第三話 向日葵の高さ
初めての一人暮らしというのはそれなりに緊張するものではあるものの、それにも勝るとも劣らない期待感もあってか、俺は不思議と怖くはなかった。
駅から歩いて十五分ほどの位置にあるアパートは、思ったよりも閑散としている場所で、窓の外にある川のせせらぎが心地よくて、実家からそこまで離れてはいないんじゃないかという錯覚さえ起こしてしまいそうだった。
その河川の近くには桜の並木道があって、四月の初めにここに越してきた時、桜の花びらが穏やかな大気に揉まれながら世界を漂っていて、ほのかな安心感と高揚が胸の中でときめいた。
たしか、俺はそんなことを思いながら、初めて住むその土地を散歩していたような気がする。とりあえず周囲を見たくて、薄いジャケットを羽織ってずっと遠くを見ながら、一時間……或いは、二時間ほど歩いていただろうか。
あそこは、地元とは違って海に面した土地であるせいか、空が広く見えた。いつも視界のここからここまでしか見えなかった青空が、首を曲げて視野を広げなければ全てを見ることができないほどになっていて、それだけでこの土地に来た価値はある――などと、来て早々にそう思った。
でも、やはり違う土地なのだと実感したのは、匂いだろうか。
地元で漂う田んぼや土の匂い、山から下りてくる独特の香り、あちこちにある牧場から漂う少しだけ鼻にくる匂い。あれら全てが混在して一つの匂いになっていて、それが地元なのだという安心感を作っていたのだと悟ると、ここは別の土地で、俺は一人でここに来てしまったんだなという現実を再認識し、そこでようやく不安が浮かび上がり始めた。
知っている人のいないこの町で、俺はどうやって高校生活を送ろう――
ここに足を踏み入れるまで、考えもしなかったその言葉が脳裏に表示されてしまい、少しだけ地元が恋しくなる。何度も生きる場所を変えている限り、俺はそういった感情を抱かせて、日々を生きて行くしかないのだ。
たしか――そうだ。高校生になって初めて、俺はケータイというものを手にしたんだ。
一人暮らしをするから、持っていなさい――と母親に言われ、欲しくもないのに買ってもらった携帯電話。これにはまだ両親と伯母と優太の自宅の電話番号しか登録されていなくて、こっちの友人の連絡先がアドレス帳に載ったのは、高校の入学式だった。
「私、宮里円って言うんだ。名前、なんていうの?」
真新しい学生服を着て入学式を終えた俺は、教室の自分の席に座り、ぼんやりと辺りを見ていた。ほとんどのクラスメイトが互いに知り合いだったりして、少なからず不安を抱いている時、彼女が声をかけてきた。彼女もまた、俺と同じように真新しい黒いセーラー服を着ていて、肩にちょうど届くくらいの真っ黒な髪の毛を揺らしていた。
「あぁ~……と、青木俊」
思わず、俺は天井を見上げながら言ってしまった。
「青木くんか……。青木くんってさ、別の中学から来たの?」
そんな俺の様子が少しおかしかったのか、彼女は小さく微笑みながらそう訊ねてくる。
「ああ。宮里さんも?」
問い返すと、彼女もこくりとうなずく。ああ、だからか――と、俺は思った。彼女も不安を抱えていたから、自分と同じ匂いを持つ人間を捜していたのだ。それがわかると、嬉しい気持ちと同時に、ちょっとした自嘲の想いが浮かび上がってきて、それは自分に対しても彼女に対しても失礼なのだと理解した時、思わず小さく顔を振ってしまった。
彼女が、俺のケータイに登録された高校での初めての友人で、初めての恋人だった。そういった関係になるのは、高校生活にも、一人暮らしにも慣れてきた頃だったと記憶している。
彼女は今までの女性とは少し違ったタイプ……というわけでもなかったし、それなりにかわいかったが、とりわけ他人の目を引くようなかわいらしさも、美しさも備えているわけでもなかった。
そんな彼女は誰からも慕われるような――一言でいえば、太陽のような、象徴となるような人物だったかもしれない。
持ち前の明るさは、他人をもその日向へと引きずり出して、彼らの背中を押そうとしてくれる。些細なことであっても真剣に取り組む姿は、俺のような淡白な人間だけでなく、怠け癖のある男子にさえ飛び火し、積極性を与えてくれる。
そういったものを持っているから、彼女に惹かれる男子は少なくなかったはず。「はず」というのは、噂に聞くだけだったし、その現場を見たわけでもなかった。仲のいい男子にも彼女に想いを寄せる人物はいたが、それよりも人気のある女子がいたこともあってか、そのことはあまり俺の中で大きな問題にはなっていなかったと思う。
とにもかくにも、俺は彼女に惹かれていたのかもしれない。はっきりと言えないのは、当時の自分がそれなりに暗い影を落としている性格だったし、涙の残った玄関の光景が鮮やかなまでに心に焼き付けられていたからだ。遠い場所に来て、あの場所は既に見えないのに、まだ俺を追いかけているような気持ちになってしまい、夜になると眠れない日もあった。
だから、自分を照らしてくれる彼女に惹かれたのだと思う。
高校生活は思ったよりも忙しいものだったなと、今でも覚えている。
一人暮らしをするには、そのための心もその術も身に付けていなくて、アパートに帰っては包丁の使い方や炊飯器の使い方、キャベツの切り方に玉ねぎによって出てくる涙を止める方法、洗濯機に入れる洗剤の量など、俺を忙しくさせることは多々あって、本当の意味で心を落ち着かせる時間はなかった。
それに、一人暮らしをするにはお金が必要だったのもある。自分は末弟で、二人の兄がいる。そのうちの一人は自分と六つほど歳が離れていて、彼は大学生。両親にかかる負担は心だけでなくお金も一緒で、少しでも足しにしなければという焦燥感から、俺はアパートの近くのコンビニでバイトをするようにした。
不安でいっぱいの高校生活に、都市に住んでいたためか少しだけ自分よりも大人びている同級生とのギャップ、慣れない炊事洗濯が絡んだ一人暮らし、触れたことのないレジで悪戦苦闘するコンビニの中は、地元で降り積もる雪よりも速いスピードで疲労を積み重ねさせて、次第にあの日の玄関が薄らいでいった。
それはそれで、気が楽になった。
あの光景は俺を縛りつけ、傷付けるだけでしかないと思っていたから。暇があればその光景がついさっき起きたかのように浮かび上がるため、暇さえなくなれば――誰かと接してさえいれば、俺は理想郷へと行けるのだと、願望に似た想いを抱いていた。
部活には所属せず、俺はともかくこの土地に慣れようと、必死だった。自分の部屋――203号室のドアノブや、すぐそこにあるどんよりと濃い緑色に汚れてしまっている河川や、駅まで続く民家と塀に挟まれたアスファルトの道、あまり聞いたことのない電車が揺れる音、学校までの緩い坂道を、今の自分を彩る全てのものだと認識させるために。
「おーい、青木くーん」
校門を出て、町の姿を一望できる緩やかな坂道を歩いていると、学校の方から聞き慣れた声がしてきた。後ろに振り返ると、それと同時に俺に歩み寄って来たのは、宮里円である。
「青木くん、もう帰るの?」
「うん。宮里さんも?」
「まぁ、そんなとこ。よし、じゃあ一緒に帰ろっか」
承諾もしていないのに勝手に決めてしまうところは、中学時代の女子にはなかった積極性と新鮮さが相まって、俺は不快になるどころか気持ちのいいものであった。
「部活しないの?」
「ああ。バイトがあるから」
そう言うと、彼女は驚いたような顔になって、何も言わずに自分で何度もうなずき始める。
彼女の真っ黒な髪の毛が、風になびかれて少しだけシャンプーの香りを俺に届けた。そうしていると、どうしてかわからないけれど、不安を打ち消すような安心感が覆いかぶさろうとして、こうして一緒にいることが嬉しいのだと、心のどこかで確信している自分がいた。
この時、たしか自分が一人暮らしをしていることや、俺がとんでもない田舎からここに来たこと、彼女が小さな島からこの町に引っ越してきて、知り合いのいない高校に入学する羽目になったことなど、そういった他愛のない、日常らしい会話をしていたと思う。そうした中で、彼女が他の人と違って見えたのは、気風の違う土地で育ったせいだろうと、俺は俺なりに憶測を立てていた。きっと、それは彼女も同じで、俺もここらの人間とは違うのだと感じていたのだろう。
彼女は笑顔がきれいで、傾いた太陽の光が彼女のつややかなほほに当たって、その表情の奥深くまで映し出そうとしていて、そこが美しいのだということがわかるほど、それはきれいだった。
小さな微笑みを見て切なくなった時とは違って、この時の俺は、彼女の笑顔が自分を優しくしてくれるような気がしてならなかった。
誰かに惹かれているのだと――それが手に取るようにわかるほどのものだと、その日、バイトをし終えた時に、そうなんじゃないかと思い始めた。
毎日が忙しくて、それなりに心を痛めていたために、何かに傷つけられることや傷つけてしまうことを恐れてはいたが、それでも誰かと接したいと思うのは、俺はずっと誰かを求め続けていたからだろう。
あの日の玄関を、どうにかして記憶の片隅に追いやって、新しい世界の中、新しい自分と新しい誰かと、自分たちだけの世界を築き上げて行きたいと切実に願っている自分がいて、それは過去から逃げ出しているだけにすぎないのだと理解するには、当時の俺は幼すぎた。
早く大人になって、早く自立することができれば、きっと中学時代の俺や彼女を良き想い出に変化させることができて、再び笑顔でそれに向き合えるのだ――
そんなわけのわからない、幼稚すぎて話にならないことを、アパートの六畳の部屋にあるベッドの上で、布団にくるまった俺は考えていた。
二十五歳になった今でも、あの日、あの時の光景はありありとまぶたの裏に焼き付いていて、それが決して消え去ることも、いい想い出になることもないことを自覚している。だから、今の俺が当時の俺に言えることは――
「とことん馬鹿だな、お前」
それだけ。それだけしか言えない。
もう少しその心に丸みを帯びらせ、少しでも周囲の世界に向き合うことができたのなら、今の俺に直結はしなかったのに――
そうやって、俺は沸かし終えたウーロン茶を専用の容器に入れ始めた。半透明な二リットル用の容器の内側には、あっという間に白い蒸気が張り付いて、黄金色のお茶が見る見るうちに水位を上げていく。
高校時代を思い出すと、優太と円と……友香の姿が浮かんできて、ひどく切なくなる。
あの頃はあの頃で、それなりに辛かった時期でもあったのだと、俺はウーロン茶を入れながらそれを再認識していた。