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その二



 小学生の頃、図書室で彼女と接して以来、俺と友香はよく一緒にいるようになっていた。

 それは、彼女の引きこもりがちな心と体を外に引き出すきっかけにもなった。外で遊ぶようになったのも、他の友達と会話を交わすようになったのも、それからだったと思う。

 あの頃、俺は彼女を引きずり出したようなものなのだ。彼女が身を潜めていた、あの本だけに囲まれた図書館の中から。彼女の小さな手を引っ張って、友人たちとの輪へと無理やりに。


 小学校生活を終えると、俺たちは町内に一つしかない中学校に通うことになった。そこへは、歩いて数分の所にあるバス停からバスの乗り込み、約五十分をかけて行くしかなく、バスの本数も一日に四本と、非常に不便だった。

 朝に弱い俺はいつも七時半まで寝られていたのが一時間早く起きることになり、帰ってくるのも夕方の六時を過ぎた頃になってしまったのだ。

 一つ年下の友香は、まだ小学六年生。彼女に慕われているのがよく実感するようになった頃、俺は小学校を卒業した。毎日のように会うことができなくなるということを、俺は特に考えもしていなかった。

 けれど、彼女にしてみればそうではなかったのかもしれない。

 友香は毎日のように、バス停で帰りを待っていた。赤いランドセルを背負い、バス停の傍にある小さな木造の小屋の中で。小屋の裏には田園風景が広がっていて、その中にぽつりと俺の家がある。

 一人ぼっちで、既に暗がりの中で待っている彼女を初めて見た時、俺は初見で感じた彼女の「イメージ」を思い出した。

 図書室で会話をした時に消え失せたと思っていたそのイメージは、あの頃よりもその灰色に深みを増して、俺の前に姿を現していたのだ。

 不意に感じる寂しいという感情は、俺の胸の奥を風がよぎるかのように心をなでながら、遥か遠くへと流れていく。後に残されるのは、何かが欠けてしまったかのような脱力感と虚無感。そして、十三歳になっていない未熟な自分では理解できない、戸惑いだった。

 それは、彼女と会う度に大きくなっていき、俺の心の空洞を膨らませて、その居場所を確立しようとしていった。

 そうやっているから、最初のうちは同級生の幼馴染にからかわれることが多くて、思春期間近だった俺は、そう思われることに苛立っていた。友香にしても、それは彼女の脆い心に、くっきりとした爪痕を残すものでもあった。



 それでも、彼女は待つことを止めようとしなかった。



 いつしか、からかうことを言う友達はいなくなった。自然の形であると、思うようになったのかもしれない。

 それが俺にとって良いと思うかどうかは、また別の話になってくる。



 立ち止まることを知らない時間と、絶え間のない風の音色が俺たちの間で過ぎ去っていき、木枯らしが舞う秋の空も、茫漠とした虚像のように見える冬の景色も、目に見えないスピードで霞んでいった。

 小学校のグラウンドにある一本の大きな桜の木には、未だ春の訪れを感じさせずにいた。それは、この地域が寒いということが理由に挙げられる。


 中学に入学した友香は、俺と同じバス停からバスに乗り込む。

 バスが来るギリギリの時間にそこへ行く俺は、彼女と話すこともないままバスの乗り込む。車内でも、隣同士に座るわけでもないということと、ほとんど寝ている俺がいるため、彼女はいつものように一人で約五十分を過ごしていた。




 緑の山々に囲まれた、白い校舎の中学校――

 築数十年ということで、その白い壁には灰色と黒の汚れが、時が止まったかのように、水が滴れたままの姿のようになっていた。

 その校舎を見つめる度に、俺はどうしようもない寂しさに囚われてしまう。

 初めて経験することばかりの中学校生活ということと、うまくいかない勉強、小学生の頃のように親しく接することのできる教師がいないということ。

 理由を挙げれば様々なものばかりが出てきて、それらは俺の成長中の体を縛りつけ、前に進むのを阻んでいる。締め付けられると心が痛んで、そこになぜか友香の姿が浮かび上がる。

 彼女だけが、ぼんやりとしている。

 曖昧でぼんやりとした俺の思春期の心の中で、それよりも大きくぼんやりと揺らいでいる。中学校という生活に少なからず苛まれている俺は、それがとても重く、けだるさと共にまぶたを重くしていった。

 どうしてそう思うのかはわからないけれど、それは確かな苦しみと寂しさ、言いようのない悲しさを伴っていて、俺は毎日のようにため息を漏らす。

 田舎の澄み切った朝方の青空は、自分とは対照的なほど美しくて、それを見る度にため息が漏れていく。

 未だ馴染まぬ新しい世界の中で俺は一人でもがくしかなく、誰にもその心を打ち明けられないまま、ほのかな憎しみと憤りを抱えてバスに乗り込む。

 町内専用のバスはシーツが所々剥げていて、手すりも反射する能力を失ってしまうほど汚れてしまい、壊れてもあまり舗装されていない道路を走り、何度も何度もその大きな体を僕たちと共に揺らす。

 その中で、俺は自分の心と友香と同じように、俺はぼんやりと外の風景を眺めていた。

 いつも見る田んぼや古びた家屋、手が入っていない清流の川とちっぽけな山々。ただ目の前を通り過ぎて、俺の中にある灰色の想いに何の刺激も与えない。

 そう考えてしまうことが嫌だったし、何より自己嫌悪に陥ってしまうほどのものだった。光も明かりも希望も見えない十年後、二十年後の自分を空の上に描けず、終わりのないように思える不安を抱いたままの日々。


 後になって思えば、俺はこの頃が一番死にたいと思っていたのかもしれない。









 日々を過ごしていく中で、俺たちは少しずつ成長している。ほんの一センチ、一ミリと、明確な形として体に現れる。それを目に見えるものとして捉えないと、俺たちは成長していることに気がつかず、ただ毎日を安穏と過ごすだけで結局のところわかりはしないのだ。

 髪の毛が一センチ、爪が一ミリ、体重が数グラム、身長が数ミリ。

 成長期の中で、その小さな数字は何の影響も与えるものではなく、自分が変わっていることに気がつかない。

 ただ、自分の心と向き合っているだけで、自分自身が成長しているのかどうかを把握できていた。けれど、その向き合うということがいかに難しいことなのか、この頃に学ぶのであり、いつしか昔の方が楽だった――などと思うようになってしまうのだ。


「そろそろ、勉強した方がいいのかなぁ」

 床の白いタイルは灰色に汚れて所々剥げ、黒い部分をさらしながら俺たちの勉強部屋として機能している教室では、来年に迫った受験に向けて不安の気持ちだけが曖昧な形で浮かびつつも、俺たちにはっきりとした影となって覆いかぶさっていた。

「俊は、町の方に行くんだっけ?」

「ああ」

 京都への修学旅行を間近に控え、俺たちはそれぞれ班になってどこに行くのかを話し合っていた。そんな中、友達がつと漏らした言葉は、中学三年生の俺たちの奥に潜む不安を呼び起こしてしまった。

「いいよな、お前は。成績が良いからさ」

 皮肉交じりに言う友人の言葉は、少なからず本音でもあるのだろう。その言葉の裏には、明らかな恐怖と不安がある。

「そんなことないよ」

 とりあえず、俺は謙遜の言葉を漏らす。そうしないと、自分たちを繋ぐ楔にひびが入ってしまうと思った。

 中学三年生になった俺は、同級生のほとんどが進学する地元の高校を受けず、隣の市にある都会の高校を受験しようと考えていた。そこはこの中学校のある地域の駅から電車で約一時間半かかるところにあり、実家から通うとなると少々無理がある。つまり、俺は高校から一人暮らしを行おうと考えていたのだ。もちろん、それを打ち明けた時は両親に反対された。それでも、俺はそこへ行きたいと言って頑なに地元高校を受験するのを拒否した。


 なぜならば、俺はこの町から離れたかったからだ。


 まるで世界と隔絶されたかのような、ちっぽけな町。お国の問題や世界の情勢などは他人事に近く、どうしても遠い存在に見えていた。

 そこから、俺は別の土地に行きたいと願った。そして、それは両親から――この町の人から、離れたいという思いもある。

 それは中学生になった頃から、少しずつ膨らんでいった想いだった。なぜそうなったのか、突き詰めていくと理由が曖昧になってしまいそうだが、俺はそれを止める術を見出せず、淡い恋心が大きくなっていくかの如く、この狭い揺りかごのような町と優しい両親から抜け出したかった。

 知っている人のいない場所へ行って、何かをしたい。

 漠然とした何かを抱えて、俺はいつもよりも空を眺めることが多くなっていたような気がする。この感情は、憧れに似ているのかもしれない。

 でも、俺は実家が嫌いになったわけではない。それだけが、明確に分かっていたことである。





「俊くん、本当に西高受けるの?」

 まだ春の香りが残る四月の終わり、夕焼けに染まった世界の中、俺と友香は田舎の帰り道を歩いていた。道路の両脇には、田んぼだけが広がるだけの世界で。

「ああ。もう、決めたから」

 彼女の歩幅に合わせ、俺はいつもよりゆっくりと歩く。この三年間で、俺と彼女との身長差は二十センチ以上にもなっていた。それは、確かな時間の歩みを実感させるもので、あの頃の風景は当時よりも色あせてしまっているように感じる。

「そっか……。寂しく、なるね」

 彼女は呟くかのように言い、太陽が沈んだ方とは逆の方向を見つめていた。そこには空の青と夜の黒が交叉する、一日の終わりが浮かんでいる。そこだけを見つめていると、自分の心の色も同じなのではないのかと……意味不明な言葉が湧いてきて、どうしようもなく切なくなった。感じたことのない、心の中を冷たい何かが触れてしまったような、不思議な感覚。



 ――あの深みの奥には、そこから俺たちを見つめる何かが潜んでいる――



 そんな気がした。

 ふと、隣で歩いているはずの友香の姿が消えていた。後ろに振り返ると、彼女は西の空に浮かぶ夕焼けの方に体を向けていた。

「どうした?」

 そう問いかけると風が吹いてきたのか、彼女の茶色い髪と黒いセーラー服のスカートが、優しく揺れ始めた。

「俊くんは、遠くに行きたいの?」

 小鳥が囁いたかのように、彼女は言った。

 遠く……西高があるところは、距離で言えばそんなに遠いところではない。なぜなら、大きな買い物をする際、田舎にいる俺たちはそこへ行くのだから。

「そんなに、遠くじゃないと思うよ」

「……そうかなぁ」

 彼女は背を向けたまま言う。暗がりのアスファルトと同じような色をしている制服は、その輪郭にぼんやりと黄色い光を受けていた。


「俊くんって、変だよね」


「え?」

 唐突な言葉に、俺は思わず首をかしげてしまった。

「なんだか、他の人が見ている方向とは別の方向を見てる」

 その方向というのは、一体どういうものなのか――と、彼女に訊くことはできなかった。彼女の後姿が、そうさせているのだろうか。

「……そうかな」

「うん」

 背を向けたまま彼女はうなずくと、僕の方に向き直った。そこには、ほんの……ほんの少しだけ微笑んでいる彼女の顔があった。その片隅には、微笑みよりも遥かに小さな不安が見え隠れしていた。それがはっきりとわかるほど、彼女の表情には二つの感情が浮かび上がっていて、俺の中へ如実と流れ込んでくる。

 その表情を見た途端、俺の中に一つの確信が浮かび上がってきた。この感情は、さっき感じたものと同じなのだ。あの夜の闇が忍び寄る、山の上の空を見た瞬間と。


 ひどく、切なくなった。


 そして、それは誰にも理解することのできない、自分だけの途方もない大きな問題なのだと、俺の心の中にしっかりとした印を刻み込んだのだ。

 俺は持って行き場のないその感情をどうしていいか分からず、小さく口を開いたまま、彼女の瞳を見つめるだけ。そこに見入られたかのような、出会ったことのない遺跡に巡り会った探検家のように、それを見つめていた。

 そして、そのよくわからない感情は、少しずつ俺の中に苦しみを生みだしていった。まるで、自分が穢れているかのような感覚に囚われてしまい、彼女の瞳を見つめれば見つめるだけ、その想いは大きくなっていく。抑えようとしても膨らんでしまい、いつか自分の手では負えなくなるんじゃないかと思ってしまった。

 最後に残ったのは、「なぜ?」の一言だけ。

 心の中で、俺はぽつりと呟いていた。


 彼女の今の姿が、それまで抱いていた彼女へのイメージの上に覆いかぶさり、俺の中でしっかりとした色を伴っていくのがわかった。




















 その時の彼の表情が、私にはわからなかった。

 一つのキャンバスに描かれた、彼の顔。不安と戸惑いという名の色が重ねられていって、それは私を見つめている。

 その顔へとほのかに降る夕焼けの光は、今まで隠されていたかのようなものまでさらけ出していそうで、それを見れば見るほど、私の中に在った唯一の真実に亀裂が入っていくようだった。

 でも、私はどうしていいのか分からず、いつものように微笑むしかなかった。

 既に見慣れたこの田んぼばかりの風景も、まばらに見える人の住む家屋も、所々にある動物たちの牧場も、彼から数百メートル離れた楓や銀杏の木も、彼に見つめられることによって霞んでいってしまう私の心と同じような気がして、どうしようもないほど切なくなった。

 

 ずっと昔から抱いていたそれを、私の中ではどうすることもできずに、ひたすら目の前にあるそれに触れようと願っているだけだった。それなのに、切なくなってしまったこの時から、私をとどめていた心はせきを切ったかのように大きくなっていく。そして、今までぼんやりとし続けていた色は、雨上がりの青空のように鮮やかに浮かび上がり、私に少しだけ勇気をもたらしてくれた。

 私の心の中にはくすぶり続ける小さな灯火が、真っ暗な世界で唯一の光のように、いつまでも……いつまでも、その存在を私に示している。

 それでも、私は彼に見つめられていたかった。

 あの優しくも遠く、ずっと苦しみを抱えているような双眸に。



「ねぇ、俊くん」

「ん?」

 すると、彼の顔にはさっきまでの表情は消え、いつもの顔に戻った。なぜか、私はその時、さっきまでの切なさは言いようのない悲しさへと変貌した。彼のいつもの表情が、それを感じさせている。

「……ううん、なんでもない」

 小さく頭を振り、私は苦笑した。彼は少しだけ頭をかしげると、私に背を向けて歩き始めた。


 悲しみと哀しみを伴うその背中を、私は抱きしめてあげたかった。

 理由はわからないけれど、それに近い別の理由は思い浮かんだ。




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