ep7 宵町
二週間ぶりに投稿しました
客観的に見れば犯罪だろうし、親御さんが言えば犯罪になるんだろうが、あの少女の意思を応援したいと思う以上、覚悟は決まっていた。
(結局、家しかない…)
そう結論付けて、新しく友達追加されたアカウントを探す。
(あれ、名前ってなんだっけ?)
そう言えば思い出せない。最近は名前なんてどうでもよくなっていた。すると追加された友達のリストに『宵町しずく』という名前を見つける。
(ああ、こんな名前だった)
やたら可愛い、名前負けしそうな名前だ。自宅の住所とパソコンを持参するようにメッセージを打ちながら帰宅した。
――ピンポーン。
翌朝になったのだろうか。それにしてはまだ少し寝足りない。
――ピンポーン。ピンポーン。
騒々しい。寝転がったまま時計を見ればまだ午前の九時だった。新聞の勧誘か、テレビ局の集金か。なんにせよ無視していれば――ピンポーン。
不快に思いながらサンダルを突っかけて玄関のドアを開け、それと同時に宵町しずくと約束をしたことを思い出す。
「お、おはようございます」
私服の女子中学生がいた。でかでかとアルファベットの書かれた薄手のTシャツに、スポーティーなショートパンツ、スニーカー丈の靴下から膝下まで覆うスパッツの間の肌色は若々しい。しかしどれもよく着古されたような綻びや皺があり、やはり元気な印象はない。
確かに時間は指定しなかったが、流石に早くはないだろうか。
「……おはよう」
顔を覆うようなぱっつんの髪型も相まって、表情は読めない。
「今日は、よろしくお願いします」
小さな玄関で頭を下げる。
「まあ、入って」
あまり人に見られていい場面ではない。特に近所付き合いなどもしていないから、不審に思われて警察を呼ばれたら一巻の終わりだ。
少女は靴を脱ぎ、おずおずとワンルームの狭い部屋に上がる。そしてきょろきょろと室内を見回しては時々びくりと肩を震わせている。
「何か?」
部屋には敷布団とカップヌードルのゴミと電気ポッド、他はPCとその周辺機器しかない。これでも散らかってない方だと思う。
「……」
会話のレスポンスが遅いのはこの子のパーソナリティのようだ。言いたいことがあっても言葉にならないかのように口を開けては閉じ、
「……あの、私、パソコンは持ち出せなくて」
「?」
「……親の物なので」
聞きながら携帯を手に取ってメッセージを見れば、確かに書いてある。というか今朝の五時だ。気付く訳がない。コンビニからネカフェに寄らずに直帰したとは言え、深夜二時上がりなのだから。
「まあいい。今日はテキスト貸すだけだから」
初心者のうちはそれで勉強した方が手っ取り早い。確か押し入れにしまったままにしていたはず。
押し入れの中の段ボールの中に、案の定、昔勉強した参考書がいくつも詰まっていた。その中で適当に読んで分かりやすいシリーズを厳選して少女に渡す。
「はい。まあ、読んでて分からなかったら言って」
「あ、ありがとうございます」
少女はその場で本に目を通す。
「今日はこれだけだから」
それだけ告げると少女はばっと顔を上げて、
「……あ、あの、ここで勉強してもいいですか?」
「……いいけど、この部屋クーラーとかないよ」
「ありがとうございます!」
こうも素直だとこの少女のことが心配になってくる。宵町しずくはそのまま座り込んで本を読み始めた。まあいいか。
「はい、これ、パソコン。自由に使っていいから」
最近全く使っていないノートPCを渡しておく。パソコンの勉強をするのに実機がないとどうしようもない。
「あ、ありがとうございます!」
髪で隠れて見えないけれど、目を輝かせているような気がした。
宵町しずくが勉強している場所から少し距離を取りながら、自分で新しく考えたプログラミングを打ち込んでいく。
スピードが必要とされる処理はないから、ネカフェのPCを使うより家のデスクトップ型のPCで作業した方がセキュリティ面で優れている。
少女が汗を拭うのが目の端に映る。
集中して作業をするには厳しい気温だろう。自分も普段ならまだ寝ているか、ネカフェに籠るかしている時間だ。
PCは問題なく動作するのだが、
「暑いな……」
案の定の蒸し部屋のあまりに、声に出さずにはいられない。
変に話しかけるようになってしまったかと思ったが、少女は反応することなく、熱心に参考書を読み込んでは時々ノートパソコンに何事かを打ち込んでいる。
凄まじい集中力だ。
扇風機に首を振らせて、時々ぼーっとしながら時計は十二時を指した。
朝飯を食べてないせいと暑さでカロリー消費が激しいせいで、大分腹が減った。たまに使うデリバリーで冷やしうどんをカートに入れる。基本的に一日一食の習慣だが、今日はそうもいかなそうだ。
できるだけ無駄金は使いたくはないのだが、
「あー、なんか食べる?」
ただ一人の少女を残して自分一人だけ注文するのも、『罪悪感』のようなものがあった。
「もしもし、宵町さん?」
「……っ」
少女はやけに驚いたように、びくっと肩を震わせた。
「デリバリー頼んだけど、なんか食べる?」
「……でも、悪いです」
遠慮しているのだろうか。
飛び込むように勉強教えてくれと言って、知らないおっさんの自宅まで来ておきながら、ただの頭の回らない少女というわけではないようだ。というか年頃のせいか、なかなか距離感を掴むのが難しい。
ただ、何も食べたくないと答えないあたり、腹は減っているのだろう。
「アレルギーある?」
「……多分ないです」
「じゃあ冷やしうどんでいいか?」
「……ありがとうございます!」
一瞬前髪が跳ねて、その二重の大きな瞳が見えた。頬も紅潮している。跳ねなかった髪の毛が汗で肌に張り付いている。
「調子どう?」
なんとなく尋ねていた。少女はキーボードに打ち込む手を止める。
「……この参考書は学校の図書館では見たことがないですけど、分かりやすいです」
「そんなことある? 結構有名だと思うけど」
「多分、難しいから中学には置いてないんだと思います」
「なるほど」
言われてみれば、中学生が取り組むには難しいかも知れない。文字と数式だらけで少なくともプログラミング初心者が取り組む内容ではない。
考えれば考えるほど、宵町に渡したテキストは難しいと思えてくる。微分も積分も普通に使っているし、そもそもただのシステム開発のためのプログラミングの参考書ではない。もっと実用的なネットワークセキュリティの参考書だ。
これだけを読んでハッキングができるわけでもないし、そもそもクラッキングをしているわけだが、
(どうして俺はこんな簡単なことに気付かなかったんだ…?)
いやそれより、少女が分かりやすいと答えた方が問題だ。様々な理論が複雑に絡み合っているこの解説を初心者が理解できる訳がない。無根拠に自信を持つ人間が自分が出来ると思い込んでしまうのはよくあることだ。
「ハーフィンダール関数を使ったセキュリティホールの解析、できる?」
テキストの内容が理解できなければ言っている意味は分からないはずだが、
「できます」
宵町は即答した。
「じゃあ試しに」
少女に貸したノートPCを操作して、仮想空間上に練習問題を用意する。
「やってみて」
少女はこくりと頷いてキーボードを叩き出した。ターミナルから複数ウィンドウを展開し、七層の計算層を作り、検討を加えてゆく。
その操作は初めてとは思えないほど迅速で的確だ。自分でもそうする。あまりにも自分の選択と一致する様子を見て、鳥肌が立つ。
「やったことあるのか?」
「……」
少女は集中して答えない。
やがて全ての作業が完了すると、
「終わりました」
少女はこちらを見上げた。十分もかかっていない。
「やったことあるのか?」
「……初めてです」
「初めて…? 数学は知ってたのか?」
「……図書館で勉強しました」
「大学の基礎レベルの数学が必要だぞ?」
「勉強しました」
さも簡単だったと言わんばかりにこちらを見上げてくる。
大きな思い違いをしていたのかも知れない。ワンテンポ遅れて会話するのは頭の回転が鈍いからだと考えていたが、
(こいつ、頭がいいのか…?)
この吸収スピードは自分やあの浅倉よりも完全に勝っている。異常なまでの学習能力だ。
「なあ、学校の成績――」
成績はどうか、聞こうと思ったとき、玄関のチャイムが鳴った。
「ウーバーイーツです」
「はい」
答えて、声がよく聞こえるくらいに薄い玄関のドアを開いた。
「クッサ」
「は?」
それは、女の声だった。心底呆れたような低い声で、その配達員と思われる女はこちらを見もせず大きなリュックから袋を取り出している。
その女は体のラインが出るサイクルウェアで、スタイルが良い。サングラスで目元を隠してはいるが、口元もかなり整っていて、よほどの美人であることが分かる。そして、どこかで見たことあるような気がする。
「お届け物の冷やしうどん二丁です」
息を止めたように苦しそうな声音で半ば投げやりに渡されると、女は咳き込みながら走り去る。
「二度と来んな!」
その女に中指を立てて、ギリギリ聞こえるように吐き捨てて家に戻る。
妙に視線を感じると思えば、少女がこちらを見上げている。窺うように見ているのは、今の怒鳴り声が聞こえていたからだろう。
いつもは誰もいないからどんな暴言でも好きに吐いていたのだが、なんだか決まりが悪い。
少なくとも中学生の教育にはよくないだろう。
「……この部屋、臭いか?」
宵町は鼻をすんすんと部屋の匂いを嗅いで、ちょこんと首を傾げた。
「……分からない」
「……そうか」
(あのクソ女適当ぬかしやがって!)
ああいう他人を見下して自信を持つ女が一番嫌いなんだ。二度と宅配なんて頼むかと心に決めながら、うどんと箸を出して少女に手渡す。
「ありがと」
「ん」
蓋を開け、割りばしを割ると、ただひたすら啜る。
テレビのない部屋で、扇風機の羽音と麵を啜る音が響く。
そう言えば少女はどうしてあのイジメの主犯格を曝したのが自分だと特定できたのだろうか。それだけでなく、どうして名前まで知っていたのか。今更になって気にかかるが、それを聞いてしまえば自分がしたことを認めてしまうことになる。
殆ど認めているようなものではあるが、自分の口で言うのは癪に障る。
というかこの少女はのこのことこの家までやってきたが、どうしてそこまで確信を持っていたのか。
「知らない人の家に上がっちゃいけないって教わらなかったのか?」
「……?」
少女はもちゃもちゃとうどんを噛みながら、質問の意図が分からないと首を傾げる。
「今日門限は?」
「……十七時です。お父さんが帰ってくるまでに夜ご飯を作らないと」
少女は自分に言い聞かせるように言った。
(中学生くらいになると料理をするようになるのか?)
「母親は?」
「いません」
きっぱりと、何の感慨もなく答えた。まあその気持ちはなんとなく分かる。
「俺もいないんだよな」
当時は悲しみに暮れていたが、それはとっくの昔の話だ。
「……どうして?」
「死んだ。病気で」
「お父さんは?」
少女の気を引いたのか、質問を重ねてくる。
「もっと昔に蒸発した」
「……蒸発?」
「車に跳ねられて死んだらしい。その次の日に俺は生まれた」
少女は弾かれたように顔を上げた。
「悲しくないの?」
「悲しいものなんだよ」
大体世の中はこんなもので、やっと慣れた。
地球にあればリンゴが落下するように、タイミングが重なれば人は跳ねられるし、調子が悪い体なら癌も発病する。人間の意思で変えることができない自然現象だ。
世の中はそんな風に元々悲しいようにできている。
悲しみじゃあ生きられないから怒りに身を任せるんだ。
(そんな目で見るなよ……)
何も言わない少女は代わりに慌てたようにブルブルと首を振った。
「別に怒ってない」
それどころかむしろ穏やかな気持ちですらあった。
「あの、そろそろ帰ります」
少女が発言したことに気付いて時計を見れば、まだ十七時前だった。
「読み終わったので、次の本を貸してください」
「読み終わった⁉」
数時間で読み終わる文量ではない。
だが、近づいてノートパソコンを覗いて見ると、確かにテキストに書いてある内容をなぞっている。それどころか、練習問題まで完了している。
昼を過ぎてからはずっと無言だったせいで途中から意識の外にいたが、いつの間にここまで進めたのだろうか。
「本当に、これ全部を読んだのか…?」
「……はい」
「記憶力は?」
いくら理解が早くとも、頭に入れておくことができなければ意味はない。
「……記憶力?」
「学校のテストの点数は?」
中学レベルのテストの殆どは暗記で解く問題だ。満点を取っていれば記憶力の高さの証左になる。
「……記憶力はいい方だと思いますけど、点数は平均点です」
「平均点? どの科目が?」
「全科目です」
「……っ」
それはあり得ない。少なくとも数学であれば余裕で満点が取れるはずだ。面倒な証明まで頭の中で考えてしまうのであれば話は別だが、中学レベルで出る問題は高が知れている。
「手を、抜いているのか…?」
「……はい」
宵町はそれがさも当然のことのように言う。
「どうしてそんな――」
言いかけて、そもそもこの少女が同級生から酷いイジメを受けていたことを思い出す。
「いや、いい。次のテキストはどんな内容にする?」
「……」
少女は悩む。
今まで忘れていたが、この反応の鈍さが同級生をイラつかせるのかもしれない。自分もこれくらいの頃ならば、イジメに加担していただろう。
人間は残酷だ。自分の残酷さに全く気付かないのだから。
俺はそんな奴よりはマシだ、そんなことを考えていると、宵町は意を決したように顔を上げる。
「……直接、教わりたいです。まだ早いですか?」
「……っ」
やはり、この少女は聡い。瞬発力はないが、思考は的確だ。
犯罪まがいのプログラムを一人で動かすには、テキストに載っていない技術が必要で、クラッカーはそれぞれに特有の技術体系を構築している。
それを教わりたいと言っているのだろう。
「……参考書は家で勉強してきます」
テキストに書かれていることを一人で学ぶには限界があることを理解している。
「まだ判断しかねる。取り敢えずこれ読んで」
基礎固めに必要な二冊を見繕って渡しておく。どこまで教えるべきかは宵町自身のレベルに依る。
「……分かりました」
宵町は学校指定と思しきバッグにそのテキストをしまい、
「……パソコン、借りていいですか?」
「ああ、いいよ」
今日貸したノートパソコンのデータは全て消去済だから問題はない。
「……明日も、学校が終わってから来ていいですか?」
「明日はバイトだ。明後日なら」
「……じゃあ、明後日。その、シフト教えてください」
「シフト⁉ まあ、いいか。メールで送る」
いきなりよくそんなことを聞くものだと常識を疑うが、減るものでもない。
「ありがとうございます。……それじゃあ、またお願いします。今日はありがとうございました」
少女はペコリと一礼すると狭い玄関から外に出た。ばたりとドアが閉まる。
腹も減ったことだからと再度デリバリーを注文しようとサイトを開く。カップラーメンなら家にストックがあるが、今日の夜はもっとガッツリしたものが食べたい気分だった。調べていると、不思議な感慨が沸いてくる。
さっきまで見ず知らずの少女がここにいた。
今まで誰も入ったことのない部屋だ。誰かと一緒にいたこと自体久しぶりだ。
誰かといることが嫌になったと思っていたが、そうでもないらしい。きっとあの少女が、自分よりも哀れだからだ。
『クッサ』
あのクソ配達員が乱暴に放った言葉が脳裏を過る。
デリバリーは止めて、外で飯を食おう。ついでに一風呂浴びて。