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その六



 それから、彼女の姿を見ると小さな針が刺すようになった。

 朝、バスの乗り込む時に窓の外を見つめている友香を見た時、後ろの方に座ってふとした時に彼女の後頭部を見た時、学校で時折すれ違う時。

 何度も何度も、それは痛みを俺に与えて、頭の中でずっと居座り続けて、目の前にある現実にも、黒板に書かれた豊臣秀吉の政策も、俺の記憶端末には刻まれることはなかった。

 帰り道、彼女は俺から逃げるように足早に歩き始めて、いつもの姿を見せようとはしてくれなかった。あの背中から感じるのは、普段の彼女が持つ不思議な温かさと寂しさではなく、壊れかけたラジオのような……不協和音を鳴らしているかのような、無言の背中。

 毎日がこんなに苦しくなるのなら、俺はどうすればよかったのだろうと思うけれど、あの時の俺にはああするほかなく、自分に対して言い訳するばかりで、いっこうに前へ進むことができない。

 だから、勉強するしかない。

 受験しようとしている西高はそれなりに難関で、俺の先輩たちもあまり受からなかったと聞いている。心が挫けそうだから、心がひたすら痛むからといって、その手を緩めることはできない。

 ――彼女から離れたいという想いは、別の土地に行きたいという気持ちに直結していったのだ。






 今でも、その頃の不安定な精神が手に取るようにわかる。あれから十年ほど経っているわけだけど、未だにあの時のおぼろげな焔のような――消えかけた灯火のような心は、当時の俺の全てを支配していて、ようやく秋に向かい始めたというのに、霞んで行く夏の暑さの中、俺だけがそこに取り残されていくかのような、孤独感が湧き始めていたのだ。

 せめて、彼女を抱きしめてあげればと――今では、そう思う。






 昼休み、俺はいつものようにベランダで優太と一緒に座って秋空を眺めていた。中学三年生になると、俺はいつも彼と一緒にこうして空を眺め、時折身近い会話を挟みながら、季節に身を委ねるかのように座っていた。俺が静かになりたいのを察知してか、或いはその性格もあってか、優太はあまり話しかけようとはしない。

「おい、俊」

 窓が開けられ、そこから何人かの同級生の男子が入って来た。たしか、表面上仲の良かった男子だったと記憶している。既にその顔は思い出せないが、あの時、彼らの顔には少なくとも笑みが浮かんでいたことだけは、はっきりと覚えている。

「何?」

「お前さ、真田と別れたんだって?」

 その言葉の意味がよくわからなくて、俺は何度も瞬きをしてしまった。そして、再び問い返すのだ。

「それ、どういう意味?」

 バラバラな言葉の糸が繋がり始めるのと同時に、俺はそう言った。

「だから、二年の真田と別れたんだろ?」

 別の男子がそう言う。こいつらは何を言っているのだろう――という思いと、なんでそういう話になっているのかわからない俺がいて、結局はアンバランスな自分になってしまっていた。

「長かったな。ほぼ三年間だっけ?」

「真田、あれはあれでかわいいからな。これで、二年の男子も黙っちゃいないかもな」

 何も言わない俺を無視して、彼らはわけのわからない会話を繰り出す。それを俺の目の前ですることも理解できないし、身動きできない自分も理解できなかった。なのに、彼らは未だに別世界の言葉で会話しているかのようで、俺と友香の話題を面白おかしくしている。



 俊は下級生から恐れられているから、真田には手を出せなかった――

 でも、陰湿な二年の女子がそれを気に入らないからって――


 

「やめろよ」

 そう言ったのは、優太だった。彼は立ち上がり、彼らの前に進み出た。

「俊の前で、そういうことを言うなよ」

 おっとりとした性格の優太が、見ているだけで「それ」だとわかるほど感情を露わにしているのが、俺にとっても、彼らにとっても驚愕のことだった。

「なんだよ、優太」

「お前らがなんなんだよ。出てけよ」

 優太はベランダから彼らを教室の中へと追い返し、さっきと同じ位置に座りなおした。


「涼しくなったな」


「え? あ……ああ」

 それだけを言って、彼は空を眺め続けていた。彼の行動がよくわからないけれど、彼は俺を守ってくれたのだという、小さな……確信にも似た思いが、そこかしこから染み出してきて、俺は何も言うことができなくなった。

 彼には今まで何度も助けられていて、友香もまた、影で彼に助けられていたのだということを知るのは、俺が小さな邂逅と大きな別れを経験した時だった。


 この後のことは、いまいち覚えていない。

 とりあえず優太と一緒に冷気を帯び始めた大気に触れながら、少しだけ高くなりつつある空を見つめ、教室に戻って授業を受けて、勉強して、バスに乗り込んで、一人でいつもの道を歩いて。


 それから、少しだけ耳に挟むようになった噂。

 俺は友香と付き合っていて、友香が原因で別れたとか、俺が原因だとか……根も葉もない勝手な空想だけが中学生の間を行き交い、少しずつ虚偽と妄想が付け加えられ、彼らにとっての面白みのある話へとなり果てて行った。






 そんなことがあるから、彼女は俺の家に来たのだ。

 あの日以来のように、その日の彼女は足早に帰っていたはずだったが、俺が家に着いてから三分もしないうちに、呼び鈴を鳴らしたのだ。

 六時過ぎの玄関には明かりが入らず、外も空がぼんやりと明るさを保っているだけで、俺はとりあえずオレンジ色の光を放つ電灯に仕事をするよう、スイッチを押した。それによって映し出されたかのような、目の前に立っている友香の顔にはいつもの顔が映っているわけではなく、ほんの少しだけ悲しそうな顔をしていた。

「どうした?」

 トクン――と、俺の胸が不思議にも高鳴りつつも、俺は声を荒げることも、冷静さを装うこともなく、いつものように言葉を放つ。

「あ……その、私……」

 いつかの彼女を思い起こさせるような、言葉を出すことができない姿。それは懐かしいけれど、当時に俺にとってみれば、少なからず苛立たせるものだったのかもしれない。

「私、俊くんに謝りたくて」

 彼女は俯き加減だった顔を上げ、俺を見つめる。意外な言葉であったため、俺の中には戸惑いが渦巻いた。

「俊くんのこと、よく知りもしないのに……あんなことを言って、ごめんなさい」

 泣いてしまいそうなほど目を潤ませて、彼女は小さく顔を下げた。


 どうして、謝るのだろうか。


 彼女は何も悪くないのに、彼女が俺を傷つけたわけでもないのに、どうして謝るのだろう。

 微かに震えている彼女の声が、痛々しく胸に轟いてきて、彼女から感じるいつもの穢れているような感覚がより一層肥大化していく。



 お前が悪いわけじゃない――



 と、それだけ言えればいいのに、どうしてか、俺はその言葉を放つことができなかった。なぜなら、俺は彼女を拒絶した日のように胸が苦しくなって、胸に手を添えてしまっていたからだ。

「俊くん?」

 俺の様子に気付いたのか、彼女は心配そうな眼差しを向ける。いつもよりも輝いているように見える彼女の瞳は、このロビーの光を受けているせいだろうか。

「どうしたの? 気分でも……悪いの?」

 その穢れを知らない瞳で、俺を見ないでほしい。本当に、それだけが心中で鮮烈な色を醸し出していて、胸が張り裂けそうな――これ以上、自分を抑えておくことができない気持ちになっていく。

「俊くん、大丈夫?」

 彼女は手を伸ばし、あの細い指先で俺に触れようとした。

 ――ダメだ。これに触れてしまえば、俺はもう自分を抑えることができなくなる。

 短い時間の間でそう確信した俺は、彼女から一歩下がった。



「もう来るな」



 俺はそう、言ったんだ。

 地毛の茶色い髪の毛は、小さな体と共に震えていた。徐々に伝わり始める現実と虚構の夢の狭間で、どこを見ようとしているのかさえわからずに。

「どうして?」

 問い返す声も同じように、小さく――確かな不安と一緒に震えていた。

 石造りの玄関の上で立ち尽くしている友香に、はっきりとした視線を向けられないまま、俺はオレンジ色の室内電気の光を背に受けながら彼女を拒否する。

「お前といると、苦しいんだ」

 言いたくもないのに、言葉が漏れる。かすれてしまいそうなその声が、彼女に聞こえなければいいのにと思うのに、それははっきりと、彼女に伝わる。

「ど……して?」

 体よりも、声が大きく震えている。それさえもわかるほど、目に見える俺と彼女の距離は近い。


「お前が近くにいると、辛い」


 顔をそらしたまま、俺はそう言った。胸の中で渦巻く複雑な想いは、現実に具現化してはならないのに、それを止めることができなかった。きっと、噂を聞いてしまったからだ。今にして思えば、あんなくだらない噂に惑わされてしまった自分がむしょうに情けなくて、自己嫌悪に陥ってしまう。

 何も言わない彼女へと、俺はゆっくりと視線を向けた。そこには――――




 顔を抑えたまま、彼女は涙を流していた。




 俺は、その姿の友香を見ることしかできなかった。というよりも、体を動かすことができなかったのだ。

 さっきまでの複雑な思いが一つの直線になり始め、ようやく俺は冷静になることができた。今見える現実は、自分がしてしまったこと。見たことのない彼女が涙を流す姿を作り出してしまったのは、他ならぬ俺なのだということを理解した時、罪の意識が温泉のように湧き出てきて、彼女に触れようと手を伸ばした。

「もう……」

 小さく漏れた彼女の声が聞こえると、俺の手は止まってしまった。



「……帰るね……」


 

 涙を白い玄関に落としながら、彼女は振り向いてあの黒いドアから外へ出て行った。あの時のように、ドアが閉まった音だけが俺の中で木霊して、それが途絶えると、少しだけ……いや、大きな苦しみとして響いた。

 この石造りの床には彼女の涙だけが取り残されていて、悲しみはそこだけでなく他の場所にも染み込んでいて、ただただ、痛みだけを伴うものだけでしかなく、俺は立ち尽くすしかなかった。

 ロビーの電灯にも、黒いドアのふちにも、すぐそこにある階段の手すりにも、重ねられた俺と兄が買った漫画にも、後ろにあるスイセンの絵にも……彼女が残したものが、染みついている。


 もう、いつかのような吐息は出ない。出てくるのは、淡い色になりつつある過去の記憶と、楓と銀杏の樹、友香の姿だけ。


 苦しいと思うだけで、もう俺はどうにもできないと悟って、これからは先へ進むしかないのだと――そういう確信だけが、胸のずっと奥に作り上げられてしまい、俺には彼女の名を呼ぶことも、彼女を抱きしめることもできない。



「……帰るね……」



 それが最後の言葉なのではないかと、よくわからない想いが浮かび上がって来た。友香はもう二度と、俺に微笑みを向けることも、あの栗色の髪の毛を輝かせることも、大きな瞳を俺の心を響かせることもないのではないか――

 そんな不安も出てきたけれど、今はただ……彼女が立っていた場所だけを見つめて、彼女の姿が幻のように映し出されているような錯覚に陥ってしまい、胸の痛みが大きくなる。



 彼女を抱きしめることができていたのなら、俺は自分の心をここに縛り付けることなんてなかったのに。








 それから、俺は友香と会話をした覚えはない。

 毎日のように学校へ行って、勉強をするだけの日々。

 彼女を見る度に心は痛んで、あのバスの中でも彼女を見るのが辛くて、全てから逃げ出したいがために勉強をする。



 木枯らしが舞って、寂しさだけに囚われたかのような秋が足早に過ぎ去ってしまって、そこから訪れた冬にはいつもの姿があるわけだけれど、俺にとっては別物でしかなく、まるで意識が消えてしまいそうな双眸でその風景を見つめるだけだった。



 俺は、中学校を卒業した。

 そして、なんとか西高に合格することができた。



 後ろに振り返れば、失ってしまったものがたくさんあるのに、俺はそれに振り向こうともせず、実家から車で三時間近く離れた土地で一人暮らしをすることになった。






 まるで、エデンの東へ逃げてしまったカインのように。







第二話、終わり

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