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その四



 ショックなことと言えば、たしかにショックなことではあった。


 大好きなプロ野球チームの主力選手がケガをしてしまったということ。毎年のように本塁打を量産していて、今年も三番に座るバッターと組んで二人で百本超えしてくれるんじゃないかという期待を抱いていたが、無理なのだと悟った時、同時に優勝することも無理なのではと思ってしまった。中学一年生の時に、そのチームは優勝して去年は二位だっただけに、今年に期待していたのだ。

 あまり知られていない野球ファンである俺は、毎日のように部活動に励み、帰ったら受験勉強と忙しい毎日を送っていた。そうしていると毎日が本をパラパラとめくる時のように速く過ぎて行って、気が付けば七月になっていた。

 蝉の声が一日の大半聞こえてくるようになり、最初は耳障りだと感じていたけれど、段々それが当たり前だと感じるようになった頃に、夏の空に浮かぶ雲が、その白さをより一層濃くしているのだと気付く。

 秋空や冬の空では、青いキャンバスの上に薄い白を塗っただけのように見える雲が、この時期では自分たちの存在を地上にいる生物全てに告げるかのように、その体と密度をどんどん膨らませて、ゆっくりと漂っている。日陰でそれを見ているのは飽きないけれど、やはり暑すぎて、体から水分と塩分が自分の意思に従わずに逃げて行ってしまう。それをどうにかして止めたいけれど、拭いても拭いても溢れてくるそれは自分が生きている証拠なのだ――と、俺はベランダの隅で考えていた。

 最近、俺は一人で勉強をすることが多くなっていた。

 他の同級生は地元高校を受けるため、受験勉強など気にせずに、昨日のテレビで何があったとか、あの芸人が面白いとか、そういった会話を教室のあちこちでしていて、来年から始まる高校生活に何の懸念も抱かずにいた。というより、そう見えていた――という方が正しい。

 一人、黙々と勉強する俺は、友香と一緒に帰る時に見る夕焼けの田舎風景が愛おしくなっていた。あれを見ることが出来さえすれば、俺はその日の俺に「お疲れ様でした。これがご褒美だよ」というようなことを言われたみたいで、ほんの少しだけ微笑んでしまうのだ。それと同時に、口から吐息が漏れてしまって、それに気付いた友香は「どうしたの?」と訝しげに顔をかしげるが、俺は「なんでもない」と言って、微笑みかける。俺にしてみれば、それはため息でも何でもなく、安堵の吐息だったから。

 良い意味で、俺は妙に充実した毎日を送っていたようにも感じた。その吐息が出る限り、は。




「世界って、どうして丸いんだろうな」

「どうしたんだよ、急に」

 土曜日の部活で、休憩中の俺と優太は、蒸し風呂のような体育館の片隅でそんなことを言っていた。既に、着ていた白い体操着は汗で水を拭き取った後の雑巾のように重くなっていて、俺たちの体に密着していた。

「ふと、確認しようと思って」

 疑問を投げかけてきた優太は、体育館の天井を見上げた。ここの天井は、クモの巣のように鉄の棒が組み込まれていて、そこには一つのブーメランが挟まっている。

「こうして毎日練習して、毎日汗を流して、その当たり前のことを忘れかけているような気がしてさ」

 彼は時折、よくわからないことを言う。突発的にそういった言葉を投げかけてくるため、拙い脳みそを持つ俺にはどうしても理解できず、とりあえず聞いているだけしかなかった。

「毎日が何かに埋もれていくと、消えそうだな」

「何が?」

 自分の汗が黄金色の床に落ちていくのを見つめながら、俺はつい問い返してしまった。

「いろいろ」

 そう言って微笑んだ優太の顔が、いつかの時みたいに印象深かった。

 彼の言葉の意味を理解しようとすると、家に帰っても明日になっても脳内のどこかに家を作って、考えなければいけないことを邪魔して考えさせてしまうので、なるべく深く追求しないようにしている。

 多感な時期である中学時代は、自分のことに負けないくらい他人のことが気になってしまう頃で、他人がどのように自分を思っているのか、どのように自分を評価しているのかと、今考えてみれば眉唾物であることを、俺はよく考えていた。


 でも、なぜだろう。


 友香に対しては、そういう感情を抱かなかった。彼女がどういう風に自分を思っているのか、どういう風に自分を見ているのかなんて、一度も考えたことはなかったのだ。いや、寧ろ同じ地域に住んでいる友人たちに対しては、そうだったのだろうか。優太にしてみても、俺は彼のことを深く知ろうともしなかった気がする。

 民家も人もまばらな田舎が、共通の原風景になっていたからかもしれない。





 七月の半ば、俺たちがテスト週間に突入する二日前、土曜日の夜だっただろうか。部屋で英語の単語帳を片手に、俺はベッドで横になっていた。呟くかのように英単語を口に出していると、一階から母親の声が届いた。それは、友香から電話――というものだった。彼女とは電話で会話をしたことのない俺としては、なかなか驚かされるものであり、少々戸惑いながら音を大きく立てずに優しく階段を下り、母親から受話器を受け取った。

「ごめんね、夜に電話して」

「いや、いいよ。どうした?」

 どこか照れている自分がいて、どこか照れている電話の向こうの友香も容易に想像できて、なぜだか無意識に鼻をさすってしまった。

「あの、約束覚えてる?」

 約束――と言われても、すぐに思い出せなかった俺は、しばし沈黙する。

「一緒に勉強しようってやつ」

 その弱弱しい彼女の声が聞こえると、俺の口は徐々に開いていって、思わずうなずいてしまった。そして、どうしてかわからないけれど、誰にも聞こえないようにしたのか、俺は再び足音を大きく立てないように慎重に階段を上り、自分の部屋に入った。

「ああ、覚えてるよ」

 自分の声が変じゃないだろうかということを気にしながら、俺は言った。なぜか座ることができなくて、部屋のドアに背中をかけた状態になっていた。


「明日、一緒に勉強しない?」


 それはあまりにも唐突で、彼女が電話をかけてきたということよりも大きな戸惑いを抱かざるを得なかった。自分のことばかりで、彼女と約束したことを忘れかけていたという罪悪感と、それが明日になったのだという焦りが同時に浮かんできて、俺は返事に迷ってしまった。

 いまいち覚えていないけれど、俺はその後、いつものような口調で承諾したような気がする。電話をし終え、受話器を片手に部屋の中央の乳白色のテーブルに目をやると、そこには小さな青い包装紙に入れられたガーネットのネックレスがあって、それを見ていると、自然とため息が漏れた。

 彼女を見る度に感じる切なさと苦しみ、そして見逃してしまった彼女の表情がどんなものであったのかと想像する度に、自分に対する嫌悪感が膨らむ。そう、自分が穢れているような感覚だ。

 数年前に家を出て行った年の離れた兄が使っていたこの部屋は、彼の煙草の煙によって壁は薄汚れてしまっていて、電気の明かりも相まってか部屋全体が重苦しく、煙が充満しているかのような息苦しさを漂わせる。

 だから、ため息が漏れたんだ。








 友香が俺の家に一人で来るということは、たしか初めてだったと思う。小学生の頃は、他の友達と一緒に連れてこさせたような気はするけれど、一人で来たことはなかったはずだ。というよりも、彼女は一人で友人の家に遊びに行くということは一切なかったかもしれない。自分から言うような女の子ではなく、いつも受け身だったと思う。

 平日や地元の祭りなどでしか見ない友香の私服姿は、それなりに珍しいもので、よくよく考えたら俺の私服姿も、彼女にとっては珍しいものだったのだろう。少しだけいつも大きな瞳を大きくして、俺の姿を見ていたから。

 テスト勉強とは言っても、俺は中学三年生、友香は二年生であったため、勉強することはそれぞれ違っていた。それに、俺はテスト勉強よりも受験勉強の方が大切で、関係のない英語のテキストを開いて、オレンジや青の点線の入ったノートに、答えを書き記していた。

 友香は数学の教科書を開いて、見覚えのある公式を使いながら答えを導き出そうと、教科書の数式を見ては自分のノートへと目を移し、姿形では忙しくないように見えていても、彼女の頭の中では様々な数字が飛び交っているのだろうと俺に思わせる。

 俺は彼女が集中している間に、ズボンのポケットに手を入れた。そこには、今日の朝までこの丸いテーブルの上に置かれていたネックレスがある。それの存在に触れることができたということを実感すると、不思議と安堵の表情になってしまった。それと一緒に、心拍数が上昇してしまったような気もした。



 これを彼女に渡せれば、もういいんだ――



 なぜだろう、そう思った。

 何がもういいのか、渡せてしまえば何が起きるのかなんて一切考えもしてこなかったのに、まるで大きな波が押し寄せてくるかのように、黒々とした不安が俺の胸を覆い尽くそうとしていた。

 彼女の服に付いた小さな糸くずや、窓から入ってくる光を受けて小さく反射する彼女の細い指先の爪、きめ細やかな髪の毛が、執拗に俺の不安を触発させていて、ポケットの中の自分の手がうまく出てこようとしなかった。巣穴に逃げ込んでしまった子狐のような、よくわからない心境だった。

「ねぇ、俊くん」

 不意に彼女は僕に顔を向けた。そのため、彼女の瞳の先と俺の瞳の先が重なり合う。少し恥ずかしがりながら、彼女は視線をそらして、シャーペンを手先で回し始めた。

「あのさ、テストが終わった後……部活ばっかり?」

「大会が近いから、そうだと思う。友香は?」

「私も忙しくなると思う。演奏会も近いしさ」

「そっか。みんな、同じだよな」

「そうだね」

 彼女が作ろうとした会話は、どこか無理やりにも似た感じで、バントをしたけれどうまく転がらなかったボールのようで、白線の向こうで立ち止まってしまったみたいだった。

 俺は自然と、ポケットから手を出していた。そこには、あの包装紙はない。未だ、小さな洞穴に置かれたままだった。

 そのまま、俺と友香は勉強をした。合間に彼女と会話して、またシャーペンを握って問題を眺めて、また会話して、微笑み合って、また文字に目を移して。

 それの繰り返し。そうやって一秒が過ぎ、一分が過ぎ、一時間が過ぎて行く。自分たちを囲む世界の時計は歩幅を変えずに前へ進んで行き、俺と友香は夏の暑さを消し飛ばしているエアコンの風に包まれながら、手にじんわりとした汗を滲ませ、互いの距離を変えないまま過ごしていた。

 触れることのない彼女の唇も、あの毛先にも、あの丸みを帯びた爪にも、作り物のような白い肌にも、決して触れることもないまま。




「また、電話していい?」

 石造りの玄関に立つ友香は、そう言った。

「ああ、いいよ」

 俺はすぐに承諾した。そしたら、あの見れなかった表情をしてくれるんじゃないか――という期待を抱いていたから。

「ほんと? じゃあ、また電話するね」

 微笑みの隅には、昨日電話した時に感じてきた彼女の恥ずかしさがあって、それはあの時していた表情のものではないと、確信させる。

「じゃあね、また明日」

「また明日」

 黒い玄関のドアが開かれ、彼女は夏の空気が漂う自然の中に出て行く。きっと、額に汗を浮かばせながら、藍色の空の下を歩いて行くのだろう。

 ドアが閉められた時に聞こえてくる、バタンという音。それは脳内で何度も何度も木霊して、少しだけ……辛かった。

 黒いドアには四隅にガラスがつけられていて、そこから少しだけ外が見える。目の前の道路を挟んで、すぐそこには米のための田んぼが一面に広がっていて、その周囲に生えている緑の草が、夏風に優しく揺らされながら、それぞれがまるで生きているかのように、交互に体をしならせている。

 俺はポケットの中に手を入れ、再び包装紙の感触を確かめた。

 どうして渡せなかったのだろうか――という疑問だけが体中に張り巡らされ、ようやく消えた小さな辛さが、また別の痛みとなって俺に降り注いでくる。

 ポケットから手を出し、掌を見つめた。小指の下の辺りには、ノートに書いた文字の黒が移っていて汚れてしまっている。乾いているわけでもないけれど、汗が噴き出しているわけでもないけれど、掌はなぜかいつもより熱かった。



 後ろに振り向くと、そこには小学生のころに描いたであろうスイセンの絵が飾られていた。これは、たしかラッパスイセンだっただろうか。

 それを見つめていると、俺は友香に感じていた寂しさに囚われた。それは彼女に対して感じているのではなく、重苦しい雨の日の大気のように俺を包み込んでいて、俺自身に対する寂しさだったのだと実感させる。

 俺は、いつかの彼女と同じように一人にされてしまったかのようだった。

 友香のいないこの空間では、俺はかつての彼女と同じように、たった一人でいるのだと。


 プレゼントを渡せなかったのは、あの不安。そして、再び浮かび上がってきた切なさと苦しみ。今日思い知った、自分自身に対する寂しさと胸の痛み。様々なものがそれぞれの色を主張し合って、まるで居場所を求める人のように競い合って、狭苦しい俺の心を侵食しようとしている。

 それもまた苦しくて、辛くて、言いようのない不安と遠くへ行きたいという漠然とした恋心もせめぎ合っていて、結局それらは雨の日の空のような色へと帰結させていった。

 これから自分はどうしたらいいのか、彼女に対してどうしていけばいいのか、さっぱりわからなかった。彼女の俺を慕う気持ちにも、俺をなんとか地元高校に行かせようとしている両親、年老いた祖父母にも、憎しみしか抱かない中学の教師にも、全てが複雑に絡み合うさび付いた鎖のように思えて、それから逃げ出したくなってしまった。

 これらを壊して、俺はただ夜空の向こうで光り輝く北極星のように、どんなに時が経ってもその姿と神々しさを失わない、変わらない場所へと行きたいと思った。

何もかもを受け止めてしまえば、きっと俺は涙を流してしまう。今まで溜めていたものを全て吐き出すかのように、嗚咽を混じらせながら。


 曖昧になるだけならば、俺はもう痛みを感じないようにしようと思った。辛いだけならば、もういいじゃないかという、答えになっていないような答えを出して。




















 山に囲まれたこの村では、海がある地域よりも断然早く太陽が私たちの目の届かない場所に沈んでしまって、真夏の暑さだけを世界に残していた。さび付いた緑のフェンスや、私の腰の高さまで伸びてきている雑草には、時間が残していった確かな欠片が残されていて、あちこちから聞こえてくる虫の音色は一日の終わりを告げようとしていた。

 彼と二人だけでいるのは、いつ以来だっただろう。

 平日、学校帰りにはいつも一緒にいるけれど、それは二十四時間という一日に比べれば、太陽にとっての地球のようにちっぽけなもので、世界から見た時の尺度に合わせると消えてしまいそうなほど小さなものだった。

 もしかしたら、初めて彼と会話らしい会話をした、あの図書室の時以来かもしれない。そう思うと、私もよく一緒に勉強しようだなんて言えたものだな――と思ってしまった。いつも逃げてばかりで、触れることさえしないようにしていたのに、彼のあの日の表情を見てしまって以来、私は私を止めておくことができなくなってしまっていた。



 彼と一緒にいる時間が、もっとほしい。



 もし、人の一生が八十年とするならば、四千二百万分以上の時間がある。その中で、今日過ごした時間などたったの二百四十分程度のもの。たったそれだけなのに、私の心はどんなものよりも満たされていて、まるで雲一つない夜空に浮かぶ満月のようだった。

 彼とできるだけ一緒にいて、できるだけ今の満足な気持ちを味わっていたい。今の私にはそういった願望しかなく、今度はいつ電話しようとか、どんな約束を交わそうとか、自分のことしか考えていなかった。


「うわぁ……」


 私は二カ月前、俊くんと同じように首が痛くなるまで見上げていた時のように、空を見上げた。言葉が自然と漏れ、自然と喜びと嬉しさが自分にもわかるほど顔に広がっていって、いつも寂しげで切ないように思えていた夕方の空が、鮮やかな朝方の空の時よりも美しく感じて、いつまでも、いつまでも見つめていたかった。


 彼と一緒にいればいるほど、世界にたくさんの色が溢れていくかのようで、それが明確な形で私の心を彩るようになっていく。

 ここに引っ越してくるまで住んでいた東京の街並みも、コンクリートで固められた小川も、消えることのない眩い都市の光も、私の中では既に色あせてしまっていて、彼と過ごすこの村が……小さすぎて世界から隠れてしまっているようなこの場所が、私にとっての光になろうとしていた。



 いつまでもこうしていたいという思いとは裏腹に、世界の歩みは決して速度を落とすことなく進み、それぞれの想いは複雑になっていた。





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