地獄を見た者
モルゲンス領で、ゼムフェルクを知らないものはいなかった。剣の天才と謳われ、8歳の時には領主に直々に声をかけられるほど。そして、7年前、10歳で訓練所に入った。
才能に恵まれ、同期では敵なしだったし、年上でも自分より上は少なかった。
1年が経過する頃には、自分より強いのは大貴族であるエリーザとカレアだけになった。
その二人も、何時かは勝てる。そう思うくらいの差しかない。
次の年では勝てると思っていたが、それを確認する術は無かった。
その年に正式に騎士に任命されたのだ。
配属先は、生家があるヴァラディヌス城。魔族との戦争の最前線だった。
初陣で魔族の強さを思い知った。こちらの攻撃が効かないのだ。
それでも怯むことは無かった。自分以外の者も同様で、集団で戦うと聞かされたからだ。
今思えば、それが悪かったのかもしれない。いや、やはり悪いのは自分だ。勝てないのを一緒に戦っていた者の所為と思っていたのだ。
年に数回、ヴァラディヌス城から出陣して、領主の元で戦う。
何時ものように、少しだけ後退する。
一緒に戦っている奴らが、もう少し強ければ勝てると思っていた。せめて、自分と互角であれば良いと。
そんな愚かな事を考えていたからか、崩壊が訪れた。
昨年の事だ。何時ものように出陣したが、惨敗を喫した。
魔王ヘルヴィスが出陣していたのだ。アレの前では全軍が自分と同じ能力だとしても無駄だ。その程度では勝てない。
ほんの一瞬すれ違っただけだ。それだけで半身の軍馬が両断され、地面にのたうち回っていた。
立ち上がることは出来た。歩くことも。
だが、身体は斬られなかったが、心が斬られていた。何も出来なかった。半身が棹立ちになって身代わりに斬られたのだ。
呆然としたまま歩く。気付くと敗走する軍に流されているつもりが、はぐれてしまった。
何とかヴァラディヌス城が見えて来たと思ったが、我が家がある城は、既に敵の手に落ちていた。
どうするか途方に暮れていると、脱出に成功した領主の一族が自分に気付いて手を差し伸べてくれた。
その中には妹も一緒だった。無事を喜び合い、少ない集団で王都へ向かった。
しかし、結局は捕捉され、領主の一族を人質にされ抵抗できずに捕虜にされた。
連行先は領主の一族とは離され、近くの郷のブルラドだった。
そこには、共に戦った騎士も捕らえられていたが、再会を喜べる雰囲気ではなかった。
何よりも、全裸にされ、同じ牢屋に入れられたのだ。
捕らえられている騎士の中に、幼い頃からの知り合いだったレジェーネがいた。
同じ歳で、剣の腕はそこそこだ。ゼムフェルクに比べれば弱かったが、他の同年の者に比べればマシだという評価だ。
しかし、彼女の方が年上に見られる。性格もしっかりしていて、周りと衝突する事が多い自分を嗜めることもあった。
大人だったのだ。彼女に比べれば、自分は何とも子供だった。
だが、その時は、自分が子供だという自覚も無いまま、彼女の成熟した身体を見る羽目になった。
レジェーネだけではない。名前と顔を知っている者ばかりで、全員が全裸だった。
女性の身体を見れば、嫌でも反応する。身体の一部が欲情していると証明していた。
天才と持てはやされた自分も、弱いと内心バカにしていた戦友も、何処も変わらない。
瑞々しい女体に欲情し、好みの女性の肌を、つい見てしまう。
魔族は欲情したら抱いて良いと言っている。抱きたくなれば、別の部屋に案内してやるから、好きな女を選べとも言う。
魔族の思い通りになんかならない。そう思いつつも、レジェーネの身体に欲情していた。
何処かに、誰かが欲望に負けたら、自分もという思いがあった。
同時に、その相手がレジェーネだったらと思うと、いっその事、自分が先に、そうも考える。
日の当たらない牢だったが、時間の間隔は分かった。
毎日の食事は出されるし、決まった時間に牢屋から一人出すのだ。その者は食事を与えられない。
そして、次の日に殺された。身体を切り刻み、食用の肉にする。
自分達から見える場所で解体は行われる。目を閉じようと切り刻まれる時の悲鳴は聞こえた。耳を手で塞いでも大きな悲鳴は聞こえてしまう。
何時かは自分もと思うと、何故か女を抱きたいと思う気持ちが強くなった。
自分だけではない。牢へ一緒に入っている青年が、死の恐怖を感じると女が欲しくなると言っていた。
戦場へ行く前も、無事に戻れた後も、娼館へ行く奴は多いと。
牢屋に入る前なら軽蔑するであろう言葉も、自分を正当化する理由として受け入れていた。
レジェーネを抱きたいという気持ちを正当化しようとしていた。
耐えられる理由は、騎士の誇りではなく、単なる見栄でしかない。
自分が一番最初に欲望に負けたと思われるのが嫌だっただけだ。
誰でも良いから、女を抱きたいと言ってくれ、そう思っていた。
でも、レジェーネだけは選ばないでくれ。そんな勝手な事を考えていた。
だから罰が下ったのだ。その時は本当にそう思った。
別の牢に入れられていた妹が食事に選ばれた。牢から出され鎖に繋がれる。目の前で、前日に出された者が解体される。
最初は恐怖で叫んでいた。だが、叫び疲れたのか静かになり、ずっとうずくまっている。
助けたくても何もできない。自分は無力だ。いや、無力なだけではない。
今まで妹のことなど忘れ、レジェーネを抱きたいと考えていた好色で、それなのに誰かが言い出すのを望んでいた卑怯者だ。
牢の格子を掴んで、妹に声をかけようと思った。だが何と言う? 絶対に助ける? そんなの無理だ。
御免なさい。どうか許してください。妹は見逃してくれ。言いたくても言えない。
何故、こんな事になったのか? もう直ぐ妹は殺される。何故、自分は無力なのだろうか。
天才だと言われ、そう思っていた。何処が天才だ。こんなにも無力で卑怯な子供ではないか。
誰か助けてくれ。助けて下さい。お願いします。
格子を掴んだまま、いるはずの無い神に祈った。
どれだけ祈り続けたのだろう。牢屋の入り口がある階段の付近から声が聞こえた。
魔族では無い、人間の声。それも一人ではない。
牢の前を魔族が駆け去った。その姿に怯えてしまう。
だが、自分が恐怖した魔族は、自分以上に怯えていた。
唸り声を上げ、震えている。
そして、その男は来た。見たことが無い、大きな体をした男だ。
武器も持たずに、ゆっくりと歩み寄る。
怯える魔族に蔑む視線を向け、無防備に魔族の前に立った。
魔族が攻撃をしてきた。危ない、そう思ったが声が出ない。
だが、魔族の攻撃は当たらずに、何故か魔族が宙を舞って牢の格子に叩きつけられる。
それを何度か繰り返し、魔族が動かなくなると、興味を無くしたように見下していた。
「貴方は?」
思わず声が出た。男は自分を見た後、部屋の様子を確認する。
険しい顔をした後、表情を和らげて声をかけてくれた。
「少し待ってろ。服を取ってきてやる」
その声に優しさを感じながらも、自分の格好に羞恥を覚える。
男が魔族を拘束している最中に少女の声が聞こえた。
男の部下のようだが、見たことがある気がする。年齢的に訓練所で会っているのだろう。
それよりも彼女らの会話の内容は、よく聞こえなかったが、耳に入った単語があった。
聞き間違いではない筈だ。“勇者” 確かにそう言った。
勇者はいたのだ。
牢から出してもらい、服を着ると妹の元へ駆け寄った。
だが、妹は与えられた服を見ることも無く、何の反応も見せない。心が壊れていた。
どうすれば良い? 何も出来ずに悩んでいると、知っている女が現れた。
「お前、ゼムフェルクか? その少女は?」
エリーザ・ライヒシュタインだった。
何処か圧倒される雰囲気がある。明らかに強くなっている。それが分かった。
何も言えずにいると、何時の間にか近くに居たレジェーネが変わって説明してくれた。
そうか、と、呟くと、妹の前に膝を付きその視線を合わせる。
「もう、大丈夫だ。敵は倒したから戻って来い」
静かで、優しく、そして力強い声。
妹の視線が動いた。真っ直ぐにエリーザを見つめている。
そして、涙を浮かべ泣き始めた。
エリーザは、優しく抱きしめて、妹をあやしながら、代表との話を望む。
話し合いへの参加を打診されたが、何かを言える気力も無く、妹の側に居たいと言って断った。
妹は落ち着いたようだが、自分よりエリーザや救助に来た隊員が近くに居る方が安心するようだった。
その救助に来た隊員は見覚えのある者が意外に多かった。ほとんどが一つ年下で、訓練所で顔を見たことがあるようだ。
中にはリヴルスのように、中々やると思った者もいる。
だが、一つ年下で強く印象に残っているのは、アハロン・ライヒシュタインくらいだ。彼に苦戦したくらいで、他はリヴルスを含めて完全に格下だと思っていた。
だというのに、今は勝てる気がしない。リヴルスだけではない。半数以上は自分より強いだろう。
明らかに自分より成長している。何処でこんなに差がついたのだろう。
そんな事を思っている内に、代表の話し合いは終わり、脱出の手筈が決まった。
そこで、領主の一族のマイヤ・モルゲンスが生きていると聞いた。
彷徨っている最中に、領主の家族と共に行動していたので、生き残った者とは言葉を交わしていた。
その中で、怯えながら姉に手を引かれている幼い少女がマイヤだった。
話し合いに参加した者も、それを聞いた者も、それを喜び、会いに行くと気力を取り戻し始めた。
妹も元気になり始めた。だが、ゼムフェルクはどんな顔をして会えば良いか分からなかった。
守れなかった。奥方も、2人の姉姫も。守るべき立場にいた数少ない騎士の一人だったのに、人質にされたとは言え、そうでなかったとしても、あの時はどうしようもなかった。
そして、最後に礼を言うため、再び勇者と会った。
みんなに礼を言われるのを困ったようにしながら聞きながら、やがて、こちらに気付くと妹に声をかけた。
そして、自分にも。
「よく耐えたな。騎士の心の強さは大したものだ」
あの部屋で、色欲に打ち勝ったと思っているようだ。
違う。自分は勇者に声をかけて貰えるような立派な人間では無い。
悔しくて、それでも嬉しくて、うつむいて涙を零した。
脱出は順調だった。
海岸に到着し、船に乗ると半日も経たない内にメトジティアの軍艦に発見され、その護衛でメトジティア城に入った。
幸いメトジティア城の城主ヴィクトル・パドゥレアスから手紙を預かっていたので、身元の確認は簡単に済んだし、海軍の警備任務の中には南方諸国からの脱走者を保護する仕事もあるので、仮の住居にも困らなかった。
平民用に準備された仮住居でも、牢屋に比べれば遥かに快適な住み心地だ。
メトジティア城の城主代行の人が王都と連絡を取り合った結果、戦闘力の低い貴族と平民は、移住先を年内に決めるようで、年明けにも移動ができるように準備だけしておくよう指示が出た。
だが、騎士は戦力として編成しなおされるので、直ぐに王都へ来いとの指示が出た。
それは同時に王都で保護されているマイヤ・モルゲンスに会う事を意味した。
騎士は全員が半身を失っていたので、王都まで馬車を使っての道のりは多少の難儀もあったが、年明け直ぐには王都へと到着した。
だが、それでも道中は何もすることが無く、考え込む時間が増えた。
どうして、エリーザとの実力差が縮むどころか開いてしまったのか?
どうして、格下と思っていたリヴルス達は自分より強くなったのか?
自分が捕まっている間に、新しい訓練方でも開発されたのかもしれない。
マイヤは自分の事を覚えているだろうか?
もし、覚えているとしたら守れなかった自分を恨んでいるのではないか?
どんな顔をして会えば良いか分からない。
考える時間は多かったが、答えが出るには時間が足りなかった。
いや、どれだけ時間があっても答えが見つかる気はしなかった。
廷臣や元帥に挨拶している間も考え続けたが、答えは出ることが無かった。
そして、マイヤとの面会の準備が整えられ、彼女がやってきた。
頭を低く下げ、その声を待つ。
「顔を上げて下さい」
その声に弾かれるように顔を上げた。
違うと思った。城で見たこともあったし、何より彷徨っている間は一緒にいたのだ。
マイヤ・モルゲンスという少女は、小さな声で話すのだ。気が弱く、直ぐに怖がる。
だが、目の前に居る少女は違った。顔は間違いなくマイヤだ。
しかし、腰に太刀を佩き、強い眼差しで見ている。
そして、深々と頭を下げた。
「辛い思いをさせて、申し訳ありませんでした。
私が弱かったせいで、領民である貴方たちに要らぬ苦労をさせてしまいました」
その声に強い意志を感じさせる。
当然ながら、本当に戦えるほど強くはない。騎士として届かないどころか、その腰に佩いている太刀を振り回すことも出来ないだろう。
だが、別人と見紛うほどの変化だ。
感動したように年長の者が返答している。その声を聞きなながら、道中で悩んでいた答えが見つかった。
いや、真実を突きつけられた。
「弱いのは俺です」
声が出ていた。主君と上役の会話に割り込むような無礼。許されるはずが無い。
それでも声が出てしまった。弱いのは自分だったのだ。天才と言われて自惚れていた。周りが強くなったのでは無い。自分が強くならなかったのだ。だから失った。
無礼な割り込みをされても、マイヤは怒った風もなく、一つの指示を出した。
「二日後に閲兵式があります。私は友人と一緒に見学するのですが、その警護をお願いできるでしょうか」
警護が必要とも思えないが、断れる筈もない。命に従い、同席していた者全員で二日後に主君と、その友人を護衛することになったが、友人の二人を紹介された時は眩暈がしそうだった。
アーヴァング・テオフィル元帥の嫡男と、エリーザの弟で次期ライヒシュタイン頭首。
だが、それだけなら有力者と親しいという事で喜ぶだけだったろう。
眩暈がしそうだったのは、その幼い二人から感じる覇気が尋常では無かったからだ。
凄まじいまでの才能を感じながら、慢心の類は一切感じない。
純粋なまでの闘争心を漂わせていた。
まだ幼い三人が話しているのを隣で聞いていた。
その内容で、何となくだが、彼等の性質が分かった。
見ているものが違うのだ。その視線は魔族を倒すことに向けられており、互いで競い合いはするが、優劣には興味がない。
どうやら、ロディアが三人の中心で、彼の影響らしいが、彼に影響を与えているのは、一つ上のゲオルゲと言う兄のようだ。
噂には聞いていた10歳で騎士になった怪物だ。本当に凄い人物だったようだ。
そして、今の彼等の心を引き付けているのが、赤備えと呼ばれる部隊らしい。
勇者が結成した、自分達を救出した部隊だった。
やがて、全軍での模擬戦闘が開始された。
子供たちの声援が、隣ではなく、何処か遠くから聞こえるようになった。
自分の心が、警護の対象でなく、戦場を疾駆する赤い鎧を着けた騎馬隊に釘付けになっていたからだ。
「あの場所へ行きたい」
そう思っていた。だが、言ったのは自分ではなくレジェーネだ。
そうだ。行かなくてはならない。
失った誇りを取り戻さなくてはならない。
成長する主に置いて行かれたくない。彼女に仕えるに相応しい騎士になりたい。
妹が側に居て安心できるような兄になりたい。
勇者の元で戦える騎士になりたい。
そのためにも、本当に強くなりたい。ならなくては。
過酷な訓練を始めた。周りは心配し、正気を疑ったが、あの地獄に比べれば、どんな訓練も極楽でしかない。
無力で何も出来ずに先の見えない恐怖に怯えるよりも、希望のある死にそうな訓練の方が遥かに楽だ。
日々強くなるのを実感した。だが、足りない。もっと、もっと、恐怖に立ち向かえるように、希望に届くように。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「大丈夫か?」
ゼムフェルクは軍馬から降りると、倒れた少女に声をかけた。
仮にも赤備えの選抜試験に参加しようというのだ。馬から落ちて怪我をすることは無いと信じたいが、相手は見習いに在籍している少女だ。未熟なところがあっても仕方がない。
「大丈夫ですよぉ」
上体を起こし、身体を動かしながら返事をする。
その屈託のない態度に安堵すると同時に胸が痛んだ。
かつての自分なら、負けを悔しがって悪態を吐いていたかもしれない。
「怪我はなさそうだな」
「はい。それにしても完敗でした」
「そうでもないさ。ホラ」
立ち上がるように手を差し出すが、自分の手を見て笑ってしまう。
震えているのだ。
「威力は君の方が上だった。全く、城主になるような人間は凄いな」
彼女の攻撃を弾くたびに手が痺れて行った。
強化が凄まじい。中貴族と言うのは、これだから厄介だ。
「そうでもないですよ。ホラ」
そう言って、立ち上がるために手を取るイオネラの手も震えていた。
「完全に技量で上を行かれました。その結果です」
これだけの才能を持っていて、微塵も慢心が無い彼女の態度が眩しく思える。
まだ若い。自分も見習いだった頃、いや、騎士になってからでも、このようであったらと後悔せずにはいられない。
そうすれば、もう少し強くなっていたかもしれない。その思いが後悔となって押し寄せる。
互いに礼をして、試合場から控室へと向かう。
途中で、勇者を一目見ようと思って、そちらを見ると、勇者も自分を見ていた。
いや、気のせいかもしれない。だが、目が合ったような気がして緊張した。
あの日の事が、思い出される。
控室ではレジェーネがいたので声をかけた。
「試合は終わったよ」
「そう。近づけた?」
首を縦に振る。勝った負けたというのは禁止されている。
だが、彼女には通じる。二人とも赤備えに、勇者に仕えることを夢見ている。
近付くとは勇者へだ。近づけたという事は勝ったという事だ。
「じゃあ、次は私だから」
そう言ってレジェーネが控室を出る。
救助されて暫くは、彼女の事を考えるのを避けていた。
あの牢で彼女を考えていた理由が、彼女への愛情か、ただの欲情か自分でもわからなかった。
だが、今は気持ちが落ち着き、分かるようになっていた。
ずっと前から好きだったのだ。
あの頃は、それすら分からない子供だった。
まだ、自分が彼女に相応しいとは思えない。
だが、何時の日か、この想いを伝えよう。




