第162話 気が付いたから、始まった
暗くて底の無い沼に落ちたかのような錯覚の中、ドアが開く音がした。
「……リア? 何してるの?」
声が聞こえる。優しくて温かい声がする。ほんの小さな灯りが点けられたのが、目の端に映った。
今は何も見たくなくて、固く目を閉じる。
それでも耳は敏感に音を拾ってしまう。足音が近づいてくるのがわかる。
「どうしたの? 気分悪い?」
私の近くで足音が止まる。すぐ近くに人の温かさを感じるけれど……今は何も欲しくない。
「……なんでもない。平気」
「こんなところにうずくまってて、何でもないことないでしょ」
膝に顔を埋めながら、適当に返事をする。放っておいてほしいのに、彼女はそうしてくれない。
「寒いの?」
「へい、き」
背中をさすられながら問われ、自身の震えが消えていないことに気がつく。でも、どうすることもできない。内から湧き出る不安と恐怖、そして孤独感が私の身体を束縛しているかのよう。
「……ね、こっち向いて?」
そう言われたけれど、しばらく動かないでいた。でも、全然彼女が諦めてくれなくて、しまいには頭を撫でてくる。
結局私の方が根負けして、恐る恐る顔を上げるとエルシーナが困ったようにこっちを見ていた。
そんな顔をさせたかったわけじゃないのに。心配と迷惑をかけてばかり、私は自分自身を制御できない愚か者だ。
「泣いてるの?」
「泣いて、ない」
涙なんて出ていない。そんなのきっと幻覚だ。さっき顔を洗ったから、それに違いない。
「怖い目に遭ったの? どうせわたしたちがいない時に一人で出かけたりしたんでしょ。もう、おとなしくしててって言ったのに」
「……」
言葉は責めているようだけど、声色は深く慈愛で満ちていて、温かくて、愛おしくて、目頭がどんどん熱くなってしまう。
否定も肯定もできなくて、また俯いて膝に埋まろうとしたら、エルシーナの両腕が私を優しく包み込んだ。
「ね、リア」
「……なに」
優しさが嬉しい、でも放っておいて欲しい。そんな複雑な感情が渦巻いていて、私の声色はエルシーナと正反対だ。
なのに、エルシーナはどこまでも優しかった。
「もっと、わたしたちのことを頼ってほしいな」
突然そんなことを言い出した彼女に呆けて顔を向ける。
いつも頼ってるのに、そう言う前に、エルシーナの言葉が続く。
「急いで生きなくていいの、もっとゆっくり、隣にいてほしいから」
「リアはたくさん頑張ってるよ。でも独りだけで頑張らなくてもいいんじゃないかな」
「リアが傷ついてるの、見たくないの」
「仲間って、助け合っていくものだって、わたしは思うから」
「怖いなら怖いって言って、助けてって言っていいんだよ。絶対助けるから」
「わたしたちだって、リアに助けてほしいって言う時が絶対あるから」
「そのときはさ、助けに来てくれるでしょ?」
優しく、それでいて絶対的な自信を持った、力強い言葉たち。
言葉を聞いて、ゆっくり咀嚼して、飲み込んで、反芻して。
「うん……」
短い返事をするのでやっとだった。
私を抱きしめる温もりが少しだけ心を軽くしてくれたような、そんな安心感を与えてくれた。
エルシーナはきっと、私が一体何をどうしたのか、何もわかっていないはずだ。それでも、私のことを助けてくれるって言ってくれた。独り寂しく、ここで膝を抱えてうずくまっていなくてもいいのだと。
受け入れられるというのは、こんなにも嬉しい。それでも、わざわざこんなことを言われないと理解もできないのかという申し訳なさも募る。
「ごめんね……」
「謝らなくていいよ。でももう、無茶だけはしないでね」
「うん……」
もうやめよう。ひとりになるのは。これ程望んでいてくれる、傍にいて欲しいと言ってくれているのだから。
そうか、ようやくわかった。私はきっと、独りが嫌なんだ。
生きるのは良い、死ぬのもまあ、いい、痛い思いをするのも別にいい。誰かのために死ぬのだって構わない。
でも、死ぬとわかっていながら、それを回避することができない……たった独りで死を待つだけの、あの時間が嫌だったんだ。
それはきっと、誰かと一緒なら起こらない、回避ができるものに変わるはずだ。
最期の時に、エルシーナがいたら……きっと是が非でも助け出そうとしてくれただろうな。一緒に逃げられなかったとしても、私は彼女に惜しまれながら幸福な最期を迎えられていたかもしれない。
「一緒にいる……」
「うん。一緒にいよ」
私を包むこの優しさに、甘えていてもいいのかな。
永遠に一緒にいられるわけじゃないのはわかっている。それでも危険な生き方をしている私にとって、ここは涙が出るほど恵まれた場所だ。
隣で生きていて欲しいと言うのなら、出来得る限りの努力をしよう。それがきっと私と、私のことを大事に想ってくれている人にとっての最善だと思う。
女神様の言っていた、幸福な人生ってものに、ようやく触れた気がした。




