りましたわ。ついていらっしゃい。真実は――選ばれた者にしか見せて差し上げませんのよ」
モニカがくるりと背を向け、廃墟の奥へと歩き出す。
その後ろ姿に、セラも続き、カイも後を追った。
「大丈夫か?」
「うん。なんか、嫌な感じの人」
「まぁ、ひねくれてるけど、悪人じゃないよ」
「ふーん。仲いいんだね」
「別に、仲はよくないが」
若干、不機嫌に見えるセラに、言葉が詰まるカイ。
モニカに続き、廃虚の中を進む。
足元には、粉々に砕けた硝子と骨のような破片。
違和感。
歩きながら、セラが憶えた違和感はすぐに氷解する。
足元に、電気がついている。
先の見えない暗闇の中を、視線を前に向ければ、足元だけは、煌々と明かりが照らしている。