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その四



「一人っ子だったから、一人暮らしとか許されなかったのかもね」

 円と付き合い始めて何ヶ月か経った頃――教室に石油ストーブが置かれていたから、たぶん三学期だったと思う。

 教室にはほとんど人がいなくて、窓からは冷気に包まれた世界が広がっていて、その上には低い位置に浮かぶどんよりとした雲がある。

「俊は、反対された?」

 俺が座っている机の前のイスに座り、頬杖をついた状態で彼女は言った。

「そりゃそうだよ。何度も家族会議したからさ」

 と、俺は苦笑する。それまで忘れかけていた当時の両親の表情が浮かんできて、あれを無理やり振り払ってここへ来たのだと思い、胸に小さな針が刺さってしまったから。

 この会話は確か、部活が休みになったということで、俺もバイトがなく暇だったので、どこに行くわけでもなく、クラスメイトがいない教室で談話していた。ストーブを勝手につけ、教室には人工的な暖かさが充満し、少しだけ息苦しく感じていた。

「私も一人暮らししたかったんだよね」

 その言葉には、同じ中学の友人たちと一緒の高校に通いたかったという切実な想いが潜んでいて、俺にそれがひしひしと伝わって来た。まるで、それをわざと届けているかのように、はっきりと。

 彼女は引っ越すことが決まった時、アパートでも下宿でもして、地元の高校に通いたいと両親に願い出たそうだ。けど、それは大反対され、泣く泣くこの高校に入学したのだ。

「でも、今では両親の気持ち……わかる気がする」

 窓の外を見つめ、どこか微笑んでいるようにも思えるその顔には、両親が自分を手放したくなかったのだという気持ちと、それに気付かずに両親を少しだけ避けていた時期の自分に対する嫌悪感が浮かんでいた。

 それがわかると、俺は彼女とは違う――ということにも気付かされた。自分は漠然と遠くへ行きたいからと言って、両親と祖父母から離れることを望んだ。既に二人の兄は遠くで生活しており、高校生になった時分で離れていってしまう俺を、引き止めたかったに違いない。そう思うと、あの頃の自分は他人の気持ちに見向きもせず、ひたすら前へ行こうとしていたことが、ひたすら恥ずかしく感じた。心に余裕がないなどと、自分に言い訳ばかりをして。

 そういった自己嫌悪の意識が高まると、自然と彼女の姿が浮かんだ。その瞬間、消えかけていたものが肥大化して、息苦しくなった。決められた空間の中で、それを壊さんばかりに膨らみ続ける風船のように。

 この息苦しさは、ストーブの熱気のせいではないということは、すぐに理解できた。

「だから、今ではちゃんと家事の手伝いとかするようになったんだ」

 そう言って笑顔を向ける彼女を見て、俺はこっちに集中しなければ――という不思議な義務感に駆られ、すぐに「そっか」とうなずく。

「じゃあ、今までは手伝いをしなかったのかよ」

 などと彼女をからかうと、

「そーですけど何か?」

 と、なぜか誇らしげに言ってくる円。彼女の耳たぶは、ほほと同じように赤くなっていて、それさえも愛おしく思えた。

 この頃、俺は彼女のことがこれからも先、ずっと好きでいるのだと……絶対にそうだと思っていた。そう思うと、なぜか気が楽になっていたから。

「俊だって、手伝いなんかしなかったんでしょ?」

「男だからしょうがない」

「何よ、それ」

 俺のおでこを優しく突っつき、彼女は笑う。



 五時を過ぎると、世界は想像以上に暗くなり始め、一日が短くなってしまったかのような錯覚に陥る。乾いた風には刺々しい冷気が備わっていて、体が思わず収縮してしまうほどだけれど、帰り道を一緒に歩いている円がいるだけで、それがなんてことないように思えた。一人なら、俺はきっとアスファルトでできたこの灰色の道路を見つめ、俯いた状態で歩いていたはず。その姿が容易に想像できるほど、俺は彼女と一緒にいたかったのかもしれない。

「来月にはテストかぁ……どうする?」

「別に気負いする必要はないだろ。中学の頃に比べれば、楽だし」

「俊は成績がいいからそう言えるのよ」

 彼女が大きくため息を漏らすと、それは大気の中で白く浮かび、徐々に溶け込んでいく。

「教えてやろうか?」

「……勉強を?」

「うん」

 こくりと、俺はうなずく。この時に見えた彼女の顔は、街灯の光に照らされながら、白く光っているように見えた。いつもの小麦色の肌は、まるで雪国の女性であるように。だから、ほんのりとピンク色に染まっている彼女のほほは、寒さでそうなっているのだと思った。

「じゃあ、俊の家に行ってもいい?」

「ああ」

 再び、俺はうなずく。なぜか、この時の俺はすぐに返事をしていた。その後に浮かぶであろう彼女の表情が、待ち遠しかったからだ。


 ふと気付く。



 ――どうして、待ち遠しいのか。



「やった! あんまり行けないから、嬉しい」

 いつもの太陽のような笑顔。それは俺が求めていたものではないのだと……心の片隅で、はっきりと思ってしまった。それと同時に、彼女に対する罪悪感が浮かび、俺は果てしない自己嫌悪に陥りそうだった。

 でも、それを阻んでくれたのもこの笑顔である。その嫌悪感は一瞬にしてほつれ、どこかへと落ちていってしまったのだ。

「これでお母さんたちに対する口実ができたぜ!」

 と、ガッツポーズをして彼女は言った。円の両親は俺と付き合っていることを知っており、一人暮らしである俺の部屋に来ることは些か――不満があるそうで、彼女は親のことも考え、一人で部屋に来ることはあまりなかった。それに、帰宅時間も夕飯までと決められているそうだ。今時珍しいなとは思いつつも、ここに越して一年も経っていないため、それらのことは両親の心配の表れなのだということが、如実に示されている。

 それを思うと、数カ月の間、連絡をしていない両親への想いが浮かんできて、久しぶりに会いたいという衝動に駆られた。

 それは、ここへ来てから初めて経験するものだった。そんな想いが浮かぶことなんてなかったから、戸惑いはそれなりにあった。これをどうしたらいいのかわからず、放っておこうと思っても芽生え始めたそれは消え去ることなく、脳内で囁き続ける。


「あ、雪」


 彼女は上を見上げた。俺も同じように、黒い空を見上げる。小さな粉雪が、まばらに降り注いできていた。それは優しく自身を揺らしながら、灰色の道路へと漂着し、あっという間に水へと変化する。

 彼女は手を前に出し、その上に雪を乗せる。ポケットに入れられていたその手は暖かく、雪はさっきと同じように融けてしまった。

 不思議と、この光景は俺の中を空っぽにしてしまうかのようだった。

 音も立てず、まるで自分たちが存在していないかの如く降ってくる白い雪たちは、すぐに消え去ってしまうことも、別のものへと変化してしまうことも知らないのではと思い、それらの行動に目だけでなく、心さえも奪われてしまう。

 夜の世界に舞う白い粒は、世界を彩る。いつかの姿が、心中に映し出させようとして、俺はそれを止めようともしない。それが出てきてしまえば、きっと辛いだけなのに。



 ――雪に埋もれてしまいそうな、彼女。



 そこには、世界中の孤独感と寂しさを集わせたかのような、一つの絵。いずれ、白い雪でかき消されていって、捜すことができなくなってしまうのではないかという杞憂が浮かぶ。

 そこから引っ張り出して、俺は――


「こっちは、あまり積もらないよね」

 彼女の言葉で、俺は現実に目をやった。

「そうだな。せいぜい、二十センチ積もればいいところ、か」

「俊の地元は、何十センチも積もるんでしょ?」

「ああ。小学生の頃は、自分の身長くらいまでね」

「なんていうか、別世界みたい」

 俺の地元を想像して、彼女は微笑む。彼女の描く田舎は、一体どういうものなのか気にはなったけれど、俺はそれを訊くこともなく、「そろそろ帰ろう」と言って、彼女の手を握り締めた。

 少しだけ冷たい彼女の手が、自分の温もりで暖かくなっていくのがわかった。



 円とは同じ電車に乗るが、降りる駅が違う。俺は彼女よりも先に電車から降り、アパートへ帰った。

 人気のない俺の部屋は暗く、カーテンの隙間からは夜の青い光だけが差し込んできている。

 いつもの場所にカバンを置き、制服を脱いでベッドに座り、本棚の上に置かれている小さな青い包装紙を手に取った。その中には、赤い宝石の付いたネックレスだけが入っていて、レプリカではあっても、本物を直に見たことのない俺にとって、その輝きが俺の真実なのだと思わせる。


 結局、彼女に渡せなかったプレゼント。


 どうしてここに持って来たのか……それは、実家に置いておくことができなかったから。けど、どうして置いておけなかったのかが、俺でもわからない。ただ、これだけは自分の見える場所に置いておきたいと、切実に思っていたのは事実。いつでも見れるように、見失わないように――そう思っていたのに、引っ越してきてこれを見たのは、その日が初めてだった。

 ここにも、彼女との繋がりがあるような気がした。それは赤い屋根の寂れた小学校も、灰色に汚れている白い校舎の中学校も、年季の入った町内バスも、田んぼに挟まれ、車がほとんど通らないあの帰り道にも。

 一つ一つが赤い宝石の中に詰め込まれていて、そこからそれらを引き出すことはできないけれど、まぶたを閉じれば、あの頃の姿が浮かぶ。そうやっていると、まるで自分がここにいないような感覚に囚われ始め、俺は自然とまぶたを開けてしまっていた。

 俺はあることに気が付く。それは、これを渡せなかったこと。これさえ渡せていれば、自分の心をあの日の玄関に縛り付けることもなかったかもしれない。そうすれば、こんなにも傷つくことはなかったのではないか、と。

 だが、そう考えてしまうことは自分がより愚かであったのだと知らしめるものでしかなかった。

 自分の足跡の上にあるものを拾おうともせず、自分が打ち立てた――いや、無理やり立てた目標に向かって、ひたすら勉強をして。




 その日、俺は実家に電話をした。「今度の春休みに帰るから」と言って。それはある意味、償いの意思というものに近かったのかもしれない。




 そして、来る春休み――俺は予定よりも早く、実家に帰ることになった。三月の終わりにかかって来た一本の電話は、予期せぬことだった。




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