サラマンカ大学
――カスティーリャ・イ・レオン州サラマンカ。首都マドリードから北東に約二百キロに位置する都市で、旧市街には歴史的な建築物が数多く残っている。赤茶けた建物が並ぶ街並みは夕日を浴びると鮮やかに輝き、緩やかな炎のように暖かみを持つ。
旧市街の中心から西へ歩くと、繊細なレリーフが施された巨大な石造りの門が出迎え、その向こうには多くの建物がたたずんでいる。
サラマンカ大学。
十三世紀前半に設立されたこの大学はヨーロッパでも最古の大学の一つと言われ、『ドン・キホーテ』を描いたセルバンテスや、新大陸に到達したコロンブスなど、多くの著名人が学んだ。「知識を欲する者はサラマンカへ行け」とまで言われ、事実サラマンカの人口の三分の一が学生である。
「何十年振りだか。相変わらず豪勢な建物だ」
ラファエロは正門の前で立ち止まると、少し後ずさりして、門全体を見渡した。今から二十年ほど前、彼はこの大学を卒業している。以来、訪れるのは初めてである。
ひとしきり思い出に浸ると、人の流れに身をまかせ大学の中へ入る。門をくぐると、四方を巨大な建物が囲み、その中心には聖職者の銅像が立っていた。石畳の地面を歩く音が周りの建物に木霊して、無数の音の塊となり消えてはまた起こる。
「とりあえずは手当たり次第に聞いてみるか」
この広い大学内を悪戯に歩きまわった所で時間の浪費にしかならない。ラファエロはとりあえず、例の写真を元に聞き込みする事にした。
「ちょっと、君。少しいいかい?」
目の前を通り過ぎようとした少し背の低い青年の肩を叩き、こちらのほうを振り向かせた。彼は茶色の髪を翻してラファエロの顔を見た。
衝撃だった。
信じられないほどの美しい青年なのだ。小麦色の肌は眩いばかりで、形良く整った鼻筋に口元。そして何よりも、青色の瞳はまるでサファイアのような輝きを放っている。
天使だ。ラファエロは思わず口に出してしまいそうだった。その容姿はもはや芸術の域ですらある。一人の芸術家として、感動を覚えずにはいられなかった。
「あっ……そうだ。この写真の男の子なんだが、誰か分かるかな?」
危うく呼び止めた趣旨を忘れそうになっていた。
「分かりましたよ。ちょっといいですか」
彼は前髪を少し掻きわけ、写真に目をやった。真剣に思い出してくれているようだった。見る角度を変えては何度も確認している。
「どうだ、分かるか?」
「いや、思い出してみようとしたんですが。サングラスをしていると顔が良く見えませんね」
彼は申し訳なさそうな顔をしていた。突然足止めしたにも関わらず随分親切に対応してくれる。
「確かにこのサングラスが邪魔だな。でも君じっと見つめていたから、何か感じたことあったんじゃないか。ほんの些細な事でもいいから、とりあえず教えてくれないか?」
「髪が黒いからアジア系の人かと思ったんです。でもそれにしては肌の色が白いので、アジア人以外で黒髪の人を思い浮かべていたんです。ですが僕の知り合いで、思い当たる人は特にいませんね。大学は広いですから、他の人に当たってみれば分かると思いますよ」
「そうか、分かったよ。ありがとう」
そう言ってその場を離れようとした時。
「良ければご一緒しましょうか? 学生が一人付いていたほうが何かと便利でしょう」
ラゼルは優しく微笑んでいた。濁りの感じさせないその瞳は、今にも吸い込まれてしまいそうだ。
「助かるな、是非頼むよ」
「じゃあちょっと図書館のほうまでご一緒してもらって良いですか? 人と待ち合わせしているんですよ」
ラゼルの言うままに二人は図書館へと足を伸ばした。ラファエロにとって懐かしい風景が通り過ぎて行く。学棟の周りを囲むようにして木々が立ち並び、芝生の中を真砂で敷き詰められた道が突き抜ける。所々に植えられた樹木の下には影ができ、それを背もたれに読書をする学生達が目に入って来る。かつてあそこに居たのは自分だと思うと、何とも言えない気持ちになるのだろう。
「あそこです」
図書館の入り口には沢山の学生がいた。中へと入って行く者、出て行く者、その場でたむろする者。その中で、入り口から少し離れた位置に一人待つ女の子の姿があった。ラゼルは彼女に近づいていくと、どうやら向こうも気付いたみたいだ。こちらに向かって手を振って近づいて来る。
「紹介します。僕のガールフレンドのイルーネです」
彼女のほうにもラファエロの事を説明する。
「初めまして、ラファエロ・デルバルドだ。ラファエロでいいから」
ラゼルと同じく青色の瞳をしている。ただこの子の青色のほうが色合いが薄く、より透明感のあるものだった。太陽の光を受けて眩しく輝くブロンドの髪は背中まで伸び、大きく丸い形をした目と、口元の笑窪が可愛らしい。
まあ一般的に言う美男美女のカップルと言った所か。
「もしかして……」
いつの間にか、イルーネの視線が釘付けになっていた。
「ん? 私の顔に何かついているかい?」
彼女は首を横に振る。隣で見ていたラゼルも彼女の行動を不思議そうに見ていた。
「違ってたら、ごめんなさい」
「言ってみて」
「画家のラファエロさんですよね? 『壊し屋』って呼ばれてた」
ラファエロは驚いた。まさかこんな若い子が自分の事を知っていてくれるなんて。何せラファエロが世間に出ていた頃は、彼女はまだ十三歳、十四歳といったところだろう。
「嬉しいな。知ってくれてるなんて」
彼女は照れくさそうに笑っていた。そしてラゼルのほうをちらりと見る。
「本当はラルがファンなんですよ。それで私も影響されて」
ラゼルはズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、待ち受け画面を開いてラファエロのほうに差し出した。
「もう何年もこの絵なんです」
「懐かしいな」
そこには人の顔が描いてあった。それはラファエロが芸術の世界から姿を消す直前に描いた絵だった。ラファエロにしては珍しく、対象物を写すようにそのまま描いている。
「ああ、そうだ。ちょっとイルーネに聞きたい事があるんだけど今いい?」
ラゼルが写真の事をイルーネに説明してくれて、彼女は快くその申し出を受け入れた。
写真を手に取り先ほどのラゼル同様、見る角度を幾度となく変えてみては確かめてくれる。
だが、
「う~ん、分かんないな。ごめんなさい」
「そうか……」
ラゼルの彼女なら交友関係に関しては、彼と被る部分が少なくないだろう。そうなると彼女も写真の青年について知っている可能性は低いと思える。残念ながら、結果はラファエロの予想通りだった。
「こう聞いて行くだけだとな。何か良い方法はないものかな」
時間が無い訳ではないが、このペースだとざっと一年はかかってしまいそうだ。ラファエロは早くも、聞き込み調査に限界を感じていた。
「それなら教務塔の事務室に行ってみませんか? あそこならコンピューターにアクセスして、全学生のデータを調べられますよ」
「ああ、あそこか」
ラファエロの学生時代にはまだコンピューターは無かったが。
「確かにそれだと聞き周るよりずっと早いな」
「決まりですね、こっちです。イルーネも来るだろ?」
どうやら彼女も、この青年探しに興味を持ち始めたようだ。直ぐに首を縦に振ると、随分と乗り気で先頭を歩き出した。