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西行は一時、歌を捨てていた。それが詞書にある「今は歌と申すことは思ひ絶えたれど」だろう。
何故、歌を捨てたのか。それは歌そのものも「言葉の罪」だからだろう。そもそも、俗世界から縁を切って、彼が手にしたもうもう一つの世界、つまりは歌も、また一つ違う場所にあった俗世界であった。
仏道の立場からすれば、それもいずれ捨て去らなければならない。いや、歌だけではない。遂にこの身さえも、一つの幻影として感じ、捨て去らなければならない運命にある。
仏教思想は、おそらくは現実のあまりの過酷から、内部の深淵な哲学を圧倒的に掘り下げる事によって、できあがった。その重要な結論の一つが、自己廃棄であって、絶対確実な「我」を感じるのではなく、「我」に執着する事自体が間違いだと理論的に明かす事にあった。
仏教的に言えば「無常」であって、人間は「変化」というものを認識できない。認識は過ちを犯す。概念を固定化し、絶対化しようとしてしまう。それが執着であり、自己というものもその執着に他ならない。そこに間違いがある。西行はその思想をよく身に着けていたのだろう。彼は自己自身をも一つの執着として感じる、その視点をよく学んでいた。そこで、彼の最後の歌は、歌とも言えない歌、終局としての自己廃棄に移っていく。
ところが、ここに不思議な歌が起こった。不思議な美しさが、芸術を捨て去る時に起こった。芸術を捨てようとしたからこそ芸術は逆に映えあるものとなる、この逆説を現代の多くの芸術家達は遂に理解できないだろう。彼らは執着する事に救いを見出そうとしている。西行のような人はその道を逆さに歩いた。そこで彼の孤独と彼の存在が歴史の中で重たく見えてくる。