その五
今でも覚えている。というよりも、忘れてはならないことだ。
三月二十八日の朝、携帯電話が鳴り響いた。その日はバイトが休みで、円と一緒に街へ出て映画でも見に行こうと思っていて、約束の時間は十一時だからまだ寝ていたのだ。
眠気眼でベッドの傍にあるケータイに手を伸ばし、誰がかけてきたのかを確認する。そこには、薄い水色のパネルに黒色で「母さん」と表示されていた。
「俊? 今すぐ帰ってきて」
母親の言葉には、電波越しでもいつもと様子がおかしいというのが伝わってくる。その瞬間、言いようのない不安が覆いかぶさり、唾を飲み込む自分がいた。
「どうしたの?」
そう問い返すのが精いっぱいだったような気がする。
祖父が亡くなったという連絡だった。
「わかった。すぐに帰るよ」
そう言って、俺は電話を切った。しばし天井を見つめ、まだ冷気が残る六畳の部屋の中で、心が無になってしまったかのようだった。
ともかく、帰らなければ。
それだけが浮かび、円に連絡して今日の約束をキャンセルし、必要最低限のものだけをカバンに詰め込み、駅へと向かった。
土曜日ということもあってか、或いは十時頃だったせいか、駅内にはあまり人がおらず、穏やかな日であることを思わせる。
通っていた中学校のある地域へと向かう電車の中にも乗客は自分を合わせて数人程度で、メッキが剥がれた箇所がそれをより際立たせていて、同じように破けてしまっているシーツでさえ、自分の郷愁を大きくさせる。
電車は適度に車両を揺らしながら、進んで行く。窓の外を見ていると、周囲にある建物が徐々に少なくなっていって、見えるのは川と山、一つの長い道路だけになった。あちこちにある民家を眺め、これから帰る自分の家は変わっていないだろうか、という気持ちが湧いた。
亡くなった祖父は母方の祖父で、一緒に暮らしていた。戦争から生き延び、あのちっぽけな田舎で農家を引き継ぎ、毎日のように作業をしていた。そして、夕飯の時間には煙草をくわえ、灰色の煙を漂わせながらニュースを見て、必ず日本酒を一杯ほど飲むのが習慣だった。
そういった姿を見ることが、毎日の当たり前であったし、それがないと夕飯を食べた気にもならなかったような気がする。
「ふぅ……」
なぜだか、吐息が漏れる。自分が好きで出て行ったあの田舎で、祖父はあそこから他の土地に行くことも、旅行に行くこともなく農作業をしていたからだろうか。祖父に対して悲しいとか、寂しいとか……そういうものではない。はっきりと言えないけれど、これは一つの虚無感に似ているような気がした。穴が開いてしまった白い紙のような、そんな感じ。
駅に着き、そこからさらにバスで約五十分ほどかけて、俺は約一年ぶりに帰郷した。そこには、変わらぬ両親と祖母の姿があった。
幼い頃に父方の祖父の葬式があった時は、離れて暮らしていたことと、まだ死という概念が自分の傍になかったこともあり、祖父が亡くなったことを実感していなかった。
でも、今回はあの時と同じようにはいかなかった。
理由としては、あの時、母と祖母が泣き崩れている姿を見てしまったからだろう。そして、棺桶の中でまるで眠っているかのように横たわっている祖父を見てしまったからだろう。
自然と、涙が零れた。どうしようもない、その大きさを測ることもできないほどの悲しみが、嵐によって巨大化した波のように押し寄せてきて、我慢をしようと思う前に溢れてきたのだ。そして、その悲しみには後悔と自分に対する憎しみが孕まれていて、涙の量は増していく。
別れは唐突すぎて、心の準備をする暇など一切与えられておらず、俺たちはそれに直面し、どうにもできないほど悲しくなる。
葬式を終えて、俺は世界を見つめた。
山間にあるこの田舎では、様々なものが溢れている。稲が刈り取られ、緑の芽を出している多くの田んぼや、雨風にさらされて廃れてしまった人のいない民家、どこからともなく聞こえてくる誰かの家の犬の遠吠え、家の庭にある木の葉が風に揺らされた時の音から。改めて見てみると、そこには俺が気付かなかった世界が混在しているかのようで、まるで新しい土地に来たかのような……不思議な感覚に囚われた。
昼間の空は、今住んでいる町とは違って、山に囲まれているせいか狭い。でも、ここには電線が少ないため、あそこよりも鮮やかに空が映るのだということを、俺は初めて知った。
俺はなぜ、大事なことに気付けなかったのだろうか――
祖父がよく佇んでいた縁側で、そう思った。目を細めてしまうのは、少しだけ風が目に染みてきたからだ。
そして込み上げてきたのは、悲しみよりも大きな後悔。
なぜ、どうして。
俺は祖父と多くの時間を共にしなかったのだろう。どうして、この一年の間、祖父に姿を見せることも、会話をすることもしなかったのだろう。祖父と会ったのは……話したのは、一体いつだっただろう。
そう思うと、目はさらに潤んできて、ほほを優しく伝う。
後悔ばかりするならば、あんなところに行かなければよかった――と、俺は今の自分でさえ否定するかのようなことを思い、煙草の臭いが残る祖父の和室を見渡し、それはしてはならないことなのだとすぐに悟る。
中学三年生の夏、祖父は俺に言ってくれた。
「俊は、自分の行きたいところに行けばいい。祖父ちゃんたちは、ここにいるから」
その言葉が思い出されると、祖父との日常的な会話でさえとても大切な時間のように思えてきて、これから自分は何十年も続くであろう人生を、多くの別れと出逢いを繰り返しながら生きていかなければならないのだということを知った。
たとえ苦しくても、辛くても、誰しもが同じようなものを抱えていて、それでも生きていくしかない。そこには、生き続けたいという意志が、胸のずっと奥で揺らめいているから。
葬式を終えた次の日に、優太が家にやって来た。彼と会うのは俺がアパートに引っ越す日だったので、ほぼ一年ぶりだった。彼は中学の時よりも少しだけ髪が伸びていて、顔の輪郭も大人に近づいたような気がして、それが時の流れなのだということを告げてくると、少しだけ寂しい気持ちになる。
「久しぶり、俊」
少しだけ微笑むその顔は、やはり優太なのだということも告げる。
「ちょっと痩せたか? ちゃんと飯食ってるのか?」
と、彼は母親かのように言葉をかけてくるが、その顔にはそれらしさが一切含まれておらず、俺は小さく笑ってしまった。
「暖かくなってきたな」
「ああ」
彼は俺と同じように縁側に座り、外を見つめる。春の訪れを喜んでいるのか、鳥のさえずりが一つだけ聞こえてきて、それ以外の音は一切しない。微かに聞こえてくる高速道路を走る車の音は、山々の吸収されて自然の音のように思える。
「あっちじゃうまくやってんの?」
「ああ。優太は?」
優太は地元の高校に進学していて、全校生徒は過去最低になったとか。校舎はあちこちが痛んでいて、開かなくなってしまった窓とか、今にも崩れてしまいそうな図書館の隅の本とか、タイルが剥げた廊下だとか、それらの情報は俺に懐かしさを作りださせ、そこで勉学に励む優太の姿が容易に想像できた。
「友香に、会うつもりないのか?」
彼は俺に横顔だけを見せたまま、田んぼの前にある水路を見つめる。そこで流れる水のせせらぎが聞こえてきて、世界が静まり返ったかのように感じた。
俺は何も言えず、彼と同じように前を見るだけだった。胸の奥では、一年と半年ほど昔の彼女の姿が……玄関で涙を流す友香の姿が、雪に彩られながら現れていた。
「会うつもりは、ないんだな」
小さく、そしてはっきりと、彼は言った。その言葉には感情なんて、一切含まれていないように思えた。
「友香は、お前に会いたいって思ってるはずだよ」
どうしてそう思うのか――俺には、いまいち理解できない。彼が淡々とそれを言うからだろうか。
「俺は、わからない」
ただ、そう呟いた。それ以外に、俺は何も言うことができないと思っていたし、友香のことを考えると……切ないから。
「……そっか」
その時、俺はあの時と同じものを感じた。中学校のベランダで、彼が見せた寂しげな表情の時と。
彼はそれ以上、何も言わなかった。それから、俺と優太は中学三年生の時のように、二人でぼんやりと静かな風景を見つめるだけだった。それには、高校生活では得られなかったたしかな安堵と、愛おしさが含まれていることに気付く。
――そう、ここは俺の故郷。
誰にも奪うことのできない、穢すことのできない、唯一無二の居場所。俺の原風景がここにある限り、俺はいつでもここに帰ってくることができる。それが自分自身に示された瞬間、祖父を失った悲しさは別の悲しさへと変貌し、これからも自分は自分が選んだ土地で前に進み続ける勇気が生まれた。
桜が満開になるまでにはもう少し時間があるけれど、この土地を包む平和な静寂に漂う桜の花びらや、明日を照らす様々な色を持つ草花、俺を彩る全てのものがここにあるのだという思いが溢れだし、それを胸に刻む。
友香と――あの時の光景にしっかりと体を向けることはまだできない。それでも、俺はここに帰ってきたい。いつかまた、彼女に笑顔を向けて、彼女の笑顔を胸に焼き付けたい。
そういった願望を抱いたまま、俺は再び203号室へと帰って行った。
祖父が残したものの中には、幼い頃、一緒に稲刈りをした時の写真や、まだ赤ん坊だった俺を抱いて微笑んでいる祖父の写真など、俺が覚えていない俺がそこにはあって、遺影に向かって俺は祈った。
また帰ってきます。
今までありがとう。そして、これからも見ていてください。
行ってきます。お祖父ちゃん
――と。