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その三



 強い雨の時は、出窓に当たって小石が当たっているかのような音が鳴り響き、その激しさを物語っている。その音が弱弱しくなっているということは、外で降り続いている雨がまばらになっているのかもしれない。






 中学生の時の修学旅行で行った京都は、今日のように雨が降り続いていて、自由行動するのに難儀したのを覚えている。せっかくの金閣寺や銀閣寺を見れるっていうのに、空は低くてどんよりとしていて、観光客だけでなく俺たちが持ってきている様々な傘が、この景観の質を落としているような気がした。

 京都は自分が通う中学校がある土地の気候と似ていて、それはここが盆地であるからだろう。五月だというのに湿気が多く、体がべたつくような感覚になってしまい、少々気持ちが悪い。とはいえ、テレビではなく、自分の目で見る昔の首都、そして過去の権力者たちが造った建造物は、俺の胸という名の鐘を大きく鳴らし、何度も何度もその姿を刻ませる。


 旧都に雨が降りしきる中、俺は土産物屋――というより、今時のストラップなどが売っている店で、とあるものを見つけた。

 小さな宝石。紅いその石は、約六年前の図書室を思い起こさせる。



 ――ガーネット――



 所詮、レプリカ。本物に似せた、作り物。それでも、それが放つ深淵の紅さは、あの時、彼女が持っていた図鑑のそれに勝るとも劣らない光を放っているように見えた。二千円にも満たない、ただのネックレス。

 俺が買ったお土産の品で、家族以外のお土産はそれだけだった。


 京都への修学旅行が終わると、中学校ではすぐさま一学期の中間試験が行われた。俺は学校に残って友人と勉強したりするためか、俺は友香へのプレゼントを渡すことができずにいた。そのせいか、朝のバスの中で彼女の姿を見る度に、経験のしたことのない罪悪感に苛まれてしまっていた。具体的なこともわからず、そのもやもやとした感覚を抱いたまま、俺はテストに臨むしかなかったのだ。




「そういえばさ」

 友人の優太と俺は、教室のベランダでグラウンドを眺めていた。彼とは小学校からの幼馴染で、一番の友人と言える人である。高校生になっても彼と交友は続いたが、大学に入る頃と同時に途絶えてしまうとは、この時の俺は思いもしなかった。中学時代の仲の良い友人というのは、ずっと先も親友同士であると思っていたものだ。

「お前、友香と付き合ってんのか?」

 後にも先にも、彼がこんな質問を投げかけてきたのはこの時が初めてだった。それまでにも、あまり社交的でない友香とよく一緒にいることは、それなりに有名であったし、この質問は今さらだと言えば今さらだった。

「付き合ってないよ。俺たちは、そんな関係じゃないから」

 ふと、俺はため息を漏らした。俺たちをよく知りもしない同級生や部活の後輩が何度か言ってくるものだから、慣れてしまったことではあるが、それでも未だに面倒くさいことではある。

「そっか。ならいいんだ」

 それで終わった会話は、少し暑くなってきた大気の中でかき消されてしまい、彼は学校の敷地の外にある民家を眺めた。少し寂れてしまったその民家は、狭い平面の上に居場所を奪い合うかのようにいくつも建てられていて、田んぼばかりで土地が余っている自分の地域を思い浮かべると、どうしてかもったいないように思えてきてしまい、再びため息を漏らしてしまった。

「お前、本当に西高に行くのか?」

 優太は無理やり話題を変えたようにも感じたが、この風景と雨が降り終わった後の些か湿気臭い空気が、さっきの意味深な言葉を霞ませてしまっていた。

「ああ。受かればね」

「そっか」

 彼には、どうして西高を受けるのかというのを話していた。彼は話を聞くのが上手で、俺が親元を離れて一人暮らしをするということも、知り合いのいない所へ一人で行こうとしていることも、一切止めようともしなかった。普通は、そうなのだろうけれど、ほとんどの人がそうしなかったから、逆にそうしてくれるのはありがたかった。

「受かるといいな」

「まぁ、ね」

 この時の会話は、考えてみれば他愛のない平凡な会話のはずだった。それでも、二十五歳になった今でも覚えているのは、彼がほとんど見せたことのない寂しさを伴った顔をしていたからだろう。




「ねぇ、俊くん」

 いつもの帰り道、友香は俺の横で歩きながら、俺を見上げていた。彼女はいつも歩くのがゆっくりで、俺が自分のペースで歩いてしまうと、きっと彼女は置いてけぼりにしてしまう気がした。だから、彼女と一緒にいる間は、彼女に合わせるようにしていた。

「テスト、どうだった?」

「テスト?」

 中学三年生ということもあり、俺の中ではテストよりも試験勉強が大切だったため、テストなど終わってしまえばどうでもよくなっていた。

「うーん……まぁまぁかな。友香は?」

「私もまぁまぁだった。少し、社会が不安だけど」

 そう言いながら、友香は苦笑する。彼女は、どうしてか「社会」が苦手だった。他の科目はそれなりに得意で、最も成績が良いのは国語だった。逆に、自分は国語が苦手で社会が得意という、真反対。国語は嫌いではないのだが、どうしてか自分の意見を述べてしまい、登場人物の真理に近づくことができないのだ。こういった人間だからか、担任の国語教師とはどうも人間的に合わず、何度も対立をしていた覚えがある。俺がその教師を嫌っていることは同級生だけでなく後輩にも知れ渡っていて、教師もまた俺を嫌っているのは明白であった。


「七月の学期末テスト、一緒に勉強しようよ」


 少しだけ開いた沈黙を突き破るかのように、彼女は言った。いつもの顔で、いつもの口調で。

 でも、学年が違うから意味ないだろ――と言うと、彼女は「それでもいい。ただ、誰かと一緒に勉強した方が、はかどるの」と言ってきた。

 俺個人としては、一人で勉強する方が好きである。中学生になってからというものの、俺は小学生の頃のように行動力を発揮しなくなり、少し一人を好むようになってしまっていた。今思えば、それは自分と摩擦の起きる中学校という世界と、先の見えない不安があったからなのだろうと解釈している。

 でも、俺はあることを思いついた。

「じゃあ、一緒にやろうか」

 だから、俺はそう返事をした。その時、俺は彼女の顔を見ず、いつもの帰り道のいつもの空を見上げていた。

「……そっか……ありがと。…………嬉しいな」

 いつもの声ではない――と確信した。

 こうしていつも一緒に帰る道で、いつも聞いている彼女の言葉の雰囲気ではなかった。それが克明に理解できるほど俺は彼女と接していたのか、或いは彼女の声がまるっきり違うものだったのか――よくわからない。けど、俺は黄昏時の空から、彼女へと視線を移さざるを得なかった。彼女は、どういう顔をしているのかを見るために。言葉の雰囲気が違うということは、顔にはそれよりもはっきりとした変化が浮かんでいるはずだったから。


 でも、遅かった。


 既に、彼女はいつもの顔に戻っていて、深々とした黒に染まりつつある、ずっと向こうの山を見つめていた。その山の真ん中辺りに、高速道路が山と山の間を縫っていて、車体の長いトラックが一台だけ、ライトを照らしながら走っている。

「あのね、今日、部活でね」

 そして、彼女は再び言葉を投げかけてきた。今日、彼女が所属する吹奏楽部で、地元の高校の吹奏楽部と一緒に練習したことや、友達の女子がしてしまったちっぽけな失敗。俺の知らない、彼女が見ている世界の一部を俺に与えている。







 中学時代、俺は小学生の頃のように……あの図書室で話した時以来、毎日のように友香と会話をして、遊ぶようなことはなくなった。当たり前のようなことであったが、高校生になった頃に、俺は彼女と同じように、それが消えてしまったことを寂しく思っていたのだと悟った。

 秋空を乾いた音を奏でながらさすらう風のように、あの小学生時代は通り過ぎていって、それが当たり前であるからと確信していたがために、俺はそれがいかに自分にとって大きな財産になっていたということに気付かず、中学生になってしまった。

 中学生になっても俺はそのことに気付かず、自分の色とは違う世界に馴染めず、その世界が間違っているのだという苛立ちを抱いたまま、肉体だけが毎日のように成長し、声変わりもして、ワックスを買って髪型をセットしてみたりと、曖昧な日常を繰り返していた。

 深く考えもせず、俺はその日常の中で毎日、友香と一緒に田舎を歩いていた。途中まで彼女と帰り道が一緒で、それはものの数分。二十四時間という一日に比べたら、太陽にとっての地球なほどちっぽけなもの。

 だからこそ、俺はここでも気付かなかったんだ。この、たかが数分が彼女にとって、俺にとっても大事であったことを。

 近くの牧場から漂ってくる動物の匂いも、ほとんど車の通らない道での静けさも、道路に落ちている樹の枝にも、その大事な時間は染みついていて、風にさらわれることなく、俺の中で息衝いている。


 今の俺だったのなら、どうしていただろうと――考えることがある。

 彼女が「一緒に勉強しよう」と言葉を投げかけた時、ちゃんと彼女の顔を受けとめながら、「ああ、いいよ」と言っていたのだろうか。その後、彼女が創りだす表情をその双眸の奥に焼き付けるために。それを見ることができていたのなら、後々起こることも、それから何度も遭遇する邂逅と別れにもきちんと向き合えていたのかもしれない。

 はっきりとしたものは未だにわからないのが現状で、二十五歳になった今でも一人で灰色の空を眺めていて、電線から滴り落ちる雨の雫や、微かに聞こえてくる車の音が、今の俺を彩っている。

 それでも、俺は後悔なんてしちゃいなかった。なぜなら、俺にしても誰にしても、気付かないことは多々あることなのだ。少しずつ俺たちの心は肉体と共に成長をし続けていて、その大きさを膨らましていっていたからだ。幼い頃では感じなかったことを感じるようになって、何でもない田舎の原風景が妙に心に残るようになるのも、遠く離れた両親に対して感謝の思いしか湧かなくなったのも、あれほど嫌いだった担任教師に対する申し訳ない気持ちが生まれたことも、俺の心は確かに大きくなっていたからだ。

 失ったものをあれば、手にしたものもある。

 そう思うと、少しは気が楽にはなった。そうでもしておかないと、俺は今の俺を形作れないし、今を否定しかねない。

 きっと、友香もそうであるに違いない。今ではそれを問うことも、聞くこともできないけれど、確信に近いものが俺にはあった。







 いつもの帰り道、いつもの友香。

 心のどこかで、いつまでもそうであればいいのにと願っていたのかもしれない。彼女の生まれつき茶色い髪の毛も、いつも付けているピンクのヘアピンも、ほんのりとピンク色に染まっているほほも、ずっと変わることなく、そばに在り続けていればいいのにと。


 俺は立ち止まり、再び空を見上げた。彼女はそれに気が付き、立ち止まって俺を見る。そして、俺と同じように空を見上げる。青い空には闇が迫っていて、その中を漂う雲には水分がたっぷり含まれているのか、いつもよりも大きく重そうに見えて、いつものようにカラスたちが飛んでいる。

「俊くん、口が開いてる」

「え?」

 彼女に言われて、俺は初めて気がついた。空を見上げると、自然と口が半開きになってしまうことを。

 友香はクスクスと微笑みながら、再び上空を見つめた。

「どうして、人って空を見上げると口を開けちゃうんだろうね」

 五月の半ばの夕方、この時間帯の風は涼しく、俺たちの体を優しくなでていた。それによって草原の草花のように揺れる彼女の長髪は、まるで一つの宝物のように思えてしまった。

 彼女も、俺と同じように口が半開きになっていた。

「わからない。けど、ボーっとしちゃうからだろ」

「そうなのかな」

「ああ。だって、今の友香もボーっとしてる」

「……そうなんだ」

「ああ」

 舗装されていない道路には所々から雑草が生えていて、多少なりとも歪んでしまっている。その道路の真ん中で何をするでもなく、何かあるわけでもないのに、俺たちはただ空を見上げているだけだった。

 時間が過ぎて行くことや、これからしなければならない受験勉強や、最後の大会へ向けての部活動のことは脳裏から一切消えてしまって、俺たちの時間は微動だにしない石像のようになっていたかのようだった。

 車が通ることもなく、ひたすら近づいてくる夜の足音が青空を侵食しているのに、もしかしたらこのままずっと、空を見上げているだけになるような気がした。いや、そう思うことも、その時はしなかったかもしれない。そう思ったのは、その日、床に入った時だったような気がする。


 七月の半ばから始まる学期末テスト週間の時に、俺は部屋のテーブルに置いているガーネットのレプリカを、友香に渡そうと思っていた。学校でも、この帰り道でも渡せない俺にとって、一緒に勉強するというのは絶好の機会だった。




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