表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

 西行は一時、歌を捨てていた。それが詞書にある「今は歌と申すことは思ひ絶えたれど」だろう。

 

 何故、歌を捨てたのか。それは歌そのものも「言葉の罪」だからだろう。そもそも、俗世界から縁を切って、彼が手にしたもうもう一つの世界、つまりは歌も、また一つ違う場所にあった俗世界であった。

 

 仏道の立場からすれば、それもいずれ捨て去らなければならない。いや、歌だけではない。遂にこの身さえも、一つの幻影として感じ、捨て去らなければならない運命にある。

 

 仏教思想は、おそらくは現実のあまりの過酷から、内部の深淵な哲学を圧倒的に掘り下げる事によって、できあがった。その重要な結論の一つが、自己廃棄であって、絶対確実な「我」を感じるのではなく、「我」に執着する事自体が間違いだと理論的に明かす事にあった。

 

 仏教的に言えば「無常」であって、人間は「変化」というものを認識できない。認識は過ちを犯す。概念を固定化し、絶対化しようとしてしまう。それが執着であり、自己というものもその執着に他ならない。そこに間違いがある。西行はその思想をよく身に着けていたのだろう。彼は自己自身をも一つの執着として感じる、その視点をよく学んでいた。そこで、彼の最後の歌は、歌とも言えない歌、終局としての自己廃棄に移っていく。

 

 ところが、ここに不思議な歌が起こった。不思議な美しさが、芸術を捨て去る時に起こった。芸術を捨てようとしたからこそ芸術は逆に映えあるものとなる、この逆説を現代の多くの芸術家達は遂に理解できないだろう。彼らは執着する事に救いを見出そうとしている。西行のような人はその道を逆さに歩いた。そこで彼の孤独と彼の存在が歴史の中で重たく見えてくる。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ