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青年ラゼル

 もう九時を回っている事だろう。一日の殆どを空の上で過ごす夏の太陽も、少しずつ傾き始め、外は次第に涼しさを取り戻していた。

 しかし、ラファエロ達のいる事務室は違った。一台のコンピューターと壁沿いに囲むようにして置いてある学生の個人資料の棚があるだけで極端に狭く、窓は子猫がやっと通れる程度のもの一つしか付いていない。日中の間に溜まった熱気はほとんど抜けず、ラファエロ達は全身汗だくになっていた。

おかげで作業はほとんど捗らなかった。つい先ほど、そろそろここを閉める時間なので作業を終えて欲しいと言われた所だ。ラファエロとラゼルは棚から出した大量の資料を片づけている。イルーネは気を遣ってか、涼しい外に出たかったからか、自販機まで行って冷たい飲み物を買いに行っている。

「あの今さらなんですけど聞いてもいいですか?」

 ラゼルは額から滴り落ちる汗を払いながら、久し振りに言葉を発した。

「何だ? この写真の青年の事か?」

「いえ、さっきの職員室の前での事です。あの時にラファエロさん、職員の方に何か見せていましたよね。そしたら職員の態度が急に変わりました。一体何を見せたんですか?」

 実はこの事務室に入る際、ラファエロは職員に入室を止められていたのだ。いかにこの大学の卒業生とはいえ、外部の者に学生の個人ファイルを閲覧させる訳にはいかないと。

「ああ、あれか。あの時はこれを見せたんだよ」

 Tシャツの胸ポケットから、一枚の名刺を取り出した。汗でべとべとになっている。そこには「オロ・イスパニーア・グループ 最高取締役 ヘレネーロ・ゾラン」とあった。

「ええっ! こんな凄い人と知り合いなんですか?」

 ラゼルはひどく驚いていた。

「そんなに驚きか?」

「だってオロ・イスパニーアって言ったら、この国のトップ企業じゃないですか。いつ知り合ったんです?」

 まだ興奮さめ止まぬようだ。若干、声のトーンがおかしい。

「いつだったかな。とりあえず私がまだ画家として有名だった頃だから、七年以上は前だろうけど……」

 ラファエロは職員に止められた時、ふとイスパニーア・グループがこの大学に多額の寄付金をしているのを思い出したのだ。そこで先日渡され、たまたまこのポケットに入っていたあの名刺を見せた、という訳だ。

「お待たせ、飲み物買って来たよ」

 イルーネが自販機から戻って来た。両方の手にはペットボトルが一つずつ握られており、彼女自身は汗を綺麗に拭い切っていて気持ちよさそうにしている。道理で帰って来るのが遅い訳だ。

 二人は一旦、手を止めて彼女からペットボトルを貰い水分補給をすると、今度は三人で資料の片づけに入る。片づけている間中、ラゼルはイルーネに先ほどの話を興奮しながら語っていた。作業は太陽が沈んで辺りが暗くなるまで続いた――。


「やっと終わりましたね」

 ラゼルは最後の資料を棚に戻すと、大きくため息を付く。閉館時間ぎりぎりだった。三人はほとんどの電気が消されていて真っ暗な廊下を早足で通り過ぎ、教務塔を後にする。外に出ると、電灯の光で幾らか明るかった。学内にはまだ多少の学生が残っており、いささかの活気がある。

「ラファエロさん、ちょっとお願いがあるんですけどいいですか?」

「どうした?」

「今日中に図書館に行って済ませなきゃいけない用事があるんです。だから帰り道、イルーネを送って行ってもらえませんか? 夜道ですし一人で行かせるのが心配なんで」

 ラファエロが承諾したのを見届けてから、ラゼルは暗闇の中へと消えて行った。

「なんかごめんなさい。ラルって心配性なんです」

 イルーネは少し申し訳なさそうな顔をしている。

「いや、夜道は何かと危ないからな。男なら誰でも彼女の帰り道は心配するさ」

 ラファエロにとってこのくらいの年の女の子と、二人きりになるのはかなり久し振りの事だった。そうで無くとも、この七年間はほとんど人と接していないのだから。

「ところで彼は図書館に何の用事だったんだ?」

「多分、図書館の清掃を手伝っているんだと思います。半年くらい前から図書館の司書の人達と仲良くなって、定期的に手伝いに行ってるんです」

 また随分とお人好しと言うか、おせっかいと言うか。ラファエロの青年探しを快く手伝ってくれたのも頷ける。

 ラファエロは歩きながら会話が途切れないようにした。こう言う時は話し続けるのが一番良い。

「優しい彼だな。ところでさ、聞きたかったんだけど二人はいつぐらいから付き合ってるんだい? 良かったら教えてくれよ」

「もう二年になりますね、大学一年の、まだ入学して一カ月が経つか経たないかくらいの時です。ラルからいきなり告白されて」

 暗くてよく見えなかったが、恐らく顔を赤らめているであろうイルーネが想像できる。話すテンポが僅かに遅い。

「それって初対面?」

「そうです。でも私もラルの事は知ってましたよ。だって入学して直ぐに、女の子の間で凄い評判だったから」

 美男子はこれだから良い。

「それで、返事は?」

「やっぱり最初は迷いました。だって知っているとは言っても、一度だってちゃんと話した事ない相手ですから。でもその日ラルと色々と話して、ラルがどんな人で、なんで私に告白したかって事が良く分かったんです。何よりとっても優しかったし、私の話に凄い夢中になってくれたのが嬉しくて」

「彼は君のどんな所を好きになったかって、聞いても教えてくれないよね?」 

 イルーネは笑いながら頭を横に揺らした。さすがにそこは二人だけの秘密にしたい所だろう。

「でも周りから羨ましがられるだろ? あれだけかっこ良くて優しい彼だと」

「そうですね。友達と話している時も、ラルの事聞かれたりしますね。ただ……」

 少し、イルーネの声のトーンが下がった。

「ただ何?」

 少し間が開く。どうやって言おうか、言葉を選んでいる様子だった。

「ラルって誰にも見せない一面があるんです。ずっと一緒にいるとたまに出るんです。何って言うかな、もう一人のラルって言うか」

 何処か的を得ていないな、ラファエロは自然とそう感じた。

「自からの深淵を見ているラゼルって事?」

「あっ、そう。そうです、そんな感じ」

 ラファエロは何か、ラゼルに自分と通じるものを見た気がした。あの七年間、いやそれ以前から彼が悩み、感じていたもの。

「彼だけじゃないと思うよ。人は誰だって自分にしか見せない一面はあるさ」

 イルーネは黙っていた。ラファエロにはそれが頷いたのか、否定したのかは分からなかったが、それがどちらかの反応を示していたように思えた。

日中赤茶けて見えたサラマンカの街並みは、オレンジ色にぼやける数え切れないほどの光と混ざり合い、一つ一つが自ら輝きを放つ恒星の様に見えた。ずっと高い、空よりも高い場所からこの地を見下ろせば、それは我々が見上げる銀河のような景色になっているに違いない。


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