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リセエンヌ  作者: 松本龍介
52/62

参詣 1(/2)

文字数制限のため、二分割して掲載いたします。

参詣


 翌四日、午前八時五十七分。藍は自宅前の道路に出ていた。

 無論、碧の到着を待っているのである。

 昨日は早起きだったせいか、応援で身体を使ったせいか、午後九時頃急に眠気が差し、読んでいた『ロミオとジュリエット』を机に置いて床に就いた。そして普段通り六時十秒ほど前に目を覚まし、普段通り朝食と弁当を作り、八時五十分まで勉強をして、一分ほど前に道路へ出てきた。

 今日の服装は紺のブラウスに紺のスカート、藍にとっての標準衣装である。ブラウスは白にするかどうか迷ったのだが、今日は気温が上がらないとの予報を見て紺に決めた。

 そして背中には学校指定の背嚢。毎日弁当を入れるのに使っているのだが、今日は弁当の包みだけでなく敷物も入っている。椅子の無い場所で昼食を摂る可能性を慮ってのことだ。敷物はポリプロピレンの袋に包んである。

 そろそろだなと思った時、右の方に碧の姿が現れた。道が湾曲しているせいで、青井邸前からは数十m先までしか見えない。なので、いつも姿が見えるとすぐ碧は藍の前までやって来る。今日も例外ではなく、姿を現した七、八秒後、碧は藍の目の前で自転車を停止させた。

 「おはよう!」

 「おはよう…!」

 「今日もいい天気だね!」

 「うん…!」

 「荷物入れて入れて!」

 「あ、これお弁当だから……」

 「あ、じゃあ背負ってもらった方が無難だね。いやー、今日も愛妻弁当かあ? ありがとう!楽しみ~!」

 「……」毎度毎度、碧が弁当を喜んでくれて、藍は嬉しくなる。

 「じゃ、乗って乗って!」碧に促されて藍は荷台に腰掛け、碧の背に頬をつけ、腰に右腕を回した。

 自転車がそろそろと走り出す。

 碧の言った通り、今日もいい天気だ。放射冷却というやつで朝方は冷え込んだが、九時を回ろうかという今ではその寒さは忘却の彼方、寧ろ過ぎ行く風が心地好く感じられるくらいになっている。

 碧は少しゆっくりめに自転車を走らせる。見通しが悪く道幅が狭いからだろう。

 突き当たりを左に、その二本先をまた左に曲がって百mほど進むと、例の大足半が視界に入ってきた。

 「美奈ちゃん、信長のこと詳しかったね!」前を向いたまま、碧が話しかけてきた。大足半を見て、昨日の美奈子の話を思い出したのだろう。右耳を碧の背につけているせいか、碧の声が頭の中に直接響いてくるように聞こえる。

 「うん…」藍は織田信長について、桶狭間の戦い、楽市楽座、本能寺の変くらいしか知らない。それも、言葉を知っているだけで、事柄の経緯や顛末などはほぼ聞いたことが無い。

 「わたし、信長公記なんて聞いたこともなかったよー」

 「私も…」鈴音も知らない様子だったから、恐らくは自分達が多数派だろう。

 「ホント好きなんだね!」

 「猫の名前も信長からとったって言ってたね…」

 「ね! 早く見たいなー、三郎!」

 「うん…!」藍が直接触れたことがある猫はクロだけなのだが、そのクロは、とても可愛かった上に素晴らしい撫で心地だった。さぶろうがどんな猫なのか、藍も興味を抱いている。

 「やっぱり大きいねー」大足半のことだろう。もう十数m先、という所だ。

 「うん…」やはり自分の身長より大きいように見える。

 「守り神、足のサイズ3メートルぐらいあるよね!」と碧が言ったところで、自転車は大足半の前を通過した。

 「うん…」この足半の二倍の長さだとすれば、それくらいになる。

 「えーと、24センチで160センチだとすると…」足の大きさと身長のことだろうか。

「身長20メートル! 計算合ってるよね?」

 「うん…」人間と同等の比率だとすればそうなる。

 「7階とか8階か…!」

 「うん…」

 「大っきいね! 守り神!」

 「うん…」

 「気軽に寝転べないね!」

 「え…うん…」また出た。藍の想像もしないことが。

 「この近くで寝転べそうな所というと…奈良井川か自衛隊…」

 「学校の校庭とか…」藍が通っていた鎌田中学校が最寄りの学校であろうか。

 「あ、そうだね! …でもやっぱり少ないね」珍しく碧がしんみりとした口調で言うので、

 「うん…」藍も、実際には存在しないはずの守り神に対して何だか申し訳無いような気がしてきた。

 「まあデーラボッチほど寝場所に困らないけどね!」碧はいつもの口調に戻った。

 「でえらぼっちって…?」

 「妖怪! えーとね、北アルプスから(うつくし)まで一またぎなんだって!」地域によって、データラボッチ、ダイダラボッチなど、微妙に呼称が異なるが、「大太法師」の意らしい。松本平では、デーラボッチの他、デーラボッチャ、ディラボッチャなどと呼ばれていて、現在アルプス公園となっている地内には、早くとも昭和五十三年までは大羅法師という地名が残っていた。

 「日本だと寝転べる所なさそうだね…」

 「ね! きっと寝る時はゴビ砂漠とか行くんだよ!」

 「遠くないかな…」

 「えーと、歩幅20キロはあるよね」

 「うん…」実際にはもっとある。岐阜県との県境から美ヶ原まで約五十㎞。自転車や徒歩でしか移動しない二人の距離感で捉えきれないのも無理からぬことである。

 「2000歩で地球一周できちゃうから、全然余裕だよ!」

 「うん…」寝室まで何百歩かと思うと近くはないが。

 「あ、でもゴビ砂漠って岩砂漠なんだっけ?」

 「あ、うん…」中学校の授業でそう聞いた。

 「じゃ、めっちゃ寝心地悪いね!」

 「うん、そうだね…」妖怪も寝心地を気にするのだろうか、と藍は思った。

 「遠くてもサハラ砂漠だね!」

 「え…うん、そうだね…」確かに、テレビで見たサハラ砂漠は細かい砂で出来ていて、柔らかそうだった。

 「えーと、サハラ砂漠の辺りは東経15度…日本まで12000キロくらい…海よけて歩いても700か800歩くらい! 行けるね!」

 「え…うん…」

 「ふー、デーラボッチにも寝床あってよかった! ちゃんと寝れないと気の毒だよね!」

 「え…うん、そうだね…でも、ザラザラしそうだね…」

 「む、確かに! …いやいや待って。デーラボッチって大きさ人間の何倍?」

 「え…と、歩幅が二十キロなんだよね…」

 「うん! わたしの歩幅が50センチとすると」

 「四万倍…」

 「4万倍! とすると4ミリの砂粒がわたし達換算で1万分の1ミリ…」

 「小さいね…」どれくらいの小ささなのか藍には全く分からない。

 「だね! もう原子とか分子の世界かな?」

 「かも…」残念ながらかなり違う。最も小さい水素原子は直径約一千万分の一㎜くらいである。

 「だとすると、フカフカどころか、空気の中にいるみたいなもんだね!」

 「うん…あ…」

 「え? 何なに?」

 「その大きさなら、岩砂漠でも大丈夫かな、って…」

 「おお! そうかも! じゃあ、気分で寝床変えればいいね!」

 「え…うん…そうだね…」

 自転車が静かに停止した。奈良井川に架かる橋の手前で信号に捕まったのだろうと思ってじっとしていると、碧が肩越しにこちらを見て、

 「ちょっと狭くて足当たっちゃいそうだから、一回降りて~」と言われた。

 「あ、うん…」

 立ち上がって見てみると、信号の横断歩道と二人が走ってきた歩道の間に事故防止用の鉄柱が三本立っていて、その間隔が微妙であった。自転車だけが通るには全く問題無いが、碧の言う通り、藍を乗せたままだと藍の足が当たりそうである。

 「ごめんねー」言いながら碧は自転車を押して信号を渡り始める。

 「え…ううん…」藍もその後に続いた。

 信号を渡って一mほど進んでから碧は立ち止まり、

 「じゃ乗って乗って」と言ってサドルに腰掛けた。

 「うん…」

 藍が荷台に座って碧の腰に腕を回すとすぐ、自転車は動き出した。

 十mほど進むと、藍の正面から心地好い風が吹いてきた。奈良井川に掛かる橋の上に差し掛かったのである。今日は穏やかな天気で、先ほどまでは腕と脚に僅かな風を感じるだけだったのだが。

 「風気持ちいい!」

 「うん…!」河原の灌木も気持ち良さそうに揺れている。

 自転車は十秒ほどで橋を渡りきり、ほぼ同時に風も止んでしまった。

 「藍ちゃん、ごめんね、もう一回」自転車がまた静かに止まる。

 「うん…」藍は立ち上がり、自転車の後をついて信号を渡った。今度は信号の向こう側に鉄柱が立っている。

 「えーと、階段は…あれか。乗って乗って」

 「うん…」

 動き出した自転車は、ゆっくりと坂を下って行く。二軒の家の前を通り過ぎたところで藍の右斜め前に下り階段が見え、これが鈴音の祖母の言っていた階段だろうと藍は思った。だとすると、ここで自転車を降りて歩くはずだ。が、藍の予測は外れ、自転車は加速気味にその階段の前も通り過ぎた。

 それから二、三秒で自転車は減速し始め、

 「藍ちゃん、そこ左に180度曲がるね」と碧に予告された。最近は藍もすっかり二人乗りに慣れ、曲がる前に碧が予告することは無くなっているので、かなり急な湾曲なのだろう。

 「うん…」藍は碧の背に頬を当て、右腕に力を入れる。

 数秒後、歩道が切れたところで自転車は左に曲がった。事前にかなり減速していたが、少し内側つまり藍にとっての正面方向に車体が倒れたことと、いつもの倍以上の時間背中の方に引っ張られたことで、藍は少しだけ怖さを感じた。

 「ごめんね、怖かった?」曲がりきったところで碧が心配そうな声で問いかけてきたから、きっと右腕に力が入ったのだろう。

 「え…と、ちょっとだけ…」本当に少しだけだ。答えている間に自転車は右に曲がったのだが、それくらいならばもう全く気にならないほど藍は二人乗りに慣れてしまっていて、目の前が堤防ではなく住宅であることに少し驚いたくらいである。

 「急なの今のところだけだと思うから!」

 「うん…でも今のところもゆっくり行ってくれたから…慣れれば大丈夫…」恐らく常人にとっては何でもないことなのだろうが、藍は何事にも慣れるまでの時間を長く要する。

 「そっか!」藍の言葉に恐れの色が無いと感じたのか、碧は朗らかにそう言った。

 「えーと、デーラボッチの(なに)話してたっけ?」

 「え…と…大きいから岩砂漠でも大丈夫かな、って…」

 「あ、そうだった! ちょっと肩こったーとか筋肉痛ーって時は、ヒマラヤ山脈の上に寝転べばツボ押せるよね!」

 「え……」

 「でもあんまりグリグリやったら山が削れて低くなっちゃうかも…」

 「うん……雪崩も起きそうだね…」

 「うわっ、そうだね! デーラボッチには大したことなくても、麓の人にとっては大問題!」

 「うん…」

 「デーラボッチスゴい気使わないと!」

 「うん…あ…」

 「え? 何なに?」

 「地上から六万メートルって、空気あるのかな…?」

 「わ! そうだね! 時々かがまないと!」

 「うん…」

 「色々大変だ! デーラボッチ」

 「うん…」全くである。藍は、デーラボッチが少し気の毒になってきた。

「同じ妖怪でもぬらりひょんとだいぶ違うね…」蔵シック館で碧が、ぬらりひょんは勝手に茶の間に上がり込んで茶を飲むのだと言っていた。

 「だよね! ぬらりひょんはお茶飲むだけだもんね! しかも他人(ひと)ん家で!」

 「うん…」

 「デーラボッチにいいことあるといいね!」

 「うん…」具体的にどんなことが起こるとデーラボッチが喜ぶのか想像出来ないが。

 「話変わるけどね」

 「うん…」

 「サハラって何語なのかな?」

 「え…さあ…」知らないし、考えたことも無かった。アフリカの言葉だろうか。

 「(すな)(はら)って書いてサハラって読めるじゃない? 砂漠にピッタリな名前だなーって前から思ってるんだよねー」

 「あ、うん…そうだね…!」確かに、砂漠にぴったりな名前だ。全然感心に値しない、誰でも思いつきそうな事だが、「サハラ」と片仮名で習った藍はその音に漢字を当ててみるなど考えもしなかった。

 「今度梨乃さんに聞いてみよ!」

 「うん…」

 「あ、鳥居! 右曲がるね」

 「うん…」藍には鳥居が見えていないが、代わりに、先ほど右折してからずっと続いていた住宅の並びがすぐそこで途切れ、堤防が姿を現したのが見えた。

 二秒ほどして自転車が右に曲がり、藍の目の前を大きな木製の鳥居の脚が通り過ぎていった。慌てて藍は軽く頭を下げる。

 そして碧の背中から少し顔を出して進行方向を見てみると、未舗装の路肩に燈籠が並び、その先に数段の石段が在るのが見えた。歩道は無く、燈籠の左側数mには住宅が建っている。

 すぐに自転車は石段の前でゆっくりと停止し、藍は荷台を降りた。五段の石段の上に大きな石燈籠が左右に一基ずつ立ち、その二、三十m向こうに二つ目の鳥居が見える。ちょうど二人の居る辺りから参道は砂利道となり、鳥居の奥へとまっすぐ延びている。舗装路は石段の手前で参道を右に避けた後、参道と平行に走っているようだ。

 「んーと、どうしよ。自転車この辺に置いていこっか?」

 「うん…そうだね…」乗っていくのはもちろんのこと、押していくのも行儀が悪い気がする。

 「じゃ、燈籠の横あたりかな」

 「うん…」石段の下に置ければいいのだが、左の道路脇は住宅敷地への出入口に近いし、右側は車道の傍だ。石段の真ん前に置くのは論外だろう。

 碧は自転車を押して舗装路の登り坂を数m歩き、脇から参道に入って燈籠の外側に自転車を駐めた。後に続いた藍は、碧が自転車の鍵を抜くのを待つ。

 「大きい燈籠だねー」

 「うん…」灯の入る位置が、藍の背よりずっと上だ。傘まで入れると三mくらいある。

 「『御神燈 寄進 平林荘(そう)ナントカ』さん」参道の反対側にある燈籠を見ながら刻まれた文字を読む。ナントカの部分は摩滅して読み取れない。

「こっちは?」すぐ傍の燈籠の参道側に回り、

上條信(しん)さん。古そうだねー」燈籠を見上げる。

 「うん…」燈籠の表面は凹凸が激しく、長年風雨に曝されてきたと見える。

 「これは何だろ?」燈籠から一mほど進んだところに、二本の四角柱が横に並んで立っている。白っぽい岩で出来た、一辺二十五㎝、高さ百六十㎝くらいの四角柱で、柱の間隔は二十㎝くらい。上から二十五㎝くらいの位置と地面すれすれくらいの位置に直径六㎝くらいの共孔が穿たれている。さらに、一・五mほど先に、同じ高さでもう少し細い四角柱が一本。こちらにも直径三㎝ほどの孔が同じ高さに明けられている。参道の反対側にも、対称な配置で三本の石柱。

 「うん…」孔に棒を通していたことは想像出来るが、それを何に使っていたのかは全く分からない。

 「謎だねー」

 「うん…」

 碧が先に進み始めたので藍もついていく。

 「『(しき)(ない)(いさご)()神社』」鳥居の手前、参道右側の石碑を見て碧が読み上げた。鼠色の岩に彫られた、一文字三十㎝四方ほどもある極太明朝体の文字が儼しく、多少威圧感がある。

「小林君から聞いてなかったら、しきうちさだじんじゃって読んでたよー」

 「うん…そうだね…」予備知識が無かったら自分もそう読む。

 「『明治三十四年三月』」今度は参道の反対側にある石柱に刻まれた文字を読む。この石柱は黒灰色だ。

「何が明治34年なんだろ?」碧がその石柱の方へ向かうので、藍も後に続く。

「けんしゃ?」

 「うん…」『縣社』と書かれている。

 「県の旧字体?」

 「うん…」

 「長野県の神社ってこと?」

 「かな…?」藍も初めて見る単語なので、想像しか出来ない。(けん)ではなく(あがた)であるとも考えられるが、(あがた)はここからかなり離れている地域だから、可能性は低い気がする。

 「よし、これは小林君に聞こう」

 「うん…」講師として適役であることに異議は無い。が、碧から男子に話しかけるのは何となく嫌だ。

 「何が明治34年なんだろ?」

 「この石碑が建てられた時かな…?」

 「うん、多分そうだね! でも、そんな古く見えないね」

 「うん…」石柱は、毀れた所無く、表面も滑らかで、『明治三十四年三月日』と刻まれた文字の輪郭もくっきりとしている。

 「で、こっちは、と。すっごい偉そうな看板だね!」碧が石柱の傍に佇む建造物の前に移動して言った。

 「本当だ…」高さ五、六十㎝の石垣の上に二本の木柱が立ち、梁と屋根を支えている。柱の周囲は木の柵で囲まれ、さらに屋根は瓦葺きの立派なものなのだが、その屋根が覆っているのはただ一枚の高札だけなのである。碧が偉そうと言うのも頷ける。

 「藍ちゃん、読んでー」

 「え…うん…」藍は高札を見上げた。

「『定

一、車馬乗入の事』」

 「おお。自転車置いてきて正解だったね」

 「うん…」

 「あ、ごめんごめん。続き読んでー」

 「うん…。

『一、竹木伐り禽鳥捕う事

一、社殿及建造物汚損する事

一、不浄物運搬する事

一、不敬の行状行為

右境内に於て禁止する

神社本庁

沙田神社』」どれも常識的な事だ、と藍は驚いた。この高札の儼しさから、何かもっと厳しい掟が書かれていると想像したのだが。

 「神社本庁って何だろ?」

 「さあ…」

 「役所かな? 警視庁とか検察庁みたいな」

 「かな……でも、神社って宗教施設だよね…」政教分離と社会の授業で聞いた。

 「あ、そっか。謎だね…」

 「うん…」

 「国家の陰謀のにおいが」

 「え……」しない。陰謀を企むような国家がこんなに堂々と組織名を記すとは思えない。

 「リセエンヌ探偵3だね!」

 「え……」

 「神社本庁という役所を隠れみのに、松本から世界征服を企む悪の国家組織!」

 「…………」

 「いや待てよ…松本が世界征服するならわたしたちも協力だね!」

 「え……」悪の国家組織はどこへ行ってしまったのか。そして、世界を征服するという主体の『松本』とは如何なる組織なのか。名称が大味過ぎて全く分からない。

 「よし! サブタイトルは『裏切りのリセエンヌ探偵』!」

 「何を裏切るの…?」

 「うん、えーとね、まず、ムラさんからこっそり連絡が入るの」ムラさんはベテラン刑事だったな、と藍は思い出した。続いて、この役は紫の担当だが男役なのか女役なのか前回気になった、ということも思い出した。

 「うん…」

 「『神社本庁の松本オフィスで怪しい動きがあるので調査する。調査結果はいつも通り新聞受けに投函するので背後に国家的陰謀がないか推理してほしい』って」

 「うん…」

 「でもそれからなしのつぶてでね、1ヶ月たってようやく連絡が入るの」

 「うん…」

 「でもその文面がね、『自分の勘違いだった。』の一言。これはアヤシいと思った二人は潜入捜査することにしたの」

 「え…!」そんな潜入は危険過ぎるだろう。いやそもそも、

「どうやって潜入するの…?」

 「うん。時はまさに世紀ま…じゃなかった、師走。二人はお正月神社のアルバイトに応募するの」

 「あ…なるほど…」藍はアルバイトをしようと考えたことも無いので、どのように募集が有りどのように応募するのかなど全く知らない。

 「倍率100倍の難関をくぐり抜け、アコガレの巫女衣装に袖を通す二人!」

 「え…神社のアルバイトってそんなに人気なの…?」

 「あ、ゴメン、テキトーに言いました。でも巫女さんの服着たい子、絶対いっぱいいるよ!」

 「そうなんだ…」

 「うん! 藍ちゃん絶対チョー似合うよ~!」

 「え…そんなこと…」藍は、自分に似合う服などこの世に存在しないと思っている。

 「あるある! 藍ちゃんスゴい大和撫子だもん?」

 「え…」藍の髪は真っ直ぐな黒髪なので、それを指して和風だと言うのならば否定出来ないが、大和撫子とは清楚な美人を指す美称であるから、自分には全く当てはまらない。

 「いやー、見たいなー、巫女さん藍ちゃん! 年始一緒に潜入捜査しよ!」

 「え……」無論、神社でアルバイトしようとの意であろうが、接客業であるから自分には無理だ。

 「募集してるとこ調べとくね!」

 「え……」しかしもう無理だとは言えなくなってしまった感が有る。

 「よし! じゃあ、お参り再開!」

 「え…うん…」結局リセエンヌ探偵が何を裏切るのかは擱かれてしまった。

 碧に手を取られ、藍はいつもの位置について歩き始める。

 鳥居を潜りながら、二人で軽く頭を下げる。

 「ここの鳥居は地味な色だね!」歩きながら碧が言う。最近塗装が施されたばかりのようで、茶と臙脂の中間くらいの色、扁額も青と黒の間くらいの色だ。扁額の縁取りが金色であるが、線が細いせいか派手さは感じられない。扁額には、『信州三ノ宮沙田神社』と緑色の文字で記されている。

 「うん…」深志神社は色々な建造物が色鮮やかに塗装されていたが、藍はここのように地味な色や、或いは塗装せずに木や石そのままというのが好みだ。

 「三ノ宮って何かな?」

 「さあ…」

 「一ノ宮と二ノ宮もあるのかな?」

 「うん…」きっと在るだろう。

 「四ノ宮とか五ノ宮も」

 「うん…」それは分からない。何となく、三で終わりのような気がする。

 「燈籠いっぱいだね!」

 「うん…」百mほど先に狛犬と社殿が見えているのだが、そこまで参道の両側に石燈籠と杉の木が並んでいる。

 「これ全部ろうそく入れたらかっこいいだろうなー」

 「うん…そうだね…」藍も想像してみる。きっと幻想的で美しいだろう。

 「木、太っ!」

 「うん…」参道の左側に、根元の直径が一・二mほどもある太い木が何本か植わっている。右にもあるのだが、参道の外側の車道のさらに外側だ。

 「この木がもう神様だよね!」

 「うん…」そう思えてくるくらい立派な木だ。樹齢何百年になっているに違い無い。

 「あの木もっと太い!」碧が左前方を指差す。

 「うん…!」今横を通った木の一・五倍もあろうかという木が、二十mほど先に見えている。

 碧の歩度が上がり、藍は手を引かれて半ば速足になる。

 間近で見てみると、根元の幅は二mを超えていた。

 「これって枝分かれなのかな? それとも2本が合体してるのかな?」

 「うん…相生かな…」

 「え? わたし?」碧が驚いて訊き返す。

 「あ…! ううん、二本の木が一つになってる状態のこと…」

 「え? 相生ってそういう意味なの? 納得? さすが藍ちゃん! いやー、自分の苗字の意味藍ちゃんに教えてもらうとは思わなかったよー! これはもう運命…!」

 「…………」藍は恥ずかしさと嬉しさで赤くなる。

 「というわけで、この木は相生さんということに決定?」

 「うん…」実際のところどうなのかは、まあいいだろう。

 碧はまた歩き出した。が、今度は右前を指差し、

 「あれ何だろ?」と言って右側へ寄っていく。

 手を引かれるままについていくと、碧は参道から出て、車道の向こう側に置かれた長い木の棒だか柱だかの前まで行って止まった。

 藍の身長ほどの鉄骨五本を柱に立て、それぞれの柱が手前と奥に梁を伸ばして、長い切妻屋根を支えている。柱の間隔はざっと四、五mほどだから、屋根の長さは二十mくらいだ。鉄柱はさらに二本ずつの梁を手前と奥に伸ばし、そこに木の柱が寝かされている。どうやら同じ長さに切り揃えられているらしい柱が十本だ。端の方に丸孔、そこから一m余りの所に長方形の孔が明けられている。

「もしかしたらこれが御柱かな?」

 「え…と、違うんじゃないかな…? 小林君、先を尖らせるって言ってたから…」十本のうち、二人の目の前にある二本は先端が細くなっているが、尖らせてあるのではなく、円錐台に加工してある。

 「あ! そうだね! じゃあ何だろ?」

 「うん…」全く分からない。組み合わせて何かになるというのは確かだろうが、一体どういうもので何に使うのか、見当もつかない。

 「よし! ダメもとで小林教授に聞こ」

 「……」

 「ではお参りに戻りましょー!」

 「うん…」

 藍は碧に手を引かれ、参道に戻った。

 「うわっ、スゴい大きいね、あの切り株!」参道を十mほど進んだ時、碧が左前を指差して言った。参道脇に四阿が建てられ、切り株が安置されている。

 「うん…」単体で見れば、先程の相生の木よりもさらに太いだろう。

 碧は歩みを速めて四阿の前に行った。

 「この切り株神様なのかな?」

 「かも…」五七縄が幾重にも巻かれている。根元の直径が一・五mくらいあり、神として祀られても不思議ではないと思わせる、立派な切り株だ。

 「拝んどこ」碧はその場で手を合わせた。藍も隣で同じようにする。

 二秒ほどで元の姿勢に戻り、碧は社殿の方を向いた。切り株の斜向かいに手水舎が在り、二人はそちらに向かう。

 「ここで手洗…えるのかな?」大きな岩を刳り抜いた手水鉢の上には水道の蛇口が設置されているのだが、水は出ておらず、手水鉢にも全く水が入っていない。

「出してもいいよね?」

 「うん…多分…」恐らくは参詣者が少なく、そのため流しっ放しにしていないのだろう。雰囲気としては流れていてほしいが、省エネという点ではこうするべきだ。

 「よし! 開栓!」元気よく唱えて把手を回すと、すぐ水が流れ出た。

「お、きれい! 最近誰か使ったんだね!」と言って、碧は水を両手で受け、口に含む。碧の言う通り、水は出始めから全く濁ってはいなかった。

 「うん…昨日、神事があったって言ってたね…」

 「んー!」水を止めた碧の顔が、なるほどそうだね!と言っているが、水が口に入っているため声にはならなかった。

 碧は水を口に含んだまま吐かず、視線を彷徨わせている。何故だろうと訝しんだが、一瞬後には理解した。水を吐く場所が無いのである。鹽竈神社では手水鉢の周りに石が敷き詰められていてそこに吐くようになっていたが、ここの手水鉢の周りはコンクリート剥き出しで、排水口もこちら側には無い。しかし蛇口が在る以上排水口も在るはずだ。

 碧の左側から手水鉢の奥を見てみると、やはり在った。

 「碧ちゃん、そこ…」藍が指差すと、碧はそちらに行って排水口に水を吐いた。

 「ありがとう、藍ちゃん! 飲んじゃおうかと思ったよー」

 「あ…うん…」そうか、飲んでも特に問題無いのであった。

 「藍ちゃんはちょっと口つけるくらいにした方がいいね」碧はハンカチで手を拭く。

 「うん…」有り難く、碧の言う通りにするとしよう。

 「あ、リュック持つよ」背嚢に手を掛け、そっと藍の背から降ろす。

 「え…あ、ありがとう…」弁当が入っていることを忘れて前屈みになるところだった。

 藍も水を出して両手に受け、唇を湿らせる程度に口をつけてから、排水口に水を捨てた。

 「いやー、いきなり試練だったね! 行こっか!」と言った碧は藍の背嚢を背負っている。碧に荷物持ちをさせたくはないが、言っても無駄なことは分かっている。

 「うん…」ポケットからハンカチを取り出しながら藍はそう応えた。

 「そこは何かな?」参道の方を向いた碧が言う。

「『(さん)(のう)(しや)』…蚕の神様かな?」切り株の四阿の隣に小さめの鳥居が立ち、その奥に二、三mの参道と小さな祠が在る。

 「うん…多分…」

 「この辺で飼ってたのかな?」

 「うん…」

 「蚕の神様って何するのかな?」

 「え…蚕が病気にならないようにとか…?」唐突な質問に面喰らいつつ、思い浮かんだことを言ってみると、

 「あ、なるほど!」碧はあっさりと納得した。

「とりあえず拝んどこ」鳥居の手前から碧が合掌したので、藍も慌てて倣う。一秒ほどで、

「行こっか」碧に声をかけられ、

 「うん…」藍は右を向いた。もう参道の端まで来ており、幅数mの舗装路を挟んだ向こう側は社殿前の敷地だ。敷地を囲う玉垣が参道を引き込むような形に開いており、参道は石段に突き当たっている。石段を上がったところには先ほどと同じ色の鳥居。扁額には「式内沙田神社」とここも緑の字で書かれている。

 また碧に手を引かれ、石段に向かう。

 僅か三段の石段だが、登ってみると、その上と下ははっきりと隔てられている感じがする。神社特有の張りつめた空気が、多少緩いながらも辺りに満ちているのだ。

 石段の一mほど先の両脇には台座付きの石燈籠、その二、三m先の左側に石の円柱、そのまた十mほど先の両側に狛犬と並び、それぞれの間に背の高い杉が植わっている。燈籠も狛犬も色濃く苔蒸しているのが古めかしい。狛犬の先で参道が神楽殿のような建造物に突き当たり、どうやらそこが終点のようだ。この建造物は年に一度の祭の夜に祭神が一時引っ越すための仮殿なのだが、藍も碧もそのような知識を持ち合わせていない。

 藍の手を引く碧は燈籠の前を通り過ぎ、石柱の前で立ち止まった。一・二m四方で高さ六十㎝ほどのコンクリート製台座の上に直径二十㎝高さ一・五mの石柱が立っていて、さらにその上に剣菱形の石柱が載って天を突かんとしている。二つの石柱の間は同じ石で出来た環状の部材が繋いでいる。

 「『御即位記念』」石柱を見上げ、刻まれた文字を碧が読み上げる。

 「天皇の即位かな?」

 「うん…」

 碧は柱の反対側に回った。手を引かれた藍もそちらへ行く。

 「『大正四年十月十日』。天皇じゃないのかな?」

 「うん…でも…」どこか外国の王室ということになろうが、神社にその記念碑を建てるというのは違和感が有る。

 「外国の王様だったらなんか変だよね」

 「うん…」

 「でも天皇だとしたら大正元年に即位だよね?」

 「うん…即位はしてたけど、儀式が終わってなかったのかな…?」

 「あ、なるほど、きっとそうだね! よし! それは解決!」

 「え……」まあ藍としては、碧がそれでいいならいいのだが。ちなみに藍の推測は、大筋では合っている。厳密には、明治の最終日に践祚し、同日改元、そして大正四年即位。藍が践祚という単語を知っていたら、簡単に答えられただろう。

 「これって矛かな?」石柱の上の剣菱に話題が移った。

 「矛盾の…?」

 「うん!」

 「なのかな…?」確かに、先端が尖っていて、その下も刃のように薄くなっている。が、

「矛がどんな武器か分からなくて…」矛盾という故事は学校で習ったが、具体的にどんな武器なのかは教わらなかった。もっとも、藍は武器に興味を抱いたことが一度も無いので、教えられても忘れていただろうが。

 「わたしも! でもなんとなく神話に出てくる武器っぽくない?」

 「あ、うん…」確かに、独特の形状が古代っぽい。

 「よし! 矛ってことで!」

 「うん…」ここも、碧がいいならそれでいい。

 「これは…と」碧は少し進んで、狛犬の手前に立つ石柱を見下ろす。

「奉…何て読むの?」石柱に刻まれているのは『奉獻』の二文字だ。

 「ほうけん…」

 「どういう意味?」

 「献じ奉る…かな…」

 「あー! これ献血の献?」

 「うん…」

 「何を献じ奉ったんだろ?」

 「うん…」この石柱そのものだろうか、それとも狛犬だろうか。しかし狛犬の台座にも『奉獻』と刻まれている。

 「あっちは何か付いてたっぽいね!」参道の反対側の石柱を指差す。

 「うん…そうだね…」石柱の半ばから、鉄棒らしき物が二本、水平に出ている。

 「何だろね?」

 「うん…」全く想像がつかない。

 「リセエンヌ探偵としては解決したいとこだけど、手がかり少なすぎ!」

 「うん…」実は目の前に手掛かりが在るのかも知れないが、神社に関する知識がほぼ皆無な自分達では、手掛かりであることを認識出来ないだろう、と藍は思う。

 「これは謎のまま置いときましょー!」

 「うん…」

 「次はコマワンコ!」

 「うん…」

 「とりあえず拝んどこ!」碧は近い方、即ち向かって左側の狛犬に向かって合掌した。藍も手を合わせる。

 「あ! あれか! 御柱!」

 「うん…そうだね…!」狛犬の背後で柱が直立している。碧がそちらへ行くだろうと藍は思ったが、

「あれ? こっちは口閉じてるけど向こうは半開きだね」碧は狛犬の方に興味を惹かれたようだ。

 「あ、うん…」

 「エクレールみたい!」

 「え…うん…」半開きなのは確かだが、エクレールのようにぼーっとした印象は全く受けない。

 「なんでかな?」

 「阿吽なんだって…」

 「あうん?って何?」

 「え…と、私もよく知らないけど…阿吽の呼吸とか言うよね…」

 「あ! コマワンコ、コンビだから?」

 「かな…?」

 「よし、これは梨乃さんに聞こう!」

 「うん…」

 「コマワンコって表情の割にかわいいね!」

 「うん…そうだね…」鋭い目付きでこちらを見下ろしてはいるが、ずんぐりした体躯が可愛らしい。

 「毛が長そう!」

 「うん…」毛が丸まっているように彫られているので、恐らく毛足の長い設定なのであろう。

 「カールしてるのブラッシングしてあげたい!」

 「え……」目の前の狛犬は石を彫って出来ているので、そこまでは想像出来なかった。

 「何か喜んでくれそうじゃない?」

 「え…うん………そうだね…」想像してみると、頭を撫でられた時のラブのように鼻先を上に向け、アスランのように尻尾を往復させる狛犬の姿が脳裡に浮かび上がってきて、思わず口元が綻ぶ。

 「ブラッシングで毛がまっすぐになったら目がかくれちゃうかも! そういう犬いるよね?」

 「うん…」何という犬種かはもちろん知らないが、映像で見たことが有る。

 「ますますかわいくなっちゃうね!」

 「うん…もっさりになるね…」エクレールを評して梨乃が言った言葉を藍は覚えている。目を覆うほど毛が長くなっては、精悍な狛犬ももっさりしてしまうだろう。

 「わ! そうだね? …エクレール今日ももっさりしてるかな?」碧ももっさりという言葉からエクレールを連想したようだ。

 「うん…多分…」障害かミー子が関わらない限りもっさりしているのだと梨乃は言っていた。

 「梨乃さん以外にも障害飛ぶ人いるのかな?」

 「うん…」自分達が見学に行った時は早朝で梨乃と堀金女史しか居なかったが、乗馬クラブなのだから梨乃以外にも会員は居るだろうし、その中には障害飛越をする人も居るだろう。

 「梨乃さんて明日戻ってくるんだっけ?」

 「うん…明日の夕方って言ってたね…」

 「早く会いたいなー」

 「うん…!」

 「絶対スゴい話あるよね!」

 「うん…!」

 「遺跡行ったついでに発掘してきたとか!」

 「え…」そんなことは無いだろうと思うが、しかし梨乃ならばやりそうな気もする。

 「新しい遺跡発見してきたとか!」

 「え…」ますます無いだろうと思うが、しかし梨乃ならば。

 「あの目のついたボートで島一周したとか」

 「え…」写真の小舟の動力が人力なのかどうかは分からないが、そうでなくとも島一周は大変であろう。

 「それでシーラカンス釣り上げてきたとか!」

 「え…」と言った後、何故か乗馬の衣裳に身を包んだ梨乃が一mくらいあるシーラカンスを釣り上げて笑っているところを思い浮かべてしまい、藍は小さく噴き出してしまった。藍はシーラカンスの大きさを知らないが、何となく大きい魚という印象なのである。写真は何かの本で見たことが有り、少し気味悪い外見が記憶に残っている。

 ちなみにシーラカンスというのは動物界脊椎動物門脊椎動物亜門硬骨魚綱総鰭亜綱に属するシーラカンス目という目の名称であり、種の名称ではない。現世種として確認されているのはLatimeria(ラティメリア) chalumnae(カルムナエ)Latimeria(ラティメリア) menadoensis(メナドエンシス)の二種で、化石として発掘された過去種からほとんど進化しておらず、「生きている化石」の称号はこのことに由来する。

 「話聞くの楽しみー!」

 「うん…!」

 「写真も楽しみ!」

 「うん…!」

 「あ、今疑問が降って湧いたんだけどね」

 「うん…」

 「狛犬のコマって何?」話が狛犬に戻った。急な話題転換にもすっかり慣れてしまい、藍も驚くことは無くなっている。

 「え…狛も犬と思ってたけど…」何となくそう思っていただけで、全く自信は無い。

 「あ、藍ちゃんも? じゃあ犬ってことで!」

 「え……」いや、それでいいのだろうか。

「あ、でも、馬のこと駒って言うよね…」

 「む! そうだね! でも全然馬っぽくないよね…」

 「うん…字は獣扁に白だね…」

 「あ、なるほど! 白い獣というと…羊とか…ヤギ…は白くないのもいるか…」

 「ライオン丸真っ白だったね…」身体のかなりの部分をユニフォームに被われていたのでただの印象なのだが、全身真っ白だろうと藍は思い込んでいる。

 「だね! おとなしくていい子だったね!」

 「うん…」

 「真っ白だから、ピレネー犬説は有力だね!」

 「うん…でも、狛犬って毛が長くて癖毛なのは羊っぽいね…」

 「む! それも確かに! じゃあ狛は羊かピレネー犬のどっちかってことで!」

 「うん…」

 「じゃ、次はいよいよ御柱!」

 「うん…」

 狛犬の間を通る時に碧は軽く頭を下げ、藍も同じようにしながら心中で「お邪魔します」と呟いた。

 「吽」形の狛犬と仮殿との間から御柱の全貌が見えている。

 きれいに刈られた草が茂るだけの空間に、高さ十mは下らない柱が独り立っている。ただ立っているだけで、何も支えてはいない。しかし、いや、だからか、もの凄い存在感だ。境内の木の方が背が高いのだが主役は明らかに柱である。

 「思ってたよりスゴい!」

 「うん…!」柱が立っているだけだから想像に近い姿なのであるが、このように異様に見えるとは思っていなかった。

 碧が御柱の方へ歩きだしたので、藍もついていく。

 「二之御柱…」柱に接して立てられている立札を碧が読む。

「てことは向こうが一之御柱…」身体ごとゆっくりと左を向き、

 「うん…」藍もそちらを向いた。仮殿の屋根の向こうから別の柱が覗いている。

 「これって穴に立ててあるだけかな?」碧が二之御柱に向き直る。

 「うん…」御柱の四方を囲んで直方体の大きな切石が地面に置かれているのが見えている。恐らくは柱の下にも石が敷いてあるのだろう。地面に穴を掘って、言わば小さな石室を作り、そこに柱を立てているのである。切石と柱の隙間には板と直径数~二十㎝程度の丸太を挿し込んで、柱がぐらつかないようにしている。

 「どうやって穴に入れるのかな?」

 「うん…え…と…根元を固定しておいて、先端を吊り上げて起こすのかな…」と藍は考えるが。

 「あ、なるほど! きっとそうだね!」

 「でもどうやって吊り上げるのかな…」という疑問に当たる。現代は重機で吊り上げればよいが、それが無かった頃はどうしていたのだろう?

 「だね…引き上げるのは人数そろえれば何とかなるとして……んーと、縄をこの辺の木の高ーい枝に掛けて…」

 「あ、なるほど…」縄を柱の先端近くに結わえて引き、柱の先端を持ち上げる、という方法だろう。そのためという訳ではないだろうが、周囲には大きな木がたくさん植わっている。

 「枝が重さに耐えられるか心配だけど、方法としては成り立つよね?」

 「うん…大丈夫だと思う…御柱の根元が動いていかないようにするのと、御柱が回転しないようにすれば…」

 「回転?」

 「うん…多分、吊り上げて浮かしちゃうと根元を中心にして回転しちゃうから…」

 「あ、そっか! むー…」碧はまた考えこむ。隣で藍も考える。回転しないように板か何かで押さえるのはすごく危険だし、高さが足りないかも知れない。

「回転を止めるには、逆方向に力かけないといけないのか…」碧の呟きに、藍は何かが脳内で閃いたのを感じた。そうだ、逆方向であればいいのだ。押さなければ止められない訳ではない。

 「あの、引っ張ったらどうかな…? 両側から…」

 「両側から?」

 「うん…引き上げるのと直角な方向に、両側から…」

 「…………」言いたいことを巧く伝えられていないようだ。具体的に説明しよう、と藍は頑張る。

 「え…と、御柱を吊り上げる前の時点で、御柱に直角な方向に両側から引っ張っておいて、それから引き起こせば…」

 「あー! なるほど! 最初から引っ張っとけば回転しないね!」

 「うん…多分…」左右均等に引っ張ることが出来れば、回転を防止出来るはず。

 「うん、それでいけるんじゃない? 謎は解けました!」

 「うん…」藍としては満足のいく仮説を立てることが出来た。碧もそのようだから、気持ちよく次へ行ける。

 「藍ちゃんスゴい!」

 「え…引き起こす方法考えついたの碧ちゃんだよ…」回転止めの方法も、碧の言葉に導かれて思いついた。

 「じゃ、わたし達の共同作業ってことで!」と言って碧は手を繋いでくる。

 「うん…」

 ちなみに、江戸時代にこの神社で御柱を立てる神事を見た菅江真澄の「伊那の中路」によると、四本の綱で引き起こしていたらしいが、引く方向については記述が無い。

 「スゴいまっすぐだね!」碧は二之御柱を見上げている。

 「うん…」そのまま大黒柱として使えそうなくらい真っ直ぐで美しい木だ。

 「木そのままなんだね。もっと家の柱みたいになってると思ってたよー」

 「うん…」藍も、製材されているのだと思っていた。目の前の御柱は、枝はきれいに打ち払ってあるものの、皮はそのまま付いていて、丸太とすら呼べない状態だ。

 「でも先っぽは尖らせてあるんだね!」また左を向いた碧が言う。

 「うん、多分…」碧の言葉に藍も後ろを振り返ってみると、仮殿の向こうの御柱は、浅い角度ながら先端が尖っているように見える。昨日小林が言った通りだ。

 「踏んだら足の裏痛いね」

 「え……?」

 「デーラボッチ!」

 「あ…え…と、人間の四万倍なんだよね…?」

 「おお! …ということは、10メートルの御柱が、」

 「〇・二五ミリ…」

 「紙2枚分…じゃあ踏んでも何ともないね…」

 「うん…でも踏まれた方が大変だね…」

 「おお! 踏まれたらペチャンコのキューだね! しかも足のサイズ10キロぐらいあるもんね! デーラボッチ気をつけて!」

 「うん……」デーラボッチにとっては随分と住みにくい世界だろうな、と藍は思った。

 「スゴいね! 御柱!」

 「うん…!」

 「ここも色塗ってないね!」今度は仮殿を見て言う。

 「うん…」仮殿だけでなく、拝殿の方も木目剥き出しだ。

 「やっぱり塗ってないのが普通なのかな?」

 「うん…多分…」何社かしか見ていないが、その中で塗ってあったのは深志神社だけだから、きっとそうなのだろう。

 「ちょっと色あせちゃってるね…」

 「うん…」仮殿の、雨の降り込んできそうな部分が白っぽくなっている。

 「お参りしよっか」

 「うん…」

 二人は仮殿を巻いて拝殿の正面に回った。拝殿との間に、幅二m長さ十mほどの参道が在るが、ここだけ何故かアスファルトで舗装されている。

 参道の両側には、ここにも一対の大きな石燈籠。

 拝殿は木造瓦葺きの立派な建物で、幅二十mもあろうか。正面中央に扉が在るが今は(とざ)されている。扉の下端が基礎から一m程の高さで、その手前に拝殿へ上がるための階段が在るから、高床になっているのだろう。その階段の向かって右に賽銭箱。扉のすぐ前すぐ下に当たる位置だ。賽銭箱には大きな神紋が付けられている。藍はその神紋に見覚えが有り、松本城前の通りで見た大名の家紋と同じであることは間違い無いのだが、どの大名だったかまでは覚えていない。

 床から上の壁は全面が縦に細長い格子になっていて、格子の奥には硝子が嵌められているようだ。鴨居に当たる部分には、裸電球が三mほどの間隔で計六つ取り付けられている。もちろん今は点灯していない。

 屋根は鼠色の瓦で覆われ、正面には立派な唐破風も設けられていて、どっしりとした印象だ。

 棟の上にさらに数重に平瓦を積み重ねてあるのと、隅棟と唐破風の先を神紋の入った鬼瓦で飾ってあるのが儼しい。

 「あの家紋、小笠原さんと同じだね!」碧は誰の家紋か記憶していたようだ。それだけ興味を持って見ていたということだろう。

 「あ、そうなんだ…どの人かは覚えてなくて…」

 「でも、小笠原さんが誰か分からないけど!」

 「うん…」藍は歴史に興味が無かったので、学校で教わったこと以外はほとんど知らない。

 一瞬立ち止まった後、碧はアスファルトの参道を進み始めた。当然賽銭箱の方へ向かうのだろうと藍は思ったが、

 「あ、あれ説明かな?」と言って、碧は右斜め前へと向きを変えた。藍の手が引かれる。

 見てみると、拝殿の壁に大きな額が掛けられている。そのすぐ前まで進み、碧は、

「ひこほでみのみこと、とよたまひめのみこと、すいじにのみこと」読み上げた。信濃国三之宮式内沙田神社略記との題に続いて、祭神の名が漢字と平仮名で記されているのである。それぞれ、彦火々見尊、豊玉姫命、沙土煮命だ。

 「わー、豊玉姫しか読めなーい」

 「うん…」特に沙土煮命は、適当に読んでも絶対に当たりそうにない。

 「沙土煮命は三番目なんだね。日本でここだけなんだから主役だったらよかったのに!」碧は本当に残念そうだ。

 「え…うん…そうだね…」

 「彦火々見さんが主役かな?」

 「うん…多分…」

 「男の神様かな?」

 「うん…多分…」彦とついているので男だろうと藍は考える。

 「豊玉姫って何かスゴいセクシーなお姫様っぽい名前!」

 「え…うん…」色白で豊満な印象だ。藍は、美奈子の姿を思い浮かべた。

 「美奈ちゃんみたいな神様だね!」

 「え…! 私も美奈子ちゃん想像したよ…!」

 「おお? 満場一致で可決! よし、学校行ったらさっそく話そ!」

 「え…うん…」まあ、誉めている方向なので、美奈子が気を悪くすることは無いだろう。

 「彦火々見さんの奥さんかな?」

 「え……かな…?」藍にはそういった知識がほとんど無い。日本神話について知っていると言えば、天照大御神が女だということくらいだ。

 「だとすると、沙土煮さんは子供かな?」

 「かな…?」全く分からない。

 「男か女かも分からないよー」

 「うん…」

 「土に関係あるんだろうなーとは思うけど」

 「うん…」沙と土が名前に入っているからそうだろう。

 「みんな『みこと』だけど字が違うんだね」

 「うん…男女で違うのかな…?」

 「おお! そうかも! とすると沙土煮さんは女の人だね! あ、女神か」

 「うん…」

 「じゃ、推定二人の娘てことで小林教授に確認しよ!」

 「え、うん…」碧は本当に好奇心が旺盛だ、と藍は感心する。

 これで碧は満足したかな、と思ったが、

 「由緒読んでー」と言ってきた。祭神の次に由緒がかなりの文字数で記述されている。

 「うん…『孝徳天皇の御宇大化五年六月二十八日』、『この国の国司勅命を奉じ初めて勧請し』、『幣帛を捧げて以って祭祀す』」途中に息継ぎを入れながらここまで読み、また息を継いだところで、

 「あ、ちょっと待って!」碧から待ったがかかった。

「分からない言葉がいっぱい! 御宇って何?」

 「え…と、その天皇が治めてる時代…」

 「御代と同じ?」

 「うん…多分…」

 「勧…請?は?」

 「え…と、神社を作って神様に来てもらうこと…かな…?」

 「(へい)(はく)は?」

 「それは私も…読みも合ってるかどうか…」合っている。

 「そっか…じゃあとにかく大化五年の六月二十八日に初めて神様を祀ったんだね!」

 「うん…多分…」

 「ありがとう! 続きお願いします!」

 「うん…『其の後大同年間坂(さか)(がみ)田村』…あ、『(さかの)(うえの)()(むら)麿(まろ)将軍有明山妖賊征伐にあたり』、『本社の御神力の効する所なりとて』、『国司と議り社殿を造営する』」

 「これ『はかり』って読むの?」息継ぎしたところで、また碧が質問してきた。

 「あ…分からないけど…そう読めば意味が通るかな、って…」合っている。

 「はかる、って議論する、って意味もあるの?」

 「え…と、議論というか相談、みたいな感じ…『政府の諮問機関』とかの『諮』がそうなんだけど…」

 「え! それ、試しに問う機関だと思ってた! どんな字?」

 「(ごん)(べん)に、旁は次の下に口…」

 「えーと、これ?」碧は空中に諮と書いた。

 「うん…」

 「そう言えば習ったような気がする…」

 「うん…」中学校で習ったのかどうかは藍にも覚えが無い。藍の場合、知っている漢字のほとんどを学校で教わる前に読書で覚えてきたからだ。

 「やっぱり藍ちゃんスゴい! えーと、じゃあこの大同年間に社殿ができたんだね」

 「うん…」過分な評価に恐縮しつつ相槌を打つ。

 「いつぐらいかなあ」

 「うん…」大同という年号は初耳であるし、坂上田村麿については征夷大将軍だったということしか知らないので、想像がつかない。大化の改新が西暦六四五年、源頼朝が征夷大将軍職に就くのが一一九二年であるから、その間だということは解るが、五百年以上も幅が有る。

 「あれ? じゃあそれまでどうしてたんだろ?」

 「どうして…?」碧の疑問の内容が分からない。

 「うん。祭祀すってあるから、何か儀式やってたんだよね? 社殿があったらそこに行けばいいけど、なかったらどこでどうやって祀ってたんだろ?」

 「あ…そうだね…」神を祀るという行為自体が藍にはピンと来ないが。

 「謎だー。小林教授だったら知ってるかな?」

 「え…どうかな…」そんな昔のことが分かっているのだろうか。

 「謎いっぱいだね、沙田神社!」

 「うん…」

 「有明山って安曇野の有明かな?」

 「有明っていう所があるの…?」

 「うん! 大糸線の駅あるよ! 穂高の1()向こう!」大糸線は、松本を起点に飛騨山脈の山麓を通って日本海に面した糸魚川までを結ぶJRの鉄道路線だ。白馬村から通う井上はこの路線を使っている。

 「あ…そうなんだ…多分そこなんじゃないかな…」安曇野ならば遠方ではない。

 「だよね! 続き読んでー」

 「うん…『降って文徳天皇の仁寿元年勅許を蒙り社の造営あり』、『同三年二条大納言有季勅使をして神位を賜る』、『其の後元享正中の交天下大いに乱れ』、『当国亦兵馬駆逐の巷となり』、『当社も遂に本殿を除き其の他の建物悉く焼失す』」

 「わ! 燃えちゃった! せっかく建て増ししたのに!」

 「うん…」

 「戦国時代かな?」

 「かな…?」

 「この『交』のところ何て読んだの?」その字を指し示す。

 「こもごも…」

 「え? そんな読み方あるの? 藍ちゃんホントスゴいな…! 続き読んでー」

 「うん…『其の後島立右近これを再建せらる』、『それより代々の領主は勿論殊に松本城主小笠原政長よりは』、『実に七十余町を寄附し神領として七十石を給せられ』、『更に歴代の城主より次々篤く遇せられ』、『松本城裏鬼門の守護神とさる』」

 「小笠原さん城の前に家紋並んでたよね!」

 「あ、うん…」

 「島立右近も人の名前だよね? そこの島立かな?」

 「うん…多分…」渚の西に島立という地名があることを藍も碧も知っているが、この沙田神社の住所がその島立地内であることまでは知らない。

 「この辺の偉い人だったのかな?」

 「うん…そうだね…」地方で実権を握っている人がその土地の地名を名乗ることが有り、それを苗字と言うのだと、父方の祖父が話していた。

「碧ちゃん、裏鬼門て何か分かる…?」鬼門というのは良くない方向というような意味だったと思うが、裏鬼門というのは初耳だ。

 「詳しくは知らないけど、鬼門の反対だから南西! 鬼門も裏鬼門も魔が入ってくる方角なんだって」

 「あ…そうなんだ…」鬼門の反対側だから良い方向という訳ではないのか。それならば『守護神』という単語も腑に落ちる。

 「裏鬼門がここだったら、鬼門の方には何があるのかな?」

 「うん…」藍も同じことを考えていた。きっと神社が在るのだろう。

 「今度地図見てみよ!」

 「うん…」

 「続き読んでー」

「うん…『明治五年郷社に列し』、『明治三十四年県社に昇格』、『同四十年神饌幣帛料供進に指定せられ』」

 「県社出てきた!」

 「うん…」

 「(しん)(せん)(へい)(はく)(りよう)(きよう)(しん)って何?」

 「え…と、神饌はお供えの食べ物だと思うけど…幣帛料は分からないよ…読みも合ってるのかな…?」合っている。

 「そっかー」

 「供進も、お供えするんだと思うけど、指定っていうのが分からないよ…」字面を追うと供え物に指定されるように思えるが、その意味するところは全然分からない。

 「あ、そうだね。むー。これも教授に質問か…多すぎて忘れそう!」

 「うん…」

 「続き読んでー」

 「うん…『大正四年農林大臣早(さつ)(そく)』?『(せい)()』?『・鉄道大臣仙石貢閣下等を始め』、『中央地方の名士の寄進により石玉垣が建設さる』」

 「早速さんて変わった名前だね!」

 「うん…早速さんで合ってるかどうか分からないけど…」残念だがその読み方は間違っている。農林大臣と、後に大蔵大臣も務めたこの人物の名は『はやみせいじ』と読む。

 「石玉垣って何?」

 「分からないけど…神社の周りの石垣かな…?」

 「あれ? あの、名前彫ってあるやつ?」右の方を指差す。

 「うん…」

 「何々大臣とかいかにもありそう!」

 「うん…そうだね…」

 「さっきの矛も大正四年だったよね? 石玉垣も御即位記念なのかな?」

 「うん…そうかも…」それなら大臣が名を連ねているのも納得出来る。

 「続き読んでー」

 「うん…『尚昭和二年には東筑摩(つかま)郡波田村地籍』、『波田国有林十五町歩の』、『縁故特売を以って社有地となるも』、『昭和二十二年には農地改革により解散となる』」

 「波田って昔は波田村だったんだね」

 「うん…」()()は松本市街地の西の端と言える地域である。波田村から波田町になり、平成二十二年に松本市に合併された。

 「農地改革って何かな?」

 「さあ…」中学まででは教わらなかった。

 「この言い方だと、波田国有林買ったけど取り上げられちゃったのかな?」

 「うん…」解散、という単語がしっくり来ないが、恐らく碧の言うことが的を射ているのだろう。

 「沙田神社残念!」

 「うん…」

 「何の縁故だったんだろね?」

 「うん…」無論藍の知るところではない。

 「続き読んでー」

 「うん…『尚波田村地籍鷺沢嶽に』、『往昔より鎮座せる奥社』、『その附近一丁七段(だん)()の山林は』、『当神社の御旧跡地として毎年例祭には』、『該山より萱を』…あ、『(かり)(とり)』、『仮殿を作り』、『萱穂・柳葉六十六本を六十余州になそらえて』、『邪神を鎮め平げ天下泰平を希ねがう』、『神事が古式により行はれ今日に至っている』」刈り取り、の部分は何と読むのか少し考えたので間が空いた。そして、『段歩』は『たんぶ』と読むのだが、言葉自体を知らぬのだから読みを間違うのも致し方無しだ。

 「あ! 奥社があったっていうのが縁故かな?」

 「うん…そうだね…」読み上げながら藍もそう思っていた。

 「うーん、ここも分からないことだらけなんだけど、まず、一丁七段歩って何か分かる?」

 「多分、面積の単位だと思うけど…どれくらいなのかは…」知っているのではなく、文脈からそう判断した。

 「あ、なるほど、面積ね! 豆腐とかパンツみたいに山一丁!と七段の歩、て分けちゃったから、何の事かと思ったよー」

 「うん…」察しの良い碧でも、時にとんちんかんな方向に考えてしまうことは有るだろう。

 「仮殿は仮の社殿だよね」

 「うん…多分…」

 「六十余州って昔の国だよね? 信州とかの」

 「あ…なるほど…! そうだね…」藍にとって最も分からなかったのがこの部分だったのだが、そういう意味ならば話が通る。

「六十六あったのかな…?」

 「きっとそうだね! 教科書に地図載ってたよね!」

 「あ…そうだね…」自分が使っている日本史の教科書の表紙を捲ったところに載っているのを思い出した。

 「数えてみよ!」

 「うん…」

 「例祭ってどれのことだろうね! あ! 『奥社面積壱町七段歩』! さすが藍ちゃん!」

 「……」誉められて藍は恐縮する。

「で、例祭は…」由緒書きの最後、左端の部分に『祭典』として年間行事が記載されているが、どれがその例祭に当たるのか分からない。

 「『毎年』だから御柱のことじゃないよね」

 「うん…」祭典の最後の項として御柱祭とあり、卯酉の年と書かれている。

「あ、この『風神祭』かな…? 前夜祭するくらいだから…」『風神祭九月二十七日 前夜祭九月二十六日 本祭九月二十七日』、とある。

 「おお! そうだね! 最後のところ読んでー」

 「うん…『右の御柱祭は社殿建替の意にて仁寿年間より約四百年を経て子々孫々古式豊かに続けられている』」

 「四百年かあ。諏訪大社もそれぐらい前から御柱やってるのかな?」

 「え…と、千年以上前からやってるって聞いたよ…」小学校の遠足で行った時のことである。

 「そうなんだ! じゃあ、諏訪大社でやってるの見て、『あれスゴいからうちでもやろう!』みたいな感じで始まったのかな?」

 「え………」いくら何でもそんな遊び感覚ではないだろうと藍は思うが。

 なお、二人の知らぬ事であるが、仁寿は西暦八五一年に始まり八五四年に終わるので、『四百年』の部分には疑問が残る。

 「よーし、今回はバッチリ予習したね!」

 「うん…」長い予習だった。十分以上、ここに立っていたはずだ。

 「ではお参りしましょー! 先生、よろしくお願いします!」

 「あ、はい…」

 二人は賽銭箱の前に移動した。碧が背嚢をそっと足元に置く。

 「『沙田神社』」視線を上に向けた碧が厳かな口調で呟く。そちらを見てみると、扁額が掛かっていて、碧はその文字を読んだのだった。

「まずは鈴を鳴らして、と」碧が鈴緒を握る。それを見て藍は大事なことを思い出した。

 「あ…! 鈴なんだけどね…」

 「うん」碧が鈴緒から手を離す。

 「自分が来たのを神様に知らせるんじゃなくて、魔を祓うためなんだって…」いつかの夕食時に両親がそう教えてくれた。

 「へー! あ、じゃあ神楽で鈴いっぱいついた棒持ってるのもそういう意味なのかな?」

 「あ…! うん、そうだね…」

 「よーし! じゃあしっかりガラガラして」碧は改めて鈴緒を握り、数回鈴を揺らした。周囲が閑静なため、思っていたより大きな音に聞こえる。

「では先生」

 「はい…」

 藍は前回同様、背中が水平になるくらい深く二礼した。碧もそれに合わせる。

 次に二拍。続けて二拍ではなく、少し間を空ける。その方が柏手の音がきれいに響く気がして気持ちいい。これも碧が巧く合わせ、二人の柏手がきれいに重なった。

 「藍ちゃんと二人で巫女さんのバイトできますように!」予測通り碧が願い事を口に出したが、内容は予想外だった。碧は本気で巫女のアルバイトをしたいらしい。接客業であるから自分に務まる気はしないが、碧の願いは叶ってほしいので、がんばりますと心中で呟いた。

 藍が再び二礼するのに碧が合わせ、二人は参拝を終えた。途端に、

「藍ちゃんは何お願いしたの?」藍の方を向いて訊いてくる。

 「あ…えっと、思いつかなくて…巫女さんのアルバイトできるようにがんばります、って…」

 「藍ちゃん…! 何ていい人なんだ…! どこで募集してるとか調べるね!」

 「うん…」

 「せっかくだから、ここでできたらいいね!」

 「うん…」ということは、碧はここを気に入ったようだ。藍にとっても、ここは深志神社や四柱神社より近いので来易い。しかし、今日の様子から判断すると、ここで募集が有るかについてはかなり怪しい。

 「梨乃さんも一緒がいいけど、旅行かなあ」

 「うん…」去年はアイルランドに行っていたし、その可能性は高いだろう。

 「ダメ元で話してみよ!」

 「うん…!」梨乃が一緒ならばさらに楽しく仕事出来そうだし、安心度も倍増だ。

 「あっちにも祠あったよね? 行ってみよ!」拝殿に向かって左斜め方向を見て言う。

 「うん…」返事とほぼ同時に、藍は手を引かれた。いつの間にか碧は背嚢を背負っている。

 拝殿に沿って右に曲がると、高い木立を背に、小さな祠が五つ横に並んでいるのが見えた。左即ち拝殿に遠い方から二番目の祠が一番大きく、その両隣は似て非なる形状で三分の二ほどの大きさ、右の二つはさらに背が低いが少し横に長い。いずれも高さ八十㎝ほどの石垣の上に乗っている。一番大きな祠の前には数段の石段が設けられ、さらにその手前には高さ一・五mくらいの石燈籠が佇む。参道の石燈籠に比べるとかなり背が低く、作りも華奢だ。

 碧に手を引かれて石段の前へ行く。

 「()()(やす)神社?て読むのかな?」一番大きな祠の斜め前に石柱が在り、そう刻まれている。

 「うん…多分…」

 「子供を守ってくれる神様かな?」

 「かな…? あ、安産の神様かも…」

 「おお、なるほど! とりあえず拝んどこ」碧はその場で合掌、瞑目した。藍も倣う。

「楽に子供産めますように!」またしても願い事を声に出す。出産など剰りに実感の無いことなので、藍は胸中で呟くこともしなかった。代わりに、自分が母親になることなど有るのだろうかと、他人事のように訝しんだ。

 そして、碧が参拝終了を告げる、と藍は思ったが、

「ついでにその子が藍ちゃんみたいな子になりますように!」碧は願い事を続けた。

 「え……」それが予想外に過ぎたため、思わず声が出てしまった。しかし碧は全く気に掛ける様子無く、

 「バッチリ!」目を開けてそう言うと、藍の右手を取った。

「探検隊の続きしよ!」

 「あ、うん…」応える前に、藍は手を引かれた。

 碧は左の方を向いて歩き始めた。恐らく敷地内を一周するつもりなのだろう。

 「わ! あの木スゴい! 脱皮してるみたい!」しかし碧は二歩で向きを変えた。二の御柱の方向だ。

 「え…」碧がどの木のことを言っているのか分からず、二秒ほど視線をさまよわせてそれを見つけた。

「本当だ…!」ほぼ皮だけになってしまった枯れ木の下から、若い木が伸びてきているのだ。表皮は若々しいが既に藍の背丈より高くなっている。枯れ木の方は、地上一m辺りから上が失われてしまっている。

 「こういうの初めて見たー!」碧がその木に寄っていき、藍も手を引かれてそちらへ行く。

 「私も…」切り株から芽が出るというのは写真で見たことが有るが。

 「同じ木なのかな?」

 「かな…?」枯れ木と若い木の表面がかなり違って見えるので、根が同じなのかそれとも別の種類の木なのか藍には判らない。

 「違う木だったらエイリアンみたいで怖いね!」

 「エイリアン?」単語を聞いたことは有るが、意味は知らない。

 「地球外生命体のホラー映画でね、人間の体に卵生んで、孵化したエイリアンがお腹食い破って出てくるの」ホラーであり、SFであり、パニック映画でもある。この分野の一大金字塔だ。

 「え……」何でもないことのように碧が話すので余計な想像をせずに済んだが、それでも気味悪く感じる。

 「ほら、これ新しい木が古い木を破って伸びてるみたいじゃない?」

 「うん…そうだね…」古い方の木の皮には縦に裂け目が有り、如何にもそのように見える。

 「同じ木だったらスゴい生命力だね!」

 「うん…」古い方の木は表皮しか見当たらないから、何らかの原因で根だけが残ってそこから生えてきたということなのだろう。上はどうなっているのだろうと見上げてみると、

「あ…!」驚いたことに、皮だけになった木の上端から若い枝が伸び、葉を茂らせている。

 「え? …あ!」碧も同じ所を見て驚きの声をあげた。

「スゴいねこれ! まだ根っこにつながってるんだね!」

 「うん…」皮だけで栄養を摂取しているとは考えにくいから、恐らくそうなのだろう。

「あ…葉っぱ同じだね…」地面から生えている若い木と皮から伸びている枝が、同じ形状の葉を付けている。

 「ホントだ! 皮も! じゃあ同じ木かな?」

 「うん…そうだね…」

 「スゴい力だね、この木!」

 「うん…」

 「拝んどこ!」碧は右手だけ合掌の形にした。左手は藍の右手を握ったままだ。

 今日は色々拝む日だな、と思いつつ藍も軽く顔を伏せ、瞼を閉じた。この木を拝むのは、生命力にあやかろうということだろう。確かにこの木の生命力は凄い。雷に撃たれたとかで幹の半ばから折れてしまったのだろうが、根から次の幹を生やしただけでなく、折れた元の幹からも新たに枝を伸ばしているのである。自分もそのように逞しくとは全く思えないが、いや、だからこそ、この木にあやかりたい気はする。それに、この木に限らず植物の生命力は凄いと思う。ここ一週間ほどで、新緑が深緑に変わってきて、道端の草も急に伸びてきた気がする。今居る境内も、きれいに刈られているものの、ほとんどの部分が緑に覆われている。

「およ、隣保育園?」碧の言葉に、藍は目を開けた。

 「あ…そうだね…」玉垣と大きな木の間に、梁を黄色に脚を水色に塗られたブランコが見えている。それだけなら児童公園だと思うところだが、そのすぐ奥に建つ二階建ての白い建物が、公園に非ずと主張している。藍は二の御柱の傍に行く時点でその存在に気づいてはいたが、全く気に留めていなかった。

 碧がそちらへ歩き出し、藍も手を引かれてそちらへ行く。

 十mも進むと保育園(仮)の全貌が見えてきた。二棟の二階建ての建物を、玉垣と平行に延びる平屋の建屋が結んでいる形で、三棟と玉垣に囲まれた土地が運動場になっている。運動場と言っても三十m四方ほどと狭いのだが、中央に長円形の芝生が敷かれているのが贅沢だ。それら全体が保育園か幼稚園の雰囲気を醸している。左の建屋の前にはブランコ、右の建屋の前にはすべり台。

 「あ、やっぱり保育園! 『しまだちちゅうおうほいくえん』だって!」

 「え…書いてある…?」

 「うん! あそこ!」碧は、正面の建物と左の建物の接する辺りを指差した。

 「あ…本当だ…」その部分の庇に手作りと覚しき看板が掛かっていて、平仮名でそう書かれている。

 「芝生きれいだね!」

 「うん…」長円形の芝生は青々と茂っている。

 「ここ柵とかないんだねー」碧が不思議そうに言う。

 「あ…そうだね…」玉垣が途中で途切れており、そこから先、境内と運動場とを明確に仕切る物は無い。

 「変わってるね」

 「うん…」

 「わたしだったら勝手に神社の方行っちゃうよー」

 「うん…」きっとそうだろうな、と藍は思う。自分の場合は、幼少期でもそんなことはしなかっただろう。藍は小さい頃から、未知の地域へ積極的に出ていくことを好まなかった。

 「(おん)(はしら)登って怒られてそう!」

 「え…」それは叱られるだろう。が、幼稚園児ならそういうことをしても仕方ないかな、とも思う。

 「藍ちゃん、保育園? 幼稚園?」

 「保育園…」

 「やった! わたしも! どこ保育園? わたし笹部!」笹部保育園は、渚駅の南南西方向に位置し、相生邸から見ると西北西。藍は、笹部保育園の存在は知らなかったが、笹部という町名の地域が渚の近隣に在ることは知っていた。

 「渚…」渚駅の北、国道の近くに在る。

 「家の近く?」

 「遠くないけど…小さかったから…」青井邸からは道のり六百mくらいで、母親の自転車に乗せられて通っていた。距離を鑑れば通園時間も十分程度だったのだろうと思うが、当時の藍にとっては長い道であった。

 「だよねー! わたしも自転車乗れるようになってから保育園行ってみたら、すごく近くてびっくりしたよー」

 「うん…あの、碧ちゃん自転車乗れるようになったのいつ…?」

 「小学校上がる直前~。藍ちゃんは?」

 「私も…補助輪取ったら全然乗れなかったよ…」

 「わたしもー。お兄ちゃんが『遅いからフラフラするんだ』とか言うんだけど、できないものはできないよねー」

 「うん…」と応えながら、碧でもそうだったのか、と意外に思った。それならば自分が乗れなかったのも当然だ。

「碧ちゃん、乗れるまでどれぐらいかかったの…?」

 「けっこうかかったよ。二、三時間かなあ」

 「そうなんだ…やっぱり速いね…私、何日もかかったよ…」一週間だったのか一ヶ月だったのか覚えていないが、とにかく藍にとってはものすごく長い期間に感じられた。

 「え、そうなんだ。じゃあわたし速い方だったのかなあ。でも不思議だよね、一回乗れるようになったら、何でできなかったのか分からないくらい簡単だもんね」

 「うん…そうだね…」運動全般が苦手な藍でも、自転車の運転は簡単だと思う。しかし乗れなかった頃は「こんなこと絶対出来ない」と思いながら練習していたのだ。藍は今でもその気持ちを思い出せる。

 「英語とかもそうだもんね」

 「え…?」どういう意味か藍には汲み取れなかった。

 「んーとね、最初は英語の映画観てても何言ってるか分からないんだけど、字幕読んだりとかして何本も観てるうちに、ある時突然分かるようになるの」

 「そうなんだ…」つまりは努力や経験の積み重ねということか。それならば。

 「あ、全部じゃないよ。特定の言い回しとかね」

 「うん…」もちろんそうだろう。

 「なんかね、そういうのRPGみたいだよね!」

 「RPGって何…?」

 「おお! Roll Playing Gameの略でね、そういうゲームのジャンル」

 「……回転するの…?」どんなゲームなのか想像がつかない。

 「rollは役割って意味ー。回転のrollと綴りは一緒~」

 「あ、そうなんだ、なるほど…」役割を演じるゲームと言われれば何となく想像出来る。

 「でね、経験値っていうのがあって、それがたまるとレベルアップして強くなったりできなかったことができるようになるの」

 「あ、なるほど…」漸く合点がいった。

「似てるね…」

 「でしょでしょ? どれぐらいレベルアップしたら梨乃さんみたいになれるかなあ」

 「え……」そんな考えは、藍の脳裡を掠めたことすら無かった。

 「英語だけでも梨乃さんくらいになりたいなー。そしたら旅行に行っても普通に会話できるよね」梨乃が英語で会話するところを見聞きしたことは無いはずだが、現地の人と同じように話せるものと碧は信じているようだ。

 「うん…そうだね…」

 「あと、しつけ能力! もう遅いかも知れないけど!」

 「二人ともいい子だもんね…」アスランとラブのことである。

 「ね! よーし、レベルアップするぞ!」

 「うん…」藍にはこれといった目標は無いが、自分も頑張ろうと思った。少なくとも、自転車に乗れるようにはなったのだ。

 碧に手を引かれ、保育園の運動場に入る。一秒ほど後、

 「『松本市立島立保育所』。向こうには『ほいくえん』って書いてあるのに!」右前方を見て碧が言った。

 「うん…」建物の壁に、そう書かれた看板が掛かっている。

 「こっちの方が正式っぽい看板だけど!」

 「うん…」向こうは平仮名表記なので、こちらの方が正式のように思える。

 「ここって島立なんだね! さっきの島立さん、この辺に住んでたのかな?」説明に書かれていた島立右近という人物のことであろう。

 「うん…多分…」島立という名をここ以外で聞いたことが無いから、きっとそうだろう。

 「じゃ、きっとここにもお参り来たよね!」

 「うん…そうだね…」焼けた建物を再建したくらいだから、当然参詣もしただろう。

 「そう思うと神社ってスゴいね。千年以上前からここにあるんだもんね」

 「うん…そうだね…」建造物は変わっているかも知れないが、『神社』としてはずっと存在しているはずだ。

 「向こうは学校かな?」保育園の右奥を指差す。

 「うん…多分…」校舎らしい建物が見えていて、その右側には体育館のような建物も在る。体育館(仮)と保育園の運動場の間はアスファルトで舗装され、白線で区切られているから、明らかに駐車場だ。

 「島立小学校かな!」保育園が島立保育所だから、適当にそう言ったのだろうが、

 「うん…そうかも…」十分有り得る。

 「戻ろっか」

 「うん…」

 二人はまた境内に入り、並んだ祠の横を通り過ぎようとした。が、そこで碧が立ち止まり、

 「神社ってこういう形なんだね」社殿の方を見ながら言う。

 「え…と…?」具体的にどの部分のことを言っているのか分からない。

 「んーとね、前の方に大きい建物があって、後ろに小さい建物があって、間が渡り廊下みたいになってるよね」碧は社殿の方を指差した。

 「あ…そうだね…」板張りの塀の向こうに、碧が言ったような構造が見えている。碧が渡り廊下と言った部分も壁を有していて中が見えないのだが、その部分だけ背が低く渡り廊下のように見える。

 「初めて横から見たよー」

 「私も…」神社には何度か行ったことが有るが、正面からしか社殿を見たことは無かった。

 「ぐるっと回れる感じかな?」

 「うん…」社殿を囲う板塀と玉垣の間には、大きな隙間が在るようだ。

 「あそこに何か看板立ってるね」正面を指差す。

 「うん…」玉垣の前に、高札のようなものが立てられている。

 「あ! そこにも御柱!」今度は少し右側を指差した。

 「あ、本当だ…」祠の背後二十mくらいの所に立っているが、傍に在る木が枝を張り出し葉を茂らせているので、それに隠れて今まで気づかなかった。

 「四本あるって言ってたもんね」碧はそちらに向かう。

 「うん…」昨日小林がそう言っていた。

 「三の御柱かな?」

 「うん…多分…」一と二の位置関係から推すとそうだろう。

 「正解! 三之御柱だね!」

 「うん…」柱の根元に、そう書かれた看板が打ちつけられている。看板は奥の社殿の方を向いている。

 碧は御柱のすぐ前まで行った。

 「昨日美奈ちゃんも言ってたけどね」

 「うん…」

 「何で柱立てたんだろね」

 「うん…」全然想像がつかない。

 「鈴音ちゃんのおばあちゃんが言ってたみたいに、柱が神様なのかな」

 「え…と…それだと、神様四人いるんだね…」

 「あ! そうだね! むう、そうすると一人足りない…」

 「うん…」説明書きによると、祭神は三柱だ。

 「じゃあ、神様がいる所だから目立つようにしてあるのかな?」

 「かな…多分昔はこんなに高い建物なかったから、すごく目立っただろうね…」

 「だよね! 遠くからでも見えたよね! よし、それで決定!」

 「うん…」碧が納得するならそれでいいし、その説はまあ妥当なのではないかと思う。さっき通ってきた道沿いの家は、現代でも御柱より低かったのではないか。

 「じゃ、次はあの看板!」碧は境内の隅に向かって歩き出した。

 「うん…」

 二人は高札の前に移動した。

 「読んでー」

 「うん…『物臭太郎の碑(お伽草紙)』、『古くより此処に大きな塚があり』『「物臭太郎の墓」と伝えられてきた』。『お伽草紙の中の物語にある』、『太郎の住んだ「あたらしの(さと)」は』、『史実の「(あら)(たの)(ごう)」と想定される』。『往時荒田郷の総鎮守の神であった沙田神社は』、『延喜式内の古社で』、『ここに物臭太郎の墓が伝えられることは』、『また興味深い』」

 「物臭太郎って実在の人物だったの?」

 「なのかな…お墓があったんだったら…」

 「ここに塚があったって、ここかな?」説明のすぐ隣に石碑か墓石のようなものが作られている。

 「かな…?」

 「これ、『物』だよね?」

 「うん…多分…」石碑は古いものらしく、刻まれた字が読みとれないほどになっているが、一文字目が『物』であるのは何とか判る。

 「じゃあこれが物臭太郎の墓かな?」

 「うん…塚のあったところに建てたのかな…?」説明書きの内容から推してそうだろう、と藍は考える。

 「きっとそうだよね! 決定!」

 「うん…」ここも、碧がそれでいいなら藍に異議は無い。

 「この前淵東なぎさのCD貸してもらったじゃない?」

 「うん…」

 「その中に物臭太郎の話出てきたんだよねー」

 「そうなんだ…」それでは、何かしら物臭太郎に(ゆかり)の有るものが松電沿線に在るのだろうか。

 「だからお墓見つけてうれしい~」

 「うん…あ、あのね…」

 「うんうん!」

 「物臭太郎の話、よく覚えてなくて…」盛り上がっているところに水を注したくないのだが、重要なことだ。

 「お? では話して進ぜましょー!」

 「うん…お願いします…」

 「むかーし昔、たぶん平安時代ぐらいの昔、信濃の国のあたらしという所に、太郎というチョー物臭な男がいました。どれぐらい物臭かと言うと、仕事しないのは当たり前、めんどくさいから散髪もひげそりもしない、それどころか服は着替えない、風呂も入らない、挙げ句の果てにはゴハンも食べないっていうぐらいで、村の人も呆れていました」ここまで碧は一息に話し、少し間を空けた。藍が頷くと、碧は続きを話しだした。

「ある時村から都に人を出さないといけなくなって、そんな遠くに誰も行きたくないもんだから太郎に押しつけようとしたんだけど、物臭な太郎のこと、『メンドくせ』とか『ずく出ね』とか言って行きたがりません」碧がまた間を取り、藍は頷いた。

「と村人はみな思っていたのですが、意外にも太郎は『都? マジか? もちろん行くともよ!おれの人生ここから花道だぜ、ヒャッハー?』と喜び勇んで旅立っていったのでした。そのフットワークの軽さに村人はア然として太郎を見送りました」碧に向かって頷きながら、こんな太郎を行かせた村長は後から怒られなかったのかな、と明後日なことを藍は考えた。

「ずくを出した太郎は飛脚もビックリな速さで都にたどり着き、すぐにバリバリ働き始めました。あ、バリバリと言っても猫の爪研ぎでは有馬温泉」

 「有馬温泉…?」聞いたことは有るのだが、どこに在るのかは全く知らない。

 「ありません、て意味だけど…」

 「あ、うん…それは分かったんだけど…どこにあるのかな、って…」

 「わたしも知らないんだよねー、デヘヘ」

 「そうなんだ…あ、ごめんね…話の腰折っちゃって…」

 「ううん! でね、えーと、ある時太郎が仕事をしていると、どこかのお姫様が牛車に乗って目の前を通って行きました。サラツヤブラックのチョーおしとやか美人です。一目ボレした太郎は伝手をたどってそのお姫様が誰なのか突き止め、ラブレター短歌を出しました」

 「その短歌がステキだったのでお姫様は興味を引かれ、太郎に歌を返しました。すかさず太郎はそれにまた歌を返します。こうして何度かやり取りしているうちに姫もすっかり太郎のことが好きになり、ついに太郎はお屋敷に招待されました」

 「しかし太郎はバリバリ働きすぎて、全くお風呂に入っていません。あたらしの郷時代から通算すると、五年も入っていないことになります。服も着替えてないし、髪も髭も伸び放題。何ともみすぼらしい姿にお姫様はたじろぎますが、ここで追い返さないのがこの姫のスゴいところ、あるいはそこまで気を引いた太郎のスゴいところ。姫は使用人を呼んで、太郎を風呂に入れさせます」

「使用人が二日かけて身体と髪を洗い、髭を剃ったところでようやく見れるような姿になり、そこからは姫自ら髪を整えます。姫は、太郎の体の逞しさにドキドキしながら、髪を梳き、裾を切り、まげを結いました。服も新しいものに替えるとあらビックリ、太郎は早川雪洲のような(おつとこ)(まえ)に大変身していました!」

「姫は太郎にホレ直し、二人はその後結婚。太郎はバリバリ働き過ぎてうっかり中将にまで出世してしまい、信濃国の一番偉い人として赴任します。立派になって故郷に戻った太郎に、あたらしの人たちはこれがあの物臭太郎かと目をみひらきました。太郎と姫はそんな村人たちと仲良く暮らし、国中から慕われました。二人は共に百歳まで生き、死後は沙田神社の境内に手厚く葬られたということです」

 「いい話だね…」

 「だね! 細かいところはわたしが勝手に作ったけど!」

 「そうなんだ…碧ちゃん、すごいね…」

 「え? そう?」

 「うん…どこを作ったのか全然分からないよ…あ、最後の沙田神社のところだけ…」

 「そう? デヘヘへ」

 「あ…あのね、早川せっしゅうって誰…?」

 「俳優! 1910年ぐらいにハリウッドでトップスタァになった人!」

 「え…? そんな昔に日本人が…?」百年以上前だ。

 「うん! スゴいよね! 一人でアメリカ行ってハリウッドでトップスタァだもんね!」

 「うん…英語、どうやって覚えたのかな…」

 「ね! 住んでるうちに覚えたのかな?」

 「え…でも、片言だと俳優できないよね…」

 「や、渡ってすぐの頃はサイレントだったんじゃないかな」その通りである。トーキーが普及し出したのは一九二〇年代後半だ。

 「サイレント…?」

 「無声映画。昔は映像だけで音がなかったんだって」

 「そうなんだ…それなら発音きれいじゃなくても大丈夫だね…」

 「ね! 監督とかほかの役者と意思疎通ができれば大丈夫だよね」

 「うん…碧ちゃんよく知ってるね…」

 「お父さんが映画マニアだからねー。わたし達も自然と」

 「お父さん、そんな昔の映画も見るの…?」

 「や、サイレントは見ないねー。字幕入っててもあんまり面白くないって言ってた」

 「やっぱりそうなんだ…」藍も、音が無いと盛り上がらないだろうな、と想像する。

 「それで面白かったら弁士いらないもんね」

 「べんしって…?」

 「映画に合わせて話す人! セリフを言ったりナレーション入れたりするの」

 「あ…なるほど…」弁士と書くのだな、と藍は推察した。

「じゃあ、同じ映画でも弁士によって変わりそうだね…」

 「ね! 梨乃さんとか上手そう!」

 「うん…碧ちゃんも…」

 「え? そう?」

 「うん…クロちゃんの洗濯機閉じ込め事件、上手だったよ…」

 「ホント? 梨乃さんに一歩近づいたかも?」

 「うん…」

 「よっし!」碧は右手を拳にして胸元に寄せてから、

「じゃ、あっち行こ!」その手で右の方を指した。社殿の裏を通るということだろう。玉垣に沿って四本の巨木が並び、巨木と玉垣の間にもう少し低い木が植わっている。

 「うん…」

 藍はまた手を引かれて歩き出した。

 「ここが神様のリビングかな?」碧が社殿を指差す。

 「うん、多分…」ここが社殿の一番奥に当たるところであるから、きっとそうであろう。ちなみに、社殿を囲う板塀と玉垣の間には二十mほどの間隙が在る。

 「ここ静かだから神様快適だね!」

 「うん…でも…」確かに、この静けさは落ち着けてとても快適なのだが。

 「うんうん」

 「参拝する人多い方が神様は喜ぶかな、って…」これだけ閑古鳥が鳴いているのは不本意なのではないだろうか。

 「あ、そっか、神様人気商売だもんね。閑古鳥が鳴いているのはよくないかー、うーん」

 「うん…」そうだね、と言おうとした時。

 「カッコー!」境内に郭公の鳴き声が響き渡った。

 「わ! 本当に閑古鳥が鳴いたよ!」

 「うん…」

 「スゴいタイミング!」

 「うん…」

 「閑古鳥が鳴くって、人がいなくて寂しいって意味じゃない?」

 「うん…」

 「でも郭公って鳴き声大きいよね」

 「うん…」

 「去年うちの屋根に来て鳴いたことがあってね、スゴかったよ~」

 「近くで聞いたらビックリしそうだね…」

 「たまたま窓開けて昼寝してたんだけどね、一声で起きちゃったよー」

 「うん…あの、碧ちゃん、昼寝するんだね…」日中全開で動いて夜電池が切れたように眠る印象が有るので、昼寝をするというのが意外だった。

 「うん、前の晩に夜更かししちゃって」

 「あ、なるほど……受験勉強…?」

 「いやー、お兄ちゃんとゲーム。夏休みだったから」

 「あ、そうなんだ…」随分と悠長な受験生だったのだな、と藍は驚いた。

 「藍ちゃんは夏休み受験勉強してた?」

 「うん…受験勉強じゃなかったけど、勉強はしてたよ…」藍は夏休み中毎日勉強していたが、それは毎日の日課で、中学生になってから昨日まで、風邪で寝込んだ時以外欠かしていない。

 「やっぱり? わたし真剣に勉強しだしたの10月からだったー」

 「そうなんだ…」やはり悠長だと思うが、恐らく碧の集中力は凄いのだろう。

 「藍ちゃんは?」

 「え…と…毎日勉強してたから…」いつから、という質問に何と答えれば正確なのか分からない。

 「わ、やっぱり! そうじゃないかと思ってたー! もしかして、今日ももう勉強してきたとか?」

 「うん…ちょっとだけ…」時計を見ていなかったので正確には分からないが、三十分超一時間未満であろう。

 「うわっ、やっぱり! 藍ちゃん超人!」

 「え…ちょっとだけだよ…」

 「試験前じゃないのに朝から勉強する時点で超人に認定されます」

 「あ…そうなんだ…」そんな称号を受けるのは烏滸がましいと思うが、認定基準が碧の一存で定められているので仕方が無い。

 「藍ちゃん、うちの高校受けようって決めたのいつ?」

 「え…と…いつの間にか…」三年生の始業時には固まっていたが、自分の意志で決めたというのではなく、いつの間にか何となくそうなっていた。松本市内の公立高校でなるべく学力の高いところというのが基本方針で、教師から合格の太鼓判を押されたので松本高校を受験した。

 「そっかー」曖昧な回答であったが、察しの良い碧は理解してくれたようだ。

 「碧ちゃんは…?」

 「わたし10月~」

 「あ、なるほど…」決めてすぐ行動、ということだろう。実に碧らしい。

 「お兄ちゃんがいて助かったよー」

 「うん…」

 「生活ダラけてるのに、勉強だけはできるんだよねー」

 「そうなんだ…」脱いだスリッパを片付けない以外にも行状が有るようだ。

 「うん! 自分が高校受験の時はろくに勉強してなかったのに、さっくり合格してるし」

 「そうなんだ…すごいね…あの、三年なんだよね…?」

 「うん。D組ー」

 「大学どこ受けるかもう決めてるの…?」

 「どうかなー。東大とかハー大とか適当なこと言ってたけど」

 「はー大って…?」

 「ハーヴァード? 普通略さないよねー」

 「うん…ハーバード大学ってアメリカ…?」

 「うん。マサチューセッツ州。マサチューセッツ州って言いにくいよね! よくマサチューセッチュちゅうって言っちゃうよー」

 「あ…うん、そうだね…」藍はその名を口に出したことが無いが、如何にも言い間違えそうだ。だが、碧が言い間違えるというのは意外に思える。

 「マサチューチェッチュちゅうになることも」

 「うん…碧ちゃん、滑舌よさそうだけど…」

 「うん、早口言葉とか得意な方なんだけど、マサチューセッチュちゅうはダメなんだよねー」

 「そうなんだ…」

 「早口言葉では東京特許許可局が強敵!」

 「あ、私も…可がきゃになるよ…」

 「やっぱり? 藍ちゃんも一緒でよかったー!」

 「うん…あの、お兄さんも英語得意なの…?」

 「会話はわたしとどっこいどっこいだけど、語彙力は全然かなわないなー。本読んで覚えてるんだって」

 「洋書…?」

 「うん。タブレットでよく読んでるよ。日本で売ってない本が簡単に読めるから、って」

 「あ、なるほど…」確かに、本屋に置いてある洋書はとても数が少ない。

 「ラブクラフト買って読んでって言ったら『興味ねー』の一言だったけど、一応検索してくれて、全集が300円だった!」

 「安いね…」全集というのだから、何冊分もあるのだろう。それが三百円とは。

 「古典はスゴく安いんだって。1冊100円とか」

 「安いね…!」相場が全く分からない藍にも、それは安いと思える。

「ラブクラフトって昔の人なの…?」

 「昔って言っていいのかな…1890年生まれの人」

 「そうなんだ…確かに微妙だね…」明治時代だ。確かに、「昔」という範囲に入れるべきか入れぬべきか、迷うところだ。

「碧ちゃん、ラブクラフト買ったの…?」

 「うん、とりあえず買ってはみたんだけど今挫折中ー。関係代名詞が多用されてて、しかも関係代名詞以下がスんゴい長いから、読むの疲れちゃって。黒い兄弟読んでたのもあるけどね」

 「そうなんだ…」

 「翻訳も苦労したんだな、って思うよー」

 「あ、そっか、日本語では読んでるんだよね…」

 「うん、日本語訳は読みやすくしてくれてるよー」

 「へえ…すごいね…」

 「うん! 翻訳家ってスゴいんだな、って思った!」

 「うん…」

 「黒い兄弟ちょうど昨日読み終わったよ! やっぱり重い話だったけど、ジョルジョとビアンカが幸せになってよかった!」

 「うん…!」

 「でもアニタが帰りを待ち続けてたら大変なことになってたけどね!」

 「あ…! そうだね…」色恋に疎い藍にはその気持ちが想像出来ないが、何年も自分を待っていた人の元に嫁を連れていけばそれは気まずいだろうな、と思う。

 「昔って生活するだけでも大変だったんだね。今は気楽に暮らせて感謝!」

 「うん…そうだね…」物語は創作だろうが、描かれている社会背景は当時の現実に近いだろう。人買いに買われたり重労働で命を落としたりする心配がほぼ皆無な自分達は、それだけでも恵まれている。

 「藍ちゃんは昨日何読んだの?」碧は、藍が毎日違う本を読んでいると思っているようだが、ほぼ正しい認識である。

 「ロミオとジュリエット…」

 「おお! わたしでも知ってる! でも悲劇なんだよね?」

 「うん…そうらしいね…まだ最後まで読んでなくて…昨日、すごく眠くなっちゃって…」

 「あー。朝早かったし、応援けっこう体使ったもんね」

 「うん…」藍にとってはかなりの運動であった。今も、少し脚がだるい。

 「面白い?」

 「え…と、今のところはあんまり…半分ぐらいまで読んだけど…」

 「あ、そうなんだ。面白かったら読もうかと思ったけど」

 「あ…ごめんね…」

 「え? 藍ちゃん全然悪くないよ?」

 「うん…」それは分かっているのだが、やはり何となくすまないような気がしてしまう。

「最初から、話に入っていけなくて…ジュリエットが若すぎるからかな…」

 「そんなに若いの?」

 「うん…十四歳の誕生日前なの…」藍にとっては現実味が無いほど若い年齢設定だ。

 「え? 中学2年? 19歳くらいと思ってた!」

 「うん…私も…」

 「昔はそういうの早かったんだろうけど、中2はリアリティないねー」

 「うん…それとね、戯曲読むの初めてだからかな…」

 「戯曲ってどんなの?」碧の反応が大きいのに驚きつつ、

 「最初にその場面の説明があって、それから登場人物の名前と科白が書いてあるの…」

 「演劇の台本みたいな感じ?」

 「かな…? 台本がどんなのか知らないから…」

 「そっか。ラヴクラフトの小説の中に『戯曲黄衣の王』っていう本が出てくるから、戯曲が何か気になってたんだよねー」

 「あ、そうなんだ…」なるほど、それで戯曲という単語に対する反応が大きかったのか。

 「今日読み終わっちゃう?」

 「うん…あの、碧ちゃん、ラブクラフト貸してくれる…?」

 「お! ついに! 恐怖小説だけどいいの?」

 「うん…」恐怖小説という分野に興味は無いが、碧の好きな作家であるので、ずっと気になっていた。

 「じゃあ後でうちに行こ!」

 「うん…ありがとう…!」

 その時また郭公の鳴き声が響き渡った。

 「また! ホントカッコウって声大きいね!」

 「うん…」

 「閑古鳥って言うけど、カッコウって静かな所でしか鳴かないのかな?」

 「あ…そうだね…」藍も何度か聞いたことが有るが、いずれも周囲が静まりかえっていたように思う。

「碧ちゃんの家で鳴いた時も静かだったの…?」前回訪ねたときは、そこそこ自動車の往来が有り、閑静とは言えない状態であった。

 「うん。たまたま静かだったんだよね、あの時」

 「そうなんだ…」

 「こんなに大きい声なんだからうるさいところでも聞こえるのにね」

 「そうだね…不思議だね…」

 「ね!」碧が立ち止まり、藍も慌てて止まった。話しながら二人は歩き続け、社殿の周囲を三、四周してしまっていた。

「コマワンコ、スゴい苔むしてるね」今は、阿形の狛犬を後ろから見上げている。

 「うん…」先程は全く気づかなかったが、言われてみると、白灰色の岩を彫って作られた狛犬の背中側が苔に覆われて薄緑色に見える。

 「ほかの神社ってこんなになってないよね?」

 「うん…多分…」このように緑色がかった狛犬を見るのは初めてだと思う。

 「何でだろね? ほかにも無人の神社っていっぱいありそうだけど」

 「うん…そうだね…」高辻邸に泊めてもらった日に行った鹽竈神社も、社務所は在ったものの境内は無人だった。

 「新種だね! 新種のコマワンコ!」

 「え……」相変わらず自分の想像もしないことを言う。想像上の獣である狛犬が恰も実在するかの如しだ。

 「新種発見者には命名権! 何てつけよっか?」

 「え……」

 「発見者の名前をとってコマワンキス・アイエンニスとコマワンキス・アオエンニスとか!」学名のつけ方に則っているのかどうかは分からないがそれっぽい響きだ、と藍は思った。

 「え…と、この狛犬、別々の種類なの…?」名前が違うということはそういうことだろう。

 「おお! 深く考えてなかった! じゃあアイエンニスの方で!」

 「え…発見したの碧ちゃんだよ…」狛犬が苔で緑色になっていることに気づいたのは碧である。

 「え? そうだっけ? うーん、アイエンニスの方が響きがいいんだけど…」

 「え…と、場所の名前のこともあるよね…」藍も、Nipponia(ニツポニア) Nippon(ニツポン)という学名を知っている。

 「あ、そうだね! その場合だと、コマワンキス・イサゴダエとかコマワンキス・シマダチスかな!」

 「あ、なるほど…」沙田と島立から取ったのだろうが、語尾を少し変えるだけでそれらしく聞こえるものだと、藍は的外れなところに感心した。

 「どっちがいいかな?」

 「え…と、イサゴダエかな…ここ特有の狛犬だったら…」

 「あ、そうだよね! 近くにも神社あるかも知れないしね!」

 「うん…」島立という地名の範囲がどれくらいか知らないが、渚と同じくらいの広さだとするなら神社の二つや三つは在るだろう。

 「今気づいたんだけどね」

 「うん…」

 「緑色の哺乳類っていないよね?」

 「え…と…」少し考えてみる。

「うん…私は聞いたことないかな…」本や図鑑で読んだことも無い気がする。

 「何でだろうね? 草原とか保護色になりそうなのに」

 「うん…そうだね…」言われてみれば不思議である。

「爬虫類も鳥類も緑色の動物いるのにね…」言いながら藍は、子供の頃短期間だけ買っていたピー子のことを思い出した。両翼の(おもて)面が鮮やかな黄緑であった。

 「だよねー。謎だねー」

 「うん…何か大きな欠点があるのかな…?」

 「あー、きっとそうだね! どんな欠点か分からないけど!」

 「うん…」藍にも想像はつかない。

 「そんなわけで、コマワンキス・イサゴダエはとっても珍しい緑色のコマワンコなの!」

 「うん…」

 「あ! また今思ったんだけどね」

 「うん…」

 「コマワンコって、オスとメスなのかな?」

 「え…と、違うんじゃないかな……金剛力士も男だから…」神社の入口を守る衛士であるし、見た目にも男性的だ。

 「金剛力士? 仁王さん?」

 「うん…金剛力士もあ・うんなんだって…」

 「あ、そうなんだ。道祖神みたいに夫婦だったらいいなって思ったんだけど、ちょっと残念!」

 「あ、なるほど…」そう言われると、藍も少し残念なような気がしてきた。

 「あれ何かな?」碧が半歩藍の方に踏み出して向きを変え、右手で藍の背後を指した。

 藍が振り向くと同時に碧が歩きだし、手を引かれて藍もそちらへ歩いた。

 敷地の角に岩が積まれ、その左隣には横に長い建物が建ち、その前に石造りの小ぶりな鳥居が建っている。建物と言っても、こちら側の面には壁が無く、中に小さな祠が並んでいるのが見えている。理由は分からないが石積みは金網で囲われ、祠を納めた横長の建物の前にも金網が張られている。

 二人は鳥居の前で立ち止まった。

 「たくさん並んでるね!」

 「うん…」

 「全部別々の神様なのかな?」

 「多分…」

 「一人暮らしでもお隣さんが近いから寂しくないね!」

 「…うん、そうだね……」またしても自分には思いつかない発想だ。

 「拝んどこ!」碧が藍の手を離して合掌したので、藍も倣う。今日は本当によく拝む日だ。

 拝み終わった碧は、右の方を向いた。

 「あっちの岩は何かな? 下に(ほら)(あな)あるけど!」

 「うん…」見ても全然分からない。何となく岩が積んであるようにしか見えないし、高さ七、八十㎝の横穴も何に使うのか想像がつかない。

 「謎だね!」

 「うん…」

 「金網も謎だね!」

 「うん…」

 また妄想推理劇場が始まるという藍の予測と期待は裏切られた。

 「あっち見に行こ!」碧は左の方を指差し、また藍の手を引いた。

 「うん…」

 社殿の向かって右側、少し手前の土地が縄で囲まれていて、碧はその前で立ち止まり、

 「『御手洗の池』だって」と立看板を読んだ。

 「うん…」縄で囲まれた窪地は、しかし、全く水を湛えていない。草の生え具合から判断すると、もうかなり長い間この状態を保っているようだ。

 「昔は水が湧いてたのかな?」

 「かな…?」御手洗という名だから、その可能性は高い。

 「今は全然そう見えないけど!」

 「うん…」湧き出した水を受ける皿や桶の類いは見当たらず、過去設置されていたような跡も無い。

 「やっぱり? ここも謎だね!」

 「うん…」

 「そしてまた神社庁…!」

 「うん…」『御手洗の池』の左下に『長野県神社庁』の表記。

 「あれ? さっきは神社本庁だったよね?」

 「うん…本庁の下部組織なのかな…」

 「それっぽい名前だよね! じゃ、ムラさんが潜入するのは長野県神社庁の松本オフィスだね!」

 「どこにあるの…?」神社という単語とオフィスという単語の組み合わせに違和感を覚えながら、藍は訊いた。

 「超高層ビルの最上階…って言いたいとこだけど、松本にそんなのないから…どこかの神社の中?」

 「あ、なるほど…」大きな神社の社務所がそのような統括組織の事務所を兼ねているというのは有りそうだ。

 「じゃあムラさんは四柱神社の社務所に潜入! なんだけど、そのムラさんからの連絡が途絶えて1ヶ月、心配したリセエンヌ探偵は巫女さんのアルバイトとして自分達も潜入するの!」先ほどと微妙に話が違っているが、無論藍はそんなことを気にしない。

 「ミイラ取りがミイラになりそうだね…」

 「藍ちゃん鋭い! 潜入した二人が見たのは変わり果てたムラさん!」

 「え…! ムラさん、死んじゃったの…?」

 「あ、そうじゃなくて、四柱神社で二人が会ったムラさんは、捜査そっちのけで神社の仕事に精を出してるの!」

 「え…と…、潜入捜査だから、信用を得るためにそうしてるんじゃないの…?」

 「二人はそう思ってムラさんに聞いてみるんだけど、ムラさんは捜査する気をすっかりなくしてるみたいなの。『陰謀と思ったのは自分の勘違いだった』って。あからさまにアヤシいと思った二人はバイトしながら周辺を探ってみるんだけど、何の手がかりもない」

 「………」そんなに空振りならば潜入を切り上げたいところだが、お金をもらって働いている以上、途中で投げ出す訳にはいかないな、と藍は考えた。

 「バイトに入って一週間、何の収穫もないまま年末を迎えてしまい、焦る二人に、ついにムラさんから連絡が!」

 「……」どのような連絡なのか。ついに捜査が始まるのか、それとも…!

 「待て次号!」

 「え…! 気になるよ…」

 「え、そう?」碧はニンマリと笑って、

「じゃあちょっとだけ!」いつかと同じことを言った。

「大晦日の朝、碧が家の郵便受けを見に行ったら、いつもムラさんが使う茶封筒が入ってるの。宛名とかは何も書いてなくて、中にメモが一枚。これもいつも通り。急いで読んでみると、『今、四柱神社で進められている計画について説明したい。今日、仕事が終わったあと少し時間を取ってもらいたい』って! 碧はすぐ電話で藍に伝えて、二人で四柱神社に出勤。一日忙しく働いた後、ムラさんと三人で想雲堂へ」

 「大晦日でも営業してるの…?」

 「うをっ! そっか! まあ営業してるってことで! そこでムラさんが話したこととは…!待て次号!」ちなみに、大晦日も元日も営業している。

 「うん……」続きを聞きたいが、二度せがむのは悪い気がして、これ以上は言わないことにした。

 「あっち見に行こ!」碧が御手洗の池の向こう側を見て言った。視線の先には鳥居が見えている。恐らく昨日車窓越しに見たのはあれだろう。

 「うん…」藍が応えると同時に碧は歩き始めた。

 手を引かれるまま社殿の横を通り過ぎ、境内を出る。朱塗りの鳥居の下で碧が立ち止まったので、藍は周りを眺めた。

 正面には、幅員数mの道路を挟んで門型の鉄枠が立っている。ちょうど今居る鳥居と同じくらいの高さと幅だ。ほぼ同じ構造の鉄枠を、自宅から数百m離れた住宅街で見たことが有るが、何に使うものか見当がつかない。鉄枠の向こうは道路で、数十m向こうで二手に分かれているようだ。

 左斜め前には駐車場、その奥に公民館らしい建物、さらにその左に隣接して体育館のような建物。先ほど保育園の方から見た体育館(仮)だ。

 右を見てみると、まっすぐ道路が延びている。恐らく、昨日の朝、そちらの方から鈴音の祖母の車に乗ってやって来て、神社の角を掠めるようにして今正面に見えている道の方へ曲がり、その先の二又を左へ行ったのだろう。

 「この鳥居は色塗ってあるね!」

 「あ…そうだね…」ここに到るまでの木造建築は全て木肌が剥き出しであったが。

 「鳥居は赤い方が神社って感じがするね!」

 「うん…そうだね…」

 「昨日、この道通っていったんだよね?」碧も、藍と同じことを考えたようだ。

 「うん、多分…」

 「あれ何かな? 時々見るけど」正面の鉄枠を指す。

 「私も分からなくて…」

 「うちから藍ちゃん家に行く途中にもあったよ! ちょっと回り道だけど」

 「うん…見たことある気がする…」

 「謎だね!」

 「うん…」

 「気になるー!」

 「うん…」正直なところ、全くどうでもよかったのだが、碧がこれだけ興味を示すと、自分も気になってくる。

 と感じていると、また碧に手を引かれて我に帰る。碧が向きを変えたようだった。

 「あっ、道祖神!」

 碧は鳥居の足元付近を見ているようだ。ちょうど碧の身体に隠れて見えないので、半歩前に出た。

 岩に夫婦の姿が彫られているのを想像したが、「道祖神」の文字が刻まれているだけだった。

「でも字だけだと手抜き感あるね…」

 「うん…」大きく太い字を深く彫ってあるので実際には手間がかかっただろうが、残念ながらそう見えない。

 「外一周しよ!」

 「うん…」

 碧は公民館方面に歩き出そうとした。が、四分の一歩ほど踏み出しただけで止まり、

 「あ! 早速さん!」と言ってすぐ横の玉垣を指差した。

 「あ、本当だ…」玉垣を構成する石柱の一つに、『農林大臣早速整爾』と刻まれている。

 「仙石さんも!」

 「うん…」その右隣の石柱に『鐵道大臣仙石 貢』の名。

 「さっき書いてあったのこれだね!」

 「うん…」

 「じゃあこの辺の名前彫ってあるのは大正時代の人なんだね」

 「うん…」

 「なんかスゴいね! 百年以上前の、全然有名じゃない人の名前が残ってるんだね」

 「あ…そうだね…」言われてみれば確かに。地元の名士なのかも知れないが、現代にまで名が伝わる人ではない。

 「よし! わたし達も将来玉垣に名前彫ってもらお!」

 「え…? 私も…?」

 「うん! 隣に並べてもらお! お墓と違って生きてるうちに見れるし!」

 「あ、うん…そうだね…玉垣作ってくれるといいね…」

 「ね! 保育園の横ならまだ場所空いてるし!」

 「うん…」

 「でもわたし達が就職するまでは待ってもらわないと!」

 「うん…」実に都合のいい話をしているが、関係者が聞けば悪い気はしないだろう。

 「行こ!」

 「うん…」

 二人は鳥居を潜って舗装路に出、左手の玉垣を眺めながら歩いた。

 「なんか、百年も経ってるって思えないね」

 「うん…」石の角は少しとれているが、刻まれた字の輪郭はくっきりしている。

 「古代エジプト人が色々石に彫った理由が分かったよー」

 「うん…」

 「地球で一番長持ちする素材かな?」

 「かも…」

 「向こう、やっぱり学校っぽいね」話題が変わった。

 二人はちょうど神社の角部分に居て、藍は玉垣に沿って左に折れようとしていたのだが、碧はそのまままっすぐ進んだ。

 「え…うん…」手を引かれながら藍は応える。

 二十m四方ほどの駐車場の向こうは運動場のようで、その手前に金網が立っている。

 一台も車両の無い駐車場を横切って行くと、体育館の奥にいかにも校舎という外観の建物が見えてきて、ここが学校であることを藍に確信させた。

 金網の傍まで来てみると、やはりその向こうは運動場だった。今日は運動日和だが、全くの無人だ。

 金網前に二、三秒佇んだだけで碧は踵を返し、また玉垣の角の方へと向かって歩き出す。そしてすぐ、

 「あれ? あそこ段差があるね」と前方に人差し指を向けた。

 「え…うん…」端から七本目の石柱で一旦玉垣が途切れ、数十㎝の隙間を空けてまた玉垣が延びている。そして、その隙間を境に七、八十㎝ほど玉垣が低くなっている。碧の言う段差とはこのことであろう。

 「右側の玉垣は後から付け足したのかな?」

 「うん…そうかも…」

 「見てみよ!」

 「うん…」応える前に碧は歩を速めている。

 「やっぱりそれっぽいね。こっちは島立村で、こっちは若松市…って、若松ってどこ?」

 「え…どこかな…? 会津若松は聞いたことあるけど…」

 「長野県じゃないよね?」

 「うん…福島県…」過去、若松市を名乗った自治体は福島県だけでなく福岡県にも在ったのだが、藍はそれを知らない。

 「遠いね! そんな所の人がお金出したんだね」

 「うん…この辺の出身だったのかな…」

 「そうだね! 福島行って出世したんだね!」

 「うん…」

 「ここ付け足したってことは、向こうに付け足す可能性もあるよね!」保育園の方を指差す。

 「うん…そうだね…」

 「増築情報を逃さないようにしないと!」どこが気に入ったのか、碧は随分とこの神社に入れ込んでいる。

 「うん…そうだね…」藍にはさほど特別な場所とは思えないが、碧と並んで名を刻まれるというのは魅力的だ。

 「桑名市…『その手は桑名の焼き蛤』の桑名?」

 「うん…多分…」

 「何県かな?」

 「さあ…」

 「後で調べよ! 松本市里山辺区…」碧は玉垣に刻まれた地名を読みながら歩く。

「三之宮ってどこかな?」

 「この辺かな…? 鳥居に信州三ノ宮って書いてあったから…『市』って書いてないし…」

 「あ、そうだったね! これも『荒井』だけだね」

 「うん…渚の隣の駅、信濃荒井だし…」

 「じゃ、きっとそうだね! 松本…松本…松本…松本…松本、あっ、縄手! …おお! 東京も! 松本…南安曇郡穂高町…ってこの玉垣も古いのかな? 穂高町だって!」

 「うん…」藍も、穂高町という名は初耳だ。穂高という駅が在ることは知っているが、確か安曇野市だったはず。

 「町区…大庭! やっぱり近くだね!」

 「うん…」

 「北安曇郡池田町…上伊那郡小野村…三之宮…松本…大庭…松本…大庭…土浦市…ってどこだろ?」

 「さあ…」

 「東京都渋谷区…名古屋市…松本…わ! 相生市! 何県かな?」

 「兵庫…」

 「へー! さすが藍ちゃん!」

 「……」先日地図帳を見ていたら、偶然『相生』の字を発見しただけである。もっとも、碧の姓が相生でなければ記憶に残ってはいなかっただろうから、そういう面から見れば『さすが藍』と言えるかも知れない。

 「相生の意味も教えてもらったし!」

 「……」相生の意味は碧に会う前から知っていた。

 「町区…松本…静岡市…けっこういろんな所から来てるね!」

 「うん…」閑古鳥が啼いているし、さほど特別感も無い神社だと思ったが、昔は賑わったのだろうか。

 「ここって年末年始巫女さんのバイトあるかな?」玉垣の端まで行ったところで話題が変わった。

 「え…なさそうだけど…」年末年始でも人がたくさん来るとはとても思えない。

 「うーん、やっぱり? 近いしいいなーって思ったんだけど!」

 「うん…」確かに、四柱神社や深志神社よりも自宅の近くに位置している。

 「て言うか、そもそも巫女さんのバイト募集ってどうやって見つけるんだろ?」

 「え…社務所に張り紙してあるとか…」

 「となると、いろんな神社巡らないといけないね!」

 「え…うん…そうだね…」

 「何かこう、長野県神社庁のウェブサイトに募集情報がまとまってたりしないかな?」

 「え…どうかな…」有りそうな気もするし、無さそうな気もする。

 「調べとこっと! 藍ちゃん、今何時? おなかすいてきちゃった」

 藍は腕時計を見た。

 「あ…ちょうど十二時になったとこ…」見た瞬間の秒針の位置は五秒だった。

 「お昼にしない? ここ誰もいないし、あそこの木の根っこに座って」碧は、二之御柱の向こうに立つ大木を指した。腰掛けられるくらいの高さにまで根が顔を出しているのを、藍も覚えている。

 「うん…あの、敷物あるよ…」

 「おお! さすが藍ちゃん、気がきく! じゃあ根元に敷いて食べよ!」

 「うん…」

 木の傍まで行くと、

 「わー、スゴいねー、この穴」と言って根元を見た。幹にかなり大きな(うろ)が出来ているのである。

 「うん…」

 「わたしが隣の保育園に通ってたら、絶対この中入ってるよ~」

 「うん…」確かに、幼稚園児くらいなら何とか一人這って入れそうな大きさの穴だ。そして、碧なら入ってみようとするだろうな、と思う。

 「これ二人入れる大きさだったら、絶対秘密基地になってるよね!」

 「え…うん…そうだね…」外から丸見えなので秘密とは言えないと思うが。

 「あー、藍ちゃんと入りたかったー!」

 「………」幼児でも二人入ることは無理そうに見える。入れたとしても身動きはとれないに違い無い。秘密基地を楽しむことは出来なさそうだ。

 「あ、ごめんごめん。敷物敷こ!」

 「うん…」

 碧は敷物の入った袋を背嚢から出すと、

 「お願いします!」背嚢を藍に差し出してきた。

 「はい…」背嚢を受け取り、碧が敷物を出すのを待って手を差し出す。碧は意図を察して袋を藍に返し、藍が背嚢に仕舞う間に敷物を木の根元に広げた。

 靴を脱ぎ、敷物の上に上がる。ちょうど太い根が二本、洞を挟んで延びているので、二人は根にもたれるように向かい合って座った。雲が少し晴れてきたらしく太陽が強い光を投げかけているが、碧の背後に聳える大木の葉がそれを遮ってくれている。実に快適だ。

 藍はまず碧のおかずを容れた弁当箱から蓋を取り、碧の前に置いた。

 「ウヒョー! 今日もおいしそう!」

 「ありがとう…」

 「ありがとうはこっち!」

 「……」急いで残り二つの弁当箱も開け、それぞれ碧と自分の前に置く。そして碧に箸箱を渡し、自分も箸を取り出すと、

 「いただきます!」合掌した碧が間髪入れず発した。

 「いただきます…」

 焼き魚をほんの少し口に入れただけで、藍は箸を置き、水筒を鞄から取り出した。碧を待たせないためにとりあえず「いただきます」をし、これから茶を出すのである。自分が箸をつけないと、碧が申し訳無さそうな顔をするからだ。焼き魚を口にしたのは、言わば方便。

 水筒の外蓋と中蓋をはずして敷物の上に置き、まずは外蓋に水筒から茶を注ぐ。碧用の湯呑みとして使うのだが、それはこちらの方が大きいからだ。

 これをすぐ碧に渡したいところなのだが、二人分が揃うまで碧が手を付けないことはよく分かっている。藍は中蓋に茶を注いだ。

 水筒の中栓を閉じて敷物の上に置くと、漸く碧が茶を取り、藍は心中で一息ついた。

 「う~ん、今日もおいしい~!」玉子焼きを口にした碧の評価がいつも通りでほっとする一方、同じ水準のままではいけないとも思う。昨日食べた弁当と自分が作っている弁当との間にかなり差を感じたので、少しずつでも腕を上げてあの水準に達したい。

 実は、昨日の弁当で取り入れられそうなことを早速実行してみた。碧の評価はどうだろうかと考えていると、

 「あれ? 味付け変えた?」焼き魚を口にした碧が訊いてきた。

 「え…! あ、うん…」急に訊かれて狼狽えた後、喜びが胸の裡に拡がってきた。評価はまだ下されていないが、少なくとも違いを出すことには成功したということだ。

「昨日の焼き魚、おいしかったから…」自分の味付けよりかなり塩味が薄かったのだが、それが寧ろ魚の味を際立たせていたように思う。藍にとって、目から鱗がとれるような経験であった。塩の量を加減するだけなので昨日の今日でも出来るだろうと踏んで実行してみたのだが、ぶっつけ本番という自信は無かったので、塩加減を変えて三切れ作り、一番薄味のものを採用した。不採用の二切れは青井家の朝食の一品となった。

 「あ、やっぱり! 昨日のに似てるなーって思った!」

 「そう……あの…どうかな…?」自分としてはまずまずの再現度だと思うのだが、碧の審判や如何に。

 「おいしいよ! いつもの魚もおいしいけど、今日のもおいしいよ!」

 「…ありがとう…」藍は、ほっとしたような、肩透かしを食らったような、複雑な気分だ。もしかしたら、碧は自分ほど薄味好みではないのかも知れない。

 「ありがとうはこっち! 藍ちゃん、昨日の焼き魚気に入ったんだね」

 「うん…魚の味が引き立ってて…塩加減だけであんなに変わるんだなって感心したよ…」

 「そっかー。さすが藍ちゃん! わたし何も考えずに食べてたよー」

 「え…と…それでいいと思うよ…」考えなくとも美味しいものは美味しいと感じられる。そして藍は、美味しいと感じてもらう以上のことは求めない。

 「おお~、藍ちゃんに言われると安心! よーし、何も考えないぞ!」

 「……」恐らく藍の言いたいことは伝わっていて、碧も同意してくれたのだろうが、その表現はどうかと思う。

 「今気づいたんだけどね」

 「うん…」何だろう。何か好みに合わないところが有ったのなら、すぐに改善せねば。

 「ワンコローズ、ヒマ死にしてないかな?」

 「うん…そうだね…」別の話だったか。そして、それは自分も気になっていたことだ。梨乃が居なくて寂しがったり退屈したりしているのではないだろうか。

 「梨乃さんに連絡して、散歩させてもらお!」

 「あ…うん…!」それはいい考えだ。少しはワンコローズの退屈凌ぎになるだろう。

 「じゃ、ごはんの途中だけどちょっと失礼して」碧は箸の先を弁当箱の縁に乗せて置き、ポシェットから電話を取り出した。

 少し考えながら三十秒ほど操作して、碧は電話をポケットに仕舞った。

「返事来るといいね!」

 「うん…!」

 「では改めて」碧は箸を取った。

「いただきます!」

 「いただきます…」何となく、自分も唱和しないといけないような気になった。

 碧はいつも通り一口ずつ全品を食べていく。順番はその時次第だが、必ず玉子焼きが最後だ。いつからそう定まったのかは覚えていないが、遅くとも連休前の月曜日にはそうしていた。

 一回りそれに見入ったところで、藍ははっと我に返った。碧が食べるのを眺めていると、つい箸が止まってしまうのだ。ただでさえ自分の方が食べるのが遅いのに、箸が止まっていては余計に待たせてしまう。いけないと思ってはいるのだが、これも昼食時の決まり事のようになってきている。

 藍は、箸を止めないよう強く意識しながら碧を眺めた。

 そうして静かな努力をしている間に、碧はどんどん食べてゆく。いつも通り、とても美味しそうに、とても楽しそうに。藍にとってはそれを眺めるのが至福の時間である。

 二周したところで碧は茶を取り、これもうまそうに飲み干した。碧はどちらかというと猫舌なのだが、程よく冷めていたようだ。

 藍はすぐ水筒を手にし、空になった外蓋に注ぎ足す。

 「ありがとう!」碧は手を出さず、それだけ言って三周目に入る。

 「ううん…」それを見て、口元が自然と綻ぶ。藍は出来る限り碧の世話を焼きたいので、そうさせてくれるのが嬉しいのである。最初の一週間ほどは自分でやるよと言っていたのだが、藍が一度も譲らなかったので、大人しく給仕される方がよいと判断したようだ。

 三周で碧は弁当箱を空にしてしまい、また茶を口にした。一口だけ飲んで、

 「いただきました! 今日もおいしかった~!」と両手を合わせる。

 「ありがとう…」お粗末様でしたと言って碧に怒られてから、藍はありがとうと言うようになった。美味しそうに食べてくれてありがとうの意である。

 「それこっち!」といつもの遣り取りをしてから、

「いやー、藍ちゃんは毎日進歩してスゴいねー」感心した様子で碧は言った。

 「え…?」全く予期せぬ言葉だったので、誉められているのだと理解するまでに少しの間を要した。

 「だってこの一ヶ月で新作何回も入れてきてくれてるし。昨日食べたのもう再現してるし」

 「魚は、塩味だけだったから…ほかは分からなかったよ…」何を味付けに使ってあるのか、推測は出来るが確信は持てない。

 「それでも即再現はスゴいよ! わたしホントにシアワセ者~」

 「ありがとう…がんばるね…」そんなに言ってもらえるとは、自分の方が幸せ者だと藍は思う。

 「よろしくお願いします!」碧はぺこりと頭を下げた。

 藍も慌てて頭を下げる。視線を下げたことでまた箸が止まっていたと気づき、慌てて件の焼き魚を取った。ちなみに今日は鯵である。

 それから藍が食べ終わるまで、二人は黙って過ごした。

 「碧ちゃん、お茶は…?」箸を置いてすぐ、藍は訊いた。自分が食べ終わる少し前に、碧が茶を飲み干していたからである。

 「いただきます! ありがとう!」碧はすぐに水筒の外蓋を差し出してきた。

 外蓋に茶を移して碧に渡し、次いで中蓋に注ぐ。水筒は内容量一?の大きなものなので、これでもまだ三分の一ほどを残している。始業式の日は容量六百?の水筒を持ってきていたのだが、二日目からは二人分の弁当に合わせて、青井家で最も大きいこの水筒が活躍することとなった。

 二人して一口茶を啜った直後、

 「お? 梨乃さんから返事かな?」と言って碧がポケットから携帯電話を取り出した。

「当たり! 『よろしくお願いします』だって! お()()さまに連絡しといてくれるって! やったね!」

 「うん…!」実に楽しみだ。

 「じゃ、片付けよっか!」

 「うん…!」

 二人は茶を飲み干した。

 「いただきました!」

 「いただきました…」

 「今日もおいしかった~! ありがとう!」

 「ううん…よかった…」

 碧が水筒の蓋を両手に取ったので、藍は弁当箱を片付けることにする。

 碧は後ろを向き、勢いよく手を振って中に残った水滴を飛ばすと、向き直って蓋を水筒に取り付けた。

 「ここお弁当食べるのにいいね! また来よ!」

 「うん…」確かに快適に弁当を楽しむことが出来た。信仰の場であるから不敬なような気もするが、碧の言う通り神様は人気商売なのだから、無人よりは好いはずだ。

 藍が弁当箱を巾着に仕舞い、その巾着を背嚢に仕舞うと、碧が水筒を差し出してきたのでそれも背嚢に仕舞う。

 それから二人して敷物の上から退()いて靴を履き、敷物を(はた)いて畳んだ。

 「忘れ物ないよね!」言いながら、背嚢を背負う。

 「うん…」

 「じゃ行こっか」

 「うん…」

 藍が応えるとすぐ碧が手を繋いできた。

 碧に手を引かれて狛犬の前を通り、鳥居に向かう。

 鳥居を(くぐ)ると、碧が藍の周りを左回りに巻くようにして反転した。手を繋いだままなので、藍もその場で向きを変える。

 「おじゃましました!」碧がお辞儀したので、

 「お邪魔しました…」慌てて藍も頭を下げた。

 再び反転して歩き出し、石段を降りて参道を進む。来る時は寄り道だらけで二十分ほどもかけた道だが、まっすぐ歩くと二、三分で自転車まで辿り着いた。

 すぐに碧が自転車を燈籠の裏から舗装路へ引き出してくる。

 「乗って乗って~」といういつもの流れで藍は荷台に座った。背嚢は、既に碧が前籠へ投入している。

 右頬を碧の背に当て、腰に腕を回すと、自転車は静かに滑り出し、来た道を戻り始めた。

 滑り出しが下り坂なので、最初の一漕ぎだけで二、三十mも進む。藍の目の前を幾つかの燈籠が通り過ぎてゆき、大鳥居の傍まで来た時、大型トラック同士でも楽にすれ違えそうな幅広い道が大鳥居のすぐ向こうを通っているのが見えた。

 往路でも見ていたはずであるが、こんなに広かっただろうか。この道は程無く堤防に突き当たっていたような記憶が有るので、鳥居を境に先細りになっているのかも知れない。広い道路なのに自動車が一台も見当たらないのも、それならば頷ける。というような思考が藍の脳裡を掠めた時、

 「ここで曲がるねー」碧が予告してくれた。

 「うん…」右腕に少しだけ力を入れて遠心力に備える。

 しかし自転車はごくゆっくりと、大きく曲がったので、予測したような荷重は掛かってこなかった。

 曲がりきると自転車が加速し始めた。今走っているのが幅広の歩道で、しかも路面の凹凸が小さいため、多少速くても安心して走行出来るのだろう。藍の尻にもあまり振動が入ってこない。

 二、三秒で自転車が定速走行に入り、藍は腕の力を抜いた。

 「何か人いないねー」

 「うん…」道の両側には住宅が並んでいるのだが、道には人っ子一人居ない。

 「あれ…? もしかして、藍ちゃん()出てから誰にも会ってない?」

 「え…と………そうかも…」神社までの道々がどうだったかは記憶に無いが、大鳥居を潜ってから誰にも遇っていないことは確かだ。

 「すごいね! そんなことあるんだね!」碧は何だか愉快そうである。きっと、「長時間誰にも遇わなかった記録」とでも捉えているのだろう。

 「うん…」藍も何だか愉しくなってきた。それに、記録のことを措いても、碧と二人きりの時間が長く続くのは藍の強く望むところだ。

 「愛妻と二人きりの時間…梨乃さんが帰ってきたら自慢しようっと!」

 「え……」梨乃を仲間はずれにして喜んでいるようで、悪い気がする。無論、碧にそんなつもりの無いことは分かっているのだが。

 「きっと地団駄踏んで悔しがるね!」

 「………」それは有るまい。梨乃がそんなことで悔しがるとは思えない。それに、梨乃でなくとも実際に地団駄を踏んでいるところなど藍は見たことが無いし、見たという話を聞いたことも無い。

 「梨乃さんもう飛行機乗ってるのかな?」

 「かな…?」マルタからの帰国は直行便ではなく、中東の、確かドバイという都市で一泊して乗り継ぐのだと言っていた。帰国が明日だから、きっと今頃はそのドバイに向かっていることだろう。もしかしたらもう着いて一泊しているかも知れない。

 「ドバイって暑いんだろうね!」

 「うん…多分…」中東=砂漠 ∴暑いという漠然とした印象しか無いが。

 「すっごい高層ビルがあるんだよね!」

 「そうなの…?」藍は辛うじてドバイという都市名だけを知っているという程度だ。

 「うん、スカイツリーより高いんだって。800m?だったかな?」

 「松本の標高より高いね…」

 「おお? そうだね! 全然高いね!」松本駅前で標高約六百mだ。

「現代のテクノロジースゴいね!」

 「うん…」山より高い建物というのが今ひとつピンと来ないが、とにかく凄いということは分かる。

 「でもデーラボッチはそれより全然大きいけどね!」

 「うん…そうだね…」先ほどの話では身長六万mという計算になっていた。

 「どんな所だろうね? ドバイ」

 「うん…」

 「写真撮ってきてほしいね!」

 「うん…!」

 「何かね、梨乃さんが今すんごい遠くにいるって全然実感ないね!」

 「うん…」碧が連絡してから返事が来るまでの時間もいつも通り、いやいつもより早いくらいだ。学校に行っている時は授業と授業の合間にしか返事が来ないから、長いと一時間以上待つ。

 「現代のテクノロジースゴいね!」

 「うん…」空を飛ぶだけでも凄いと思うが、その速さがまた凄い。

 「わたし達が生きてるうちに月まで行けるようになるかも知れないね!」

 「うん…そうだね…」あと五十年もあれば現代の飛行機のような感覚で宇宙船が運航されるようになるのではないか。藍は宇宙開発についてよく知らないので何となくそう思うだけだが。

 「月まんじゅうとか静かの海せんべいとか『月に行ってきました』クッキーとか売るんだろうね、売店で!」

 「え……」そんな訳が無い、とは言えない。いや、もし月旅行が実現したなら、当然お土産は売られるだろう。饅頭や煎餅やクッキーは有力候補だ。

 「クッキーだったらムーンライトとコラボだね!」

 「あ…うん、そうだね…」なるほどと思うと同時になんだか可笑しくなり、藍はくすりと笑った。『ムーンライト』だから何の捻りも無い。だが、近所のスーパーで買える大量生産のクッキーと遠く離れた月というのが、藍の思考の中では全く結びつかなかったのである。

 「一緒に1箱15000円のムーンライト買お!」

 「高いね…!」

 「月だからね! スーパーリゾート価格!」

 「リゾート価格って…?」

 「スキー場とか行くと飲み物とか高いから!」

 「あ、そうなんだ…」藍は三歳くらいの頃に一度スキーに連れて行かれたことが有るだけなので、そんなことは知らなかった。

 「遊園地とかも!」

 「そうなんだ…」

 「あとね、何かで見たんだけど、南極基地でコーヒー一杯20ドルだったよ」

 「20ドル…!」

 「だから月だったら地上の100倍くらいするよ、きっと!」

 「うん…そうだね…」輸送費がいくらかかるのか皆目見当もつかないが、百倍でも安過ぎるかも知れない。では、

「月までの運賃いくらぐらいかな…」

 「うーん、今の飛行機とおなじくらいとして…2万キロで20万円として…月まで38万キロ…」

 「碧ちゃん、よく知ってるね…」20万円の部分は以前梨乃から聞いたが、月までの距離など桁すら知らなかった。

 「小っちゃい時に図鑑見て何となく覚えちゃったんだよねー。えーと、だから往復で…」

 「七六〇万円…」

 「二人で1520万! 高すぎて全然実感ない!」

 「うん…」全くである。

 「何年ぐらい働いたら貯まるのかな?」

 「さあ…」

 「むーん…………あ、そっか! 宇宙船会社に就職して仕事で乗ればいいんじゃない?」

 「あ、うん……倍率高そうだね…」

 「確かに! でも梨乃さんが社長だから大丈夫!」

 「あ、そうなんだ…」妄想なのでどんな御都合主義も罷り通る。

 「藍ちゃんが機長でわたしが副操縦士!」

 「え……」無理である。自分に宇宙船の操縦など出来る訳が無い。機長は言うに及ばずだ。荷物の管理係なら務まるかも知れないが。

 「よーし、これで月に一回月に行けるよ!」

 「え……そうだね…」まあ、妄想に異を唱える必要は無い。藍は、有り難く機長を拝命することにした。

 「月の次は火星だね!」

 「え……」地球から近い順で言えばそうであるが。

 「火星のおみやげはどんなのかなー」

 「え…と…何か赤いお菓子…?」火星の特徴というと赤いことくらいしか思い浮かばなかった。

 「赤いお菓子……りんごあめ! あ、普通のあめでもいいか…じゃあ『火星キャンディ』!」

 「うん…」赤い飴なら今でもそこらで売っているし、それに飴は日保ちもする。

 「あ! あと、火星人形(がた)のコンニャクとかどうかな?」

 「…蛸みたいな…?」火星人と言えば蛸と海月の中間のような形状と相場が決まっている。

 「うん! コンニャクぷるぷるだから!」

 「うん、そうだね…」火星人を表現するには最適な食材であろう。しかも日保ちする。

 「飴とコンニャクのセットで10万円かな!」

 「高いね……」

 「割合的にそんな感じと思ったんだけど、確かに高いね……よし、これはツアー代金に含まれるってことで!」

 「うん…」運賃に上乗せするのであろうから結局は高いのであるが、お土産単体で十万円では誰も買わないだろう。妥当な案かも知れない。

 「火星の次は木星って言いたいとこだけど、ちょっと遠すぎるかなー」

 「うん…どれぐらいかかるのかな…」

 「えーと、火星探査機が半年くらいだったけど、木星は知らないなー」

 「火星でも往復一年かかるんだね……」蒟蒻でもそんな長期間は保たないのではないか。飴は大丈夫かも知れないが。

 「妊婦さんが乗ったら確実に途中で生まれるね!」

 「あ…うん…そうだね…」

 「万一のために助産師さんも乗っとかないと! 『お客様の中に助産師さんはいらっしゃいますか?』て言っていなかったら大変だもんね!」

 「うん…そうだね…」藍は、母親を含む経産婦から直接分娩の経験談を聞いたことが無く、出産は大変らしい、ということしか知らないが。

 「! て言うか、出発した後にできちゃって帰る途中に出産もありえるね!」

 「え…うん…そうだね…」十月十日というから計算上は有り得る。そんなことが起こるとは藍には思えないが…。

 「助産師必須!」

 「うん…」

 「! 一年梨乃さんに会えないのかー…いや梨乃さんも乗れば…いやいやそれならワンコローズとクロも一緒に…」

 「うん…」梨乃と会えないということなら実感を持って考えられる。が、

「中で散歩できるかな…?」宇宙船の大きさがよく分からない。

 「うん! 豪華客船ぐらいの広さだよ!」と言われても、豪華客船の大きさも藍にはピンとこない。

 「え…と、じゃあ沢山乗ってるんだね…」

 「うん! 乗客だけで1000人くらい! 乗組員が100人ぐらい?」豪華客船と同程度の乗組員が必要だとすると乗客数の三、四割の人数となるので、百人では見積もりが甘過ぎるが、門外漢であればそんなものだろう。

 「多いね…!」以前に乗った福岡行きの飛行機と同程度の乗客百人くらいを想像していた。

 「うちの学校より多いよ!」

 「うん…」松本高校の生徒数は、単純計算で四〇人/学級×八学級/学年×三学年=九六〇人だ。教師と他の職員も、計百人は超えないだろう。

「食料もたくさん要るね…」

 「ね! 野菜は船内で栽培だね!」

 「うん…」一千人の一年分などとても積みきれまい。

「月までどれぐらいかかるの…?」

 「えーと、確か4日…」アポロ十一号の実績が約一〇二時間であったという。

 「そうなんだ…それなら我慢できるね…」実際、今日現在で既に十日以上梨乃に会っていない。

 「そうだね! でもせっかくだから一緒に行きたいね!」

 「うん…! そうだね…!」

 「月でボール遊びしたらアっちゃん喜びそう!」

 「宇宙服着て…?」藍の脳裡では、白い宇宙服に身を包んだアスランがサッカーボールに飛びついている。が、同時に、アスランはそれで喜ぶのだろうか、との疑問も覚える。宇宙服を着ていては、ボールを咥えることが出来まい。

 「おお! 屋内のつもりだったけど、そうだよね! せっかく月なんだから宇宙服着て外で遊んでみたいね!」

 「え…屋内…?」それでは地球と変わらない。

 「うん! 重力小さいからボールが大きく弾んで楽しいかなって!」

 「あ……!」重力に差が在ることをすっかり失念していた。同じ妄想でも自分のはかなり子供っぽい。藍は恥ずかしくなった。

 「ラブ子もクロも宇宙服で外行こ! 絶対楽しいよ!」

 「うん…!」月にまで行っておいて、する事は先日のアルプス公園や沢村公園と同じである。が、もしそんなことが本当に出来たなら、一生の思い出になるだろう。我知らず、藍は頬を緩ませた。

 「宇宙服だとアっちゃんボールくわえられないけどね!」

 「うん…」碧も自分と同じ事を考えていた。

「ラブは鼻で押すからいつもと変わらなさそう…」

 「え? 何なにそれ! ラブ子ボール遊びするの?」

 「うん…ボール転がすと鼻で返してくるよ…」

 「えー! 知らなかった! え、それいつ?」

 「あがたの森の芝生で…碧ちゃんがアスランにボール蹴ってあげてた時に、梨乃さんが…」

 「あ、ナルホド…。ラブ子そんな技持ってたのか…」

 「うん…上手だったよ…」

 「それなら宇宙服着ててもできそうだね!」

 「うん…」ラブは器用だということだから、きっとすぐ出来るようになるだろう。

 「クロはまあアっちゃん追っかけてればいいかな」

 「うん…そうだね…」クロにとっては、アスランと一緒なら何でも楽しいであろう。

 「行きたいね! 月旅行!」

 「うん…!」

 「まずは梨乃さんに会社作ってもらわないと!」

 「え……」

 「いやその前に設立資金が必要か…」

 「え…うん…そうだね…」

 「うーん、どうやって稼ごうかなー」

 「…どれぐらい要るの…?」宇宙船の建造にいくら掛かるのかなど、想像したことすら無い。

 「えー…1兆円くらい?」碧も、何か根拠が有ってこの数字を出した訳ではないだろう。

 「高いね…」数字が大き過ぎて全く分からないが。

 「うまい棒1000億本分だもんね!」

 「え…うん…そうだね…」余計に分からなくなった。

 「どうやったら1兆円稼げるかなあ」

 「え…さあ…」

 「うーん、藍ちゃんのレアチーズを売りまくって…!」

 「え…!」そのように評価してもらえるのは有り難いが、店で売れるようなものではないと藍は思う。

 「1個あたり利益100円として、100億個売るのか…爆発的大ヒットでも日本だけじゃ厳しいね…」

 「うん…」売る前に、そんなに作れないのは明らかである。

 「や、その前に設備整えないとそんなに作れないな…」碧もすぐそこに気づいたようだ。

 「うん…」

 「じゃあまず設備買って…要るのって混ぜる機械?」

 「うん…冷蔵庫も…」

 「あ、そっか。じゃあ両方合わせて100万円で! 貯まるまでは手でがんばろう!」

 「え…うん…一万個売らないといけないね…」

 「そうだね! 藍ちゃん、無理なく毎日2?ぐらい作れるかな?」

 「え…うん…出来ると思うけど…」実際やってみないとどれぐらいまで作れるのか分からない。もしかしたら、慣れるともっと大量に作れるようになるかも知れない。

 「1杯1合として1日11杯だね!」

 「うん…」ということは、碧はゼラチンを入れない状態のレアチーズを想定しているようだ。それならば手間は多少減る。

 「ざっくり900日だから…二年半くらい…」碧は毎日売るつもりらしい。

 「うん…」

 「道のり長いね」

 「うん…」

 「月旅客機ができるまでまだ10年はあるからがんばろう!」

 「え…うん…」そのためには指数関数的に生産・売上数を増やさなければならない。

 「平行で梨乃さんにも稼いでもらお!」

 「うん…」梨乃が会社を設立するという話だったから、梨乃に頼るのはまあいいだろう。

 「梨乃さんがハリウッド女優になって」

 「え……」

 「毎年100億円稼ぐ」

 「………」

 「リセエンヌ探偵にも出演して爆発的大ヒット」

 「何の役で出るの…?」前回松本城と開智学校の間でその話をした時にも気になっていたことだ。

 「うーん…リセエンヌ探偵の先輩とか…?」

 「……」配役だけを考えるなら無難なところだが、リセエンヌ探偵の話としては根本的に問題が在る。

 「や、でもそれだとわたし達の出番ナッシングだね…」

 「うん…」間違い無く、梨乃だけで解決してしまう。

 「うーん、じゃあ警視総監とか」

 「あ、なるほど…」それもいいと思う。紫も刑事役だ。

 「総理大臣とか」

 「……」それは何となく藍の思っていた感じと違う。

 「や、いっそのこと事件の黒幕とか…」

 「うん…」それも藍の印象とは違うが、黒幕なら何となく納得出来る。

 「スタッフロールで役者の最後に名前が出てくる役だね!」

 「スタッフロールって…?」

 「映画の最後にスタッフの名前がずらずら出てくるやつ!」

 「あ、そうなんだ…」映画を見たのは物心つくかつかないかという頃のことなので、名前がずらずら出てきたことすら覚えていない。

「でも最後なの…?」

 「うん、決まりはないと思うんだけど、重要な脇役は一番最後ってこと多いよ」

 「そうなんだ…最後が座長っていうのと同じ…?」先日梨乃が説明してくれた、歌舞伎の看板のことである。

 「あ、そうだね! ていう訳で、わたし達にも出演料と著作権料入ってくるよ!」

 「え…うん…」妄想であっても自分が映画に出演するなど烏滸がましいし、恥ずかしい。

 「それでも1兆円にはだいぶ足りないな…」

 「うん…あのね…」

 「お! 名案?」

 「会社じゃなくてお客さんだったら、その金額で行けないかな…?」

 「おお? それは盲点! 多分余裕で行けるよ! 3人とワンコローズで3000万かな! これだったらレアチーズだけで稼げそうじゃない?」

 「え……」全然稼げるとは思えない。三十万個売らなければならない計算だ。

 「機械買ったら1日100個作れるとしてー、ざっくり八年ちょい?」

 「うん…」計算の上ではそうだ。

 「ハリウッド梨乃さんに頼らなくてもいけるね!」

 「え…うん…」計算の上ではそうだ。

 「ハリウッド梨乃さんがいたら年300往復できちゃうね! ほぼ毎日出航だね!」

 「え…往復八日かかるんだよね…?」

 「おお! 使い切れないね! ハリウッド梨乃さんスゴい!」

 「うん…」

 「月旅行できるようになってほしいね!」

 「うん…!」

 数秒後、自転車は赤信号に止められた。渚1丁目交差点の南西角だ。碧はポシェットから携帯電話を取り出すと、

 「お、やっぱり来てる。…お義母さまに連絡ついて、いつでもOKだって!」

 「うん…!」

 「散歩どこ行こっか」

 「え…と…公園…?」

 「うん! サッカー少年ズ今日もいるといいね!」

 「うん…そうだね…」居ればワンコローズは大喜びであろう。

 「学校の方も行ってみたいね」

 「あ…うん…」

 「いやいっそのこと校庭で散歩とか…!」

 「え……」流石に誰かに咎められるだろう。

 「大丈夫! 校則に『犬の散歩禁止』ってないし!」

 「え…うん……」そんな校則の有る学校など存在するのだろうか。

 「部活やってたらちょっと入りづらいけど」

 「うん…」やっていなくても入りづらい。いや、ワンコローズと一緒でなくても、制服を着ていたとしても、休日に用も無く学校に入るのはかなり抵抗がある。

 「飲み比べツアーも行きたいけど、ちょっと遠いかな」

 「うん…そうだね…」湧き水は城より南の方であったから、高辻邸からはけっこうな距離になる。碧やワンコローズは平気かも知れないが、自分はそうではない。足を引っ張るのが目に見えている。

 「それに、梨乃さんも一緒の方がいいし!」

 「うん…!」

 「たまゆら一気見の次の日がいいね!」

 「あ…そうだね…」

 「梨乃さんに言っとこ」

 「うん…」と言った時、自転車が動き出した。信号が青に変わったのだろう。交差点を渡りきると、

 「ちょっととばすね!」碧が告げた。梨乃の母とワンコローズを待たせているので、少しでも急ごうということであろう。

 「うん…」

 藍が返事をすると同時に自転車がぐいっと前へ出た。碧の腰に回した腕に少し負荷がかかる。

 自転車は二秒ほどで加速を終え、定速走行に移った。先ほどまでより少し速いくらいを維持だ。以前、高辻邸からツルヤへ向かった道を、あの時とは逆方向に進む。

 碧は恐らく通学路を使うつもりなのだろう。今は歩道を走っているため細かい段差が多く、思うように速くは走れていないはずだ。通学路ならば歩道は無いし車通りも少ない。

 「左曲がるね」しばらく走ったところで碧が予告した。

 「うん…」藍の目には、あまり大きくない橋と青信号、それに『巾上』と書かれた交差点名標識が見えている。なるべく止まりたくないので青信号の方へ向きを変えるのだろう。

 「と思ったけどちょっと危なそうだからやめときます」自転車は向きを変えること無く止まった。

 「うん…」藍の目の前に見えている橋は幅が狭く、しかも交通量は多い。橋の向こうも歩道は無いようだから、碧の判断は至極妥当だろう。

 程無く自転車が滑り出し、線路の下を潜って登ったところでまた止まった。この交差点を渡ればいつもの通学路まですぐだ。恐らくそちらに向かうのだろう。

 十秒ほどの停止の後、自転車はまた動き出し、交差点を斜めに渡った。この交差点の信号は歩車分離式なのである。

 藍の予測を裏切って、

 「左曲がるねー」交差点の中央付近で碧がまた予告し、斜めに横断した自転車は歩道に乗り上げてそちらへ曲がった。松本高校の西を通るこまくさ道路だ。この道を自転車で上って行くのは始業式の朝以来。

 あの時はもの凄く緊張して荷台に座っていた、と藍は思い返す。そして、今はそんなことをぼーっと考えながら乗っているのだと気づいて、一人可笑しくなった。自分のように運動神経が鈍い人間もこのように慣れるのだな、と不思議にも思う。それはやはり碧が操縦に気を遣ってくれているからだろう。漕ぐ時にほとんど左右に振らないし、曲がる時にもなるべく車体を倒さないようにしてくれる。初めて乗った時からそうなので忘れがちになってしまうが、改めて碧に対する感謝の念が湧いてきた。

 藍は右頬を少しだけ強く碧の背に押しつけ、

 「今日はこっちから行くんだね…」と訊いてみた。

 「今日休みの日だからお城の近く混んでるかなー、って。いつもの道、歩道ないからねー」

 「あ、なるほど…」藍はそんな事など全く考えていなかった。松本城は松本一の名所だから、休日には観光客が大勢訪れているだろう。そして、いつもの通学路は、城の真西に当たる部分が歩道の無い道路になっている。そこを通るのは危険が大きいということだろう。

 「だから今日はこっちからー」

 「うん…」藍は、碧の深慮に感心した。自分が碧の立場でももちろん気は遣う。なるべく安全な道を通ろうと考える。しかし、休日だから道路が混んでいるだろうというところまでは気が回らない。それと、歩道より車道の方が段差が少なくて運転自体は楽だから、そういったことを全て勘案して判断しているのだろう。

 そこから百mほどで自転車は女鳥羽川に架かる橋に差し掛かり、背中に涼やかな空気が当たった。今日は曇り気味で日差しは強くないのだが、それでも日向では少し暑さを感じる。

 「わ、風気持ちいい!」

 「うん…!」

 橋の長さが二、三十mほどなので風が当たったのはごく短い時間だったが、涼やかな余韻が少しの間背中に残った。

 それから商店街を抜け、二つの信号をうまく青で抜け、数分後にいつもの通学路に入った。普段と同じく、自動車も歩行者もほとんど居ない。

 「よーし! 今日もがんばるぞ!」

 「あ、うん…」坂の終点つまり学校前まで地面に足をつかずに登り切る挑戦である。始業式の日以降、自転車通学の日は欠かさず挑んでいるが、未だ達成されていない。

 藍は、碧がなるべく動き易いようにと、碧の腰に回した腕の力を緩めた。

 碧の腹筋に力が入るのを腕で感じると同時に、自転車がぐいっと前に出るのを全身で感じる。最初の一週間はこの加速について行けず、碧の腰にしがみついてしまった。その後の試行錯誤で予め碧の背に凭れ気味にしておくという技を覚え、加速時碧の動きを大きく規制してしまうことを避けられるようになっている。

 碧は加速を二、三秒で終え、そこからは定速で自転車を進める。この坂道は裾の方の斜度が緩く、碧は平地と同じような軽快さでペダルを回している。

 ばらの湯前を通過した少し先で、自転車はまた加速した。数十m先の信号が赤から青に変わったのだな、と藍は想像する。この坂道で唯一の信号だ。

 「蟻ヶ崎」と表示された信号の交差点を通過すると、碧は少しだけペダルの回転を緩めた。斜度が緩いうちはなるべく力を温存しておく作戦なのだろう。碧は毎回そうしている。

 碧が淡々とペダルを回し、自転車も淡々と進んで「とまれ」の標識の在る交差点を通過した。僅かに減速はしたが、車通りの少ない道なので碧も律儀に止まったりはしない。

 ここから坂道は斜度を上げる。何度もこの道を通ってそれを覚えている藍は、なるべく碧の動きを邪魔しないよう、腰に回した腕を可能な限り緩めた。

 すぐに碧が少し上体を前に傾け、漕ぐ足に力を籠める。ペダルの回転に合わせて車体も多少左右に揺れ始めた。

 今のところ、この挑戦に関して藍が出来るのはここまでだ。腕を完全に離してあげられればいいのだが、後ろにひっくり返ってしまうのではないかと思うと怖くて出来ない。自転車が左右に揺れなければ腕を離しても乗っていられる自信が有るのだが。

 腕に力が入らぬよう、且つ背中に凭れ過ぎぬよう意識しながら、藍はただじっと荷台に座る。

 一旦加速した自転車は、しかし斜度の増大と共に減速を余儀なくされ、二、三分後、頂上から十m余の地点で碧は左足を地に着いてしまった。

 藍はすぐ荷台を降りる。ほぼ同時に、

 「むーん、今日もここまでか…」碧が残念そうに言った。このところ、毎日ほぼ同じ地点で足を着いている。目標を達成出来ていないのは仕方無いとしても、記録が伸びなくなっていることが口惜しいのであろう。

 「……」藍は、今日も何も出来ない自分を感じる。何か碧を励ますようなことを言いたいが、それがどんな言葉なのか全く分からない。何を言っても上滑りするような気がするのである。しかしそんな藍の苦悩を知らぬ気に、いや実際知らぬだろうが、

 「また次回、よろしくお願いします!」サドルから降りて碧が振り向き、そう言った。

 「あ…こちらこそ、よろしくお願いします…」藍は頭を下げる。これも今や毎度の遣り取りだ。

 「いやー、このあとちょっとが強敵!」藍の方を向いたまま、自転車を押して碧は歩き出した。藍も半歩遅れた位置に並ぶ。

 「うん…あの…立って漕いだらいけそう…?」恐らく簡単に達成してしまうだろうと思いつつ訊いてみる。

 「うん! 多分楽勝!」やはりか。それならば自分にも出来ることが有る。

 「あの…自分でバランスとれるように頑張るね…」そうすれば、自分の腕から碧を解放してやれる。自分が碧の動きを妨げなければ、碧は目標を達成するだろう。

 「え! 腕離すってこと?」

 「うん…サドルの下持とうかなって…」

 「危なくない? けっこう左右に振っちゃうから。前は大丈夫でも、後ろにひっくり返ったら」

 「うん…すぐには無理だと思うから、ちょっとずつ…」平地の直線で少しずつ練習するつもりだ。

 「そっか…………じゃあ、今の坂が比較的安全かな?」碧にしては珍しく間を開けて喋った。恐らく、心配なので翻意させたいが、藍の意志が固いと見て、次善の案を考えたのであろう。

 「あ…うん…そうだね…」車通りの少ないことが第一条件になるが、この道はその点かなり安心出来る。

 「じゃ、おいおい」

 「うん…ありがとう…」碧が、自分の意志を汲んでくれたことが藍には嬉しい。

 「え? ありがとうはこっちだよね?」

 「え……ううん…」藍にしては珍しく、碧の言葉を否定した。藍から見ると、礼を言うのは自分の方だ。これまでこの挑戦に於いてずっと観客席で見守るだけだったのが、今、参加を許された。藍はそれに対して感謝を感じているのである。

 「さ、また乗って乗って」碧が自転車を止め、右手でサドルをぽんぽんと叩く。二人は坂を登り切り、右に曲がって十mほど歩いたところだ。二人の左手には松本高校の塀が延びている。

 「うん…」藍は荷台に腰掛け、サドルの首を右手で握った。今までは、碧がサドルに座り藍が荷台に腰掛けるという順序だったが、早速練習しようと思ったのである。

 碧もそれを理解したらしく、サドルに座らず左足をペダルに乗せると、そのまま踏み込んで自転車を発進させる。体勢を崩すかも知れないと多少心配していたが、急発進でなかったせいか、全く問題無く座っていることが出来た。

 碧はペダルを一回しして座るとすぐ、

 「左曲がるねー」と告げた。通学路では久しぶりのことだ。すっかり道を覚えた藍は前方が見えずともいつ曲がるのか分かるようになっており、その点について碧が藍を信頼しているので、曲がり角についてはいちいち予告しないようになっていたのである。それをわざわざ予告したのは、やはり碧も心配なのだろう。

 「うん…」サドルを持つ手に力が入る。藍も、我ながら心配である。もしここでひっくり返りでもしたら、それ以上の挑戦は碧が許すまい。

 道路の外側いっぱいを自転車はゆっくりと曲がってゆく。藍が恐れていたような遠心力は感じられず、実に簡単に曲がり角は過ぎてしまった。恐らく、サドルから手を離していても問題無く乗り切れただろう。

 大きな溜め息を溢した藍は、緊張していた自分のことが可笑しくなってきた。

 「全然大丈夫そうだね!」笑顔で振り向いた碧に声を掛けられ、

 「あ、うん…」藍は我に返って応えた。碧はすぐ前に向き直る。

 「ちょっとずつ速くしていくね!」

 「うん…」

 「あ、背中にもたれてくれていいからね! 立ちこぎする時言うから!」

 「あ、うん…」藍は、有り難く碧の言う通りにした。碧に頼らず自分で自分の身を支えなければと思っていたが、今の左折で、ぼーっとしなければ荷台から転がり落ちることは無さそうだという自信を得たからだ。碧の背に頬をつけると、それだけで柔らかな幸福感が胸を満たしていく。

 「あ、次は右に曲がるね! 狭い道」

 「え、うん…」と応えたが、そんな狭い道が在っただろうか。

 数秒後、自転車は右へ曲がっていった。今走っていた道に対して四十五度ほどの角度だろうか。やはり藍の記憶には無い道だが、学校の正門より少し坂の上になるから、藍がほとんど通ったことの無い地点だ。覚えていなくても不思議ではない。碧の言葉通りかなり狭い道のようで、藍の目から一.五mほど先を民家の壁が流れてゆく。恐らくは、自動車が入ってこれるかどうかという幅員なのだろう。

 自転車の進む速さは変わらないが、元々ゆっくり走らせていたので、道が狭くなっても怖さは感じない。

 数十m先で藍の目の前を細い道が通り過ぎ、

 「減速するねー。もしかしたら止まるかも」また碧が予告してくれた。

 「うん…」恐らくこの先で、学校の北側を通る道にぶつかるのであろう。バスが通るだけあって、道幅もそれなりに広かった。

 碧が漕ぐのを止めると、上り坂のせいで自転車は自然に減速していった。常人が歩く速さ程度まで減速した時、

 「車いないから行くね!」今度は加速が予告された。

 「うん…」再び、サドルの首を握る手に力が入る。バスが通る道路でひっくり返る訳にはいかない。

 藍の予測通り一漕ぎで倍ほどの速さに達したが、覚悟したほどの加速は感じられず、頬を碧の背につけた姿勢を乱されることは無かった。二、三秒かけて自転車が道路を渡る間、藍は学校の方を眺めたが、渡りきる直前に校舎の角が少し見えただけだった。

 渡った先も広いとは言えない道路で、その分、自動車がやって来る心配は少なそうだ。

 「昨日楽しかったね!」唐突に話題が変わった。まあ、いつものことだ。

 「うん…!」藍にとって初めての体験が多過ぎて、「楽しい」の一言にしかならない。

 「怒濤の一日だったー」

 「うん…」碧も自分と同じように感じたのか。藍は嬉しくなってきた。

 「楽しかったのに『怒』濤は変かな?」

 「え…と…」そう言われると、確かに微妙なところだ。昨日一日が物凄い勢いで過ぎたのは確かだが、一部始終全てが楽しかったので、『怒』はそぐわない気がする。

 「お、藍ちゃんでも迷う?」

 「うん…使い方は間違ってないと思うけど…」

 「(なん)か違う?」

 「うん…」

 「やっぱり? なんて言ったらいいかな?」

 「え…と……急流…とか…」

 「ナルホド、急流…急流下り…ジェットコースター…アルプスドリームコースター…」連想としては分かる。最後のは全く目まぐるしくないと藍ですら思うが。

「あ!」連想から閃いたらしい。「ローラーすべり台?」

 「あ…!」なるほど、あれはなかなかの疾走感だった。先頭だったら恐怖を感じていたかも知れない。

 「お! 藍ちゃんも異論なさそう!」

 「うん…」どんな表現でも異を唱えるつもりは無かったが、実際、忙しく且つ楽しかった昨日にぴったりな表現だと思う。余人には分かってもらえないとしても。

 「じゃ、決定!」

 「うん…」

 「もうすぐ~」碧の言葉に少しだけ遅れて自転車が右に曲がり、藍の前にコンクリート塀が現れた。沢村公園の隣の施設だ。確かプールだと言っていた。

 塀が途切れて土塁と木立に替わり、その向こうには金網。何かを打つ音が響いてくるから、きっとテニス場だろう。二十mほど進むと、公園がテニス場にとって代わった。ということは、もう高辻邸は自分のすぐ背後まで来ている。

 藍がそう思った一秒ほど後には自転車は右に曲がり、高辻邸を巻くようにまた右に曲がって止まった。藍は急いで荷台から立ち上がる。

 碧が自転車のスタンドを立てて鍵を抜き、その間に藍が前籠から背嚢を取り出す。毎朝学校の駐輪場で繰り返しているので、藍の動作にも淀みは無い。

 二秒後、碧は玄関の呼び鈴を鳴らした。藍はいつも通り左隣半歩後ろに立つ。

 「はーい」幽かにそう聞こえた。恐らくは、梨乃の母親が三階から返事したものであろう。

 待つこと十秒。

 硬いものが板を叩く軽い音が、次に「わん!」と吠える声、さらに「ピーピー」と鳴く声が扉のすぐ向こうから聞こえた。

 「来たね!」

 「うん…!」梨乃の母を置いて、先にワンコローズだけで降りてきたのだろう。

 さらに待つこと数秒。ガチャリと解錠の音がして、扉が開いた。すぐにラブが飛び出して来る。碧が上体を少し屈め、ラブの頭を三度撫でたところで梨乃の母が姿を現した。

 「こんにちは!」すぐ直立に戻り、ぺこりとお辞儀する。

 「こんにちは…」僅かに遅れて藍も頭を下げる。その足元にアスランがやって来て座り、藍を見上げた。その仕草がとても可愛い。

 頭を上げながらアスランの頭を撫でると、尻尾が勢いよく振られた。

 「こんにちは。すみませんねえ、わざわざ来て頂いて」

 「いえ! 前から散歩行きたいねって話してましたので、ラッキーです!」碧の言葉に藍も頷く。

「二時間くらい行ってきていいですか?」

 「ええ、助かります。あ、これ持ってって下さい。念のため」青い手提げ袋が差し出される。

 「はい!」碧は手提げを受け取り、ちらりと中を見て、

 「藍ちゃん、リュック貸してー」

 「うん…」背嚢を背から降ろして碧に渡すと、碧は手提げを背嚢に入れ、自ら背負った。

 「準備完了! では、行ってきます!」碧はラブのリードを掴んだ。

 「行ってきます…」藍もアスランのリードを握る。

 「はい、行ってらっしゃい」

 梨乃の母に見送られ、碧とラブ、藍とアスランの順で高辻邸の角を曲がった。

 「『沢村医院』」建物の壁から出た看板の字を碧が読んだ。

「今日は休みなのかな?」医院前には四台分の駐車場と数台分の駐輪場が在るのだが、どちらも完全に空車だ。前回ここに来た時は、日曜だったが営業していた。

 「かな…?」藍は何となく左側に目を遣った。大きな磨り硝子の窓の向こう側では、煌々と照明が点いている。白昼の屋外からでもはっきりと判るのだから、かなり明るいのだろう。

「でも電気ついてるね…」

 「あ、ホントだ! じゃあ昼休みなのかな?」

 「うん、そうだね…」だとすると随分遅い昼食になる。医者とは大変な職業だと藍は思った。

 「あ、やっぱり。『17時~20時』だって、診療時間」碧は医院の入口脇で一瞬立ち止まって掲示を読み上げ、すぐまた歩き始めた。碧が止まったのはほんの僅かな間だったので、藍が立ち止まる時間は無かった。

 「お医者さんって大変だね…」

 「ねー。梨乃さん卒業したら跡継ぐんだよね?」

 「うん…多分…」

 「毎日ファンが並んで本物の患者が治療受けられなさそう!」

 「え……」そんなことなど無い、と藍には言いきれない。

 「まずわたしとゆかり先輩が並ぶし!」

 「え……」その二人ならばそうだろう。

 「いや待てよ…ゆかり先輩も医学部…てことは…、ゆかり先輩は梨乃さんの手下になるつもりか!」

 「…………」手下になるとは沢村医院で働くとの意であろうが、紫は梨乃の父親が開業医であることを知っているのだろうか。以前の会話からは、紫は梨乃のことをほとんど知らぬように見受けられた。

 「それでも全然オッケーだけど! て言うか、医師三人もいたら規模拡大できちゃうね!」

 「え…うん、そうだね…」一人よりは三人の方が、当然多くの患者を診ることが出来よう。

 「そうすると受付とか事務の人も増やさないといけないね! よし! わたし達はそこにすべりこもう!」

 「え…」

 「そして中休みになったらワンコローズと遊ぶ役!」

 「……」それはなかなか魅力的だ。藍は、傍らを歩くアスランに目を遣った。それに気づいたのか、アスランも少し顔を上げて見返してくる。その仕草が何とも可愛らしく、藍は左手でその頭を撫でた。

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