ep3 成敗
少女は自殺しようと何度も考えたことがある。
学校の屋上、マンションの最上階、交通量の多い道路、家の包丁、湯を張った桶。
学校の屋上はそもそも入ることができなかった。マンションの最上階に行くと足が竦んでしまった。車や電車に迷惑はかけられない。家の包丁は怖くて、桶に顔を付けては苦しくなって顔を上げてしまう。
どうして世の中は自分をこんなにも理不尽に嫌うのかと不思議に思った。
嫌うだけ助けてくれない。
少女は机の脇に立つ少年に気付き、もうそんな時間なのかと立ち上がった。
小学校の頃から友達はいなかったから、もちろん期待していなかったし、やっぱり中学校でも友達はできなかった。
それでも、今まで通り誰とも関わらない穏やかな学生生活を送ることができるのだろうと無意識に期待していた。
様子が変わったのは中学校一年生の夏休み明けからだった。
その少年がすれ違う度に舌打ちをするようになった。
ただ怖くて、誰にもそれを言うことは出来なかったから、あるときから舌打ちが暴言に変わった。
それを話せる友達はいなかったし、親には到底話せない。
それからイジメ調査が実施されて、そのことを書いた。少年の実名まで挙げて、震える手で文字を打った。
音沙汰はなかった。
それから舌打ちと暴言はその少年以外からも聞こえるようになった。
だから先生に相談したのに、何にも良くならなかった。
大事にして父に迷惑をかけることもできなかったし、ずっと前から辛かったから、本当はもっと早くに全部終わらせるべきだった。
学校のゴミ捨て場の裏側は、昼休みには人が来ない。敷地は赤い葉を付けたレッドロビンの生垣に囲まれていて、外からは見えないようになっている。
少女はそこで立ち止まって目を瞑ると、少し離れてついてきた少年二人のうちスポーツ刈りの方がその鳩尾を蹴り飛ばした。
「ぐっ…」
少女は腹を抑えて蹲る。
その様は少年に快感を与えて笑顔にした。
「死ねクソ兄貴!」
少年は自分の足を痛めないように気を付けながら、蹲る少女の脇腹を蹴り上げる。
「お前の方が馬鹿のくせによお! 少し生まれたのが早かっただけで偉そうにしてんじゃねえよクズ!」
スポーツ刈りの少年はただ殴る蹴るしながら少女に絡む。それをもう一人、耳に髪がかかるほど伸ばした少年が少女の髪を引っ掴んで脅しつけるように頬を平手で叩く。
「お前、何か言えよ」
「……っ」
鋭い痛みに少女は声にならない叫びをあげる。
「ほら、あんまり黙ってるとこっちもつまんないって言ってんだろ?」
暗い少年は足元のゴミを見る以上に少女を見下す。
「私は、関係ない…!」
少女はスポーツ刈りの少年の兄貴ではない。だが少年は逆上し、サッカー部の足を活かして少女を蹴る。
「死ね! 死ね! 死ね!」
「ははっ」
暗い少年も笑う。
倒れた少女は顔中に滲む汁を流しながら、終わるまで顔を伏せる。
怖い。つらい。助けて。
でもこれが最後だと思えば耐えられる。
「昨日のウイルスはどうだった? お前のために頑張って用意したんだ。父さんを説得するのには苦労したぜ」
「ぐっ…」
少女はただ歯を食いしばって、その隙間から呼吸する。
「てかお前片親だったんだな」
ウイルスで情報を手に入れた暗い少年が少女の服を引っ張り上げると、背中と腹には無数の赤と青の混ざったあざがあった。少年はにやりとした。
「イジメ甲斐がある」
そのあざをつねり上げる。
「ぐう…!」
少女は昨日父の機嫌が悪かったのはそのウイルスのせいだったのだと分かって、少年達に対する怒りを覚える。しかし、次の瞬間その少年に空いた腹を蹴られてまた地面に蹲る。
「もっとやろうぜ!」
スポーツ刈りの少年に勧められ、暗い少年も笑いかけて、その時不自然な光の反射が目に届く。
「なんだ、あれ…?」
暗い少年は少し離れた生垣に埋まる何かを見るために近寄り、その何かがざっと動いた。
「おい待て!」
少年は一部始終を撮られていたという最悪の可能性を考え、
「ヤバい…! 今のを撮られた…? 追いかけろ!」
「はぁ⁉」
走り出し、スポーツ刈りの少年も後に続く。生垣に飛び込んで敷地の外へ。
少女は何事かと顔を上げ、誰かが来てくれたのかと期待し、期待を押さえつける。期待していてもロクなことはない。今日までのことが明日から変わるとは考えない方が妥当だ。
そしてポツリと一つ言い残して、
「死にたかったのに」
苦しみから嗚咽した。
* * *
胸糞悪いものを見た。少女の体の痛々しいあざと、首が締まって死にそうだった苦しみの表情はこの世界にあっていいものではない。
「お前らの人生終わらせてやるよ…!」
撮影のために使った小型のビデオカメラはポケットにしまい、何も知らないふりをしてただ帰路を行く。
少年達には姿を見られてはいない。昼間でも人の多い最寄り駅に近づいた辺りで少年達は追い抜かすように走って行った。息を切らして必死な表情は見ものだった。少女の苦しみに比べれば取るに足らない。
イジメをして人の人生をめちゃくちゃにした奴が、まさか自分がその罰を受けないと思って許されるはずがない。
本当はたったの二人だけではなくて、それを許していた同じクラスの連中まで正義の元に晒してやりたいところだが、とりあえずはこの収穫だけで我慢する。
それにしても予想が的中して良かった。
イジメの主犯と思われる二人の少年だが、その証拠を中々残さないのはやはり校内の監視カメラの位置をよく把握していたからだったようだ。
現代の学校は一クラスに最低一台は監視カメラが設置されていて、常に起きていることをAIが解析している。その監視の目が届かない場所の方が圧倒的に少ない。
言い換えると、少年達がどこで隠れて少女に加害しているかが分かるということだ。
少年達は今までそれで上手くいっていたから油断していたのだろう。監視カメラに映りさえしなければ大丈夫だろうと安心してしまった。デジタル世界しか見えなくなって、アナログ世界への警戒を怠ってしまった。
現代人は監視カメラの映像とAIの判断ばかりを信じて、大事なことを見落としてしまうようだ。
陰キャの方が某有名IT企業のドラ息子だ。スポーツ刈りの方は暴力の快楽に溺れてしまったらしい。本来であれば親や教師がしっかり叱ればスポーツ刈りの方はあそこまで堕ちなかっただろう。だが、ドラ息子がいることで矯正されることなく、ねじ曲がって育ってしまった。
同情の余地がないことはないが、中学二年生にもなって自分を制御できず、あの行為を自分の中で正当化してしまった時点で罪は大きい。
穏便に終わらせるつもりなど毛頭ない。奴らの罪は地獄の業火にくべてやる。
そしてその父親にも、イジメを許容した周りの人間にも責任を取らせる。
そのまま電車で直接いつものインターネットカフェに到着する。
午後二時。
無理やり頬を吊り上げながらフォートプログラムを起動し、震える手でビデオを編集する。録画の開始と停止を整えるだけだ。
「はっ」
奮うように鼻で笑い飛ばし、複数のアカウントで無数のSNSに拡散する。もちろんそのアカウントの情報はダミーだ。クソガキ共のように簡単にバレるようなヘマはしない。
『私立○○中学校、イジメの現場。父親は有名IT企業○○の役員、○○○○氏』
午後二時十分。
大きな達成感を覚えながらネットカフェを退室し、晴れ渡る空を見てガッツポーズをした。
「ははっ」
込み上げてくる笑いと冷や汗を拭いながらバ先ではないコンビニに寄り、缶ビールを四本仕入れて自宅に向かう。
東京の中心の整った街並みから少し外れれば雑然とした営みが行われる。狭い歩道と錆びたガードレールを通り、湿った油の匂いのする居酒屋の前を超えて行く。
世界とはかくも不平等なもので、人間はどうしようもなく互いに貶め合う。だがそれは貶めようとする人間が悪いわけではなく制度が悪いのだ。
制度を憎んで人を憎まず。誰の言葉かは知らないが、昔から言われていることだ。
とは言え超高性能AIが世界を調律しようとも、世界は不平等で、それは人間の本質の証左だ。
無力な人間は結局人を憎むしかなく、人を憎むだけでは何も変えられない。
だから、そんな無力な人間の力になると決意した。
無力な人間を貶める人間を、貶める。
すぐに事件は拡散されて、一週間も経たずにその中学校の話でニュースはもちきりになった。隠ぺいに関わった人々は懲戒処分を受け、重くて免職、軽くて減給程度だそうだ。
そして少年の父親は責任を取って会社役員を辞任し、一大スキャンダルとなった。どうせ天下り的にどこか他の企業の上層でふんぞり返るだろうが、少しは灸をすえることができただろう。
当の少年二人は休学しているらしい。しばらくはどこに転校しても腫物になり、そしてその悪歴はこれからも彼らの人生に影響し続ける。
知っているのはそれくらいだ。