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リセエンヌ  作者: 松本龍介
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始業式

令和二年六月十三日 修正

 文字化けを修正いたしました。

始業式


 「行ってきます」靴を履き終わると、藍は鞄を手に取った。

 「行ってらっしゃい」見送りの母親が答える。父親は十五分ほど前に家を出ている。

 扉を開け、外に出る。今日も穏やかないい天気だ。入学式の前日からこっち、こんな日が続いている。春には珍しいことだ。

 狭いながら存在している前庭を通り、門扉を開けて道路に出、駅へ向かう。楽しげとまではいかないものの、その表情に緊張の色は薄く、足取りも軽く見える。

 渚から松本まで二駅を松電に揺られ、七番ホームに降りる。零から六番ホームはJRだ。ホームの上を横断する通路を渡り、改札を出て右に進み、階段を下りるとすぐ右手がバス乗り場、その向こうがタクシー及び一般車用のロータリーになっている。

 藍は一瞬立ち止まった後、バス乗り場に向かった。向かって右手のバス停で運行表を見、目的の路線に相違無いことを確認して、列に並ぶ。列と言っても、会社員と思われる背広の青年が一人立っているだけだ。混み始めるには少し早いのかも知れない。

 青年の後ろで鞄を開け、本を取り出した時、

 「藍ちゃん!」背中から名を呼ばれた。驚いて振り向くと、両手を自転車のハンドルに置いた碧が立っている。

 「…碧ちゃん…!」

 「おはよう! バス待ち?」

 「おはよう…うん…あの、碧ちゃんは……?」

 「この前藍ちゃんがバス通って言ってたから、もしかしたらいるかなーって。ビンゴだったよー!」碧が嬉しそうに言うので、藍も自然と笑顔になる。

「よかったら乗ってかない?」

 「え……でも、登りだよ……大変じゃない…?」

 「途中までは登りじゃないから大丈夫!」途中からは大丈夫ではないと宣言しているようなものだが、藍にもそれは適当な口実だと分かる。

 「じゃあ、またお言葉に甘えて……」

 「うんうん、甘えて甘えて!! とりあえず荷物籠に入れよ」と言われ、慌てて本を鞄に戻す。籠は横幅が広く、学生鞄をそのまますっぽりと入れることができる。金具が当たって傷つかぬよう、鞄を背中合わせに入れると、

 「ありがと、藍ちゃん! 新しいから大事に使いたいもんね!」碧に礼を言われ、

 「…うん……」赤くなって少し俯いた。意図を理解されたことが嬉しくて照れているのだ。

 「ここで二人乗りすると怒られそうだから」碧がちらりと前方を見る。ロータリーの向こう側に交番があり、警官が一人立っている。

 「ちょっと歩いてからにしよ!」自転車の向きをくるりと変えた。

 「うん…」交番と警官の存在に気づいていた藍は、ほっとした。

 駅ビルを左に見ながら進み、自転車置場の脇を通って、学校へ向かう登り坂の歩道に出たところで、碧は自転車を止め、サドルに跨がった。

 「藍ちゃん」穏やかに促され、藍も荷台に座る。右手を碧の腰に回すと、

 「じゃあ行くよ!」碧はほんの少し前屈みになった。

 「うん…」

 漕ぎ出すより僅かに早く碧の腹筋に力が入り、藍はまた驚いた。始業式の帰りよりも、一段と固い。昔触った父親の身体のような固さだった。自分と同じくらいの細さなのに。

 しかし、最初の二漕ぎ三漕ぎを過ぎると、碧の身体からすっと力が抜けた。定速走行に入ったからだろう。筋肉の感触はまだあるが、微かになった。

 先日の下りに比べ格段にゆっくりな走行なので、全く怖くない。赤信号につかまって止まるまで、藍は夢心地で過ごした。

 「藍ちゃん、もしかして怖かった?」碧が、首だけ左に回して訊いてくる。

 「え…? …ううん。ゆっくり走ってくれたから……」

 「そっか、よかった! 動き出したら藍ちゃんぎゅってしてきたから、怖いのかなと思って」

 「!」そう言われて藍は、今もその状態であることに気づいた。碧の腹囲に回す腕に力を入れ、横顔を碧の背中に押し付けているのである。眼鏡の鉉が顳?に食い込んでいるのも、今漸く感じた。

 慌てて腕と顔を碧の身体から離す。

「あの…ごめんなさい…」藍が俯いて謝ると、碧は自由になった体を捻って、

 「ううん、全然大丈夫だよ! むしろぎゅってしてくれてるとわたしも安心」にっこりと笑いながら言った。どう解釈すべきか、状況によっては悩むような言い回しだが、わざと含みを持たせた訳ではないだろう。

 「…うん…」藍も、素直に頷いた。

 間も無く信号が青に変わり、今度は意識して横顔を碧の背中に押しつけた。ペダルを漕ぎ始めた碧の身体に力が入り、腹筋や背筋が隆起するのを感じる。先ほどと同じようにその隆起が消えると、藍は碧の身体にしがみついた。碧はやはり何も言わず、軽快にペダルを回していく。

 最初の一つ以外は信号に引っかかることなく、青い自転車は快調に進んだが、駅を出て約七百メートル、右手やや前方に城が見える辺りで、平坦だった道に勾配が加わり、碧の身体に少し力が籠もった。勾配は一%程度、急坂とは言えないが、二人乗りでは楽に登れるものではないだろう。

 しかし、ふらつくこともなく、青い自転車はゆっくり確実に登って行き、五百メートル余りを進み、二つ先の信号を通過した。ここから急に勾配が厳しくなる。

 碧の身体が固くなるのを腕と肩と顔で感じ、藍は腕の力を少し緩めた。碧の動きを妨げないようにという配慮だったが、

 「藍ちゃん大丈夫? 疲れちゃった?」逆に気を遣われてしまった。全力で漕ぎながら話すのだから、かなりの身体能力だ。

 「ううん、大丈夫。…碧ちゃん、無理しないでね…」

 「いやいやー、行けるとこまで行くよ!」求道的な魂が出てきたらしい。しかし五%の上り坂に加え、藍が体に腕を回しているため立ち漕ぎも許されないという状態では、二人乗りで登るのはやはり無理だった。最後の信号を過ぎてから約二十メートルで碧はペダルから足を離し、地に着けた。

 「うーん、キツいねこの坂。行けると思ってたんだけどなー」碧が一人ごちると、

 「あの…ありがとう……」申し訳無い気持ちで礼を述べながら藍は荷台を降り、碧の左側に回った。

 「ううん、全然! ごめんね藍ちゃん、ここからは歩きで」言いながら自分は自転車を押して進む。

 「うん。…碧ちゃんすごいね、こんな所まで登って来れるの…」碧に遅れまいと、藍としては速足で歩く。

 「いやー、学校まで登り切るつもりだったんだけど、全然ダメだったねー。これはチャレンジのし甲斐があるわ」やはり求道者である。「藍ちゃん、よかったら明日からも乗ってってくれない?」

 「え…悪いよ、碧ちゃんすごく大変そう…」

 「ううん、そんなことないよ! むしろお願いしたいくらい」

 「え……?」

 「ぜひいつかこれをクリアしたいと」

 「毎日挑戦するの…?」

 「藍ちゃんがよければ!」

 「…私は全然大丈夫、だけど…」

 「じゃあ決まり! 明日からもよろしくね!」笑顔で碧が言うので、

 「え…私の方こそ…よろしくお願いします…」藍もそう言って一礼した。

 「あ! 桜、咲き出したね!」急に話題が変わった。碧は前方の歩道上に張り出した枝を見ている。

 「え、どこ……?」藍もその方向を見つめたが、見つけられない。

 「あの、神社から出てる桜の木なんだけど……もうちょっと近づけば見えるかな?」

 碧の言う木の枝に十mくらいまで近づいた時、

 「あ…本当だ……」見たところ、神社の敷地から歩道に張り出している太い枝に幾つもの蕾が付いており、そのうちの三つが花開いていた。八重桜だ。残りも、今にも咲こうかというくらいまで綻びてきている。

 「ここでも咲き始めたってことは弘法山(こうぼうやま)あたりはもうすぐ見頃かな」碧がウキウキした様子で言う。碧ならずとも、凡そ日本人であるならば桜を見ると気分が盛り上がるというものであろう。しかし世の中には、不幸にして桜の花粉に反応するという人もいるので、早く花粉症の予防法、治療法が確立されてほしいものだ。

 碧の言った弘法山とは、そういう名前の古墳で、研究者によると三世紀末から四世紀初頭にかけてのものであるらしい。鏡、勾玉、鉄剣等が出土しており、これらは所謂三種の神器であるから、大和朝廷と何らかの関わりのある地方豪族或いは首長の墓なのだろう。この古墳に、平成の始め頃から地元有志の人たちが桜の植樹を始め、今では松本で一、二を争う桜の名所となっている。

 「弘法山きれいだよね…テレビで毎年見るよ…」藍の家からも遠いと言うほどではないのだが、行ったことは無い。

 「うん、山の頂上から下の桜を見下ろせるんだよね! ついでに街も一望できるよ」

 「私、上から桜を見下ろしたことない…」

 「じゃ、日曜行ってみようよ! 自転車で行ける距離だし、あんまり坂ないし」碧に行ける距離や坂でも藍にとってどうかは分からないが、

 「うん…見てみたい…!」即答した。一人では全く行く気にならないのに、不思議なものである。

 「あと、(じょう)(やま)公園! 学校の帰りに寄って行けるよね!」学校の西側に聳える丘陵地の端にある公園で、桜の名所としては弘法山よりずっと先輩だ。弘法山と違い、広い平地があるので、花より団子と酒、という花見客の数はこちらが多い。なお、隣接してはいないが、北側にアルプス公園というのもあり、その中には桜園もある。公園としてはこちらの方が圧倒的に広く、博物館、小規模な動植物園や遊具など施設も多い。

 「うん…! 城山も行ってみたい……!」

 「今日、下見行ってみる? まだ全然だと思うけど…」

 「うん…!」

 その時、一人の男子生徒が自転車を立ち漕ぎして車道から二人を抜いて行った。それまで、前方に生徒の姿はなく、追い越されることもなかったため、他の生徒のことなど全く意識に上っていなかったのだが、二人とも急に周りが気になり出し、揃って後ろを振り返った。しかし、遥か後ろには学生服らしい人影が散見されるものの、付近には誰も見当たらない。

 「あー、まあ、そりゃそうだよね」当然と言えば当然であろう。

 「前に誰もいなかったもんね…」自転車で駆け上がって来た二人が誰も抜いていないのだから。

 「まだ早いのかな?」

 「…そうだね…」現在、八時少し前。学校の始業は八時三十五分だ。一般的に、始業の十分くらい前に着く人が多いのではないだろうか。

「……あ、でも、バスには乗ってるかも」

 「藍ちゃんが乗る予定だったバス?」

 「うん…もうすぐ来ると思うんだけど……」

 碧が再び振り返り、下を確認すると、果たして、藍の言葉通りバスがゆっくりと登ってくるのが見えた。

 「あのバスだね」後ろを向きながら言い、

「信号待ってる間に追いついて来るかな?」藍の方に向き直って言う。ちょうど二人は学校の手前で通りを渡る信号に辿り着いたところだった。先日藍が渡った信号の一つ手前に当たる。学校の正門に至るにはこの信号を渡って学校の下側、方角で言うと南側の道を使う方が近いのだが、学校をよく見たかったので、藍はわざわざ遠回りをして学校の上側即ち北側の道を使ったのだった。

 待つ裡にバスは近づいて来ていたが、バス停で停車している間に信号が変わり、二人は歩き出した。

 信号を渡ったところで碧は自転車を止め、無言でサドルに座り、藍の方を見た。碧の眼差しに促され、藍も荷台に腰を下ろす。

 ゆっくりと自転車は発進し、学校を左に見ながら走る。碧の腰をつかまえた藍の目の前を金網と校庭と校舎がゆっくりと流れ、碧の背中に頬をぴったりとつけながら、藍は不思議な心持ちでそれを眺めた。

 二人とも言葉を発しないまま、学校の敷地に沿って左に曲がる。と、自転車に急ブレーキが掛かり、藍の上半身が碧の背中に押しつけられた。ゆっくり走っていたため実際には全然大した減速ではなかったのだが、夢見心地だった藍は前にバランスを崩して地面に足を着いた。

 「大丈夫!? ごめんね! 門のところに先生立ってるから」碧が慌てて振り向きながら自転車を降りる。

 「あ、ううん、私がボーッとしてたから……」そう言って碧の隣に並ぶ。すっかり乗り降りのパターンに慣れてしまった。意識してのことかどうかは分からないが、碧が藍の動きに合わせているのも間違い無いだろう。

 「やー、でもこれは予想すべきだったね」

 「初日だからかな…?」

 「だといいねー」二人乗りをやめるという選択肢は碧の眼中に無いようだ。

 「うん…」

 話しているうちに校門までやってきた二人は、

 「おはようございます!」「おはようございます…」それぞれ門の前に立つ教師に挨拶し、

 「おはよう!」教師も笑顔で頷いて挨拶を返してきた。入学式で講堂の入口に立っていた若い教師だった。こういう役を務めているということは、彼がこの学校の最年少教師なのだろうか。

 二人乗りについて咎められることもなく、二人は立ち止まらずに学校の敷地へと入り、駐輪場へ向かった。

 「ちょっとドキドキしたね!」

 「うん……」藍は、自分では分かっていないが、ちょっとドキドキなどという体ではなく、明らかにおどおどしている。教師も、何かあることに気付いたに違い無い。普通ならそんな生徒がいれば、一言声を掛けるというものだろう。なのに何も言わなかったということは、或いは二人乗りに気付きながら敢えて不問に付したのかも知れない。

 駐輪場はまだガラガラで、手前から十台程度が置かれているだけだった。学年や学級別に分かれているということもなく、碧は空いている枠の一番手前に自転車を置き、前輪に付いている錠前の鍵を抜いた。続いて前籠から鞄を二つ取り出し、藍の鞄を手渡す。

 「ありがとう…」バツの悪い表情で鞄を受け取った。碧に働かせて自分は後ろに乗っているだけ、というのが心苦しい。

 「ううん! 明日もよろしくね!」そんな悩みは全く無用!と言外に言われているのが藍にも分かり、

 「うん…ありがとう…」ぎこちなく微笑んだ。

 二人並んで校舎へ向かう。たまたまなのかまだ登校する生徒がいないのか、校門から校舎までの間には誰も見当たらなかった。二人を追い抜いていった男子生徒はとっくに校舎に入ったようだ。

 校舎の玄関で二人は足を止めた。扉に貼紙がしてあり、各学級の名簿が記載されている。これは、下駄箱の位置が学年、学級と出席番号で決まっているためだ。入学式で配られた印刷物を読んで、藍もその事を知っている。

 「1年F組…相生…女子1番。藍ちゃんは2番、っと! やっぱり隣だね!」

 「うん…」藍は相槌を打った。予想通りであったが、それでもやはり嬉しい。

 「下駄箱一番右だったよね」校舎の扉を開けながら碧が言う。日が当たっていないためか、校舎の中は底冷えがするような寒さだった。

 「うん…」扉を抜けてすぐ右に曲がる。下駄箱の列を左手に、二人は奥の方へ進んだ。一番右とは一番奥ということだろう。

 壁際に並んだ下駄箱の上には1-Eから1-Hまでの札が等間隔に置かれており、二人は1-Fの前で靴を脱ぐと、下駄箱前の(すのこ)に乗って、それぞれ1と2の下駄箱に入れた。下駄箱は木製で、よくある学校の下駄箱というよりは、昭和の風呂屋の下駄箱という感だ。平たい鍵を上から差し込む方式の錠前が付いていれば完璧だっただろう。が、残念ながら銭湯に行ったことがない藍は、ただ古いというだけの印象しか持たなかった。

 続いて鞄から上履きを取り出し、廊下の手前まで進むと廊下に上履きを置き、履いた。この辺り、二人とも躾が行き届いている。恐らく、簀の上に上履きを置いて履く人の方が多いだろう。特に男子は大半がそうであるに違い無い。ちなみに、二人ともよくある白の上履きだ。

 エポキシ樹脂の廊下は、一歩踏むごとにキュッと音を鳴らした。小さな音のはずだが、無人の廊下ではとても大きな音に聞こえる。

 入学式の日に下りてきた階段を二人は並んで四階まで上った。階段でも生徒に会うことはなかったが、三階を通り過ぎる時、廊下から女生徒が楽しげに話す声が聞こえてきて、二人は何となく顔を見合わせた。

 「2年生の人たちだよね」

 「うん…」

 「楽しそう」

 「うん…」

 「あー、なんかワクワクしてきたー」

 「うん…」

 四階の廊下にも人影はない。F組教室の後ろ側の扉を前に二人は立ち止まった。一呼吸置いて碧が扉を開ける。藍の予想に反して、扉はほとんど音を立てずに開いた。

 「おっ、こっちは軽い!」中に入った。すぐ藍も続き、扉を閉める。確かに、前側の扉と違って、普通の手応えだ。

 「今日は一番乗りだね!」教室も無人であった。

 「うん…」

 「『好きな座席に着席のこと。先着順』だって!」前方の黒板に文字が書かれているのに気付いた碧が楽しそうに読み、

「選び放題だよ! 早く来てよかったー!」藍の方を向いて言った。

 「うん…そうだね…」

 「前でいい?」

 「うん…」

 「じゃあ」言いながら前の方へ移動し、最前列中央の机に鞄を置いた。藍はその左隣の机に鞄を置く。

 「藍ちゃんは部活入る?」窓際へ歩きながら訊いた。

 「え……まだ全然考えてない…けど……」藍も窓際へ向かいながら答える。こう言ったが、部活に入る気は全く無い。

 他の多くの高校と同じく、この学校において部活動は必須ではない。そのことも印刷物により予習済みだ。

 「そっかー」

 「…碧ちゃんは、もう決めてるの…?」

 「まだだけど、水泳部と陸上部とスキー部かな。今日の部活紹介見て決めるつもり」始業式の後、午前中いっぱい部活紹介という予定になっている。

 「やっぱり、運動部なんだね…」窓の外、校庭に視線を向けた。

 「藍ちゃんは文化系?」

 「…うん…入るとしたら…」入らないが。

 「そっかー。でも、部活紹介一緒に回ろ?」

 「うん…」

 「あっ! あれ、河内君じゃない?」唐突に話題が変わった。碧は駐輪場の方を見ている。

 「……うん、そうだね…碧ちゃん、目いいね…」藍は眼鏡を掛けているので、度が合っていれば見えるのは当然だ。

 「うん、両方2.0!」

 「すごいね…私、眼鏡掛けても1.0…」

 その時、河内が顔を上げ、二人のいる窓の方を見た。何の意図もなく見遣っただけだろうが、窓際に立っているのが藍たちだと認識したのは明らかだった。それを見て、碧が手を振る。河内は狼狽した様子を見せつつも、軽く会釈した。さらにそれを見て、藍が頭を下げる。

 「やっぱいい人っぽいね、河内君」

 「うん…」男子について云々するのが何となく憚られて、曖昧な相槌を打った。

 それから暫く無言で外を眺めていると、後ろ側の扉がカラカラ音を立てて開いた。

 素早く碧が振り向き、少し遅れて藍も振り向く。

 教室に入って来たのはやはり河内だった。入るなり二人の視線を受けて一瞬たじろぎ、無言で会釈して教室の前方に向かおうとしたが、

 「おはようございます!」碧に声を掛けられ、

 「おはようございます」立ち止まって挨拶を返した。それが自分にも向けられていることを察し、

「おはようございます…」藍も挨拶した。河内はそれに対してまた軽く会釈した後、黒板の文字を読み、二人の鞄を見て、そのままの姿勢で止まる。三秒ほど考え、二人のいる窓際へ向かい、最前列左端の机に鞄を置いた。その時、

 「河内くん、よかったら私たちの隣座って」碧がそう言った。ちょうど真後ろに当たる位置から声を掛けられたせいか、予想していなかったからか、河内はビクっと体を震わせてから碧の方に向き直り、

 「え……?」とだけ言った。碧のような美人に言われたのだから何も訊かずにそうしそうなものだが。困った表情ではあるが、碧に向ける眼差しに猜疑心のようなものは認められないから、単純に驚いただけなのだろう。やはり女子が苦手なのだろうか。

 「いやー、ほら、知ってる人近い方が心強いから」初見の相手に自分から話しかけることのできる碧でも、そうなのか。無言で碧を見つめながら、藍は少し意外に感じた。

 「はあ、じゃあ」とだけ言って鞄を取り、河内は藍の左隣の机に置いた。

 直後、数人の生徒が教室に入ってきて、それぞれ無言で適当に席を占めた。藍と碧、河内も自分の席に着く。河内はその時点で初めて、自分が碧ではなく藍の隣に席を取ったことを知ったはずだが、何も言わず、席を動くこともなかった。

 その後、続々と生徒が到着し、中には知り合い同士の者もいたため、教室は急に賑やかになった。

 「…梨乃さん家に泊まる話だけどね…」急に思い出し、藍は話しかけた。

 「うんうん」

 「私も、朝から着替え持って来ようと思うんだけど…」

 「ホント? やったあ!」

 「…でも、自転車の運転難しくないかな…?」

 「あー、荷物大きいと籠に入んないかー」

 「うん、だから私バスで来ようかな、って……」

 「何かやりようあると思うんだけど…帰りに城山行きながら作戦会議しよ!」

 「うん…」

 その後間も無く始業の鐘が鳴り、多少のざわつきを残しながらも、教室は教師を待つ態勢に入った。ちなみに鐘の曲目は、日本全国ほぼ共通のビッグベンだ。

 鐘が鳴り終わると同時に前の扉がガラガラと雷鳴のような音を轟かせて開く。

 「重いなこの扉」高校生活の始まりを告げるに相応しいとはお世辞にも言えない一言と共に、教師が入って来た。長身ですらりとした青年だ。切れ長の目が少し冷たい印象を与えるが、柔和な表情がそれをかなり軽減している。再び雷鳴を轟かせて扉を閉め、大股に歩いて教卓の前に立った教師は、

 「とりあえず挨拶しよう。起立」生徒が一斉に立ち上がったのを確認して、

「礼」生徒よりも深々と礼をし、

「着席」ガタガタと音を立てて生徒が着席したところで、

「えー、1年F組の担任になった贄光博(にえみつひろ)です」と言って黒板の空いている所に自分の名前を書いた。

「まず今日の予定。9時から講堂で始業式、終わったら戻ってホームルーム。各自自己紹介と各学級委員の選出を行なう。ホームルーム終了後、午前中いっぱい部活紹介。これは各自で好きなところを回ってもらう。以上、何か質問は?」この時点で質問する強者(つわもの)はこの学級には居なかった。

「では講堂へ移動する前に一つ決めておこう。各自、座席は今の位置でいいか? 移動したい者は?」教室中に無言の衝撃が走った。まさか、先着順で適当に座った席が固定になるとは! どんだけ適当なんだ、この教師! 普通、最初は出席番号順に並ぶってもんだろう!

 しかし、藍にとっては僥倖であった。元々前の座席を希望していたし、何より隣に碧がいる。逆側に座る河内も、これまで見た限りではガサツな男子ではなさそうだ。

 ちらりと右を見遣ると、碧もこの座席でラッキー!という表情だ。少し考えてみると、この座席に不満な者の方が少ないのではないか。基本的に皆自分で席を選んでいる。知り合い同士の者は近くに座っているだろう。不満を持つとすれば、後からやって来て希望の席がすでに埋まっていたという場合だが、全員が希望の席になる配席はほぼ有り得ないだろうから、最大限生徒の希望を汲んでいると言えるのではないか。

 一秒か二秒、藍がそんなことを考えていると、

 「はい」藍の後ろの方から女生徒が名乗りを上げた。教室中のほぼ全員の視線が彼女に集まる。入学式で藍のすぐ後ろに座っていた長身長髪の女生徒だ。今は、藍の三つ後ろに座っている。

 「うん。どうぞ」贄教諭は特に驚いた様子ではない。

 「わたし背が高いので後ろの人が黒板見づらいんじゃないかと思うんですが」

 「なるほど。後ろの者、見づらいか?」

 「…ちょっと…」彼女のすぐ後ろに座る男子生徒が控えめな言い方で肯定した。座高だけから判断すると、河内よりもさらに低いだろうか。

 「前の方がいいか?」

 「そう、ですね」

 「よし、ではその二人は入れ換えよう。その後ろは、大丈夫そうだな」後ろ二人は平均より少し大きいくらいの男子生徒だった。

 「はい」一人がそう言い、もう一人は無言で頷いた。

 「よし。なかなかいい気遣いだった。ほかにはいないか?」少し待ち、

「では講堂へ移動しよう。各自ついてくること」大股で教室の後ろへ歩き、扉を開けて廊下に出た。生徒も席を立ち、ゾロゾロと後に続こうとしたが、隣のG組がつかえているらしく、動き出すまで三十秒ほど待たされた。藍たちは最後尾近くで教室を後にした。

 廊下では次のE組が待機しており、藍は急かされる思いがして速足になった。実際、速足でなければ前についても行けないのだが。

 「始業式でもイカすこと言うのかな?」藍の右側半歩前を行く碧が突然藍の方を見て言った。

 「校長先生?」

 「うん。どんだけスベるのか楽しみになってきちゃった」感動する話を期待しているのではないのか。

 「…話はすると思うけど、すべるかな…」

 「わたしが言っちゃったしなー。あれに懲りてないといいなあ」普通ならば懲りた方がいいはずだが、碧のようにそれを期待している生徒や教師がいるのならば、違った考え方も出来るかも知れない。

 階段を下り、靴を履き替え、校庭の端を通って、生徒の列はゾロゾロと講堂の建物へ入った。全生徒の移動だけで十五分や二十分かかるのではないか。実に効率が悪いが、節目には全校生徒を揃えての式も必要なのだろう。

 暗い玄関から階段を昇り、講堂に入ると、中は四分の三ほどが生徒で埋まっていた。

 入学式の時と同じく三人掛けの椅子一列が一学級に充てられていたが、全校生徒千人弱が入ると、ほぼ満席になっている様子だった。藍と碧は一年F組の後ろから二列目の座席となったが、彼女達の後ろには残り二列しか椅子がなく、贄教諭は唯一空いている最後尾の椅子に座った。

 教師がすぐ後ろにいるからか、二人は押し黙って式が始まるのを待った。数分後、一年A組が全員座るとすぐ放送が入った。

 「只今より、始業式を始めます。一同、起立」

 教師陣が素早く立ち上がり、生徒も続いた。校長が舞台袖から登壇する。

「礼」

「着席」

「校長挨拶」

 校長が舞台袖から現れ、事前に設置されていたマイクの前に立つ。

 「皆さん、おはようございます。新年度を始めるに当たり、一言お願いをいたします。何事にも自分の考え、意見、見解を持ち、必要な時ははっきりと述べる、ということです。自分で考え検討した結果それが正しいと思うならば、他人の受け売りでももちろん構いません。逆に言えば、何も考えず鵜呑みにするのは避けて頂きたい。はっきり述べる、ということについては、先日の入学式の後、なかなかいい例がありました。入学式での私のスピーチについて、新入生の一人から『あれはなかった方がよかった』と御指導を頂きました」校長がそこまで述べた時、碧と藍は互いを見合わせて驚きの表情を交わし合った。

 校長何言い出すの?

 大丈夫、私たち以外に知ってる人いないよ、碧ちゃん…

その間にも校長は澱みなく言葉を継いだ。「なかなか普通では批評しづらいところだと思いますが、彼女は臆することなくそう言ってくれました」

 いやいやあんたが言わせたんじゃないの! しかもすんごい遠慮して言いましたとも!

 けっこう脚色してるね…

「皆さんも彼女のように、臆せず意見を言えるよう心掛けて下さい」

 って言うか、彼女って! 女子だって分かっちゃったじゃない!

 …その生徒、とかでよかったのにね…

「付け加えると」

 まだ何かあるの?

 あんまり反応すると担任の先生にバレちゃうよ……

「私が見かけた時、その生徒は玄関に散らばったスリッパを自主的に揃えてくれていました」

 …………

 いいことも言ってくれたね…

「自分で考え、自分で決め、それをはっきり言う。もちろん自分が言わないと決めたなら言わない。考えが変わることもあるでしょう、それはそれで良し。とにかく、他人に流され過ぎないよう、しっかりと自分を持って下さい。以上で私の話を終わります」一礼して舞台袖に引っ込むと、

 「以上で始業式を終了します。引き続きこの後の予定を連絡します。各教室に戻ってホームルームの後、部活動紹介を午後一時まで実施します。各生徒、特に一年生はよく見て回り、部活動決定の参考にして下さい。連絡は以上です。1年A組から順に退出して下さい」

 生徒と担任教諭は来た時よりも整然と列を組んで講堂を出た。藍と碧は贄教諭のすぐ後ろで教室まで黙って歩いた。

 教室に戻った一年F組が、座席を入れ替えた二人を除いて全員朝の席に座ったところで、贄教諭が早速話し出した。

 「ではまず自己紹介から始めよう。出席番号順に名前を呼ぶので、起立して簡単に自己紹介してくれ。一応持ち時間は30秒」言葉遣いは硬いが表情は柔和というちぐはぐ教師だ。

「では男子1番から。青木」

 「はい」右から二列目後ろから三番目の席の生徒が立ち上がり、

(あお)()(たかし)です。(ひじり)と書いてたかしと読みます。えーと、中学では将棋部でした」本当に簡単な自己紹介をして座った。

 「よし。では女子1番。相生」

 「はい」立ち上がって全身で後ろを向いた。最前列なので妥当だろう。見え易い位置に座っているせいで、全員の視線が注がれる。碧はそれを全く気にした様子無く、

 「相生碧です。水泳部とスキー部に入ろうと思ってます」と、これも至って簡単に述べ、前に向き直って座った。

 こういうのは最初の二、三人で大方の方向性が決まる。次からもこのような簡単な紹介でいいだろう。内心兢々としていた藍は少し安堵した。

 「よし。井上」長身の女生徒と席を入れ替えた男子生徒が立ち上がった。

 「井上(いのうえ)(かず)()です。白馬から来てます」教室がどよめいた。白馬から松本は列車で一時間半程度かかる。駅から学校までの時間も必要であるから、即ち、これから三年毎日始発列車で通うということだ。

 「白馬から通いか、なかなか大変だが遅刻しないよう頑張ってくれ」贄教諭も一言掛けた。

 「はい!」井上は元気よく答えて席に着いた。

 「よし。青井」藍の順番が回って来た。碧に比べると格段にゆっくりと立ち上がり、後ろを向く。一言も言わないうちから、殆どの生徒にトロい奴という印象を持たれたに違い無い。

 「…青井、藍です。特技とか、ありません…」大きな眼鏡に隠れるように俯き加減で、消え入りそうな声で何とかそれだけ言った。教室が静まりかえっていなければ、とても後ろの生徒まで届かなかったはずだ。そして、俯いたまま、立ち上がった時よりは幾分素早く前を向いて座った。

 碧が心配そうに自分を見ているのが分かったが、訳もなく悲しい気分になり、藍は顔を上げることが出来なかった。

 「よし。岡田」目の前にいる贄教諭の声がひどく遠く感じる。膝の上で両拳を握り締め、こみ上げる気持ちを抑えるのに必死で、自己紹介している生徒の声は耳に入らなかったが、

 「よし。河内」その名前が急に耳に飛び込んできたように感じられた。顔は俯いたまま上目使いで、河内が立ち上がって後ろを向くのを見る。

 「河内洋です。中1まで大阪に住んでました。阪神ファンです」関西弁のせいか、教室中が彼に興味の視線を注いでいる。俯きながらもそのことが察せられ、急に藍は気が楽になるのを感じた。

 河内が座る音を聞きながら、藍は少しだけ碧の方を向いた。碧の表情が心配から安心に変わり、藍はぎこちなく微笑んだ。

 少しずつ気持ちが楽になるのを感じながら自己紹介を聞き、約二十分後、

 「和田(WADA)です。ドーピングは許しません」ウケたのか失笑なのかよく判らない笑いと共に生徒の自己紹介が終わり、藍は河内以降全員の名前と席を覚えた。

 「よし。一通り回ったな。後の交流は若い者同士で深めてくれ」見合いの仲人のような台詞で締め括り、

「続いて学級委員長を選出する。立候補は?」と議題を進めた。

 名乗りを上げる者はいない。学級委員長など面倒なだけで大した役得は期待出来ないのが普通だから、無理も無かろう。

「なんだ、誰もいないのか? 『俺がやる!』『俺がやる!』『俺がやる!』『どうぞどうぞ』的なのを期待してたんだがな」そんなダチョウさんな流れになった年など一度とてあるまい。

「では仕方がないので指名する。相生」藍は顔を上げ、碧を見た。碧が指名されたことに驚きはない。礼儀正しく、物怖じせず、しゃんとしている彼女はこういう役にうってつけだと思う。しかし、何となく委員長にはなってほしくない気持ちだ。

 「わたしですか?」本人も、少し驚いた様子はあるが、全く動じてはいない。

「いいですけど、一つ条件があります」やはり、かなり図太いのだろう。

 「入学早々教師相手に交渉とはさすがだな。言ってみろ」さすが、のところで碧は一瞬柳眉を逆立てたが、余計なことは口にしなかった。藍は始業式の時に担任にバレることを気にしたが、無用の心配だったようだ。この様子では、教諭陣には既に知れ渡っている。

 「副委員長を指名させて下さい」じっと碧を見つめる藍の視線に不安が混じった。碧は誰を指名するのだろう。碧と一緒ならば学級委員という目立つ役職でもやってみたいが、我ながら、適任であるとは全く思えない。

 「よし。副委員長は男女各一名だ」

 「一名ずつ…はい」

 「指名された者は拒否しない、いいな?」半数程度の生徒が頷き、残りの者は特に反応しなかった。異議を唱える者はない。副委員長の仕事はあまり無いのが普通であるからこれも不思議ではないが、男子に限って言えば、碧のような美人になら寧ろ指名されたいという者もいるだろう。

 「よし。で?」入学式で学級の発表を見たときと同じくらいドキドキしてきた。今回は偶然の介入する余地がないから余計だ。

 「はい。青井さんと、河内君」青井さん、と呼ばれるのがこんなに嬉しいものだとは。

 「よし。では相生、青井、河内の三名は前へ」

 三人は席を立った。最前列中央の三人だ。出来レースと勘繰る者がいても不思議ではないが、藍はともかく河内が指名されることは贄教諭にも予測出来なかっただろう。

 「では以降の議事は三人に任せる。決定すべき委員はその紙に書いてある。それと、これがクラス名簿だ。よろしく頼むぞ」碧が自分の左に、藍と河内が右に立ったところで贄教諭はそう言い、碧に紙を渡して窓際に移動した。

 「はい」返事をして藍と位置を入れ替え、碧は教卓の前に立った。その時、藍は碧から紙を一枚渡された。見ると、名簿だ。

 藍は皆の前に立っていることを気恥ずかしく思ったが、自己紹介の時のように、どうしていいか分からないという風には感じなかった。河内は、手持ち無沙汰な感は有るが、藍の案に(たが)い、堂々と立っている。

 「えーと、では各委員を決めます」言葉を切ってちらりと藍の方を見る。それだけで碧の意図を心得た藍は、チョークを手に取った。碧と藍が知り合って間もないことを知る河内は驚きの表情だ。碧は、一瞬藍に向けて微笑み、当然とばかりに続ける。

「図書委員1名、保健委員、男女各2名」碧が読み上げるまま、適当な間隔を空けて縦書きで板書していく。碧もゆっくりめに読み上げているが、藍の板書も速い。普段の動作からは想像出来ない速さと言える。藍は、小学生の頃から授業の内容をノートに色々と書き込むのが好きで、自然と速く書けるようになったのである。

 それにしても、今時このように生徒に委員を割り当てる高校はそう無いだろう。

 「体育委員、記念祭実行委員各3名…て何ですか?」碧が教諭に訊く。藍も、字が分からず手を止めた。

 「いわゆる文化祭だ。学校の創立を記念して行なうという趣旨なので、記念祭と名付けている」それを聞いて藍は記念祭実行委員、と書く。

「ついでに言うと、体育委員は運動会の準備、運営を担当する」

 「はい。あとは、各教科ごとに委員各一名…これは何をするんですか?」

「授業の準備などに手を貸してもらう」

 「だそうです。立候補を募って、希望者多数の場合はじゃんけん、足りない場合はくじ引きというのはどうでしょう?」

 「いいんじゃない?」井上と席を入れ替えた(はやし)(きり)()がそう言い、異議は出なかった。

 「ではその方式で行きます。まずは立候補をお願いします。図書委員から」藍は、図書委員ならやってもよかったなと思った。尤も、碧と一緒の学級委員の方が遥かに魅力的なので、結果に不満は全く無い。それに、いざ立候補となると、手を挙げられなかっただろう。

 「はい」碧の二つ後ろに座る女子生徒が手を挙げた。碧より少し長い髪で、眼鏡を掛けている。自己紹介では(しも)(じま)()()と名乗っていた。

「ほかにはいませんか?」碧が確認したが手は挙がらない。藍は、図書委員の文字の下に下島と書いた。

「次は保健委員です。男女各2名」

 「はい」林の二つ後ろ、すなわち藍の列の一番後ろに座る男子が挙手した。細い縁の四角い眼鏡をかけ、髪を七三に分けた、如何にも真面目そうな外見だ。保健委員より、図書委員と言った方がしっくり来る。

 「あれ? 松岡やんの? じゃおれも」その隣に座る男子生徒が立ち上がる。松岡とは対照的に、やんちゃで本とはかなり距離がありそうな印象だ。茶色と金色の中間くらいの色に染めた髪を、長めに整えている。恐らく、おしゃれな男なのだろう。しかも、すらりと背が高い上に、かなりの美男子だ。碧と二人で並んだら、さぞかし見栄えがするだろう。藍としては、碧に並んでもらいたくはないが。

 「ほかにいませんか?」二秒ほど待ち、「じゃあ決定ー。えーと」

 「松岡君と岡田君」間を空けず河内が言い、藍は名簿で漢字を確認して二人の名を黒板に書いた。

 「女子はどうですかー」碧が問うと、ぱらぱらと手が挙がった。七、八人もいるだろうか。藍は、保健委員とはそんなに魅力的な役職なのかと驚いた。

「はい、ではじゃんけんしますので前に出てきて下さい」

 前に出てきた女子生徒は、結局九人だった。

「じゃ、いきますよー。じゃんけん、ぽん」碧は、掛け声まで担当した。

「あいこで、しょ」

「あいこで、しょ」

「あいこで、しょ」

「あいこで、しょ」

「あいこで、しょ」

「あいこで、しょ」

「あいこで、しょ」

 七回のあいこの末、保健委員の座を手中に収めたのは、()(がり)()()(むら)()(さき)だった。

 その後もこのような調子で恙なく議事は進行し、籤引きが行われること無く全ての委員が決まった。結局、委員になっていないのは学級の三分の一程度だけだ。

 「先生、以上ですが」碧が窓際に向かって言うと、

 「よし。御苦労だったな。席に戻ってくれ」贄教諭は三人が席に着くのを待って、

「次に、教科書を配布する。男女とも出席番号11番以降の者、手伝ってくれ」教卓の前を通り過ぎて扉に向かい、またガタガタと音を立てて開けた。呼ばれた生徒もゾロゾロと廊下に出、藍たち残りの生徒は席で成り行きを見守る。

 「男子、一人一箱持って教室に入ってくれ。女子は箱から取って配ってくれ。じゃ、11番から順に頼む」廊下から贄教諭の声が聞こえてきて、少しの間を置いて十一番の中村という男子生徒と高橋という女生徒が入り、配り始めた。その後も滞りなく教科書が配られ、数分後には全員がまた着席した。

 贄教諭はどこからか印刷物の束を取り出し、六つに分けた後、

 「時間割だ。1枚ずつ取って後ろに回してくれ」と言って先頭の机に置いた。

 印刷物が行き渡ったのを確認すると教卓の前に戻る。

「後ろの棚は、出席番号と同じ番号のものを使うように。このクラスは男女20人ずつなので、女子1番が棚番21だ」予想通りだ。

「今日から一年このメンバーで学校生活を送ってもらうわけだが、今日見ていた限りでは皆協力してやってくれていたと思う。学生の本分は学業だが、せっかくだから愉しく過ごした方がお得だ。今後も皆仲良くやってくれ。ホームルームは以上。この後、部活紹介を見て行ってくれ。部活に入るつもりがなくても、学校行事の一貫と思って、一通り回ってはみること。以上。相生、号令を頼む」

 「あ、はい。起立」全員揃って立ち上がった。

 「ああ、一つ忘れてた。明日から号令は日直の担当とする。一応出席番号順で回すが、自由に入れ替わっていいぞ。とりあえず明日は青木と相生がやってくれ」

 「はい」声を揃えて返事し、贄教諭が頷いたのを確認して、

 「礼」碧は号令した。教諭も生徒も軽く一礼する。

 「じゃ、部活紹介に行ってくれ」贄教諭が解散を宣言し、生徒はバラバラと席を離れた。碧は藍に話しかけようとしたが、

 「相生、青井、河内」贄教諭に呼ばれ、三人はまた教卓の方を向いた。

 「いい議事進行だった。こんなにコンビネーションのいいのは初めて見た。お前たち、中学は別々だったと思ったが、知り合いだったのか?」

 贄教諭の言う通り、議事の進行は異常に円滑だった。生徒たちの積極性も評価して然るべきだが、碧の議事進行が優れていたことは確かだ。押し付け過ぎず任せ過ぎず、遅過ぎず急ぎ過ぎず。碧を委員長に指名したのは慧眼だ、と藍は思った。委員長になってしまうと何だか碧が遠い存在になってしまうような気がして嫌だったのだが、自分が副委員長になった今、寧ろ近づいた気がして嬉しい。河内も、控え目ながら必要十分な補佐をした。書記役の自分も少しは役に立っただろう。

 「わたしと青井さんは合格発表で会って、」

 「ああ、そうだったな」やはり教諭陣には廊下での一件が伝わっているらしい。

 「河内君は、入学式の後教室で会って、ちょっと話しました」

 「それで二人を指名したわけか、なるほどな。まあ、三人とも、今後もあの調子で頼む。このクラスの楽しい高校生活は君たちにかかっている!」冗談めかして言ったが、本心でもあったろう。教師の立場としてはどの生徒にも平等というのが建前であろうが、実際には学級の胆と言うか核と言うか、雰囲気を決めてしまう生徒がいる。

 「はい!」「はい…」「はい」三人の返事を確認し、教諭は扉へ向かった。

 贄教諭が廊下に出るのを見送って、碧は藍の方を向いた。

 「教科書のこと忘れてたー。これ持って城山はちょっとツラいよね。藍ちゃんどうする? ロッカーに置いてく?」

 「…うん、どうしよう…?」教科書は持って帰りたいが、桜にも引き寄せられる。

 「余計なお世話かも知れへんけど…」教科書を纏めながら河内が言った。二人とも彼を見る。

 「うんうん」碧に先を促され、

 「一旦置いて後で戻って来たら? それか、今日見ときたいのんだけ持って帰るとか」そう言って後ろへ移動し、教科書を自分の棚に入れた。学生鞄を持っていないから、机に掛けてあるのだろう。

 「河内君置いてくの?」

 「とりあえず部活紹介見るまで」河内は教室の後ろの扉を開けた。

 「なるほど。ありがとう」笑顔で軽く手を振る。河内は仏頂面のまま会釈で答え、廊下に出て静かに扉を閉めた。

 教室に残ったのは二人だけになり、藍は安堵を感じた。

 「じゃあわたしたちもとりあえずは置いて行こ!」

 「うん…」

 「鞄も置いてこっと」

 「……」不用心だとも思うが、鞄の中身は筆記用具と今日配られた紙だけだ。わざわざ持ち去る者も在るまい。

 河内に倣って鞄を机に掛け教科書は後ろの棚に仕舞い、部活紹介の紙だけを持って教室を出る。

 「先生全部回れって言ってたっけ?」

 「一通りって言ってたね…」

 「でも私入りたいところ決まってるんだけどなー」

 「…水泳とスキーだよね…まずそこから行ってみる…?」

 「うん! ありがと、藍ちゃん」

 「え…うん…」

 「運動部は全部体育館、っと。体育館て講堂と自転車置場の間のアレだよね」

 「うん…」

 一階まで下り、玄関で下履きに履き替えて屋外に出る。途中、音楽室から楽の音と歌声が聞こえてきた。合唱部と吹奏楽部だ。今は、どうやら合同で勧誘しているらしい。文化部はそれぞれの活動教室で部活紹介を行なう、と部活紹介の紙には書いてあった。

 講堂の横を通り過ぎると、体育館の入口が開放されているのが見えた。中から元気のいい呼び込みの声が聞こえている。

 入口から覗いてみると、壁沿いに上級生が数人ずつまとまって、新入生を相手に説明と勧誘を行なっている。

 靴を脱いで下駄箱に置き、二人は中に入った。場所の目星はついているらしく、迷わず左前方へ進む碧を、藍は少し間を開けて追った。

 目指す所はスキー部で、碧は、新入生が去って暇になっていたスキー部員に囲まれた。藍は、声を掛けられない程度に離れたところからそれを眺める。待つこと数分、碧が戻って来たが、

 「お待たせー。次、水泳部行ってくるね」と言って反対側の壁へと向かった。藍も後に従い、また離れたところから碧を見守った。今度は二分程度で藍の許へ戻り、

 「無事終了しました」と言って、体育館の出入口へと向かった。藍は慌てて隣に並び、

 「早かったね…」と素直に驚きを口にする。

 「うん。掛け持ちできるかどうか確認しただけだから」

 「あ、そうなんだ…じゃあ、スキーと水泳両方入るの…?」

 「うん、そのつもり! どっちも『全国大会出るぞ!』っていうところじゃないし、あっさりOKだったよ」

 「…そうなんだ。よかったね…」ぎこちない笑顔でそう言った。

 「うん! じゃ、次は藍ちゃんの見たいところ行こ!」

 「え…、うん…でも…」普段から歯切れのよくない話し方をする藍だが、ここまで言い淀むことは珍しい。

 「あ、もしかしたらノープラン?」

 「…うん…ごめんなさい……部活入るつもりなかったから…」部活紹介など特に見たくはないのだが、担任から言われたので仕方なく、である。それを察して、

 「そっか。じゃ、テキトーに二つ三つ見て来よ!」碧は当たり障りの無い提案をしてくれた。

 「え…うん…」

 「じゃあねえ…」部活一覧を見ながら、

「文芸部は?」と提案する。藍が本好きだからということであろう。

 「うん…」藍も頷く。

 「次は…歴史研究会は?」

 「それは、ちょっと…」藍は、歴史には全く興味が無い。

 「将棋部とか」

 「ルールも…知らないから…」

 「そっか。じゃあ音楽系は?」

 「聴くのは好きなんだけど……演奏とかは…」人前で演奏などとても出来ない。という意を碧は汲んでくれたようで、

 「美術部は?」方向を変えた。

 「私、絵心全然ないから…」

 「うーん、じゃあ天文部は?」

 「…天文部って何するのかな?」

 「天体観測とか? 行って聞いてみようよ」碧の押しに、

 「…うん…」と応えた。天体にも興味は無いのだが、碧が気を遣って色々提案してくれるのを断り続けるのが辛いからだ。

 「じゃ、文芸部と天文部ね! えーと、どっちが近いかな…」候補を絞る間に、二人は校舎に入り、上履きに履き替え、階段を昇ろうというところまで来ていた。

「文芸部は視聴覚室で、天文部は理科室…両方こっち側だったよね」活動教室の位置のことである。どちらも、体育館に近い側の端にある。

 「うん…」

 「じゃ行ってみよー!」ここでも碧が先に立ち、藍は後に従った。

 二階にあるのは理科室だ。少しでも敷居を低く鴨居を高くするためか、扉は開いている。

 中に入ってみると、天文部の他に地学部と化学部も新入生を待ち構えていたが、新入生は二、三人しかいなかった。碧が先頭のまま天文部のいる実験机に向かい、

 「天文部ってどういうことするんですか?」と、直球ど真ん中な質問を放った。聞きようによっては失礼にも受け取れる質問だが、部員募集中であればどのような生徒も大歓迎だ。説明担当と覚しき女子の上級生がにっこり笑って立ち上がり、

 「メインイベントは天体観測という名目で、望遠鏡を使って天体鑑賞します。基本的に月1回やります。普段は、そのための情報収集です。天文雑誌見て、観測できそうな天体ショーの当たりをつけるんですけど、これがけっこう手間かかるんです。あ、あと道具の手入れ。で、文化祭で写真を展示します。毎年、この写真くれ、ってけっこう要望があるんですよ。例えば…」

 上級生はアルバムを開いて差し出してきた。A4の大きさの写真が二枚貼ってあるが、言うだけのことはあって綺麗だ。一枚は満月の写真、もう一枚は三日月の形だが、月かどうかは判じかねた。

 「わー、きれいだね!」碧が藍に向かって言い、藍も大きく頷いた。「この、下の写真は何ですか?」碧の質問に、待ってましたとばかり、

 「金星です。ここまできれいに見えるのはあまりないけど、見るだけだったら機会は多いです。他にも、彗星とか流星群とか、写真は難しいけど見るのは簡単な天体もけっこうあります」

 「へー、そうなんですね」

 「うん、よかったら是非入部して下さいね」ずいぶんあっさりとした勧誘だ、と藍は思い、入部届の提出は翌週から、しかも担任に提出、ということになっているのはそのためかと納得した。

 「ありがとうございました」「…ありがとうございました…」

 ついでに地学部でアンモナイトの化石を見、化学部で手製の豆腐を食べて、二人は理科室を後にし、三階へ向かった。

 「豆腐おいしかったね!」

 「うん…」

 「でも化学部は興味ない…よね?」

 「うん…ごめんね…」

 「ううん、全然? さて、次は、と…」

 三階の視聴覚室も扉は開け放されており、中を窺ってみると、碧の予想に反してかなりの盛況であった。ざっと見たところ、新入生が三十人程度はいるだろうか。

 一覧によると、この部屋を使っているのは文芸部、歴史研究会、鉄道研究会、漫画研究会の四つの部だ。

 その混雑ぶりを見て碧は、

 「すごい混んでるからやめとこっか」と言って、踵を返した。

 「うん…」藍も碧に並んで階段の方を向く。ほっとした気分だった。特に文芸部に興味がある訳ではない。本を読むのは大好きだが、自分で文章を綴りたいと思ったことなど一度たりとて無い。人混みも苦手だし、何より知らない人と話すのが苦痛だ。

 碧は恐らくそこまで気を回してくれたのだろう。そう思い到ると、碧への感謝と共に自分への失望感が湧いてきて、階段の前で思わず立ち止まってしまった。

 「?」階段に一歩踏み出した碧が止まって振り返り、藍の表情を見て慌てて戻る。

「藍ちゃん、気分悪いの?」心配そうに藍の顔を下から覗き込む。その声に藍は我に帰り、

 「あ、ううん、大丈夫…ごめんね…」笑顔を作ろうとしたが、うまくいかなかった。碧は鞄を持つ手を替え、空けた左手で藍の右手を取り、

 「教室まで行ける?」

 「うん、…大丈夫……」

 「じゃ、行こっか」ゆっくりと階段を上り始めた。手を引かれた藍も、慌てて彼女の左に並ぶ。そのまま教室まで、無言で歩いた。

 教室に入ると、二人は自分の席に座った。碧が心配して自分を座らせてくれたのだと藍には分かる。

 「城山どうしよう? 無理しないでね」やはり碧は心配そうだ。

 「大丈夫…行きたい…!」藍は即答した。碧と一緒に桜を見に行きたい。そう思うと、藍の意識はそちらに向かい、原因不明の悲しい気持ちは雲散霧消した。

 碧はにっこり笑って、

 「じゃあ、河内くん案を採用! まだ時間早いから大丈夫だよ! 最悪、戻って来れなくても授業は受けれるし」

 「うん…」心配を残しつつも、碧に押し切られた形になった。本当のところは、碧と城山公園に行きたい自分に、だが。

 「じゃあ、行こ!」

 「…うん…!」

 廊下に出て扉を閉めると、碧がまた藍の手を取り、二人は並んで階段を下りた。途中、新入生と見られる生徒とすれ違ったが、同じ学級ではなかったため、特に挨拶はしなかった。

 玄関を出ると、体育館から校門へと向かう生徒がちらほらと見えた。部活紹介を回り終えて帰宅する生徒達だろう。二人はその中に混じり、駐輪場から自転車を出して、校門を出た。

 朝来た道を逆に辿り、突き当たりを右に曲がったところで碧が立ち止まる。後ろに乗るよう目で促された藍が荷台に腰掛け、座った碧の身体に腕を回して頬を背中につけると、自転車は静かに発進した。

 「歩道走るから段差でおしり痛いかも知れないけど、ごめんね」

 「うん…大丈夫…」そう言った藍は、入学式の日まで二人乗りというものをしたことが無かった。故に彼女はまだ知らない、拍子よく荷台が当たった時尾?骨に走る激痛を。二人乗りを続ける限り、いつかは彼女も知ることになるのだろうが。

 バス通りの方へ左折して下り坂に入ると、碧はふらつかない範囲でギリギリまで速度を落として走行したが、それでも自転車は速い。歩いて七、八分かかった道のりを一分半で下り、「城山公園入口」という交差点で止まった。朝の登坂挑戦中、最後に通過した信号だ。交差点の向こう側が登り坂であるのを見てとった藍は荷台から降り、碧の横に立った。

 「…ここ渡ってまっすぐ…?」交差点名を示す案内板を見て尋ねる。

 「うん、そう! 一回しか行ったことないからうろ覚えなんだけど、あの二股どっちだったかな…」先の方で道が二股に分かれているのが見える。

 信号が変わり、二人はバス通りを横断した。交差点の向こうは住宅街で、バス通りに比べると細い道だが、松本市北部の住宅街としては太い方だ。

 向かいから車が来ないことを確認して、碧はまた自転車に跨がった。渡ってみると、登りの前に緩い下りがあるが、その先はかなり厳しい登りになっている。ここは下りを利用して勢いをつける作戦だろう。

 藍が荷台に座り、自分の腰に手を回して背中に頬をつけると、碧はペダルを回し始めた。とにかく下りでどこまでスピードに乗れるかが勝負なので、一漕ぎ目から全力だ。藍は少し怖さを感じたが、碧の意図が分かっているので我慢し、しがみつかないように努力した。その甲斐あってか、碧は漕ぎ続けることが出来たが、二股をどちらに進むべきか迷って、結局自転車を止めてしまった。

 近づいてみると「城山公園→」という案内板があったが、長年の風雪に耐え兼ねたらしく文字が半分程度消えてしまっている。近づくまで読めなかったのも已む無しだ。

 右に分かれたその先を見ると、両側に植えられた桜が花を咲かせていた。陽当たりがいいのだろうか、神社の桜よりかなり開花が進んでいる。

 「思ってたより全然咲いてる~!」

 「うん…!」

 「上もこんなんだといいね!」

 「うん…!」

 話しながら登る坂道の勾配はさらに厳しくなっている。恐らく、そのまま漕ぎ続けていてもすぐ止まってしまっていただろう。碧もそう感じたのか、

 「いやー、この坂は学校の方よりキツいねー。こりゃ相当功夫(クンフー)積まないと登れそうにないわー」

 「くんふう…?」

 「カンフーってあるじゃない?」

 「映画の…?」

 「うん、そのカンフーと同じなんだけど、拳法の名前じゃなくって、修行によって得られたもの、て意味なんだって」バーチャファイターで有名になった言葉だが、ビデオゲームをしたことすら無い藍が知らないのも当然と言える。

 「修行って、滝に打たれたりとか…?」学業の成績優秀な藍だが、守備範囲外の事についてはこのようなものだ。

 「そういう修行じゃなくって、んーと…… ! 鍛錬! とか訓練とか練習とか」そう聞いて、藍の顔に納得の表情が広がった。

 「練習したら登れるようになりそう…?」

 「うーん、今は強敵過ぎて何とも言えないけど、少なくとも今よりは登れるようになると思うよ」

 「……碧ちゃん、すごいね…」藍は碧の横顔を見つめる。

 「え!? 何が!?」

 「練習してみようって思うところ…私だったら、最初から諦めるから…」

 「え、そんな大したことじゃないと思うけど……特に役に立つことじゃないし…やー、照れるな」視線を泳がせて、

「あ! 桜咲いてるよ!」と叫んだ。藍もそちらを向く。

 「本当(ほんと)だ……」二人は今、城山公園に隣接する配水場の手前にいる。あと百mほどでもう城山公園だ。

 二人の視線の先には、白っぽい花が宙に浮いているように見えていた。

 いざ現地に着いてみると、当初の予想に反して、桜は四分から五分まで花開いていた。辺りには、母と子が十組ほど見えるだけで、(ひと)()はほとんどない。

 「今日来てよかったね!」

 「うん!」二人は頭上の花を見上げながら公園内の道路を歩いた。道路の両側に桜が植えられ、公園内を一周するようになっている。道路幅が広いため桜のトンネルとはいかないが、見る者の目を楽しませるには十分だ。

 「梨乃さん()に泊まる時の作戦なんだけどね」桜を見上げながら碧が切り出した。

 「うん…」藍は相槌を打ちながら一瞬碧の方を見て、また桜に視線を戻す。

 「下着は当然持って行くとして」

 「うん…」またちらりと碧の顔を見る。

 「着替えはそれだけ、ていうのはどう?」

 「え?」今度は一瞬でなく、まじまじと見詰めた。

 「ほら、制服だったらね、どこでも格好つくじゃない?」確かにその通りだ。冠婚葬祭の式場から遊園地に至るまで、年齢や服装に制限が課されていない限り、凡そ制服で入ってまずい所などほとんど在るまい。

 「うん、そうだね…」見学だけなら、乗馬クラブでも何も問題ないだろう、と藍も判断した。

 「あとタオルとか歯ブラシとかだけだから、余裕で鞄に入るよ」学生鞄のことだ。

 「うん…」この年齢の女子としては珍しく、二人とも化粧をしないので、完全に話題からは外れている。

 「じゃ、そういうことで!」

 「うん…」藍がそう応えて、二人とも心を桜の方に戻した。

 十数分後、ほぼ一周した二人は展望台の足元にいた。

 「せっかくだから登って行こ!」碧が自転車のスタンドを立て、籠から鞄を取り出す。

 「うん…!」碧から自分の鞄を受け取り、隣に並んで階段を上った。

 展望台と言っても大した高さではない。せいぜい二階か三階というところだ。しかし、城山公園の西側は断崖に近い急斜面で、落差は五十mを下るまい。そして、この断崖は北へ数百m、落差の小さい所まで含めると十㎞以上に亘って延びているため、視界を遮るのはごく近くの木立のみ。即ち、この展望台からは松本平と安曇野、その奥に聳える飛騨山脈の連峰を一望することができるのである。

 碧は手摺に両手を載せて上体を乗り出し、藍はその隣で両肘を柵に載せ頬杖をついて景色を眺める。

 「気持ちいいねー」のんびりした口調で碧が言う。

 「んー」藍も同じ様子だ。二人とも、普段の姿からずいぶんとかけ離れただらけぶりだが、こんな午後にはそういうのもいいものだ。

 峩々たる山々は、雪解けが始まったとは言えまだまだ白い衣を着込んでおり、その頂は薄く霞む蒼穹の端に融け込んでいる。蒼穹はこちら側までずっと広がり、その内側で曖昧な輪郭の雲が二、三、尾を棚引かせながらゆっくりと流れる。左上の方からは頼もしい太陽が明るさと暖かさを二人に、そして二人が見ているものに届け、微かに吹き渡る冷たい風を心地好いものに変えてくれている。一言で言うと、麗かな春の風景だ。

 遥か下を行き交う豆粒のような自動車すら時の流れを感じさせず、二人は暫くの間、景色と陽光、微風(そよかぜ)に没入した。

 どれだけそうしていたのか分からないが、風が急に強く吹き、二人は我に返った。

 「はあー、堪能したー」両拳を天に向けて背伸びしながら碧が言う。高校生女子の語彙からはぎりぎり外れているだろう。きっと、温泉に入ると、極楽極楽とか言うに違い無い。

 「うん…」藍も応える。素晴らしい時間だった。

 「学校、戻ろっか」

 「うん…」

 また並んで階段を降り、小さな祠の傍を通って、舗装路に出たところで二人は自転車に乗った。藍はまた碧の腰に腕を回し、背中に顔をつける。碧は緩やかに自転車を走らせ、元来た道を下り始めた。公園の出口から五十mほどはアスファルトやコンクリートではなく大きな石で舗装されていたが、碧が細心の注意を払って運転してくれたお陰で、藍の尾?骨に衝撃が入ることは無かった。

 浅い角度の曲がり角を右に曲がって配水場を通り過ぎ、次は左に深く曲がっているのが見える。そこで碧は予告なく停止した。ゆっくり下っていたので全然急ブレーキではなかったのだが、藍は対向車が来たのかと思い、少し焦った。

 「ごめんね藍ちゃん、びっくりした?」

 「…うん、ちょっと……」

 「藍ちゃん、orange(オレンジ)ってマンガ知ってる?」

 「え…? ううん…」そもそも彼女は漫画を読んだことすらほとんどない。

 「そっか…」少しがっかりした声に、藍は申し訳無い気持ちになったが、

「松本が舞台のマンガでね、映画化されたんだけど、最後の方でここ、出てた」碧はまた快活な声に戻って説明してくれた。

 「…この道路…?」荷台から降りて前方を見た。ガードレールの向こうに、奈良井川沿いの街が見えている。

 「うん、ここのカーブ! 往きは方向逆だから分からなかったけど、間違いないよ!」

 「そうなんだ…」

 「ほかにも(あがた)とか(なわ)()とか弘法山とか、出てくるよ! 話も面白いから、読んでみて! わたし持ってるから!」県とはあがたの森公園、縄手は縄手通りを指す。あがたの森公園は旧制松本高校の敷地を公園にしたものだ。松本で学校と言えば、国宝指定されている旧開智学校が有名だが、旧制松本高校も竣工大正十一年、なかなか立派な建物である。縄手通りは平成の初め頃まで古ぼけた建屋が並ぶ商店街だったのだが、一大工事を経て、レトロ感を残しつつ建物は新しい商店街に生まれ変わった。

 「うん…!」漫画はほとんど読んだことが無いが、碧が奨めるのであれば是非読みたい。

 「やった! じゃあ、行くね」

 「うん…」

 藍が荷台に座り、碧は地につけていた左足をペダルに乗せる。急な下りのため、自転車はすーっと加速していった。すぐに急カーブに差し掛かったが、後ろの藍に気を遣ってだろう、車体を僅かしか傾けず、ほぼハンドルだけで曲がっていく。その後は緩いカーブだけで、往路で迷った二股を通り過ぎ、城山公園口交差点も青信号をそのまま直進した。

 「…曲がらないの…?」交差点を渡り切った辺りで藍が問うた。碧の顔に背中をつけたまま、普段よりは大きな声だ。前回駅前まで下った時は話すどころか周りを見る余裕さえなかったのだから、大きな進歩だ。

 「うん、この前下りてった道の方が車少ないと思って」

 「あ、なるほど……」

 「んー、多分これだね! 曲がるね」信号を過ぎて一つ目の交差点の二十メートルほど手前だ。

 「うん」碧の腰を抱く腕に少し力を込めるが、しがみつくという程ではない。やはり二人乗りに慣れてきた。

 減速して角を曲がると今度は登りだ。藍が慌てて腕の力を緩め、碧は少し上体を振ってペダルを漕ぐ。全力で漕いでいるのが、背中に顔をつけている藍には分かった。しかし進むこと約三十メートル、自転車は止まった。すぐ藍は荷台を降りる。

 「んー、こっちの坂も強敵だなー」碧は一人ごちて、

「ごめんねー、ここからは、歩きで」笑顔で藍に言うが、さすがに息が上がっている。

 「ううん、私こそごめんね…、後ろに乗せてもらってるだけで…」申し訳無い気持ちで、目を伏せて応える。

「…あの、よかったら自転車押すから…」

 「え、悪いよ…」

 「ううん、それぐらいさせて」今までにない強い口調に、碧は少し驚いた様子で、

 「うん…、じゃあお願いします」ハンドルを譲った。

 しかし、碧が軽々と押していた自転車が、藍にとってはもの凄い重荷だった。自転車を押し始めて二十メートル程度で息が上がり始めていたのだが、碧の方は自転車を降りて三十秒後には息が調っていた。碧が押した方が圧倒的に速いし、藍が大変そうに見えただろうから、替わりたい気持ちだったに違い無い。しかし藍の気概を尊重してくれたのだろう、碧も黙って隣を歩き、結局、ヘロヘロになりつつも学校の駐輪場まで藍が自転車を押し切った。

 「藍ちゃん、ありがとう。大丈夫?」自転車の鍵を受け取り、碧が訊くが、藍は呼吸をするのに忙しく、一つ頷くのが精一杯だった。傍目に見て、大丈夫とは言い難い。どうして日本人は、大丈夫でない時にも大丈夫と言ってしまうのだろう。

 藍が回復するまで一分ほどその場で待ち、二人は教室へ向かった。途中、体育館から、まだ部活動説明の声が聞こえてきたのに驚き、時計を見ると、まだ十二時半を回ったところだった。一時間余りで学校へ戻って来たことになる。

 階段を上っている間にも、音楽室や視聴覚室から話し声が聞こえてきたし、何人かの生徒とすれ違った。午後一時までということになっているから、紹介する方はここから追い込みだ。

 教室に戻ってみると、意外なことに男子生徒が四人、窓際の机に集まって話していた。扉が開く音に反応して全員がこちらを見ている。四人のうち一人は河内、あとの三人は、藍の記憶では斉藤(さいとう)(ほら)(やま)()という名だった。

 「あ、河内君さっきはどうも」碧が呼びかけ、藍も軽く会釈した。河内は藍に向かって会釈を返し、

 「城山行って来たんですか」碧に言った。

 「うん! もうけっこう咲いてたよ、ね!」ね!はもちろん藍に向けられたものだ。

 「うん…」顔を伏せ気味に答える。

 「へえ、僕も行ってみよかな」

 「行くといいよ! 満開は来週だと思うけど、いつ雨降るか分かんないもんね!」俗に、春に三日の晴れ無しと言われる。松本は一年を通じて降水量が少ない街だが、春先は比較的天候が安定しない。

 二人は教室後部の棚の前に移動した。男子四人は、二人が教室に入ってくる前の話に戻ったようだ。

 「藍ちゃん、教科書全部持ってく?」

 「重いから、予習する分だけ…」

 「わたしもー」藍に向かってにこりと笑う。藍も笑顔を返した。

 二人は教科書を持って席へ移動した。

 教科書を机上に置き、鞄を開けた時、文庫本が目に入った。すっかり忘れていたが、碧に返そうと思って持ってきていたのだ。

 「碧ちゃん…」「藍ちゃん」同時に名を呼び、互いに驚いて一瞬見つめ合い、藍はくすりと、碧はふっと笑った。

 「京極堂、だよね?」

 「うん…」

 「わたしも! 次持ってきたー。じゃ、交換だね!」

 「うん、ありがとう…」

 「うん」二人は本を交換し、受け取った本を見て藍が、

 「これ、碧ちゃんが一番だって言ってた…」

 「うん、そう!」碧が嬉しそうに言い、

 「楽しみ…」藍も嬉しくなる。

 三分後、重くなった鞄を手に二人は教室を出た。

 「お先にー」碧が男子に一声かけて扉を開ける。

 「はいよー」「さよならー」「またねー」男子はそれぞれに挨拶を返してきた。河内は今回も無言の会釈だ。藍もぎこちなく会釈して廊下に出、扉を閉めた。

 「おなかすいたー」下り階段で碧が腹に手を当てた。

 「一時前だもんね…」時計を見ずに藍が応じる。

 「今日は寄り道しないで早く帰ろ」

 「この前は寄り道したの…?」二人は下駄箱に到着し、靴を履き替えた。

 「うん、本屋とレンタル屋。お父さんが映画好きで、ほとんど毎日何か見るんだよねー」

 「碧ちゃんも好きなの…?」

 「うん。一緒に見るから、昔の映画はかなり見たよ」

 「映画館にも行く…?」

 「うん、たまに連れてってくれるよ。月1くらいかなあ。家のすぐ近くだしねー。藍ちゃんは?」

 「え…と…、小さい時に…動物の映画…」恐らく三歳頃のことなので、何という題のどんな映画だったか、もう覚えていない。

 「そっか。じゃ、今度一緒に見に行こ!」

 「うん…!」

 「藍ちゃんは、どういう系の映画がいいの?」

 「え……よく分からない、けど…」

 「うーん、じゃ実写かアニメかだと?」

 「…実写を観てみたい、かな…」実写の方が「映画」という気がする。

 「洋画と邦画では?」

 「……どっちもいいけど……」

 「けど?」駐輪場に着いた。教科書で膨らんだ鞄を丁寧に籠に入れ、自転車を引き出す。

 「洋画の方が映画っぽい気がする、かな……」

 「字幕と吹替は?」

 「字幕…」せっかく洋画を観るなら、原語の方が雰囲気があるような気がする。

 「了解!」校門を通る。

 「あ、でも、碧ちゃんの見たい映画あったら、それ、一緒に見たい……」碧が一言では表現し難い表情になった。驚きと喜びと照れの入り混じったような。

 「うん! じゃあ良さそうなの見つけたら声かけるね!」

 「うん…!」

 二人並んで少し歩き、角を右に曲がったところで自転車に乗ると、入学式の日と同じ経路で繁華街まで下った。今日はもうそれほど怖さを感じなかったが、藍はぎゅっと碧の身体に抱きつき、頬を背中につけたままにした。

 「じゃあね!」駅のお城口まで一緒に来た碧が言い、

 「うん…あの、ありがとう…」

 「ううん、全然! また今朝の時間でいい?」

 「うん…」碧におんぶに抱っこなのが申し訳無くて口籠もったが、

 「またね!」と碧に元気よく言われ、

 「うん、またね…」と返して、藍も右の肩口で手を振った。

 碧の後ろ姿が視界から消えるのを見送り、藍は鞄から京極堂を取り出した。




附 作中における虚実の説明


 現実世界についての説明は、いずれも令和元(西暦二〇一九)年頃のものです。

 作中に登場する、実在する本、漫画、映画等、著作物についての説明は省略いたします。


松本駅

 実在します。後に出ますが、「松本驛」看板も実在します。

城山公園入口交差点

 実在します。

城山公園

 実在します。二人が登った展望台も実在します。

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