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第二話  エデンの東へ


「もう来るな」

 地毛の茶色い髪の毛は、小さな体と共に震えていた。徐々に伝わり始める現実と虚構の夢の狭間で、どこを見ようとしているのかさえわからずに。

「どうして?」

 問い返す声も同じように、小さく――確かな不安と一緒に震えていた。

 石造りの玄関の上で立ち尽くしている友香に、はっきりとした視線を向けられないまま、俺はオレンジ色の室内電気の光を背に受けながら彼女を拒否する。

 憔悴しきった体と心は、俺だけでなく彼女も同じで、たちまちその形を保てないまま崩れようとしていた。

 玄関に飾られた、小学生の頃に描いたスイセンの絵。

 爽やかな青空に包まれ、精霊に誘われているかのようにその体を揺らし、自身の持つ色の輪郭をくっきりと残していた。


 黒いセーラー服を着た目の前の友香は、その花が好きだった。










 世界にもし、男と女が一人ずつしかいなかったなら、その二人はアダムとイヴに成り得ていたのだろうか――


 本当の意味で、俺たちは俺たちとして存在することはなく、いつだって個々がその寂しさを紛らわせるためだけに、人と接する。

 ほんの少しだけ幸せでいられるのは、そういったほのかな希望を抱いているからなのかもしれない。


 ちっぽけな箱庭の中で、いつものように笑顔でい続けられていたのは、まだ世界を知らなかったから。ただ笑っているだけで幸せを感じられていたあの頃は、俺たちにとっての身命の在り処だったから。

 今でもそうなのか、本当のところはわからないけれど。

 壊れることを恐れて、そのことにも気付かないで、互いの道の先にあるものが何なのかさえもわからず、ひたすら現実を走り、明日に希望を抱いていただけの日々。崩れることも、別れがあることの可能性に目を向けないだけで、青空の下、地平線の向こうだけを目指して、走っていた。



 怖いとさえ思わず――

 苦しいとさえ思わず――





 図鑑を閉じ、俺はそれを昨日と同じように床に放る。小さなほこりを巻き上げ、少しだけ鼻がかゆくなってしまった。

 少し肌寒い今日。俺は寝間着を図鑑を隠すかのように床へ脱ぎ捨て、長袖の服を着、藍色のジーパンをはく。衣替えには早いかもしれないが、我慢できるほどの気温ではなかったのだ。

 そういえば、お茶を沸かさないと――

 冷蔵庫の中に常備しているウーロン茶が切れてしまいそうな事を思い出し、俺はやかんを取り出してキッチンの蛇口をひねった。

 やかんの中に音を立てながら水が入り込んでいく。小さな水しぶきを巻き上げながら、その水位を高めていく。

 適正な水位まで上げ、水を止める。侵入者が来なくなった黄金色のやかんの表面では、波紋が何度も広がる。同じ黄金色の底が揺らめき、俺の顔を映しだそうとしていた。そうなる前に、俺はウーロン茶の袋を入れ、火にかける。

 自分よりも、大気よりも冷たくなっていたそれはどんどん熱を帯び始め、青い炎はやかんに沿って少しだけ丸みを帯びている。

 その光景をずっと見つめていると、再び思考が停止してしまいそうだった。

 その炎に吸い込まれ、自分がここに立っていることやこの町に住んでいること、お茶を沸かそうとしていたことさえも忘れてしまいになるほど。


 不確かな心と体。

 山積みにされたパズルのピースは、何度当てはめてみてもうまくはまることはない。

 それよりも確かな感覚が身に纏わりついて、最初から間違っていたのではと囁き始める。


 小さな綻びと、小さな汚れは必ずしも見えるものではなく、刻々とその体を大きくしていき、この視界の隅に現れようとしていたのだ。











「暑い……」

 雲一つない青天。頂点に君臨する炎の恒星は、水と緑の大地に住まう俺たちを焼き尽くさんばかりに、その神々しい光を放っている。

 茶色いグラウンドは目玉焼きが焼けるのではと思うほど熱されて、一切の水分を無くしてしまい、そこからさえも熱を放って俺たちを攻撃してくる。ぼんやりとそれを眺めていると、いつしか陽炎のようなものが見えてきて、先にある中学校の薄汚れた白い校舎が揺らいでいるように見えた。


 地元の中学校は、この小さな町に一つしかない中学校で、各地に点在する休校・廃校間近の小学校の卒業生は、特別なことがない限りここに入学する。全校生徒は百人を少し超す程度。クラスなど基本的に一クラスのみという、小学校と同じように少子化の煽りを受けている。

三分の一から四分の一の人は同じ地域の子供で、人数が少ないこともあってか、上級生に向かって敬語を使うようなことはなかった。それを「仲が良いから」というのかどうかは、また別の問題ではあるが。

 この中学校がある地域は、他の地域に比べて暑い。京都と同じように盆地であるからで、六月から九月の終わり頃まで暑い日が続く。



 中学校に入ってから成長期に入った俺は、小学生の頃から背が高かったということもあり、あっという間にクラスで一番の長身になり、所属しているバスケ部でも妙な期待を抱かれるようになっていた。

 その期待は土曜日の昼下がり、外での部活動で俺を奮起させるようなものではなく、れっきとした恐怖心を俺に植え付けていた。

 小学生の頃、体験したこともない運動の量と走り込み。

 少子化の小学校ではクラブ活動はなく、入ってしまえば強制的に行わされるこの部活動は、俺にとって人生で最も労力を費やした時間だった。担当の先生から浴びせられる叱咤激励の言葉の数々は、脳内ではいずり回り、自分を癒す自宅でさえ俺を痛めつけるものでしかない。

「死にそうだ」

 ゴールコートの日陰で座り、俺は青空を閉じかけている眼で見つめる。鳥でさえこの暑さの中飛び回ることをしようとせず、この中学校と俺たちを囲む緑の山々の中で、涼しげな風になびかれながら寝ているのだろう。



「わたし、スイセンが好きなんだ」

 まだランドセルを背負っている彼女は、帰り道、呟くかのように言った。

「なんで?」

 そう問い返すと、彼女は立ち止る。

 夕方の六時を過ぎた今日、既に太陽は沈み、カラスたちが遥か上空を群れを成して家へと帰りを急いでいる。

「わたしの誕生花だから」

 小さな微笑みを向ける友香の髪は、いつにも増して茶色に染まっているように見えた。

「そうなんだ。ラッパスイセンとかあるよな」

「うん。でも、ラッパみたいには見えないけど」

「たしかに」

 彼女と同じように微笑みを向ける自分。もしかしたら、気付かれているかもしれない。この微笑みが、彼女の心に向けられているものでも、彼女のために作りだしたものでもないことを。

 中学生になったこの笑顔には、目を凝らさないと見ることのできない小さな亀裂があって、そこから真実という名の木漏れ日が差し込んでいる。

 バス停から家へ続く道のりは、ほんの数分。

 その短い時間の中、友香は初めて出会った頃の何倍もの言葉を重ね、俺の心に投げ掛けてくる。

 俺はそれをきちんと受け止めず、ただ彼女に気付かれていないかどうかだけを、ひたすら考えていた。

 その木漏れ日を彼女の瞳が捉えたのなら、その暁には彼女の薄氷という名の心に、小さな音を立てながら亀裂ができてしまうに違いない。



 上空には、黄昏の混じった薄い藍色の空。太陽の光を受けることのできない夏の緑は、深々とした黒の世界を作り出し、世界には青と黒しかないのではないかと思う姿へと変貌していく。


 カラスたちは、急いで家に帰っていく。

 どんなに手を伸ばしても届かない、俺の上に広がる空を泳ぎながら。



「俊くんが描いたスイセンの絵も、すごく好きだな」



 玄関に飾られたそれは、家の周囲に生えていたスイセンを描いたものだった。なぜ描いたのかも、なぜ玄関に飾られているのかも、今となってはその理由は思い出せない。

 


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