その三
彼女にあんなことを言われて、俺は心をときめかせていた――と言えば、たしかにそうなのかもしれない。俺はその日、アパートに帰ってカバンを部屋の片隅にいつものように放って、暑いから窓を開けて、制服姿のままベッドに倒れ込んだ。そこから見える天井を見つめながら、俺は彼女にどう応えるべきか――いや、どのようにすればいいのかを、必死に考えていた。ベッドの上で横になったり、体を縮こまらせたり、うつ伏せになって息苦しくなったりと、なぜかいつもしている家事に手を回すことができず、汗を滲ませながら考え込んでいた。
今思い返せば、当時の俺はかわいいものだと思ってしまう。
女性に初めて言われたその言葉が、いつまでも頭の中で堂々と居座っていて、その姿を克明に刻んでおり、それを考えずにはいられなかった。不思議な吐息が何度も出てきてしまうこととかも思い出すと、俺は自然と笑みを浮かべてしまった。
そう言えば、そろそろ昼食にでもしようかなと――お腹の真ん中辺りで騒ぎ始めた音が、俺にそう思わせる。ウーロン茶を入れ終えた容器を冷蔵庫に入れ、その中にある食材に目を通してみると、そこには玉ねぎが一玉、パンに使ったと思われるスライスチーズの残りが二枚、いつ使用したのか覚えていないカレールーの素が半分ほどだけがぽつんと置かれていて、それらが俺自身がいかに料理をしないのかということをありありと示すものだと気付き、自分は高校生の頃よりも食生活を悪くさせていることを知り、自嘲を含む笑みを零してしまった。
雨が降っているから外には出たくないなとは思いつつ、一人で何もしないでいると過去のことを思い返すばかりで、何かしないと今日の天気と同じようなものになってしまいそうで、それは俺をコンビニへと向かわせる活性剤となった。
俺は薄いジャケットを羽織り、玄関に置かれている透明な傘を手に取ると、マンションの外へと出た。
マンションの外では雨が降りしきっていて、目の前の通りにはいくつもの水たまりが出来上がっており、そこに何度も同じような波紋が広がり続けていて、合羽を羽織った人が操る自転車がその上を通ると、それらの波紋は一時中断して、まるでモーセが海を真っ二つに裂いたかのようになってしまう。それがあまりにも大げさなことだと気付くと、自然とため息が漏れた。
透明な傘を広げると、そこには小さな雨粒が無数に降り注いできて、それによって聞こえてくるささやかな音はどこか優しく感じてきて、もう少し訊き続けたいという思いが湧き上がってきてしまい、ほんの十秒ほど、俺は立ち止まっていた。
コンビニがある場所はここから徒歩五分のところにあり、そこまでの道には普段それなりの人が歩いているのだが、今日は雨ということもあってか、人の姿はまばら。ここは駅へ向かう時にも通る道なので、ここで人々とすれ違う度に人がいるのだという安心感が得られるのだが、雨の道にはそれは染みついていない。だが、車道で水しぶきを上げるいくつもの自動車たちに目がいくと、そこから吐き出される地球にとって害でしかない二酸化炭素と一緒に、人の気配をも吐き出されるような気がしてきて、俺は一人じゃないのだという――どこかおぼろげなものを感じ取った。これは今日が雨だからなのだろうか。
コンビニに入った俺は、弁当が並ぶところへと進む。そこにはいろいろな種類の弁当があって、昔ながらのものもあれば、「新発売!」というラベルが貼られているものもある。そういったものを見るとより一層食欲が触発され、早く買って食べたいという気持ちと一緒に、どれを買えば効用が一番高いのかということを考えてしまい、一つの弁当を手に取っては別の弁当と見比べてしまい、そういったことを何度も繰り返していると、結局、時間は無駄に過ぎていくだけになる。
俺が選んだのは、から揚げ弁当。オーソドックスなこの弁当ならば、後悔することは絶対にないと確信していたからだ。
他にも何か買おうと思い、パンが並べられているコーナーに目をやる。そこにはソーセージが挟まれたパンと一緒に、小学校・中学校の時の給食で出されていたコッペパンなどがあって、自分の大好きだった「いちごアンドマーガリン」を見つけると、俺は思わずそれを手に取ってしまっていた。あの頃、食べる量を気にしているのかどうかは知らないが、よく残している女子がいて、それを何個ももらっていたなと、俺は思い出す。
ふと、そこで目に入ったのは……小麦色のカレーパン。それを見た瞬間、俺はそれを小麦色に焼けてしまった手で掴んでいた少女を目の前に浮かべた。こことは違うコンビニだけど、商品の配置も全く違うけれど、彼女はいつもそれを手にして、俺に微笑みを向けながらレジへと向かって行った。
優しく揺れる黒い髪の先が、小さく輝いているようにも感じていた。
「またそれかよ」
そう言うと、円はどこか不機嫌そうな表情を俺に見せる。
「好きなんだからしょうがないでしょ。俊なんていっつも迷ってるくせに」
眉を八の字にさせながら、一つのパンを手にとっては元に戻し、別のパンへと目移りしてしまう俺を見てため息を漏らす。
「なんだよ」
と、ふざけ気味に言うと、彼女も「何よー」とふざけ気味に言って、俺たちは同じように微笑んでいた。彼女は俺を置いてレジに向かい、その後ろ姿を見ると早く決めなければと考え、必死にパンを睨みつける俺がいる。早くしないと、彼女は一人でカレーパンを食べ切ってしまいそうだから。
円に告白され、彼女は俺の返事を聞かずに微笑みだけを残してあの坂道を足早に下りていってしまい、俺はアパートに帰ってとりあえず考えて、とりあえず家事と洗濯をして、宿題をして風呂に入って眠って、翌日の放課後、他の生徒が来ないであろう体育館の裏へと、彼女を呼びだしたのだ。
「俺、円のことが好きだ」
あの時、俺は自分でもわかるほど緊張しており、顔を赤くしていたのだ。そんな俺から言葉を受け取った彼女は、最初は驚いて何度も瞬きをして俺を見つめていたけれど、それは徐々に……今まで見たことのない笑顔に変貌していき、地元にある澄み切った小川のように爽やかなもので、鮮やかなまでに俺の心優しくなでたような気がして、たまらなく彼女が愛おしく思えた。体育館の白い壁で泣き叫ぶ蝉の声も、未だ残る夏の暑ささえも忘れてしまいそうで、彼女は俺に抱きついて来て、心拍数が一気に上昇してしまった。
あれから俺は毎日のように、彼女と一緒に帰るようになっていた。もちろん、彼女の部活が終わった後や、自分のバイトが終わった後に。
コンビニを出ると、周囲にある石段に座っている円は、日陰の中でカレーパンを既に頬張っていた。
「結局、俊もいつものじゃない」
「いいだろ、好きなんだから」
「だったら私のカレーパンにも文句を言わないの」
そんなことを言って、彼女は立ち上がり、俺が手に持っているたまごパンを一かじりし、満面の笑みを浮かべて「おいしい」と言う。その言葉と表情は、このパンを俺が作ったわけでもないのに、どうしてか嬉しい気持ちにさせられてきて、それが至福なものなのだと感じていた。
けど、それは別のものだと、約一年後に知ることとなる。
ともかく、俺は円と付き合うことになり、それを隠すこともなかったのでクラスメイトには知れ渡ってしまったが、昔のようにからかわれるようなことはなく、どこか胸をなでおろしている自分がいた。
それからというものの、日々がたくさんの色を付けたかのように鮮やかになった気がした。それまで抱いたことのなかった感情は、彼女だけでなく自分さえも輝いてくるような気にさせ、中学生の頃から纏わり付いていたものが色あせてしまったかのようだった。
未だ複雑だったとうなずける中学時代は、一言でいえば「黒」でしかなかったように思える。それは真っ白なキャンバスの上に、真っ黒な絵の具だけで塗りつぶされたかのような、不安定な絵。そこに現れた「円」という鮮やかな青色は、決して黒と混じり合うことなく、それの上に覆いかぶさり、全く別の絵だと認識させてしまうかのようだった。
事実、俺はそう思い込んでいたし、そうでしかないとも思っていた。そうでなければ、今の時間を大切にもできない――彼女を大切にできないと、漠然とした危機感を抱いていたのかもしれない。
いつも円と一緒に立ち寄るコンビニと、そこまでのアスファルトの道路、道端に落ちている空き缶やボロボロの雑誌、さび付いた白いガードレールには、彼女との時間が染みついているかのようで、円と一緒にそこを通る度に、胸は安らかな鼓動を鳴り響かせている。そこには、かつて切なさと寂しさを伴った痛みが居座っていた場所であり、まるで円への想いがそれを消し去ってしまったかのようで、既に俺の中から追い出された――と、当時の俺は感じていた。
いや、そう願っていたのかもしれない。
どちらにせよ、俺は高校時代が中学時代のこともあって、人生の中で最も楽しい時間を過ごせる時だったように思う。
振り向きもせずに前を目指し、自分の意思で地元の香りが漂わない土地に来ても、そこには変わらぬ自然の偉大な姿や、雰囲気は違っても結局は同じである人々、自分を優しくなでる風は、どうしてもあの時の光景を、心の片鱗で思い起こさせるものだった。そんな俺の全てを隠し、新たな自分を照らしているかのような笑顔を持つ円は、ある意味で……最良のパートナーだったようにも思える。そこには、遠い場所へと来てしまったお互いの小さな郷愁の想いが、少なからず共鳴し合っていたのかもしれない。
言い方を変えれば、傷の舐め合い――だった。もちろん、悪い意味ではない。
そう思ってしまう自分は情けないが、それでも彼女と過ごした時間は、今の自分の掛け替えのない至宝になっていて、それは今でも輝きを失わない黄金のように煌めいている。あの時、彼女と出逢っていなければ、後々に訪れる別れに向き合うことができたのだし、彼女がいなければ、俺はきっと……中学時代よりも深い黒色に染め上がり、それに気付かぬまま、掌から大切な雫を落としてしまったはず。
カレーパン一つで浮かび上がって来た数々の光景には、円の全てが映し出されていて、狭苦しかった203号室のアパートも、校舎の壊れて中に入れなくなっていた茶道室も、茶色い落ち葉が寄り添っている渡り廊下の排水溝さえも鮮明に思い出すことができて、多くの友人や仲の良かった教師、お世話になった担任の女性教師の顔が、当時の姿のまま目の前に浮かぶ。
そして、それは徐々に一つの道へと変化していき、一つの答えに辿り着こうとしていた。そこには、自分が昔から抱いていたもので、それが存在することも、自分の中に在ったことさえも忘れかけていたのだ。
バラバラだったパズルのピースは、円がいることで少しずつ――自分が知らない間に繋がり始めていて、その姿を大きくさせていった。
それを知った時、俺は――――と、思う。
俺はから揚げ弁当とたまごパン、そしてカレーパンをレジに持って行った。千円札を出してそれを買い、外に出て透明な傘を広げ、再び立ち止まる。
優しく降り注ぐその音が、埋もれていたものを掘り起こすかのようで、それがなぜだか心地よかった。
きっと、今の俺は微笑んでいる――そう確信した。