ep5 エゴ
翌朝、というか午後四時にバイトが始まる。
「ちょっと加賀見君さあ、君最近かなり時間ギリギリに来るけどそれ止めて欲しいんだよね」
「はあ」
早々に店長は水を得た魚のように語る。先ほどまで入っていたバイトの竹本は強面の男だから、気の小さい店長は萎縮してしまう。それから解放されたことで嬉々として弱そうな人間に八当たって始まるがこの火曜日のシフトだった。
「あんまり急だとそもそも間に合わないかもしれないしさ、君がもし事故とかに遭って急に来られないってなったら困るわけじゃん」
「はあ」
「はあじゃないよね。はいだよね。そもそも十分前行動は社会人としての常識だよ⁉ それくらいのマナーは知っとこうよ⁉」
「すいませんした」
「次遅れてきたらどうなるか分かってる⁉ 給料下げるよ⁉」
「はい。さーせん」
ぼそぼそと謝罪して嵐が去るのを待つ。
厄介なことに、この禿は後ろめたいことは何もはない。万引きを働いたり、闇金の取引をしたり、誰かに暴行を加えたりといった経歴がない。だから社会的に罰することが出来ない。
残念ながら言葉によって相手を不快にさせたことを犯罪と見做す法律は整備されていない。その上監視役の男がこれだから注意する者もいない。
その環境がこの男を助長させてしまっている。どこにでもありふれている、典型的な嫌な奴だ。
いちいち腹を立てるのも馬鹿らしいが、どうしようとも腹は立つ。
「死ね…!」
その後ろ姿に中指を立てるたび、転職を考える。ただし、選択肢はバイトに限られる。高校中退、中学卒業の学歴で正社員雇用をするような企業は殆どない。そこで考えられる主な業界は小売り、飲食、運輸の三つだ。
もちろんそのどれも経験済みで、どこでも社員共はクズで溢れていた。運が悪かったのか、そもそも世の中がそうなっているのか、はたまた自分に社会適性がないだけなのか。
何度も面接をして、何度も落とされるのは心理的な負担が大きい。その上入ってからは不満のはけ口にされるから、つくづくこの世界は生きづらい。
そこまで考えてから思考の時間を無駄に感じて、自分の使命を思い出す。一人の禿を世界から消滅させることなんてどうでもいい、世の中の不条理を断罪するのだ。
それらの感情の全てを押し殺しながら、来客に爽やかに挨拶をする。
「いらっしゃいませ」
「久しぶりだな、加賀見」
よく通る低い声が響く。見れば痩身長躯に紺のジャケットとベージュのパンツのビジネスカジュアルを装い、細眉とワックスで固めた髪型は毎朝時間をかけているのだろう。
そして何よりその覇気のある顔つきには自信が溢れていた。
「……速水から聞いたのか」
高校のクラスメイト、それも一番仲が良かった男だ。五年以上顔を合わせていないが、それでも男のやたら自信に満ちた笑みですぐに分かった。
「クラスでぶっちぎりで一番だったお前が、こんな小さな箱で人生を無駄遣いしてるなんて思わなかったぞ」
その鷹揚な口調は揶揄うものではなく、ただ見下していた。
「なんの用だ、……浅倉」
「俺は成功した」
「……っ」
店の外を見れば立派な外車が停まっている。まだ大学を出て三、四年程度のはずだが、どうやら起業したらしい。
「作曲ソフトだ。脳波を読み取ってメロディーとコードを打ち込んで、それを数万のパターンからその個人の好みに合わせてアレンジする。誰でも簡単にオリジナルの曲を作れるようになったんだ。聞いたことがあるだろう?」
「……お前だったのか」
少し前に世間を騒がせていた。何百人ものクリエイターの存在意義を奪ってしまったが、それ以上に音楽文化の発展に貢献しているだろう。そしてその会社の利益も途轍もないものになっているだろう。
「お前を雇ってやろう」
その男、浅倉一輝は尊大に言い放った。
「は…?」
突然のことに理解が及ばない。
「しばらく俺の会社は成長を続ける。お前は役に立つだろう」
「……馬鹿言え。見たら分かるだろ。俺はこんな小さな箱で小間使いされてるんだ。お前は俺の七年間を知らない」
もし役立つと思っているのなら、それは短慮と言わざるを得ない。
「俺はあの高校で天才はいるもんだと思ったよ。自分がどんなに努力しても敵わない、一足飛びに凡人の努力を追い越していく化物、それは天に与えられたもので後から身に付くことはない。その才能が枯渇していないことを証明しろ」
高校時代、浅倉はライバルのような存在だった。入学して同じクラスで、最初の印象は高慢でいけ好かない野郎だと思ったが、定期テストで競い合うようになってからは自然と話す機会が増えて、気付けば一番仲が良くなっていた。
「次の国家高等情報技術者試験、三類に合格すれば雇おう。期限は約半年。大学院で二年多く学んだ学生のためのルートですら合格率は10%だ。一般の試験合格率は1%の半分を満たない」
有名な試験で、日本一難しいと言われる国家資格だ。
「俺が一年で合格したのだから、できるはずだ。お前の才能があれば」
「……」
「もしお前が望むなら金も支援しよう。バイトしながら勉強するのは大変だろうからな。どうする?」
浅倉はその形の良い眉を上げて、答えなど分かり切っているかのように問うてくる。
「……少し、考えさせてくれ」
「ふっ。いいだろう。俺も忙しい。一週間後に答えを聞きにまた来る」
浅倉は存外すんなりと引き下がり、踵を返した。その背筋の伸びた後ろ姿がまぶしかった。
「ちょっと加賀見君、昨日もそうだったけどさ、君仕事中なんだよ⁉ 君がお友達とだらだら喋ってる間も給料出ちゃってるの! そういう契約なわけ!」
バイトが終わった深夜二時、プライベートブランドの安いカップ麺を片手に、人の消えた都会を歩く。
浅倉の提案についてじっくりと考える時間が必要だった。
学生時代、浅倉という男は高慢でいけ好かないこともあったが、あれで正義感だけでなく思いやりもあり、一種のカリスマを持っていた。
『俺は将来、誰にとっても生きやすい社会を作る。不平等に苦しむ人々を救おう』
それは一歩間違えば異端となりうるイデオロギーだったが、浅倉が言えば誰もが社会が良くなる予感がした。
それに対して自分は誰かを惹きつける才能はこれっぽっちも持っていなかった。勉強の才能なんかよりもずっと社会に出てから役に立っただろう。だからこそ成功した。
そんな浅倉の提案は十分に魅力的で、きっと受け入れても悪いことにはならないだろうという確信があった。
高校を中退してしばらく経ってようやく心が落ち着いた頃、貯金もなかったから適当にバイトを始めた。
大学進学する金も勉強する時間もなくて、もう自分の人生は終わったんだと思った。
そんな風に夢も希望もない人間がただのバイトでその場しのぎに暮らしていても、未来は見えなかった。
アルバイトはどれだけ頑張ろうとロクに稼げない。そこで稼ぐことと、仕事のつらさや努力は大して関係がなく、それ以前の評判で全てが決まってしまうことを知った。
顔が良いわけでも、明るくコミュニケーションがとれるわけでもないから、ただじめじめと搾取されていくだけだった。
その頃は安定した稼ぎを何度も夢見ていた。
それだけじゃない。
先日訪れた速水や三澤といった同級生達の結婚を聞いて、浅倉と自分の差をまざまざと見せつけられて、
「もう二十五だしなぁ…」
同じクラスで馬鹿やってた連中が、心が通じ合っていたはずの相手が、自分より遥か遠くへ行ってしまって、自分一人だけ取り残された感覚。
きっと幸せだろう。
分かっていたことだ。いつかはこうなる。
「くそおっ!」
分かっていても、自分だけ不幸のどん底にいることを意識してしまうと、情けなくて仕方がない。
小さなコンビニで知らない人間に愛想を振りまいては、性根の腐った男にこき使われているなんて。
虚勢すらも剝がされた重ったるい足取りでネカフェへの路を辿る。
どんなに憧れていても、二つ返事で納得できない理由がある。
夢も希望もなかった頃、代わりに始めたのがプログラミングの勉強だった。そして応用的にハッキングの技術を学んで、沢山のプログラムを作り出した。
この世界の仕組みを憎んで、同じように理不尽に抑圧されていた人間を救いたいと思った。
上下関係がある理由を知っている人間はあまりいない。それは優秀だからでも劣等だからでもなく、一重に組織として円滑に物事を進めるためのものだ。
そして学力はその上下を定める手段の一つでしかない。
高校、大学と偏差値に分けられて卒業していくのは物事を円滑に進めるためであり、そのシステムから零れ落ちた人間が存在する。
自分がそんな人間だったから、零れ落ちた人間を救いたいと思った。あるいは、救ってもらいたかった。
今日、普通の人間になるチャンスを与えられた。普通に稼いで、普通に生きて、普通に結婚して行くチャンスだ。
ただ、普通に生きていくためにはこの生活とは別れを告げなければいけない。自分がしていることは犯罪行為だ。
* * *
細身中背の男は女の体を撫でるように支えながら、嘘の愛を囁く。互いに中途半端に衣服を崩したまま体を擦り合わせている。
「君とはこれからもずっと友達でいたいな」
「それはこれから決めるわ」
しな垂れかかる女は酔ったように恍惚として、満更でもなさそうに男の唇に自分の唇を這わせる。
「今までの女の子の中で飛び切り可愛いよ」
「貴方は一番強引ね」
互いに理性を捨てた言葉を重ね合う。男はそうしながらも女の体を強く締め付け、女も男の体を刺激する。
多額の金をちらつかせ、女が望んだものを買ってやる。そして女の望む言葉を耳元で囁けばその耳をペロリと頂ける。
両方が気持ちよくなって、もっと気持ちよくなりたいと思って、ホテルに入る。その瞬間に理性を飛ばして体までもを頂く。
それがこの男の生きがいだった。
愛情も欲望も同じようなものだが、このときばかりは欲望が勝ってしまう。今日の女はようやくここまでこぎつけた。この一週間ずっとこの体を楽しみにしてきた。
誰も邪魔できない至福の時間。
男は自分はなんて神に愛されているのだろうと思っていたのだが、丁度そのときポケットに入れたままの携帯が鳴った。
「誰?」
女が勝手にスマホを取り上げ、その画面を覗く。
「奥さんだ」
「悪い人」
女は携帯を投げ捨てて、行為を続けた。男はこの時間帯に妻から着信が来ることを不審に思った。だが今はそんなことよりも。
赤子のような寝息を立てて寝ている女を満足気に眺めながら、シャワー室を出た男は自分の携帯を取り上げた。
そこには妻からのメッセージが十三件。
男は何事かと思いながらそのメッセージを開くと、
「な、なんだこれ⁉」
そのどれもが自分と数多の女とホテルに入り込んでいる場面を撮られていた。
不快な金切り声に女はぼんやりと黒ずんだ目を開く。
* * *
「はあ⁉」
ネカフェに到着し、不倫夫の首尾を確認すると予想だにしなかった一文を発見した。
『妻の浮気調査を依頼します』
それは夫の方が探偵に依頼したものだった。
不倫していたはずの男が、それも複数女性と本気と遊びにふけっていた男が、その現場を全て暴露されて、苦し紛れに自分の妻が不倫したのだと主張しようとしている。
「いや流石に無理あるだろ…」
自らの行為に悪いという自覚がある者は、それを裁かれるより他の悪を見つけては原因にしたがる。何よりもまず自己弁護に走るのは仕方ないことだが、妻の不倫を言い訳にするには無理があるだろう。
そして下らないと思いながら妻の方の通信履歴を探る。
するとそこには妻と他の一人の男との関係が露わになった。
相手とは現夫との繋がりがきっかけで出会い、それから二人は裏でこっそりと会うようになった。相手も社長であり、夫よりも稼いでいる男だった。
そして夫が遊び始めたのは確かに時系列を見れば妻の不倫の後だった。
はあと一息吐いて、グーで机を殴る。
「くっだらねええええええええええ……」
あまり大きな声を出せないから絞り出すように、そして口角が上がった。いっそのこと笑えるくらいどちらもクズだった。
自分のことは棚に上げて相手を非難しては、自己弁護しながら罪を重ねた結果が、こんなくだらないものだったなんて。
夫の方にも証拠となる映像や画像を匿名で送り付けておく。
「はあ」
何のためにこんな意味のない観察をしていたのだろう。まだアリの巣を観察した方が実りはあるのではと思えるほどの徒労感だった。
ああそうだ、子供のためだったっけ。
今となっては何がどうして不倫を突き止めることが子供のためになると判断を下したのか覚えていない。元々妻が依頼していた探偵が無能だったからか、それとも出歯亀精神からか。
いや、子供に自分の母が苦しむ姿を見て欲しくなかったからだ。
最初は妻が一方的に被害者に見えてしまったのだが、どうもそれも違うらしい。清々しいくらいの両親で、そこに深い悲しみがないのなら、きっと心配するまでもなく子供達は楽に暮らしていけるだろう。
世の中はこんなクズばかりだ。
「俺はこんなクズには成れねえ…」
楽観的に生きられない。潔癖過ぎるのだろうか。いや、本当に潔癖なら、間違いなく浅倉の提案を断っていただろう。
「はっ」
皮肉げに笑う。
好きで悲観的になっている訳じゃない。
次の夜もまた、インターネットカフェから不倫夫婦の家を覗いた。夫婦の暮らしている家は監視カメラとマイクがあったため、事の顛末が分かった。
クラウドに侵入して、録画されていた映像を十分ごとに切り取り並べ、音声データを文字に起こす。
『裕美が先に浮気したんだ!』
『だって健司が退屈そうにしたからじゃない! それにあんなに沢山相手にするなんて、信じられない!』
案の定、どっちが悪いの悪くないのと言い合っている。
そんな言い合いが続いて、
『子供がいるのに…!』
『それはこっちのセリフだ!』
女が泣き崩れて、あとは声が小さいため聞き取れない。だが、顔を突き合わせるようにして小声で何事かを囁きあって、二人はキスを交わした。
それからは肉体的な展開が繰り広げられ、二体の獣が落ち着いて言葉を交わす。
『ずっと裕美だけを大切にする』
『私も』
指を絡ませて手をつないで、これまでのこととこれからのことを話し合った。男も女も全ての不純な関係を断ち切ると約束し、一緒に携帯の連絡先を消した。親になる自覚を持って、二人の間で体についていくつかのルールを定めた。
本人達にとってはこれでハッピーエンドなのだろう。
傍から見ればこの夫婦は自分達の誠実さを過大評価している。ひと月と経たずにこれらの約束を忘れてしまうだろう。
だがこれで全てが丸く収まったと思っている。
結局こんなもんなんだろう。
そこに不満が表出していない以上、自分にできることは何もない。上手くいくのならそれでいいし、上手くいかなかったらそれはその時だ。
二人が今後どうなるのかは誰にも分からない。いずれは二人とも年を取って不倫なんてできなくなるだろう。
汚いバチェラーを見終わった気分は悪くなかった。
マウスとキーボードから手を放して、背もたれに身を任せる。この瞬間ばかりは、自分が全知全能の神になれたように思えて気分が良い。
これが生きがいで、このために生きている。
今まで散々こうしてきた。世の中の絶対悪を駆逐するために、この世界の仕組みに異を唱えるために、悪を憎んだ。
今回のような不倫、前回のようなイジメ、前々回は詐欺、そのさらに前はパワハラ。中には善悪が判然としないものもあったが、もう数えきれないほど『悪』を破滅させてきた。
全てエゴで、違法行為だ。
法によって規制できない悪は平気で跋扈している。
性善説も性悪説もくだらないものとされてから随分経つが、確固たる悪がこの世には存在する。その限りにおいて、断罪するのだ。
イジメられた少女も、詐欺師に騙された娘思いの老婆も、上司に不正な評価をされ続けた男も、こうでもしなければ救われない。AIは発達しても、問題が公のものとなる前に対処するような法整備はまだまだ発展途上だ。
蹴られた少女、悲しみに暮れた老婆、鬱病になった男、ビデオに出演させられた女、薬物中毒になった男、不正に試験に落とされた少年。
この世は不平等だからこそ、権力には逆らえず、搾取される人間がいる。
そんな人達が歯を食いしばって、あるいは大きく口を開けて、あるいは茫然と嘆き悲しむ顔がずっと頭の中にある。
鏡に映った自分の顔だ。
能天気な人間はそんな顔を忘れてしまう。
だから自分は、
『昔俺を捨てた女が結婚する。絶対に殺す』
悪を殺す道を選ぶ。