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 自分の観点をもっと整理しよう。西行という歌人は、周知の通り、都のエリート武士だったが、その境遇を捨て、放浪の生活に入った。その背後には、強烈な仏教思想があった。

 

 仏教思想とは、執着を捨て去って、悟りを得る事が眼目になっている。人間の理性は物事を固定的に眺める。様々なものを概念として固定し、そこに固執する。しかし、それから自由になり、いわばを「空」になる精神こそが理想となる。

 

 西行が何故、出家したかについては諸説ある。風巻景次郎は失恋を原因にあげているが、私は、当時の権謀術数渦巻く現実、血なまぐさい政治の世界を見て、また、己自体が俗事に浸っているのを反省し、そこから自己を救い出すために出家したと思っている。もっともこんな推測はどうでもいい事だ。

 

 いずれにしろ、西行が出家したのは仏教思想に捉われ、いわば現実に対する執着から逸脱し、真の我を救い出そうとした、と抽象的に見て問題はなかろうと思う。西行はこんな風にも歌っている。

 

 惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をも助けめ

 

 身を捨てて、身を助けるとはいかなる事か。俗事にまみれた世界を、我が身と共に捨て、代わりに真の我を救い出す。詩人として、哲学者としてもそれは正当な欲求と言えるだろう。

 

 だが、この歌の時点では西行はまだ晩年の境地から隔たった場所にいる。というのは、彼には、第一の執着、「都」を捨てても、その代わりに山の生活が現れ、そこで第二の執着に出会う事になった。それが「歌」であろう。しかし、この自意識家は、それすらもはっきり意識していたらしい。

 

 身に積もる言葉の罪も洗われて心澄みぬる三重(みかさね)の滝

 

 饗庭孝男はこの歌について次のように書いている。

 

 「「言葉の罪」とは注目すべき表現であろう。それは、僧の身である一方、和歌を詠む彼自身の「業」をさしていることは間違いない。」

 

 西行は歌を詠む己の「罪」についても痛切に意識していた。仏教思想という垂直的な倫理と、感覚的な愛好を含む芸術愛には、重なりあいながらもすれ違う部分がある。例えばとことん倫理的だった内村鑑三は、キリスト教的観点から、「源氏物語」を否定していた。内村のように、宗教・倫理が第一と来るものからすれば、芸術の水平的な、低いものへの愛着や弱さが気に触ったに違いない。ところで西行はその両極を意識しつつ、それを彼自身という一つの肉体によって最後まで生き抜いた、と言えるかもしれない。私には彼はそんな存在に見える。

 

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