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リセエンヌ  作者: 松本龍介
50/62

山雅応援3(/3)

 三分割の三つ目です。

 碧は足早に、藍は小走りに観客席に戻った。既に敷物が撤去され、皆立ち上がっている。藍と碧の荷物も、後ろの方へ寄せられていた。

 「やっと戻ってきた! もうすぐ選手出てくるよ!」と緑子。

 「ゴメンゴメン、ガンズくんと写真撮ってた」碧が、応えながら手摺を潜る。

 「じゃ仕方ないな」

 藍も手摺を潜って碧と緑子の間に入った。

 「美奈ちゃんやっぱりスカート!」やはり美奈子は緑子から借りたミニスカートに穿き替えていた。ただ、ミニと言っても、緑子達が穿いているものに比べれば十㎝ほど長い。

 「さっき茶買いに行ったついでにな」

 するとすぐ、左前方から手拍子と共に「オイ! オイ! オイ! オイ!」という声が聞こえてきて、藍の周囲もそれに合わせる声と手拍子に包まれた。選手が出てきたのであろう。

 藍は、声を出すのは恥ずかしいので、手拍子だけを合わせる。

 選手はどこにいるのかと芝生の上に視線を走らせると、左手の長辺側に二人立ち、そちら側の観客席に向かって礼をして頭を上げたところだった。何故二人だけなのだろうかと藍は疑問に思ったが、碧も緑子も応援に集中しているようなので、訊くのは憚られた。

 それから二名の選手は藍達の方へ小走りに向かってきた。掛け声と手拍子が益々大きくなる。

 そして、選手がゴールと観客席との間に入ってくると、掛け声が「おーーーーーー」と長く伸ばす声に変わった。低い声だからか、碧は合わせるのに少し苦労したようだ。

 二人の選手はゴールの真裏で止まって観客席の方を向いた。一呼吸置き、藍から見て右側の選手が右手を挙げる。

 その手を下ろすと同時に選手は二人揃って深々と礼をした。「おーーー」という声が止まり、選手が元の姿勢に戻ると、「オイ!!」という声と共にゴール裏の観客は両手を挙げ、すぐ下ろした。厳密な話をすると、オイなのかホイなのか藍には判じかねたのだが、まあそのような掛け声である。

 碧はその作法を知らなかったようであるが、前方の人の真似をしたように藍には見えた。ほんの少しだけ出遅れたからであるが、動作の終わりは周りと合っていた。

 碧は本当に運動神経がいいなと改めて感心していると、また掛け声が湧き上がった。何と言っているのかは分からないが、三音であるのは間違い無いから、選手の名を呼んでいるのだろうか。短い掛け声の後に手拍子三つ、掛け声の際には両手を斜め上に伸ばす、という様式を藍はすぐ理解したが、頭で分かっても身体がついて来ず、あたふたしているうちに掛け声と手拍子は終わってしまった。

 選手の名を呼んでいたのだとすればもう一人分あるはず、と心構えをする。

 しかし、それを裏切って次に湧き起こったのは歌だった。緑子の言っていたチャントである。前方の人達はチャントが始まると同時に跳ね始め、藍の隣でも緑子と碧が跳ねている。藍は、何度も跳ねるのは無理なので、歌に合わせて踵を上げるようにした。

 チャントも短い歌を二度繰り返してすぐに終わり、また掛け声と手拍子の組み合わせが聞こえてきた。今度は四音だ。もう一人の選手の名だろうか。やはり聞き取れない。

 しかし今度は、最後の一回だけ動きを合わせることが出来た。選手はもっと居るはずだから、次の機会も有るだろう。次は合わせよう、と藍は意気込んだ。

 それから二、三呼吸置いて、

 「まーつもーとやまが!!」一際大きく聞こえてきた。これも掛け声と共に両手を斜め上に伸ばし、その後手拍子という様式である。手拍子は♪♩♪♩♩。

 今回は五、六回繰り返されたため、藍も三、四回合わせることが出来、少し手応えを感じた。無論、松本山雅に対する思いがそうさせているという訳ではなく、とにかく碧に合わせたいだけである。既に周囲に融け込んでいる碧に置いて行かれている気がして、何とか追いつきたいのである。周囲が一所懸命やっているのに自分だけ動いていないのが申し訳無い、というのも少し有る。

 当面のところゴール裏全体での応援は終わったようで、藍のすぐ前の観客は腰を下ろし、その隣の人は飲物を手にした。

 二人の選手はゴールキーパーのようで、ゴールの前で球を捕る練習を始めた。なるほどそれで二人だったのか。藍は得心がいった。

 「つばさちゃん、スゴい声だね!」ゴールキーパーの練習に集中しかけていた藍は、碧に話しかけられて驚いた。

 「うん…」今のチャントの終わり際に、藍も気づいていた。少し高めの綺麗な声が凄い声量で聞こえていたのだが、その出元がつばさだということに。

 「でしょでしょ!? 翼いい声してんでしょ!?」緑子が勢いこんで話に入ってきた。

 「声が大きいだけだよ…」というつばさの声は、藍の声と変わらない弱弱しさに戻っている。先ほどの大音(おん)(じょう)と同一人物とはとても思えない。

 「いやいや、スゴい声量だったし、きれいな声だったよ!」

 「うん、スゲー響いてた」美奈子も話に加わってきた。

「な?」と鈴音に同意を求める。

 「さっきの声、ツバサちゃんだったの? スゲーな。聞こえてたよな?」今度は鈴音が隣に立つ洞に同意を求める。藍達が球場内を回っている間に少し配席が変わり、緑子の左側に居たトランプバカ一代が鈴音の右側に移動している。

 「へえ。高木さんの声よりよく」洞は相変わらずの口調である。

 「一言余計だ」仏頂面で鈴音が洩らす。

 「オペラ歌手みたいな声だったよ」と碧。藍は、オペラを聴いたことが無いので、オペラ歌手の声がどんなものか分からないが。

 「相生ちゃんよく分かるな!」緑子は驚いた様子である。

「翼、声楽やってんだよね」言いながら、緑子はつばさを左腕で抱き寄せ、自分は一歩後ろに下がった。

 「うん…まだ一年ぐらいだけど…」

 「一年であんなに声出るの? スゴいね!」藍の前に身を乗り出して碧がつばさに言う。藍も半歩後ろに下がった。

 「方法覚えれば誰でもあれくらい出るよ…」

 「え? そうなの? 声楽習ったらわたしも歌上手くなるかな?」

 「うん…方法を覚えれば誰でもある程度までできるんだって…。先生が言ってた…」

 「なに? 相生ちゃん歌ヘタなん?」と緑子。何でも器用に熟す碧なので、苦手が有るということが意外だったのだろう。

 「音程とれると思うんだけど、大きい声出すとはずれちゃうんだよね」

 「多分それならすぐできるようになるよ…」

 「ホント!?」

 「うん…声の出し方のコントロールだから…」

 「マジか…! 希望が…!」

 「その希望が絶望に変わる時、大きなエネルギーが…」と緑子。藍には分からないが、これも何かの引用なのだろう。

 「あ、それは大丈夫。白ピンクのヤツが来ても契約しないんで。うちの黒いヤツだけで手一杯」

 「相生ちゃん、黒猫飼ってるだ?」と美奈子。

 「うん。小悪党代表」碧が答えると同時に、

 「あ! 選手出てきた!」緑子が告げ、皆は元の立ち位置に戻った。

 「オイ! オイ! オイ! オイ!」すぐに左の方から掛け声と手拍子が聞こえてくる。藍も手拍子を打った。

 今度は十数人の選手が一列に並んでゴール裏に向かってくる。手拍子が止み、掛け声が「おーーーーーー!」に変わった。藍は、やはり声を出すのは恥ずかしいので、ここは見ているだけだ。

 藍から見て右端の選手が右手を挙げると観客席の声が止む。並んだ選手が一斉に頭を下げ、上げた時に「オイ!」。先ほどと全く同じである。藍も、周りより少し遅れたが、両手を挙げた。

 二、三呼吸置いて、太鼓の低い音が聞こえてきた。♩♩♩♩♩♩♬♬♬♬と太鼓が響く間に、

 「この前藍さん家で歌ったやつだよ!」と緑子が教えてくれた。

 「うん!」と碧が応える。一度で曲も歌詞も覚えていたくらいだから、当然歌うつもりなのであろう。碧が返事をするとすぐ、

 「まーつもーとやーまがのもののふたーちよ」と始まった。うろ覚えであるが、藍も緑子に合わせて口遊んでみた。歌うのはやはり恥ずかしいが、この歌は、自分の部屋を友人が訪ねてきてくれて一緒に歌った、特別な歌だからである。

 藍自身はよく覚えていないつもりだったのだが、緑子の声を掻き消してしまう程のつばさの歌声に引っ張られるように、歌が口から滑り出てくる。その感覚を不思議に、そして心地好く思っている間に歌は進んでいき、自分では気づかぬまま声を大きくしていった。

 「しょうりーーつかめーーやまがーー」歌い終わって初めて、藍は自分にとっての最大声量で歌っていたことに気づき、同時に、この歌が始まるまでずっと自分を捉えていた恥ずかしさが雲散霧消していることも認識し、不思議に思った。しかし、感慨に耽る間も無く太鼓が鳴り、

 「まーつもーとやまが!!」と声が上がった。心の準備が整っていなかったので両腕を挙げることも出来なかったが、その直後の手拍子は合わせ、二回目からは声も出した。ただ、歌と違って大きな声を出し辛かったので、恐らく周囲にはほとんど聞こえなかっただろう。藍が三度唱えたところで、掛け声は終わった。

 しかし応援はこれで終わりではなく、次に選手個人の名前が叫ばれチャントが歌われていった。選手の名前すら知らない藍は黙っているだけだったが、つばさが素晴らしい歌声を響かせるのを聞きながら手拍子を合わせ、両手を挙げた。隣の碧は、一度聞いたら即座に再生出来る能力を存分に活かし、チャントを歌っていった。最後の五、六人分は名前が叫ばれただけだったが、ゴールキーパーの時も歌われたのは一人分のチャントであったから、恐らくは先発選手のみ歌われるのであろう。控え選手のチャントも歌えばいいのに、と藍は少し残念に思いながら手を叩いた。

 この後にまた「まーつもーとやまが!!」を四唱して応援は一旦終了となった。

 「藍ちゃんも歌上手だった!」最後の手拍子を叩き終わるとすぐ碧が興奮した様子で話しかけてきた。

 「なー」碧の向こうから美奈子も同意し、そのまま続ける。「曲の途中からツバサちゃんの声にビミョーにかぶさってきたから、最初ミドリかと思ったら藍さんだった」

「ミドリは? 藍さんの声聞こえてたろ?」

 「トーゼン。私だけステレオで聴いてたね」何の自慢にもならないはずだが、何故か得意気に緑子は答えた。

 「あっ、ウラヤマシい!」と碧。つばさの歌声を正面で聴く方が余程いいはずだと藍は思うが。

 「途中からコーラス入ってきたーと思ったんだけどさ、翼が腹話術でコーラスまでやってんのかと思った」

 「んなわけねーだろ。どんだけ芸達者だ」と美奈子。

 「いやでもマジで一瞬腹話術かと思った。翼と藍さんの声似てたからさー。翼の三分の一ぐらいの声の大きさだったし」それはまた随分と評価されたものだ、と藍は恐縮した。

 「あ、やっぱり? わたしも似てると思った! さすが藍ちゃん、ブルースシスターズのヴォーカル担当!」

 「何それ?」と緑子。美奈子と鈴音も怪訝顔で聞いている。

 「藍ちゃんとわたしともう一人卒業生の先輩のユニット名。三人とも青が好きだから」

 「それだったらブルーシスターズじゃねーの?」

 「ブルーまで複数なの変だろ」美奈子も質問を畳みかけてきた。

 「あれ? ブルースブラザーズ知らない?」碧は意外そうである。

 「知らない」三人の声が重なった。

 「映画だよね…」恐らく誰も予期しなかったことだが、つばさが話に入ってきた。

 「そう! つばさちゃん観た!?」

 「ううん、見てないけど…お父さんが好きでよく話してるから…」

 「そっか! よかった、知ってる人がいて!」

 「で、何? そのブルースシスターズは音楽やんの?」美奈子が話を先へ進める。興味を持ったのか冷やかしなのか、口調からは窺い知れない。

 「そのうちー。藍ちゃんヴォーカル、梨乃さん楽器は決まってるんだけど、わたしが今のとこどっちもダメだから」梨乃との会話では、キーボード担当ということになっていたが。

 「じゃ踊れば? 運動神経チョーいいじゃん」ずっと黙って聞いていた鈴音が美奈子の背後から加わってきた。体育の授業や普段の動作により、碧の身体能力は同級生の、少なくとも女子全員の知るところとなっている。

 「踊りは踊りでやりたいんだけど、やっぱり楽器もねー」

 「んじゃ、打楽器は」

 「太鼓は却下された」

 「じゃあ、タンバリンとかカスタネットとかマラカスとか色々あんじゃね?」

 「むう、なるほど。カスタネットは家にあるなー」

 「家にあるっつーと、リコーダーは?」

 「あ! それいいかも! やったことあるし」小中学校の音楽の授業で、ということであろう。藍も吹いた。

「音色的にも合いそう!」

 「もう片方の楽器に?」

 「うん。ヴァイオリンかピアノ。藍ちゃんの声にも、曲にも合いそう」

 「曲は決まってんのかよ」鈴音は意外そうに言う。

 「藍ちゃんの好きな曲に歌詞をつける予定!」

 「つける、ってことはインストゥルメンタル? 藍さんのイメージだとクラシックだな」

 「鈴音ちゃん、分かってるぅ!」碧は嬉しそうだ。藍も、自分のことを見透かされたのを嬉しく思う。

「とりあえず決まってるのはG線上のアリア。歌詞はこれからだけど!」

 「そういうの山雅のチャントにもあるぞ。『エリーゼのために』」緑子が会話に戻ってきた。

 「へー!」碧は緑子の方に顔を向けた。藍は手摺から少し身を引いた位置に立っているので、二人の邪魔にはなっていない。

 「だいたい試合の後半に歌う」

 「最後までがんばれー、みたいな?」

 「まーそんな感じの歌詞」

 「よーし、覚えとこ!」碧は右の方を向いて手摺から少し身を乗り出し、

「鈴音ちゃんありがとう! リコーダーやってみるよ!」と言った。

 「いいってことよ」

 「あ、そうだった」思い出したように美奈子が言った。

「相生ちゃん、うちにも黒猫のオスがいるだよ」

 「え!? 何歳!?」

 「えーと、四才とちょい。うちのもヤンチャだったなー」

 「えー! 見に行きたい!」

 「おー、来い来い! わたしも相生ちゃん家行くし!」

 「いやいや、私らも行くし」と緑子。

「ね!」緑子が肩に手を置いてきたので藍は少し驚いたが、

 「うん…!」はっきりと頷いた。そんな会を逃す訳にはいかない。

 「よっし! うちのカワイイの見せびらかしちゃる! スズネも来んだろ」

 「ムロン」

 「つばさちゃんも来てよ」

 「あ…うん…ありがとう…」

 「うちもー! じゃ後で日にち決めよ!」

 「ういー」

 「あ、ちょうど練習終わりだ。もうすぐコール入るよ!」緑子に告げられ、皆は正面に向き直った。

 選手が皆、左手の観客席の下へと向かっていく。それを追いかけるように、

 「まーつもーとやまが!!」の声が上がった。

 手拍子を打ってから、藍は掛け声を合わせた。何の痞も無く声が出てくるのを、藍はもう不思議に思わなかった。

 「この後選手紹介があるんだけど」緑子がまた藍達の方を向いて予告した。

「まず曲が流れてアナウンスがあって、アナウンスの最後に『一つになろう!』って言うから、そしたら『One Sou1』ね」

 「藍ちゃん家で言ってたやつだね!」

 「そう。ソーウルって伸ばして叫んで。ここみんなで合わせたい」

 「はーい!」碧が返事すると同時に、藍も頷いた。つばさから鈴音までの六人の声を、きれいに合わせたい。

 「その後選手紹介で、選手の名前呼ばれたら、パンパンの後『オイ!』ね」パンパンの部分で軽く手を叩いて右手を頭のすぐ上に上げ、オイの部分で振り下ろした。

 「はーい!」碧が右手を挙げて返事する。

 「じゃ、よろしくお願いします!」緑子は軽く頭を下げた。他人行儀だと藍は感じたが、

 「よろしくお願いします!」碧がぺこりと礼を返すのに少し遅れて、自分も頭を下げた。

 球場全体を、微かなざわめきが満たしている。少し緊張を感じつつ、藍は前方、即ち向かいのゴール裏観客席を眺めた。

 恐らく二、三分待った頃、場内にエレクトリックギターのざらついた音が流れた。すぐに手拍子が起こり、藍も合わせるが、先ほどの応援の時とは違い、対戦相手を応援に来た人達以外、まさに満場の観客が皆手を叩いている。藍はその光景と手拍子の響きに驚くと共に、自分がその一部であることを不思議に感じた。

 しかし感慨に耽る間は与えられず、勇ましい感じの音楽が少し進むと、満場の観客から「オーオーオオオオオー」と歌声が上がった。ギターの旋律を復唱する形である。

 隣の碧は、僅かに遅れただけで周囲についていっている。藍にはそんな芸当は出来ないので、手拍子だけを合わせる。

 しかし復唱は短い旋律二回だけで、その後は旋律に合わせて歌うように変わったため、碧も手拍子だけに戻った。もちろん、つばさと緑子は歌っている。後ろからは、男子陣の声も聞こえてくるが、誰の声かは分からない。

 そうして短い曲を歌い終わると、左手の方で「まーつもーとやまが!」と誰かが叫び、続いて♪♩♪♩♩と太鼓が鳴った。観客席全体の音頭を取る人が居るのだろう。

 「まーつもーとやまが!」太鼓が明瞭に聞こえたので、一回目から藍も合わせることが出来た。

 太鼓、掛け声、太鼓、掛け声、と六回繰り返し、また場内は静かになった。二秒ほど間を置いて、

 「横浜のファン、サポーターの皆様、ようこそ、アルウィンへお越し下さいました!」と男の声で放送が入り、満場の、今回は本当に満場の拍手が響き渡った。対戦相手にこのような礼儀を示した運営陣と観客に藍は感心し、「互いに精一杯応援しましょう」という挨拶にも好感を持った。

 続いて対戦相手の選手が紹介されていく。女の声だが、軍人を思わせる骨張った感じの声音だ。無論、そういう演出なのだろう。

 選手の名が呼ばれると、斜向かいから「オイ!」という声が微かに聞こえてくる。妙に間が空いて聞こえるのは、距離が在るせいだろう。藍は、あのようにするのだな、と対戦相手側の観客を教材にした。

 最後に監督が紹介され、斜向かいから掛け声が四度上がると、場内に沈黙が訪れた。

 二秒ほど場内に留まったそれを、エレクトリックギターの音が場外へと追いやった。先ほどとは別の曲で、ギターの音色も違う。

 今度は曲の終わりを待つこと無く、先ほどの男の声で放送が入った。それによると、どうやら今年は善戦するも引き分けが多く、勝ち星は多くないらしい。

 「ここから上昇気流に乗るために、今日は何としても勝ち点3がほしい! 皆さまの御声援で、選手に力を! 一つになろう!」ここか! 藍は心中で勇んだ。

 「One(ワン) Soul(ソーーーーウル) !」見える限りの観客が全員、人差し指を立てた拳を突き上げる。この動きについては緑子の説明は無かったはずだが、藍は自分でも驚くほどの反応速度で追随した。何となくそういう印象であったのだ。さっき、がんずくんと写真を撮った時に人差し指を立てたからだろうか。或いは、もしかしたら、五人で写真を撮った時に緑子が人差し指を立てるよう指示したのが印象として残っていたのかも知れない。

 勇み過ぎたのか、思ったように声が出なかったが、遅れることなく皆とぴったり合わせられたことが、藍には嬉しい。

 拳を下ろすと、選手紹介が始まった。背番号が呼ばれると周囲の人が両手を斜め上に伸ばしたので、藍も慌てて倣う。間を置かず氏名が呼ばれ、二拍叩いて「オイ!」の掛け声。

 最初の選手、即ち先発のゴールキーパーの時はあたふたしたが、それ以降は周囲と同じ呼吸で出来、数人の紹介が終わった辺りからは余裕が出てきたのか、鈴音からつばさまでの声を聞き分けることも出来た。鈴音と美奈子は、最初は遠慮気味な声だったが、だんだん大きな声になっていった。慣れてきたのだな、と思い、二人も自分と同じなのだと思って安心した。碧は最初から同じ調子だが、こちらの方が少数派であろう。

 藍が驚いたのは、河内の声が聞き取れたことである。鈴音の二人向こうに立っているはずだが、明瞭に河内の声と判った。普段大声で話すところなど聞いたことが無いのだが、意外に声が通る。

 そんなことを思っているうちに控え選手の紹介も終わり、最後に監督の名が呼ばれて「オイ!」と叫ぶと、また短い静寂が訪れた。

 左の方で「ワン、ソウ、ル!」と発せられたのが聞こえ、松本側の観客が「ワン、ソウ、ル! ワン、ソウ、ル!」と和す。藍は、一度目は完全に出遅れたため唱和を諦めたが、二度目からは参加し、計五回叫んだ。

 その声が止み、静寂が訪れたが、すぐ大きな風切り音に取って替わられた。

 二度目なのでさして驚くこと無く、藍は目だけを動かして右の方を見る。

 黄緑色の飛行機が着陸するところだ。緑子が言っていた、すげーダイエットしたアマガエルとはこの飛行機のことだろう。藍は、まるでこの飛行機が松本山雅を応援するためにやって来たような気がした。

 余談であるが、この機体はAlps Mountain Viewという愛称をもらい、松本市から観光大使に任命されている。残念ながら、松本高校一年F組の誰もその事を知らないが。

 藍が視線を前方に戻すと、緑子とつばさがタオルマフラーを手にしたのが視界の隅に入ったので、自分も首に巻いたタオルマフラーを慌ててほどく。チケットホルダーが少し邪魔だが、今はそちらに割く時間は無い。

 碧も藍を見て同じようにしたようだったが、藍よりも早くタオルマフラーを両手に持ち、頭上に掲げた。

 その間に太鼓が鳴り始める。一打一打の間が一秒くらい空いた、ゆったりとした拍子だ。藍は二打目と三打目の間でほどき終わり、三打目と四打目の間で掲げた。緑子の姿勢を真似て、タオルマフラーの両端を持って弛まないよう左右に張り、自分の額の真上に来るよう腕を伸ばす。両隣の緑子と碧はもう少し前に出しているのだが、タオルマフラーが長いので、前後方向にずらさないと手と手が当たるのだ。

 五打目の太鼓が響くとすぐ、

 「おーお、おおっおー」周囲が歌い始めた。緑子とつばさは無論のこと、碧も歌っている。藍も、うろ覚えだが歌ってみることにした。但し、あまり外すと恥ずかしいので、鼻歌程度の声の大きさである。二、三回繰り返すと緑子が言っていたから、一度目で覚えて二度目からは普通に歌いたいと藍は思っている。

「おーおおー、おおっおー、しょうりを、めざしーてーー、さあゆくぞやまが、はしりだせーーーーー、まつもとやまがーーーーー、つかみとれーーーーー、きょうのしょうりをーーーーーーーーー」確か緑子が歌ったのはここまでだ。覚えた、と思う。少し緊張しながら藍は声を張った。

 藍にとっての挑戦である二周目は、出だしからつばさ、緑子、碧と綺麗に合った。大好きな人達と息が合ったことに悦びつつ、ぴったり声が重なると自分の声が消えてしまったように感じることに驚く。いずれも、藍が生まれて初めて感じることだ。

 三周目が終わる直前に太鼓が止まると、緑子がタオルマフラーを下ろして二つに折り、右手に持った。慌てて真似ようとするが、二つに折っている間に続きが始まってしまった。歌詞も旋律もそのままで速さが倍程度になった曲を歌いながら、タオルマフラーを振り回すのである。

 勝利を目指して、の辺りから藍も仲間に加わることが出来、タオルマフラーを振り回したが、顔を上げて場内を見渡してみると、気持ちよいくらいに皆が振っていて、観客席が揺れているように錯覚した。その間に、選手が入場してくる。

 振り回すのは一曲で終わり、藍はタオルマフラーを畳んで仕舞おうかと思ったが、得点したら振るのだとの教えを思い出し、畳むのを止めて髪の上から首に掛けた。

 その時、チケットホルダーに手が当たったので、急がば回れだと思ってチケットホルダーを首から外し、足下に置いてある背嚢に仕舞った。

 改めてタオルマフラーを首から掛け、胸の上で緩く結ぶ。髪を掻き上げてタオルマフラーから抜くと、

 「くはーっ! 萌え~!」間髪入れず隣から声が上がった。見られていたと知ると急に恥ずかしくなってきたが、考えてみれば恥ずかしがるような行動ではなかったし、見ていたのは他ならぬ碧である。長年の間に染みついてしまった、「見られると恥ずかしい」癖だろう。

 藍は気を取り直して、タオルマフラーの結び目を少しだけ締めた。

 前方へ目を遣ると、試合前の撮影を終えた選手達がこちら側の陣地へばらばらと向かってくる。

 その時太鼓の音が聞こえ、左前方の観客がゴールキーパーの名を叫んだ。恐らく先発選手全員の名を叫ぶのだろう、と藍は推察し、それに備えた。選手の名も呼ぶ順もうろ覚えだが、一人につき三回呼ぶので、二回目からは合わせられるはず。

 藍の読み通り選手の名が次々と間を置かずに叫ばれ、藍も頑張って声を出してみた。歌の方が声を出し易いな、と思いながら。

 九人目の名が呼ばれた頃、山雅の選手が全員センターサークルの方へ向かっていった。

 十一人全てを呼び終わると、すぐに「オイ! オイ! オイ! オイ!」と観客が拍子を取る。

 選手達がセンターサークルより少しこちら側に寄った所に集まって円陣を組むと、観客の掛け声は「オーーーーーー」に変わり、手拍子も倍くらいの速さになった。

 選手が一斉に右足の爪先で芝生を叩くと同時に、

 「オイ!」と叫んで両手を空に向かって上げ、下ろす。

 各自の持ち場へ全速で走っていく選手達に、「さあ行こう!」「勝とうぜ!」「やるぞやるぞ!」と声が飛ぶ。声援と怒号の中間のような印象だ。それだけ力が入っているのであろう。いよいよ試合開始か、と思いながら藍は選手を眺め、横浜の選手達が白いユニフォームを着ているのを訝んだ。横浜のテーマカラーは青、と鈴木は言っていたし、実際斜向かいの観客は青い服を着ているのに。

 相手ボールのキックオフで試合が始まるようだ。主審の笛が響き渡るのを藍は想像していたが、実際には周囲の声援に掻き消されて全く聞こえなかった。

 白いユニフォームの選手が中央に置かれたボールを左斜め後方、藍から見た右前方の選手にはたき、受けた選手がボールを保持しながらじわりと上がってくる。

 その時、こちら側のゴール裏から手拍子と歌声が上がった。

 「まつもーと、やまがーの、えらばーれしものたちーよ、しょうりーを、つかもうーぜ、シャララー、シャララララー」陽気な感じの曲だ。隣の碧は一度で覚え、大声で歌い出す。藍も三周目には自分の声を乗せた。左からつばさの歌声が明瞭に聞こえてくるので、実に合わせ易い。

 その間に松本山雅は押し込まれ、相手ゴールキーパーを除く全員がこちら側の陣地内に居るという状態になった。このまま押し切られてゴールを許すのではないかと藍はハラハラしたが、陽気なチャントは翳ること無く繰り返されていく。

 見ているうちに藍にも試合の状況が理解出来てきた。相手はボールを回しながら隙を伺っているが、山雅の守備は今のところ鉄壁で、ゴール前にボールを運ぶことを許さず、闇雲に放り込んできたボールは頭で弾き返している。一方、弾いたボールを自分達のボールにすることまでは出来ず、相手が回収してまた攻め入ってくる、ということの繰り返しだ。

 しかし、とチャントを歌いながら藍は考える。このままでは点は取れないし、ずっと防ぎ続けることが出来るとは限らない。大丈夫なのだろうか。

 その藍の不安を実現するように、相手が縦にパスを入れ、後ろから選手が走り込んできてボールを受け取った。こちらの守備は完全に裏を取られた状態で、慌ててその選手に向かっていくが、ボールを持った相手選手は二歩ドリブルしてシュートを打ってきた。

 陽気なチャントが一部悲鳴に変わる。

 こちらのゴールキーパーが横っ飛びに飛びついて指先で何とか外に弾き出し、悲鳴は「おおー」という安堵の声になった。すぐに立ち上がったゴールキーパーが右手で左胸を叩きながら吠える。声が聞こえた訳ではないが、横顔がそのように見えた。

 少し間を置いて、ゴールキーパーの個人チャントが歌われた。今の好守備を讃えるためだろう。実際、ゴールキーパーが触っていなければゴールとなっていたはずだ。

 しかし、まだ危機が去った訳ではない。この後コーナーキックだ。

 斜向かいの観客から大きな声のチャントが発せられる。人数的には少ないのに、もの凄い声援に聞こえる。こちら側が静かだからなのだが、藍を驚かせるには十分だった。

 キッカーの選手がボールの位置を整えると、

 「まーつもとやまが!!」左前方の観客席から掛け声が上がり、太鼓が追従する。一連の作法を覚えた藍も周囲に合わせて、「まーつもとやまが!」を唱和し、手を叩く。拍子を取るためではなく、魔を払うためという感じがする。

 キッカーが右手を上げて合図し、下げてから三歩ほど走り込んでボールを蹴った。ボールは弧を描いてゴール方向へ曲がる。

 またしてもゴールキーパーが、今度はほぼ真上に跳んでボールを前方へ弾いた。ボールは山雅選手の足元に落ち、その選手は右斜め前方に低く蹴る。どちらの選手もいない空白地帯だ。ボールを追って白のユニフォームの選手が走っていくが、それを緑の選手が追い越した。「まーつもとやまが」の掛け声が終わり、球場全体が「ワーっ!」という歓声に包まれる。

 二人の脚の差は歴然としていて、緑の選手がボールを一つ大きく蹴り出すと、追い縋る白の選手を引き剥がし、向こうの角付近で再びボールに追いついた。中央へボールを出さなかったのは、相手の選手がそちらに戻りつつあるからだろう。ゴールとの間に居るのはゴールキーパーただ一人。

 ゴール方向へ向きを変え、ゴールポストまで二、三メートルの位置でシュートを放つ。しかしそのゴールポストに掠り、跳ね返ったところを相手ゴールキーパーが押さえた。歓声が「あー」と落胆の声に変わる。

 これか。藍は悟った。これを期待して、観客も含めた松本陣営はじっと耐える守備を続けることが出来るのか。

 この後、試合の様相が変わることは無く、山雅はほぼずっと防戦を強いられ、藍は何度も「まーつもとやまが !!」を連呼した。ゴール前まで押し込まれるとこの応援が出るようだ。

 無論、相手がボールを保持している時間ずっと失点の危機という訳ではなく、相手にボールを保持されても、簡単にゴール前へボールを入れさせはしない。ゴールから遠い位置では相手と少し離れて動きを牽制し、ゴールに近い位置にボールが来た時は猛然と相手を追い立てる。相手から見れば、ボールは支配しているものの攻めあぐねているという状態だ。

 そういった時間には他のチャントもたくさん歌われ、一度始まると同じ曲が何度も繰り返されるので、自然と覚えてしまう。緑子の言った通りだ。ちなみに、藍が特に気に入ったのは、「きょうもーひとつーになってー、おいもーとめようおれら、と! しんしゅうまつもとのフットボールを、ゆけやーまーがー」というチャントだ。戦おうとか勝とうではなく、追い求めようという言葉に誇りを感じる。曲も爽やかで、実に好感が持てる。

 さて、そのように堅い守備を披露する一方で、攻撃の方は残念としか言いようが無かった。序盤に相手ゴールまで独走した選手はその後も数度快足を見せたが、相手もそれなりの対応をしてきて、抜け出して良い体勢でボールを受け取ることが出来ない。十人全員で相手陣内に押し込む時間帯も一度だけあり、シュートまで持っていったが、あっさりと相手ゴールキーパーに押さえられてしまった。

 そうして、相手が遠めから放ったシュートが枠を外れて観客席まで飛んできたところで前半は終了した。試合中、また飛行機が離陸していく音を聞いたが、そちらに気を取られることは無かった。

 無得点無失点。あっと言う間に終わったと藍は感じた。

 選手が全員退場するまでチャントが歌い続けられ、それが終わると、

 「藍ちゃん、トイレは?」と碧に訊かれた。

 「え…ううん、大丈夫…」

 「そっか。いやー、ドキドキしたね!」

 「うん…」相手がシュートを撃ってきた時はドキリとした。

 「あれ? そうでもない?」藍の返事が期待通りではなかったようだ。

 「え…と…シュート撃たれた時は…それ以外は、守備の人が撥ね返してたから…」

 「藍ちゃんメンタル強い! わたし向こうに攻めてる時しか安心できなかったよー」

 「わたしもー」碧の向こうから美奈子が、

 「私もー」そして鈴音が賛意を表明する。しかし、

 「私は全員攻め上がってる時が一番安心できなかったね!」藍達四人に比べて断然応援歴の長い緑子の感想は正反対だった。

「な?」つばさに同意を求める。

 「うん…そうだね…」

 「え? 何で?」碧が不思議そうな顔で訊く。藍も、何故だろうと思った。

 「その状態でボール取られてカウンター食らったら超ウルトラ大パンツじゃん」パンツとはピンチの意であろう。

 「おお~、なるほど~! こっちが最初にシュートまで行った時みたいな!」碧同様、藍も納得した。あの時、相手側の観客は肝を冷やしたはずだ。

 「そうそう。うちは守備堅いけど、そりゃ人数そろってのことだからね」

 「なるほどー、そういう風に見るんだー。玄人っぽい!」

 「今年の失点半分以上そのパターンだからなー。玄人はもっと細かいとこまで見てるって」

 「と言うと?」

 「ボール持ってない選手の動きとか、それに対する守備の動きとか。駆け引きっつーの?」

 「二十人の動き全部見てるの!? スゴいね!」

 「いや全部はムリだろ。見るポイントがあんじゃねーの?」

 「そっかー、なるほどー」

 「それはそうと、どう? チャント。すぐ覚わったでしょ?」

 「うん!」碧の即答に続いて、

 「まあな」「そだな」美奈子と鈴音と藍も頷いた。

「ツバサちゃんのおかげでスゲー簡単」美奈子の意見に藍も同意する。つばさの歌声が聞こえてくるので、常に手本が有る状態なのである。

 「だよねー!」「だな」皆、同じようだ。

 「あ、のど飴いる? まずいヤツ」緑子が白地に青い縁の袋を背嚢から取り出した。袋の大きさから判断すると、個包装されていないようだ。

 「マズいのかよ!」手を出しかけた美奈子が止まる。

 「その分よく効く。翼も愛用」緑子は自分で一つ取り、口に入れた。

 「ホント!? ちょうだい!」碧が右手を出し、

 「うむ」緑子は袋を碧の方に差し出した。碧は中から一つ取って口に入れる。

 「ツバサちゃん愛用っつーなら」美奈子は袋から二つ取り、

「ん」と言って一つを鈴音に掴ませた。

 鈴音は微妙に迷惑そうな顔で口に入れ、

 「全然いけんじゃん。薬っぽいけど」と評した。それを聞いてから美奈子も口に入れたが、

 「マズっ!」と顔を顰めた。

 「え? おいしくはないけど、まずいって程でもないよ」とは碧の評。

 「藍さんは?」自分の番がやって来たので、

 「ありがとう…」一つ取って口に入れた。藍の評価は碧と鈴音の両方だ。薬っぽいが、不味いという訳ではない。同じ物でも人によって味の感じ方は違うのだな、と藍は少し感心した。

 「あ! 梨乃さんに写真送らないと!」碧が急に大きな声をあげた。

 「あ、そうだね…」

 碧はポケットから携帯電話を取り出し、十秒ほど操作して、

 「あ、そうだ!」と言って後ろを向いた。今度は何だろう、と藍は思う。

「いた! あの人何?」普通なら誰、と訊くところだろうが、碧が今指差しているのは例の緑色の鎧武者である。何者なのか、という意味であろう。試合前に見た時は遠過ぎてよく見えなかったが、やはり戦国時代風の甲冑だ。鎧の胴部前面には西洋風な楯形の紋章が描かれ、背後には旗指物。兜には鍬形のように見える前立てが光り、顔の上半分を面当てが覆い隠している。

 「あー、()()()(まる)」緑子が驚いた風も無く答えた。

 「いみそまる?」碧が鸚鵡返しに問う。それはそうだろう。藍にも、名詞なのか動詞なのか、そもそも日本語なのかすら分からない。

 「(かん)(ばやし)五三十丸っていうサポーター」

 「え!? サポーターなの!? 山雅の人じゃなくて!?」

 「うん。フツーにシーパスで入ってるよ。私も番号近くになったことある」

 「えー! じゃあ近くで見たんだね。本物の鎧だった!?」

 「本物が分かんないけど、けっこうきれいにつくってあった。でも鉄じゃないよ、試合中飛び跳ねてるし」

 「スゴい! 暑そう!」

 「だよなー。夏はペットボトル10本ぐらい持ってきてるらしいよ」

 「それぐらいあれば安心だね。…てことはダンボール製ではないと」

 「だろーな。ダンボールじゃすぐ汗でヘニョヘニョになるわ」

 「だよねー。どこで装着してるんだろ!」

 「すぐそこの乗馬クラブ?に出入りしてるのがよく目撃されてるからそこで着替えてるのかもねー」

 「え!? 乗馬クラブあるの!?」

 「乗馬クラブかどうか知んないけど、馬いるよ」

 「どこどこ?」

 「ファンパークの近くに駐車場あったっしょ?」

 「うん。そこで下ろしてもらったよ!」

 「駐車場の横に信号があって、その向こう」

 「え! 近い!」

 「帰りのバスそっちから出るから、ついでに行ってみれば? ポニーもいるよ」

 「おお! 藍ちゃん、帰りに寄ろ!」

 「うん…!」梨乃に乗馬クラブへ連れて行ってもらったおかげで、馬という動物がとても可愛いことを藍は知っている。ポニーというのは小さい馬だろうから、さらに可愛いに違い無い。

 「おっと。まだ送信してなかった。送信!」

 「よし。では皆さま、後半点取って勝つために、より一層のずくをお出し下さい!」

 「はーい!」「うぃー」「おー」三人がそれぞれに応え、藍とつばさは黙って大きく頷いた。

 自分も頑張ろう、と藍は意気込む。緑子の口ぶりでは、前半は作戦通りの展開らしい。このままでは勝てないのは明白、後半のどこかで勝負を賭けて動くに違い無い。それを期して選手は走りに走って相手の猛攻を耐え凌ぎ、ゴール裏の観客は歌い飛び跳ねていたのである。自分もその時を信じて声援を送ろう。

 「勝ちたいね」碧が、前を見たまま呟く。珍しく抑揚の無い言い方が、逆に感情の昂ぶりを感じさせる。

 「うん…!」「おう」藍も前を向いたまま応え、美奈子の声もそこに重なった。碧の声が低かったので、両隣の二人にしか聞こえなかったのだろう。

 後半開始まで間も無いのか、席に戻る観客が急に増えてきた。両手に紙コップを持った贄教諭が目の前を通り過ぎたのを見て、藍は急に喉の渇きを覚え、後ろに置いた背嚢から茶を取り出した。昼食時に配られたものの残りだ。飴を口に含んだまま二口飲む。

 ペッボトルの蓋を締めた時、碧も茶を取り出すのが見えた。少し遅れて美奈子と鈴音も。皆、自分を見て、喉が渇いていたことに気づいたのだろう。こういう連鎖が有るのだな、と思って何となく可笑しくなり、藍はくすりと笑った。

 藍が笑った理由が碧には分かったらしく、

 「ね!」とだけ言って悪戯っぽく笑う。藍も、碧に微笑み返した。

 前方に視線を戻すとすぐ、

「後半もよろしくお願いしまーす!」右手の方から元気の良い男の声が聞こえてきて、藍はそちらを見遣った。「大信州」と白く染め抜いた紺の帆前掛を巻いた男が、観客席上段方向を向いて、軽く飛び跳ねながら横歩きでこちらへ進んでくる。横向きのスキップとでも言おうか。応援団の人なのだろう、右手に拡声器を持っているが、それを使わず肉声で観客に声を掛けている。

 どうやらその男は人気者のようで、観客から手を振られては右手を振り返したり軽く会釈したりしている。歩き方はおどけているが、礼儀正しい人柄が窺える。

 「後半もよろしくお願いしまーす!」鈴音の前辺りでその男が言ったのに対し、

 「よろしくお願いします!」碧が大きな声で返事をすると、男は止まって一礼した。やはり礼儀正しい。藍は好感を持った。

 緑子とつばさの呼び掛けには手を振って応え、男は左の方へと去って行った。

 「前半の前にも回ってきたの?」碧の問いに、

 「来た来た」美奈子が愉快そうに答える。

「トボケたしゃべり方のくせにあおるの上手かったなー」

 「へー」

 「みんな笑いながらやる気出してた」

 「やる気出たな」と鈴音も支持する。

 「へー! すごいね! 適材適所だね!」

 「パッと見不適材不適所なのにな!」

 「確かに! もっと熱さ前面なイメージだったよー」

 「コールリーダーは熱さ前面だよー」緑子が補足した。

「試合中は熱くないとね」

 「そうだね!」

 ここで後半開始を告げる放送が流れ、皆が正面を向いた。藍も、いつ応援が始まっても出遅れないようにと構える。

 少し待つと、前半同様、選手が左手の観客席の下から姿を現し、一部の観客から声援と拍手が湧き起こった。が、応援はまだ始まらない。

 十一人全員が姿を現し、最後の一人が白い枠線の内側に入って漸く、

 「オイ! オイ! オイ! オイ!」と始まった。前半と同じだが、選手は向こう側の陣地へ向かって行く。そうか、前半と後半では陣地を入れ替えるのだった、と藍は心中で独りごちた。ということは、こちら側に攻めてくるということだ。前半はほとんどこちら側で試合が進んだが、後半こそそうあってほしいものだ。カウンターを受けたら超ウルトラ大パンツ、との言葉は気になるが、それでもやはりこちらに攻め込んできて欲しい。

 円陣を組んだ選手に合わせて「おーーーーーーーー、オイ!」と両手を上げると、選手は持ち場へ駆けて行く。前半開始時には気づかなかったが、相手選手達は軽く走って持ち場へ就いたから、全力で走るのは松本山雅独自の慣習なのだろう。

 待ってましたとばかりに太鼓が鳴り、チャントが歌われる。

「いまこそともにゆこーうー、おれたちのまつもとーーーー、いまこそともにたたかおう、おれたちのまつもとーーーー」簡潔な歌詞なので、藍も一度で覚えて歌声を乗せた。

 後半は松本ボールのキックオフで始まった。

 ボールを受けた山雅選手に相手選手が猛然と寄せてきて、その勢いに圧されたか、山雅選手はさらに後ろへボールを渡す。受けた選手は左前にボールを出し、それを走りながら長辺際で受けた選手が相手選手との距離二mほどの位置でピタリと止まってすぐにボールを前方に蹴る。ボールはどの選手からも数m以上離れた中空地帯に転がり、そこに後ろから走り込んだ別の山雅選手に確保された。球技場全体がワーっと大きな歓声を上げる。

 ボールを拾った選手はそのままドリブルでゴール方向へ斬り込み、守備の選手が寄せてくる前に、ゴール前の大きな長方形の線上からシュートを放った。もの凄い球脚だったが、右方向に飛びついた相手ゴールキーパーの指先に当たり、さらにゴールの柱に掠ってボールは外に出た。歓声がおお~っというどよめきに変わる。シュートが決まらなかったのは残念だが、目を瞠るような攻撃だったからだろう。藍も息を呑んだ。

 山雅の選手が一人、右手前の隅へと向かう。コーナーキックだ。隅へ向かう選手と山雅のゴールキーパーを除く全員がゴール前へと集結する。

 「まつ、もと、レッツゴー!」と掛け声に合わせて観客が腕を斜め前方に上げ、手刀を振る。恐らく、ここまでで一番の盛り上がりだ。

「まつ、もと、レッツゴー! まつ、もと、レッツゴー! まつ、もと、レッツゴー!!」藍も参加したいが、その先が分からないので腕を振るだけにした。

「ま、つ、も、と、レッツゴー! ま、つ、も、と、レッツゴー! ま、つ、も、と、レッツゴー!」の後に♩ ♩ ♪♩ ♩ の手拍子と「おーーーー」という声、続いて「オイオイオイ!」の声と共に手刀。運動神経の鈍い藍にとっては少し複雑だが、一度で覚えてしまった碧の声が導いてくれる。

 ゴール前で選手が目まぐるしく動く。駆け引きが繰り広げられているのだろうが、藍には全く分からない。

 キッカーが一秒ほど手を挙げ、走り込み、ボールを蹴る。ゴール前で山雅の選手一名と相手選手二名が跳び、誰かの頭に当たってボールは高く上がった。ゴールキーパーが落下点へ走って真上に跳び、ボールを掴むと、松本の選手達は自陣へと走った。特に、後衛の選手達は全力疾走だ。相手の速攻を警戒してのことだろう。

 しかし相手のゴールキーパーはすぐにボールを前に出さず、山雅の選手が半分ほど自陣に戻った頃、一番近くの選手にボールを投げて渡した。

 ここから山雅は押し込まれ、猛攻を凌いでいく時間となった。前半と似たような展開だが、ボールを奪って前に出す回数が前半より増えている。それと引き換えになのか、ゴール前にボールを入れられることも多くなり、ゴールを予感した斜向かいの観客がチャントと声援を送り続ける。

 こちら側の観客は何度も「まーつもとやまが!!」を発し、相手の攻撃を跳ね返そうとする。相手にシュートを撃たれる場面では悲鳴も上がったが、概ね「まーつもとやまが!!」の声が弱まることは無く、選手達も全力でゴールを死守して期待に応え、藍に「鉄の結束」という言葉を思い浮かばせた。

 当然だが、攻撃がずっと続く訳は無い。何分経ったのか分からないが、相手がシュートを枠の上に逸らしてゴールキックとなった時、

 「ゆけよさいごまでー、はーしれー、まつもとーーーー」というチャントが始まった。旋律は「エリーゼのために」、試合開始前に緑子が言っていたチャントはこれだろう。

「しょうりをこのてにー、おれたちーのもとに、おおっ、おおっ、おおっ、おおーーーーー」おおっ、の部分で太鼓が止み、皆が拳を突き上げる。ふと目を向けると、右側の長辺沿いの席に座っている観客もほぼ全員拳を挙げている。

 これが毎試合同じ時間に行なわれる決まり事なのか、ここが勝負どころと応援団が看て取ったのかは分からないが、球場内の雰囲気が少し変わったことは間違い無い。耐えに耐える時間をここで了とし、さあここからは自分達が攻める番だ、という気持ちが観客から溢れ出ている。藍もその雰囲気に身を任せ、チャントを歌う。

 選手達も同じように感じているのか、それとも作戦通りなのか、積極的に相手陣内に入り込み、パスを回し始めた。つい先ほどまでと、全く逆の構図である。

 相手も手を拱いている訳ではなく、ボールを持つ選手に対して積極的にボールを奪いに来る。先ほどまでの山雅とは違うところだ。山雅は、ゴール前にボールを入れさせないように壁を作っていたが、あまりボールを奪いには行かなかった。

 山雅の選手は、相手が奪いに来ると一旦後ろに戻してまた前に運ぶということを五、六度繰り返してシュートまで持ち込むことを試みるが、奪いに来る相手の勢いが少し(まさ)っていて、ボールを保持しつつも徐々に押し戻されるようになってきた。藍から見ると、久々にこちら側へ攻め込んできた選手たちがまた遠ざかってゆくという状態で、何とももどかしい。

 しかし周囲の歌声は弱まること無く、寧ろ選手たちをこちらへ引き戻そうとするかのように熱を帯び続ける。自分も勝手に諦めてはいけない、と藍が思った時、センターサークルの中にいた選手から左斜め前即ち藍達の居る方向へ鈍い球足のパスが出た。それに反応した相手選手が足を伸ばして止めようとするが、後ろから走り込んだ金髪の山雅選手が僅かに早くそのボールに追いつく。金髪の選手はさらに左前にボールをはたき、少し向きを変えてゴール方向へ走る。

 はたかれたボールは、さらに後ろから走ってきた選手に回収され、金髪選手の前へ蹴り出された。相手選手は完全に後手を踏んだ形で、金髪選手とゴールの間にはゴールキーパーが立ちはだかるのみ。場内全体をわーっ!という声が覆う。

 金髪選手は一歩分ドリブルをして体勢を整えると、守備の選手に追いつかれる前に右足を振り抜いた。球足が速すぎて藍には見えなかったが、ゴールキーパーが左へ跳んだので、そちらに撃ったのだろう。

 弾かれたボールが左斜め前に転がり、そこには別の山雅選手。ゴールキーパーがまだ立ち上がりきっていないのを見てか、山雅選手は迷わずシュートを放った。ゴールキーパーは飛びつこうとしたが、体勢が悪かったためか全然ボールには届かない。

 ボールがこちら方向に飛んでくるのを見て、これはゴールだと藍は思ったが、ゴールポストが無情に弾き、あーっ!という声があちらこちらで上がる。

 しかしボールは再び金髪選手の足元に飛んだ。足元にボールを収めた金髪選手は、守備の選手に身体を押しつけられて倒れ込みながらもゴールに向かって蹴る。

 シュートというよりはパスのような速さのボールが今度こそ無人のゴールに向かい、白線を跨いでゴールネットに受け止められるのが、藍にもはっきりと見えた。

 それとほぼ同時に、前方の観客達が動いた。両拳を突き上げる人、片方の拳を突き上げる人、上体を屈めて顔に近づけた拳を震わせる人、跳ねる人、大きく頷く人、同じ喜びを十人十色に溢れさせる。視界の隅では碧が大きく上に跳ねるのが見えた。藍は棒立ちでその光景を見ているだけだが、間違い無く周りの人達と同じ気持ちだ。

 こちらに向きを変えながら着地した碧が首っ玉に飛びついてきて、藍は少しよろめく。

 「やったね!!」碧の叫びに、球技場全体の叫びが重なる。歓喜なのか悲鳴なのか分からないほど激しい叫びだ。「よっしゃー!!」「やったー!」といった言葉以外にも、わー!、きゃー!という言葉にならない声や吠え声が耳に入ってくる。

 「うん!!」藍も碧の身体を抱き締めた。

 碧を離すと、碧は藍の右肩の後ろに向かって両手を伸ばした。ぱちんと音がして振り向くと、緑子が頭くらいの高さで両掌をこちらに向けている。あまり表情に変化は無いが、自分以上に喜んでいるのが伝わってくる。

 藍も自分の手を上げると、緑子が勢いよく手を当ててきた。碧の時のような快音は鳴らなかったが、そんなことは問題ではない。

 緑子の次にはつばさがやってきて同じように両手を合わせた。その次には美奈子、鈴音。鈴音の時には藍の方から寄っていった。戻ろうと踵を返すと、碧が両手を構えていて、藍の方から手を合わせた。

 その間に何やらチャントが始まったらしく、周囲の人は皆タオルマフラーを振り始めている。藍も慌てて首に巻いてあるのをほどくと、

 「ラララーララーラララー、さけび、オイ! うーたーえー」という歌が聞き取れた。自分の部屋で緑子が歌った曲だ、とすぐ藍には分かった。

 「とまらねえおれーたちまつもーとー、あばれーろあーれーくるえー」一度聞いただけなのにいざやってみると簡単に歌が出てきて藍は驚いた。「ラララーララーラララー、さけび、オイ! うーたーえー!!」

 もう一度歌を繰り返してチャントが終わった時には、試合が再開されていた。藍はタオルマフラーを首周りに結び直し、眼鏡がずれていることに気づいて元の位置に戻した。違和感が無くなってすっきりする。恐らく碧が抱きついてきた時にずれたのだろうが、視界の歪みに気がつかないほど興奮していたのか、と自分で驚いた。小説や音楽に感動して胸が一杯になることは過去に何度か有ったが、興奮して我を忘れるというのは藍の人生で初めてのことだ。

 「さあ、こっからが正念場だな」緑子が言い、

 「うん…!」つばさも相槌を打つ。

 そうだろうな、と藍も思う。こちらが先に点を取ったことで、相手は今まで以上に押してくるだろう。果たして山雅は凌ぎきれるのだろうか。得点前よりもドキドキしてくるのを藍は感じた。

 「あと15分くらいあんのか…」緑子は振り返ってそう言った。藍もそちらを見てみると、電光掲示板の左下に時計があり、その針が三十五分を指している。時間を表す線が四十五分までしか無いから、余った五分は何とかタイムというやつだろう。

 藍の想像した通り、そこからはまた防戦一方になった。得点のチャントが終わるとすぐ「まーつもとやまが!」が叫ばれ、何度も繰り返される。

 山雅側の戦法は今までと変わらず、ドン引きに引いて、ゴールから遠いところではパスを回させるが最後の一本は入れさせないという守備だ。

 しかし疲労のせいか相手の攻めが強引になってきたせいか、ゴールライン際でドリブルを仕掛けられ抜かれる事態が発生した。斜向かいの観客から歓声が上がる。試合開始直後の山雅選手と同じように、斜めに切り込んだ相手選手が自分でシュートを撃ってきたが、前に出てきていたゴールキーパーが足に当ててボールを外に出し、辛うじてコーナーキックに逃れた。

 藍はまた「まーつもとやまが!」に備えたが、起こったのは別のチャントだった。今日一度も歌われていないチャントだ。知らない歌なのでまずは聞く。

 「だれにもすーきにーはー、さーせはしーないーーーー、こーこはおれたちーのーーー、アルウィンだーからー」歌の最後に♬♬♩ ♩ ♩ と手拍子。これも簡単だ。藍は二周目から参入し、精一杯の声で歌った。

 その二周目には、チャントは向かいの観客席にまで行き渡っていた。自分達の歌った少し後に谺のように聞こえてくるのが、向かいの観客の歌声だろう。

 コーナーキックの準備が整い、相手選手が右奥の角から蹴る。藍の位置からでは実際にどのような位置をボールが飛んだのか分かりづらいが、とにかくボールはゴール前で待ち構えていた選手達の頭上を通り、ゴールキーパーに弾かれてゴールラインを越えた。反対側のコーナーキックだ。

 チャントは途切れること無く、競技場から溢れ出ている。相手方の観客も声援を送っているはずだが、こちらには全く聞こえてこない。

 白いユニフォームの選手が左奥の角に向かい、その間に両陣営の選手達がまた立ち位置争いをする。主審が手を挙げ、笛を吹くと、角からボールが蹴り込まれた。ゴール前の選手が一斉に跳び上がる。誰に当たったのか分からないボールがゴール右下の隅へ飛ぶのが見え、これは入ると思って藍はドキリとしたが、ゴールキーパーが横に跳んで手にボールを当てた。跳ね返ったボールは藍から見て右の方へ転がり、近くにいた山雅選手が走り寄って小さく前に蹴り出した。

 そしてそのままボールを追って走る。半径十mの範囲には誰もおらず、完全に抜け出した状態である。ボールに追い付くともう一度ボールを相手ゴール方向に蹴り出し、また追う。相手選手が二人追いかけてくるが、ゴール前まで追いつかれることは無いだろう。

 相手ゴールキーパーが猛然と飛び出してきてボールに向かう。意外と脚が速いが、先にボールに触る競争を制したのは山雅選手だった。相手ゴールキーパーが滑り込んでくる寸前にボールを蹴り、上に跳んでゴールキーパーをかわす。ゴールキーパーに当たらないようにと浮かせたボールは、しかし浮かせ過ぎだった。ゴールバーに当たって上に飛んだボールは、ゴールネットの上に落ちたのである。結果的にこの勝負は、相手ゴールキーパーの勝ちとなった。

 相手ゴールキーパーはすぐ立ち上がってゴール前へ走り、急いでボールを置くと三歩助走をつけて蹴る。戻ってきていた相手選手がボールを受け取るのを見て藍はまたこれから耐える時間か、と思ったが、そこで主審が両腕を上げ、周りで歓声が爆ぜた。

 これで試合終了、と藍が理解したのは、碧に抱きつかれてからだ。碧の身体に腕を回して、漸く喜びが心の中に広がってきた。

 そこへ背後から腕が回り、二人纏めて抱き締められる。緑子だろう、と思ったらその左からも腕が回る。近過ぎて顔が見えないが、つばさだろうか。さらに向かいから美奈子と鈴音もやって来て、その二人にも抱き締められる。されるがままに立っていると、上の段から女子が下りて来るのが見え、後ろから右から抱きつかれる衝撃が伝わってきた。恐らく女子全員がそこに加わったのだろう、十秒以上も抱きすくめられてから、藍は解放された。

 下りて来た女子がぞろぞろと上の段へ戻って行く。最後まで残ったじゅんも緑子、つばさと両手を合わせてから戻って行った。

 「やったね!」碧の満面の笑顔が眩しい。

 「うん!」自分では分かっていないが、藍も破顔している。

 「しまった、もう始まってる!」隣で緑子が慌ててタオルマフラーを取り、頭上に掲げながら、左の方へ移動して行った。もちろんつばさもだ。

 理由は分からないがとにかく緑子について行こう。藍も再びマフラータオルを解きながら緑子の傍まで歩き、頭上にマフラータオルを広げた。碧達もぴったりとついてくる。

 歩く途中には、もうつばさの歌声が届いてきた。

 「まーつーもーとー、おれーのほーこりーーーーーーー、しょうりーのー、みちーゆくーまーちーーーーーー、さあゆこうぜみーどーりーのとーもーよーーーーーー、はーるーかーなるーいたーだきーへーとーーーーーー、お、おー」この繰り返しのようだ。少し長いが、常に手本が居る状態なので難しくはない。碧は二周目の「おれーの」から、藍も「はーるーかーなるー」からこのチャントの合唱に加わった。

 藍は生まれて初めて、合唱を楽しいと感じた。合唱というのは必然的に人前で歌うことになるからまずそれが嫌、そして上手でもない自分が誰かと歌うことも嫌だったのであるが、今この時は全く逆に感じる。能う限りの声でこの凱歌を、ここに居る人たちと一緒に歌いたい。

 藍の望みは叶えられ、このチャントは何度も繰り返された。後ろの男子は、途中から声がかすれて「みーどーりーのとーもーよー」の部分が出なくなっている。どうやら男子にとってはかなり高音のようだが、藍にとっては実に歌い易い高さだ。つばさも気持ちよく歌っていて、聞いている方も心地好い。無論、緑子も碧も皆歌い続けている。時々碧と目を合わせ笑顔を交わすのがまた堪らない。

 松本山雅の選手達がゴール裏へやって来るとチャントは「まーつーもーとー」の部分で終わりを迎え、すぐ次のチャントに移った。

 「しょうりをしんじてガンガンいこうぜ」これは前に緑子が歌ってくれたので覚えている。手刀を振る動きも付けて、藍はこの続きから加わった。

「やまがのいきおいはとめられない、オイ!」ここで藍は左右両側から腰に腕を回され、なるほどこのために間隔を詰めたのか、そう言えば緑子がラインダンスと言っていた、と思いつつ自分の腕も碧と緑子の背中に回した。

 選手達も自分達と同じように一列になって踊っている。

 「ラーンラララララララ ラーンララララララー、ラーンラララララララ ラララララ!」選手達を見る限りではどうやら曲に合わせて交互に足を上げるようだが、藍にはそんな簡単な動きでもついていけない。それでも、列に押されてほんの少し左右に動くだけで十二分に楽しいと感じた。

 歌が三周目に入ると、今日の殊勲者である金髪選手が他の選手に背中を押されて独り前に出た。金髪選手はなかなかのお調子者と見えて、ラーンラララララララの箇所で上体を少し屈めて胸前で両腕を交互にぐるぐる回し、ラララララ!の後につけられた「オイ!」に合わせて両手両足を広げて跳躍する。試合中の鬼気迫る様子とは全く違って、その姿は子供っぽく見える。藍は軽く噴き出してしまった。周囲でも笑いが湧き起こっている。

 オイ!に合わせて皆が手刀を振り、腰に回した腕を外して列は解散された。一頻り笑ってから、観客はぞろぞろと元の位置へ帰っていく。藍達もそれに倣った。

 選手はあまり列を崩さず左手の観客席前へ移動し、皆で一礼すると、その辺りで互いに話し始めた。

 「それでは勝利監督インタビューです!」放送が入り、周囲の人が皆後ろを向く。藍もそうしてみると、電光掲示板に監督らしき人物が映されていた。

「実に厳しい試合でしたが」

 「そうですね、疲れました…」監督の答えに、観客から笑いが起こる。グッタリという表情で肩を落としたのが可笑しいと、藍も思った。

「予想通り、作戦通りの展開ではあったんですが、まー心臓に悪い試合でしたね。5対0で負けててもおかしくない試合だったと思います」

 「勝因を挙げるとすれば」

 「戦術的に細かいことはここでは言えないんですが、とにかく選手がよく頑張ってくれました。身体を張って泥臭くプレイしてくれた選手に感謝していますが、これも、最後まで声援を送り続けて下さった皆様のおかげです。本当にありがとうございました」画面の中で監督が軽く一礼し、観客からワーっという声と拍手が巻き起こる。

 「次節に向けて」

 「次も今日と同じ厳しい試合になると思います。ここのところ気温も高くなってきてますし、しっかり疲労を抜いて、しっかり準備を整えていきたいと思います。ファン、サポーターの皆様には、次節もまた御声援を賜りたく、よろしくお願い申し上げます。ありがとうございました」今度は深々と一礼した監督に、再び観客から大きな拍手が送られる。

 画面の中から監督が去り、代わって金髪選手が入って来る。日本人選手なのか外国人選手なのかよく分からない、と藍は思っていたのだが、大写しになってもやはりよく分からない。南米の人のようにも日本人のようにも見えるのである。

 「そして今日のヒーローです! 素晴らしいゴールでした!」

 「ありがとうございます!」あ、日本人だ、と藍は思った。抑揚が、明らかに日本人の話す日本語だ。

 「倒れ込みながらの技ありシュートでした」

 「うーん、ホントは倒れずに撃てればもっとよかったんですけど、一発目をはじかれちゃったんで、これは絶対入れる!と思って蹴った、ような気がします」失笑が観客席を渡っていく。

 「気がしますか」

 「あの瞬間は必死だったんで、よく覚えてないんです。あ、最初からこう言えばよかったのか」さらに大きな失笑。

 「ウェブサイトのインタビューにはそう書いてくれると思います」司会の言葉にまた少し笑いが起こる。

「ファン、サポーターの皆様に向けて」

 「次も勝利に貢献できるようがんばりますので、アツい応援で後押しして頂けますよう、よろしくお願いいたします!」

 金髪選手が頭を下げると同時に、また歓声と拍手が上がり、選手の名前が三唱された。その間に選手はビデオカメラの方へ歩み寄る。

 そして画面外の誰かから緑色のペンを受け取り、カメラのレンズにサインをした。また歓声が上がり、同時に放送で音楽がかかる。曲は「日曜日よりの使者」。藍にとっては聞いたことの無い歌だが、「まつもーと、やまがーの、えらばーれし、ものたちーよ」というチャントと同じ曲だ、とすぐ分かった。

 周囲の人達がちらほら帰り始めている。どうやらこれで全て終了したらしい。

 「鈴木君!」と碧が大声で後ろに向かって呼び掛けたので、藍もそちらを見る。

「解散?」

 「おう」鈴木は意外そうな顔で答える。

 「じゃ、挨拶して」

 「おう? おう」どうやら鈴木は全くそんなことを考えていなかったらしい。

 「F組の人鈴木君に注目ー!」碧が声を張るが、そんなことをしなくても皆鈴木の方を見ている。鈴木を呼んだ碧の声が大きかったからだ。十数人に見られていても、鈴木はいつもの飄々とした様子を崩さない。

 「えー、皆さん、今日はご声援ありがとうございました。おかげで我らが松本山雅が勝利をつかみました! 気をつけて帰って下さい。あ、また応援に来てくれるとうれしいです!」全く緊張した様子無くそう言って、鈴木は軽く頭を下げた。社交辞令のような挨拶だが、衷心からの言葉であることは鈴木の声を聞けば分かる。

 信さん銀さんやつばさ、じゅんを含めた皆も小さく礼を返し、この場で解散となった。

 そして皆荷物を取るが、その場に留まって話をしている。帰るのが名残惜しいのであろう。藍もそういう気持ちだ。

 振り返ってみると、成人組も三人で話しているし、じゅんと鈴木も楽しそうだ。

 藍は、じゅんを見てはっと思い出した。試合が終わったらレアチーズを渡す約束であった。

 幸い、じゅんもつばさも急ぐ様子は全く無い。藍は保冷袋の前にしゃがみこむと急いで袋の封を開けた。レアチーズの容器が苺の容器の下になっていたので位置を入れ替え、保冷袋の中に置いたまま蓋を取る。が、

 「淳ー!」

 緑子が呼び掛けて右手で観客席中央方向を指すと、つばさは緑子と一緒に通路に降りてそちらの方へ歩きだしてしまった。

 上の段では、じゅんだけでなく鈴木もはっとした様子で同じ方へ歩きだした。銀さんの姿は既に無い。

 容器の蓋を閉じながら緑子達が歩いて行った方を見てみると、まだまだ多数の観客が残って観客席中央の方を向いている。緑子達は、歯抜けになっている席に入って、その一団の一部となった。

 どうやら誰かが話しているのを聞いているようだ。長くかかっても自分は待てるが碧に申し訳ないな、と藍は思ったが、話は一分程で終わったらしく、一団の皆が両手を上げた。

 そして、頭上で二度柏手を打つと、軽く頭を下げて、一団は解散した。緑子とつばさもこちらへ戻って来る。

 藍は再び容器の蓋を取り、コップを背嚢から出して左手で持つ。匙は後から取り出すつもりだ。

 「手伝うよ」碧が藍の右でしゃがみこみ、レアチーズの入った容器を持ち上げた。

 「ありがとう…」藍はコップを両手で持ち直す。

 「ではイチゴは私が」鈴音が左でしゃがみ、保冷袋に両手を入れる。

 「ありがとう…」

 「うむ」

 「スプーンどこかや?」と美奈子。

 「藍ちゃんのリュックの中~」

 「よし」美奈子はすぐ藍の背嚢の中を物色し始めた。

 碧は、容器をコップの上に持ってくると、合図も無く注ぎ始め、七割ほど入ったところで止めた。

 「あ! もしかしてつばさのレアチーズ!?」数メートルまで近づいてきた緑子が大声を上げる。

 「だよー!」答えたのは碧だ。

「じゅんちゃんにも声かけてー」

 「アイアイ。淳ー!」呼び掛けて、緑子はじゅんを手招きした。じゅんは、鈴木に何か一言言ってからこちらへ向かって来る。

 その間にレアチーズ苺添えが完成し、藍は立ち上がってつばさにコップを差し出した。

 「お疲れさまでした…」つばさの歌声のおかげで自分も大きい声を出せた、ということを言いたかったが、出てきた言葉はこれだけだった。

 「ありがとう…!」応える声は藍より少し大きい程度で、今の姿からはとても歌っている時の声量を想像出来ない。

 「おっと、おじゃうさん、こいつがないと食べにくいんじゃないかい」今度は美奈子が割って入り、匙を差し出す。個包装されたものだが、袋を裂いて把手部分の先端を袋から出してあり、その先端をつばさに向けているのである。

 藍はまたしゃがんでコップを取った。急いで次を作らねばならない。

 「ありがとう…」ちょっと笑ってつばさは匙を受け取った。美奈子の言い方が可笑しかったのだろうか。

 この時また飛行機が着陸のために球技場の斜め上を通り過ぎていき、藍は一瞬そちらを見遣った。銀色の機体だった。

 藍が視線を戻してコップを構えると、碧はすぐ容器を持ち上げて注ぎ始める。

 「どうせだったら谷間に挟んで取ってもらえばよかったじゃん」と緑子。谷間とは、当然胸のことであろう。

 「どこのバニーだ。てか、この服じゃ無理だろ」首周りがぴったりしているので、谷間のごく上の方が少し見えているだけだ。

 「よし分かった。今度服を用意する。猫の会の時でいいな?」

 「よくねーよ!」

 美奈子が言うのと並行して、碧が容器を水平にして注ぐのを止めた。コップに移された量はつばさの時とぴったり同じに見える。

 待ち構えていた鈴音が苺をすぐ投入。

 藍は立ち上がり、今度はじゅんにコップを差し出した。

 「お疲れさまでした…」今度は何と言ってよいか分からず、つばさへの言葉と同じになった。

 「ありがとう! これめっちゃおいしかったんだよねー!」

 「だろ?」緑子が得意気に言うのが、藍には嬉しい。

 「おじゃうさん、こいつがないと食べにくいんじゃないかい?」つばさの反応に気をよくしたのか、美奈子が先程の台詞と動作を繰り返す。

 「あら、気がお利きになるのね?」じゅんもこの面々と同じく、ヘンテコな芝居にすぐ入っていける性格らしい。

「バニーさんだったらもっとよろしかったのですけど」しかもつばさの時の遣り取りを踏まえた台詞を返している。

 「だろ?」「だよねー」緑子と碧にとっては予期せぬ追い風のはずだが、きっちりこの風を捉えて追撃する。

 「あ、ちょっと待って!」レアチーズを食べ始めようとしたじゅんを碧が制する。

「もう一つ作るから鈴木君に持ってってー」

 「あー、うん」素っ気無い応えだが、喜んでいるのが顔に出ている。じゅんは、随分と鈴木を気に入ったらしい。藍は、もう一つコップを取り出した。

 「ところで緑ちゃんバニー服なんて持ってるの?」レアチーズを注ぎながら碧が訊く。もっともな質問だ。個人で所有している人は少ないだろう。

 「ないない。用意すんのはえりぐりの大きいシャツ」

 「そっか、残念! バニー美奈ちゃん見たかったー」

 「だよなー。鈴音も淳も見たいだろ?」

 「見たいな」「見たいねー」

 碧がレアチーズの容器を水平に戻し鈴音が苺を投入したので、藍は立ち上がってじゅんにコップを差し出した。

 「そんなもん一生着ねー」美奈子が腕を伸ばしてきて、コップに匙を入れる。流石にヘンテコ芝居は無い。

 「ありがとー! いただきます!」じゅんはコップを両手にいそいそと上の段へ上っていった。

 「絶対似合うのになー、バニー」碧が惜しそうに言うが、演技なのか本気なのか藍には判断がつかない。

 「似合わねーよ!」

 「いーや、ワタシには見える、超セクシーバニーが……。あとちょっと残ってるのさらっちゃおうよ」碧が急に話題を変え、レアチーズの容器を少し傾けて中を見せる。

 「おー」「そうね」「アイー」「うん…」

 藍はまた急いでコップを取り出そうとしたが、

 「あ、もうここから直に取っちゃお」と言われて背嚢に仕舞い直した。

「いちごまだあるかな?」

 「えーと」鈴音が数え、

「六個だな」

 「つばさちゃんに一個」すぐ碧がそう言い、藍を含む四人が頷く。

 鈴音が一つ苺を取り、半ば強引につばさの持つコップへ落とした。

 「え…、ありがとう…」つばさの言い方と仕草がとても奥ゆかしい感じがして、藍は好感を覚えると共に、可愛らしいとも感じた。

 「鈴音ちゃん、苺ってヘタついてる?」

 「や、全部取ってある」

 「じゃ入れちゃお」碧がレアチーズの容器を突き出し、

 「そだな」鈴音はその上で苺の容器をひっくり返した。

 「スプーンちょうだい」

 「はいよ」事前に個包装から出しておいた匙をすぐ美奈子が渡す。

 碧は匙で二、三度レアチーズをかき混ぜ、

 「じゃ、緑ちゃんからー」と指名した。

 「遠慮なく!」緑子は碧から容器ごと受け取って、匙で苺を掬った。そして上を向き、開いた口に苺を落とすと、

「ん」匙を戻して容器を鈴音に回した。

 「おう」鈴音は緑子の動作を真似てから、藍に順番を回してきた。

 「あ…うん…」藍としては最後でよかったのだが、順番の意図を考えれば受け取るべきだろう。

 しかし、匙に口をつけずに済ませる自信が無い。困ったなと思いつつ苺を掬っていると、

 「藍ちゃん、わたしやるよ!」碧が手を伸ばしてきたので、自分が困っているのが何故分かったのか不思議に思いながら、藍は容器を手渡した。

「はい、あーん」碧が匙に苺を載せて口の前に持ってくる。あーんと言うのは恥ずかしいので、藍は黙って口を開けた。

「藍ちゃん、もうちょっと」碧に求められ、頑張って大きく開く。普段口を大きく開けることが無いため、頑張らなければその状態を維持できないのである。

「はい、いくよー!」すぐ、掛け声と共に苺が舌の上に転がり落ちてきた。そのまま待っていると、一秒もせずに、

「いいよ!」と言われ、藍は口を閉じた。

 「ここの夫婦感ハンパでねーな」と鈴音。声に、少しだけ驚きが混じっている。

 「もっ()言っ()、もっ()」苺を口に入れた碧が言う。

 「そうか? イチャイチャ感全くなかったぞ」とは緑子の弁。美奈子は、碧から渡された容器から苺を掬って口に入れたところだが、頷いて緑子への賛意を示している。

 「だからだよ。もはや恋人ではなく夫婦」

 「おお~、なるほどー! 鈴音オっトナー」緑子の評価につばさも頷く。

 「まあな。美奈子、まだか?」まだ食べ終わらないのか、の意であろう。

 「あと10秒待てい」美奈子は容器に口をつけて、残ったレアチーズを小さな匙で浚っているところだ。

 「ん」

 「まあそんなわけでヒジョーに申し訳ないが皆の衆、今回はバニーじゃない服で我慢してくれ」急に緑子が話題を遡らせた。

 「そっかー。ヒジョーに残念だけどバニー服はオトナになってからだね」すぐ碧が応じ、

 「大人になっても着ねーよ!」美奈子が容器の縁から口を離して反発する。

「あ、藍さん、いただきました」

 「あ、はい…」差し出された容器を藍は受け取る。蓋をして保冷袋に仕舞うのだ。藍の帰り支度はそれで完了する。

 「いや着ろよ。みんな期待してんじゃねーか」と鈴音。ほぼ言い掛かりなのだが、こういう言葉に美奈子は弱い、と藍にも分かってきた。

「なあ洞!」ちょうど目の前の通路を歩いて行こうとしている洞を鈴音が呼び止める。トランプバカ一代は四人一緒に行動なので、残りの三人も立ち止まる。

 「は。仰せの通りで」

 「な」

 「いや絶対話聞いてなかったろ!」と美奈子。藍も、恐らく聞いてはいなかっただろうと思う。

 「バニー美奈子見たいよな?」美奈子の言葉には耳を貸さず洞に問い直す。

 「は。仰せの通りで。…え?」

 「やっぱ聞いてなかったんじゃねーか!」

 「だからバニーガールの美奈子見たいよな?」またも美奈子の言葉を無視し、洞に畳みかける。

 「え? ……は、仰せの通りで」

 「ほら見ろ」

 「ムリヤリ言わせてんじゃねーか!」

 「もー。じゃ、斎藤」

 「は、仰せの通りで」

 「山田」

 「右に同じ」

 「ほらな」鈴音がそこで強引な誘導尋問を打ち切り、藍はほっとした。河内がこの類の軽口や冗談を苦手にしているだろうと思ったからである。

 「くっ、全員鈴音の手下か…!」

 「満場一致で決定したところで帰るか!」鈴音が満足気に言う。実際には何も決定されていないのであるが。

 「そうだね。名残惜しいけど…」碧が背嚢を背負う。藍も、後ろ髪を引かれるのを感じながら碧に倣った。

 「また来ればいいじゃん!」緑子が元気に言い、つばさが頷く。二人も荷物を手にしている。

 「そうだね! また一緒に応援したい!」藍の気持ちを碧が代弁してくれた。

 「よし決まり! 淳ー」緑子が呼び掛けると、まだ鈴木と話していたじゅんがこちらを見る。

 緑子は右手を頭より少し高い位置でひらひらと振った。意図を汲んだのか、つばさも肩の辺りで手を振る。

 じゅんは一瞬驚いた表情を見せたが、やはり緑子の意図を理解したらしく、軽く手を振り返してきた。

 「じゅんちゃん、ありがとう! 鈴木君もご苦労様でした!」碧もじゅんに手を振り、鈴木にはぺこりと一礼する。

 「ありがとうございました…!」藍も二人に頭を下げる。今日ここに来ることが出来て本当に良かった。

 じゅんは二人にも手を振ってくれた。鈴木もごく軽く会釈する。

 「ゴハンとデザートありがとー! おいしかったー!」じゅんの言葉に、鈴音は右手を挙げて応え、藍は慌ててもう一度頭を下げた。

 「おっと。サーヤ!」鈴音は振り向いて、斜め後ろにいる下島に呼び掛けた。

 撤収準備をしている下島が顔を上げる。

「重箱ありがとな! 洗いも引き受けてもらって」鈴音が言い終わる時に、藍は下島に向かって軽く頭を下げた。

 「また作ってよ」とだけ下島は応えた。後ろに男子が四人控えているから、運搬の手は足りているようだ。

 「その時はまた重箱夜賂死苦!」

 「おー」

 鈴音が向き直って歩き出し、美奈子、碧と続いたので、藍もその後ろについた。無論、緑子とつばさもついてくる。

 「おばあちゃん迎えに来てくれるの?」と碧。無論、鈴音に対する問いである。

 「うん。混むからちょっと離れたとこまで歩くけどな。乗ってく?」

 「いいの?」

 「うん。美奈子も北松まで送ってくし」北松とは、北松本駅のことである。

 「そっか。じゃありがたく!」

 「おー。って馬はいいのか?」鈴音の問いに碧は一瞬藍の方を見てから、

 「うん。また応援に来るよ」と答えた。無論、藍に異論は無い。

 「そか」

 碧を先頭にS-1出入口へ向かう。

 「ありがとうございましたー」出入口脇の壁に並ぶ青年達に挨拶され、

 「ありがとうございました!」碧が礼儀正しく応えた。

 「ありがとうございました…」通り過ぎながら藍も頭を下げる。

 一行はS-1出入口を潜った。

 「ミドリたちどこに自転車置いてんの?」鈴音が立ち止まって訊く。

 「向こう側ー」緑子は振り返って、今通ってきたばかりのS-1出入口の少し右側を指差した。

 「お。じゃ一緒に行こ」

 「あっちで待ち合わせ?」

 「うん。道向こうに公園あるんだろ? そこに迎えに来るって」

 「あー、なるほど。じゃ、一緒だ」緑子と翼は左を向いて歩き出した。碧が緑子の右斜め後ろにつく。藍はいつも通り碧の左僅かに後ろだ。そして美奈子と鈴音が藍の左に並んできた。今、通路は人影まばらなので、横に四人並んでも誰の迷惑にもならない。

 「やっぱり自転車で来たんだ!? 近いの?」碧が緑子に問う。

 「近くはないな。30~40分(さん、よんじゅっぷん)

 「つばさちゃんも?」

 「うん…」

 緑子とつばさは球技場に沿って左に曲がった。試合前、藍が碧に引かれて歩いた通路だ。

 「実は今まで黙ってたけどな」緑子が急に男っぽい声音を作って言う。これはまたあれだ、と藍は思った。

 「何で黙ってたの!?」すぐさま碧が応じる。こちらはかん高い声だ。

 「きかれなかったからさ」

 「何を黙ってたの!?」普通と順番が逆だが、誰も何も言わない。つばさがくすりと笑っただけである。

 「私と翼と淳、家が隣」緑子が本来の声に戻す。今回のヘンテコ劇場は短かった。

 「わ、いいな! 誰が真ん中?」碧も地声に戻る。

 「淳」

 「ベランダ越しに話できたり!?」

 「話っていうか、ベランダからベランダに移動してた」

 「くはーっ! ステキ!」藍から見ると何が素敵なのか分からないが。まさかベランダ同士が繋がっている訳ではないだろうから、柵を乗り越えて移動するのであろう。転落したらただでは済むまい。

 「淳()のベランダに集合して遊んでたんだよねー」

 「何して遊んでたの!?」

 「いやフツーに雑誌読んだりゲームしたりテレビ見たり」

 「そっか」碧はがっくりと肩を落として、「てっきりベランダで遊んでたんだと…」

 「ベランダでっつーと、サンマ焼くとかイモ掘るとかぐらい、かなあ」緑子はつばさの方を見た。つばさが小さく頷く。

 「ベランダで芋掘りって何!?」落とした肩が元に戻った。

 「なにって、プランターにサツマイモ植えて秋に収穫だよ」

 「えー! 何それスゴい!」

 「え、フツーだろ。やったことないの?」

 「ない!」

 「ねーな」鈴音が美奈子の方を向き、

 「ねー」美奈子も頷く。藍にもそんな経験は無い。

 「けっこう大きいのとれるんだ。な?」

 「うん…これぐらい」つばさがこちらを向き、両手の親指と人差し指を張って概ねの形状と寸法を示した。全長二十㎝弱、最も太い部分の直径が六、七㎝といったところか。売り物の芋と比べても遜色無い。

 「大っきい! プランタでそんなに育つの!?」碧と同じく、藍も驚いている。

 「うん。しかも水も肥料もナシ」

 「えっ!?」

 「植えたら秋まで待つだけ」

 「めっちゃ楽!」

 「だろ。サツマイモスゲーよな」

 「スゴい! うちでもやってみよ!」

 「うちも」「うちもー」鈴音と美奈子も興味を持ったようである。藍も、試してみたくなってきた。

 「やってみやってみ」

 「緑ちゃんもまだやってるの?」

 「トーゼン。翼も淳もやってる」緑子の言葉につばさも頷く。

 「今からじゃ遅いかな?」

 「いや、ちょうど今ぐらい。うちも来週植えるし」

 「ホント!? 明日種いも買って来よ!」

 「そうしなさいそうしなさい」

 「ところで緑ちゃん」

 「何かね相生ちゃん」

 「今でもベランダ集合してるの?」

 「いや。柵越えしてるとこ見つかってチョー怒られてな」それはそうだろう。藍は頷いた。

 「緑が柵またいだ時にスリッパ落としちゃって、たまたまおばさんが下にいたんだよね」翼が可笑しそうに言う。

 「見上げたら私がパン、ツー、丸、見えだったと」緑子は言葉に合わせて、パンで手を打ち、ツーで右手の人差し指と中指を立て、丸で左手の親指と人差し指を繋げて輪にし、見えで右手を額の前にかざした。

 「タイミング悪かったんだね」

 「そうなんだよー。『ミニスカで柵を跨ぐとは何事か』と。『見えそうで見えないのがミニスカの美学だろう』と。めちゃめちゃ怒られた」

 「え……」藍は思わず声を出してしまった。論点がおかしい。墜落とその結果の可能性について叱られるべきところであるのに。

 「お母さんスルドい!」藍の声は碧の声に掻き消された。

 「ちなみに名古屋ではチョー怒られるのを『ド叱られる』って言うらしいぞ」鈴音がどうでもいい情報を入れた。

 「名古屋人『ド』が好きだな」と美奈子。

 「でミニスカやめるか柵越えやめるかどっちだと」緑子は話を進めた。

 「ナルホドー」碧は感心した様子である。藍は、もしかしたら母親は緑子のことを分かっていて答を誘導したのかも知れない、と考え直した。

 「ミドリ、それっていつのことよ」美奈子が質問した。

 「先月?」

 「そりゃ怒られるわな」高校生になってすることではない、という意味であろう。藍も賛成である。

 「二重に怒られるな」鈴音の評価にも藍は賛成する。危ないのとはしたないのと二重である。

 「緑ちゃん、そんなにミニスカート好きなんだね!」

 「好きなのよ。仲間も募集中ー。ここみんないい脚してるし、どうよ?」

 「はいはい! わたしはいてみたい!」藍にとって意外なことに、碧がそう即答した。碧は露出度の高い服を好まないと思っていたのである。

 「お、いいねえ相生ちゃん。ほかにはいないのか、ほかには。鈴音は?」

 「穿くのはいいけど人前に出るのはダメだな」

 「同じく」訊かれる前に美奈子が言った。今穿いているスカートもかなり短いのであるが、緑子達のスカートほどではない。ユニフォームの時に散々からかわれたので、同じ轍を踏まぬよう予防線を張ったのであろうか。

 「よし! ではミニスカも猫の会の時に用意する!」

 「おー! 楽しみー! 藍ちゃんも一緒にはこ!」自分に飛び火してこなくてよかったと藍が胸を撫で下ろしたところで、碧はそう言った。

 「え……」まあ、この四人に見られるだけならば、恥ずかしくはあるが耐えられる範囲内だ。

「うん…」

 話しながら一行はバックスタンド裏の階段を降りた。試合前に設置されていた樹脂製の柵がきれいに撤去されていて、そこから球技場横の遊歩道に出る。

 「藍さんナイス! じゃ、決まり! で、猫の会いつやんの?」

 「まだ考えてないけど、明日とか?」碧が提案したが、

 「メンゴ。明日用事ある」美奈子が即応した。

 「デートかよ?」鈴音がからかうように訊くが、

 「まあな。うちのサブローと病院までデートだ」美奈子は動じない。その言葉の意味が読み取れず、藍は心中首を傾げた。

 「美奈ちゃん家の猫?」

 「そう」

 「定期健診?」

 「そう」ここまで聞いて漸く藍は話を理解した。

 「太郎と次郎もいんの?」と緑子。

 「いや? うちほかに飼ってないし兄弟いないし父ちゃん(ヒロシ)

 「何で三郎」

 「信長の若い頃の名前が三郎」

 「織田信長?」

 「うん。あ、そか。信長好きなんだよ」

 「美奈子が?」

 「うん」

 「へー。戦国好き?」

 「いや?」

 「じゃ、なんで」

 「戦国無双でかっこいいからだ」

 「ふーん。それゲーム?」

 「うん。知らね?」

 「知らね」

 「じゃ猫の会の時にやるか」

 「いいね!」碧がパチンと手を打った。

 「で、猫の会いつやる?」緑子が話を戻した。

 「明後日は?」と碧。

 「私ダメだ。一日食事当番だ」鈴音が即答した。

 「高木家ごはん当番制なの?」

 「普段は母親が作ってんだけど、明後日同窓会で一日いねーのよ」

 「で、一家の食事を鈴音ちゃんが作るの?」

 「そう」

 「大変だね!」

 「大変っつー程じゃねーけどな」鈴音は簡単に言うが、かなり大変な仕事だと藍は思う。何人分かの食事を三食である。鈴音のことであるから、品数もたくさん準備するのであろう。自分がその役目であったら、ほぼ一日潰してしまうに違い無い。

 「じゃ、サブロー連れて鈴音ん()行けばいいかや? 戦国無双あるし。ムロン飯もごちそうになる」

 「美奈子美奈子、主目的がすり変わってる」猫の会が食事会に、と緑子は言っているのであろう。

 「仕事増やすんじゃねえ」鈴音も一蹴する。

 「よそに連れてくと猫のストレスになるしねー」碧は別角度から指摘した。

 「え、マジで?」美奈子が慌てた感じで問う。

 「て言うよ。実際、最近うちのクロ抱っこして散歩しようとしたら、家から出た途端に心臓バックバクになってビックリしちゃった」

 「えー…」美奈子は驚いている。

 「猫って意外と気が小さいんだな」鈴音が一人言のように呟き、

「で、散歩どうなった?」

 「即終了。家から三歩で終了。もう家の中だけで育てます」

 「箱入りだ」

 「うん。ハコイリムスコ。でも、キャリーバッグに入れれば大丈夫だから、獣医さんは大丈夫」

 「相生ちゃん家も男の子か」

 「うん。悪さする?」

 「うちのは、走り回るけど実害はほとんどねえかな?」

 「そうなんだ。うちはダメだー。細かい悪さをいっぱいするんだよねー」

 「と言うと?」

 「読んでない新聞破る、ティッシュ抜いてまき散らす、畳んだ洗濯物にダイヴする、勝手にエアコンかける、盗み食いする、などです」

 「いや、それフツーじゃね?」

 「え? そうなの?」

 「うん、エアコンは知らんけど、あとはうちもやっただよ。今何才?」

 「一歳!」

 「あー。うちのもそれぐらいの頃は散々やったけど、今はちょっとだけ落ち着いた。盗み食い以外はな!」

 「盗み食いは止まりませんか」

 「止まるどころか、知恵つけてどんどんひどくなってるな」

 「で、猫の会いつ?」猫談義が終わりそうにないと判断したか、緑子が三度問うた。

 「うーん、試験最終日は?」三度、碧が提案。中間試験は連休明けの翌週月曜日から三日間に渡って実施され、水曜日の午前中で終了する。午後の授業は無く、恐らく部活も無いのであろう。

 「大丈夫」緑子が即答し、鈴音と美奈子の方を見る。

 「大丈夫」「わたしもー」

 「つばさちゃんは? あ、水曜だけど…」

 「うちは普通に学校…」少し申し訳なさそうに答える。

「あ、でも気にしないで…私はまたの機会に…」

「そう? ごめんね」

 「ううん…」

 「じゃ、決定! 詳細はまた学校で!」脱線のため難航した調整を碧が締め括ると、

 「はーい」三人が唱和し、藍も頷いた。

 そして、緑子とつばさが立ち止まる。球技場に沿う通路が道路に突き当たり、右に曲がったところだ。

 「私たち、自転車ここだから」緑子は傍に在る緑色の、年季の入った自転車のサドルを軽く二度叩いた。広い歩道の車道側が駐輪場として使われており、かなり歯抜けになってきてはいるが、まだまだ多くの自転車が数十mに渡って並んでいる。

 なるほど、だから結論を急いでいたのかと藍は納得した。

「待ち合わせの公園はあの信号渡ったとこ」と、道の斜め向こうを指差す。数十m先に信号が在るが、公園らしきものは見えない。

 「緑ちゃんたちも道渡るよね? 公園まで一緒に行こ!」

 「アイアイ。ちょい待っちー」

 緑子とつばさは錠を解除し、自転車を列から引き出した。

 「じゅんちゃんも一緒に来たの?」

 「うん。これ、淳の」緑子の自転車とつばさの自転車の間に置いてあった自転車を左手で指差す。緑子のものと違って、真新しい。

「でも今日は先に帰る」緑子がつばさの方をちらりと見て、

 「うん」つばさが頷いた。

 緑子とつばさが並んで自転車を押し、その後ろに美奈子と鈴音と碧、碧の後ろに藍という配置で歩き始める。

 「だよねー。うまくいくといいね!」

 「そうだなー。今の時点では何ともだけど」

 「そうだね」

 「まー鈴木だったら試合の日は確実にデートになるから、どっちにとってもいいと思うけどねー」

 「だよねー! あ、鈴木君のお父さんも毎試合来てるっぽい感じだったよ」

 「へー。…何でそんなこと知ってんの?」訊いたのは緑子だけだが、鈴音と美奈子も疑問符の付いた顔で碧を見ている。

 「北側?のゴール裏でたまたま会ったの。ね!」

 「うん…」振り向いた碧に藍は頷いた。

 「へー。手振ってきた時か」

 「うん! 席取り手伝ってくれたおじさんたちに会って話してたらね、やって来たの。一緒に応援してるみたいだったよ」

 「へー! おっちゃん達親切だったなー。ホント助かった!」

 「だねー。もちろんお礼言っときました!」

 「サンキュー!」

 「ところでつばさちゃんはどうだった? うちの男子。いいのいなかった?」

 「え……、えーと…」つばさは言い澱んだ。何を言うかは決まっているがどう言うか迷っている感じだ。が、

 「翼彼氏いるよ」緑子がこれ以上無い単刀直入さでその内容を告げた。

 「あ、そうなんだ…」碧は少しバツの悪そうな表情だ。恐らく、ここにいる全員、男子と付き合ってはいないと思い込んでいたのであろう。それは藍も同じことであったが。

 「なんと小学5年から」

 「えー!? スゴい!」

 「いやもー彼氏の方が翼にメロメロでさー」

 「あー、なんか分かるー。カワイイ上に歌がうまくてギャップ萌えまで」

 「でしょー! 残念ながら私と同じで胸は小さいけど」

 「そんなこと言ったら私たちもだよ!」と碧は言うが、全然残念そうではない。この点でも藍と同じだ。藍も、自分の容姿について、こうだったらよかったのに、と思ったことは一度も無い。尤もそれは、藍が自分の容姿を気に入っているということではないが。

 「大きい方がいいとは限らねえだろ」と美奈子が意見を述べると、

 「つるぺたよりは巨乳の方がいいね!」と緑子が反論する。

 そんなものは好みの問題、水掛け論なのは明白。そう思ったのであろう、

 「おっぱいにはおっぱいの魅力が、ちっぱいにはちっぱいの魅力があんだろ」鈴音が当たり障りの無いことを言った。が、

 「ちっぱいの魅力って何」緑子は納得していない様子だ。

 「いや知らねえけどな。ちっぱい好きの男子がたくさんいるのは確かだ。推定100万人はいる」

 「なぜ分かる」

 「うちの兄ちゃんも弟もちっぱい好きだからな」そこから百万という数字を導き出すのには無理があり過ぎると藍は思ったが、

 「ほう」緑子は興味を示した。

 「厳密にはスレンダーなのが好きなんだけどな。ミドリとか藍さんとか、あと原っちとかどストライクだと思うぞ」

 「マジか。お兄さん何年?」

 「2年」

 「カッコいい?」

 「いや? フツー」鈴音の言葉が終わると同時に、

 「いやいや、けっこうカッコよかったぞ。背高いし」美奈子がそう言った。高木邸に泊まった際に会っているのであろう。

 「マジか! 写真ある!?」

 「()。兄弟の写真とか入れてたら気持ちわりーだろ」鈴音の言葉に、碧も頷いている。一人っ子の藍には兄弟姉妹に対する実感が無いので、そういうものなのかと思った。

 「えー。今度写真撮っといて!」

 「……分かった」少し考えて鈴音は承諾した。

 「鈴音ちゃん、3人兄弟?」碧が訊く。

 「いや、五人。姉、兄、弟、妹」

 「いつも鈴音ちゃんが給食係?」

 「不本意ながらな。うちの男どもは準備も後片付けもしやしねえ。父ちゃんは働いてるからしゃあねーけどな」

 「やっぱり。それであんなに手慣れてたんだねー」

 「あー、配膳の取り回し?」

 「うん」

 「まー一応事前に考えはしたんだけどな」

 「いやー、なかなか考えた通りに行かないでしょ、普通」

 「そだな」美奈子が横から同意した。藍も、そうだろうと思う。

 「確かに、慣れのせいでうまくいったのかもな。でもほかにもっと慣れた方がいいことあんじゃね!? 女子高生なのに」

 「いやー、あの仕切りっぷりで鈴音ちゃんに惚れた人いると思うよー」

 「んなわけねーだろ」反論する鈴音の声には棘が無い。

 「いやいや、尻に敷かれたいって人、推定100万人はいるからね!」碧は鈴音の言葉を引用した。

 「なぜ分かる」今度は鈴音が緑子の言葉を引用。

 「うちのお父さんそうだから!」

 「うちもどっちかってーとそっちだ」と美奈子。

「うちのクラスで言うと、山田とか洞とかそんな感じだよな」

 「間違いない!」緑子が愉快そうに同意した。

 「山田と洞かー」がっかりといった口調の鈴音だが、声音は満更でもないと言っているように聞こえる。

 「ところで鈴音ちゃん」

 「何」

 「『女子高生』って何かエロそうな響きじゃない?」

 「エロ…確かに…おっさん的な何かと言うか…」

 「『女子高校生』だったらエロくないのにな」と緑子。

 「でしょー。なので、『女子高生』を自称するのはやめましょー!」

 「でも女子高校生は語呂悪いだろ」

 「『女学生』とか?」と緑子が提案。

 「それもいいね! しかしワタクシは『リセエンヌ』を推します」

 「リセエンヌ?」鈴音が訊く。初めて聞く単語なのだろう。日本で一般的に認知されている単語ではない。藍も、この前初めてこの言葉を知った。

 「リセエンヌ! フランス語で女子高校生のことなんだって」

 「ちょっとカワイイな」すぐ美奈子が評価を述べた。

 「『ヌ』がな」緑子も賛成する。

 「いいんじゃね?」

 「ではそういうことで! つばさちゃんもよかったら使ってね!」

 「うん…」

 緑子と翼が歩みを止めた。今通ってきた道に左から来る道が突き当たる丁字路の、歩行者信号の手前だ。十人ほどの人が、信号が青に変わるのを待っており、緑子達はその後ろについた形だ。横断歩道の向こうに駐車場が見えているので、それが待ち合わせの公園だろうか。

 「相生ちゃん、よくそんな単語知ってんな」美奈子が感心半分、不思議半分という面持ちで訊く。

 「でへへへ、実は教えてもらいました。ブルースシスターズの梨乃さんから」

 「大学生?」

 「うん、信大医学部ー。頭脳明晰、眉目秀麗、黄金体型で趣味は乗馬と旅行という」

 「そんな都市伝説みたいな」鈴音の声には疑いが籠っている。

 「それが実在するんだなー。しかもうちの高校の近くに住んでるの」

 「へー」

 「あ、しかもね、犬飼ってるの。柴とシェパード! これがまたかわいいんだなー」

 「それは見てみたいな!」美奈子が食いついてきた。動物好きなのだろう。

 「シェパードって警察犬だろ? コワくない?」と鈴音。

 「大っきいけどすっごく大人しくてかわいいの! ね!」

 「うん…!」藍は強く頷いた。アスランほど可愛いやつはこの世に居ない。

 「へー」

 「柴も、クセ者だけどかわいいよ」

 「なによ、曲者って」

 「うまく説明できないんだけど、悪さするとかじゃないんだけど、クセ者なの」

 「どんな曲者犬か興味出てきたわ」鈴音の言に、

 「私も」緑子が頷く。

 「あー、めっちゃ見せたい!」

 「近くに住んでんだろ。夕方散歩に来てもらうとかできねーの?」美奈子の要求に、

 「学校終わるの遅いみたいだし……」答えて碧は少し考え、

「そうだ! わたし達が散歩して連れてけばいいんじゃない?」振り向いて藍に問うてきた。

 「え…うん…でも大丈夫かな…?」放課後、高辻邸付近を散歩させてもらうだけなら大丈夫な気がするが、学校まで連れて行っていいだろうか。学校の北側はバスも通る道路なのだ。それに、自分はもちろん、碧も犬を飼ったことは無い。

 「大丈夫だと思うけど…後できいてみよ!」

 「うん…」

 「夜賂死苦!」

 信号が青に変わり、一行は横断歩道を渡った。渡りきったところで緑子が振り向き、

 「この公園だろ、鈴音」自転車を押しながら訊く。

 「多分。来たことねーから分かんねーけど」鈴音も歩きながら駐車場の方を見て答えた。

 「アルウィンの道向かいの公園ってここしかねーから」

 「そか。もう着いてるはずだから車探すわ」

 「広くないから来てたらすぐ見つかる」

 「ん」

 緑子が公園に沿って左に曲がった。ここからは歩道が無くなっていて、その上に交通量は多い。アルウィン前の道路から次々と自動車が左折してくる。観戦帰りの人達であろう。

 一行は一列縦隊で路肩を行く。成り行きで藍は最後尾だ。すぐ前を歩く碧との間が開かないようにせねば、と思った時、碧が歩きながら僅かな角度だけ振り向いて、左手を後ろ手に差し出してきた。

 その上に自分の手を重ねると、碧は手を握って前に向き直った。

 いつもと逆の手を引かれることに心地好い違和感を覚えながら歩くと、すぐに駐車場の入口に着いた。角を曲がってから三、四十mだろうか。恐らく曲がった時点で見えていたはずだが、碧の後頭部ばかり見ていた藍は全く気付かなかったのである。

 「あ、いるいる」鈴音の声に藍が顔を上げると、鈴音が右手を挙げたところであった。祖母に挨拶したのであろう。

「緑、サンキュー! 助かった」

 「うん。じゃあ学校で」

 「おー。翼ちゃんもまたね!」

 「うん…!」つばさは小さく、しかしはっきりと頷いた。

 「またねー」「またなー」碧と美奈子も挨拶する。

 「またね…!」少し出遅れたが藍も声を張り、手を振った。

 二人は自転車に跨り、こちらに軽く手を振ってから車道へと漕ぎ出していった。

 「よし!」と言った鈴音を先頭に歩き出すとすぐ、高木家の自動車がどこに在るのか分かった。運転席から鈴音の祖母がこちらを見ている。目が合った訳でもないのだが、藍は一つ頭を下げた。

 自動車の左側に着くと鈴音はまず後部扉を開け、

「ばーちゃん、サンキュー!」と中に呼び掛けてから、

「乗って乗って」と三人に指示を出し、自分は助手席の扉を開けてさっさと乗り込んでしまった。往路と違って重箱も飯櫃も無いので、鈴音も自分の荷物だけなのである。

 「お願いします!」

 「お願いします…」

 「お願いしまーす!」

 往路と同じ配席で座り、美奈子が扉を閉めると、車は静かに前進を始めた。

 「勝ったか?」祖母の問いに、

 「勝った勝った! ヒヤヒヤだったけど1-0」

 「押されまくったか」

 「90分ほとんど攻められた」

 「だろうな。大方の予想通りだ」

 「そうなの?」

 「ああ。山雅はポゼッションはダメだが守備は固いんだ」

 「ポゼッションて?」

 「ボール支配率」

 「9割ぐらい支配されてた」

 「それはないけどな。じゃ7割ってとこか」支配率が七割というのは実際にも有るが、感覚的には一試合ほぼずっと攻めっぱなしである。

 「山雅っていっつもそんな試合?」

 「程度は試合によって違うが、支配率が50超えることはまず()えな」

 「だからみんな攻められても動揺してなかったのか」

 「みんなってサポーターか」

 「うん。攻められてもアーとかギャーとかならずにずーっと歌ってんだよ。何このメンタルとか思った」鈴音の述懐に藍の左右で二人が大きく頷いている。

 「今日はそういう日だったんだな」

 「ダメな日もあるのか」

 「そりゃそうだろ、機械じゃねんだから。今日が当たりの日でよかったじゃねえか」

 「そうだな! てことは、今日は作戦通りにいったってこと?」

 「多分な。ゲームプラン通りに勝ったんだから大したもんだ」

 「うん! また応援に行きたい」

 「行け行け。フットボールは人生の縮図だからな、経験しといて損は()え」

 「哲学的だな」

 「そんな御大層なもんじゃねえけどな、まあ行ってるうちに分かる。『フットボールは少年を大人に、大人を紳士にする』って格言もあるしな」日本サッカーの父と称される指導者、デットマール・クラマーの名言である。

 「淑女にはなれませんか」碧が割り込んだ。如何にも話の腰を折りそうな質問だが、碧の口調は真剣だし、実際真面目に訊いているに違い無い。

 「淑女は難しいんじゃないかねえ」

 「やっぱりそうですか」碧は肩を落とした。

 「ばーちゃんそんなサッカー見に行ってたっけ」

 「いや、月一ぐらいだけどな」

 「けっこう行ってるな!」

 「一人で見に行くんですか?」今度は美奈子が割って入る。

 「そうだね。行くのは一人だけど、現地で仲間と合流して一緒に見てるよ」

 「それカッコいいですね」

 「そうかい? そんな人いっぱいいるが」

 「一人で家出てスタジアムで合流って、大人っぽいです」確かに、と藍も思う。そのような場所に自分一人で行くというだけでも、大人な感じがする。隣で碧も頷いているから、同じように思っているのであろう。

 「そうかね。大人も卒業するぐらいのあたしにゃちょっと分かんないけども」

 「スタジアムで仲間が待ってるってステキですし!」

 「そりゃあそうだね」

 「仲間の人とはサッカー以外でも会ったりするんですか?」

 「会う人もいれば会わない人もいるね」

 「じゃ、えーと、サッカー以外で集まることってありますか?」

 「サッカーと無関係じゃないが、納涼会と忘年会は必ずやるね」

 「それも大人っぽい!」

 「あー、それは分かるね。学生のうちは忘年会なんてやらなかったもんな」

 「やっぱりそうですか」

 「大人よりおっさんってイメージだったがね」また碧が頷いている。忘年会というとサラリーマンの行事という印象を藍も持っている。普段まっすぐ帰宅する父親が忘年会の日だけは外食してくるので、忘年会とは会社における重大な行事なのだろうと思っているのだ。

 「お祖母さんもゴール裏で応援してるんですか?」また碧が質問する。

 「いやさすがに飛び跳ねるのはツラくてね、ゴール裏とバックスタンドの角辺りで応援してるよ。仲間も同じような齢だしね」

 「やっぱり歌いますか?」

 「歌ったり歌わなかったり、その時の雰囲気だね。まあ主に手拍子で応援だよ」

 「そうなんですね! 今日もバックスタンドの方から手拍子聞こえてきてて、すっごくやる気出ました!」そうだったのか、と藍は驚いた。声を出す方に夢中になって、全く気付かなかった。

「応援しながら応援されてるみたいな感じでした!」

 「そうかいそうかい。それはナイスシナジーだったね」

 「はい! わたし今日初めて山雅の試合見に行ったんですけど、スゴい一体感で感動しました! 今日もー一つーになってー、でした!」碧はかなり興奮した様子でチャントを引用した。それを聞いて、試合中に感じていた昂ぶりが藍にも少し戻ってくる。

「今日あの中の一人になれてホントによかったです!」藍もそう思う。今日球技場で松本山雅を応援していた人達のことも、自分がその一員であったことも自慢したい気持ちだ。美奈子も鈴音も頷いているから、自分と同じ気持ちを感じていたのだろう。それも藍にとってはとても嬉しい。きっと、緑子とつばさも同じ心持ちだろう。

 「ワンソウルだったんだね」

 「はい! あそこにいたみんなにありがとうって言いたいです」藍も、観客全員に、とまでは言えないが、今日直接顔を合わせた人には感謝の念を覚える。

 「それならまたアルウィンに行くといい」

 「はい!」

 「いいことばっかりじゃねえけどな。負ける日もあれば、雰囲気がイマイチな時もある。でもトータルではいいことの方が多いよ」

 「はい!」

 「小遣いの範囲内にも収まるだろうし」高校生には子供料金が適用され、自由席で比較すると一般の三分の一以下の値段なのである。

 「はい! それ重要です」

 「だろ。乙女はほかにもやること多いからね」

 「はい!」

 「ところで嬢ちゃんたちは部活やってるのかい?」

 「はい!」碧が即答した後に、

 「わたしはやってないです」美奈子が答え、

 「私も…」藍は最後に答えた。

 「そうか。老婆心だが、部活もやっとくといいよ」

 「そうなんですか?」と美奈子。

 「ああ。あの時間に部活が出来るのは高校生の特権だよ。よさそうな部があったら今からでも遅かあない。ま、他にやることあるなら別だけどな」

 「いやー、特にないです」

 「じゃあ検討してみな」

 「はい」

 「美奈ちゃん中学の時何部だったの?」

 「ソフトボール」

 「? うちにもあるよね」

 「いや別にソフトボールやりたかったわけじゃねんだ」それより魅力的な部活が無かったということだろう。

「今入るとしたら文化系だな」

 「そっか。鈴音ちゃんは? 部活」

 鈴音は首だけ後ろの方を向いて、

 「最初から帰宅部のつもりだったからなー、全然考えてねー。部活紹介もすぐ帰ったし」

 「わたしもー」と美奈子。藍も同類だ。碧に誘われていなければ二つ三つ回って早々に切り上げていた。

 「まー私も入るなら文化部」

 「料理部だったら即レギュラーじゃん」確か料理部というのは無かったはず、と藍は考えた。

 「それは家でやるからいらん」

 「おお! プロっぽい!」碧が感嘆する。

 「逆だろ。仕事で料理するから家じゃしねえ、じゃねーか」

 「おお!」

 「鈴音、今のでよく分かったな…」美奈子の声は驚きよりも呆れの色が濃い。そして藍にも、何がプロっぽいのか分からなかった。

 「二人とも文化部かー」残念そうな碧に対して、

 「やるとしたらな」美奈子はにべも無い。一方鈴音は、

 「ボッチャ部とかダーツ部だったらやってもいいけどな」運動部に対して多少の許容範囲を持っているようだ。ボッチャというのがどういう競技なのか藍は知らないが、ダーツという単語から激しい運動は伴わないのだろうと推測した。

 「いいね! おもしろそう!」

 「わたしはダメだな。精密なコントロールとかサッパリ」

 「美奈子はそんなイメージだな」藍も、口には出さないが、美奈子のことは繊細より豪快だと思っている。

 「コントロールより速球で勝負しそうだよね」

 「波動拳より昇龍拳」

 「いや…好み的にはそうなんだが、昇龍拳が出ねえ…」

 「美奈子…そんなザンネンゲーマーだったとは…」

 「残念言うな」

 「大丈夫だよ美奈ちゃん! 無双にはコマンドないよ!」

 「そうなんだよ。無双はいいゲームだ」

 はどうけんからここまで、藍には話の内容が皆目分からない。三人が楽しそうに話しているので、猫の会の際にどのようなゲームなのか見てみようと考えていると、

 「藍ちゃんは? 部活入るとしたら何部?」急に自分への質問が来て藍は慌てた。

 「え…と、私も文化部だけど…」正直、部活に入るつもりは無い。大して興味の無いことに時間を使うのであれば、本を読む方がいい。が、中学時代のようにどこかの部活に入らねばならぬというのであれば無論文化系だ。身体能力の著しく低い藍にとって、運動部は選択肢ですらない。

 「藍さんも料理部入ったら即レギュラーだな」

 「え…」

 「だよねー」

 「玉子焼もレアチーズもレシピ教えてもらいてーな」

 褒められるのはもちろん嬉しいが、ひどく誤解されているようで藍は困る。自分が作れる料理の種類はとても少なくて、「料理が出来る」などとはとても言えたものではないのだ。

 「え…うん…」無論、自分の調理の方法など、秘密にするようなことではないし、

「あの…私にも教えて下さい…」教えることよりも教わることの方が圧倒的に多い。

 「今日のやつね。分かった」

 「ありがとう…」少しでも作れる品数を増やして、碧が飽きない弁当にしたい。

 「わたしとしては、藍ちゃんにマネージャーになってもらいたいけどね!」

 「どっちの」美奈子が訊く。

 「え? どっちのって?」

 「水泳部とスキー部両方入ってんだろ?」

 「あー! じゃなくて、わたしの個人マネージャー」

 「何すんだよそれ」

 「何って…お弁当作ってくれてー、練習してるのを見守ってくれてー、練習終わったらタオルとか渡してくれてー、プールからあがったら髪の毛とか拭いてくれてー、」そう聞いて全部やってあげたいと藍は思ったが、

 「ただの世話係じゃねーか」

 「甘え過ぎだな」美奈子と鈴音から御尤もな指摘を受けた。

 「えー! わたし藍ちゃんに甘えたいー。甘やかされたいー」

 「ダメ(おっと)宣言出たな」美奈子が体を前傾させて鈴音に言う。

 「まあ藍さんがいいならいいんだけどな」いい。藍としては、碧に甘えてもらいたいし、甘やかしたい。

「個人マネージャーって肩書きはやめた方がいいな」

 「だな」

 「え? 何で? 何か変?」不思議そうに訊く碧と同様に、藍にも何故なのかは分からない。

 「変じゃないけど奥さんの方がいい響きだろ」諭すような口調の鈴音の言葉に、

 「そうだね!」碧は元気にそう答えた。藍には巧く丸め込まれたように見えたが、碧が納得したのならそれでいい。

 「! わたし料理部入ればいいんじゃね!? うまいもん食べまくり!」美奈子が少しだけ前に身を乗り出し、左掌を右拳で打つ。

 「いいね! 美奈ちゃんにピッタリ!」

 「働かざる者食うべからずだ。てーかその前に料理部なんてあんの?」

 「え!? ねーの!?」

 「多分ないよ…」藍は一応部活動一覧には目を通したのだが、載っていなかったはずだ。

 「ガッカリだな…」美奈子は背もたれに身をもたせかける姿勢に戻った。が、すぐまた少し前に乗り出し、

「いや! 鈴音と藍さんが作ればいいんじゃね!?」

 「分かった分かった。時々作ってやっから」

 「マジか! ラッキー! じゃなくて料理部作ればいんじゃね?って話」

 「だから家でやるので十分だっつってんだろ」

 「晩ごはんのおかず部活で作ればいいじゃん」

 「あっ、それ賢い! いいんじゃない? 鈴音ちゃん」

 「作る手間は増えねえけど、部作るのがメンドーだろ」

 「そーだな」部の立ち上げを提案した本人があっさりと折れた。

 「そもそも部活なんて作れんの?」

 「さあ。でも人数集めてどうこうとかすればできんじゃねえかや?」

 「わたし先生に聞いてみるよ! 10人ぐらいしかいないとこもあったから、以外と簡単かも」

 「お! 誉路死苦ー」と美奈子。

 「既に4人はいるしね!」

 「相生ちゃんも入る気か!」

 「食べ専になっちゃうと思うけどね! 藍ちゃんも入ってー」甘えた声で訴えてきた。

 「うん…」碧に頼まれては断る訳にいかない。それに、もし部活動をするとしたら第一の懸案事項は夕飯の準備を手伝えなくなることなのだが、その解決策も示されている。

 「よっしゃ! うまいもの食べまくりが見えてきたな」美奈子が調子のいいことを言う。

 「美奈子…本気か?」鈴音が少し驚きの混じった声で問うが、

 「それなりに?」美奈子の声は落ち着いていて、どれほど本気なのかよく分からない。

「うまいもの食べるためなら多少の労力はいとわないぜ」

 「美奈ちゃん、『その意気やよし!』だよ」

 「だろ? でも贄さんに聞くのは頼むわ」

 「うん!」

 「ホントに部作りそうな勢いだな」鈴音が振り返って藍に言う。

 「うん…」部活動に入るということの現実味はまだ無いが、鈴音に料理を教えてもらうのは望むところだ。

 「あ、ばーちゃん、あの神社って沙田神社?」自動車が道なりに大きく右に曲がったところで急に鈴音が話題を変えた。前方に木の鳥居が見えている。

 「そうだよ」

 「やっぱり。御柱やるとこ?」

 「そうだよ」

 自動車は鳥居の前の四つ辻を左へ曲がり、神社から離れていく。

 「だって」鈴音は振り向いてそう言った。主に碧に言ったのだろう。

 「うん! 今度自転車で来てみるよ!」

 「面白かったらレポートして」

 「うん! 柱ってどんなのか楽しみー」

 「何でわざわざ柱立てるんだろな」美奈子が身も蓋も無いような、しかし本質を突いているような疑問を口にした。

 「だよねー。柱だけ立てるんだよね? 井上君の言い方だと」

 「だろうな。ばーちゃん知ってる?」

 「諸説あるらしいがよく知らん。昔は上に建物が乗ってたのかも知れんし、神様の数え方が『何柱』だから柱自体が神様なのかもな」

 「おお! なるほど!」美奈子が感心する。どうも彼女は歴史や習俗に興味を持っているようだ。

 「神様ってそんな数え方なんですか?」驚く碧は恐らく多数派だろう。藍も「柱」を知らなかった。

 「そうだよ。古事記の最初の方から出てくるから、昔からそうなんじゃないかねえ」

 「へー! え? じゃあ四柱神社って四柱の神様を祀ってるってことですか?」四柱神社は縄手通り西詰の北側に在り、orangeの重要な舞台の一つであるので、藍も碧と巡礼した。

 「じゃないかね」実際、四柱神社では天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神の四柱を祀っている。

 「おおー。あ! ここが大庭! 鈴音ちゃん正解!」

 自動車は神社の敷地から三、四百m先で赤信号に止められた。信号機の上の交差点名表示板には「大庭」の二文字。

 「フフフ」

 「よーし、やっぱり自転車ですぐだね! 藍ちゃん、一緒に沙田神社行こ!」

 「え…うん…」碧はいつものように藍を後ろに乗せて行くつもりなのだろうか。

 「すぐか?」と鈴音。

 「駅から学校より近くない? 坂も橋のところだけだったし」

 「坂はそうだな」

 信号が青に変わり、自動車は動き出して交差点をゆっくりと右に曲がった。道の先に上り坂が見えているのがその橋だ。奈良井川を跨ぐ橋で、両島橋という。

 「自転車で行くんだったら、川沿いの道行くといい。川の方が正面だからね。しばらく行くと鳥居があるからすぐ分かる」

 「わ! ありがとうございます! そうします!」

 「堤防道路の右下にもう一本道があって、そっちの方が車が来ねえから、そっち走りな。信号のとこで階段降りなきゃならんが」

 「はい!」

 「ばーちゃんよくそんな道知ってんな」

 「抜け道探して探検したことあんだ」

 「いい道あった?」

 「いや、結局この道がベストだった」

 「ガッカリだな」

 「大体そんなもんだ」

 自動車は橋の手前の坂を上ったところでまた赤信号に捉まった。

 「ここですね?」碧が車窓の外を見て言う。

 「ああ。その階段な。まあ、坂下ってから折り返してもいいが、どっちにしても気をつけて行っておくれ」藍も、この坂を上る手前、右側に側道があるのを見た。橋の方から来るとほぼ百八十度回ることになるから、下りで加速したままでは碧と雖も曲がりきれまい。仮に曲がりきれるとしても、自分が荷台から転がり落ちるのは確実だ。

 「はい!」

 信号が変わって自動車が動き出すとすぐ、

 「む、あれか。えんどうなぎさ」美奈子が呟いた。

 「あー」と鈴音も声をあげる。

 「え? どこどこ?」

 「あー、もう通り過ぎた。電車に描いてあった」

 「あ、電車ね! そっか、あの橋線路なんだ」碧は少し前に身を乗り出して左の方を見ている。

 「うん…」自宅付近のことであるので、藍は線路と道路の位置関係を把握している。

 「かわいいよね、なぎさちゃん」

 「そーだな」

 「声もかわいいんだよね」

 「声もあんの?」美奈子は少し興味を覚えたようだ。

 「うん! 洞君からCD借りたんだけどね、車内放送とミニドラマが入ってたよ」

 「洞…そんなの持ってんのか」

 「季節列車の放送で隠れた名所紹介してておもしろかったよ」

 「へー。例えば?」

 「安養寺ってお寺の桜がスゴいんだって」

 「へー」

 「来年行ってみるつもり!」

 「近いの?」

 「三溝って駅の近くだって。調べたら松本駅から8駅だったよ」

 「遠いな!」

 「藍ちゃん家から7㎞ぐらいだったよ」

 「近いな!?」7㎞が近いというのは、美奈子の判断基準が篠ノ井線にあるからだろう。7㎞というのは、美奈子にとっての最寄り駅である明科駅からほぼ一駅分の距離である。

 「でしょ。坂がなければ自転車で30分」

 「いや遠いだろ」鈴音が振り向く。藍も、七㎞は遠いと思う。

 「え? 30分だよ?」碧がきょとんとした顔で言う。

 「30分も自転車こいだら疲れるわ」

 「え? そう?」碧は怪訝顔で美奈子に問うた。

 「んー、わたしは大丈夫だけどな、鈴音はムリだろ」

 「ムリムリ」即答である。藍の家まで自転車で来た時によほどくたびれたのだろう。

 「わたしも電車が安いなら電車で行くわ」

 「だろ」鈴音の目が、我が意を得たりと言っている。藍も無論そちらの仲間だが、碧と一緒ならば話は別である。

 「むー。…でも、みんなで行くなら電車がいいかもね」

 「弁当持ってくなら電車だな」

 「そうだね!」

 「駅から近いのかや?」そこは重要である。駅から何㎞も歩くのであれば自転車の方がよい。

 「うん! 地図だと道挟んで駅の斜向かいだったよ!」

 「あとは電車賃いくらかかるかだけだな」

 「調べとくね」

 「おう。…っても来年かー」そうである。藍も、来週にも花見に行くような気分になっていたが、つい二、三週前に散ってしまったばかりなのであった。

 「鬼が笑うってやつだな」鈴音がからかうように言うが、

 「いいじゃない! 笑わせてあげれば」碧は楽しそうである。

 「まあな」「そーだな」

 「踏切の手前曲がるんだったね?」突然、鈴音の祖母に問われて藍ははっとした。もう家からすぐの所まで来ている。自動車なら一分余りで着いてしまうだろう。

 「はい…!」慌てて返事をする。

 「いやー、今日は一日楽しかったなー」と美奈子。

 「そうだな」

 「また応援行こ!」

 「おう!」「だな」美奈子、鈴音と共に藍も頷く。

 間もなく自動車は踏切の手前を左折し、藍の家の前で止まった。

 「ありがとうございました!」

 「ありがとうございました…!」碧に続いて藍が礼を述べると、

 「お安い御用だよ」と鈴音の祖母は返した。

 碧が右側の扉を開けて車外に出、藍も続く。狭い道だが車通りが少ないので、右側から出ることに危険は感じない。

 自動車の方へ向き直ると、鈴音がこちらを見て右手を肩の辺りまで挙げる。同時に美奈子がシートベルトを外して一席分右にずれ、二人に手を振ってきた。

 碧と並んで手を振り返す。

 「じゃ、またね!」

 「おう!」「また」

 美奈子と鈴音が応え、碧は自動車の扉を閉めた。

 鈴音の祖母に二人して頭を下げると、少し間を置いて自動車はゆっくりと前進した。

 自動車が道なりに左へ曲がって視界から消えるまでその後ろ姿を眺め、藍は自宅の門の方を向いた。いつも碧の後をついていく藍であるが、ここは自宅だ。流石に自分が先に立たなければと、そう思ったのである。

 「あ! 忘れてた!」その背中で碧が大きな声をあげ、藍はそちらに向き直った。

「オバQ! ちょっと待って!」碧はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、操作し始めた。

 「うん…」確か、大人用のユニフォームを着た小さい子を見た時に出た話題だ。

 待つこと十数秒。

 「これこれ!」と碧が携帯電話を突き出してきた。

 「あ…」白い布を頭から被った何者かの絵だ。頭頂部の三本の毛と、前面中央部の分厚い唇、それに二頭身のように見える縦横比のせいで、愛嬌があって憎めない感じだ。

 「似てない!?」全体としては球技場で見かけた女の子と全く似ていないが、長い裾から足だけが見えている点は同じだ。

 「うん…あの子も裾が地面につきそうだったね…」それがとても可愛らしかった。

 「でしょでしょ! あ、梨乃さんに勝利の報告しよ!」

 「うん…!」

 「えーと、帽子帽子」と碧は背嚢を降ろして開けようとしたが、

 「碧ちゃん…かぶってるよ…」

 「え!?」碧は慌てて右手を頭にやると、

「ホントだ! かぶりっぱなしだった!! わー、バスじゃなくてよかったー。駅だったらちょっと恥ずかしかった!」

 「うん…そうだね…」如何にも、浮かれて球技場から帰ってきた人だ。もっとも、この奇天烈な帽子は碧の可愛らしさを損っていないし、それどころかユニフォームと相俟って普段とは違う魅力を引き出しているので、藍としては被っていてくれてよかった。

 「歪んでない?」碧は帽子の角の辺りを右手で指差した。

 藍は二歩離れて碧の正面に立ち、碧の顔と帽子を眺めた。左右の傾きと回転方向のずれは無いから問に対する答は「歪んでいない」なのだが、端折った帽子の縁が眉を隠しているのが気になる。もう少し上にあげて眉を出すともっと可愛らしいはずだ。

 両手を帽子に当てて少しずらすと、眉が現れ、思った通りとても可愛らしくなった。

 「うん…」と言うと、碧はにっこりと笑って、

 「ありがとう! じゃ撮ろ!」ズボンのポケットから携帯電話を取り出し、右手に持って前方に突き出した。

 「うん…」

 碧の左側に立ち、二人の上半身が映る携帯電話を見る。

 「レンズ見て~」

 「あ、うん…」毎回、つい画面の方を見てしまう。

 「One Soulね!」

 「あ、うん…」碧に倣って左手の人差し指を立てる。

 「いくよー。3、2、1、はい! もう一枚~。3、2、1、はい! よし、次はもっとアップね!」

 「うん…」

 碧が藍の前に体を入れ、頬と頬が触れるくらいに近づいてきた。

 「腰に腕回して~」

 「え…うん…」

 言われた通りにすると、右腕と身体の収まりがよくなった。

 「肩にあご乗せて~」

 「うん…」顔の高さを碧に合わせるのであろう。

 これも言われるがままにすると、やはり何だか収まりがよい。梨乃の車でアスランが自分の腿に顎を乗せてくる理由が分かったような気がした。

 「じゃ、いくよー。はい、レンズ見てー」

 「あ…」今度は、携帯電話を持つ手を見てしまった。右手の親指と薬指で携帯電話を持ち、人差し指でシャッターボタンを押そうとしているのを、器用だなと感心していたのである。

 「3、2、1、はい! もう一枚~。3、2、1、はい!」

 碧は携帯電話を操作して今撮った四枚の画像を確認し、

「うん、バッチリ! 梨乃さんに送るね!」

 「うん…!」

 「バ、ッ、チ、リ、勝、ち、ま、し、た、っと」文字入力に合わせてゆっくり読み上げ、

「送信!」力強い掛け声と共に人差し指で画面を突いた。

「お待たせー」

 「あ、うん…」藍はまだ碧の腰を抱いたままなのに気づき、名残惜しさを感じつつ手を引き戻して門扉に向かった。

 扉を押し開け、先に中に入って碧を迎える。

 「ありがとう!」

 「ううん…」

 碧が入り、藍は扉を閉めた。

 次は家の扉だが、こちらは引き勝手なので、碧を先に玄関へ入れる。ちなみに、青井家では、誰かが家に居る時には玄関を施錠しない習慣である。一般的には不用心なのであろうが、問題が発生したことが無いので、藍が疑問を抱いたことも無い。

 「ちょっと待っててね…」言い残して藍は居間へ向かう。帰宅したことを知らせるためだ。

 「うん」

 居間の戸を開けるが中は無人だ。恐らく巌は二階で音楽を聴いているのだろう。

 戸を閉め、廊下の突き当りの扉を開ける。台所だ。中では朱美がこちらに背を向けて夕飯の支度に取りかかっていた。

 「ただいま」声をかけると朱美は手を止めて振り向き、

 「おかえり」とだけ言った。

 「これ、後から片付けるから…」藍は保冷袋を食卓に置いた。

 「うん」

 普段ならこのまま夕食の支度を手伝うところだが、今日は碧が居る。振り向くと、まだ碧は靴を履いたまま玄関に立っていた。藍は急いで台所を出、玄関に戻った。

 「お待たせしました…」

 「ううん。お義母様晩ごはんの準備?」礼儀正しい碧のことだから、挨拶しようとしたのであろう。

 「うん…。どうぞ…」

 「お邪魔します!」

 階段を登ると、ピアノの音が聞こえてきた。巌が聴いているのだろう。「展覧会の絵」の最後の曲「キエフの大きな門」。展覧会の絵は、巌が好んで聴き、藍も好きな組曲だ。

 「お義父様?」

 「うん…」

 「藍ちゃんも一緒に聴くの?」

 「うん…時々…」自室にいる時に好きな曲が聞こえてくると、音楽部屋へ入っていくこともしばしばだ。そんな時、巌は聴き始めた曲を最初からかけ直してくれる。

 「じゃ、うちの映画と一緒だね! うちはお父さんが映画見る時にわたし達も誘ってくるんだ」

 「へえ…」なるほど、そうやって沢山の映画を観ることで自然に英語を身につけたのか。感心しながら藍は自室の扉を開けた。

 「おおー、藍ちゃんの部屋に戻ってきたー」藍が扉を閉めると碧が言った。

「なんか、一日長かったような短かったような、へんな感じ!」

 「うん…そうだね…」碧が自分と同じ感じを抱いていると知って、藍は驚きつつ喜んだ。

 「すっごい楽しかった!」

 「うん…!」多人数参加の催しがこんなに楽しかったと思うのは初めてだ。今日挨拶すら交わしていない同級生に対しても、何だか親近感を覚える。

 「やっぱり鈴木君には感謝だなー」

 「うん、そうだね…」全くである。美奈子、鈴音、緑子と仲良くなったことに加え、つばさとじゅんという他校の生徒と知り合えたきっかけは鈴木なのである。しかも、碧と揃いのユニフォームまで用意してくれた。

 「あ、帰りはユニフォーム脱がないと」

 碧は上体を屈めた。服が大きいため、頭が引っ掛かることも無くするっと脱げる。

 「ちょっと畳ませてー」

 「うん…」

 碧は寝台の上にユニフォームを広げ、手早く畳むと、傍に置いてあった背嚢に仕舞った。

 「む、着信」突如そう言って碧はポケットから携帯電話を取り出す。

「あ、梨乃さん! 返事早いなー」

 「うん…」何と書かれているのか気になる。

 「『勝利おめでとう! 応援の甲斐があったね。私も一緒に行きたかった。今度会ったら詳しく聞かせて下さい』だって!」

 「うん…!」一部始終を梨乃に聞いてもらいたい。

 「梨乃さんも、マルタの、話、聞かせて、下さいね、っと。藍ちゃんは? 梨乃さんに」

 「あ、えっと…」急に訊かれて言葉に詰まる。

「無事に戻ってきて下さい…」

 「了解! 藍ちゃん、いい人だ…」また過分な評価に藍は恐縮する。

「…よし! 返、信!」変身するような口調で言いながら画面を突き、碧は携帯電話をポケットに仕舞った。

 「藍ちゃん、明日予定ある?」

 「え、ううん…」明日はいつも通り、読書と勉強、夕食の準備、それに音楽鑑賞が加わるか加わらないかである。

 「じゃ、神社行こ! 沙田神社」

 「うん…」神社自体に興味は無いが、碧とならばもちろん行く。

 「やった! じゃ、明日9時でいーい?」

 「うん…」碧と過ごすのならばもっと朝早くからでもいい。

 「じゃ、今日は帰って勉強します! 藍ちゃん、今日もお弁当ごちそうさまでした! あんなに作るの大変だったでしょ?」

 「え、うん…でも碧ちゃんが手伝ってくれたから、すごく効率よく出来たよ…」自分独りで作っていたら、倍くらいの時間を要したのではないだろうか。それに、大変ながらも楽しく作ることが出来た。

 「ホント!? よかったー! 次作る時も手伝うね!」

 「うん…ありがとう…!」

 「じゃ」碧が背嚢を背負ったので、

 「うん…」藍は先に立って部屋を出、階段を降りた。

「今日、手伝ってくれてありがとう…」玄関で靴を履く碧に言う。

 「役に立ってよかったー。次は球技大会だったよね。いつだっけ?」

 「今月末…」玄関の扉を開けながら答える。藍はつっかけ履きなので、今回は碧より先に準備が出来ている。

 「そっか。球技大会もお弁当も楽しみー!」

 「碧ちゃんは何に出るの…?」

 「えー、何でもいいよー。あえて言うなら、バレーとバスケじゃない方がいいかなー。何があるのかな? 種目。学校行ったら聞いてみよ!」

 「うん…そうだね…」

 碧は家と塀の間に置いた自転車を引き出した。

 「あ! お弁当のこと鈴音ちゃんからまた提案してもらわないと!」

 「あ…そうだね…」そして、その前に鈴音から今回の参加者へ声をかけておいてもらった方が良いだろう。

 藍は門扉を開き、道路に出た。車通りの少ない道であるが、念のため、自動車が来ていないことを確認したかったのである。

 碧が自転車を押してついてくる。

 「あ、扉はそのままで…」門扉のことである。自転車を押しながら扉を閉めるのは煩わしいだろうと思ったからである。

 「ありがとう!」碧は門扉をそのままにした。藍の気遣いを察したようだ。

 碧は、門を出て自転車を右に向けると、サドルに跨がった。

 「じゃ、また明日ね!」右手を挙げた碧に、

 「うん…!」藍も大きく頷く。

 碧はゆっくりとペダルを漕ぎ始め、一秒ほど藍の顔を見てから前を向いた。

 曲がった道の向こうへ隠れてしまうまでの短い間その姿を見送り、藍は自宅の敷地へ背って門扉を閉めた。

 前回碧が自宅に来て帰るのを見送った時に感じた切なさを今日は感じない。代わりに、とても満ち足りた気分だ。それを少しだけ不思議に思い、碧は今どのような気持ちで自転車を漕いでいるのだろうと考えながら、藍は玄関の扉を開けた。



附 作中における虚実の説明


 現実世界についての説明は、いずれも令和元(西暦二〇一九)年頃のものです。

 作中に登場する、実在する本、漫画、映画等、著作物についての説明は省略いたします。


船で埋まっている港(梨乃が撮影した港)

 実在します。マルタ共和国のMarsaxlokk(マルサシュロック)という町の港です。港のすぐ前に屋外席の有るレストランも実在します。

アルウィン

 実在します。正式名称は松本平広域公園球技場です。

松本山雅

 実在します。正式名称は松本山雅フットボールクラブ、運営する会社の名称は株式会社松本山雅です。

 ホームゲームにおけるシーズンパス所持者の先行入場方法が2020シーズンより変更になりましたが、作中では2019シーズンまでの方法を継続しています。

臙脂色の服のボランティア団体

   実在します。チームバモスという名称で、松本山雅のホームゲーム運営を支えています。

ガンズくん

 実在します。松本山雅のオフィシャルマスコットです。

沙田神社

   実在します。

 大庭交差点

 実在します。

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