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リセエンヌ  作者: 松本龍介
61/62

盗み聞き

 翌朝。

 この日も碧と藍は一番に教室に入り、料理同好会(予定)の面々を待った。

 「道具揃うといいね!」

 「うん…」

 「うちまな板余ってたよ!」

 「え…ありがとう……うちは、フライ返しと、木ベラとトングと、出刃包丁と、菜箸と、ティーカップ…」

 「いっぱいあるね! ティーカップってもしかしてこの前の!?」

 「うん…」

 「青い方? 赤い方?」ティーカップの模様の色のことだ。同じ柄で色違いのものが青井家の食器棚に眠っているのである。

 「青い方…」自宅に置いておくより使用頻度が高いだろうから、それならば自分の好きな色にしようと思ったのだ。

 「紅茶いれたりするの?」

 「分からないけど……今日はとりあえず、ある物全部言っておこうかな、って…」

 「なるほど、そうだね! お菓子作ってお茶飲むのもよさそう!」

 「うん…」

 「前菜からデザートまでフルコースとか!」

 「え……」

 「5人いたらできそう!」

 「あ、うん…そうだね…」藍は全くそのようなことを考えなかったので驚いたが、皆で分担すれば出来そうな気がする。

 「その時は呼んで~」

 「え、うん…」その場合部活終了後に食べることになるのだろうか、と藍は気の早いことを考えた。

 「そうなると、当然夕食の時ってことになるよねー」碧も同じことを考えていたらしい。

 「うん…そうだね…」

 「誰もいない学校で晩餐会……事件の予感だね!」

 「え……」

 「藍ちゃんが料理を作り終えて運んでいくと、そこには料理同好会のみんなの変わり果てた姿が!」

 「朝から物騒だな」言いながら、美奈子が教室前方の扉から入ってきた。

 「あ、美奈ちゃん、おはよう!」

 「おはよう…」

 「おはようさん。で? 今日はどういう霊?」

 「うん、霊じゃないんだけどね」碧は少し勿体ぶった様子で話し始めた。「料理同好会でフルコースの晩ごはんを作ることになってね」

 「それいいな。採用」

 「おお! 部長が! わたしも呼んでー」

 「いやー、それはどうだろうな」

 「イヤーン、いけずぅ!」

 「部外者だからな」

 「くっ、やはり入部するしか…!」

 「掛け持ちの場合、予算ってどういう配分になんのかな?」

 「え?」

 「いや、学校から出る部活の費用って部員数で決まるらしいんだよ。じゃあ掛け持ちの場合はどうすんのかな、って」

 「均等割り?」

 「だとすると、うちに入ったら水泳部とスキー部の予算をぶんどることになるな…」

 「おお…! 全く考えてなかった…」

 「それでもうちに入るか」

 「う……か、考えます…」

 「うむ。で、藍さんが料理運んでったら?」

 「うん、藍ちゃんが料理を運んでいったら、みんなが床に倒れている! 慌てて料理をテーブルに置いて、一人一人脈を見てみると、待て次号!」

 「次号って何だよ」

 「えーと、明日?」

 「その調子じゃ毎日やっても全然進まねえだろ」

 「じゃあもうちょっとだけよ? アナタも好きねェ」

 「いいから進めい」

 「はーい。全員脈はあってほっとする藍ちゃん。しかし次に疑問が襲う。一体なぜみんなは意識を失っているのか? 何が、あるいは誰がその元凶なのか? とりあえず藍ちゃんはリセエンヌ探偵の相棒である碧を呼ぶことにした。以下次号!」

 「次号あるのかよ」

 「ありますとも! 『じゃじゃーん。リセエンヌ探偵 学校で晩餐会編 第2話 目覚めぬ級友。どんな事件も二人で解決、だよっ!』」

 「よくそんなのその場で思いつくな」

 「その場じゃないよ! 四六時中考えてるからね!」

 「いや、あれだな……才能のムダ使いって本当にあんだな…」

 「ムダとはっ!」

 「仕方ねえよ美奈子」教室前方の扉から声がして、三人ともそちらを見る。「才能は天からの小遣いみたいなもんだからな。本人が決めた遣い途に文句は言えねえ」

 「鈴音ちゃん、おはよう! 朝から何かカッコいい!」

 「おはよう。いや、ダメ出しだったんだけどな」

 「ぐはっ!?」

 「で、今日はどんな無駄遣いだったんだ」

 「うん、それがね」碧はまた勿体ぶって少し間を空け、「料理同好会でフルコースの晩餐会することになって」

 「おー、いいな。今年の目標それにすっか」

 「わたしも呼んで~」

 「それは今後の活躍次第だな。なあ?」

 「うむ」美奈子が重々しく頷く。

 「碧がんばる!」両手を拳にして口の前に置く。紫の真似だと分かり、藍は口元を緩めた。

 「で?」

 「料理を全部作り終わって藍ちゃんが晩餐室に戻ると、みんなが床に倒れている! 慌てて脈を診てみると、全員脈はある。果たして誰がどうやってみんなの意識を奪ったのか? そして、これから何が起ころうとしているのか? とりあえず藍ちゃんはリセエンヌ探偵の相棒、碧を呼ぶことにした。待て次号!」それはおかしい、と藍は思った。フルコースというのは、客が食べる速さに合わせて一皿ずつ作っていくもののはずだ。が、無論藍は口を挟まない。

 「なるほど、それで『次号あるのかよ』と」

 「ですです」

 「でも致命的な間違いがあるな」

 「え、なになに?」

 「フルコースの料理は同時に完成しねえ」

 「うわっ、そうだった! さすが鈴音ちゃん!」

 「いや、みんな気づいたと思うぞ」

 「ととと当然だな」

 「美奈ちゃん、声がビブラートしてるよ」

 「で、リセエンヌ探偵って何」美奈子の反応を無視して鈴音が訊く。

 「それそれ」美奈子も乗っかってきた。

 「藍ちゃんとわたしが主人公の映画シリーズ!」

 「映画かよ。アニメの次回予告みたいだったぞ」美奈子がまた口を挟む。

 「リセエンヌっぽさを演出してみました」

 「リセエンヌっぽいか…?」

 「てーかシリーズなのかよ」今度は鈴音が突っ込んでくる。

 「現在、5まで制作完了!」

 「マジムダ遣いだな」

 「だろ?」分かってくれたかと美奈子の顔が言っている。

 「ムダとはっ!」

 「藍さんも妄想に付き合わされて大変だな」今度は碧の反応を無視して、鈴音が藍に言う。

 「え…、そんなことないよ…」自分には絶対思いつかない話がポンポン出てくるので、藍は碧の妄想劇場を楽しみにしている。

 「愛は盲目ってヤツだな。あ、藍さんが盲目じゃないよ」

 「うん…」

 「おっはよー」「おはようー」後方の扉から緑子と片倉の声がして、藍は振り返る。

 「おはよう!」「おはようさん」「おはよう」「おはよう…」全員微妙な時間差で挨拶を返した。

 「料理の話?」自席に鞄を置きながら緑子が訊く。大きい声で盛り上がっていたのが廊下にまで響いていたのだろう。

 「や、相生ちゃんの妄想の話。で、リセエンヌ探偵って何」

 「松本市警に協力する高校生探偵なの」

 「工藤新一的なヤツか」

 「そんな全国区の知名度じゃないけどね! 松本市警捜査一課の警部ムラさんから依頼を受けて事件の真相について推理するの」

 「いや高校生に依頼すんなよ、警部」

 「ムラさんは藍ちゃんの近所に住んでて、推理力がスゴいことを小さい時から知ってるの」

 「推理だけで捜査はしねえんだな」

 「民間人だからね! 情報もらって推理だけするの」

 「いや情報漏らすなよ警部」

 「どの道情報がリセエンヌ探偵に流れることを知ってるからね」

 「とは?」

 「うん、ムラさんの部下に刑事犬がいてね、その飼い主がリセエンヌ探偵と一緒に住んでるの」

 「刑事けん?」

 「そう、刑事と警察犬の能力を併せ持つ、それが刑事犬! 犬の嗅覚で物的証拠を探したり、近所の犬に聞き込みして情報収集したりするの」

 「スーパー警察犬なんだな?」

 「そう! 厳密には警察に所属してないんだけど、警部補待遇なの」藍も知らない新情報が公開された。

 「で、その飼い主が同居してるのはいいとして、どうやってその刑事犬から捜査情報引き出すのよ」

 「刑事犬は字が読めるし日本語も分かるから、五十音表を使って会話できるの!」

 「スゲーな」

 「だから警部補待遇なの」

 「給料も出るのか」

 「ううん。ボランティアー。でも、活躍したら感謝状と一緒に金一封が出るよ!」またまた新情報が公開された。

 「その刑事犬はいっぱいいるの?」

 「ううん、今は一頭だけー。でもリセエンヌ探偵のところに探偵犬がいるよ!」

 「それは何よ」

 「刑事犬と同じ能力を持ってるけど、警察組織には不適格なので、リセエンヌ探偵を手伝ってるの」

 「言うこと聞かねえのか」

 「そう、自由犬なの。でも有能だし、三度の飯と昼寝の次に捜査が好きだから、毎日捜査に行っていろいろ持ち帰ってくるよ!」

 「そんなに捜査することあんのかよ、ヤベーな松本」

 「ううん、リセエンヌ探偵は迷子猫の捜索とかもやってるの」

 「急に現実的になったな」

 「もちろんボランティアだよ! 探偵犬は朝ごはん食べてゴロゴロして、昼ごはん食べて昼寝して、起きたら捜査に行って、夕飯前に帰ってきて成果をリセエンヌ探偵に教えるの」

 「捜査時間(みじか)っ!」

 「有能だから短時間で成果を出してくるよー」

 「じゃあ家出猫の捜査は犬に丸投げなんだな」

 「人相手の聞き込みだと情報少ないからね。匂いをたどっていける探偵犬は適任だよ」

 「むう、確かに」

 「情報が集まってきたらリセエンヌ探偵も居場所を推理するよ!」

 「ヤベー、刑事犬と探偵犬、何かいけそうな気がしてきた」美奈子が口を挟んだ。

 「ブフフフフ、そうでしょうともそうでしょうとも」

 「探偵犬は誰が仕込んだのよ」鈴音が話を進める。

 「刑事犬と同じブリーダーだよ! 信州大学医学部教授でハリウッド女優なの」

 「どんな兼業だよ。スーパー過ぎんだろ」

 「いやいやまだまだ。古代の呪術と現代のテクノロジーを組み合わせて年を取らない身体を手に入れてしまうという」

 「アメコミ的な設定まで出てきやがった」

 「まあまあ。妄想だから好きにさせてやれよ」宥めるように美奈子が言う。藍は、美奈子もリセエンヌ探偵の話を面白いと感じているのだな、と推測した。

 「そか」

 「さすが美奈ちゃん、器が大きい!」美奈子の胸の輪郭を両手でなぞる。

 「大きいな」鈴音も碧の真似をして、両手を動かした。

 「器がな」いつの間にか隣にやって来た緑子も同じ動作をする。

 「何の器だ」

 「いやー、私の口からはちょっと」緑子が鈴音を見、

 「私の口からもちょっと」鈴音は碧を見る。

 「いやモチロン人間の器ですよ」と言いながら、碧はもう一度両手を美奈子の胸の輪郭に沿って動かした。

 「そういうことにしといてやるか」

 「さすが美奈ちゃん! あ、そろそろ時間だね」碧の言葉に時計を見ると、もうすぐ贄教諭の来る時刻になっている。

 「おお、もうそんな時間か。スゲーな相生ちゃんの妄想力」

 「ブフフフフ、それほどでもー」

 「ムダ使いもスゲーわ」

 「ムダとはっ!」


 昼休み。今日も昨日と同じ配席で弁当を広げている。

 「みんな、家に余ってる道具調べてきてくれただ?」

 「うん」「はーい「うんー」「うん…」「…………」鈴音だけ無言で頷いた。

 「けっこうけっこうコケコッコー。何あったか教えてー。藍さんから!」

 「うん…フライ返しと、トングと、出刃包丁と、菜箸と、ティーカップ…」

 「ティーカップは想定外だな」

 「要らないかな…?」

 「いやいや、ごはんだけじゃなくてお菓子とかお茶もやりたいからちょうどいいだよ」

 「うん…」

 「ちなみにうちは丼がいっぱいあった」

 「丼、色々使えるね…」

 「そうなの?」

 「ボウルの代わりに使えば…」

 「丼にサラダとか盛っちゃう!?」

 「うん…」

 「わたしは丼でプリンを作ってほしいだよ」

 「わたしと同じだ!」

 「さすが相生ちゃん、食いしんぼうだな」

 「いえいえお代官様にはかないません」

 「こいつめ。でもその前にこの(あいだ)のレアチーズ1ℓぐらい食べたい。いや『飲みたい』か…?」

 「だよねー!」

 「材料混ぜるだけだから簡単だよ…」但し、混ぜ方に注文はつく。

 「マジで!?」

 「混ぜる順番はあるけど…」それと、混ぜるのはなかなかの肉体労働だが、それは美奈子に頼もう。

 「よし! まずそれやろ! 部長権限で決定!」

 「いきなり職権濫用かよ」呆れたように鈴音は言ったが、

「でもいいなそれ。道具が限られててもできるし」

 「やっぱスズネには分かるのか」

 「材料と作り方は知ってる」

 「じゃあできるじゃん」

 「分量が分かんねーと再現できんだろ。それを藍さんから教えてもらうんじゃねーか」

 「藍さん言ってやって!『弟子はとらん。味は自分で盗め』」

 「え……」いや教えてもらうのは自分の方なのだ、と藍は思う。たまたま自分の作ったものが好評だったのでこんな事態になっているだけだ。無論、食べたものの作り方や分量を推定するだけの技量など、自分にはとても備わっていない。

 「よし、部長はその方針で鍛えよう」

 「すんません、口がすべりました」

 「うむ」

 「いやすべっていいだよ! わたしできた料理食べるだけだからな!」

 「昨日提出したのと全然違うこと言ってんじゃねーか」

 「いかん、ついホンネが」

 「ホントにいかんぞ。ちゃんとしまっとけ」

 「へい」

 「じゃあ創部許可が出たら冷蔵庫借りる手配だけして、みんなで買い出し行くか」

 「へい」

 「最寄りのスーパーってどこだろ」

 「調べるわ」美奈子はポケットから携帯電話を取り出した。

 「頼む。藍さんは何作りたい?」

 「え……と、この前のお弁当のなら何でも…あ、でもまだ揚げ物は作ったことなくて…」まだ自宅で講義を聴き始めたところだ。

 「それは弥生に頼もう。私もあのコロッケとメンチの作り方知りたい」

 「うん…」自分の要領の悪さを考えると、一人だけついていけなくなりそうだが、やる前から気にしても仕方が無い。

 「おまかせー」片倉は右掌で自分の胸を軽く叩いた。

 「ところで、スズネん()何あった?」調べ物が終わったのか、美奈子が話を元に戻した。

 「昨日言った通りだな。IH調理器と鍋と果物ナイフ2本」

 「けっこうけっこうコケコッコー。ミドリは? 炊飯器残ってた?」

 「残ってた残ってた」

 「何合炊き?」鈴音がすかさず訊く。

 「五合?」

 「そりゃナイスだ。全員分一気に炊ける」

 「ちゃんと動くか知らんけどな!」

 「試そう」

 「ほかには?」美奈子が進める。

 「そんだけー」

 「十分十分」鈴音は満足げだ。

 「片倉さんは?」

 「カセットコンロとー、フライパンとー、フライ鍋とー、包丁ー」

 「マジか! かなり揃ったな!」鈴音が嬉しそうに声を上げた。

 「そうなの?」と美奈子。異を唱えたのではなく、何が必要か分かっていないのだろう。

 「ゼータク言えばキリないからな。当面買ってでも、てのはまな板とオーブンくらいか?」

 「そうだねー」

 「はいはいはいはい! うちにまな板余ってました!」碧が勢いよく手を挙げた。

 「もらっていいのかや?」と美奈子。

 「うん! 余ってるやつだから!」

 「じゃ、ありがたく」

 「ありがとう……!」藍も改めて礼を言う。

 「これで晩餐会御招待!?」

 「スタンプカードの最初の1個が埋まったぐらいだな」鈴音が冷静に返す。

 「よーし、スタンプためるぞー!」

 「御招待でも材料代はもらうけどな!」美奈子の言葉を裏返せば、晩餐会実現の暁には碧も呼ぶ、ということであろう。

 「モチロン!」

 「じゃオーブンは電器屋行って見つくろうか」

 「そうだねー」

 「弥生土曜は?」

 「大丈夫ー」

 「藍さんは?」

 「え…と、用事があって…」はっきりとした予定は聞いていないが、梨乃、碧と過ごすことは間違いない。

 「わたしとおデートなの!」

 「一緒に来れば?」

 「誘われて碧うれしい!」碧はまた両拳を口元に当てた。どうやらこの仕草が気に入っているらしい。「でも金曜から二人で知り合いの家に泊めてもらってアニメの鑑賞会なの」

 「じゃあしゃーねーな。二人で行ってくるわ」

 「ごめんね……」

 「いやいや、先に予定が入ってたんだからしゃーないよ。決める時に意見くれれば」

 「うん…」

 「ところで何見るだ? 鑑賞会」美奈子はそちらに惹かれたらしい。

 「『たまゆら』って知ってる?」

 「知らね」

 「主人公が高校入って、仲良くなった友達といろいろする話なの」

 「ざっくりしてんな!」美奈子の感想は尤もである。

 「全然分からんな」鈴音も、

 「な」緑子もそうであろう。片倉も頷いている。

 「藍ちゃんが全く知らない状態で見るからね!」

 「あー。ネタバレは重罪だもんな」

 「ですです。あ、でも1個だけ。登場人物に『ざっくり』を多用する子が出てくるよ!」

 「わたしは多用しねえぞ。多分」

 「うん。たまたま出てきたから」

 「で、エロエロする話なのか」

 「ううん、全くエロくないよ。お風呂回とか水着回はあるけど。エロいやつは藍ちゃんに見せられません!」

 「あ、そりゃそうだな」藍はこれを聞いて何となくほっとした。今回は珍しく自分が過分に評価されていない。

 「誰になら見せられるんだ、相生ちゃん」

 「うーん、まずは美奈ちゃんだね!」

 「だよなあ」おい、という美奈子の抗議は鈴音の大きな声に掻き消された。

 「鈴音ちゃんも緑子ちゃんも大丈夫そう」

 「まあな」「程度によるな」

 「片倉さんは分かんないから保留」

 「けっこう大丈夫ー」

 「そうなの?」

 「意外だな」鈴音の感想に藍も同意する。

 「そう言う相生ちゃんはどうなんだ」と美奈子。

 「イヤん、わたしそういうのははずかしくてぇ」両手で顔を覆い、(かぶり)を振る。

 「全然大丈夫、と」

 「むしろ大好物、と」緑子が付け足した。

 「そうだ、父さんはエロいのが大好きなんだ」急に胸を張り、腰に手を当てて言う。

 「前にみんなで集まった時に、藍さんが母さんで相生ちゃんが父さんってなったんだ」鈴音が片倉に解説した。

 「鈴音ちゃんたちは娘なのー?」

 「そう。緑子が長女で美奈子が次女」

 「じゃあ私が四女だねー」

 「おお! 娘増えた! 父さんはウレシいぞ」

 「父さんエロいから気をつけるんだぞ、弥生」

 「そうだじ弥生」

 「全くだぞ弥生」

 「どうエロいのー?」

 「うむ、いい質問だ。まず、胸を揉む」鈴音は両手を胸の高さで開閉させた。

「まあ、餌食は美奈子だけだけどな」いや、と藍は心中で異議を唱える。梨乃が第一の被害者だった。が、梨乃を皆は知らないし、そうでなくても口には出さない。

 「私揉むほどないから大丈夫ー」

 「え、そうなの?」緑子が片倉の胸を見ながら言う。藍にも、そこそこ大きいように見える。が、片倉は、

 「うんー」と即答した。

 「あと、エロいこと言って恥ずかしがらせようとする」

 「藍ちゃん以外誰も恥ずかしがってくれなかったけどね!」

 「藍さんにもやってたのか…」

 「家庭内セクハラだな」緑子の厳しい評価は、無論冗談であろう。

 「母さん、何かあったらわたしたちに言うんだじ」

 「え……大丈夫だよ…」確かに恥ずかしいことを言われたのだが、碧相手であるから何の問題も無い。

 「うう、なんてけなげなんだ、母さん……」美奈子は、わざとらしく腕を目に当てる。

 「ところでさ、相生ちゃんと藍さん、弁当食ったらいっつもどっか行ってるよな?」鈴音が話題を変えた。

 「うん。食堂が多いね」

 「ごはん食べた後で何しに食堂」

 碧が藍の目を見、話していいか訊かれていると理解した藍はごく僅かに首を動かした。

 「藍ちゃんと英語の練習してるの」

 「会話ってこと?」

 「うん。教室でやるのはちょっと恥ずかしいから」

 「相生ちゃんにそんな羞恥心が」美奈子が茶々を入れたが、

 「わたし恥ずかしがり屋だからぁ」恥ずかしげ無く碧が応える。

 「はずかしがり屋はそんなこと言わねえ」

 「言わねーな」

 緑子と片倉も頷く。口には出さないが、藍もそうだろうと思う。

 「くっ、はちめんだいおうだ」

 「四面楚歌だろ。(あり)(あけ)(やま)にこもってこい」すかさず美奈子が返した。

 「今のでよく分かったな」緑子が呆れる。

 「有明山…むう、最近聞いたような…」

 「沙田神社だよ…」由緒書きにその名前が出ていた。

 「あ、そうだそうだ! 坂上田村麻呂が討伐に行ったって書いてあった! 八面大王と関係あるの?」

 「その討伐されたのが八面大王」

 「そうなんだ。美奈ちゃん、詳しいね!」

 「安曇野の民はみんな知ってる」皆、は言い過ぎかも知れないが、有明山の麓を中心によく知られた昔話である。ちなみに、坂上田村麻呂が討伐に行ったという史実は無いらしい。

 「で、練習って何やってんの?」鈴音が強引に軌道を修正した。

 「適当に話題決めて話すだけー」

 「ムズいな!」

 「かな? どう言っていいか分からない時は日本語も使うし」碧の説明は半分間違っている。藍は英語でどう言えばよいのか分からないことがしばしばあるが、碧が日本語を使うのは藍に説明してくれる時だけだ。

 「話題が行き詰まっちゃうことはよくあるけどね!」

 「あの勢いで話を捏造する相生ちゃんが!?」また美奈子が横道に逸らした。

 「ねつ造とはっ!」

 「今度私も入れてくれよ」鈴音は横槍を無視した。碧がまた一瞬藍の目を見て、

 「うん。じゃあ明日」

 「わたしもー」

 「私もー」美奈子と緑子も、

 「私もー」そして片倉も便乗してきた。

 「じゃあ明日もこの隊形でお昼食べよ!」


 放課後。いつものように、部活に行く碧を見送って、藍は図書室に足を運んだ。

 そっと扉を開けると、今日は誰も居ないようだった。藍は受付の方を向き、

 「こんにちは…」(ぬし)に声を掛けた。珍しく本を読んでも勉強してもいなかった紫が、すぐ藍の方を向く。

 「藍さん毎度! 弁当箱持ってきたよー!」

 「あ、はい…! ありがとうございます…」

 「いやいや、それこっちだよ!」紫は胸の前で両掌を藍に向け、手首を軸に大きく左右に振った。

 「月曜楽しみー! その前に土曜が楽しみだけど!」

 「はい…!」

 「四人でお風呂とか想像しただけで鼻血出るー!」

 「………」碧と同類だ、と藍は思った。何となくそんな気はしていたが。

 「梨乃センパイはヴィーナス確定として、碧ちゃんはきれいに筋肉ついてそうだし」

 「……」確かにその通りだ。腕も胸も腹も背中も脚も、筋肉が薄くしかし明瞭に見える。

 「藍さんは細くて白くてすべすべしてそうだし」

 「え…………」細くて白いのはそうなのだが、だから美しいという訳ではない。碧のような健康的な感じが、自分には一切無い。

 「うおー、楽しみー!」

 「…………」まあ、これだけ楽しみにしてくれるなら、声を掛けて正解だったのだろう。

 「今日は借りてくでしょ?」

 「あ、はい…! あ、これ返却します…」鞄から一昨日借りた本を取り出す。ホーソーン作『緋文字』だ。

 「はい、承りますー。…はい、じゃ返却よろしく!」バーコードを機械で読み取った紫が本を藍の前に置く。

 「はい…」藍は本を取り、紫に会釈して、目的の本棚に向かった。

 昨日目星をつけておいた本は、誰にも借りられずそこにあった。いつものことである。そもそも、図書室に来るようになって三週間余、紫以外の人物をこの部屋で見たのは昨日が初めてだった。そのことに気づいた途端、あの人はどんな本を借りたのだろう、と気になりだした。

 が、無論そんなことは分からない。藍は『緋文字』を一昨日の位置に戻し、目当ての本を手に取り、受付に戻った。

 「お願いします…」

 「今日は『ケルト妖精物語』か…この辺読んでないなあ。また面白かったら教えてねん」話しながら、表紙に貼られたバーコードを機械で読み取り、藍の方に本を差し出す。

 「はい…」ダンセイニの『妖精族のむすめ』が面白かったので、一昨日返却する際に紫に話し、一頻り盛り上がったのである。

 「と、これ。よろしくお願いします!」足元に置いてある鞄から弁当箱の包みを取り出し、藍の前に置く。

 「はい…!」藍は包みを受け取った。

 「じゃ、またー」

 「はい、また明日…」

 藍は図書室を後にし、食堂に向かう。放課後の食堂は人が少なく、読書にせよ勉強にせよ、藍にとっては落ち着ける場所なのである。

 しかし今日は様子が違った。普段は開け放されている入口の扉が鎖され、A3の紙が貼られている。そこには「本日 厨房および食堂 定期消毒作業のため閉鎖」の印刷。

 少し残念に思いながら教室に向かう。教室が無人だとよいのだが。

 授業が終わってから二十分ほどが経過しているが、階段を降りてくる生徒はまだまだ居た。

 その波に逆行することを少し申し訳なく思いながら藍は四階まで昇った。

 四階の廊下は階段ほど混んでいないが、それでもけっこうな人数が階段に向かって来る。その圧をなるべく受けないよう壁際を歩き、二教室を通り過ぎる。

 一年F組の後ろの扉は開いていて、藍とすれ違いにむら(さき)という女生徒が出て行った。

 中に入ってみると、河内達四人組に加えあと三人がまだ残っていたが、その全員が教室を後にしようというところであった。藍にとっては希望通りの状況だ。

 放課後にはトランプをしなくなったのだろうか、と少し気になったが、わざわざ問うてみようとまでは思わない。

 四人に軽く会釈だけして、藍は自席に着いた。

 鞄を開け、勉強するか読書するか二、三秒迷い、勉強に決めた。今日の復習である。日本史の教科書を取り出した時教室には藍一人になっていたのだが、そのことを意識することも無いまま、藍は教科書の内容に没入していった。

 と言っても、教科書の内容が面白くてつい読み進んでしまう、というのとは違う。「何故」を説明している部分がほぼ無いことを確認し、しかしその説明を入れると数倍の文字数になってしまい教科書としては成り立たないだろう、だからつまらないのも仕方ない、と納得しているのである。全く梨乃の言う通りだ。

 そうして十五分ほど教科書を読みながら納得し続けていると、突如あることに思い至った。

 自分が「つまらない」「興味が無い」と思うことには、日本史の教科書と同じように何らかの原因があるのではないか。それを解決すれば、つまらなくなくなるのではないか。そして、碧が何事にも楽しそうに接するのは、「つまらなくしている原因」を瞬時に取り除くことが出来るからではないか。無意識にそんなことをしているのではないか。

 次に「つまらない」と思うことがあったら、その原因について考えてみることにしよう。

 そう決めて日本史の教科書を閉じた時、後ろから何やら声が聞こえてきた。

 それまでの数分間、教室も廊下も静まりかえり、窓側から部活の声が微かに聞こえてくるだけだったので、驚いて藍は振り返った。教室は自分以外無人だが、後ろの扉が閉まりきっておらず、そこから廊下の話し声が入ってきているようだ。

 そんなことに驚いた自分を少し恥ずかしく思いながら、日本史の教科書を仕舞おうと鞄の把手に手を掛けた時。

 「ごめん、待たせた」廊下から男子の声が明瞭に聞こえてきて、藍は何となく鞄を取るのを()めた。聞いたことがある声なので、同級生の誰かであろう。

 「や、待ってねーけど」応えた声は間違いなく美奈子だ。藍は彼女が教室に入ってくると思い、それを待った。

「何よ、用って。もしかしてうちの同好会入りたい!? けど女子ばっかで恥ずかしい~、みたいな?」が、どうも廊下で立ち話らしい。

 「あ、いや…あ、昼間集まってたのはその同好会なのか」

 「そうよ。まだできてねーけどな!」

 「え、これから創るのか?」

 「申請済みで許可待ちだ」

 「そうなのか。すげーな…」

 「山雅の試合行った時の昼ごはんうまかっただろ。あれを毎日食うためにな」ということは、話し相手はあの時参加していた男子の誰かということか。

 「え、それで部活立ち上げるのか。すげーな…」藍もその感想には同意する。

「じゃなくて」

 「入会希望じゃねーのか。じゃあ何」

 「あ、ああ、いや…」半秒ほどの間が空いて、

「あのな、高橋」

 「おう」

 「好きなんだ、お前のこと。付き合ってくれ」これを聞いて藍の思考は停止した。いや、厳密には停止ではない。とにかく自分の存在が二人に知られないようにと、それしか考えられなくなった。

 「は?……はあ!?」

 「もしかしてもう彼氏いる…?」

 「い、いやいねーけど…ホントにわたしか? 人違いじゃねーか?」

 「そんな人違いするヤツいる!?」

 「あ、いや…そうだよな…スマン…ちょっと…あまりに想定外すぎてな…」

 「え、そうなのか…?」

 「おう…ああ、あれか…巨乳()きなのか」

 「は? え、いや、どっちかって言うと小さい方が好みだけど…」

 「じゃ何で」

 「えぇ? 何でって…そんなの分からねーよ。好きなもんは好きなんだよ」

 「おお…そりゃそーか…」

 「そうだよ。……ダメか?」

 「い、いやダメじゃねーけど…」

 「ホントか!? ありがとう高橋!!」

 「お、おう…」

 「じゃあ一緒に帰ろう」

 「おう…」

 二人の足音が遠ざかっていき、聞こえなくなったところで藍は大きく息を吐いた。

 よかった。気づかれずに済んだ。顔を合わせていたら、かなり気まずいところだった。

 藍は日本史の教科書を仕舞うべく、改めて鞄に手を掛けた。


 それから約一時間半、藍は英語、古文、数学と今日の復習を熟していったが、先ほど聞いてしまったことが気になって、勉強に集中することは全く出来なかった。

 聞きたくて聞いた訳ではなく、不可抗力で聞こえてしまっただけなのに、盗み聞きをしたような罪悪感。

 加えて、これを一人で抱えなければならない重圧感。さっきの会話から推測すると、恐らく美奈子は二人の関係を隠しておきたいと望むだろうから、自然と皆に知れ渡るまでは口を噤んでいなければならない。元々口数が多い人間ではないのだから普段通りにすればよいだけなのだが、それが出来る自信は全く無い。

 そんなことが脳裡の一角を占領し続け、それでも授業の復習は終えて、藍は帰り支度をした。碧の部活が終わるには少し早いが、本を読む気にはなれないので、窓を開けて部活の様子を眺めることにする。

 今日も碧は走っている。いつも通り隊列の最後尾付近で、黙々と走っている。左回りで運動場の一番外側を回っているのだが、体育館側を通る時、こちら向きになるので、顔がよく見える。真剣な表情ではあるが、ちっとも大変そうではない。すごい体力だなと改めて感心していると、藍に気づいた碧が大きく右手を振った。自分が認識されると思っていなかった藍は驚き、慌てて右手を小さく振り返す。

 それが最後の周回だったらしく、一団は部室棟の手前で歩行になり、部室棟前を小さく三周して終了した。藍は窓を閉めて錠も掛け、教室を後にした。

 廊下に出る時、もし美奈子がそこに居たらどうしようとドキドキしたが、無論そんなことは無く、大きく一息()いてから、藍は階下へと急いだ。

 下履きに履き替えて校舎から出、右側を見てみるが、まだ碧の姿は無い。碧を待たせたくない藍はほっと一安心して、駐輪場の方へ歩き出した。

 四十秒ほど歩いて碧の自転車に着き、鞄を前籠に入れた直後、

 「藍ちゃん、お待たせー」後ろから走ってきた碧に声を掛けられた。

 「ううん」

 「今日は教室にいたんだね」自分の荷物を前籠に入れ、自転車を引き出しながら碧が言う。

 「うん…消毒作業で食堂が閉鎖されてて…」美奈子の件があったので藍はドキリとしたが、努めて平静を装う。

 「え!? 何かあったのかな?」

 「あ、ううん…『定期消毒作業のため』って書いてあったよ…」

 「よかったー。食中毒とか出たのかと思ったよー」碧の反応を見るに、どうやら怪しまれてはいないようだ。

 「あ、うん…」

 「じゃあ明日は食堂、無菌室だね!」藍が思いもよらない単語が飛び出る。

 「うん、そうだね…」藍にはそれが可笑しく、小さく笑ってしまった。

 「明日は6人分席とらないといけないね!」

 「うん…そうだね…」

 「いっつもあの時間から()きだすし、大丈夫だよね?」

 「うん…多分…」

 「話題も考えといた方がいいかな?」

 「うん…料理のことがいいかな…?」

 「そうだね! 料理同好会だもんね!」

 「うん…」

 「じゃ、その範囲で考えとくね」

 「うん…ありがとう…」

 「ぜーんぜん!」二人は校門を通り抜けた。

「あ、話変わるんだけどね」

 「うん…」

 「今日美奈ちゃんと岡田君が一緒に帰ってたよ」

 「え……!」まさか碧に見られていようとは。いや冷静に考えれば、運動場にずっと出ていた碧が目撃する可能性はかなり高いだろう。気が動転していてその可能性に思い至らなかっただけだ。

 「何か美奈ちゃんの表情暗かったから、何かあったのかなーって、ちょっと心配なんだよねー」あった。あったが、恐らく碧の心配とは対極の出来事だ。美奈子の表情が暗く見えたのは多分緊張していたからだと推測されるのだが、たとえ碧であってもそれを話す訳にはいかない。

 「うん……」

 「明日聞いてみよっかな」

 「え……!」それはよろしくないだろう。

 「よくないかな?」

 「え…と、知られたくないかも知れないし…」

 「そっか、そうだね…少し様子見てからかな?」

 「うん…」

 「あ、乗って乗ってー」碧が路上で自転車を止める。

 「うん…」

 藍が荷台に腰掛け、腕を碧の腰に回すと、自転車はゆっくりと動きだした。

 「あ、明日って、前みたいに学校に着替え持ってくるよね?」

 「うん…」話題が変わって藍はほっとした。

 「あ、借りた帽子も持ってこないと!」

 「うん…」藍も、スカートを返却せねばならない。

 「お風呂セットもだ!」

 「うん…」

 「ちょっと大きめのかばん持ってこないと」

 「うん…そうだね…」また父親から借りよう。

 「あー、楽しみー!」

 「うん…!」

 自転車は、長い坂道を駆け下っていった。

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