その五
やかんから蒸気と共に音が噴き出して、それは俺を少なからず慌てさせる。ガスを切ると、あっという間に音は小さくなってしまい、先っぽから白い蒸気が優しく大気の中に溶け込んでいく。
仕事のない日は、俺は家の中でのんびりと過ごすか、或いは近所の公園に出かけて野鳥や自然を眺めている。気付いたら、俺は他の誰かと接するのではなく、まるで実家のあるあの田舎に似た場所を捜そうと、緑があって静かな場所を求めるようになっていた。
もちろん、あそことは似ても似つかないし、完璧なまでに静かな場所などこの都市にはない。どんな時間帯でも車の無気力な音や、道路にはあちこちに捨てられた煙草の吸殻、コンビニのゴミ、魚がほとんどいない両岸をコンクリートで固められた川など、全てがあそことは反対のもので、どんな時でも人と人の文明を感じる。
最初の頃は戸惑いの方が大きかったが、今となってはこれはこれで嫌なものではない――と思うようになっていた。それは、順応という言葉が当てはまるのかもしれない。人間だけでなく、生物はその環境に少なからず合わせようとしている。自分を変えて、中身まで変えて、その土地、その空気に馴染もうとして。
でも、そうしている内に、俺の中にあったあの頃の様々な想いが、それらに触れてしまったが故に風化していって、たしかなものとそうでないものとがはっきりと区別されるまでになっていた。
それを思い知らされる度に、俺は少し悲しくて、あの頃感じていたような切なさをも感じる。
今日の天気予報はくもりのち雨、降水確率は六十%だったが、今は既に小雨程度にまで落ち着いている。
久しぶりに見た夢は、まるで走馬灯のように――フラッシュバックのように当時の情景が映し出されていて、まだ生きていた祖父ちゃんの顔や、祖母ちゃんの顔まではっきりと表れていて、自分の知っている人が全員生きていたあの頃が、最も平穏だったんだなと実感させる。
俺たちが通った小学校は既に廃校となり、町内に五つあった小学校はもう一つしかない。高校を卒業してから一度も見ていない赤い屋根の小学校には、あの時の姿が未だに残されていて、あの小さな階段や手すりには、ほこりだけが積もっているのだろう。
大嫌いな教師ばかりがいた中学校は、もうどうなっているのかさえ知らない。聞いた話では、別の町の中学校と統合されたという話を聞いたが、当時の俺にとっては心に闇を落とすような時代であったためか、特に何か揺さぶるものはなかった。
何もかもがずっと同じようにあるわけじゃなく、人だけでなく物でさえもその姿や中身を変えて行き、あの頃の姿は想い出となって、今までの足跡のずっと向こうに、取り残されたまま。
どれが大事だとか、どれが必要だとかなんて考えてもしょうがないけれど、年を重ねる度に雪に埋もれてしまいそうな石ころのように、見えなくなってしまうのではないかという恐怖がある。だからこそ、俺たちはこうやって何かを見つけては、それに近いものだったなと思い、あの頃に回帰するかのような夢を見るのだ。
それだけ年をとったと言えばそうなのだが、俺にとっても誰にとっても、昔の日々というのは今よりも輝いているように見えてしまって、ため息が何度も出てしまうほど感傷的になる。
こういう時、いつものように昼間の公園に行って空を眺めていたいものだ。今、自分が社会人だということも、同じ電車、同じホームで同じような社会人と共に会社へ向かっていくことも、この地に来てしまったことも、遥か青空の彼方に飛ばしてしまって。
友香が俺の家に来て以来、彼女は何度か俺の家に来るようになった。もちろん、彼女が来たいから来ていることもあれば、俺が誘って来ていることもあった。俺の母と彼女の母は仲が良く、その関係で友香はあまり話したことのないはずの母と仲良くなっていた。そんな中で、俺は彼女と話す度に、その姿を見る度にわけのわからない嫌悪感に苛まれ、膨れ上がっていく切なさはもうどうしようもないほど大きくなっていて、そこから波及的に確かな辛さとなって、俺を悩ませている。
夏休みに入ってすぐにあった県大会予選で俺たちの中学校は負けてしまい、三年生である俺たちは引退することとなった。
部活動がなくなった今、俺は受験勉強だけに集中することにした。友香が初めて来た日に決心したことを湾曲させないために、今の自分にとってはっきりと、それも目に見えるものとしての目標を立てることは、他のことから目を背けることにも役立った。
いつも以上に暑かった夏休みはあっという間に過ぎても、二学期序盤の中学校は例年通りに暑くて、授業でもまどろみのような気だるさが俺たちの全てを支配しており、教師の言葉は超特急で脳内を過ぎ去り、タオルを首に掛けたまま俺は二学期の終わりが来ることを望んでいた。
中学時代の友達は嫌いではないし、寧ろ一番友人同士で楽しくしていた時期だったような気はするけれど、高校生になっても、大学生・社会人になっても、中学時代は俺にとっての暗黒時代だったと思わせる。とにかく速く、速く時が過ぎて行ってくれればいいのにと心のどこかで願っている自分がいて、それはこの頃になると明確な願望となって俺の中で居座っていて、教室の窓から見える民家の群れも、空を遮るかのような黒い電線も、廃れたバレーコートの網も、自分の視野から消えてしまえばいいと思っていた。
誰にもその心を打ち明けることもないまま――――俺は、あと半年に迫った卒業が誰よりも待ち遠しくなっている。
それがわかると、毎日のように勉強していたことが馬鹿馬鹿しく思えてきて、それでもやはりここから離れたいという思いは消えることがなく、俺の手を動かし続けた。
部活を引退してから、俺は毎日のように近くの図書館にこもって勉強するようになっていた。平日は中学生がほとんど来ないため、俺を知っている人がいないという意味で、そこは平穏無事に勉強できる唯一の場所で、いつしか、休日でもそこにいるようになっていく。
だから、俺は友香と接する時間が元に戻っていた。
土日のどちらかに毎週来ていたけれど、今は俺がいつもバスに乗って図書館に行くため、いつもの帰り道でしか会話をしなくなった。
だからなのか、友香は「最近、勉強どう?」と訊いてくるようになった。
「大丈夫。うまくいってる」
俺はまともに彼女の顔を見ないまま、そう返事をする。
「そっか……無理、しないでね」
「うん」
返答しているようでしていないような返答をして、俺は彼女に歩幅を合わせず、ただ真っ直ぐ、ひたすら前を向いて……家へ帰ろうとしていた。その時、彼女は何かを言いたげだったけれど、俺が醸し出している凶悪な勉強への意志が、それを阻んでいる。
あの時から、俺は心に余裕がなくなっていた。いや、それ以前から余裕がなかったように思える。
彼女に対しても、周囲の人に対しても、俺はもう心の片鱗を見せようとはしなくなっていた。これ以上、自分の精神が揺さぶられるのも、切なさを大きくされるのもやめてほしくて、ひたすら勉強をした。
付け入る隙を与えないように――俺が誰かを求めているようには思わせないように。
ある日の帰り道、それは起きた。
「待ってよ!」
後ろに振り返ると、まだ明るい藍色の空を背にしている友香の姿があった。さっきまで一緒に歩いていたのに、いつの間にこんなに離れてしまっていたのだろうという疑問が浮かんで、どうして声を荒げたのかなんて考えもしなかった。
「俊くん、どうしたの?」
その言葉の意味がよくわからない当時の俺は、訝しげな顔で彼女を見つめていたと思う。
「どうしたのって……何が?」
「何がじゃないよ。そんな怖い顔をして、どうしたの?」
「……怖い顔?」
そんな怖い顔をしているとは思わないし、彼女の言っている言葉の意味がわからない。それは、徐々に苛立ちを膨らませて行く。今まで、彼女にだけは抱いたことのない感情を。
「何があったの? 俊くん」
何かあったのではないかと考えている友香の姿が、胸の内でくすぶり続ける何かに油を注いで、それは赤くなるというより、さらに内へと黒い深みを増していった。
「くだらないこと言うなよ」
ただそう言って、俺は自分が歩く先へと向き直った。数歩ほど足を進ませたところで、俺の体は後ろから揺さぶられた。視線だけ後ろへ向けると、そこには悲痛な面持ちの友香の顔があった。今まで見たことのない表情が、そこにはあった。
「くだらなくなんかない。私にとっても、俊くんは……」
そこまで言葉が出て、彼女は俯いてしまった。もしも、この時の俺が彼女の存在を受け止めるほどの心を持っていたのなら、あのほほに触れ、栗色の髪の毛を優しくなでていただろう。
でも、俺には余裕がなかった。
「いい加減にしてくれ」
ただ、かすれるような声でそう言って、俺は彼女を振り払った。声が少なからず震えていて、俺はその場を逃げるように去るのを隠すために、なるべくゆっくりと、いつもの歩幅で歩いた。きっと、友香は俺の白いワイシャツの背中を見つめて、呆然と立ち尽くしているから。
家に戻り、階段を上って自分の部屋に入ると、俺は苦しさで死にそうなほど苦しくなっていた。
誰かが俺の心臓をわしづかみにして、その最大限の握力で握りつぶそうとせんばかりに。自然と胸の辺りに手を添えて、呼吸が少しずつ、少しずつ荒くなっていく。自分の視線は木目の床に行っているはずなのに、視界にはさっきの光景が浮かび上がっていて、思わず目を瞑ってしまうほどだった。けど、その時に浮かんでくるのは友香の――彼女の、悲痛な顔だった。
今にも涙が浮かんできてしまいそうな、あの大きな瞳。
いつものピンクのヘアピンは少しだけ輝いていて、俺の双眸を射抜く。
俺は頭を抱えて、ドアの前でうずくまった。頭痛がするわけでも、吐き気がするわけでも、針が刺すような腹痛がするわけでもないのに、俺は誰よりも小さく体を小さくしようとして、強く――強くまぶたを閉じた。
彼女の最後の表情が目に焼き付いて、離れない。
もうやめてくれ。
やめてくれ。
今はただ、それだけを願っていた。
俺を苦しめる勉強よりも、優しく言葉をかけ続ける友人や家族よりも、吐きだめのようなきれいごとしか言わない教師よりも、この世界よりも…………俺は、友香から逃げ出したかった。
彼女といると自分が罪を犯していそうな――穢れているような感覚が体を覆い尽くそうとして、その中にはあの時の切なさと苦しみを孕んでおり、もうどうしようもないと悟った時、俺は……
俺は、彼女から離れたいと、本気でそう思ったんだ。
絶対に泣かないと思っていた。
でも、上空を見上げると、そこには彼といつも一緒に見ていた夕方の空が広がっていて、端は夜が訪れようとして、もう一つの端ではオレンジ色の世界がまだ手を伸ばしていて、夏が通り過ぎようとしている風が少しだけ冷たくて、私はどうすればいいのかわからなかった。
それと一緒で、彼のことがわからなかった。
昔のように一緒にいられればと願っているだけなのに……あの頃とは何一つ変わらないものを抱いているのに、世界はあの頃とは変わってしまっていて、それは彼さえも変えてしまっていた。
……ううん、違う。私も同じように変わってしまっていたのだ。彼と出逢ってから、私は自分でもわかるくらいに変わった。
だから、私と彼はいつまでも一緒にいることができないのだろうか?
この世界を包み込む淡い空も、周囲に広がる田んぼの風景も、山の向こうから遥か先まで続く高速道路も、落書きされた灰色の電柱も、私がここに来た時と一切変わりはしないのに……
――どうして、私と彼は変わってしまったのだろう。
図書室で感じたあの安堵と温かさだけが私の心の在り処で、そこからまるで異世界のような小学校のグラウンドへと連れ出してくれた彼の手の輪郭が、未だに私の指先には残っていて、ずっと……ずっと、胸の中で鐘を鳴らし続けているのに。
ねぇ、俊くん。
あなたは、私を見てくれていましたか?
私があなたを見ていたようなものではなくても、あなたがあなたらしく、私を見てくれていましたか?
少しでも、あなたの中で居場所を作ることができていましたか?
ねぇ、俊くん。
私たちは、これからどこへ向かうのでしょうか――
いもしない彼に向かって、私は……そう、心の中で呟いていた。
上空で家路についているカラスの群れを見て、私も家に帰らなくちゃと思い、ゆっくりと、ゆっくりと足を進ませる。
絶対に、泣かないって決めた。