勧誘
勧誘
翌日。
今朝も二人は一番に教室に入り、扉を開け放す。埃っぽい臭いは昨日一日で消え去ったので、窓は閉めたままで良い。
「あと一人見つけたいね」昨日美奈子から聞いた話は、登校時碧に伝えてある。自分が創部に携わることについて両親から賛成を得たこともだ。
「うん…」
「最悪わたしがいるけど」
「うん…」相槌を打ちながら、昨日紫も同じことを言ってくれたなと思い出す。しかし紫の時間を使うことは避けなければならないし、碧にもこれ以上掛け持ちをさせたくない。
「片倉さんに声かける?」
「うん…」入部してくれる可能性の高そうな人から声を掛けよう。そのためには、
「あの、ほかに誰が部活入ってないか分かる…?」
「えーと、この前のお弁当組では片倉さんだけだけど、そのほかだとサーヤと宮淵さん」
「ありがとう…」今名前が出た順に当たろう、と藍は決めた。宮淵とは一度も言葉を交わしたことが無いので、かなり話しかけづらい。いや、片倉とも話したことは無いのだが、鈴音の希望であるから彼女は最優先だ。それに、おっとりした話し方のせいか、宮淵よりも話しかけ易く感じる。
「あとはちょっと自信ないなー」
「うん…ありがとう…」
「がんばって口説こうね!」
「うん…」
「また新しい女なの!?」教室の後方で金切り声があがり、藍は驚く。
「やっぱり私のことは遊びだったのね!?」振り向くと、扉の前で緑子が学生鞄を胸に抱えて立っていた。思い詰めた目、僅かに震える肩。それを見て藍には分かった。これはあれだ。
「何を言う」碧が男っぽい声を作って応える。やはりバカ劇場だ。碧はゆっくりと緑子の方に向き直り、
「俺はいつでも本気だ」両手をポケットに入れて台詞を続けた。
「これでもう五人目よ! 今度という今度は許さないわ」緑子はツカツカと自席まで歩き、鞄を机上に置くと、震える右手を握って腹の前に出した。刃物を構えている体なのだろう。
「お前にできるのか」
「できるわ…」緑子が声を震わせる。思い詰めた感じが藍にも伝わってくる。
微かによろめきながら一歩を踏み出すと、二歩目から駆け足になって碧に向かった。右拳と腹の間に左拳が入っている。刃物の柄を両手で握っているのであろう。
向かってくる緑子に対して碧は半歩斜め前に動き、かわしざまに緑子の手首を手刀で打つ。ふりをする。
緑子は刃物を取り落とす。ふりをして碧の足元に膝から崩れ落ちた。
「俺が憎いか」仁王立ちの碧が緑子を見下ろしながら訊き、
「憎いわ…」俯いて絞り出すように緑子が応える。
「…でも愛してるの…」
「そうか」碧も膝をつき、
「俺もだ」緑子の頭のすぐ前で呟く。
緑子が顔を上げた。
「でも…」
「ああ。でも、お前も愛している」
「本当に…?」縋るような目で碧の顔を見つめる。
「ああ。俺はいつでも本気だ」
緑子はゆっくりと碧に抱きついた。碧も緑子の背に両腕を回す。
二秒ほど後、
「終わり方難しいね!」いつもの声に戻った碧が立ち上がった。
「ドラマだったらここでシーン変わるんだけどな」緑子も立ち上がる。
藍は、はっと我に返った。気づかないうちに、二人の演技に引き込まれていた。
「藍さん、どうだった?」
「あ、大丈夫だったよ…」創部の話である。予想通り、両親とも二つ返事であった。
「よっしゃ。あと一人!」
「最悪私が入るよ!」
「あー、それがな、既に部活に入ってるヤツは創部のメンバーにはなれないんだって」碧の予想通りだ。
「そうなんだ。じゃあやっぱり誰か誘うしかないね」
「そこで相談なんだけどな」
「まず片倉さんだね」
「話早いな!」
「あと部活入ってないのはサーヤと宮渕さん…くらいかな? 自信ないけど…」
「十分十分。来たら早速誘ってみよ」
「そうだね!」
数分後。
「おはよう、皆の衆」美奈子が登校してきた。
「来た来た。藍さんOKだって!」
「よっしゃ! 藍さんありがとう! 愛してる!」
「……うん」
「てなったらあと一人、何としても引き込まねえと!」
「ターゲットは片倉さんだ」
「そりゃナイスだ! 部活やってねえのか」
「多分ね」碧が口を挟んだ。
「入ってくれたらスズネも喜ぶな」
「誰が?」教室後部の扉辺りから鈴音の声がして藍は振り向いた。
「片倉さん」
「そりゃビッグネームだな。メンチカツすげー美味かった」
「じゃ、来たら声かけよ。藍さんもよろしく!」
「うん…」藍はいつもと同じ小さな声で応えた。
さらに数分後。片倉弥生が教室に入ってきた。
待ち受けていた藍達四人は、片倉が席に着くのを見てからそちらへ向かった。碧は自分の席に着く。
「片倉さん、おはよう」片倉席の一mほど手前から美奈子が呼び掛けた。
「おはようー」おっとりとした口調で片倉が応える間に、四人は片倉席の前に並んだ。片倉の前に座る小林がまだ登校していないので、場所が空いているのである。ちなみに並びは右から順に鈴音、美奈子、緑子、藍だ。
「片倉さん、部活入ってないよね?」
「うんー」
「わたし達料理同好会を作ろうとしてるんだけど、片倉さんも入ってほしいと思って誘いに来ただよ」
「いいよー」やはりおっとりした話し方で、しかし即答であった。
「え!? いいの!?」藍を除く三人が声を揃えた。
「うんー」
「誘っといてなんだけど、親に相談とかしなくて大丈夫?」と緑子。藍も同じ事を心配している。
「大丈夫ー」
「ありがとう! じゃあ昼休みに説明するから。場所ここでいい?」
「うんー」
「藍さんと鈴音もよろしく!」
「うん」「うん…」
昼休み。碧と弁当を食べようとしたところ、隣から声が掛かった。
「今日は昼ごはん、みんなでいいかや?」
「うん…」
美奈子が自分の机を移動させ、碧の机に付けた。
「美奈ちゃんと鈴音ちゃんもお弁当なの?」藍の机を自分の机の方へ寄せつつ、碧が訊く。
「や、さっき購買でパン買っといた。片倉さんも呼んでくるわ」
「あ、ナルホド、食べながら説明するんだ」
「みてーだな」鈴音が自分の椅子を持ってきて美奈子の机の前に置く。自分と鈴音の間に片倉を座らせるのだなと藍は理解した。
「美奈ちゃんの椅子も持ってきとこ」
「うん…」藍は、弁当の開封作業を進めることにした。
数秒で碧は戻り、推定片倉席の向かいに置いた。美奈子が部長ということだったから、真ん中に置いたのであろう。
さらに十秒ほど後、美奈子と緑子、片倉も席に着いた。藍の想定通り片倉は自分の右隣、その向かいに美奈子、鈴音の向かいに緑子という配席だ。
「とりあえず弁当どうぞ。食べながら聞いて」美奈子の言葉に、藍は弁当箱の蓋を開けた。隣で片倉も弁当の包みをほどく。ゆっくりとした話し方に似つかわしくないテキパキとした動きだ。
「えーと、まず状況から話すと、この学校には料理の部活がないんで、作ろうとして昨日職員室に聞きに行ったら、部活は最低10人必要で、同好会は5人でできるっつーんで、同好会を作ろうとしてます。で、ぶっちゃけた話、料理同好会だったら5人連名で申請すりゃあ通るだろって話なんで、このメンバーで申請したいと。ここまでOK?」
「うんー」「うん…」「………」片倉と藍がほぼ同時に応え、鈴音は黙って首肯した。
「で、申請が受理されたら仮同好会として活動が許可されて、場所が提供されるんだけど、1ヶ月観察期間があって、その間の活動結果で同好会やっていいかどうか判断されるんだって。観察期間中は原則全員毎日出席で、毎日活動報告書を提出。原則っつーのは、風邪で学校休んだとか、身内で冠婚葬祭とか、『ま、しゃあねえな』って場合を除く、と。逆に、テスト期間中と学校休日は活動不可。ここまでOK?」
「うんー」「うん…」「………」
「観察期間が終わったら翌日に可否が通達されて、OKだったらその翌日から同好会発足で、活動報告書は週1になる。ちなみに1年たったら月1になる。発足したら後はほかの部活と同じ扱いになるけど、創部メンバーは今年度中退部できねーしほかの部とのかけ持ちも不可。ここまでOK?」
「うんー」「うん…」「………」
「次は顧問の話。創部申請前に顧問を見つけなきゃならねえ」
「一番ハードル高いのそこか」黙って聞いていた鈴音が口を開いた。
「多分な。昨日贄さんに相談して、一応目星はつけてある」
「仕事速いな」
「本気出したからな! 最悪贄さんが引き受けてくれるとは思うんだが」
「できれば料理上手い女の先生がいいな」
「片倉さんと藍さんは? 今日頼みに行くつもりだから希望言ってほしい」
「特にないよー」
「私は…できれば女の先生が…」教師相手でも、男よりは女の方が緊張する度合いは小さい。
「よし、分かった。じゃあ次はこれ」美奈子は膝の上からB5の紙を一枚取って自分の前に置いた。『創部申請書』の題の下に、四つの副題と長方形の枠が並んでいる。(一)部(同好会)仮名称、(二)申請者、(三)活動内容、(四)顧問、だ。(二)には既に美奈子と緑子の名が記入されている。
「え? こんだけ?」鈴音が少し驚いた様子で訊く。藍も、正直拍子抜けと感じている。
「そんだけ。でも逆に言うとそんだけで判断される」
「そういうことだな」
「ま、ちゃんと書きゃあ大丈夫らしいから。てワケでみんなで考えよう! 名称から!」
「料理同好会でいーんじゃねーの?」鈴音が即答し、藍も頷く。藍にはそれ以外の名称が思いつかない。
「みんなそれでいいんかや。割烹とか烹炊とか炊爨とかクッキングとかあるだよ」
「ほうすいって何よ」
「割烹の烹に炊飯の炊。つまり煮炊きって意味」
「よく知ってんな…」
「昨日調べたからな! で、ホントに料理同好会でいいかや?」
鈴音、緑子、片倉、藍が頷き、
「じゃ決定! 正式発足の時に変えられるから、気が変わったらみんなで相談な」と言いながら、枠いっぱいに『料理同好会』と記入した。
「じゃ次ー。活動内容」
「『料理』…じゃねーの?」
「そうなんだけどな、さすがに2文字ってワケにゃあいかんだろ」
「いかんか」
「いかんな。何かこう好印象な修飾語要んだろ」
「例えば?」
「それを相談してんじゃねえか」
「つられて出てこねーか」
「出てきたらよかったけどな。何かないかや?」
「みんながやりたいこと書き出してみたら?」ずっと黙って聞いていた碧が口を開いた。それを聞いて藍は箸を置き、机の中からルースリーフと筆箱を取り出した。藍は全教科を一冊に纏めている。紙が増えて収まりきらなくなったら二冊目を作るつもりだ。
「ありがとう!」碧が筆箱を開けたので、藍は食事に戻ることにした。碧もまだ食べ終わっていないが、藍に任せては昼休み中に食事が終わらないと危ぶんだのかも知れない。
「みんなが作った料理食べたい」
「右に同じ」
「部長と副部長が揃って失格な感じだぞ」
「作った料理食べる人間も要んだろ。『あなた作る人わたし食べる人』って格言あんじゃねえか」
「昭和か! しかもそれ格言じゃねえ」確かに格言ではない。そして、六人の誰も分かっていないが、そもそも文言自体が間違っている。
「この話はそこから始まってるからな。これは譲れねえ」
「脱線してるぞ。紙になんて書くかの話だろ」
「おお、そうだった! でも別に自分で料理作りたいワケじゃねえんだよな」
「緑は」
「右に同じ」
「ダメだこりゃ。次いってみよう! 藍さんは?」
「え…と、みんなから教えてもらって、色々作れるようになりたい…かな…」
「そうそう、こういうヤツこういうヤツ。藍さんは裏切らねーな! 片倉さんは?」
「わたしもー。あと、みんなが作ったのも食べたいー」
「あ、それは、私も…」藍は極端に少食だが、食べることが嫌いな訳ではない。
「ほら! 2人ともわたし達の仲間!」
「食べたいのは私も一緒だ! 前半がねーだろ、美奈子と緑は。はい、復唱! 『みんなに教えてもらって色々作れるようになりたいです』!」
「『みんなに教えてもらって色々作れるようになりたいです』!」
「よし!」
「じゃあまとめると、『①料理を通じて各地の文化を学ぶ。②相互に教え合うことで同好会内の親睦を深め、また、それぞれの技量を伸ばす。③学んだ料理を校内等に紹介することで文化の継承を図る』みたいな感じ?」すらすらと碧が述べた。恐らく、放っておいては話が進まないと判断したのだろう。脱線している間に考えていたに違い無い。流石は碧だと、藍は感心する。
「インプットしてねーのに何かスゲーの出てきた! 何この生成AI?」
「OIが足りんな」と鈴音。
「うん…そうだね…」それが無いと自分になってしまう。そして、Oを追加するだけだと、碧なのか自分なのか紛らわしい。
「うお、ホントだ! 生成AIOI神だな! 最後のが立派すぎてちょいハズいけど、採用! みんないいかや?」
「うん」「うん」「うんー」「うん…」
「よし。じゃあ、えーと何だっけ?」
「①料理を通じて各地の文化を学ぶ」
「『①料理を通じて』、『各地の文化を学ぶ。』と」
「②相互に教え合うことで同好会内の親睦を深め、また、それぞれの技量を伸ばす」
「『②相互に教え合うことで』、『同好会内の親睦を深め』、何だっけ?」
「また、それぞれの技量を伸ばす」
「『また、それぞれの技量を伸ばす。』」
「③学んだ料理を校内等に紹介することで文化の継承を図る」
「『③学んだ料理を』、『校内等に紹介することで』、『文化の継承を図る。』と。産休、相生ちゃん! じゃ、ここ名前書いて」美奈子は用紙とシャープペンシルを鈴音の前に差し出した。その間に、出番の無かったルースリーフ用紙が藍の元に返ってくる。
「あいよ」鈴音は素早くシャープペンシルを走らせ、「よろしく!」片倉に回した。
「うんー」片倉も素早く記名し、
「藍さんー」と言って藍に寄越した。片倉に名を呼ばれたことに軽く驚きながらシャープペンシルを手に取る。そして、氏名を書きながら、名で呼ばれることを心地よく感じていることに気づいてまた驚く。中学生の時だったら、かなり親しい相手を除いて、名で呼ばれることに抵抗を感じていただろう。だろうと言うのは、実際にはそんなことが起こらなかったからだ。
「お願いします…」書き終えた藍は、用紙とシャープペンシルを美奈子に返した。美奈子は一つ頷き、
「じゃあ放課後、顧問捕獲作戦に行ってくるだよ。優先順位は、①女の先生、②料理うまい人、でいいだ?」
「うん」「うん」「うんー」「うん…」
「②はアヤシいけどな」
「健闘を祈る」碧が敬礼し、美奈子と緑も敬礼で返す。それを見ながら、藍は安堵の息を吐いた。これで、紫が無理をする必要は無くなった。
放課後。藍が帰り支度をしていると、昨日と同じように、
「じゃ行ってくるだよ」美奈子に声を掛けられた。無論、緑子も一緒だ。
「あ、あの、私も…」慌てて藍は応える。紫への報告をより確度の高い情報にするため、自分の目で見届けたい。それに、用紙に名を書いてしまった以上、二人に任せきりというのは悪い気もする。
「忝し。心強い」美奈子が重々しく頭を下げたので、藍も慌てて礼をする。
「わたしも職員室の前までー」碧が鞄を持って席を立った。
「今日も走るの?」緑子がそちらに向かって言う。
「わたし? うん。プール開きまでは基礎トレ」
「楽しくなさそう!」
「こーれがやってるうちに楽しくなってくるんだなあ」
「お待たせしました…」帰り支度が整った。
「じゃ作戦開始! 各方、よろしくお頼み申す」
「おう」「うん…」
「がんばって!」
美奈子を先頭に教室を出る。
「マゾだな、相生ちゃん」緑子が振り返って言う。
「そうなの。激しくされるの好きなの」
「エロいな、相生ちゃん」
「いやあ、エロさでは美奈ちゃんにかないません」
「わたしかよ!」前を向いたまま発した美奈子の言葉を、
「それは相手が悪いな」緑子は無視した。
「おい」
「有料コンテンツに手を出しそうでコワい」碧は右手を胸の高さに上げて指を開閉させる。
「おこづかいがたまったら来るがよい」これも前を向いたまま、重々しく言う。
「見込み客がもう二人も。てーか、それ浮気じゃねえか」
「え? いいいいやそそそそんなことは…」
「あるに決まってんだろ」
「いいいや愛しているのは奥さんで、そそそっちは純粋に感触をですね…」
「ちょっと奥さん、こんなこと言ってるけどいいの?」
「え……!」話の鉾先が自分に向くと思っていなかった藍は慌てる。
「愛想つかしちゃうよねー」
「え……」藍としては全くそんなことはないのだが、何と言えば良いのか分からない。
「うむ。こんな浮気者はほっておいてわたしの嫁になりなさい」
「くら美奈子! 私が今から口説こうと思ってたのに!」
「わー! ダメダメー!」
「いやダメったってなあ」
「な。藍さんはもう目つけられてんだよ」
「え……」「そんなヤバいことに!」藍の声はいつものように掻き消された。
「これから求婚者がバンバン現れるんだよ。それはもう列をなしてな」
「ななな何てオソロシい…! かぐや姫でも五人しかいなかったのに…!」
「そう、超かぐや姫だ! てーか、藍さんかぐや姫っぽいよな」
「え……」「確かに!」
「おしとやかだし、髪の毛黒くて長くてまっすぐだし」またしても自分のことを良い方に誤解している、と藍は恐縮する。淑やかな訳ではなく、話すのが苦手で押しが弱いだけなのだ。
「そうだね!」
「十二単似合いそうだな」
「そうだね! でも重そう」確かに重そうだと藍も思う。非力な自分では、着るだけで動きが鈍くなりそうだ。
「十二枚も着せんなよって話だよな」
「十二単は十二枚着てたわけじゃねーぞ」
「そうなの?」
「最初期はホントに着てたかも知んねーけどな。付け襟でたくさん着てるように見せてたらしいぞ」
「フェイクか」
「だな。よし、各方」一行は職員室の扉の前に着いた。
「御武運を」碧が直立になり、軽く頭を下げた。
「忝し」
美奈子は右手を軽く振り上げ、勢いよく下ろした。土器を落として割る動作なのだが、藍には分からない。藍はそもそも土器を割るという慣習を知らないのだ。
しかし碧と緑子も同じ動作をしたので、藍も慌てて真似る。何かの儀式を模しているのだろうということは想像出来た。
美奈子は扉を開け、中に入った。緑子、藍と続く。藍はそっと扉を閉めた。
目星をつけてあるとの言葉通り、美奈子は迷うこと無く窓の方へ向かう。そして、通路脇左の一番奥の机の前で立ち止まった。緑子と藍は美奈子の左側に並ぶ。
机の向こう側には、若い女が座っている。この部屋に居るということは教諭なのだろうが、全くそんな貫禄が無い。梨乃よりも年下に見えるくらいだ。
その教諭(仮)は、何やら書類仕事をしていたが、三人が来たのに気づいて顔を上げた。やはり教諭には見えない。生徒が私服で来ているような感じだ。
「杉浦先生」
「はい」声も若いが、応えからすると、やはり教諭らしい。
「1年F組の高橋です」
「中川です」
「青井です…」
「お願いがあって来ました」
「はい」
「わたしたち、同好会を作ろうとしているんですが、顧問になってもらえませんか」
「回答する前に、どんな同好会か聞かせて下さい」事務的な口調で杉浦教諭は言う。顔も無表情だ。
「はい。仮称『料理同好会』で、名前の通りみんなで料理をします。わたしと中川さんは初心者ですが、残りの3人が上手なので、教えてもらいます」美奈子は淀み無く答えた。質問を想定して回答を考えてあったということだろう。
「何か目標はありますか? コンテストに出るとか」
「いえ、そういうのは考えていません。個々に『これこれを作れるようになりたい』というのはあると思いますが」
「分かりました。創部申請書は書いてありますか?」
「はい」美奈子は鞄から申請書を取り出し、手渡した。
杉浦教諭は十秒ほど用紙に目を走らせた後、
「私は料理初級者ですが、構いませんか?」と訊いてきた。
「はい」美奈子は即答。鈴音の希望を叶えられないが、とにかく顧問確保を優先ということだろう。
「分かりました」杉浦教諭はボールペンを取って申請書の顧問欄に『杉浦鈴子』と記入し、「ではこれを贄先生に提出して下さい」美奈子に返した。
「はい! ありがとうございます!」美奈子は申請書を受け取って頭を下げる。
「ありがとうございます」緑子と藍も倣う。謝意が伝わるよう、藍は頑張って声を出した。
「承認されたら部室や設備の話をしましょう」
「はい! よろしくお願いします。失礼します」もう一度美奈子が礼をし、
「失礼します」緑子と藍もまた倣う。
杉浦教諭が目礼で応え、三人は贄教諭の席に向かった。贄教諭の席も窓際で、杉浦教諭席とは三席離れている。
彼も何やら書類仕事をしていた。
「先生、お願いします」美奈子が申請書を差し出す。贄教諭は手を止めて顔を上げ、
「引き受けてくれたか」と言ってから用紙を受け取った。
「はい。ありがとうございました」神妙な面持ちで答える。藍が察するに、昨日美奈子は贄教諭に相談していたのだろう。もしかしたら、彼が事前に話を通しておいてくれたのかも知れない。
「今日の職員会議で報告する。一週間以内に結果を連絡する」
「はい。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」緑子と藍がまた復唱する。
「うん」
三人は職員室を出た。
美奈子と緑子は廊下に出ると元来た方へ歩いて行った。もちろん藍もついて行く。教室に戻るのかと思ったが、二人は階段の前で立ち止まった。そして藍の方を向き、
「とりあえずの目標達成だ」美奈子が言うと、
「あっさりだったな」緑子も応える。
「贄さんが話しといてくれたんだろな」藍の想像と同じだ。
「早すぎねえ? 昨日の時点じゃまだ5人揃ってなかったぞ」確かに。
「いや、じゃねえとあんなにホイホイ進まねーだろ」確かに。
「まあそうだな。贄さん、サンキュー!」
「わたしたち上に戻るけどどうする?」
「あ、私も…」鈴音と片倉に報告するということだろう。全員揃っていた方がいいように思える。
「あいよ」美奈子と緑子は階段を登り始めた。藍も続く。
「多分大丈夫だよな」緑子が問いかける。申請が通るか、の意であろう。
「多分な。藍さんどう思う?」
「え……うん…大丈夫じゃないかな…」杉浦教諭にしろ贄教諭にしろ、否定的な所は無かった。ただ、全く初めてのことなので、一体どうなのか見当がつかない。二人も同じ状態なのだろう。
「藍さんがそう言うなら安心」
「え…」「だな」今回は緑子の声に掻き消された。
「承認されたら、次の問題は道具だな」
「包丁とまな板」
「鍋とフライパン」
「菜箸と何かヘラみたいなやつ」
「フライ返し…?」のことだろうか、と藍は推測した。
「それそれ。あと絶対いるのは?」
「コンロと冷蔵庫かな…」火を使わないと料理の幅がかなり狭まってしまうし、冷蔵庫が無ければ食材が傷んでしまう。夏場になれば、到底放課後までもちはしない。
「冷蔵庫は職員室のやつを占拠」
「だな」「……」冷蔵庫は値が張りそうだから、そうさせてもらうほか無いだろう。厚かましいとは思うが、背に腹はというやつだ。尤も、自分一人で頼みに行けと言われると、それはほぼ無理だ。
「問題はコンロか」
「カセットコンロ買うしかねーか」
「どっかに余ってねえかな」
「ダメ元で聞いて回るか」
「だな」
この二人も頼り甲斐があると言うか、逞しい。流石、部活を立ち上げようというだけのことはある。と藍が感心している間に一年F組の教室まで戻ってきた。
教室に残っているのは鈴音と片倉の二人のみ。何やら談笑していたようだ。きっと料理のことだろう、と藍は推測する。そして、河内達四人組がいないことに少し違和感を覚えた。
「どうだった?」
「顧問は捕獲」美奈子が答える。
「作戦成功か! 誰よ?」
「古文の杉浦先生」
「知らねー。女の先生?」
「うん。若い人。パッと見中学生」美奈子も藍と同じような印象を抱いたらしい。
「あー、見たことある。何で私服って思ったけど、やっぱ先生だったのか」
「絶対あの人ノーメイクだよな」
「そこまで見てなかったけど、そんな感じだった。で、料理できる人?」
「初級者って言ってた」
「初心者じゃなく」
「なく」
「ふーん。自炊はしてますみたいな意味かな」
「そうだねー」片倉が相槌を打った。
「で、申請書も出してきた。一週間以内に結果出るって」
「トントン拍子だな。寝て待つだけじゃん」
「てワケにもいかねえだ」
「何でよ」
「承認されたら翌日から活動報告出さねえといけねえだよ」
「あー。活動するのに道具要るな」
「そゆことー。なのに仮の間は予算がねえ」
「持ち寄るか買うしかねーな」
「そゆことー。てワケで何持ってこれるか調査だじ」
「1人用のIHコンロ余ってたな。煮物しかできねーけど」
「あって損はねえだ」
「うちカセットコンロあるよー」
「お、弥生ナイス。これで炒めもできるな」おや、と藍は軽く驚いた。確か鈴音は昼休みには片倉さんと呼んでいたが。
「火力強くないけどー」
「あるとないとじゃ大違いだ」藍もそう思う。鍋とフライパンが同時に使えれば、複数の品を作るのにかなり時間短縮になる。
「だな! さあ、ほかにないか、ほかに」美奈子の口調が競りの司会のようになってきた。と言っても、この場の誰も競りを見聞きしたことが無いので、そうと分かる者は居ないのだが。
「あ、うちこの前炊飯器変えたわ。古いやつまだあるかも」とは緑子。
「確かめてくれい」
「おうよ」
「鍋とフライパンとまな板包丁は? 余ってねえ?」
「果物ナイフだったら二、三本あるな。とりあえず確保しとくか」
「誉露資駆!」
「まな板は百均でも買えるから気にすんな」
「マジか。スゲーな百均」
「ペラペラのプラスチックだけどな。下敷きみたいなやつ」
「使えるならとりあえずそれでいくだな」
「ん。鍋はある。使い勝手の悪い大きさのやつ。全然使ってねーから持ってくる」
「誉露資駆! フライパンは?」
「フライパンは余ってねーな」
「うちもー」
「うちも、多分…」
「わたしも家で聞いてみるだよ」
「わたしもー」
「買ったらどれぐらいするだ?」
「知らねー。でもフライパンはちゃんとしたやつ欲しいな」
「うん…」「そうだねー」
「そんなとこ?」
「いや、揚げ物用の鍋も欲しいな。弥生に教えてもらわねーと」
「うん…」藍も、是非教えてもらいたい。
「んーなとこか。明日状況確認して、買う物の優先順位決めるだな」
「だな」「だねー」「うん…」
「じゃ、本日終了! 明日、昼休みでいいかや?」
「おう」「おー」「うんー」「うん…」
「明日も誉露資駆! 帰ろ」
一同がぞろぞろと廊下に出、教室は無人になった。恐らく、藍が今日最後に教室を出た者になるであろう。
「いやー楽しみだなー、みんなの料理」先頭に立つ緑子が言う。
「なー」すぐ後ろを行く美奈子が相槌を打つ。「あ、アレだな。回り出したら翌日何作るか決めて帰りに買い物行かねえといけねえな」
「あー、そうだな」
「買い物係は当番制かな」
「最初はとりあえず全員で買い出しじゃねえ?」
「そだな」
「ところで冷蔵庫ってあるんだよな?」鈴音がすぐ前の美奈子に訊く。
「職員室にあるから最悪そいつを占拠だ。でも、家庭科で料理するみたいなこと言ってたから、ほかにも冷蔵庫あんだろ」今までのところ、家庭科の授業で実習というのは無い。
「承認されたら使わせてくれるよな」珍しく鈴音の声に不安の影が差している。
「大丈夫だろ。じゃなくても食材傷むって言ったら通るって」それに対し美奈子は自信たっぷりだ。
「だよな」それを聞いて鈴音も安心したようだ。美奈子は何の根拠も示していないのだが。
「あ、忘れてた。オーブンも欲しいな。オーブントースターでいいから」
「本格的なのはすごく高いねー」
「だよなー。ちなみに同好会の予算っていくらなんだ」
「1人2000円/月」
「合わせて月1万か。最初のうちは道具にあてて、食材は自腹になりそうだな」
「そうだねー」
「いきなり腕の見せどころだな」
「メニュー考えないとねー」
これを聞いて、二人はすごいなと藍は思う。自分に作れる料理の種類は少ないので、制限に合わせて品を決めるなどということは出来ない。
と感心している間に一階に着いた。
「あ、私、図書室行くね…」
「今日も? 毎日行ってんの?」
「うん…だいたい…」
「スゲーな! じゃあまた明日ー」美奈子は軽く右手を上げた。
「うん…」藍も左手を胸の高さに上げて軽く振る。
緑子、鈴音、片倉も手を振ってくれた。
四人が下駄箱の向こうに消えるのを見届けて、藍は図書室に向かった。
応接室、校長室、職員室と通り過ぎ、図書室の扉を開けると、今日は珍しく先客が居た。藍の面識の無い女子生徒で、本を借りる手続き中のようだ。
その生徒が退出するまで、藍は明日借りる本の目星をつけることにした。
連休前に借りた「妖精族のむすめ」はなかなか面白かった。完全な創作なのか伝説を基にした創作なのかは分からないが、小泉八雲のアイルランド版という印象だ。ダンセイニの作品をもっと読んでみたいが、残念ながらここの蔵書はそれ一冊だけのようだ。藍は、隣に置いてある「ケルト妖精物語」を手に取った。
その時、扉が開く音が聞こえたので見える位置まで二歩半移動すると、果たして女子生徒が出ていくところであった。
大急ぎで本を棚に戻し、受付に向かう。
「やほー」紫が右手を軽く上げて挨拶してくれる。
「こんにちは…」藍は一礼してそう応えた。
「進展あった?」
「はい…え…と、クラスの子が入るって言ってくれて…さっき申請してきました…」
「それは速い展開だね」
「はい…びっくりしました…」
「同好会の名前は?」
「料理同好会です…」
「そのままだね」
「はい…」
「料理同好会ができた暁にはごはんたかりに行かないと」
「はい…あの…ありがとうございました…」
「私何にもしてないよ?」
「え…と…『どうしても集まらなかったら私が入る』って…」
「ああ。で、申請したらもう大丈夫な感じなの?」
「え…と…分かりません…基準とか聞いてなくて…」
「そっか。出来たら顧問も探さないといけないね」
「あ、それは…申請する時に決まってないといけなくて…」
「え? じゃあ顧問ももう見つけたの?」
「はい…」
「え、誰誰?」
「古文の杉浦先生です…」
「あー、ロリ教師ね。今年の新任の」
「あ、新任なんですね…え…と、ろりって何ですか?」何かの教科の略称だろうか。
「ロリータの略だよ。読んでない?」
「あ、はい…」
「ここには置いてないか。『ロリータ』っていう小説のロリータっていう登場人物で、14歳の女の子」
「あ、なるほど…」杉浦教諭が中学生くらいに見えるので『ロリ教師』と言っていたのか。
「日本では、小学生でもロリって呼んじゃうけどね。元々は14歳」
「あの…ロリータって古典なんですか…?」
「ううん、20世紀半ば」
「あ、そうなんですね…」それならば自分が知らぬのも無理は無い。
「正直オススメはしないけどね。14歳に惚れて追っかけ回すおっさんの話だから」
「あ、そうなんですね…」全く面白そうに聞こえない。お薦めされないでおこう。
「あの…来週の月曜日、紫先輩の分もお弁当作ってこようと思うんですが…」
「え。嬉しいけど本当にいいの?」
「はい…また、お弁当箱持ってきてもらっていいですか…?」
「うん!」
「すみません…」
「いやいや、そんなのお安すぎる御用だよ」紫が両掌を藍に向けて胸の前で振る。
「日曜みんなでお風呂行って月曜藍さんのお弁当かー。ユカリ楽しみ! ところで今日は借りてかないの?」
「あ、はい…まだ読み終わってなくて…」明日は借りる見込みである。
「そっか」
「はい……失礼します…また明日…」紫に向かい会釈する。
「うん、明日ー」
藍はもう一度会釈をして図書室を出た。次に向かうのは食堂だ。勉強か読書をして、碧の部活が終わるのを待つのである。
午後四時五十分。藍はいつも通り食堂を出て一旦校舎に戻り、下履きに履き替えて校庭に出た。部室棟の方を見ると、ちょうど碧が外に出てきたところだ。こちらを見て藍を認識し、走ってくる。
鞄を手にしているのに、とても速い。三十秒も経たないうちに藍の前までやって来た。
「お待たせー。藍ちゃん、どうだった?」走行から歩行に切り替え、駐輪場へ向かう。無論藍も歩き出し、いつもの位置につく。
「え…と、古文の杉浦先生にお願いしたら、引き受けてくれて…贄先生に申請書提出したよ…」
「バッチリだね! どれぐらいで結果出るの?」
「一週間以内だって…」
「そっかー。来週には活動開始だね!」
「うん…承認されれば…」
「されるよー」何の疑問も抱いていない口ぶりで言われると、藍も何だか安心する。
「うん…」
「楽しみだね!」
「うん…」
「あ、でも道具要るよね? 買うの?」
「え…と、なるべくみんなで持ち寄って…今日、みんな家にある物を確認するの…」
二人は碧の自転車まで来た。
「なるほど! わたしも家で聞いてみるね!」話しながら二人分の鞄を前籠に入れ、自転車を引き出す。
「うん…ありがとう…」
「あ、ところで、杉浦先生ってどんな先生?」
「え…と…新任の古文の先生で…すごく若い見た目の人…」
「ん、んー? わたし見たことない人かも?」
「うん…私も今日初めて見たよ…」
「梨乃さんより若く見えるの?」梨乃は藍達の四学年上だが、童顔で背も低いので、高校生と言っても疑いを差し挟まれることは無いだろう。が、豊かな胸のせいで中学生には見えない。一方、推定七学年上の杉浦教諭は。
「うん…年下と思っちゃうかも…」自分と同じくらい細くて薄い身体つきで、恐らく碧と同じくらいの身長なので、中学二年生くらいに見えてしまう。
「そんなに!? 私服で来てる生徒みたい?」
「うん…」鈴音も似たようなことを言っていた。
「それは見てみたいね!」
二人は校門を出た。
「あの…水泳部とスキー部は顧問の先生誰なの…?」
「水泳部が木崎先生で、スキー部は生物の佐野先生」
「そうなんだ…」佐野教諭のことは全く知らないが、木崎教諭は一年F組の体育を担当しているので藍も知っている。中年の少し手前と思われる女性教師だ。しかし、部活中に見かけたことは無い。
「二人とも普段の練習には来ないけどねー」
「そうなんだ…」試合の引率等が仕事ということだろうか。
「うちってどこの部活もそんな感じらしいよ。自分達でやりなさいって」
「そうなんだ…」何となく納得は出来る。
「最初に安全と健康上の注意しにきたくらいかな。やり過ぎたら身体壊すぞーみたいな」
「そうなんだ…あ、月曜日、紫先輩と一緒にお弁当、いいかな…?」
「モチロン! 今日そういう話になったの?」
「うん…紫先輩の分も作ってきて…」
「スゴい! 四人分も!」
「手間はそんなに変わらないから…」
「紫先輩喜ぶね! 楽しみー!」
「うん…」
二人は学校の南東角まで来た。碧がサドルに座り、藍も荷台に腰掛ける。
ゆっくりと自転車が走り出し、藍は頬を碧の背中につける。過ぎて行く風の爽やかさと碧の背中の温もりが、藍の心を幸福感で満たしていった。




