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そもそも歌(芸術)とは何か、自分の考えを書いておく。私は短歌にも俳句にも大して詳しくないので、芸術という論点から考えていきたい。
西行が出家し、世界を捨て去った時、彼の手には歌が残った。歌は世界から離れた彼自身の姿を歌った。またその彼から見た世界をも歌った。
では西行が好んだ自然の風景はどこに位置していただろうか。彼が捨て去った世界と、残った真の我。しかし、この我をも空白にしなければならない。我に執着する事は許されない。デカルト的な我は、仏教的な「我」を逆さに振ったものとも言える。この我を捨て去ろうとした時、しかし、西行の目には自然の風景がはっきり目に見えた。
その風景は他の歌人達が見たものとは違うものだったろう。同時代の多くの歌人はあまりに芸術的に過ぎ、それが為に芸術としての本質を欠き、技巧に流れていった。その間に、本質的には頑強な武士である彼は芸術を捨て去らんという意志を持ち、自己を生き抜こうとし、それが故にその歌は本物の芸術となった。
歌人達は自己の歌の為に自然を利用しようとした。あるいは言葉の遊戯の中に当てはめられた自然のみが彼らの目に映った。西行の目に映った自然は同じ自然ではない。彼が捨てようとしても捨て得ぬものであり、それが自らの心の不思議と同時に体感されたのだった。
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
この有名な歌で、詩人が見ている自然は普通の風景ではない。世界を捨て去ったものが、あらゆる係累を払い、仏道に生きる事に決めた後もなお、自らの内に見えてくるものがあるという述懐なのだろう。この時、「自然」がはっきりと詩人の目に映った。しかし、それは彼が自分自身を捨て去ったからだった。世界を捨て、己になったからだった。