時雨
その少女は秋の終わりの雨の中、ぽつねんと一人佇んでいた。安物の透明なビニール傘を片手に、ぼんやりと虚空を見つめていた。
「もし、そこのお嬢さん」
セーラー服の袖をぐっしょりと濡らした少女を見て見ぬふりをするほど、僕の心の臓は強くなかった。
「…私?」
「そう、君だ。こんな雨の中、一人突っ立ってどうしたんだい。子供は早うお家へお帰り」
「あら、私、子供じゃないわ」
「垢抜けぬ学生服を着て一丁前なことを言う」
「本当よ、だって私、とっくに成人しているもの」
「それは本当?」
「ええ、平安時代なら」
「これ、それじゃあ十五も成人になってしまうぞ」
「これくらいちょっとした冗談じゃない」
「大人を揶揄うんじゃあない。さあお帰り、体を壊してしまう」
「平気よ、私強いもの」
傘に守られた黒髪すら濡らしているくせして、梃子でも動きそうにない様子だった。
「帰りたくない理由でもあるのかい」
「そもそも帰る家がないもの」
「それも冗談」
「いいえ、これは本当」
真っ直ぐに見つめ返してくる黒曜の瞳は存外強い光を放っていた。ああ、全く、我ながら面倒ごとを拾い上げてしまったものだ。
「ならば我が家で雨を凌いで行かれるかい、お嬢さん」
「貴方のお家?」
「ええ、ええ、僕の家。ぼろっちい家では、まァ、あるが、子供一人くらいはどうってことないだろうよ」
「…いいのかしら」
「家無し少女を雨の中放ったらかしておいては目覚めが悪い。この怪しい男についてくる度胸がおありならどうぞ」
「あら、怪しい自覚はおありなのね」
「それはもう。さてどうするかい」
「行くわ」
大きな瞳を幼子のように輝かせて、子猫が僕を見上げていた。
「あらまあ、大きいお家」
石の三和土の上で物珍しそうに辺りを見回しながら、少女はそう言った。
「ただの平屋さ。そう珍しいもんじゃあないよ。さあ、お上がり」
「おじゃまします」
丁寧な挨拶に、靴を揃えて上がる。どうやら礼儀はきちんとしているようであった。居間へ通してお茶と茶菓子を出すと、ぺこりと小さく頭を下げた。
「ねえ、貴方はなんのお仕事をしてらっしゃるの?」
「売れない小説家」
「売れないなんて嘘っぱち。こんな大きなおうちに住んでいらっしゃるんですもの、きっと高名な先生でしょう?」
「これはただ祖父母の家を譲り受けただけだから。僕自身は有象無象の物書きの一人に過ぎないよ」
「ええ、本当かしら」
「これは本当」
「あら、さっきの仕返しかしら」
「さァどうだろう」
「ね、なんてお呼びすれば良いかしら」
「そうだな、何某権左衛門とでも」
「権左衛門さん、このお茶菓子美味しいですね」
「冗談だからその呼び方はやめてくれ」
「あらまあ、冗談でしたの?」
「それこそ仕返しだろう」
「さあ、どうでしょうね」
してやったり、と緩やかに笑う顔は、なるほど、少女というより女性という言葉が似合いそうな様子ではあった。
「全く、人をからかうのが随分とお上手なようだ」
「人聞きが悪いですよ。それより、霜月さん、下のお名前を教えてくださいな」
「おや苗字がばれている」
「表札ってご存じかしら」
「ああ、一本取られてしまった。だが苗字だけ知っていれば十分だろう。それより君の名前はなんだい」
「秘密です」
「それでは君を呼べない」
「君で十分です。私を呼ぶ方なんてほとんどいないんですもの」
「僕が呼ぶ人は他にもいるんだが」
「あら盲点。でしたら先生、私に何か名前をつけてくださいな」
「…名前を?」
「ええ、ええ。私の呼び名です。どうか先生の呼びやすいようによんでくださいな」
名付け。それも齢十五ほどの人間の。まあなんとも難しいお題を放り投げてくるものだ。窓の外に目をやると、雨はまだまだ止みそうになかった。しとしと、しとしと、ぱたぱたぱた。雨が軽やかに歌っている。
「…そう、だな。時雨、なんてどうだ」
「しぐれ、しぐれ。時雨。し、ぐ、れ。…ええ、素敵、とっても素敵です。私、気に入りました。それでは先生、改めて、時雨と申します。よろしくお願いしますね」
ふふ、時雨、しぐれ。
そう楽しそうに呟く様子は真新しいおもちゃを見つけた子供そのものだった。
「おや、雨が上がったね」
少女との話が存外楽しかったのか。ふと外を見るといつの間にやら雨がすっかり止んでいた。
「それで、時雨はどうするんだい」
「帰ります」
「…家は」
「あります」
「もしやあれも冗談か」
「いいえ、いいえ、まことではあらねど冗談ではありません。でもいつまでもここに居座るわけには参りませんから。時雨は時雨らしく、長居せずにお暇します」
「…君は、それで良いのかい」
「ええ、ええ、もちろん。ああけれど、一つだけお願いが」
三和土のローファーへ細い足を入れながら、時雨はふと思いついたようにこう言った。
「また、来てもよろしいですか?」
「…好きになさい」
やった、とぴょこんとはねる女はどう見ても子供にしか見えなかった。
「先生さよなら、また今度」
雨上がりの濡れた空気の中、絹の髪がはらりと揺れて消えていった。