通り雨
ぴんぽんという気の抜けたチャイムの音が目が覚める。掛け時計に目をやると、なるほど、確かに担当が八つ時に原稿を取りに来るとか言っていた気がした。
くたびれた着流しの襟をちょいと直し、あくびあくび戸を開ける。その先には想像通り、担当の丸メガネが光っていた。
「やァ、よくきたね」
「どうもこんにちは。原稿の具合はどうです」
「すっかり書き上がっているさ。まァ上がり給え」
「おじゃまします」
ほんの少しばかり先の汚れた革靴を几帳面に揃え、居間へと上がる。部屋に入ってすぐにおや、という顔で辺りを見回したかと思えば、僕が持ってきた盆の上を見て、心底不思議そうに声をかけてきた。
「あれ、先生。煙草はどうなすったのです」
「…そういえば、切らしていたな」
「もしや、辛味が苦手になったので」
「いいや、いいや。そんなこたァない」
「そうですか」
「急にまたどうして」
「煙草の匂いもしなけりゃ茶菓子も甘くていらっしゃるから」
手元を見れば、なるほど、水羊羹。確かに今まで大して出しはしなかった甘味であった。
「辛味がお好みなら、急にまたどうして」
「おや僕とおんなじ返しをしているぞ」
「だって気になってしまったのです」
「ふむ、ふむ、どうしてか。どうして」
座りなさい、と促しながらううむと悩む。煙草がめっきり減ってしまった原因として思いつくものは一つしかなかった。
「そうだな、野良猫がやってくるから」
「野良猫?」
「えぇ、ええ。黒い毛並みの子猫。そいつが時たまにゃあにゃあと上がり込んではころころ気ままに過ごしていくもので」
「へェ、それはかわいらしい」
「おや、君は猫が好きなのかい」
「可愛らしいものは好きですよ。見てみたいものです」
「そいつはどうかな。何せ気まぐれにも程があるからね」
「そうなのですか」
「そうなのだよ」
茶を一飲み。さて、と一言置いて、少しばかり引き締まった顔をした担当が正面にいた。
「それでは先生の原稿、拝見いたします」
「やめてくれ、そんな畏まらないでくれないか」
「だって先生の新作ですよ」
「何がだってだ、何が。そんな真面目腐った顔で見られちゃあ、落ち着かなくって敵わない。もっとゆるりと読んでくれ」
「仕事ですので」
「先程は仕事の顔じゃあなかったが」
「もう、茶化さないでくださいよ。まァ内容は戻ってじっくり読ませていただきます」
「だからそんな畏まった言い方はやめてくれ」
「はいはい」
慣れたように流しながら、若干先のよれた茶封筒が丁寧に黒い鞄に消えていった。
「さて、そろそろお暇しましょうか」
「おや今日は早いのだね」
「なんてったって先生の作品を早く読まねばなりませんので」
「それは冗談だ」
「おやわかるので」
「君は冗談をつくのが下手だからね」
「どなたかお上手な方でもご存知なのですか」
「さァどうだろう」
ぽんぽんと軽快な掛け合いをしながら玄関へ向かう。僕のような人間相手でもこうも気軽に話せる彼は非常に珍しい人材である。少々僕を尊敬しすぎな面を除けば、全く良い担当を引き当てたものだと常々思っていた。
「いやぁ、でも、先生がそんなにやさしいとは思いませんでした」
「おや唐突な罵倒」
「気を悪くしないでくださいよ。だって先生、かなぁり淡泊でしょう。まさか子猫一匹拾って、その上煙草をお止めになるなんて思わないじゃあないですか」
「やめたつもりはないのだが」
「実質止めたようなもんでしょう」
「そうなのか」
「そうなのですよ」
「だがやさしいは違うな」
「自分で言ってしまっているではないですか。それじゃあどうしてです」
「ううん、そうだな。そうだなぁ。なぜだろう」
「おやまあ、ご自身でもわかってらっしゃらない」
あらら、とでも言いそうな顔で革靴に足をいれる。原稿の詰まった包みをよいしょと持ち上げると、こちらをくるりと振り返った。
「それでは先生、また次回作をよろしくお願いしますね」
「あァ」
がららと大きな音を立てて開いた扉の向こう。憎らしいほど青い空がちらりと覗いた。
「あ」
そうしてふと、答えを思いついた。
「通り雨が降っていたからだった」