人形の家
野々口哀は、京都に古くから続く名家に、現当主である父、愁造と、日本有数のガラスメーカーであるYH硝子の令嬢の母、愛美との間に一人息子として生まれた。哀が二歳の時に両親は交通事故で同時に命を落とし、それからは彼は父方の祖母である憂に育てられた。憂は大変厳しい人で、哀が少しでも失敗したりだらしのないところを見せるとキツく叱った。痕が残ってはいけないとひどい暴力を振るわれることはなかったが、鬼のような形相に耳が痛くなる凄まじい怒声は、今でも哀の記憶にしっかり刻み込まれている。それを、大切な一人息子である愁造を亡くし、憂はおかしくなってしまったのだと周りの者は噂した。そんな過酷な日々を送っていた哀の一番の癒やしは、母の実家である高乗家を訪れることだった。母の兄である伯父の京一郎とその妻の都には二人の子供がいた。哀より四つ年上の隆範と、五つ年下の真恋人である。高乗夫妻は哀にとても良くしてくれ、無邪気に自分を慕ってくる真恋人は可愛らしく、しっかり者の隆範はとても頼りになった。真恋人は幼稚園からエスカレーター式の女子校に通っており、家族以外の男性は珍しかったとみえて、哀にとてもよく懐いた。正月、花見、花火大会、月見、ハロウィン、クリスマスといった四季折々のイベントを三人は共に過ごした。憂の方針により、哀はテレビはニュースか教養番組のみ許され、他にも漫画やゲームなどのありとあらゆる娯楽を徹底的に禁止されていた。しかし、憂の目の届かない高乗家では真恋人と隆範と一緒にそれらに自由に触れることができ、なんとか同級生の話題についていくことができた。そんな高乗家で過ごす穏やかな時間は、哀にとってなにものにもかえがたい宝物であった。
哀が大学を卒業し、京一郎のコネでYH硝子の経理部で働き始めた頃、憂が病気で帰らぬ人となる。たった一人の家族を失い、悲しみに打ちひしがれている哀を憐れんだ真恋人は、何か自分にできることがあったら言ってほしいと声をかける。それに哀は、今度の日曜に家に来てほしいと頼む。真恋人はわかったと答え、翌日、花とゲームを持って哀の家へ向かった。この花を花瓶に生けてやり、一緒にゲームで遊ぼうと考えていた真恋人だったが、家につくやいなや、哀に花束を差し出され、交際を申し込まれる。それを聞き、なぜ自分なのだろうと真恋人は大いに驚き、そして困惑する。というのも、幼い頃から周りは女ばかりという環境で育った彼女にとって、哀は唯一の男友達であり、そして、はじめて異性を意識した存在でもあったのだ。そんな彼に愛を告白されて、ドキドキしない訳がない。狼狽する真恋人をよそに、哀はずっとあなたが好きだったと告げる。辛く孤独な毎日の中で、優しく可愛らしい真恋人は安らぎであり、そしてまた、心の灯火であった。あなたがいたからこそ、自分は今まで生きて来られたのだと哀は言う。そして、哀は真恋人が自分のことをずっと名前で呼んでくれていたのがとても嬉しかったと伝える。普通、親戚同士となると、いとこやおじおばなど、若い独身者には名前の後に「〜お兄ちゃん」などと付けて兄姉呼ばわりすることが多い。しかし真恋人はそうではなかった。それを真恋人が自分のことを一人の異性として認識してくれているからだと勝手に思っていたとはにかみながら言う哀に、真恋人は顔を真っ赤にしてその通りだと頷く。真恋人には既に隆範という実兄がいた為、哀を兄として認識することはなく、子供の頃は「哀ちゃん」、今は「哀」と呼び捨てにしていた。そして、哀の話を聞いて疑問を抱いた真恋人は今度はこちらから質問をする。それならキミはどうして兄のことを「隆範兄さん」という風に呼ばなかったのか、と。すると、哀はこう答える。あなたたち兄妹は本家の王子様とお姫様であり、よそに嫁いだ母の息子である自分などがそんな風に馴れ馴れしく兄弟のように呼ぶのが許される訳がないからだ。それを聞いて、真恋人は泣きそうな顔をしながらそんなに卑屈にならないで欲しいと言って哀を抱きしめるのであった。
いとこ同士で付き合うことに抵抗がなかった訳ではない。だが、捨てられた子犬のような痛々しい目で一心にこちらを見つめる哀の姿を見ては、とても断ることなどできなかった。そして、哀に求められるままに真恋人はその申し出を受け入れた。
それから二人は、周りには幼なじみのいとこだと説明しながら秘密の交際を始める。流石にいとこ同士で付き合っていると広言することははばかられたが、いとこというものは不思議なもので、いやに仲が良く、二人で頻繁で遊びにいっても、「いとこだから」の一言で済まされ、周りから奇異の目で見られることはなかった。だが哀はすっかり恋人気分で、人気のデートスポットを訪れては写真を撮ったり、真恋人に洒落た服や靴をプレゼントしたりした。他にも、哀の家で一緒にゲームをしたり、トランプをしたり、映画のDVDを見たり、家事をしたりと昔と同じような無邪気な時間を過ごす二人だったが、哀の真恋人を見る目は以前とは明らかに変わっており、ベタベタとまとわりついて甘え、片時も側を離れなかった。そしてある日、とうとう哀は真恋人をベッドに誘う。精神的な面ではともかく、もうお互い体は子供を作ることのできる一人前の大人であり、何より自分たちは恋人同士だ。いずれはこのようなことになることは覚悟していたが、やはり戸惑いはある。だが、哀の情熱的な愛の言葉、ひたむきな目に心を打たれ、真恋人は体を差し出す決意をする。真恋人は哀がはじめての相手だったが、哀は以前に経験があった。しかし、その数はとても少なく、お世辞にも上手いとは言えなかった。だが、真恋人を一心に愛しているという気持ちは充分に伝わってきて、心と心の通い合うとても素敵な初体験であった。
そうして二人はいとこという垣根を超え、本当の意味での恋人同士になった。哀は外では紳士らしく真恋人を優しくエスコートし、ベッドの上では彼女の若く瑞々しい肉体に思う存分溺れた。哀は今までの人生で一番の喜びを感じていた。長年想い続けていた愛しの姫君と、こうして気持ちを通い合わせ、更にはその美しい体をも独り占めしている。祖母がいなくなっても、彼女さえいれば平気だ。このまま彼女とずっとこうしていたい。もう、自分は彼女を絶対に放さない。そう願いながら、哀は真恋人との夢のような甘いひとときを過ごしていた。
そんなある日、都がいきなり哀に見合い話を持ちかけてきた。近年は日本人の結婚年齢も上がっているし、まだ自分には早い話だと哀は断ったが、彼女はもう見合いの日にちも決めてしまったので今更無かったことにはできない、いいから会うだけ会ってみろと強引に写真を押し付ける。自分に相談もせず勝手に見合いのセッティングなどをした都に腹を立てる哀だったが、日頃から世話になっている彼女の顔に泥を塗る訳にもいかないと、しぶしぶそれに従うことにした。そして見合い当日、オーダーメイドの一級品のスーツに身を包んだ哀は、都の付き添いで市内の高級料亭に足を踏み入れた。そこではじめて顔を合わせた相手――法貴柚子は、哀より一つ年下の22歳で、来年大学を卒業する予定だという。艶やかな黒髪と涼し気な目元が上品な色気を醸し出しており、決して悪い容姿ではない。それに何より彼女は、京都が誇る大手製薬会社、応仁製薬の社長令嬢であった。家柄のことを考えれば、哀の相手としては申し分ない。だが、話すことといえばアニメの話ばかり。子供の頃は真恋人たちとアニメを見たことはあったが、それでも家では見られなかったし、社会人となった今、今流行っているアニメのことなどさっぱりわからない。オタク専用の婚活パーティーじゃあるまいし、そもそもそんな話を見合いの席でするものだろうかと、不快感を覚えた。その後もベラベラとやかましく自分の好きなことだけ話し続ける彼女には、大人の女性らしい落ち着きなど微塵もない。ハッキリ言って哀の好みからはまるっきり外れていた。そんなに長い時間話をした訳ではなかったのだが、哀はその日ゲッソリ疲労して帰宅した。
その後、柚子との縁談を今度こそしっかり断った哀は、真恋人に婚約指輪を渡してプロポーズし、彼女の両親に結婚の意思を示そうと提案する。真恋人は元来真面目なタチで、単なる遊び相手なんぞに体を許したりはしない。なので、こういう関係になった今、いずれは哀の元に嫁ぐことも視野に入れていた。だが、まだ自分は学生なのでさすがに結婚は早いのではないかと伝えたが、先日のようにまた無理矢理見合いをさせられて、よからぬ噂が出回ってしまわない為にも、今すぐ結婚した方が良いのだと、哀は半ば強引に真恋人を連れて高乗夫妻の元へ向かう。
しかし、そんなことはとんでもないことだと、二人は夫妻に激しく反対される。理由は三つ、一つ目は、二人の間に生まれる子供のことである。祖父母を同じとするいとこ同士は1/8(12.5%)同じ遺伝子を持っており、それ故に子供が何かしらの障害や病気を持って生まれてくる確率が他人同士のカップルより高くなるといわれている。それは1.7倍とも2倍とも言われており、明確な数字がハッキリしないが、とにかく健康な子を授かりたければ近新婚はできるだけ避けた方が越したことにないというのはどの説でも共通のようだ。
二つ目は、世間の目の問題。いくら法律で結婚が許されているからといって、親族を恋愛対象として見、結婚までして子供を作るということに嫌悪感を示す者は少なくないだろう。それに日本はたまたまいとこ婚を許可しているが、いとこ同士の婚姻をタブー視し、禁止している国も多くある。例えるならば、歴史的出来事を題材にした小説や映画などはこの世に沢山あるが、それらの作品に登場する歴史的人物には著作権が無いため著作権侵害などの違法にはならず、ビジネスとして立派に成立し、昔から多くのファンもついている。だがいくら違法ではないといっても、実在した彼らは作者が考えた人物ではなく、いくら言い繕っても所詮これらの作品はパロディにすぎない。近新婚もそれと一緒で、いくら合法といっても結局は近親相姦に違いはない。法律上の見解とそのものの本質とはまた別の話であり、合法だからといって倫理的に正しいとは限らないのだ。
三つ目は、結婚による親族への影響、及び離婚した時のリスクだ。二人とも身内の一切いない天涯孤独の者同士のカップルの場合はさておき、法律の絡む結婚は基本的に二人だけの問題ではなく、彼らを取り巻く親族全体の問題だ。仲が良い時はいいかもしれないが、もし上手くいかなくって別居したり離婚したりした場合、親戚の集まりで再会した時などは非常に気まずいし、何より周りが一層気を遣う。自分たちの勝手な都合で親戚中にストレスを与えるなど、とてつもなく迷惑な話だ。
それを聞いた哀は全く納得できないと激しく反論する。第一の問題は他人同士のカップルでも障害児が生まれてくるケースはいくらでもあるし、何よりいとこ婚は法律で認められているほどなのだから、遺伝的な問題は他人婚と大きな違いなどないはずだ。そうでなければ法律はいとこ婚を許可したりなどしない。第二の問題は著名人や現代人でもいとこ婚の例はあるのだからそんなもの気にせずあくまで堂々としていればいい。そもそもそんな小説や映画の話などを例えに出してきて、あなた方は私たちをバカにしているのかと哀は激しく怒りを露わにする。そして何より腹が立つのが第三の点だ。なぜこれから幸せになろうとしている自分たちが離婚した時のことなどを考えなければならないのか。自分たちはそんなに将来離婚しそうな仲の悪いカップルに見えるのか。自分たちはまだ若く、目の前には輝かしい未来が広がっている。そんな後ろ向きでつまらない大人の言い分など聞きたくないととことん強気で自分の意見を主張するが、彼らは全く聞き入れる様子はなかった。
困った二人はどうしたらいいかと相談する。そこで哀は驚くべき案を出す。今日から避妊をやめて子供を作り、デキ婚で一気に押し通してしまえばいいと言うのである。世間知らずの哀らしい考えなしの向こう見ずな策であり、そんなことをしてしまったら親たちは益々怒るのではないかと危惧したが、そこまで彼は自分に対して真摯に向き合ってくれているのだと、真恋人は彼の愛と言葉を信じることにした。そうして子作りに励んだ結果、すぐに真恋人は妊娠した。二人は抱き合って喜び、早速親たちに報告に行った。二人の大胆すぎる行動に愕然とする一同だったが、そこまで本気なら仕方がないと二人の結婚を認め、結婚式や新生活に向けての準備をし始める。全てが上手くいって幸せの絶頂の中にいる二人だったが、検診で訪れた産婦人科で医師から衝撃の言葉を耳にする。真恋人の体内にいる子供は重度の障害を抱えており、自分で立って歩くこともできないだろうというのだ。真恋人は非常にショックを受け、哀や家族にどうしたらいいのかと助言を求める。そんな子供を産んでも一番苦労するのは誰でもない母親である真恋人自身であるし、ただでさえいとこ婚という世間に後ろ指を指される要素を持っている上に、更に辛い苦しみを背負うことになる。だから今回は悲しいが諦めるしか道はないという都のアドバイスに従い、真恋人は泣く泣く中絶した。
二人の結婚を許したのはあくまで彼らの間に子供ができたからだということで、今回の中絶により結婚の話は取りやめになる。だが哀はだからといって交際までをもやめたわけではないと以前と変わらず親しく真恋人に接するが、心身ともに大きなダメージを受け、意気消沈としている真恋人は哀の誘いにも応じる気にもなれず、逆に積極的に彼を避けるようになり、二人の距離はどんどん広がっていった。
ある日、京一郎は会社の重役たちと共に出張で山口まで足を運んだ。旅先ということで魔が差したのかどうか本心はわからないが、ここは一流店ではなく敢えてアングラな二流店を選ぶのが本物の通だと、庶民が行くようなフグ料理専門店に入り、てっちりを注文する京一郎。料理が運ばれ、山口自慢の味覚に舌鼓を打つ彼だったが、突如として口から泡を吹いてその場に倒れてしまう。驚いて必死で京一郎に声をかける一同だったが、彼からは何の返答もなく、陸に打ち上げられた魚のように体をピクピクと痙攣させるだけだ。呼んだ救急車もなかなか来ず、慌てふためく一同のもとに、隣の席に座っていたオールバックの男が駆け寄り、京一郎の体を起こすと、「必殺! エトワール・アンジュ!!」と気合いの入った掛け声を上げて彼の背中に渾身の一撃を見舞う。すると、京一郎の口から先程食べたフグが飛び出した。その後、ようやく救急車が到着し、病院に搬送された彼は息を吹き返した。医師によると、あの時とっさの判断でオールバックの男がフグを吐き出させたのが幸運だった、そうでなければ命が危なかったとのことだった。会話ができるようになるまで回復すると、京一郎はオールバックの男を病室に呼び、深く礼を言った。彼の名は百合野吾郎といい、年齢は22歳で、農業をやっているという。彼によると、こんなことは山口ではよくあることで、地元民である自分にとっては応急処置など慣れているらしい。何か礼をさせて欲しい、自分にできることならなんでもすると頼む京一郎に、吾郎はYH硝子で正社員として働かせて欲しいと言う。生まれた時から実家の農家を継ぐことに決まっていた吾郎にとって、都会でのサラリーマン生活は憧れであった。京一郎は快くそれを承諾し、吾郎は妻子を故郷に置いて単身京都へ旅立った。
事件から数週間後、哀の勤める経理部に、スーツ姿の吾郎がやって来た。京一郎は吾郎の世話役に、信頼の置ける甥の哀を選んだのだった。哀は吾郎に伯父を救ってくれたことに対して謝意を示し、早速仕事の仕方を教えようとした。しかし吾郎は哀の説明を遮り、この会社で一番の美人は誰か、女子社員の平均年齢は何歳ぐらいなのかなどと、下らない質問ばかりぶつけてくるのだった。
徳川家康が晩年、幼い三人の子供を集め、何か欲しいものはあるかと聞くと、尾張家初代の義直は「綺麗な道具」と答え、それが現在の徳川美術館の所蔵品になっているという。だが憂は、本当に綺麗なものというのは、そんな道具のような目に見えてハッキリとした値段がつくものではなく、男女の性別を超えた真の友情であると考えていた。彼女は周防正行監督の映画、「Shall we ダンス?」の大ファンで、自身も競技ダンスの全国チャンピオンだった。主人公の役所広司は電車の窓から見えた草刈民代の美しさに心を奪われ、彼女が講師を務めるダンス教室に入会するが、ダンスに熱中するうちにその淡い恋心も消え、仲間たちと年齢、性別、職業などの全ての垣根を超えた真の友情を築いていく。それこそがこの世で最も美しいものであり、永遠に色褪せない最高の宝物なのだ。そう信じて疑わない憂は、ダンスのパートナーとは生涯唯一無二の友であり続け、哀にも、ダンスを通して性別を超えた真の友達を作れと言い聞かせていた。憂に連れられてはじめてダンスホールに行った時のことを、哀はよく覚えている。豪奢な衣装に身を包んだ、高い気品と優雅な雰囲気をまとった紳士淑女の群れ。男女が体をピッタリくっつけ合って踊っているが、下品ないやらしさなど微塵も感じられない。そこには、誰にもおかすことのできない神聖さと、弾け飛ぶほどのまばゆい情熱があるだけだ。哀はたちまち魅了され、その日からダンスを習い始めた。他にも色々と習い事をさせられていたが、一番力を注いだのはダンスだった。だが、最近はそのダンスとも縁遠い生活を送っており、大会にも不参加の日々が続いていた。というのも、数ヶ月前に長年パートナーであった女性がイギリスに留学し、現在相手がいない状態にあったのだ。なかなか新しい相手が見つからず困っていた哀だったが、ある日子供の頃から教えを請うている講師から電話が来て、あなたにピッタリのパートナーが見つかったと言われたのだ。喜んで教室へ向かう哀だったが、あにはからんや、そこで待っていたのは以前こっぴどくフッてしまった柚子だった。柚子も昔からダンスを習っていたのだが、別段思い入れのある趣味ではなかったので見合いの席では口にしなかったらしい。しかし、哀がパートナーを探していると聞き、これを期にダンスに復帰することにしたと言う。激しく狼狽するだったが、講師は哀の断りもなく次々と今後の段取りを決め、彼は期せずして元見合い相手とペアを組むことになってしまったのだった。
予想外の事態は更に続いた。柚子と共に久しぶりに出場した大会に、なんと吾郎がいたのである。周りにダンス経験者など一人もいない吾郎だったが、女性と合法的にボディタッチできるというふしだらな理由で高校卒業後独断でダンスをはじめ、たった数年間のキャリアで山口の県大会ではかなり上位まで行ったという程の実力の持ち主だったのだ。ここでもひとつ腕試しだと言う吾郎は、京都に来てまだ一ヶ月ほどしか経っていないというのに、バッチリパートナーを見つけていた。そしてなんたることか、吾郎は新参者にもかかわらず、その大会でいきなり一位を取ってしまう。戸惑い、そしてショックを隠せない哀だったが、これは何かの間違いだと何とか自身を奮い立たせ、今まで以上に熱心にレッスンに身を入れるのであった。
柚子とのダンスにもなかなか慣れてきた頃、哀は彼女の家に友人として招かれた。一歩家の中に足を踏み入れた哀は、思わず目を見開いた。柚子の部屋は勿論、家中がフィギュアなどのグッズ類やDVDや本などで埋め尽くされ、法貴家全体がオタク部屋となっていたのだった。呆然とする哀に、柚子はコレクションの中から一枚のDVDを取り出し、この作品を知っているかと問う。それはテレビCMも放送され、世界中で人気を博したアニメ映画であり、見たことはないが名前くらいは哀でも知っていた。すると、なんとそれは柚子の要望一つでアニメ制作会社に作らせたものだと言う。応仁製薬は、京アニに並ぶ一流アニメ制作会社、いけずアニメーション、通称いけアニのスポンサーであり、そこの娘である柚子が自分の好きな漫画のアニメが見たいと言い、スポンサーの機嫌を損ねてはいけないと、いけアニはそのアニメを作ったのだ。正に鶴の一声である。まるでフィクションのような話だと、にわかには信じがたい哀だったが、やはりこの世は金がものを言い、スポンサーの力というのは想像以上に大きいものだということを思い知らされた。それにしても、同じ社長令嬢だというのに、真恋人と柚子とではひどい違いだ。真恋人はたとえYH硝子がいけアニのスポンサーであっても、自分の好きな映画など作らせないだろう。そんな、どこまでもワガママで自分の思い通りにならないと気がすまない柚子を、やはり自分は好きになれないと哀は思うのだった。
日頃の変化は他にもあらわれた。同僚となった吾郎はダンスだけでなく、何事にも長けた完璧超人だったのだ。独学で勉強したTOEICは満点で英語はペラペラ、凄まじい早さで仕事を習得し、抜群のコミュニケーション能力でたちまち会社中の人間と繋がりを持っていった。そんな吾郎に哀は嫉妬したが、京一郎の命の恩人なのだから仕方ないと、できるだけ彼のことは視界に入れないようにした。しかし、彼とは会社以外でも顔を合わせる機会があった。ダンスの大会である。女好きの吾郎はパートナーをコロコロ変え、会うたびに違う女性を連れていた。しかしそれでも吾郎は驚異のテクニックでパートナーをしっかりリードし、見事な高得点を叩き出した。それまで「王者の血を受け継ぎし競技ダンス界の貴公子」と呼ばれ、実力はともかくあの憂の孫だということで周囲からもてはやされていた哀だったが、吾郎が現れてからは見向きもされなくなり、いつしか吾郎は、その輝かしい活躍から、「神に愛されし光の戦士」とまで呼ばれるほどになっていたのだった。
一方、真恋人は一人陰鬱な毎日を送っていた。哀との交際は相変わらず続いていたが、きっちり避妊をし、決して子供を作ろうとはしなかった。前回の時のように、再び不具のある子供を身籠ってしまうのが怖かったのだ。勿論そんなことはわかっていた哀は、病院でお互いの遺伝子に異常がないか検査してもらうことを提案していた。それだけでは不安なら祖先の代までさかのぼって調べてもらってもいい。それで問題が無ければ今度こそ健康な子を授かるはずだと哀は言った。確かにその通りなのかもしれないが、中絶による精神的ダメージは男の哀には計り知れぬほど大きく、とても気持ちを切り替えて次の子供を作ろうなどという気にはなれなかった。そんな中、京一郎に買ってもらった新車で一人気ままなドライブをしていた真恋人は、今まで入ったことのないガソリンスタンドに車を停めた。一人の男の店員が寄ってきて車の中の真恋人を覗き込むと、彼女のような若い娘がこんな高級車を乗り回しているのかと驚く。それがよっぽど衝撃だったのか、再びその店を訪れた時も、彼は真恋人のことを覚えていた。それから真恋人はそのガソリンスタンドを利用した際は彼と気軽な会話を交わすようになった。大学に入っても女子校という環境には変化がなかった為、親族や学校の教職員以外の男と話すのは新鮮だった真恋人は彼に興味を持ち、段々お互いのことについても話すようになる。彼の名は、椋平和希といい、真恋人より15年上の34歳だった。ある日、いつものようにガソリンスタンドに足を運んだ真恋人は、いやに嬉しそうな和希の姿を目にする。何かいいことでもあったのかと尋ねる真恋人に、和希は今日は娘に会いに行く日なのだと答える。わざわざ会いに行くとは、和希は娘と一緒に暮らしていないのかと疑問に思う真恋人に、和希は自ら訳を話す。和希はバツイチで、前妻との間にできた娘を引き取った。しかし、以前勤めていた工場を解雇されてからはバイトを掛け持ちする日々を送っており、満足な収入を得ることができなかった。そのような貧困と多忙の為とても自分では育てることができず、今は施設に預けている。その子とは一週間、または二週間に一度の頻度で会いに行っており、今日は仕事が終わったら施設に行く予定だという。和希に子供がいるという話に興味を持った真恋人は、このままここで待っていて、仕事が終わったら一緒に娘に会いに行ってもいいかと聞く。真恋人がいいなら別に構わないと答える和希に、彼女は中で缶コーヒーを買い、彼の仕事が終わるのを待つことにした。日も暮れた頃、やっと仕事が終わった和希は真恋人を連れてここから少し離れた児童養護施設に向かった。職員と共に出てきたのは、和希に良く似た元気の良い女の子だった。名前は乃々といい、七歳の小学一年生であった。乃々は真恋人を見て父に彼女かと興奮して聞くが、和希はタダの客だと答える。しかし乃々は真恋人に興味津々で、色々なことを質問した。
それからも真恋人は和希と共に乃々を訪ねたり、和希と乃々との三人でどこかへ出かけたりと、父娘と親交を深めてゆく。無邪気で素直な乃々は真恋人にすぐ懐いた。和希たちと知り合ってからしばらくして、真恋人は和希に、乃々は和希の元妻、つまり母には会っていないのかと尋ねると、和希は遠い目をして、彼女は再婚して海外で暮らしているので、よっぽどのことがない限り会えないと答える。その寂しそうな横顔を見て、真恋人は胸がズキンと痛むのを感じる。つまり乃々は母に捨てられたも同然なのだ。こんな可愛い子を捨てて男と逃げるなんて、一体どういう人間だろうと、乃々の母親に怒りがわき、そして同時に、彼女の無邪気な笑顔が頭に浮かんだ。
「おばさんがパパと結婚してくれたらいいのにな」
乃々はそう口にしたことがあった。自分にもし何かできることがあれば、それかもしれないと考えた真恋人は、それから数週間後、和希に、結婚を前提として付き合って欲しいと伝える。自分は乃々の母親になりたい、そしてあなたと幸せな家庭を築きたいと強い口調で言う真恋人に、和希は驚いた様子だったが、自分もずっとそれを願っていたが、まさかそれが本当になるとは思わなかったと、照れ臭そうに笑い、勿論だと返事をした。更に真恋人は、自分は処女ではなく、いとこと付き合っていたことがあり、また、彼との子を妊娠したが産むことは叶わなかったと話す。そんな自分でも結婚してくれるかと聞く真恋人に、子供のことは残念だったが、もう大学生なのだから処女でなくても驚きはしない。それにこうして付き合って欲しいと言ってくるのだから、そのいとことはもう別れたのだろうと聞き返す和希に、真恋人はそうだと嘘をつく。真恋人と哀の関係はまだ続いていたのだが、彼女は哀に別れを切り出す勇気がなかったのだ。だが、このまま哀と不毛な関係を続けていてはいけない。彼との間にはもう健康な子は望めないと信じて疑わない真恋人は、どうしても和希の子が欲しかった。他人である和希となら大丈夫だと思い込んでいる真恋人は、彼と激しく求め合う一方、哀とする時は彼にゴムを着けさせることを徹底した。和希とのことなど知らない哀は真恋人の気持ちを慮って黙ってそれに従った。そうして哀と和希の二人の男を騙し続ける真恋人だったが、それからしばらくして子を授かったことに気付き、和希に一緒に両親に挨拶に行こうと言う。彼女は最初からこれが目的だったのだ。高卒のフリーター、しかも子持ちで15も上という問題だらけの和希であったが、子供さえできてしまえばこちらのものだ。子供が既に腹の中にいると知れば、両親は和希との結婚を許すに違いない。そう踏んだ真恋人は自信満々で和希を連れて両親の元に向かった。最初は驚いた夫妻だったが、真恋人の思った通り、子供のことを聞くと二人の結婚をあっさり認めた。それというのも、彼らは哀との子供を堕ろしてしまい、深く傷ついている真恋人に深く同情していたのだ。今度こそは無事に子供を産ませてやりたい。そう願っていた夫妻は、和希は正直高乗家の婿としてふさわしくない身分の男だと思ったが、真恋人が愛した者なら仕方ない、それにやはり結婚は哀のような血縁関係のある者でなく、他人とするのが一番だ。そうして両親の了解を得た真恋人は、次の休みの日に哀を喫茶店に呼び出す。ここのところ仕事もダンスも上手くいっておらず、ストレス漬けの毎日を送っていた時に、久しぶりの真恋人からの誘いだ。これは行かない訳がないと、喜び勇んで向かった哀を待ち受けていたのは、突然すぎる別れの言葉だった。自分は他の男の子を身籠っていて、もう彼と結婚の約束もしている。だから、申し訳ないがキミとは結婚できないと頭を下げる真恋人の姿を見て、哀は激しく取り乱し、必死で説得を試みたが、彼女は聞く耳を持たず、ただ謝罪の言葉を口にするのみだ。たまらず哀は外に飛び出し、近くにあった池の柵によじ登り、そのまま池に飛び込んだ。競技ダンスとバレエというスポーツを習っていたので身体能力にはそこそこ自信があったが、水泳だけは全く駄目で、水の中に入れば確実に死ねると思ったのだ。池の奥底に沈んでいく途中、大きいゴミに右目をしたたか打ちつけたところで、哀の意識は闇に沈んだ。しかし、人生そう上手くいくことはなく、死にきれなかった哀は病院で目を覚ました。池は喫茶店からそう遠くない場所――つまり町中にあり、入水自殺を図った哀を見ていた者は沢山いたのだ。目撃者の通報によってレスキュー隊がその場に駆けつけ、哀はすぐに救助された。それからしばらくして搬送された病院で目を覚ました哀は、池のゴミで右目を強く打ったことによって、右目の視力を失っていた。
哀の自殺の件はたちまち周囲に伝わり、真恋人が二股をかけていたことを知った和希は激怒して真恋人を責め立てる。真恋人はもうこんなことは二度としないからどうか許して欲しいと土下座をして謝るが、和希は怒り狂ったままで、そもそも腹の子は自分の子なのかと詰め寄る。真恋人は哀とする時はちゃんと避妊をしていたのでこの子はあなたの子だと言うが、和希はそれでも信用できない、DNA鑑定をして証拠を見せろと命令する。子供が和希の子だということに絶対的な自信があった真恋人は、素直にそれを受け入れてDNA鑑定をする。果たして、腹の子は和希の子で間違いなかった。その結果を知って大分落ち着きを取り戻した和希は、もうこんなことはしないという言葉を信じると言って真恋人の不貞を許した。しかし、世間の口に戸は立てられぬとはよくいったもので、真恋人が二股をかけていたことはあっという間に大学の友達の間にも広まった。二股をかけるなんて最低だ、そもそもいとこと付き合うということ自体があり得ない、そんなのは近親相姦だ、気持ち悪いと、友人たちはみな真恋人に嫌悪感を抱き、次々と彼女と縁を切っていった。そんな中でも、鈴木香菜という同級生だけは真恋人に理解を示し、真恋人は全く悪くないし、哀のことももう子供じゃないんだから心配しなくてもいいと優しい言葉をかけてくれた。真恋人は感動し、香菜だけが本当の友達だと実感する。しかし香菜はそんなことは毛ほども思っておらず、真恋人みたいな金持ちの友達がいれば、高級料理を奢ってもらったり、一緒に派手なレジャーを楽しんだりと色々と都合が良いからという理由で彼女を利用しているだけだった。真恋人と和希の結婚式にも出席した香菜は、信じられない程豪華な料理を堪能し、彼女と絶縁した者たちをなんてバカな奴らだろうと心の中で鼻で笑った。
二年生が終わると、真恋人は出産の為に大学を休学した。その後、二人の間には娘が生まれ、乃々は姉になった。真恋人に良く似たその子は子々と名付けられ、夫妻も隆範も子々の誕生を大いに喜んだ。同居は嫌だろうと、京一郎は新しい家を椋平一家の為に実家から近い場所に建ててくれ、車も新車を二台買ってくれた。もう高乗の孫になったのだからと、乃々を私立の一流校に通わせてくれ、高卒の和希をYH硝子の営業部で働かせてくれた。夫妻は子々は勿論、乃々のこともまるで実の孫のように可愛いがり、和希と隆範は気の合う義兄弟となった。それから一年後、子々が一歳になると真恋人は大学に復学し、同級生より一年遅れて三年生になった。大学生として勉学に励む傍ら、家庭では和希の妻、そして二児の母として、とても幸せな生活を送っていた。
ある日、真恋人が家族を連れて実家に行くと、京一郎は哀について何か聞いていないかと尋ねる。哀はあれから退院したのだが、会社に来なくなってしまった。京一郎や都が家を訪ねても出ず、ずっと家に引きこもっているらしい。使用人はまだ家にいるので死んではいないだろうが心配だと渋い顔をする彼の言葉を聞いて、真恋人は不安な気持ちに駆られる。もしも哀が二度と社会復帰できなくなってしまったらどうしよう。もしそうなってしまった場合、その原因は自分にあることになってしまう。以前の入水自殺の件も、香菜はあなたは全く悪くないと言ってくれたが、やはりどう考えてもそれは自分が急に哀をフッたことが理由であるし、あれから自分は哀に何のフォローもしていないし、そもそも会ってすらいない。たまらなくなった真恋人は、実に二年ぶりに野々口家を訪ねるが、京一郎たち同様、使用人に追い返されてしまう。しかしここで引き下がる訳にはいかないと、付き合っていた時に受け取った合鍵を使い、誰かに気付かれないよう、裏口からそっと家に入った真恋人は、哀の部屋のドアをノックしたが、返事はない。ドアノブを捻ってみても、鍵がかかっているのか、開く様子はない。今度は哀の名前を呼んでみると、何かガタリと大きな物音がし、それから少し経った後、ゆっくりとドアが開かれ、変わり果てた姿の哀が顔を出した。髪はボサボサ、ヒゲは伸び放題、着ているパジャマはヨレヨレと、立派な紳士然とした以前の面影はどこにもない。そのあまりの有り様に一瞬言葉を失う真恋人だったが、元気そうで良かったと作り笑顔で言い、久しぶりに会ったのだから色々話そうと居間に連れ出す。真恋人の姿を見て驚く使用人だったが、哀は彼女に紅茶を出すよう指示する。紅茶が真恋人の前に置かれると、それを飲んだら帰ってくれと突き放すような声で告げる哀。しかしここで帰っては意味がないと、夫妻が心配していることや、今はどうやって過ごしているのかと色々な話をするが、哀は終始黙っており、一言も言葉を発しなかった。しばしの沈黙の後、真恋人は謝罪の言葉を口にし、深く頭を下げる。それまでの仏頂面を崩し、驚きに目を見開く哀だったが、真恋人は構わず続ける。今回の件は本当に悪かった、全て自分の責任だ。そして、和希と結婚してしまったけれど、本当に愛しているのはキミだけだ。自分はどうしても健康な子供が欲しかった。その誘惑に負けてつい和希と結婚し、子供ももうけてしまったが、子供のことがなければキミと結婚したかった。無論全て嘘っぱちだが、真恋人は一気にそう述べた。そして再び沈黙が訪れると、哀は次第に嗚咽を漏らし始めた。僕はずっと君だけが好きで、それで色々京一郎たちを説得したりして頑張って来た。でも、もう君は結婚して子供まで産んでしまったのに、今更そんなことを言いに来て何だと言うのか。涙で顔をぐしゃぐしゃにし、いつもの敬語ではなく、昔のような気安いタメ口でしゃくり上げながら話す哀を、たまらず真恋人は胸に抱きしめる。涙や鼻水が服につくが、そんなことは一向に構わない。真恋人は哀にベッドに行こうと誘い、そのまま二人は身を重ねる。既に人妻である真恋人と関係を持ってしまったことに呆然とする哀だったが、真恋人はまた来ると言って帰って行った。
それを期に、二人は人知れず復縁し、哀も職場に復帰した。身だしなみをきっちり整え、長らく離れていた自分のデスクの椅子に座る哀だったが、この一件で、社会人としてのやる気を完璧に失っていた。コネ入社だからといって自分を目の敵にしている女性の先輩の怒鳴り声も全くこたえないし、吾郎の嫌味もちっとも気にならない。最早今の彼にとっては、全てがどうでもよくなってしまっていた。競技ダンスなどの趣味もみんなやめてしまったし、もううるさい祖母もいないのだからと、家ではリラックスできる部屋着で低俗なテレビばかり見ている。今まで保ち続けていた名門野々口家の当主としてのプライドなど微塵もない。柚子にもダンスのペアを解消されてしまった。柚子は、実は見合いの席ではじめて顔を合わせた時に自分は哀に一目惚れしていて、縁談を断られた後でも、あなたに少しでも近づきたいと思ってダンスを再開したのだと言う。しかし今回の自殺の件で幻滅した、ダンス自体もやめるし、あなたとももう会わないと告げて去って行く柚子の後ろ姿を見ても、哀は何も感じなかった。
最初は哀に対して抱いている罪悪感を消す為、そしてもう彼が自殺などしないようにと見張っておく為に哀と復縁した真恋人であるが、段々それは単なる自己満足に変わり、更には外で別の男との逢瀬を楽しむというつまみ食い感覚に変わっていった。和希の手によって女の幸せを知った真恋人は、家では和希の大人のテクニックに酔いしれ、外では拙いながらも自分を一所懸命悦ばせようと奮闘する哀のウブな魅力を楽しむという淫らな生活を送っていた。不倫とはそもそも生活に余裕のあることだからできることだし、いいとこ取りだから楽しいと言われるが、真恋人の場合は正にその通りで、また、哀のことを絶対に自分を裏切らない支配できる身近な男とまで認識していた。金持ちの男が外に堂々と妾を囲うのは当たり前のことなのに、どうして女は駄目なのか。そんなのは男女差別だ、金があるなら何をやってもいいと、真恋人は実家の財力故に非常に傲慢になり、まるで自分を男のように思っていた。そして、彼女は21歳の学生の身分で、夫も子供も愛人もいるという凄い奴になっていた。
今や真恋人の友人など香菜ぐらいしかいないのに、なぜか最近異様に妻の外出が多いことに不信感を覚えた和希は探偵を雇い、哀と真恋人の浮気の証拠を掴む。実は彼は前の妻とは相手の浮気が原因で離婚しており、写真に写る哀とイチャつく真恋人の姿を見て怒髪天を衝いた。だが、今ここで離婚しては、乃々はともかく、子々は真恋人に取られてしまうかもしれない。それに何より経済的な問題がある。再び極貧生活に戻り、子供たちを施設に入れるようなことになっては余りにも憐れだ。それにまだ子々は一歳と小さい。子供たちのことを色々考えた和希は、この浮気については自分さえ我慢すればいい、今はまだ離婚の時ではないと、気づいてないフリをすることに決めた。しかし、いざ離婚する時の為に、今から弁護士に相談に行ったりなどして、着々と準備を進めていた。
真恋人は、キミが一番だよ、愛してるよと熱っぽく哀に愛の言葉を囁くが、哀は真恋人が自分を愛していないことを知っている。真恋人は和希を心の底から愛していて、今の生活が幸せで仕方がないのだ。しかし和希は真恋人のことなどすっかり嫌いになっていて、彼女の本命は哀だと思っている。どこまでもすれ違う、三人の心。
真恋人との不倫について、乳母からは、真恋人も哀も互いに相手に甘えている、そんな相手とは別れてちゃんと自分を大切にしてくれる女性を見つけるべきだと言われる。確かにそれは正しいのだろう。そんなことはわかっている。しかし、それでも、好きで、諦めきれなくて、大切な人なのだ。哀が真恋人を愛さずにはいられないのには、二つの理由がある。一つ目は、真恋人が哀が今まで見てきたどの女よりも美しいからだ。無論、そんなことは愚かなことだというのは理解している。そんなものは所詮見た目だ。いくら今が魅力的だろうが、歳を取れば豊かな毛は薄くなり、艶々とした頬はたるみ、張りのある乳は垂れ、女としての魅力を失い、タダの薄汚れた老婆になるだろう。それでも、哀はこの眩いほどの愛らしい顔と魅惑的な肉体に心を奪われてしまうのである。二つ目は、彼女という人間には、自分が幼く幸せだった頃の思い出が詰まっているからだ。昔は哀もまだ子供で、祖母も生きていて、彼女の庇護下で安心して日々を過ごすことができた。真恋人と隆範と平和で楽しい毎日を送っていた。未だ変わらない真恋人の無邪気な笑顔を見ていると、あの時の穏やかな思い出が脳裏によみがえってきて、胸がつまるような思いがするのである。そんな、幼く、愚かだが、たった一つの、一途な恋。
哀は、生まれてからずっと同じ家に住み、同じ学校に通い、今は伯父の会社で働いている。そんな彼にとって、長年親しんだ真恋人と別れ、別の相手を探すのはとても勇気のいることなのである。弱虫の彼は、婚活パーティーなどに行き、新しい環境に一方踏み出すのが怖いのだ。
真恋人の場合も同じことだ。気が強いからといって、彼女はけして強い人間でない。結局真恋人も弱虫で、弱いゆえに哀との関係を断ち切れず、こうして傷つけることしかできないのだ。
こんなものは真っ当な恋愛とは言えず、世間知らずの弱虫の子供がただ裸でじゃれ合っているだけの話だ。幼い頃のままごとがそのまま性行為になっただけで、二人の中身は何一つ変わってはいないのだ。この気持ちのいいぬるま湯にいつまでも浸かっていたい。そんな甘えた心の二人が、この古い家で、弱虫同士今日もひっそりと寄り添っている。
真恋人は哀に対して恋愛感情は抱いてはいないが、ヘタに寝てしまったことで妙な情が生まれてしまい、ひどく厄介なことになってしまった。その代わりと言ってはなんだが、哀のことはセフレとして愛している。セフレには二種類ある。単純にセックスをするだけの相手、もう一つは普通に友達として遊んだりするが、セックスもする相手とあり、哀は後者にあたる。テクニックは確かに和希の方が上だが、血が繋がっているせいか、それとも長い付き合いのせいか、哀との体の相性はとてもいい。また、気心の知れた同年代の男の子といった感じで、一緒にいてとても居心地がよく、哀は哀で誰にも代わりが務まらない大切な存在なのだ。
幼稚園から周りは女のみという徹底した女社会がこの悲劇を呼んだとも言える。もし憂が死んだ時に真恋人に恋人がいたら、彼女は哀に同情し、励ましはしても、生まれた時からの幼なじみである彼と恋愛関係にはならなかった。哀も哀で、真恋人のことを愛していても、彼女には既に相手がいるのだからとそっと身を引き、他に好きな相手を見つけることができたかもしれない。京一郎と都はこの哀と真恋人の件で別学の恐ろしさを思い知り、乃々は男女比ができるだけ偏らない共学校に通わせ、子々も同じような学校に入れさせるつもりでいた。
真恋人は大学を卒業したらYH硝子で働くことが決まっている。彼女は美しいし、何より社長の娘だ。きっと男性社員にすこぶるモテることだろう。そうなったら、タダの腐れ縁である自分のことなど忘れてしまうかもしれない。そうなる前に、まだ彼女が女子校という箱庭を出るまでは、せめて一緒にいたい。タイムリミットはもうすぐそこまで迫っているのだ。
ある日、哀は真恋人に一つの指輪を貰い、プロポーズされる。一瞬一体何のことやらわからない哀だったが、真恋人は、まだ今は子供たちが小さいから離婚はできないけど、子供たちが自分がいなくても大丈夫なくらい大きくなったら和希と離婚して必ず迎えに来るから、それまで待っていて欲しいと言う。これはその結婚の約束の印で、最近徐々に増え始めてきた男性用の婚約指輪だと言って、真恋人は哀の指にその指輪を嵌める。真恋人と和希の結婚指輪とはまるで似ても似つかないデザインなのは、彼女のせめてもの心遣いであった。ずっと憧れだった、左手の薬指に嵌められた指輪を見て、哀は涙を流した。
それから月日は流れ、哀は26歳の誕生日を迎えた。真恋人からは、誕生日の前日にこのようなラインが届いていた。
「哀ちゃん、26歳の誕生日おめでとう! ホントは12時ピッタリに送りたかったんだけど、マコその時間には寝ちゃうから、今出しといたんだ。また今度そっちに行くから、プレゼント、楽しみにしててね!」
健康的な生活を心がけている真恋人らしい理由だった。しかし、当日ピッタリに祝ってくれなくとも、この世で一番初めに自分の誕生日を祝ってくれたのは真恋人だと思うと、哀は嬉しくてたまらなかった。真恋人からのラインの為か、なぜか今夜は興奮して眠れない。哀はおもむろに引き出しから婚約指輪を取り出して指に嵌め、愛おしそうに指を何度も撫でた。しばらくそうしていたが、ふと、窓の外から差し込んで来る月明かりに誘われるようにして、哀は窓を開け、バルコニーに出た。まるで星が降って来そうな夜空を見上げ、哀は胸の中で、これでいいんだと呟いた。彼は自分の今の境遇を全て受け入れ、全肯定していた。どんなに傷つこうとも、どれだけ涙を流そうとも一向に構わない。惜しみなく、真恋人に愛を与えよう。そう、有島武郎ではなく、トルストイのように。トルストイといえば、彼が編纂したロシアの童話の中に、「人は何によって生きるか」という話がある。掟を破り神の怒りに触れ地上に落とされた天使が、人には何があるか、人には何が与えられていないか、人は何によって生きるかの意味がわかるまで帰って来るなと言われる。天使は貧しい靴屋の元で修行をしながらその答えを探す。そして彼は、人には愛がある、人には自分には何が必要なのか知る力が与えられていない、そして、人はただ愛にのみによって生きる。愛こそが神なのだという答えを見つけて天に帰って行く。愛が神ならば、自分はその愛という名の神のもとに生きる。哀はそう覚悟を決めたのだ。
哀は今、真恋人のいとことして生まれてきたことへの喜びをしみじみと感じていた。もし彼女と血の繋がりのない他人だとしたら、子供を中絶した時にそのまま離れてしまい、復縁することはできなかっただろう。もし兄妹だとしたら、このように恋をすることは叶わなかった。
ありがとう、マコちゃん。君のいとこに生まれてきて、本当によかった。ずっとずっと、大好きだよ。
哀は心の中でそっと呟き、真恋人の顔を思い浮かべた。すると自然に哀の目から涙が溢れた。目を閉じ、そのまま俯いて両手を胸に抱きしめ、涙がついた婚約指輪にそっと口付ける。
哀と真恋人の体には1/8同じ血が流れている。それはさながら運命の赤い糸であり、その赤は、血の赤だ。それは、他人である和希は持っていないものだ。その糸が、これからも二人を繋ぎ止めるだろう。
終