その七
辛かった。
ひたすら辛かった。
なにも理解していなかった自分が、自分を理解しようとしなかった中学の教師と重なり、激しい嫌悪感が俺を痛めつけ、一つ一つの文字に、俺によって傷ついてしまった様々な痛みと苦しみ、離れていかなければならない辛さが滲み出ていて、彼女の手紙を読む度に、これを綴っている友香が想像できて、どこかで泣いている友香が想像できて……辛い。
俺は円と別れた。俺が家の方に戻った日から一週間後、俺が彼女に告白した体育館の裏で、彼女にそれを告げられた。
「私は代替品じゃない」
全てを見透かされていたと思わせるその言葉は、俺を突き刺した。だが、激しく動揺する俺に、彼女は微笑みを向ける。
「きっと、私は俊の傍にいられないのよ」
自分で納得するかのように、彼女はうなずく。
「俊が一緒に歩きたかったのは、違うんだもの」
どうして……自分は気付かなかったのに、彼女は気付けたのだろうか。彼女と知り合って一年と半年しか経っていないのに、どうして彼女は俺を知っているのだろう――そんな疑問をぶつける勇気もない俺は、顔を俯かせてるだけで、彼女に視線を送ることもできなかった。
そんな俺の頭を、彼女は軽くはたく。
「私は俊と一緒にいられないけど、わかったことがあるんだよ」
顔を上げると、そこにはいつもの笑顔があった。彼女が持つ、全てを照らしているかのような笑顔を。
「私は俊の一歩先を進める」
一歩だけ離れて、彼女は俺の胸に手を添えた。
「だから、これからもよろしくね」
その言葉が、当時の俺にとってどれほど大きなものであったか、誰にもわからないと思う。彼女とは、もう会話することなんてない――友香が涙を流した時にも感じた、その恐怖が自分を覆い尽くそうとしていたのに、彼女は「これからも」と言ってくれた。
事実、それ以降の彼女と俺は今までのように手を繋いだり、唇を重ねることはなかったけれど、それ以外は変わらなかった。一緒に帰ったり、いつものコンビニでカレーパンを食べたり、喫茶店で部活の話をしたり。
誰かが離れていってしまうことを恐れていた俺に、彼女は今までと変わらぬ近さで、俺と接してくれた。立っている場所は、俺の傍から俺の前に変わっただけ。それが大きなものであると、俺ははっきりと自覚していた。
円に感じていた至福――という感覚は、安心感だった。誰かが自分の傍に……友香が立っていた場所にいてくれるという、最大の安心。それを至福だと思っていた俺は、知った当初、円に対する大きな罪悪感を抱いたけれど、彼女がいてくれるだけでそれはほつれていき、自分への嫌悪感も徐々に霞んでいった。
円は、これから先……ずっと親友同士でいられるような、そんな気がした。それは、もう恋へと変わることはないけれど。
彼女は夏の日差しを受ける向日葵。彼女への気持ちは、その高みへと届きたいという憧れだった。
高校二年生の三学期が終わり、四月の初め。春休みの俺は、地元へと戻っていた。薄いジャケットのポケットには、あのプレゼントが入っている。
まだ少し肌寒い田舎では、あの頃と変わらぬ日常が広がっていて、それを眺めていると不思議な吐息が漏れた。それはため息だとか、切ないとかそういうものじゃなく、自分を守ってくれているような――暖かく見守ってくれているような、安堵に近いと、当時の俺は思った。
「住所、わかるのか?」
実家の俺の部屋で、ベッドの上に座っている優太が言った。引っ越す際、自分のものはあらかたアパートに持って行ったので、ここにはベッドと小さなテーブルしかなかった。
「母さんに聞いた。親同士が仲良くてさ」
俺は乳白色のテーブルの上で、白い紙に文字を綴っていた。今まで誰にも書いたことのない手紙。それを見つめる優太は、きっと微笑んでいる。
「お前も、古臭いことをするよな」
「うるさいな。今のところ、これしかできないだろ」
少し照れながら、俺は文字を書いていく。自分の正直な気持ちの全てを文字に表現することはできないけれど、短くても、少なくてもいいから、自分の字で彼女に伝えたい。
書き終わった手紙を茶色い包装紙に入れ、そこにあのネックレスを入れた。
あの手紙が彼女に届いたのかどうかわからない。彼女に、俺の気持ちが伝わったのかもわからない。友香から返信の手紙なんてなかったし、もしかしたら、別の土地へまた引っ越してしまったのかもしれない。
でも、俺はそれでもよかった。強がりと言えば、強がりじゃないと言い切れないけれど、あの手紙を書いたことで、俺の中にあった陽炎のようなものが、その憧憬をはっきりと現すことができたような気がして、今までにないくらい晴れ晴れとした気持ちだった。
あれから七年以上も経っているわけだけど、今の俺を支えているのは、あの頃の自分のような気がする。
大学生になってからの四年、社会人になってからの三年間。他の人がそうであるように、俺にも様々なことが起きて、家族や親戚が一人、また一人と亡くなっていく中、俺は途方もないほど苦しくなっていた。それでも、自分に対してひどく後悔するとか、自分を忌み嫌うほどのことはなくなった。
コンビニ弁当の唐揚げを頬張りながら、俺は音楽をかけていた。普段はあまり音楽を聴かないのだが、今日は暇であることと、カレーパンから滲み出てきた円たちの姿があってか、当時好きだった音楽を掘り返したくなったのかもしれない。
音楽というのは不思議なもので、同じような楽器を使って音を作り出しているのに、それが人によって違ってくるというのがわかる。それぞれの人の指先の形や硬さ、どれほどの想いでその音楽を奏でるかによって、他人の心へと響き渡る音が変化して、心の片鱗と共鳴する。そうやっていると、まるで記憶や想い出が掘り起こされてしまったかのような、或いは見てもいない自然の風景や未来の姿を想像してしまい、楽しい気持ちになったり、切なくなったりしてしまう。
こうしていると、あの頃に対して、俺はようやく胸を張って見つめることができるようになっている――と思えてきた。
心を痛ませるだけでしかなかったものは、やっぱり少しだけ心が痛んでしまうけれど、公園で遊んでいる子供を見る時のように、少しだけ微笑むことができる。それは心の成長……なのかどうかはわからないが、ひたむきに前へ進もうとしていた中学生時代よりも、しっかりと大地に足を付け、ゆっくりと……たしかに進めることができていたのだ。
いつの間にか、雨は止んでいた。ここから見える外には灰色の雲が広がっていて、数十メートル下にある都市には白い煙が漂っているように見えて、森の奥にあるような、少しだけ神秘的な空気を感じる。
時計は既に一時を過ぎていて、秒針はいつもよりも優しく時を刻んでいるように感じ、世界の歩みは傷だけを残していたわけではないのだと、心のどこかで俺は悟っていた。
手紙を出した次の日、バス停には優太が来てくれた。
「今度はいつ帰るんだ?」
「さぁ、わからない。たぶん、夏休みになると思う」
はっきりとしたことはわからないが、来年は受験があるため、そこまでのんびりすることはできないだろう。
すると、彼は小さくため息を漏らし、バス停の裏に広がる田んぼの風景に目をやる。
「そっか」
その表情には、彼が中学生の時に見せたものと、俺に手紙を渡して帰っていく背中から感じたものがあった。
「優太」
「ん?」
俺に顔を向けた彼は、少しだけ微笑んでいた。同時に、俺も微笑んでいたのだと思う。
「いろいろ、ありがとうな」
「……気にすんな」
その時に感じた風には、春の香りを引っ提げているような気がして、ずっと胸の奥にあったものを優しく包み込みながら、田舎の空を駆け巡っていた。
優太は、影で助けてくれていた。俺と友香を。
バスがやってきて、それを追うかのように灰色の排気ガスが道路上に残されていた。それに乗り込もうとした時、優太が俺の肩をちょんちょんと突っついた。
「俊、俺さ」
俺はバスの中へ右足だけを入れたまま、彼の方に振り向いた。
「実は友香のこと、好きだったんだ」
その言葉は、たしかに俺の心を驚かせるものだったが、どうしてだろう……少しだけ間を置いて、俺は優しく微笑むことができた。
ただ、この時の俺は別のことを思っていた。そう言うセリフを吐く時くらい、照れた表情でもしろって。
「……そうか。じゃあな、優太」
「ああ」
少しずつ遠のいてゆく故郷。
バスの窓からは、友香がいつも歩いていた小学校への道や、彼女が待ち続けていた木造の小屋、彼女と一緒に歩いていたアスファルトの道が微かに見えていて、心が温かくなるような愛おしさを感じた。
きっと、俺は前へ進められる。
そう確信していた。
優太の笑顔が、円の向日葵のような笑顔と重なって、眩しかった。でも、それはもう憧れではなく、俺を導いてくれるものになっていた。
第三話、終わり