その二
テレビを付け、座椅子に座ると俺の口から自然と吐息が漏れた。まだ二十五歳だってのに、こういうのが漏れるということは疲れているのか――或いは、よっぽど精神的に年老いたのか、だ。
目の前にあるテレビの中では、特に面白みのない内容のものが映し出されている。それが仕事であるからと言って、彼らはそれを進んでやっているのか、はたまた自分を偽り、世間を欺きながら「別の自分」を演じているのか……テレビに出ている人間というのは、俺からしてみれば何を考えているのか分からない。
もし、突然彼らが俺の前に現れたのなら、そう言っていると思う。けど、彼らも同じように言ってくるだろうな。
「君の方こそ何を考えているのか分からない」
とかって。
飲み干したコーヒーのカップは大気によって冷やされ、既にあの温もりは失い、あるがままの体温をさらけ出している。まるで、人のようにも思えてしまうのは、今日が雨だからだろうか。
テレビのリモコンを手に取り、無造作にチャンネルを変えるが、俺の視線を捉えるようなものは何一つなかった。そして、さっきと同じチャンネルに戻すと、俺はリモコンを小さなテーブルの上に放り、ふと昨日読んでいた本を手に取った。
分厚い本――というより、図鑑。
これを見たから、あんな夢を見てしまったのかもしれない。妙に淡く、妙にグレーな幼い頃を。
パラパラとめくり、あの頃見ていたそれを探す。昨日も見たのだが、どの頁だったのか思い出せない。たしか真ん中辺りだったような……などと、曖昧な道標を持って捜索する。
こうやって頁をめくっていく姿が模索しているそれと相まって、この図鑑の中であの頃が浮かび上がってくるような感覚に囚われた。
運動会も終わった十月の終わり。既に、元気な俺たち小学生でさえ半袖・半ズボンで生活を送れないほどに寒くなってしまった田舎。いつだったか、この頃に雪が降ってきたのを覚えている。もちろん、粉雪程度ではあったが。
十一月も半ばに差し掛かった頃、学校へ続く道には楓や銀杏の木があり、深い赤と茶色の混じった紅葉はコンクリートの道路のあちこちに落ちて、銀杏の金色の葉っぱは風に誘われて俺の頭の上に乗ってくる。
様々な色が溢れるのと、学校に行く時間――朝という空気もあってか、今見える世界は子供心ながらに「寂しい」と思ってしまうほどだった。殺風景なものといえばそうなのかもしれないが、俺は一人の人間を見てしまったからこそ、そう思ってしまったのだろう。
学校へと続く並木道、いつも遅れがちに登校する俺の他に生徒はおらず、欠伸をしながら俺は歩いていた。
いつもは気に掛けない存在――真田友香が、この並木道に繋がる小さな坂道を歩いているのが見えた。
彼女は俺が歩く並木道に入ると、右に曲がって学校へと進んでいく。
いつもは気にもかけない存在――なのに、俺はなぜか彼女の姿が学校の入り口に入るまで、ずっとその背中を見続けていた。
約二十メートルほど離れていたのに、ふと見続けてしまったその背中。
藍色の制服は、秋空の広がるこの世界の中に溶け込み、俺の視線という名の小さく狭い心の一端を惹きつけていた。
小さな風景。
それは、彼女とこの並木道にある楓の樹が織り成す一つの絵。
寂しい――
そんな感覚に囚われる。その感覚に囚われたことでさえ、俺は気付いていない。
どうしてそうなってしまったのかなんて考えもせず、その時の俺は足早に教室へ向かって行ったような気がする。
曖昧なのは、その後のことなんて彼女とは何の関連もなかったからだ。
それから冬が訪れ、小さなこの村落には雪が降り積もった。
毎日のように降り続ける真っ白な雪は、太陽の光を遮り世界を白く染め上げていく。
雪というのは不思議なもので、なぜかその姿に目を奪われてしまう。窓の外で無限のように感じる雪たちの降臨を眺めていると、無心でそれだけを見続けてしまう。ずっと同じ雪を見つめ、窓が自分の息で淡く曇っていっても、それを止めようとはしない。まるで、不思議な魔法でも掛けられたかのように。
大雪が降っても、俺の小学校は休校することなく授業が行われた。と言っても、ほとんどがグラウンドでの雪遊びで、先生も混じって雪合戦や雪だるま・かまくら作りに没頭する。都会では味わうことのできない自然の中での遊びというのは、当時の俺にとっては当たり前のことで、大人になっていくとその遊びをするどころか、雪が「嬉しい」と感じることがなくなっていくとは、想像だにしなかった。
そんな雪遊びをする中で、あの「真田友香」はグラウンドの隅っこで、一人で小さな雪だるまを作っていた。その光景が俺の視野に入った後、女性教師――谷先生が、彼女のもとに行く。なぜかはわからないけど、俺も彼女のもとへと足を進ませていた。
理由は、わからない。ただ、なんとなくではあるが、このままにしておいてはいけないような気がした。それは彼女に対するイメージもあってか、彼女がこの雪に覆い尽くされ、消え失せてしまいそうな焦燥感に囚われていた。
「友香ちゃん、それは?」
谷先生は、目を合わせようとしない彼女に向って何度も言葉を投げかける。しかし、彼女は足下にある自分が作り出した雪だるまのてっぺんを見つめるだけで、言葉を返そうとはしない。というよりも、何かを言いたげではあるが、うまく口から出てこないように見えた。
俺は先生の後ろから、その雪だるまを見つめた。そして、
「へったくそだな」
と、思わず呟いてしまった。すると、彼女は顔を上げて目をパチクリさせながら、俺に視線を向けたのだ。
彼女の作った雪だるまは、手もなけりゃ丸くもない。いや、辛うじて丸いのかもしれないが、角がうまく削れていない。だから、どうしても教えてやりたい衝動に駆られたのだ。
「教えてやるよ」
小学三年生のくせに、俺は偉そうにそう言って、彼女の傍に行った。そして、その足元にある雪をかき集める。
「ほら」
「え」
少し驚いている彼女の手を引っ張り、俺は雪に触れさせた。
「まずさ、ちっちゃい雪の塊を作るんだよ。こうやって、ギュッと何度も握りしめて固くして」
俺の真似をしようと、彼女は雪をかき集め、小さな雪の塊を作る。小さな手に大きな手袋をはめているためか、動きは非常にぎこちない。
「そんで、転がしながら丸くさせるんだよ」
彼女は何度も俺が作ってゆく雪だるまを見ながら、同じように雪だるまを作っていった。
それが、彼女との初めての接点。だからこそ、これほどまでに克明に覚えているのかもしれない。
あの時見た、彼女の小さな雪だるまは、彼女自身に見えた。
ちっぽけで寂しい香りを漂わせて、目のない頭はどこを見つめているのかわからない。
――彼女自身に見えたのは、いつも一人ぼっちで過ごしていたからなのかもしれない。
彼女の顔は赤くなっていた。
それは、自分たちの身長近くまで降りしきった雪のせいなのだろう。
「ほら、けっこう大きいのができただろ?」
そう言って微笑みを彼女に向けると、彼女は小さくうなずいた。
出来上がった雪だるまには、目や鼻を石で、手や口を木の枝で無理やり作って見せた。