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リセエンヌ  作者: 松本龍介
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電話

電話


 「藍ー、電話よー!」一階から母親の呼ぶ声がした。

 「はーい」彼女にしては大きな声で答え、階下へ向かう。

 「相生さんから」居間に姿を現した彼女に向かい、エプロン姿の母親が受話器を差し出す。藍をそのまま大人にしたような容貌。身長も髪の長さもほぼ同じだ。普段化粧をしないせいか、四十を過ぎている割には肌が若い。

 藍が一つ頷いて受話器を受け取ると、母親は部屋を出たが、電話と娘の様子が気になっているのが見え見えだった。

 「お待たせしました、藍です」相手が碧だと分かっていても、よそよそしく挨拶してしまう。

 「あ、藍ちゃん? 碧です!」しかし、碧は全くそんなことは気にしていない様子だ。

「乗馬の件で梨乃さんからメールが来てね、土曜朝早く出るから、金曜泊まって一緒に行きましょう、って! 藍ちゃん、金曜の夜梨乃さん家泊まれる?」電話の向こうの声は明らかに興奮している。

 「え…? えっと、予定はないけど、親に聞いてみないと……」

 「うん、そうだよね。今日聞いてみて!」

 「うん…。夜、電話するね…」

 「うん、待ってる! じゃあね!」

 「…うん…ありがとう…」

 「うん!」碧は電話を切った。年頃の娘とは思えないあっさりさだ。

 藍は、受話器を置いて、ふう、と深い息を吐き、次に深く吸って、台所に向かった。

 「お母さん」昼食の支度をしている背中に向かって声を掛ける。

 「なあに?」母親は振り返らずに応えた。

 「金曜、友達と泊まりに行きたいんだけど、いいかな?」

 母親は、菜箸で抓んでいたコロッケを油の中に取り落とした。油が大きく跳ね、「熱っ!」と声を上げる。

 「どこに?」動揺を隠し冷静を装っているのが藍にも分かった。その理由も見当がつく。

 「高辻梨乃さんっていう人の家。制服作った店の店員さんで、信大の学生なの。乗馬やってて、今電話くれた碧ちゃんと土曜日見学に連れてってもらうんだけど、朝早く出発するから金曜の夜から泊まりに来なさい、って」素晴らしいまとめ能力だ。受話器を置いてから母親に話し掛けるまで約一分。かなり頭の回転が速いと言えるだろう。

 「…………そう。相生さんも一緒に?」背を向けたまま母親が問う。

 「うん」

 「いいんじゃない? お父さんにも聞きなさい」

 「うん。ありがとう」

 「ん」

 結局、母親は振り向かなかった。


 同じ日の夕食時。いつもの時刻に帰宅した父親を含む家族三人で食卓を囲んでいた。

 中肉中背よりほんの少し痩せ気味な父親が、紺色の長袖Tシャツと黒のチノパンに着替え、白馬錦とラベルの貼られた一升瓶からコップに半分ほど注ぎ、そのコップを左手に持ったところだった。

 「お父さん」父親が怖いということはないが、母親よりも頼みにくい。少し緊張した表情で藍は呼びかける。

 「ん?」

 「金曜、友達と泊まりに行きたいんだけど、いいかな?」

 父親は、炬燵の天板から少しだけ浮かせていたコップを取り落とした。コップが天板に当たって斜めになり、

 「危ね!」と声を上げてコップを握る。

「どこに?」動揺を隠し冷静を装っているのが藍には分かる。もちろんその理由も見当がついている。

 「高辻梨乃さんっていう人の家。制服作った店の店員さんで、信大の学生なの。乗馬やってて、今日電話くれた碧ちゃんと土曜日見学に連れてってもらうんだけど、朝早く出発するから金曜の夜から泊まりに来なさい、って」母親に言ったことを、微妙に改訂して繰り返す。母親に言う前に、組み立てた文章を心の中で繰り返し、覚えていたのだ。彼女にとっては、それだけ用意周到にしなければならない案件なのである。

 「そうか。その、碧ちゃんて子と一緒に?」

 「うん。前に話した相生さん。合格発表で会って、制服屋でまた会った人。同じクラスになったの」

 「そうか。その、高辻さんの家はどの辺りなんだ?」

 「うちの高校と信大の間くらいだって」

 「そうか、じゃあ送らなくてもいいな」

 「うん。…じゃあ」藍の表情がぱーっと明るくなった。

 「高校生になったからな、そういうのもいいだろう。先方に御迷惑のないようにな」

 「はい」少し畏まって答えた。父親は、それを見てゆっくりとコップを口に持って行った。

 この時点で、両親は碧のことを名前しか知らない。中学入学以来初めて藍が口にした「友達」であるため、好意を感じてくれているはずだが、何分(なにぶん)会ったこともない相手だ。しかも泊まるのはさらに別の知り合いの家。普通ならばそのような外泊は許さないだろう、と藍は思う。自分を信頼してくれているのか、放任主義なのか、単に娘に甘いのか、深く考えていないのか、何か他に期するところが有るのか。

 藍は、簡単に許可が出るとは思っていなかったから、説得するため、碧や梨乃についての説明を色々と考えていたのだが、それは有り難い無駄に終わった。

 それからいつものように三人で夕食を摂ったが、藍はまるで上の空で、何を食べたのかすらよく覚えていなかった。


 「はい、相生です」

 「あ、碧ちゃん? …藍です、こんばんは」

 「やっぱり藍ちゃん? 番号でそうかなと思ったけど、一応」

 「うん」

 「で?で? OKだった?」

 「うん!」彼女にしては勢いのいい声で言った。表情も、はっきりした笑顔だ。

 「やったあ!」向こうはそれを上回る勢いだ。喜んでいる姿が目に浮かぶ。同じように、向こうにも藍の笑顔が感じられているだろう。

 「じゃあ、早速梨乃さんに連絡するね! 藍ちゃん、金曜どうする? 着替え取りに一回帰る?」

 「あ……えっと…、まだ全然考えてなかった…けど……」

 「わたし、一回帰るのめんどくさいから、学校に着替え持っていくつもり。荷物ちょっと重くなるけど、藍ちゃんもそうしない? そしたら、梨乃さん家に行くまで一緒に遊べるし!」

 「あ……うん、そうだね…」放課後を想像して頬が緩む。心の動きが言葉の端に現れたのか、

 「考えといてね!」碧が期待たっぷりな口調で言った。

 「…うん…話変わるんだけど……」藍が遠慮気味に言うと、

 「えっ、なになに?」碧はすごい勢いで食いついた。

 「姑獲鳥の夏、面白かった……続き、貸してくれる…?」京極堂シリーズの第一巻だ。

 「もう読んだの? 明日持って行くね!」

 「ありがとう。昨日の朝読み出したら止まらなくなっちゃって、夕方まで一気に…」

 「そっかー。気に入ってもらえてうれしいよー。わたしも読み出したら止まらなかったよ。三日かかったけど」

 「え……もしかして二晩徹夜したの…?」

 「ううん、夜はちゃんと寝たよ。わたし、遅くまで起きてるの苦手だから」

 「…私も、苦手な方かな…」

 「その代わり早起きでしょ? その方が健康にはいいけど、友達と(はなし)して夜ふかしとかちょっと憧れる~」

 「…………」また想像してうっとりしてしまった。

 「藍ちゃんはそんなことない感じ?」応えがないのを否定と感じたのか。

 「あ、ううん…、今までそんなこと考えたこともなかったから……。私も、そういう夜更かし、いいと思う…」

 「そっかー。残念ながら、今回は無理そうだけどね…」

 「朝早いから泊まるんだもんね…」

 「まあそれはまたそのうち、だね!」

 「うん…!」

 「じゃあ、また明日!」

 「うん…!」藍の返事の二秒ほど後に、電話は切れた。

 藍も通話終了のボタンを押し、受話器を充電器に置いたが、何となく受話器を離したくない。

 少しずつ顔に笑みが広がるのを他人事のように感じながら大きな息を吐く。それから漸く受話器を離して、扉の方へと歩き出した。

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