その二
毎日が楽しいとは、思っていない。それでも、別の土地での生活には少しずつ慣れ始めていて、人は順応することができるのだな――ということを悟ったのは、この時だった。
世界にはいろいろな人がいるのだとも、この時知った。
あの小さな町で過ごしていた俺にとって、ここにいる人たちはどこか外国人のようなものではあったが、それはある意味で表現に間違いはない。彼らが話す会話の内容にしても、授業を受ける態度にしても、廊下で上級生に対する言葉遣いにしてみても、自分との違いが明確に映し出されて、俺は思わず首をかしげてしまうほどだったから。ただ、上級生には敬語を使うべきだというのは、この高校に流れている空気から感じ取ることができた。寧ろ、それが当たり前であり、自分が通っていた中学校は異質だったのだということも、この時知った。
中学時代、それなりに勉学に励んだ俺にとって、ここでの勉強はそこまで苦にはならなかったと思う。というのも、自分が得意としていた社会――ここでは世界史が、楽しくてたまらなかったからだ。
中学の頃とは違って、紀元前の王朝や民族、そこを支配していた大王のことを聞く度に、俺の胸は高鳴って、いつしか自分で調べるようになるまで駆り立てられていた。それは、兄たちが歴史関係の小説や漫画をたくさん持っていたことも、遠因しているのかもしれない。
元々の性格もあってか、高校での友人も増え始め、彼らがどういった人間性を持っているのか、ほんの少しではあるが理解できるようになり、それはある意味で雪解けのような爽やかな気分になり、自分自身もホッとするようになった。
入学してから数カ月は疲労困ぱいだったような気がするけれど、一学期が終わる頃にはこの高校のことを気に入っているのだと思い始め、中学の頃もあってか、その想いは加速的に大きくなっていき、ふと気付いた時には一日が早く過ぎるようになっていて、それはいい意味でのものなのだと、俺は悟った。
夏休みに入っても、俺は実家には帰らなかった。バイトがあって大変だったというのもあるが、あそこは当時の俺にとって――触れてはならない、禁断の場所のようなものになっていて、ケータイで親に電話をかけようとは思っても、アドレス帳を開いたところで手を止めてしまい、どうしても「帰る」という言葉も、行動も起こすことができなかったのだ。
一人暮らしということで、友人は週に何度も俺のアパートに来るようになった。その中には、円もいた。仲はよかったが、それは俺の中で「同族に対する親近感」なのではないかという卑屈な考えもあってか、彼女へ深く立ち入ることができないようになっていて、それを察知してか、彼女も普段通りに明るく俺と接してくるものの、時折見せる彼女の寂しそうな表情をする。その欠片は、少なからず「彼女」を思い起こさせるもので、少しだけ……胸が痛くなる。
きっと、これは自分が成長するためのものであるのだろうと、俺は必死に思うようになっていた。実家から持ってきたいくつかの私物には、彼女に関係していないものでさえ彼女と繋がっていたようなものに思えてくるけれど、慣れるためにはそばに置いておかないといけない――という、当時の俺なりの解決策を作っていた。
でも、いつしか……円を見る度に、その痛みが影のものであり、彼女が光なのではと思い込むようになっていた。
「私、俊のこと好きだよ」
そう言われたから、俺はそう思ったんだ。
あれはいつだっただろう。はっきり覚えていないのは、あの頃がそれなりに楽しく思えていて、それが続けば続くほど、それと同時に毎日が少しだけ希薄に思えていたからかもしれない。
たぶん、夏が終わりかけた九月の終わり。ひぐらしがガードレールの外側で合唱をしている頃、俺は彼女と一緒に帰っていたと思う。
「俊ってさ、将来どうすんの?」
テニス部に所属している彼女の肌は、入学してきた頃よりも小麦に色を近づけて、そのせいか黒い髪がより黒く輝いているように感じる。
「将来って……どうだろ。いまいち、それがわかんないんだよな」
漠然としているどころではないほど漠然としていて、ミクロなものを見つけるよりも、夜空の火星を見つけるよりも、宝くじで三億円を当てることよりも実感のないことで、その先を描いたことはなかったのだ。
「なんだ、俊も一緒か」
そう言って、彼女は前を向いた。いつから彼女は俺の名を呼ぶようになったのか思い出せない。もちろん、俺が彼女を呼び捨てにしだしたのがいつなのかも覚えていない。
「円も?」
「うん。よかった、一人じゃなくて」
フッと微笑んだ横顔は、自分の足元を見ながら歩幅を大きくした。まるで、楽しげに買い物をする子供のように。
「自分が働いている姿なんて、想像できないしさ」
「……きっと、誰でもそうだと思うよ」
「そうかな」
「うん。きっと」
そうじゃなけりゃ、勉強なんかしていられないような気がした。いろいろなことを考えて、コンビニでレジを打って、商品を補充したりして、ため息交じりに青空を見上げてしまうのは、俺たちにはまだ未来の礎ができていないからなんだ。きっと、社会人になってもそれは続いていって、本当の意味で全てが手に入るわけじゃない――――そんな曖昧なことを、俺は思った。
「なんかさ、俊って変だよね」
「え?」
彼女は立ち止まり、俺に顔を向けた。俺も思わず足を止めて、彼女を見てしまった。
「ぼんやりしてると思ってたけど、遠くも見てるんだね」
俺はあの時のことを思い出してしまった。一年前の春、あの帰り道でのことを。
あの日、俺は友香と一緒に歩いていて、その時見た彼女の……微笑んでいるのに、片隅に追いやられていた寂しさを見つけてしまったのだ。それは、彼女が必死に隠そうとしていたもので、俺はそれを見た時から、彼女に対する不思議な切なさを抱くようになった。
あれが――浮かび上がってきて、胸の奥が痛む。
「じゃあ、どう思ってるんだ?」
どうしてか、俺はそんな質問をしてしまった。すると、彼女は少しだけキョトンとして、目をパチクリさせる。
「そうね……俊は、鳥かと思った」
「と、鳥?」
彼女の言っている意味がさっぱりわからなくて、俺は口の端を引きつかせてしまい、顔をかしげる。そんな俺に気付かず、彼女は唸りながら上空を見上げた。
「ずっと飛んでいって、自分の行きたい所に行って、好きなことをやるようなさ」
微笑んでいる横顔が、初めて一緒に下校した時のように輝いているように見えて、どこか神々しくも感じた。
そして、彼女は足下にあった小石を蹴飛ばした。それは勢いをつけて弾いて、緩やかな坂を転がり続け、脇の雑草の中へ入っていってしまった。
「でもやっぱり、俊は人間なんだなって」
その時、風が吹いた。
残暑に漂うこの空気を切り裂かんばかりに、それは彼女の黒い髪と黒いスカートを揺らし、その風の中にある秋の香りは俺たちに囁きかけるように間を通り過ぎて、いつもは寂しげな乾いた音を奏でているのに、この時だけは、どうしてだろう……果てしなく美しいものだと感じた。
「何? 私の顔になんか付いてる?」
「えっ……あ、いや……」
笑顔を向ける彼女から、俺は顔をそらしてしまった。理由はいまいちわからないけれど、きっと俺は暑さだけで顔を赤くしてしまったんじゃないと直感的に察して、思わず隠したのだ。彼女にそれを見られることが、恥ずかしく感じて。
「だからさ、ホッとしたんだ」
胸に手を当てている彼女は、呟くかのように言う。いつもの笑顔ではなく、少しだけ儚げなものを含ませて。
いまいちわからないと思いながら、俺は「ふーん」と小さく言って、足を進ませようとした。その時――
「私、俊のこと好きだよ」
普通、ここで風が吹くんじゃないのかって――家に帰った俺は、この日のことを思い返しながら考えた。
どうして彼女がそんなことを言ったのかわからないけれど、それはまるで直球ストレートのように俺の胸に叩きつけられ、感じたことのない想いが周囲から湧き出してきて、懐かしい……ような哀愁に囚われつつも、いつまでもこうしていたいと思うような安堵に襲われた。
女性にそんなことを言われたのは初めてで、俺は今までにないくらい冷静だった。それがありありとわかるほどのものだったけれど、それはすぐに戸惑いと焦りへと変貌していって、背中の辺りに水が引いたような冷たさが走り、それも焼けるような暑さへと変化した。
唐突な言葉は、俺に革命を起こすほどのものだったと思う。なぜなら、それはとても心地よく、西高に合格したことよりも嬉しいのだとわかるほどのもので、俺は今までの苦しみも痛みも、切なさもそれで一瞬にして消えてしまったかと錯覚してしまったからだ。
目に見えることも見えないことへの辛さも、あらゆるものが真っ白に消え去ってしまい、俺には今だけで十分なのだと、そういった確信が溢れる。
「びっくりした?」
余裕のある、大人の女性のように微笑みながら、彼女は両手を後ろで組み、俺を見つめる。
体のあちこちから汗が出ているのは、暑さのせいだけではない。
友香に感じていた「あれ」は影で、これこそが俺の光なのだと……俺は、なぜだかそう思ってしまっていた。