その三
十二月が過ぎ、正月も、短い冬休みも過ぎて――三学期が始まった。
学校に続く並木道の楓たちは、既にボロボロの布切れのように、ひもじい姿をさらしていた。
冬の田舎は、想像以上に寒い。それを象徴するのかはわからないが、よく覚えているのがつらら。屋根に降り積もった雪が少しずつ解け、外気によって凍っていきできあがる自然の造形物。登校する時に玄関から出てそれを見上げると、長さは自分の身長以上になっていたものだ。あれが落ちてきたのが頭に刺さって死んでしまうんじゃないかって、少し怖くなってしまったこともよく覚えている。
そんな冬の小学校。各教室には巨大なストーブが配置され、乾燥させないようにその上にやかんが置かれる。その風景は、どこか安心感を抱かせるものだった。
雪がないと、さすがに寒すぎて外で遊べず、授業が終わると俺たちは早々に下校していた。
ある日、俺は図書室に寄った。
ここの小学校の図書室は、小さい学校なのに本の数が多い。というのも、「足長おじさん」という、正体不明の人から本が毎月のように本が送られてくるからだ。さらに、その人は俺たちへ図書カードも送ってくれていた。結局、大人になってもその人の招待はわからずじまいで、お礼も手紙でしかできなかった。
小学時代の俺は外で遊ぶことも好きだったが、本を読むことも好きだった。マンガにしても、小説にしても、お小遣いや祖父母からの誕生日プレゼントなどで集めていた。
その日は暇なので、家で小説を読むために図書室で何かを借りようとしていたのだ。
図書室への扉を開けると、最初に目に入って来たのは他ならぬ「真田友香」だった。図書室の床に敷かれている緑のカーペットの上に自分と本を座らせ、何かを読んでいる。長い髪は垂れさがり、床に付いてしまっていた。
人が来たことに気付いた彼女は、俺の方に顔を向けた。「あっ」という表情をして見せ、すぐに活字へと視線を戻す。しかし、他人が気になるのか、集中力が欠けてしまった様子が伺える。
「何読んでんの?」
好奇心から、俺は自然と彼女の前に立ってしまっていた。
「え? え……これ、は……」
段々声が小さくなっていく真田友香。返答を待たずして、俺は彼女の本を手に取り、何が載っているのかを確認した。
それは、図鑑だった。
動植物や虫などのことが載っている図鑑。幼い俺にとっては、管轄外の部類のものであった。
彼女が読んでいたところは、鉱石や宝石のことが綴られているところだった。九歳の俺は何なのかよくわからず、思わず首をかしげてしまっていた。
ふと、目に入ったのは「ガーネット」。
彼女が開いていた頁の真ん中辺りに、ガーネットという宝石が載っていたのだ。
「宝石に興味あるの?」
そう訊ねると、彼女は俯いたまま小さくうなずいた。「ふーん」と、特に興味もなさげに応える俺は、それを置いて自分の目的のものを探そうと思った。しかし、それと同時に別の興味も湧いてきた。
「ガーネットって、好きなの?」
その問いを投げかけると、彼女は俺に顔を向けた。さっきのように、ただうなずくだけではなかったのだ。
この時初めて、俺は彼女の顔を間近で見た。
ほんのりと赤くなったほほ。大きな瞳。長いまつ毛と、細い眉毛。
印象的な顔ではないが、それでも色濃く残る顔ではあった。
彼女がこくりとうなずくのを確認すると、俺は再びそれに視線を移そうとした。その時――
「『ざくろいし』って言うの」
少女は、言葉を俺に投げた。自発的に、己から。
初めてのことに少々戸惑いつつ、俺はその微笑みに驚いてしまっていた。転校してきてから一度も見せたことのない、彼女の微笑み。だからこそ、はっきりと覚えてしまうほど印象深かったのだ。
「ざくろいし?」
聞いたことのない言葉。響きからして、そこまでいいものではないように思えた。
「ざくろっていう果実の色に似てるから、ざくろいし」
はきはきとしゃべる真田友香は、今まで見てきた――この数カ月、同じ小学校で過ごしていた姿とは、全く違う輝きを放っていた。
あの、寂しい雰囲気を消し飛ばしてしまうような、白い輝き。
「へぇ、そうなんだ。ざくろっておいしいの?」
「わたし、食べたことないから……」
と、困ったように苦笑する彼女。
それから、俺はその「ざくろいし」について彼女と話をした。
ざくろっていうのは、ヒマラヤ山地にあるということ。
その実は、この宝石のように赤いということ。
初めて知る宝石と果実の話は、幼い俺の中の彼女に対するイメージを一変させようとしていた。
「ああ、ガーネットだ」
何かが閃いたかのように、俺は図鑑の始めの方の頁を開く。「カ」行に近づき、今度は指で頁をめくりながら、その赤い宝石を探す。
ガーネット――柘榴石、紅榴石
昨日、俺は部屋のものを整理している時にこれを見つけた。もう十年以上も昔に買った、子供用の図鑑。
手に取り、それを眺めながら当時を振り返っていると、俺はそれを見つけてしまったんだ。
だから――あんな夢を見たのだ。
他人にとっては小さく、ちっぽけな事柄にしか過ぎない出来事を。
俺にとっては大きく、いつまでも胸の奥に佇んでいる淡い光。
こうして振り返ると、人間というのはつくづく儚いものだと実感する。いつまでたっても、そのことを忘れることのできない脳みそを持って、小さな傷痕を刻まれたまま一日、一日を過ごす。
光陰矢の如し――
そう思えるほど時間が早く過ぎ去ってくれていれば、俺はこんな感情を抱かずにすんだのかもしれない。
にこやかにガーネットを語る彼女の髪の毛先には、図書室のカーペットの糸くずが付いていた。
「物知りだね、真田は」
「……青木くんも、物知りだよ」
「なんだ、名前知ってたんだ」
「……うん」
「じゃあ、『しゅん』でいいよ。俺も、『ともか』って呼ぶから」
「うん……しゅんくん」
そこまで広くない図書室の片隅で、小さな子供たちはそんなことを言っていた。
ちっぽけだけれど、私にとっては大きな事。
私にとっての、小さな居場所。
荷物を整理していると、押入れの奥で眠っていたそれを私は見つけてしまった。もう、どこに置いていたのか――持っていたのかさえ分からくなっていたもの。それでも、当時の私にとっては、大切な心の一部だった。
そう、今でも。
雨が降る。
世界に雨が降りしきる。
窓の外は灰色の雲で覆われていて、私たちの世界と同じように薄暗い色を作り上げていく。周囲に列挙しているビルの群れは、それと同じようなグレー。
どんよりとした世界は、よりいっそう私の心を彩っていく。
淡いその色は、儚いものであるが故に私の中で自己主張をして、いつもいつもメーデーのように鳴り響く。
まだ、雨は降り続いているのに。