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リセエンヌ  作者: 松本龍介
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英会話

令和二年六月十三日 修正

 文字化けを修正いたしました。

英会話


 流しの側にある椅子を引き、藍は食卓に就いた。

 目の前には、半分ほど米が盛られた小さな茶碗と目玉焼きが一つ載った皿、生野菜で埋まった小さな椀、渋そうな茶の入った湯呑み、そして朱塗りの細い箸と、黒猫の形をした陶器の箸置き。

 米は、白米に少しだけ玄米を混ぜたものだ。目玉焼きには塩胡椒。野菜にかけるドレッシングは見当たらない。藍は、生野菜をそのまま食べるのが好きなのである。湯呑みからは香ばしい匂いが漂い、中身は玄米茶だと主張している。いや、茶瓶の中に取り残された玄米が自己主張のために香りをつけたと言うべきなのか。

 食卓の向かいには父親と母親が並んで座り、既に食し始めているが、献立は彼女と少し違う。父親は目玉焼きを乗せたトースト、母親は米食だが目玉ではなく厚焼き卵だ。

 青井家の食事は、朝と夕とで場所を変える。夕食は居間の炬燵、朝食は台所のテーブルが食卓だ。

 「いただきました」藍が席に着くと間もなく父親は食べ終わり、食器をそのままに台所を後にした。Tシャツチノパンから着替えるのだ。母親も藍も軽く頷いただけで一言も発しないまま食事に戻った。

 およそ十分後母親も食べ終わり、やはり皿をそのままに玄関へ向かった。藍はまだ途中だったが、食事を中断して玄関に向かう。ちょうど、背広姿になった父親が鞄を片手に出て来たところだった。

 「行ってくる」靴を履き終わった父親が玄関の扉を押しながら短く言い、

 「行ってらっしゃい」その妻と娘が声を揃える。

 玄関の扉が閉まり、藍は台所の食卓へ戻った。母親は入って来ない。恐らく、夫の脱いだ服を取りに二階へ上がったのだろう。自動車の動く音が聞こえ出し、程無くして遠ざかって行く。

 さらに五分後、藍も食事を終え、テーブルに残された食器をまとめ、流しに置いた。流しと焜炉の間には、蓋のされていない小さな弁当箱が置かれている。藍の身体つきを見れば大食でないことは容易に察せられるが、それにしても小さ過ぎる弁当箱だ。幼稚園児が使うくらいの大きさしかない。ちなみに中身は厚焼き卵、タコさんウィンナー、キャベツの千切りに、玄米入り白米と梅干しだ。

 濡れ布巾で食卓を拭いてから弁当箱をそちらに移し、流しの食器を洗う。二分ほどで洗い終え、藍は弁当箱に蓋をして、紺色の布で包み、エプロンを外した。

 セーラー服のスカートにブラウスという姿の藍は二階の自分の部屋に戻り、ブラウスを脱いで寝台の上に置いた。無論、セーラー服に着替えるのである。

 両腕を通し、頭を通し、左体側のジッパーを上げ、袖口を留める。そして赤いスカーフを二つに折って大きな襟の下を通して首に巻き、胸元の輪に通す。これだけである。不器用な藍でも十数秒で着れるのがセーラー服の長所の一つだ。スカーフを付けっぱなしにすればさらに数秒縮まるが、何となくだらしない気がするので、藍は毎回外して広げて衣紋掛けに掛ける。

 後はスカートのポケットにハンカチを仕舞えば、高校生としての体裁は整う。

 これら一連の動作をゆっくりとではあるが淀みなく行ない、机の上に置いた腕時計を着け、中学時代から愛用の外套を羽織り、鞄を取ると、藍は再び台所に向かった。

 台所に着くと、教科書やノートを一度学生鞄から出し、テーブルの上に置いた弁当箱を鞄の底に入れ、上から教科書類を丁寧に入れ直した。もちろん、普通の弁当箱では、横向きにしなければ入らないだろう。円筒形の弁当箱でも、かなり無理をしないと鞄が閉まらない。彼女の弁当箱が極端に小さいからできる裏技的な芸当だ。

 学校への持ち物がこれで揃い、藍は家を出た。駅までは僅か数分の道程(みちのり)だ。家を出て右に進み、突き当たりを左に曲がるとすぐ踏切が見える。踏切の左側に駅があるが、単線のためプラットフォームが踏切の向こう側にしか無く、そのプラットフォーム上には小さな待合室が一つあるのみ。無人駅なので改札が無いのだ。

 今日は曇り空で肌寒い。藍は待合室に入って中の長椅子に腰掛け、鞄から文庫本を取り出した。碧から借りた京極夏彦著「魍魎の匣」だ。文庫本で一千頁を越える大作だが、もう半分以上読み進んでいる。それから十分余り藍は本に没入したが、列車の到着を予告する踏切音が彼女を昭和二十七年から現代に引き戻した。

 本を鞄に仕舞って待合室から出ると、背広姿の男が二人待っており、藍もその後ろに並んだ。プラットフォーム上の「乗車口」表示は二箇所のみ。約二分後、駅に列車が停止するまでに、藍の後ろには二人の高校生女子が並んでいた。恐らくは上級生であろう。徒歩か自転車かを問わず、自宅から駅までの所要時間を正確に把握し、ぎりぎりに駅に到着するのだ。改札が無いので、時刻に正確な列車運行であれば、秒単位での合わせも可能である。

 到着した列車は、首都圏かという程の満員。本来、入線した列車の扉は「乗車口」の表示のある所しか開けないのだが、入れるところから入るようにとの配慮であろう、全ての扉を開いた。藍は迷わず一番後ろの扉から列車に乗り込む。松本駅で階段の一番近くになるからだ。先客が無理に開けてくれた僅かな隙間に立つと、扉が閉じられ、列車は走り始めた。渚駅から松本駅までは僅か四分、狭くても我慢できる時間だ。

 動き出した車窓の外を眺め、松本駅への到着を待つ。道中の風景は、特筆すべきところも無い市街地のものだ。松本駅前で待っている碧の姿を思い描き、嬉しい気持ちと共に、たった二駅が長く感じられるもどかしさが沸き上がってきた。

 心此処に在らざれば即ち視れども見えず。ずっと外を見ていたはずなのに、気付けば列車は松本駅七番ホームに滑りこみ、扉を開くところだった。後ろの客に押されるようにして慌てて列車を降り、目の前の階段を登る。彼女にとっては全開の速足で改札を抜け、エスカレーターが無人なのを見てとると、歩いて下った。エレベーターやエスカレーターを使わないことを彼女は己に課しているが、何事にも例外は付きもので、今はそれに該当する。

 他人と比較しての速さはともかく、彼女が急いでいることは傍目には明らかだ。だが、彼女自身には急いでいる意識は全く無く、列車を降りるところからほぼ自動的に動いていたのだった。列車に乗り込んでから頭にあるのは、「松本驛」の標札の前に自転車をとめて自分を待っている碧の姿だけだ。

 エスカレーターを下りきり、左を向くと、果たして、碧が自転車のスタンドを立ててこちらの方を見ていた。

 「藍ちゃん、おはよう!」藍が碧の姿を認識するより先に、碧が呼び掛けた。

 「おはよう…。ごめんね、待たせちゃって…」申し訳無く思い、つい目を伏せてしまう。

 「ううん、全然! むしろ、めっちゃ早くない? 一番向こうのホームでしょ?」碧はいつもの元気良さだ。

 「うん…」藍が鞄を自転車の前籠に入れると、碧は自転車を押し始めた。藍もその隣に並んで歩き始める。

「ちょっと、速足で…」ちょっとではなくぎりぎりいっぱいの速足だったのだが、藍は己の足の遅さをよく知っている。

 「そっか。ありがと、藍ちゃん」碧は嬉しそうだ。

 「ううん、私の方こそ……あの、今日はこっちから……?」そう訊いたのは、碧が(ばん)(りゅう)上人像の方へ向かったからだ。槍ヶ岳開山の功績を讃えて作られたこの銅像は、藍が降りてきたエスカレーターから見て左前方に立っている。駅前広場の端だ。その向こうにある信号を渡って道を進むと縄手通り方面、学校へ向かうには遠回りだ。

 「うん、学校から下ってきた道から行ってみようかな、って。車通り少ないし、登りキツいところに信号ないから」やる気満々だ。

 「あ、なるほど…あの、私が言うのも変だけど、がんばってね…」気の利いた言葉が見つからずそう言ったのだが、元々元気な碧の表情が一段と明るくなり、

 「うん、がんばる!」信号待ちの最中であるのに今すぐにも漕ぎ出さんばかりの勢いで返事が返ってきた。このようなことでも全力で当たる碧に、藍は尊敬の念を覚える。


 結局、城山から下ってくる道との交差点を四十メートル程過ぎた辺りで碧は力尽きた。

 「でも前より進んだね!」自らを励ますように今日の結果を評価する。

 「うん…! 碧ちゃん、すごいね…」藍も相槌を打つ。

 「一気は無理そうだけど、毎日ちょっとずつ進も!」

 「うん…あの、私にできることあったら言ってね…」

 「ありがとう!」

 「あの…」

 「うん」

 「碧ちゃんが押した方が速いのは分かってるんだけど…」

 「自転車押してくれるの?」

 「うん…いいかな…?」

 「うん! ありがとう!」藍にハンドルを譲って左側に立つ。

 碧も、自分が押した方が速いことは百も承知のはずだ。碧が押せば七、八分で着くところを自分は十五分以上かけてしまうだろう。それでも自分の意思を尊重してくれる碧の心が有り難いし、嬉しい。

 藍はなるべく早く着こうと、全力で押した。身体全体を前がかりにして、黙々と進む。碧は実際のところ手持ち無沙汰なのだが、藍にはそこまで気を配る余裕はない。

 頑張る藍を碧が見守るという構図で、二人とも一言も発さないまま、十五分弱で学校の正門を通過した。城山からの帰りよりは少し短縮されている。ちなみにこの間、六人の男子生徒が二人を追い抜いて行った。

 「藍ちゃん、ごくろうさま」労いの言葉を掛け、碧は駐輪場に停められた自転車の鍵を抜いた。まだ声が出せない藍は、首を小さく縦に振るのみ。碧は籠から二つの鞄を取り出し、両手に持った。

 「藍ちゃん、大丈夫? ちょっと休む?」碧が訊くが、心配そうな様子はない。前回ほど藍が疲れていないのを看て取っているのだろう。そして、休むと言っても座る場所は自転車の荷台くらいしか無い。

 藍は、今度は横に首を振った。呼吸がまだ乱れているが、碧はゆっくり歩き出した。但し、鞄については何も言わず、両手に持ったままだ。こういう風に気を遣ってくれるのを藍は有り難く思う。

 藍もすぐ歩き出し、碧の左に並んだ。

 「藍ちゃん、今日は坂登るの速かったね!」もう大丈夫と判断したか、体育館の脇を通過しながら碧が話しかけた。

 「え…そう…?」藍が訊く。本人にとっては気ばかり焦って前に進まない状態だったから、全然そのような実感は無かった。

 「うん! 今日は荷物あったのに、藍ちゃんすごいよ!」聞きようによっては白々しい褒め方だが、藍は、碧が本心からそう言っていると感じ、嬉しいと共に照れくさく思った。

 「これから頑張って、もっと速く登れるようになるね…」碧に向けて微笑む。

 「おおーっと、そうはいかないよ!」芝居がかった口調で碧が言う。片手でも空いていれば、掌を藍に向けて腕を伸ばしていたに違い無い。

 「え…?」予想外の言葉に藍は面食らった。碧はニヤリと笑い、

 「わたしが自転車で登りきれば藍ちゃんの出番はナッシングだよ!」まあその通りだ。

 「あ、うん…、そうだね…」

 「えへへー、頑張って藍ちゃんの出番を奪うよ!」頼もしい笑顔でそう宣言され、

 「あ、うん……じゃあ私はそれまで頑張るね…」藍もまた微笑んでそう言った。

 果たして藍の出番が無くなるのはいつのことか。


 二人が教室に着いたのは八時二十六分。始業の九分前だった。同級生の半分程が教室に入り、思い思いに時間を潰している。教科書を読む者、雑誌を開く者、音楽を聴く者、ゲームをする者、ぼーっとする者。まだ半日しかこの学級で過ごしていないせいか、生徒同士で話しこんでいる者は少ない。河内と斎藤が後ろ向きに座って洞、山田と話しているのと、あとは井上と林くらいか。この二人は始業式前が初見のはずだが、何やら盛り上がっている。河内も、他の三人とは中学が違うが、初日で早速仲良くなったらしい。藍が受けた印象と実際の性格とは違うのだろう。

 「相生さん、日直のことなんだけど」席に着こうとした碧をつかまえて青木が話しかけてきた。

 「うん」藍の方をちらりと見てから青木を見る。藍ちゃん、ちょっとごめんね、という意を汲んだ藍は、碧にだけ分かるようにほんの僅かだけ頷いた。

 「黒板は僕やるから号令頼める?」

 「うん、分かった」

 「じゃそういうことで」青木が自分の席に向かうと、

 「藍ちゃん、予習ってどうやってる?」碧はすぐ藍の方を向いた。

 「え…数学と物理は教科書の問題解くけど、あとは教科書読むだけかな…今日は、どれも教科書読んできただけだけど…」

 「そっかー。やっぱり問題やっといた方がいいかなあ」

 「私、一回見ただけだと理解できないことが多いから…繰り返すと自然に覚えられるし…」

 「なるほど…。藍ちゃん、社会は? わたし、社会が一番苦手なんだよね」

 「私も得意じゃないけど…社会はひたすら記憶するだけだから…」

 「興味わかないとなかなか覚わらないよねー」

 「うん…」

 「あ、でも、梨乃さんのおかげで地理はちょっと興味出たよ」

 「何かあったの…?」

 「うん、前梨乃さんと昼ごはん食べに行った時にね、梨乃さんが海外旅行に行った時の話をしてくれたの。メキシコとー、ペルーとー、アイルランドだったかな。遺跡が好きなんだって。家に行ったら写真見せてくれるって言ってたから、一緒に見せてもらお!」息をつかず一気に話した。

 「うん…」藍は微笑んで答えたが、碧が梨乃と食事に行っていたことを知って、複雑な気持ちだった。自分も梨乃のことは好きだから、碧と梨乃が仲良しなのは喜ばしいことだし、実際嬉しくもあるのだが、梨乃に嫉妬する気持ちがあることも否定し難い。

 「あれ? イマイチだった?」藍の答えが曖昧だったのか、碧が訊いてきた。

 「ううん、そんなことないよ。私も見てみたい…」慌てて答える。他国の写真を見てみたいのは本心だ。

 「一ヶ国につき数百枚って言ってたから、きっとアルバム何冊もあるね!」

 「え……そんなに…?」撮影を楽しみに旅行に行く者ならば、軽くそれくらいにはなる。デジタルカメラ万歳である。

 「うん、行った国も五ヶ国だったよ」

 「そうなんだ…梨乃さんすごいね…。私、長野県から出たこともあんまりないよ…」

 「わたしも梨乃さんに同じこと言ったよ~」

 「え…そうなの…?」

 「うん、親戚の結婚式とお葬式くらい。家族旅行も、今思うと全部県内だったなー」

 「私も…」

 「藍ちゃんもそうなんだー。今までで一番遠くに行ったのどこ?」

 「えーと、柳川…かな…」

 「て何県?」有名な観光地だが、高校に入りたての長野県民では知らなくても常識外れではないだろう。

 「福岡県…博多の親戚の家に行った時に、連れてってもらったの…」

 「うわ、余裕で負けた! わたし奈良」

 「お寺とか…?」

 「うん、よく分かってないんだけど、東大寺に行ったのは覚えてるよ。大仏の鼻の穴くぐったー」

 「え……?」藍は驚いて疑問の声をあげる。碧が大仏の顔によじ登っているところを想像したのだ。

 「あー、本物の鼻の穴じゃなくてね、鼻の穴と同じ大きさの穴が柱に掘ってあるの。今はさすがに通れないと思うけど」

 「へえ、面白いね…」得心がいった顔で藍がそう言い終わった時、始業を告げる鐘が鳴った。生徒全員が自分の席に戻る。藍と碧は自分の席で話していたので余裕の表情だ。

 十何秒か待たせて、贄教諭が後ろの扉から教室に入って来た。早くも前の扉に見切りをつけたのか。前から入って来るものと思い込んでいた生徒達が驚いて振り向く。教諭は、大股で教室を縦断し、教壇の前に立つと、

 「日直、号令」と簡潔に言った。

 「起立」「礼」「着席」碧が号令をかけた。

 「今日から授業が始まるが、勉強の方法について学校からは指示しないので、各で勉強は進めること。無論、相談には乗るから、不安な者は休み時間や放課後に来なさい」一旦言葉を切って教室を見渡し、

「ここからは単なる連絡だが、食堂は食券方式だ。自販機で食券を買ってカウンターで出す。メニューごとにカウンターが分かれているので注意するように。間違えるとかなり時間のロスになるぞ。ちなみに、食券は期限の表記がないので買いだめも可能だ。時間を短縮したい者には買いだめをオススメする」裏技まで付けた懇切丁寧な説明には、まだ続きが有った。

「食堂の角に購買もある。パンと飲み物を売っているが、二時間目の後の休み時間から営業するので、昼休みには売り切れていることもある。以上。質問は?」声は上がらない。

「何か特に連絡したいことがある者は?」ここもだ。まあ、それが普通だろう。

「ではホームルームは以上。授業の準備をして待つように」また大股で教室を縦断し、後ろの扉から出た。

 生徒達は、担当教科の教師が来るのを待った。


 三時間目と四時間目の間の休み時間。藍と碧は、その前の休みと同じく、二人で話をしていた。

 「わたしね、今日食堂で食べようと思うんだけど、藍ちゃんは?」

 「あ…私、お弁当…」申し訳無い気持ちで藍が答えると、碧は見るからにがっかりした様子になった。

 「そっかー。藍ちゃんと一緒に食べたかったなー」

 「あの…食堂でお弁当食べたら…まずいかな……?」そう言うと碧は途端に顔を輝かせて、

 「多分大丈夫だよ! 満席だったら購買でパン買うよ!」いつもの元気な碧に戻った。

「ありがと、藍ちゃん!」

 「え…ううん、全然……」


 昼休みを鐘が告げると、二人は食堂へ向かった。食堂は講堂の一階に位置する。戦前は武道場だったらしい。校舎と繋がっていないため、食堂に向かう生徒は靴に履き替えなければならず、下駄箱を先頭に三階、時には四階まで渋滞する。

 そういった事情を知らない一年生は、ほぼ全員が渋滞に巻き込まれ、藍達も例外ではなかった。前の者が進むのについて、のろのろと階段を下って行く。下駄箱まで三分、食堂に着くまで五分を費やし、これからまだ食券を購入する列に並ばなければならない。

 「いやー、スゴい列だったね~」空いた食卓が十二分にあることを確認して碧は最後尾についた。その隣に、小さな弁当箱の包みを提げた藍がちょこんと立つ。過去形になっているのは、階段での渋滞を思えば食券の列がかなり短いからだ。食券を事前購入している生徒がかなり居るのだろう。

 「うん、あんなに並ぶなんて全然思ってなかったよ…食堂で食べる人多いんだね…」藍も目を丸くしている。数もさることながら、食堂へ急ぐ、主に男子生徒の勢いに、藍は驚き、少し怖じ気づいてしまっていた。昼食前の高校生男子は半ば獣のようなものなのだが、少食の藍には、空腹に耐えかねた彼らの食事に対する執念など解ろうはずも無い。

 「毎日こんな感じなんだよね、きっと」

 「うん、多分…」実際のところは、そうではない。渋滞を経験した新入生の半分程度が、その長さに辟易して弁当やパンを持って来るようになるのが毎年の習いだ。今日のような渋滞になるのは一週間程度なのである。が、無論碧も藍もそんなことは知らないし、想像すらしていない。

 「毎日藍ちゃん待たせるの悪いな…」珍しく語尾を小さくして碧が言う。

 「私は、全然…」言葉を切ったところで碧に食券購入の順が回って来た。二人揃って前へ進む。

 「えーと、本日の定食、っと」素早く自販機に小銭を流し込み、ボタンを押して、碧は食券を手にした。今時ほとんど使われていない、プラスチック製の食券だ。券面に表記は全く無く、色がメニューを表すという方式だ。碧は桃色の食券を手に、自販機のすぐ左隣にあるカウンターへ横移動した。藍は、碧の背中にぴったりついて行く。

 食堂のおばちゃんはこの道のプロだった。流れるような手つきで器に盛り付け、盆に並べて碧の前に出す。こういった食堂で作り置きしないのは珍しいが、食べる方としては出来たてがいいに決まっている。

 碧も素早く盆を両手で持ち、藍の方を向いた。

「お待たせー」

 二人は最寄りの空席に向かい合って座った。藍が弁当包みを解くのを待ち、

「いただきます」「頂きます…」碧に少し遅れて藍も手を合わせた。

 「藍ちゃんのお弁当、おいしそうだねー」自分の食事に手をつける前から藍の弁当箱を覗き込む。

 「え…、そうかな……?」藍は驚いて訊く。何の変哲もない内容の弁当なのに。

 「うん! 何かいい匂いするし!」定食の匂いとは違う匂いを嗅ぎ分けたということか。

 「あの…よかったら食べる…?」

 ただでさえ少ない弁当を分けてしまっていいのか。碧はそう思ったのだろう、

 「ありがとう! じゃあわたしのと交換で!」

 「うん……」弁当箱を差し出す。

 「じゃあ一つずつ!」玉子とウインナーを一つずつ取り、さらに

「これ玄米だよね? ちょっともらっていい? 大好きなの~」

 「あ、うん、どうぞ…」

 「ありがとう! ほら、藍ちゃんも取って取って!」ちなみに本日の定食はメンチカツと鯵の開きを焼いたもの、焼売にキャベツの千切りと御飯、味噌汁だ。これで三百八十円はかなりお得だろう。

 「うん、じゃあ遠慮なく……」そう言いながら実際には遠慮しつつ箸を伸ばす。しかし、焼売を一つ取ったところで箸を止めてしまった。メンチカツや鯵は切り分けられていないから、箸をつけられないでいるのだ。それを察した碧がメンチカツを四分の一に、鯵を半分に割いて弁当箱の玄米の上に載せた。

 こんなにもらったら悪いよ…、と言いかけた藍を、

 「じゃあ、改めていただきます!」碧が封殺する。

 「頂きます…」藍も復唱し、鯵に箸をつけた。

 「何この玉子!? めっちゃおいしい! 何かダシっぽい味がするー」一口目から絶賛だった。

 「え…と、鰹出汁と醤油…だけど……」

 「カツオかあ。手間かかってるんだー。おいしい訳だね」次に玄米を口に運ぶと、

「何これ、玄米もおいしい! 家で炊いてるのと違う!」

 「え……普通に炊いてるだけだよ…炊飯器かな…?」確かに、同じ米を同じ水で炊いても、炊飯器によってかなり味が変わるらしい。

 「スゴいな藍ちゃん家……」

 それから二人は黙って全部食べた。量の比は四:一ほどであったにも関わらず、食べ終わったのはほぼ同時だった。厳密には、藍の方が僅かに遅れた。

 「いただきました!」「頂きました…」二人で声を合わせる。松本辺りでは、「ごちそうさま」ではなく「頂きました」と言うのである。

「いやー、玉子焼きホントおいしかったなあ。定食もおいしかったけど、あの玉子の前では霞むね!」ベタ褒めに藍は頬を赤くする。

 「そう…? 気に入ってもらえてよかった…」

 「あれを毎日食べられる藍ちゃんがうらやましい」

 「え……ほめすぎだよ……」今度は俯いてしまった。

 「いや、うらやましいを通り越してねたましい」急に声を低く落として言う。普通なら冗談だとすぐ分かるところだが、藍はその点普通ではない。

 「それは、ちょっと……怖い…」食べ物の恨みは恐ろしいと言うが、妬みも恐い。生まれて初めてそんなことが藍の脳裏をよぎった。

 「ゴメンゴメン、ねたましいは冗談」いつもの声音に戻って笑顔で言うと、

 「うん…」ほっとした気持ちになった。

 「藍ちゃん、午前中の授業どうだった?」唐突に話題が変わった。

 「え…? 解らないところはなかったけど……私、英語の会話が苦手で…特に、聞く方が……今日は大丈夫だったけど、難しくなったら……」話しながら不安が押し寄せて来て、続きの言葉が消え入ってしまった。しかし碧は動じた風もなく、

 「会話は慣れが第一だもんね」当然のことだが、どれほど本を読もうとも聞く力は養えない。

 「碧ちゃんは英会話得意…?」

 「自分の中では得意教科かな」

 「どうやって勉強してるの…?」

 「勉強してないよ」

 「え?」完全に予想外の回答で驚き、藍にしては珍しく大きな声になった。

 「や、ほら、慣れだから。わたし、小さい時からお父さんと一緒に家で洋画ばっかり観てたから、それでだいぶ慣れちゃった。あと、お兄ちゃんが中学になったら急に会話の相手させられて」

 「勉強より練習…?」

 「なんじゃないかなー。それとね、聞く力を伸ばすためには自分で発音するのが一番なんだって。本に書いてあった」

 「そうなんだ……」自分は話すのが苦手なので、会話は極力避けて通って来たが、それが良くなかったということか。

 「ね、よかったらこれから二人で練習しない?」

 「え、今から…?」

 「えーと、今からでもいいけど、今後毎日って意味で」

 「え…あ、うん。ありがとう……」英語でうまく話せないことは目に見えているから相手が碧でも少し恥ずかしいが、碧が自分のことを思って提案してくれたことが嬉しい。それに、本当にそれで能力が向上するなら願ったり叶ったりというやつだ。

 「毎日10分、5時間目と6時間目の間は?」

 「あ、あの…教室ではちょっと……」余人に聞かれるのは恥ずかし過ぎる。

 「あ、そっか、そうだね。じゃあやっぱりお昼ごはんの後かな?」

 「うん……」今日一番の安堵を感じながら藍は頷いた。

 「じゃあやっぱり今日の分は今からだね!」

 「え……」

 「善は急げだよ!」心の準備などというものを、碧は一切考慮しないらしい。

 「う、うん……」承諾したものの、何と言って始めればよいのか全く思い浮かばない。

 「じゃあ、好きなものの話しよっか。I love cats. What animal do you love ?」自ら得意と言うだけあって、発音が上手だと藍は思った。

 「え……えーと、I don't love any animals……」それに比べると、自分は如何にも日本人な発音だ。英語本文の上に打たれたカタカナを読んでいるような。

 「You mean you dislike animals ?」

 「No, no I don't. I mean…….」少し慌てたが、誤解されたのではという不安は無い。

 「You like animals but you don't love them especially」碧が助け船を出す。日本語で言えば何でもないことでも、英語で言おうとすると急に難しくなることはよくある。

 「Yes. Because I have not had any pets through my life. Do you have any pets ?」発音はさっぱりでも、文章の組み立てはそこそこ出来ているし、途中で言い淀まないのは立派だ。もっと自然な表現はあるのだろうが、藍の言葉通りでも意味は通じるだろう。

 「I do. I have a cat」

 「え…と、…Male or Female ?」

 「Male」

 「What is his name ?」

 「Kurohide」

 「え…? クロヒゲ?」え、の部分を英語に出来なかったのは、心底疑問に思ったからだ。

 「No, Ku, ro, hi, de. He was named after my father Kiyohide and my brother Yasuhide」

 「That sounds funny. Is he a black cat ?」

 「Yes, he is. He has black and extremely smooth fur. I hope you touch him」

 「I hope so, too」

 「Then, come on to my house !」その言葉に藍は頬を少し紅くさせながら嬉しそうに頷いた。見る人によっては、求婚を承諾した場面にも思えるだろう。

 「今日はこれくらいにしよっか。藍ちゃん、全然話せるじゃない! 苦手って言うからどんなかなーと思ったけど」

 「え…と、今は、自分でもすごく話せたし聞けたと思う……多分、相手が碧ちゃんだったから……」

 「緊張しなかった?」

 「したけど…でも、すごく集中してたような気がするの…」それも当然と言える。会話を成り立たせるために一番効果を持つのは、語学力ではなく、相手への興味だ。興味が有れば、相手の言葉が拙くともその意を汲もうと努力するし、相手が言葉を探しているのを待つことも出来る。藍は今無意識の裡に、碧の一言一句を逃すまいと聞き耳を立て、また、碧が何を言わんとしているのか理解しようと頭脳を全開で走らせていた。その理由はもちろん碧への興味に在る。

 「そっかー。じゃ、今日は大成功だね! わたしも思ってたよりうまく話せたよ。やっぱり藍ちゃんだからかな」

 「え……?」

 「なんか安心感があるんだよねー。英語が変でも、藍ちゃんだったら言いたいこと解ってくれそう」

 「それ…私も……!」珍しく間髪入れずに藍がそう言うと、碧の顔に驚きが広がり、

 「ホント? うれしい!」すぐに満面の笑みに変わった。

「これ、毎日やろ! 楽しいし、勉強にもなるし」

 「うん…!」また間髪入れずに答えた。

 「そろそろ、教室戻ろっか」

 「…うん…」答えて藍は空の弁当箱を包んだ。

 それを見届けて碧が盆を手に席を立ち、藍も続いた。




附 作中における虚実の説明


 現実世界についての説明は、令和元(西暦二〇一九)年頃のものです。

 作中に登場する、実在する本、漫画、映画等、著作物についての説明は省略いたします。


青井邸の最寄り駅

 実在します。アルピコ交通上高地線渚駅です。

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