狐の嫁入り
「おや、雨が上がったかな」
本を持つ手に黄色い光が差し込んだのを見て、ふと呟いた。
先程唐突に雨が降り出した。しかもそれがごみ捨てに出ようと思った矢先でその上相当に強かった。やれやれ、と一息をついて、うるさい雨音を透明な硝子板で遮っていたのだった。そうして万年筆片手にぼんやりと穴だらけの升目を眺めていると、ほんの少ししか立っていないというのに明るい光が差し込んでいた。
「これなら外に出られそうか」
雨音は聞こえてこなかった。故に、部屋の隅に纏めてあったビニール袋を片手で引っ掴んで、草履を履き、引き戸を開けたのだが。
「……………おや、雨が降っている」
そうだった、我が家の硝子板は特に大したものではないはずなのに、やけに音を通さないのだった。夜の甲高い若者の騒ぎ声に悩まされぬから良いものだと思っていたのに、真逆こんなところで弊害が出るとは思わなんだ。
「…仕方あるまい。ほんのすこうし行った先だ、このまま行ってしまえ」
ぼとぼと、びちゃびちゃ。落ちてくる雫はひとつひとつが酷く大きくて、随分と鈍い音を立てて頬を滑り落ちていく。少々痛いくらいだ。本当に、我が家の窓はとんだ働き者だったようだ。さっさと行って、さっさと帰ろう。右手に掴んだ半透明のポリ袋をぎゅうと握り、逆の手で目の上にひさしをつくる。ほとんど意味をなさない屋根ではあれど、ないよりはましだろう。
捨て場には幸いなことに人はいなかった。この雨で烏も出てこられないのだろう、普段に比べて綺麗にまとめられた半透明の袋が積み重なっていた。乱雑にかけられた深緑の網をひょいと持ち上げ、その隅っこに新たな山を置いた。
そうしてさて戻ろうと振り返ったところで、小さな男の子と目があった。つい先程までは誰もいなかったというのに。真っ黄色の傘の下からじいとこちらを見つめている。なんとも座り心地が悪くなった僕は、視線をそらして急いで我が家へと駆けていった。
ばちばちと重い音を立てる庇の下に逃げ込んで、空気を遮るようにぴしゃりと引き戸を閉める。そこで大きく一つ息を吐いて、ようやくいつの間にやら呼吸が喉で詰まっていたことに気がついた。思わず湿った背を土壁に押し付けてしまった。座り込まなかっただけでも御の字と思うべきだろう。顎が上がる。瞼を下ろし、静かに腹の中に空気を詰め込んだ。
ぴんぽんと、すぐ耳元で一つ音が上がった。がらりと引き戸を開けると、こんなに早く反応があるとは思わなかったのか、子猫のような吊り目をまん丸にしている時雨がこちらを見つめていた。そうして目の前にいる僕が頭から水をかぶった状態であるのを見て、さらにその黒い瞳をくるりと丸めた。
「あらまあ先生、すっかり濡れてしまっているじゃあありませんか」
「君が言えることじゃあないな」
「だって先生が雨に打たれるなんて見たことも想像したこともなかったのですもの」
「僕だって偶には雨に打たれて物思いに耽ることだってあるのだよ」
「そうなのですか」
「冗談だがね」
「もう、またそんなこと言って」
「それも君が言えることじゃあないな、冗談のお上手な時雨さん」
「あらなんのことやら、さっぱりわかりませんわ」
「やれやれ」
そこで待っていなさい、と一つ言いつけて、濡れた身体そのまま洗面所へ向かう。綺麗に畳んで積まれた白い布を纏めて適当に手に取り、点々とできた水の目標を伝って足早に三和土へ戻る。時雨は先程と全く同じ姿勢で濡羽の髪をいじりながら、石の三和土の色を鈍色に染めていた。大量の手拭いを抱えた僕を見て、愛らしい吊り目を下げて笑った。
「ありがとうございます」
「構わん、構わん。そのままあがられても、家が濡れて困るだけだからね」
「もう既に先生が濡らしていらっしゃるじゃないですか」
「私は良いのだよ」
「あらどうして」
「どうしてもこうしても家主だからね」
「それはそうですね」
「だろう」
こくりと一つ頷くと、静かに濡れた袖を拭い始める。ぎゅうと押し付けて水気を取って、濡れた手を拭って。そうして次は髪を拭こうと思ったのだろう、ぱさりと上から被った。白い布の塊が、空気をちろと揺らした。
「それで、結局はいったいどうなすったのです」
手拭いの下からちろと覗いた瞳に視線を下ろして、ぽつりと一つ。
「狐に化かされたんだよ」