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リセエンヌ  作者: 松本龍介
49/62

山雅応援2(/3)

 三分割の二つ目です。

 外に出て扉を閉め、車両の背後に回ってみると、ちょうど荷物が車外に出され始めたところだった。先頭はペットボトル入りの茶が入っているらしい段ボール箱で、碧に抱えられている。それをそっと歩行者通路に置き、碧は鈴音と美奈子の後ろに並んだ。藍がさらにその後ろについた時、車両の左手の方から男子がわらわらとやってきた。

 「これ持ってってええんですか」段ボールを持ち上げながら藍に訊いてきたのは河内だ。藍は何と答えるべきか分からず慌てたが、

 「夜賂死苦! みんな一つずつ持ってってー」すぐに鈴音が振り向いて応えたのでほっとした。

 荷物は、今の段ボールに、風呂敷包み十、保冷袋一、それに食器の入っているらしいナイロン袋が二、ペットボトルの入っている段ボール箱とナイロン袋が一ずつである。

 まるで配給するように鈴音が荷物を一つずつ渡していくと、図ったように荷物の数と人数が一致した。

 「以上です。ご苦労様でした」

 最後尾に並んでいた、美奈子によると神社バカ一代の()(ばやし)(かず)(ひこ)は荷物を受け取ると無言で踵を返そうとしたが、

「待って待って。集合場所分かんないから連れてって」慌てて言う鈴音の方に向き直った。ほぼ同時に、

「ばーちゃんサンキュー!」鈴音が車内に向かって声を掛けると、

 「勝って帰れよ」鈴音の祖母が左手を軽く上げ、鈴音は後部ハッチを閉めた。

 白い貨物車がゆっくりと動き出す。ちなみに、荷物を下ろしている間に観光バスは発車してしまっている。

 「お待たせー。夜賂死苦!」

 小林は一つ頷いてもう一度踵を返し、歩き始めた。

 「小林君、松本(じゅう)の神社自転車で回ってるんだって?」碧が小林の隣に並んで話し掛けた。藍は、いつもより一歩ほど下がって碧についていく。

 「(じゅう)は言い過ぎ。山の方までは行けてない」

 「山の方って?」

 「()(ずみ)とか()()とか(うつくし)とか?」いずれも、高低差が激しいだけでなく、市街地からの距離も遠いという条件だ。

 「安曇って平野じゃないの?」

 「それは安曇野。安曇地区は上高地方面」

 「そうなんだ。それは自転車じゃ厳しいね」

 「大学入ったらバイトしてバイク買って行くよ」上高地には交通規制が有り、かなり手前までしか一般車両は入れないが、二人も、斜め後ろを歩きながら聞いている藍達も、そんな事は知らない。

「相生さん神社好きなの?」

 「や? 自転車で回ってるって方に興味が」

 「そうか」小林は残念そうに肩を落とした。その様子に気を遣ったのか、

 「小林君はどこの神社が好きなの?」

 「難しい質問だね。基本神社はどこも好きだから」

 「そっかー。じゃ、面白いところは? 何か変わってるとことか。あ、できれば南松の近くで」

 「(いさご)()神社」小林は即答した。

 「いさごだ…どんな字?」

 「沙悟浄の沙に田んぼの田」

 「うわー、読めない!」

 「読めないね」

 「で、何が面白いの?」

 「(おん)(ばしら)

 「おんばしらって諏訪大社の専売特許じゃないの?」

 「松本にも御柱やる神社が七社かな?あって、沙田神社はその中で一番規模が大きいんだ」

 「へー! じゃあれやるんだ!? 丸太に乗って坂すべるやつ!」

 「ないね。見てないから確実じゃないけど」

 「え? それが面白いんじゃないの?」

 「御柱自体だね。社を囲んで四本立ってるよ」

 「え!? あれって立てるの!?」

 「そりゃ御『柱』だから」

 「おお!! なるほど!」

 「高さそろえて先端もとがらせて、なかなかきれいにしてあるよ」

 「へー! 面白そう!」

 「それと、祀られてる神様が珍しいらしい。式内社では日本でここだけ、って本に書いてあった」

 「何て神様?」

 「沙土(すいじ)(にの)(みこと)」古事記のかなり初めの方、神代七代のうちの一柱である。

 「何の神様?」

 「砂と土」

 「へー! しきないしゃって何?」

 「平安時代に作られた延喜式神名帳っていうのに載ってる神社」

 「じゃあ古い神社なんだ」

 「松本で一番古いはず。社がなかった頃まで含めると、649年まで遡るって」

 「古っ!」

 「あ、確か今日祈年祭なんじゃないかな」小林の記憶は正しい。沙田神社では毎年五月三日に執り行われている。

 「きねんさい?」恐らく碧の脳内では記念祭と変換されているのだろう、と藍は推測する。松本高校の行事に記念祭があるからだ。

 「その年の豊作とか安泰を祈る神事」

 「へー。え、沙田神社ってどこにあるの?」どうやら碧はその神社に関心を覚えたらしい。

 「大庭駅分かる? 上高地線の」

 「藍ちゃん、分かる?」碧が急に振り向き、そう訊いた。

 「え…うん、渚の二つ先…」

 「わ、近くだね! で、大庭駅から?」碧は前に向き直った。

 「南にまっすぐ数百メートル。左側。行けば分かるよ」

 「それってさ、さっき通ってきたところじゃね?」鈴音が会話に入ってきた。

 「え、ホント?」碧が再び振り向く。

 「確か、橋渡ってから左に曲がった信号が大庭って書いてあったと思うんだよねー」では、あそこがそうか。藍は、大きな木の鳥居とその奥の木立を思い出した。

 「ホント? じゃ、藍ちゃん家からすぐだね!」いや自動車ですぐでも自転車ではそうではない、と藍は思ったが、口には出さなかった。碧と自分の「すぐ」が違うのは明らかだからだ。

「今度行ってみよ!」

 「うん…」場所がどこであれ、碧と一緒ならば行ってみたい。

 「ありがとう、小林君」

 「仲間増えるの期待してるよ」神社好きの仲間、ということであろう。

 「あ、あそこ?」前方を碧が指差した。その数十mほど先には自動販売機が二台並び、その前に河内が立ってこちらを見ている。弁当部隊の指揮官である鈴音を待ち構えているのだろう。よく見ると、自動販売機の左右に、複数の男子が座っていた。ちなみに、その向こうにはコンクリート造りの平屋の建物が、さらにその向こうには球技場の柵が見えている。

 「うん」小林は簡潔に答えた。

 それから一分ほど無言で歩き、藍達は男子と合流した。

 自動販売機の背後には芝生が広がっていて、その芝生の中、自動販売機から三mほど先に植え込みが延びている。その、自動販売機と植え込みで囲まれている部分に銀色の大きな敷物を広げ、その上に座る者、寝転ぶ者、思い思いである。敷物を何枚使っているのか分からないが、ざっと三m×十mを占有している。少し場所を取り過ぎではないか、いやそもそもこの芝生に上がり込んでいいのかという心配が藍の脳裡をよぎったが、そこは鈴木がきちんと見ているはず、と思い直した。

 「緑は?」弁当一式の置かれた敷物の脇に立って鈴音が男子一同に問い掛けると、

 「先行入場の抽選行ってる」一番近くにいた()()(よし)(かず)という男子が答え、

 「そか」鈴音は靴を脱いで敷物の上に上がった。美奈子、碧、藍と続き、荷物を置く。

 「じゃあランチターイムまでヒマだな?」美奈子はどっかと座って胡座をかいた。男子の前でも気にしないらしい。

 「や、とりあえず鈴木と打ち合わせた方がよくね?」

 「あ、そだな。じゃ、鈴木が戻るまで待ちか」

 「だな」

 「あ、二人とも着替えてきたら? みんなユニフォームだよ」と言いながら、碧は帽子の位置を直した。歩いている裡にずれてしまったようだ。

 確かに、同級生男子達は皆、そして近くを通り過ぎて行く人たちもほぼ全員がユニフォームに身を包んでいる。

 「そだな、忘れてた。トイレどこ?」鈴音が佐野に訊く。

 「それ」佐野は、芝生と球技場の間にあるコンクリート造りの建物を指差した。

 「いいとこにあるじゃーん。じゃ、ぱぱっと行って来っか」鈴音は自分の鞄を取った。

 「ん」美奈子も荷物を取って立ち上がる。

 「わたしもトイレ行っとこ」碧まで立ち上がったので、

 「あ、私も…」藍も慌ててついて行くことにした。碧が行くからということもあるし、今のうちに用を足しておこうということもあるが、何より女子が自分一人という状況を避けたかったのである。

 「何かあれだね、ピクニックみたい! これから試合って感じあんまりしないね」

 「そだな。ユニとタオルだけだな、試合感あんの」碧と美奈子の意見に藍も賛成だ。周囲の人も何となくのんびりとしていて、これから試合だ!という気合を感じない。

 「鈴木君みたいな人がいっぱいかと思ってたよー」

 「うん…私も…」

 一行は建物の向こう側に回り、中に入った。

 「わ、けっこう並んでるね!」

 「え…うん…」ほぼ無人なのを想像していたのだが、待っている人が並んでいる。当然満室ということだ。

 「こりゃハーフタイムにトイレ入るのはムリか?」

 「そんな気してきたな…」全くである。試合開始四時間前でも並ぶのだから、ハーフタイムともなると長蛇の列を成すのは確実だ。ハーフタイムが何分あるのか藍は知らないが、列が無くなるほど長くはあるまい。

 「試合前には絶対行っとかねーと」

 「だな」「だね!」

 「うん…」

 程無くして順番が回り、用を足して建物から出ると、碧だけでなく、美奈子と鈴音も律義に藍を待っていた。戻る場所が分かっていてしかもすぐそこであるので、てっきり先に戻っていると思っていた藍は、驚きと共に感謝の念を覚えた。

 美奈子も鈴音もユニフォームに着替えている。

 「トイレきれいだったな!」と言って美奈子が歩き出し、

 「な」鈴音も続いた。

 「体育館のトイレみたいなの想像してたけど」碧は藍と並び、

 「うん…」確かに、予想外に設備が充実していたし、掃除も行き届いていた。

 「うちの学校のトイレ絶対冬寒いよな」

 「だな」「だね」「うん…」松本高校の女子便所には暖房が入っていない。藍の知るところではないが、恐らく男子の方も同じだろう。

 「おしりから風邪引きそうだよねー」

 などと言っている間に弁当を置いた場所まで戻った。その間に、緑子や鈴木も戻って来ていた。

 「おっはよー」鈴音が少し遠めから大声で呼び掛け、気づいた緑子が、

 「おはよー! 弁当ごくろうさん!」こちらも大声で応じた。間には、数人の男子が座っている。

 「そっちも、場所取りご苦労さん! てこれからだけど。あ、そうだ。鈴木君!」

 「はい?」振り向いた鈴木は一秒ほど声の主を探した後、

「相生いい気合いだな!」と言ってから、

「えーと、今の声は高木か?」鈴音に焦点を合わせた。

 「お昼の時間だけど、11時でいいね?」

 「おう! 入ってからだとバタバタするからその方がいいな! ただ、列整理終わるまでは向こう行ってる」

 「それっていつ?」

 「11時開始」

 「丸かぶりじゃん、時間」

 「そんなかからねえと思うぜ。早い番号引いたからな!」鈴木は得意げである。

 「何番?」

 「53番」

 「何番まであんの?」

 「登録した人数次第だけど、大体2500とか3000とか?」

 「お、そりゃ早えわ。やったじゃん」

 「おうよ! やっぱり普段の行ないだな!」

 「ないない」鈴音と美奈子が声と動きを合わせた。右手を顔の前でぱたぱたと振ったのである。

 「何っ!? 山雅をこよなく愛し、今日のために心を砕いてきたこの俺が!?」心外極まりない、といった表情と口調で鈴木が抗議する。芝居がかっているが、演技なのか自然なのか藍には判別出来ない。こと松本山雅に関しては鈴木の情熱は偽り無いと思われるから、後者なのかも知れない。

 「その部分は認めてやるが、普段の行いそれが全てじゃねーだろ」美奈子は鈴木に対しては手厳しい。

 「いや、サッカーの神様にとってはサッカーを愛してるかどうかが重要なんだ」

 「言い切ったな…ま、それでいいわ。いい番号引いたんだったら」

 「あと、中川の友達が202番引いてくれた」

 「その友達は?」

 「まだファンパークじゃねえかな。おれと中川だけ先にこっち来たから」

 「ふーん。ファンパークって何?」

 「あー、そっか。抽選会場がある広場。屋台が出てんだよ、今日」

 「ふーん」

 「あ、校長もファンパークにいたな」

 「また何で急に校長来るとかなったのよ?」鈴音が会話に戻った。

 「来るってのは急じゃなかったみたいだけどな。今日、急に弁当も食わせろって連絡来たんだ」

 「校長の連絡先知ってんの!?」

 「や? 贄さんから」

 「あー。贄さんは? まだ来てねーの?」

 「10時半ぐらいに着くってよ」

 「で、何で校長来ることになったのよ」

 「知らねー。贄さんから聞いたんじゃねえの?」鈴木がそう言うのを聞いて、藍は少し後ろめたさを感じた。校長に参加を唆したのは自分なのである。

「もしかして弁当足りねえ?」鈴木が多少心配そうな顔を見せる。

 「いや、大丈夫なはずだけど」

 「そうか」鈴木はいつもの飄々とした表情に戻った。

「弁当のことは100(パー)任せるとして、入場のことなんだけどな、この4人に引率頼んでいいか?」

 「わたし達場所分からないよ?」碧が応えた。

 「ざっくりした方針だけ。入ってみねえとどこ取れるか分かんねえし」

 「そっか」碧の言葉を諒解と捉えたらしく、鈴木はすぐ話し始めた。

 「まず4ゲートから入ってくれ。このトイレの向こうな。列の先頭はあの辺で」便所の裏に当たる芝生を指差し、

「最後尾はあっち」向きを変えて、藍達が車を降りた駐車場の方を指差した。

 「うん」碧が頷く。藍も、先程便所に行った時に、柵の向こうにテントが建っていたのを見た。あれがそうだろう。

 「荷物検査があって、その後チケットな」なかなか親切な事前情報だ、と藍は思った。

 「うん」

 「荷物って何見んの?」と鈴音。無論、弁当や飲料のことを心配しているのだろう。

 「危険物と飲み物だな。ビン、カンと大きいペットボトルは持ち込み禁止だから」

 「緑が言ってたやつか。500は大丈夫なんだよね?」

 「おう」

 「レアチーズ大丈夫かな? 入れ物2ℓなんだけど」今度は碧が不安そうな声で言った。

 「ペットボトルじゃねえんだろ?」

 「うん、タッパー」

 「じゃ、大丈夫なんじゃねえかな。没収されたって聞いたことねえから」

 「そっか」

 「他にはいいか?」鈴木の問いに誰も答えなかったので、鈴木は言葉を継いだ。

「ゲートくぐったらまっすぐ進んで、一つ目の入り口で入ってくれ」

 「えーと、右側?」

 「右側。えーと」鈴木は携帯電話を操作し、

S-1(エスいち)って入口」

 「S1ね」

 「入ったら左側見て、俺たちを探してくれ。かなーり人入ってるはずだから見つけるの大変だと思うけど、席取った時点で大体の場所連絡すっから」

 「うん」

 「入ったところより下段には行かねえつもり」

 「うん」

 「分からなかったら電話してくれ。男子は大体おれの番号知ってっから」

 「うん」

 「以上」

 「S1入って左上ね」碧が簡潔に纏めた。

 「おう。じゃ、よろしく頼むわ。」鈴木は合掌し、藍、碧、鈴音、美奈子と順に正面になるように上体をを少し回した。

 「うん」

 「チケット今渡していいか?」

 「うん。預かるよ」

 鈴木は腰から下げたチケットホルダーを取り外し、

 「よろしく頼む」と言って碧に渡した。

 「うん」受け取った碧はチケットホルダーごとポシェットに入れた。

 「あ、忘れてた。ユニフォーム犬ファンパークにいたぞ」

 「え、ホント!? どっちどっち!?」

 「この道まっすぐ行って左。人の流れで分かるわ。迷ったらえんじ色のポロシャツの人に聞いて」

 「よし! 藍ちゃん、行こ!?」

 「え…うん…!」藍の返事を待たず、碧は藍の手を引いて歩き出した。

 碧が大股且つ足早に道を下るので、手を引かれた藍は強制的に走らされることとなった。

 五、六分かけて上ってきた道を三分ほどで下ると、左方向へ向かう道に当たったのでその丁字路を曲がる。鈴木の言葉通り、人の流れが出来ていて、迷うことは無かった。

 前方には四阿の屋根と二台の移動販売車、それに幾張りかのテントが見えている。鈴木の言っていた屋台とはこのことだろう。

 碧に手を引かれながら人波に乗って流れていく。

 三、四十m進んだところで、

 「あ! いた!」碧が叫び、道から外れて芝生へ入ると、坂を下ってきた時と同じような勢いで四阿の方へ進んだので、藍はまた走ることとなった。

 四阿まで十mというところまで近づいて、漸く藍にもその犬を視認することが出来た。白い大きな犬で、ユニフォームらしい服を着て佇んでいる。いや、見えているのは頭と尻尾と足だけだが、それらが全て白いので、真っ白な犬だろうと推定される。隣に立った婦人が飼い主と思われるが、四阿内の長椅子に座った誰かと話をしているようだ。どちらも鈴木と同じユニフォームを着ている。

 碧は藍の手を引いたままその婦人の傍に行き、

 「すみません、撫でてもいいですか?」と問いかけた。婦人は碧の方を見て、

「どうぞ。よだれ付かないように気を付けて」とだけ言って元の会話に戻った。

 「ありがとうございます!」軽く頭を下げ、犬の傍へ一歩移動して、碧は藍の手を放し、屈み込んだ。藍は立ったままその様子を見る。犬が着ているのは、恐らく自分が着ているのと同じユニフォーム。背番号まで同じ12だ。恐らくは、飼い主が着ていたお下がりなのだろう。そのユニフォームがピッタリと身体に付いているから、かなりの胴回りだ。

「ウヒョー、ふっくふく~!」犬の頭を撫でた碧が感嘆の声をあげる。アルプス公園で小さい男の子がアスランを撫でた時に使った表現だ。気に入ったのだろうか。

「藍ちゃんも撫でさせてもらおうよ。おとなしいよ」

 「え…うん…」藍は正直気が進まない。何となく、アスランとラブに対して申し訳ないような気がするのだ。

 「さあ、さあ、さあさあさあさあ」藍の躊躇をどう判断したか、わざとらしい節をつけて碧が急かす。

 「え…うん…」藍は仕方なく碧の隣、犬から見て右前にしゃがみ、左手で犬の頭を撫でた。なるほど、ふくふくだ。アスランよりかなり毛足が長い。ということは、見た目よりも本体はかなり細いようだ。尤も、それでもアスランとどっこいどっこい。かなり大きい。藍は知らないことだが、この犬はピレネー犬。体重五十㎏を超える個体も珍しくない犬種である。

 犬は、少し藍を見た以外身じろぎ一つせず、大人しく撫でられる。アスランのように尻尾が大きく動くことを予測していた藍は、反応が無いことに少しがっかりしたが、撫でながらじっと見ているうちに、僅かに尻尾が左右に動いていることに気づいた。自分が撫でていることが犬にとって迷惑ではないのだと思い、藍はほっとした。

 「おとなしくていい子だね!」と言って、碧が首から胸を撫でる。

 「うん…」

 「この子何て名前なんですか?」飼い主に尋ねると、

 「ライオン丸」簡潔な答えが返ってきた。

 「ライオン丸! ピッタリな名前ですね! ライオン丸、いいやつだなー!」少し荒っぽく、ユニフォームの上から胸を撫でる。

「かわいいね!」

 「うん…」確かに可愛い。

 「真っ白だし、ライオン丸ってピッタリ。すごい大きいけど」

 「え……?」一部の個体を除いて、ライオンは白くないはずだ。

 「忍者ハットリくんが飼ってる忍者犬が獅子丸って名前で、白くてふくふくなの。小っちゃいけど」

 「あ、そうなんだ…」

 「獅子丸じゃなくてライオン丸から取ったのよ」飼い主が会話に入ってきた。まだ話の途中のようだから、碧の言葉が聞き捨てならなかったのだろう。

 「え!? ライオン丸ってのもいるんですか!?」

 「実写でね」

 「知りませんでした! 調べてみよ!」碧はライオン丸から手を離し、携帯電話をポシェットから取り出した。藍は碧の方を見ながらライオン丸の頭を撫で続ける。

 十秒ほど経ち、

 「これか! 似てるー!」碧が携帯電話の画面を藍の方へ向けた。画面に映っているのは、変身ヒーローのような服を着た人身獅頭の人物だ。

 「うん…」その鬣の白さと質感が、今撫でているライオン丸と確かに似ている。

 「名前つけた時はここまで似てくると思ってなかったけど」

 「あの、ライオン丸のユニフォームって大きさどれだけなんですか?」藍も少し気になっている質問だ。

 「えーと、うちの旦那は確か2XL…」

 「大きい! 2XLでもパツパツですね!」

 「毛がね。丸刈りにしたら意外と細いんだけど」

 「シャンプー大変ですね!」

 「洗うより乾かす方が大変。洗ってる時はじっとしてるけど終わったらすぐどっか行こうとするから」

 「歩いたところびしょ濡れになっちゃいますね」

 「そう! 犬飼ってるの?」

 「うちは猫です」

 「猫は猫でよさそう」

 「はい、かわいいです! うちの猫は小悪党ですけど…」

 「そうなの? そこは犬の方がいいね」

 「そうですね! ライオン丸はいい子だなー」また少し荒っぽく胸を撫でる。

 藍はこの間、碧と飼い主を見ながらずっと頭を撫でていた。不思議なもので、撫で始めると可愛らしく思えてくる。

「藍ちゃん、行こっか」

 「あ…うん…」応えながら、藍は名残惜しさを感じた。

 「ライオン丸、ありがと!」最後に一撫でして碧は手を離した。

 藍も、口には出さなかったが、ありがとうと心の中で唱えてから手を離した。

 「ありがとうございました!」「ありがとうございました…」

 「いいえー。勝ちましょう!」

 「はい!」

 何のことだろう、と二人のやり取りを藍は訝しんだが、ああサッカーの試合のことかと、再び碧に手を引かれて歩き出しながら思い至った。

 「いやー、満足満足!」

 「うん…」

 「かわいかったね!」

 「うん…」

 「なで心地もよかったし!」

 「うん…」

 「スタジアムって犬も入れるのかな!?」

 「え…だめなんじゃないかな…」

 「やっぱりかー。一緒に応援できたら楽しいのにね!」

 「うん…そうだね…!」碧と梨乃と自分、それにアスランとラブとクロが一緒に座っているところを想像して、藍は口元を綻ばせた。

 「ライオン丸の服、わたし達と同じだったね!」

 「うん…」

 「飼い主さんの服は鈴木君のと同じだったね」

 「うん…」

 「あれが今年のモデルなのかな?」

 「あ…そうだね…」毎年一枚買うようなことを言っていたから、きっとそうなのだろう。周りを見てみると、ざっと二、三割の人がその意匠のユニフォームを着用している。

 「この服気持ちいいよね」

 「うん…」今はブラウスの上から着ているので直接肌には触れていないが、試着会の時に経験済みだ。流石は選手が身に着ける服、肌に触れる感触がとても心地好かった。

「あのね…」周りの人たちの背中を見ていて、藍の脳裡に一つの疑問が浮かび上がってきた。

 「うん!」

 「さっきの人も鈴木君も12番だったけど、12番だけ名前が書いてないんだね…何でかな…?」恐らくその番号をつけている選手の名前なのだろうと推測するが。

 「お! 教えて進ぜましょー!」

 「うん…」

 「12番はサポーター用の番号で、選手はつけないからだよ!」実際のところ、そう規定されている訳ではないが、ほとんどのクラブが12番を欠番にしている。

 「サポーター…?」

 「サッカーでは応援する人のことそう言うんだって」

 「ファンとは違うの…?」

 「や、わたしも詳しくは知らないんだけど、fanだと好きなだけ、って感じだけど、supportorだとクラブを支えるって感じじゃない?」

 「あ、なるほど…」supportの意味をそのままに受け取るならそうなる。藍は感心した。

「何で12番なのかな…?」

 「サッカーは11人ずつでやるスポーツだけど、サポーターは12番目の選手なんだって」

 「へえ…」藍には今一つ腑に落ちない。どれだけ熱心に応援しても、自分たちが試合に参加出来る訳ではないのに。

 「わたし達も今日はサポートするよ!」

 「え…うん…」腑には落ちていないがとりあえずそう応えた。

 「試合、スゴい楽しみになってきたー!」

 「うん…」

 「さっき広場にうちの男子いたね!」話題が変わった。

 「え…そうなの…?」全く気付かなかった。と言うか、全くそちらの方を見ていなかった。

 「一緒の女の子が緑ちゃんの友達かな!」

 「うん…そうだね…」事前情報から判断してきっとそうなのだろう。

 「二人ともスカート短かった!」

 「あ、そうなんだ…」

 「あの子達も一緒に応援するのかな!?」

 「うん…」分からないが、その可能性は高いだろう。

 「だとしたら男子試合どころじゃないね!」

 「え…?」

 「ミニスカート3人に美奈ちゃんだよ! 鈴音ちゃんもけっこう大きいし!」

 「あ…」そういうことか。大きな胸に目を引かれるのは藍も経験済みだが、脚もそうなのだろうか。

 「あと、原さんすらっときれいだよね!」

 「あ、うん…」原は長身で細身だ。

 「シーズンパス持ってるくらいだから、スゴい応援なんだろうね!」碧が帽子に手を遣りながら言う。

 「え…そうだね…」

 「わたし達も負けてられないよ!」

 「え……」碧はすっかり大声で応援するつもりのようだが、藍にはそんな心の準備は出来ていない。いや、準備が整う時など来るとは思えない。

 「あ、今何時?」問われて藍は腕時計を見た。

 「十時三十五分…」

 「わ、けっこういい時間になっちゃったね。ライオン丸が気持ちよかったから!」

 「うん…そうだね…」アスランやラブ、クロの時もそうだったが、撫でていると時を忘れてしまう。

 「ここ広いから、ワンコローズ連れてきてあげたいね!」

 「うん…!」この広さなら、存分にボール遊びをさせてやれそうだ。

 「梨乃さんに頼んでみよ!」

 「うん…!」

 「空港ってどこにあるのかな?」また話題が変わった。

 「え…と…多分あっち…」藍は左手を左の方へ伸ばした。右手は碧に握られている。

 「藍ちゃんここ来たことあるの?」

 「ううん…離陸した時に、スタジアムが左に見えてたから…」

 「あ、そっか! 藍ちゃんここから飛行機乗ったんだっけ!」

 「うん…一回だけ…」

 「いいなあ! わたし乗ったことない~! 福岡だよね?」

 「うん…」到着してから乗った地下鉄の駅が福岡空港という駅名であったことを藍は覚えている。

 「飛行機から松本城見えた?」

 「え…ううん…」離陸直後には街は見えなかったような気がする。道中は眼下に海沿いの街が連なっていた区間があったが。

 「そっか。スタジアムは? どんなだった?」

 「誰もいなかったけど…芝生がきれいだったよ…」新緑の季節だったこともあるのだろうが、とても鮮やかな緑だった。

 「そっかー。こんな感じ?」碧は、右側を指差した。道の両側が芝生なのである。

 「え…と…ちょっと離れて見たからかな…もっと色が(いっ)(しょく)だったよ…」足元の芝は、緑の濃い所と若草色の所が混在している。

 「おお、なるほど! 私も見てみたい! あ! スタンドの一番上から見ればいっか」

 「うん…そうだね…」離陸時だからだろう、飛行機からでもそれほどの高さではなかったように見えた。スタジアムの最上段がどれほどの高さなのかは分からないが。

 「後で一緒に行こ!」

 「うん…!」

 「だいぶ人増えてきたねー!」

 「うん…」先程上った時に人影疎らだったこの道が、今はごった返していると言っていい程に混み合っている。

 「年齢層広いね!」

 「うん…」路肩に座って待っている人だけ見ても、赤子から老人まで、中には一家三世代と見受けられる人達も居る。鈴木の言っていた通りだ。

 「トイレ行った時も思ったんだけどね」

 「うん…」

 「何か、スタジアム小さく、って言うか低すぎない?」

 「あ…うん…」全く気にしていなかったが、言われてみると確かに低い。民家の塀ぐらいの高さしかない柵の向こうに見える建物は、どう見ても平屋だ。

 「うーん、一体どうなってるんだろ?」

 「うん…」

 「入ったら謎は解けるけど」

 「うん…」

 「それまでに推理したい!」

 「あ、うん…」

 「藍ちゃんのご意見は」

 「え……」突然の丸投げに面食らいつつ、藍は考える。

「え…と、掘ってあるとか…」可能性があるのは二つ、段差が小さい客席であるか、掘り下げて段差を確保しているか、だが、前者の場合とても見づらいであろう。という思考で、藍はその結論に至った。仮にそれが正解だとして何故わざわざ掘ったのかは見当もつかないが。

 「おお、なるほど! それなら納得! 一件落着!」

 「え…」それで落着していいのか、とも思うが、碧の言う通り入場すれば正解は分かることだ。碧がそれでいいなら良しとしよう。

 碧に手を引かれたまま自動販売機の前に来た時、

 「うをっ! めっちゃトランプやってる!」自動販売機の向こうを見た碧が大声をあげた。

 「本当だ…」見てみると、大勢の男子が車座になり、各が手札と場に出された札とを見比べている。

 「しかも校長までいるし」碧は小声になった。

 「うん…」藍、碧と同じユニフォームを着た校長も、車座の一部を担っている。

 「え? これどういう? 私たち予言者?」碧が植え込み越しに美奈子と鈴音に訊く。

 「どっちかってーと予言トリックだな」美奈子の返事に鈴音も頷く。

 「え? トリック?」察しのいい碧にも分からないようだ。

 「山田達がトランプやってたからさっきの(はなし)したらな、面白そうだからやるっつって。男子はバカっぽいの好きだからな!」

 「おお、なるほど…それで予言トリック… え? トランプ二組あったの?」

 「二組どころか四組あんだよ」

 「全員持ってきてたってこと?」全員とは、河内、斉藤、洞、山田の四人に違い有るまい。

 「そう。しかも同じサイズのプラスチックのやつ」

 「スゴい情熱だね!」

 「トランプバカ一代だからな」

 「あ、お弁当の準備は?」

 「もうちょいしたら始めっか」鈴音が応える。

 「どういうふうにするの?」

 「とは?」

 「配る方式というか」

 「給食方式」皿を先に配り、それを持って並ばせる、という意味だろうか。

「てーか、二人ともこっち来れば?」

 「あ、そうだね」碧に手を引かれたまま、藍は自動販売機の裏に回り込み、靴を脱いで美奈子、鈴音の向かいに座った。他の女子も、大村・遠藤組以外は到着して座っている。

 「デザートを一緒に配るか後にするかが悩みどころ」

 「後からがいいんじゃない? 入場のタイミング分からないんだよね? 先に配って食べる前に入場になっちゃうと」手で持って入らなければならない。

 「そか。そだな」大した荷物ではないが、切符を出す時など、手が空いている方がよかろう。

 「わたし食べるの早いから、配給係やるよ!」

 「任せた」

 「おう、穂高いるかい? 鈴木穂高」藍の背後から声が掛かった。振り向くと、自動販売機の横に、坊主頭でユニフォーム姿の初老の男が立っている。どこかで見た顔だ、と思い、すぐ松本高校の教頭であることに気づいた。

 名を呼ばれた鈴木は座ったまま教頭の方を向き、教頭の顔を確認するとすぐに立ち上がって、

 「ギンさん!! おはようございます!」礼儀正しく一礼した。

 藍はそれに驚く。鈴木は教頭と知り合い、それも名前で呼ぶような仲であるのか。教頭は確か(なわて)(ぎん)()(ろう)という名だったはずだ。

 「おう。なかなか集まったじゃねえか。全部で何人だ?」

 「32人です!」

 「シーパス持ってんのは?」

 「8人です」鈴木は緑子の方をちらりと見た。藍が気付かぬ間に、シーズンパス保持者の男子と二名の見知らぬ女子が緑子の後ろに立っている。緑子が頼んだという助っ人だろう。碧の言った通り、緑子と同じくらいの長さのスカートを穿いている。

 「入場順は?」

 「53と202、次は500番台です」

 「二桁引いたのか、よかったじゃねえか。北側の連中に頼んどいたから席取り手伝ってもらえ」

 「え! ホントですか!? ありがとうございます!!」鈴木は再び一礼した。

 藍は露知らぬ事だが、アルウィンのゴール裏は南がホーム側、北がアウェイ側となっていて、北ゴール裏の席が対戦相手のサポーターだけで埋まる試合はほとんど無いため、一定の間隔を空けて残りの席をホーム側として使う。南北どちらも先行入場開始から十五分は確保した席から動いてはいけないという規則になっているのだが、北側は南側に比べて席が埋まるのが遅いので、そちらに陣取るつもりの人達に席確保を手伝ってもらうということだ。

 「じき来る。おれも手伝うが、2000番台だった」

 「銀ちゃん面倒見いいじゃないの」それまで黙って二人の遣り取りを見ていた校長が口を挟んだ。

 「お前でもこうすんだろ」

 「まあね」

 「え? ギンさん校長…先生と知り合いなんですか?」これを聞いて藍は驚いた。鈴木はこのぎんさんなる人物が自分の通う学校の教頭であることに気づいていないようだ。他の生徒も微妙な表情の者が多いから、藍と同じように感じているのだろう。

 「おう、まあな」教頭は何気無い様子を演じているが、目元の笑いを隠せていない。

 「鈴木君鈴木君」その空気に堪えかねたのか、その方が皆のためと判断したのか、碧が声を掛けた。

 「はい?」鈴木が碧の方を向く。

 「教頭先生」

 「は?」

 「ぎんさん。うちの教頭先生」

 「え?」

 「だからぎんさんが松本高校の教頭先生」

 「はあ!?」

 「バラしちまったか。いつまで気づかねえでいるか見たかったんだがな」もう隠す必要が無くなったからか、教頭はニヤニヤと笑っている。

 「えーーーー!! 確かに、教師やってるって聞いてたけど、えーー!」

 「ま、ここじゃ教頭じゃなくて銀さんの方がいい」教頭は笑いを堪えながら真顔を作っている様子だが、

 「はい」鈴木の方は流石にバツが悪そうだ。

 「ほかのみんなもな。今日は俺のこと先生ってなあナシだ」

 「はい」「はーい」

  その直後。

 「あ、教頭先生、おはようございます!」素晴らしい間の悪さで銀さんの背後から挨拶が届いた。贄教諭だ。鈴木や銀さんのとは違うユニフォームを着用している。

 「おはよう。贄君、今丁度今日は先生と呼ばないという話をしていたところだよ」仏頂面の銀さんを横目でちらりと見、笑いを噛み殺しながら校長が贄教諭に言う。

 「あ、校長先生、おはようございます!」

 「私は信さん、こっちは銀さんで頼むよ」校長の名は松本信一だ。

 「はあ、分かりました」と言う贄教諭は、全然何も分かっていない表情だ。それも当然だが。

 「貧乏旗本の三男坊みたいだな」藍と碧の後ろで美奈子が呟き、

 「だね」碧も小声で応えた。何か出典が有るのだろうが、それが何なのかは藍には分からない。

 「てことは、僕は(ヒロ)さんですか?」贄教諭はそう言いながら植え込みを迂回して信さんの隣に座った。靴は脱がず、尻だけを敷物に乗せている。

 「いや、贄君は先生でいいんじゃないか。これはクラスの企画なんだろう?」

 「ああ、なるほど、そういうことですか。まあどの道みんな先生とは呼びませんけどね」

 「そうなのかね?」

 「ええ」贄教諭の言う通り、生徒が呼び掛ける時も「贄さん」の採用率が高く、連休前の一週間で「先生」と呼ばれたところを聞いたのは、朝礼時だけであったように思う。そう呼んだのは、学級委員長としての碧だ。

 「銀ちゃん、来たぞー!」また銀さんの背後から男の声がし、そちらに目を遣ると、銀さんと同年代と思われる一団が立っていた。

 「おう、悪いな! よろしく頼まあ。こいつが仕切るからよ!」銀さんは鈴木の背中を平手でどんと叩いた。

 「よろしくお願いします!」鈴木はそちらに向かって深々と一礼した。

 「なんだ、ホタカじゃねえか」一団の後ろの方から声が掛かり、

 「よろしくお願いします!」鈴木はまた一礼した。

 「知り合いか?」一団の別の場所から声が上がり、

 「タツの息子」鈴木の名を呼んだ男が答えた。

 「へー!」「達也の!」一団が口々に軽い驚きの声を出した。どうやら鈴木の父は顔が広いらしい。

 「時間ねえしさっさと組分けすんぞ」最初に銀さんに声を掛けた男が仕切り始めた。

「みんな番号は」

 「101、333、849とあとは1000より後だな」一団の端から答える声がした。

 「101より若いの持ってるか?」仕切り役の問いに、

 「53があります!」鈴木は即答した。

 「よし。101くれ!」

 「おう」紙片の束を持った男が一番上の紙片を仕切り役に差し出す。

 仕切り役は受け取った紙片をそのまま鈴木に差し出し、

 「53以外のヤツくれ」と言った。

 「はい! ありがとうございます!」鈴木は仕切り役から紙片を受け取り、代わりに数枚の紙片を渡すと、

「じゃ、行きましょう!」待機している先行入場組にそう言って靴を履き、座っている皆に背を向けて歩き出した。七人が続く。

「中川、悪いけど101番の方頼むわ」

 「アイアイ」

 「わたし先に入るねー」緑子の友人の片方が言うのを最後に、先行組の声は聞こえなくなった。

 それを待っていたかのように、

 「おれらぁも行くぞ」助っ人班の仕切り役が歩き出した。

 「助かるぜ、鉄つぁん」銀さんが並ぶ。

 その後をゾロゾロとついていく年配の男達が、四人ごとに紙片を一枚ずつ取っては後ろへ回すのを、藍は感心しながら見た。恐らく一つの番号に対し四人までの入場が認められていて、数字の小さい順に抽選券を取っているのだろうが、その無駄の無さに感心したのである。

 年配助っ人班を見送っていると、

 「我々も支度始めますか!」鈴音の声が響き、女子が一斉に腰を上げた。反応の鈍い藍だけが、一呼吸半ほど遅れて膝立ちになる。立ち上がらないのは、重箱がすぐ目の前にあるためだ。

 その途端、男子の注意が一斉に鈴音の方へ向いたのが藍にも分かった。

「ざっくり説明するねー」鈴音本人はそれを全く意に介さない様子で、集まってきた女子を前に話し始める。

「給食方式ー。最初にお皿を渡して、おかずを順に載せてって、最後にごはんを渡します。お皿配る人一人、おかず渡す人各一人、ごはんはよそう人一人と渡す人一人かな。お茶は今から先に配ります。オッケー?」

 「オッケー」「分かったー」「いいよー」口々に答えが飛ぶ。その中から、

 「デザートは?」質問が上がった。和田だ。

 「デザートは様子見て配給します。時間的に、入場してからになる可能性もあるからー。お盆ないからまとめて配給できないし。オッケー?」

 「はーい」

 「あ、お箸もお茶と一緒に配ったら?」碧が挙手した。

 「採用。じゃ、まずお茶配ってくれる人ー」

 「わたし達やるよ!」一度下ろした手をすぐまた碧が挙げる。達、とは自分のことであろうと判断し、藍は立ち上がった。

 「夜賂死苦ー」

 碧が素早く立ち上がり、二人は女子陣の後ろを通って、ペットボトル入りの茶が入った段ボール箱の傍へ行った。皿と椀、箸にコップも、一つの袋に入ってその隣に置かれている。

 碧が段ボール箱を持って二歩ほど移動したので、藍も五十膳一組の割箸を持って碧の隣に座り、袋を開けた。碧は段ボール箱を開梱する。

 「藍ちゃん、いい?」

 「うん…」

 碧は男子が座っている方へ顔を向け、少しだけ身を乗り出して、

 「まずお茶とお箸配りまーす!」大きな声で呼び掛けると、男子が一斉に碧の方を向いた。

「取りに来て下さーい!」

 男子が一斉に立ち上がり、碧の前に列を成す。

 「はい!…………はい!…………はい!」碧は規則正しく段ボール箱から茶を取り出して一人一本ずつ渡していく。藍はそれを見ていたかったが、他所見しつつ碧と同じ速さで割箸を手渡す能力など持ち合わせてはいない。

 碧のように元気よく声を出すということも出来ない。相手と目を合わせずに無言で軽く頭を下げるのが精一杯。唯一、顔を見ることが出来たのは河内だ。学級副委員長同士のため毎朝挨拶しているから、であろう。

 とにかく相手を待たせないように、ということだけを思って渡しているうちに、あっけなく列は終わった。

 その時、

 「先生も取りに来て下さい!」碧が声を張り上げた。

 「はい!」模範的な返事を寄越し、贄教諭が飛び上がるようにして立ち上がった。教室での威厳や余裕が微塵も感じられないことを、藍は可笑しく思った。

 「しんさんも!」

 「お、私の分もあるのかね?」年の功か、しんさんは校長の時と同じ態度だ。いや、碧に「マジでございますか?」と訊いた時よりずっと教師らしい。

 「ボスに確認しました!」

 「それは重畳。どっこいしょ」

 大村・遠藤組がまだ来ていないせいか女子は全員何某かの作業に就いていて、並んでくる者は居ない。僅かな手待ちを挟んで、藍は贄教諭と信さんを迎えた。

 「御苦労様」贄教諭に言われ、藍は恐縮して頭を下げた。

 「御苦労様」信さんも同じ言葉を繰り返し、藍も同じ動作を繰り返した。

 教師を含む男子陣は順に元の位置に戻り、座った。

 「女子チームの分は適当に置いてこっか」

 「うん…」

 「鈴音ちゃん、女子チームのお茶とお箸配っとくよ!」

 「夜賂死苦!」重箱に向けていた顔を上げて鈴音が返事する。

 適当な間隔を空けて碧が茶を置き、その隣に藍が箸を添える。三膳目の箸を置こうと屈んだところで、

 「準備出来ましたー! ごはん取りに来て下さーい!」鈴音が大声で告げ、再び男子が一斉に立ち上がった。

 「お弁当楽しみだね!」

 「うん…!」少食な藍であるが、食べるのが好きでないという訳ではない。それに、今後自分の作る弁当に加えられそうなものも有るかも知れない。そこは、碧の反応を見、且つ自分の技量と相談して、ということになるが。

 「お弁当もみんなの分配った方がいいよね?」みんなとは女子陣の意であろう。

 「うん、そうだね…」配給担当者は配り終えるまで手が離せないから、それがいいだろう。

 「じゃ、男子に頼も! わたし達も並ぶけど!」

 「うん…」

 「おっと、通り道作っとかないといけないね」

 「うん…」男子は靴を履かずに敷物の上を歩いてきたので、帰り道を塞がないようにしないと渋滞してしまうかも知れない。

 二人は気を配りながら茶と箸を置いて回り、そのまま列の最後尾に並んだ。碧の前は信さんである。

 「女子の分も配りたいので、置いたら二周目お願いしまーす! 先生としんさんもお願いします!」碧がまた声を張り上げ、座りかけた男子がまた列へと戻ってきた。男子の先頭、即ち自分の後ろに来たのが河内だったので、藍は少しほっとした。

 「素晴らしい手際だね」しんさんが碧に話し掛ける。誰のことを指しているのか明瞭ではなかったが、

 「ですよねー。企画から鈴音ちゃんが仕切ってるんですよ」碧はそう相槌を打った。藍から見ると、碧も鈴音も超人である。効率よく回す方法を考えることは藍にも出来るが、皆の先頭に立つということが出来ない。

 「贄君も鼻が高いね」贄教諭は信さんの前で順番を待っている。

 「ええ、もう同期に自慢しまくりですよ! と言いたいところなんですが、厳しい状況のヤツもいるので、控えめに」

 「そうだね」

 この短い遣り取りは、贄教諭に対する藍の印象を随分と変えた。教室での姿よりもずっと柔和で、これまで感じていた近寄り難さが半減した。

 「間に合ったー!?」右斜め後ろから大きな声がしたので振り向くと、遠藤と大村が立っていた。走ってきたのか、二人とも軽く息を切らしている。

 「ちょうどゴハン配給してるところだよ! 並んで並んで!」藍より僅かに速く振り向いた碧が大声で答え、遠藤と大村はその場で靴を脱いで藍の後ろにやって来た。河内が気を遣い、間を空けたのである。

「あ、そうだ。二人とも」碧の手招きに遠藤と大村は藍の前に出た。

「誰がどれ作ったか男子にはナイショでお願いします」急に声を落とした碧に、

 「あー、うん」「分かった」大村と遠藤も囁き声で応え、藍の後ろに戻った。

 「間に合ってよかったね!」

 「いやホント。11時半ぐらいと思ってたからアセったわー」と遠藤。大村も後ろで頷いている。

 「入場してからだと広い場所ないし時間的にもバタバタするから入場前にしたんだけど、先行入場開始が11時半だからこの時間になったの」碧が簡潔に説明する。

 「ふーん。でも先行班いなくない?」遠藤が男子の方を見て言う。大村は、それを聞いて男子の方を見た。そんなところを見ていなかったのだろう。

 「うん。今、列整理に行ってて、先に食べててくれって言ってたよ」

 「ふーん。順番来るよ」

 「あ、ありがとう」礼を言って碧は前を向き、宮渕から皿を受け取った。数秒後、藍も皿を受け取り、軽く頭を下げた。

 片倉に豚の生姜焼き、原に野菜炒め、和田に筑前煮、下島に鯖の塩焼き、真田にメンチカツとコロッケ、美奈子に玉子焼きを皿へ載せてもらい、最後に鈴音から飯の入った椀を受け取ると、藍は一番遠くに置いてある茶の前まで歩いた。軽く膝を曲げ、上体を前に屈めて椀と皿を茶の隣に置く。

 すぐに、碧が隣にやって来て同じように置き、

 「お茶の隣に置いていって下さーい」と列へと呼び掛けた。

 「はーい」「へーい」「うおーい」と返事が上がる。

 二人は連れ立って二周目に入った。二周目も、藍の前後は同じ人員である。

 「えーと、全部で32人で、今いるのが…16人か! ちょうど2周だね!」

 「うん…そうだね…」

 「あ、でも鈴音ちゃん先に終わりそうかな?」

 「うん…そうだね…」(やま)()(よう)()という男子生徒が椀専門の配膳係を務め、鈴音は飯を盛っては目の前に置き、という作業になっていた。列が進むよりずっと速い回転で、すぐに鈴音の身は空くものと思われる。この作業を先に終わらせても食事開始が早まるのは十秒程度と思われるが、鈴音を早く解放してやりたいのか、一秒でも早く食事にありつきたいのか。

 という、多少失礼なことを考えながら藍が並んでいると、後ろの碧が、

 「鈴木君!」と叫んだ。見てみると、先行入場班が戻って来ているが、鈴木、田沢、小林、それに緑子の友人の四人だけである。全員一緒に戻って来るものと思っていたが、別々の場所に並んでいると列整理が終わるのも別々になるのだろうか。

「置いてあるやつどれでもいいよ! 先に食べてて!」

 「サンキュー!」鈴木は短く応え、その場で靴を脱いで一番手近にある皿の前に座った。

 「お邪魔しまーす」緑子の友人が鈴木の右隣に座る。正座の脚を尻の左側に出した座り方だ。スカートが短いので、腿が半分以上見えている。先日の緑子と同じだ。

  残りの二人も並んで座る。緑子の友人の右側に田沢、その隣に小林だ。

 「じゃ、ごめん、お先に頂きます」皿と椀を敷物の上に置いて戻りかけた藍の背後で鈴木の声がし、

 「いただきます」残りの三人が声を合わせると、

 「どうぞー」「ごくろうさん」男子の声がいくつか飛んだ。そしてそれを待っていたかのように、

 「二周目終わったら座って待って下さーい!」碧が男子に指示を出した。本当によく気がつく。藍はまたしても感心させられた。そして、碧の言葉が終わると間髪入れず、

 「隣に女子が座ってほしい人は隣空けとくよーに!」と言った鈴音にも違う意味で感心した。

 その鈴音が作業を終え、山辺を従えて藍の後ろに並んできたのだが、

 「鈴音ちゃん、ご苦労さま! こっちは人数足りてるから座ってて!」と碧に労われ、

 「あ、そ。遠慮なくー」一旦元の位置に戻って飯櫃を抱えると、小林の隣へと移動して座り、自分の前に櫃を置いた。その間に碧は、

 「山辺君はここ入って!」並ぶか座るか迷っている素振りの山辺に声を掛ける。

 「はーい」山辺は信さんと碧の間に入った。

 先頭を務めていたトランプバカ一代の三人が皿を置き終わり、鈴木の隣に席を占めようとしているのを藍が何となく眺めていると、

 「そこは先行班用に空けといて、ここ座れ、ここ!」鈴音が大声で叫び、自分の右側の席辺りを平手で二度叩いた。

 三人は鈴音の方を見、洞を先頭にやって来た。

 「ここでございますですか?」おずおずといった感じで洞が訊く。無論演技であろう。

 「なに? 不満?」

 「めめメッソーもございません。キョーエツシゴクにございますです、ハイ」

 「うむ」鈴音は腕組みして重々しく頷いた。

 「では失礼して」鈴音の隣に正座する。洞がそうするのは演技の続きだと理解出来るのだが、斎藤と河内まで正座したのが可笑しく、藍はくすりと笑ってしまった。

 「まあ楽にせい、楽に」と言う鈴音は胡座を組んでいる。鈴音は今日もズボン姿だ。胡座に慣れている様子であるから、私服はズボンが多いのであろう。ちなみに、今日の女子陣でスカート穿きなのは緑子と友人二人、それに藍だけだ。

 「は」洞は脚を崩した。少し遅れて斎藤と河内も倣う。

 それとほぼ同時に緑子達四人が戻ってきて、鈴木と二、三、言葉を交わした後、その左側に座った。鈴木に近い方から緑子の友人、百瀬、緑子、山田の順だ。山田は約一秒洞たちの方を見つめたが、何も言わず緑子の隣に座った。

 そうやって眺めているうちにまた藍の順が回ってきて、皿と椀に盛ってもらい、茶と箸の傍に置いた。これで当面の仕事は完了、座って待てばよい。

 空席はまだ十有るが、残念ながら三席以上まとめて空いている所は無い。つまり、左右のどちらかは男子になるということだ。それは藍にとって有り難くないことだが、碧の隣に座れるかどうかに比べれば些細なことと言える。

 碧の後ろにぴったりついて行き、その隣に座る。いつも通り碧が右側、藍は左側である。そして、藍の左は河内だった。河内の右側が空席だったのは偶然だろうが、目敏い碧が気を遣ってそこを選んでくれたのだろう。

 二、三分待つ間に遠藤・大村組と、給食係を務めていた女子陣もそれぞれ席に着き、それを見て碧が口を開いた。

 「お待たせしました」その途端、男子の話し声がピタリと止む。

「手を合わせて下さい。『頂きます』」

 「『頂きます!』」贄教諭と信さんを含む全員の声がきれいに重なり、男子は一斉に食べ始めた。すぐにあちこちで「うまっ!」「いけるな」と声が上がる。評判は上々のようだ。

 女子は、食べ始めた者と、食べている者の反応を見る者とに分かれている。藍はどちらかと言うと前者なのだが、その前にやることがある。

 「碧ちゃん」

 「んぐ?」早くも食べ物が口に入っているらしい碧は口を開かずに応えた。藍は皿を碧の方に差し出して、

 「多いから、よかったら取っていって…」

 碧は食べていた物を飲み込んでから、

 「ありがとう! もらうけど、藍ちゃんが食べた後で!」

 「え…うん…」以前にも在った遣り取りである。

「でも、この半分でも多いくらいだから…」藍は、皿に乗せた割箸を取って割り、鯖とコロッケ、メンチカツを箸で半分に切った。そして、全ての品を手前側と奥側の二箇所に分けてから、皿を自分の膝の右前十㎝辺りに置いた。碧の膝からも同じ距離になる位置だ。

「取っていってね…」こうしておけば好きな時に持っていける。

 「いつもすまないねえ」少し老人っぽい言い方だ。きっと何か出典が有るのだろうが、今回も藍はそれを知らなかった。

 「ううん…残すともったいないし、申し訳ないから…」

 「うん、そうだね!」

 これで懸念事項が解決されたので、藍は自分が食べる方に専念することにした。半分は碧に任せてよい訳だが、食べる速さが常人の半分以下なので、ゆっくりしていては皆を待たせることになってしまうかも知れない。

 藍が食べ始めてすぐ。

 「ごはんまだありますか!?」田沢が茶碗を前に突き出して言った。

 「あるよ! 取りに来て!」鈴音が櫃を軽く叩く。

 「へーい」田沢は立ち上がって輪の内側に入り、鈴音の前へ行った。

 「丼かして」

 鈴音は田沢から樹脂製の丼を受け取り、飯を盛って返した。そして、

 「あと十杯か十五杯くらいあるから、今のところ遠慮は無用! 早い者勝ちです」と皆に告げた。今のところ、というのが何となく鈴音らしいと藍は思う。

 「鈴音ちゃんお母さんみたいだね」

 「うん…」

 「家でもゴハン奉行なのかな?」

 「うん…そうだね…」この堂々且つ的確な仕切りはかなりの場数を踏まなければ得られまい。

 「みんな作るの上手だね! 全部おいしいよ!」話題が変わった。藍がまだ一品目に箸をつけたばかりだというのに、碧はもう一通り味見したようだ。

 「うん…」藍が今口にしているのは鯖の塩焼きだが、絶妙な塩加減で、自分が作る塩焼きより美味しい。当面はこの味を目指して自分も工夫してみよう。

 そう思うと、他の品も気になってきて、ほんの少し、一口の何分の一かずつ、玉子焼き以外の品を一通り口にしてみた。

 碧の言う通り、どれも美味しい。出来れば作った人全員に師事し、修得して碧に提供したい。

 特に美味しいと思ったのがメンチカツだ。真田の評価通り、味付けも肉の固まり具合も素晴らしい。しかも、冷えているのに衣がサクサクだ。藍は未だ揚げ物に挑戦したことが無いから修得までの道程(みちのり)は長そうだが、今日にでも母親に頼んで基本を教わるとしよう。

 藍が密かに気炎を上げている横で、

「でも一番は玉子焼きだな」碧が呟いた。誰が何を作ったか公表しないということになっているので一人言の体裁を採ったのだろうが、藍に対して発せられた言葉であるのは明白だ。

 ありがとう、と言う訳にもいかず、藍は平静を装いながら、内心で喜びつつ恐縮した。ちゃんと平静に見えたのかどうか分からないが。

 藍達と同様、迂闊に口を滑らせないためか、他の女子陣も時折隣同士で言葉を交わすのみだ。

 男子はというと、こちらも言葉が少ないという点では同じであるが、その理由は全く違う。食べるのに忙しくて話す間が無いのである。碧をも凌ぐ食べっぷりは藍を驚かせ、ガツガツという擬態語はこういう状態を指すのだなと妙な納得をさせた。

 そして、「頂きます」から僅か数分で五人の男子が空の椀を手に鈴音の許へ赴き、飯を盛ってもらった。藍は、その中に先行班が百瀬しか居なかったことを少し不思議に思った。

 さらに数分後、

 「ごちそうさまでした」鈴木が合掌し、

「ゴミは? どこ捨てればいい?」椀と皿を持って鈴音に訊いた。見ると、先行入場班第一陣は、女子も含めて全員食べ終えたようだ。

 「あー、袋出すの忘れてた」立ち上がりかけた鈴音を、

 「わたしやるよ」鈴音とほぼ向かい合わせに座っていた美奈子が制した。

「悪いけど、こっち持ってきて!」鈴木に呼び掛けると美奈子は座ったままくるりと向きを変え、背後の袋をがさごそやる。

 その間に、鈴木の右隣に座っていた女子が鈴木と田沢、小林の食器を回収し、美奈子がごみ袋を広げると同時に美奈子の前にやって来た。

「お待たせー」

 「いただきました!」椀、皿、箸をごみ袋に捨てた女子は、次に鈴音の前へ行き、

 「いただきました! すごいおいしかった!」

 「それはよかった。席取り手伝ってくれてありがとう! 男子こき使っていいから!」

 「うん」女子は即答した。

 「あ、そだ。デザート取っとくから、よかったら後で食べて」

 「マジで!? 食べる食べる!」

 「入場したら渡すから」

 「やったね! た・の・し・み! じゃ行ってくるー」女子は鈴音に向かって手を振った。

 「お願いします!」鈴音も振り返す。

 女子は鈴木達の元へ戻り、揃って待機列へと向かった。

 鈴音と女子との遣り取りを見て、藍は感心した。初対面なのに、あんなに親しく話が出来るとは。自分もあんな風になりたい、とまでは思わないが、少し羨ましくは感じる。

 その後の数分で六人の男子生徒と贄教諭が、さらに美奈子がおかわりに立った。

 「大盛りで!」と、椀を差し出す。

 「当店には大盛りはございません」椀を受け取りながら鈴音が応える。冗談なのか本気なのか口調からは判断出来ない。

 「エンリョはムヨウって言ったじゃん」

 「『今のところは』っつったろ」言いながら飯を盛る。

 「残ってねーの?」

 「あと二杯ってとこだな」鈴音は杓子を置いて椀を差し返した。

 「分かった」美奈子は椀を受け取らずに、

「おかわりしたい人まだいますかー?」振り返って皆に訊く。

 応えは無い。美奈子は二、三秒待って鈴音の方に向き直った。

 鈴音は納得したのか、再び杓子を取って飯を盛り足し、椀を差し出した。

 「これでいいか?」

 「バッチョリ」美奈子は満足げに受け取っていそいそと元の席に戻った。

 藍は何となく目を引かれてその一部始終を眺めていたのだが、はっと気づいて碧の椀の中身が無くなっていないかを確認した。

 やはり無くなっている。

 「碧ちゃん、ごはんもらって…」こうなることは明確に予想していたので、藍は椀の中の飯も半分に分けてから食べ始めていた。

 「わ! ありがとう! しかもこんなに取りやすく!」椀を受け取って手早く飯を移し変えた碧は、すぐ食事へと戻った。自分の割当分は既に食べきっており、藍の皿から鯖を取って口に持っていく。

 碧から椀を返してもらった藍は、その様子を横目で眺めた。あまりじっと見つめては碧が食べづらいだろうと思ったからである。

 碧は、実に美味しそうに、楽しそうに食べている。いつもと同じだ。毎日、藍はこの顔が見たくて弁当を作っていると言っても過言ではない。今日の弁当は普段藍が作っているものより数段美味しいので、碧の表情も当然と言える。

 そうして碧の横顔を見ながら自分も鯖の塩焼きを箸で切って口に運んだ時、先行入場第二陣が食器を纏め始めた。それを見た美奈子が箸を止め、皿と椀を脇へやって、背後のごみ袋を取る。

 皆きれいに食べきっていて、空の器はものの十秒ほどで一つに纏められた。それを両手で持って美奈子の方へ歩いてきたのは緑子の友人である。後から緑子も来た。

 第一陣の女子と違い、少しもじもじした様子で、

 「いただきました…」と美奈子に言って食器をごみ袋に入れた。いや、入れたと言うよりも、袋の中にそっと置いたと言う方が正確だろうか。

 「席取りご苦労様です」重々しく頷く美奈子。女子は、恐縮した感じで会釈した。

 「ちょっと美奈子、カンロク出しすぎないでくれるー? 翼ビビってんじゃーん」女子の肩越しに緑子が声を掛ける。声の調子から、軽口であると藍にも判った。

 「そんなことないよ…」つばさと呼ばれた女子が振り返って緑子に言う。声の小ささと言うか勢いの無さが藍と似ている。尤も、藍本人は自分の話し方を客観的に聞いたことが無いので、似ていると分かっていないが。

 「じゃ、行ってくるわ」時間に余裕が無いらしく、緑子は早々に話を打ち切った。

 「うーい、ご苦労さーん」と美奈子。つばさは、もう一度美奈子に向かって会釈してから、緑子に続いた。

 同時に、山田と百瀬も立ち上がる。

 山田に向かって洞が敬礼し、山田が返す。それを見た斎藤と河内がさらに敬礼。その遣り取りが藍には可笑しく感じられた。

 先行班第二陣が去っていくのを見送る。人波で見えなくなったところで、

 「藍ちゃん」碧に呼びかけられた。

 「うん」

 「頂きました。今日もおいしかったー」碧は両手を合わせた。

 「あ…うん…ありがとう…」

 「ありがとうはこっちだよー。ところでレアチーズって(なに)で移し替えるの?」

 「あ、大匙…一緒に袋に入れてあるから…」

 「了解~」

 碧はさっと立ち上がって鈴音の傍に歩いて行き、片膝をつくと、鈴音に何事かを話しかけた。無論、鈴音はまだ食べている最中だ。先行班を除くと、女子で食べ終わっているのは碧だけ、男子も二、三人だろうか。鈴音は箸を止め、心持ち右側に体を傾けて碧の口に耳を寄せた。

 小声で話しているらしく、何と言っているのか聞きとれないが、デザートの話であろうことは見当がつく。

 一分ほどの会話の後、碧は一つ頷いて立ち上がり、藍の背後を通り過ぎて美奈子の後ろまで歩いていった。その辺りに重箱や食器が置かれているのである。

 碧はその中から白いポリエチレン袋を二つと保冷袋を取ると、藍の隣に戻ってきた。

 「レアチーズって4リッターでよかったよね?」

 「うん…」

 藍が頷くと、碧はポリ袋から白い箱を取り出した。蓋の無い小さな段ボール箱で、小粒な苺を容れた透明な樹脂の器が四つ収まっており、その上に割箸が一膳載っている。苺には蕚が無い。鈴音が事前に除去したのであろう。

 「あ、手伝うよ…」藍は慌てて箸を皿の上に置いた。

 碧にしては珍しく一呼吸置いてから、

 「ありがとう!」と言って、二つ目のポリ袋から透明な樹脂製の匙が入った袋と透明なコップの入った袋を取り出し、

「これお願いします!」コップの方を藍に手渡した。

 「うん…」50個入、と印刷されたその袋には破った跡が有る。一番上のコップに黒の油性ペンで線が引かれているから、恐らくはその為に開封したのであろう。

 察するに、この線は一人分である百㎖を示している。この線を見て、鈴音はかなり濃やかに気配りが出来る人なのだなと藍は感心した。この弁当の企画立案から始まって、弁当の提供方法や当日の計画など指揮を執りながら、自らも料理して、買い出しや回収という付帯作業まで(こな)したのである。これだけやれば抜け目が有りそうなものだが。

 尊敬の念を抱きつつ、一番上のコップを取る。碧はちょうど保冷袋を開封したところで、

 「わ! 冷え冷え! 冷蔵庫より冷たいかも!」と言いながら上段の密封容器と大匙を取り出し、膝の前に置いた。そして、すぐに保冷袋の口を閉じる。

 ここが時機だ。藍はコップの線を人指し指でなぞりながら、

 「この線の辺りまで入れて下さい…」と碧に説明した。

 「はい!」碧はにっこりと笑った。つられて藍も微笑む。

 「あ、線が引いてあるのこれ一個だから…」

 「らじゃ! あとはスプーンっと」

「これでだいたい準備オッケーかな」

 「うん…」

 「足元ちょっと不安定だね…藍ちゃんコップ支えてもらっていい?」

 「うん…」敷物の下は芝生であるので、凹凸も傾斜もある。器用な碧と雖も、無難な方法を採るべきであろう。

 「いちごも乗せてもらっていい?」

 「うん…!」藍は苺の段ボールを膝元に引き寄せた。

 「えーと、二つずつで!」

 「うん…」苺の総数が幾つなのか、一目ではよく判らないが、碧に従えば間違い有るまい。

 「じゃみんなに声掛けるね」藍を驚かせないためか、そう予告して、

「みなさーん、デザートがありまーす!」大声で一座に呼び掛けた。

「欲しい人は取りに来て下さーい! 今はおなかいっぱい、っていう人は入場してからでもいいでーす!」

 「デザートって何ですか!」素早く反応したのは贄教諭だった。挙手しつつ質問を放つ。

 「レアチーズといちごです!」

 「それは是非頂きたいね」質問した贄教諭より先に信さんが立ち上がった。藍の印象では番茶に煎餅、という感じだったのだが、意外と甘党なのだろうか。

 「もうちょっと後でもいーい?」と宮渕。女子はまだ食べ終わっていない者がほとんどであるから、この質問は藍にも予想出来た。

 「大丈夫でーす! 11時半くらいに打ち切って、その後は入場してからになりまーす!」

 告知を終えた碧は密封容器の蓋を取り、容器を左手に、大匙を右手に持った。藍も、箸袋から割箸を出して割ってから、コップを左手で支える。碧の左側に座っているので多少窮屈な体勢であるが、右手に箸を持っているので仕方が無い。藍は左手で箸を使えるほど器用ではないのである。ちなみに苺の容器はコップの隣に置いてある。

 既に、信さんを先頭に、男子生徒が五人と贄教諭、そして美奈子が配給待ちの列を形成している。

 碧は容器の角をコップの縁に当て、匙を使って素早くレアチーズを流し込んだ。僅か二秒弱の作業で、ほぼぴったり百㎖の線と同じ高さになっている。

 碧が容器をコップから離したので、藍はコップを自分の前に持ってきて、苺を箸でつまんで投入した。それを碧に返すと、碧は透明な匙をコップに入れ、

 「お待たせしました!」と信さんに差し出した。

 「頂きます」コップを受け取った信さんは席に戻った。

 そうして同じ作業を繰り返し、美奈子の順が回ってくると、

 「相生ちゃん、ドバっと入れてくれ、ドバっと。余裕があることは調べがついてんだ」と要求してきた。

 「不公平になる御要望にはお応えいたしません」コップにレアチーズを移しながら、碧は学級委員長の声で言う。

 「えー!」思い切り不満顔の美奈子に顔を近づけ、

 「入場するまで待って」小声でそう言ったのが藍にも何とか聞き取れた。

「ね!」

 「しゃーねーなー」美奈子がかぶりを振るのを見ながら藍は苺をコップに入れた。

 美奈子は、戻っていく時にもかぶりを振った。

 「藍ちゃん、わたしの分もいい?」碧は次のコップにレアチーズを流し込んでいる。

 「うん…」藍は、なるべく粒の大きいものを選びながら碧の作業完了を待ち、コップに苺を入れた。

 碧は苺を一度レアチーズの中に沈めてから匙で取り出して口に入れ、幸せそうに咀嚼し、

 「くはー! 極楽!」と漏らしてから、次の苺にかかった。

 その苺もゆっくりと食べるのを、弁当を口に運びながら藍は眺めた。

 その後、少しずつ間を置いて十人ほどがやって来たので、藍は、少し食べてはコップを支えて苺を入れ、を繰り返し、碧と話すことが出来ずに二十分余りを過ごした。ちなみに、男子は先行班を除く全員がデザートをもらいに来たのだが、藍は、またしても河内以外の誰の顔も見ることが出来なかった。

 デザートを取りに来たということは、弁当本体の方をほぼ食べ終わったということで、食事中静かだった一座はその二十分の間に食事前と同じくらいの賑やかさを取り戻していた。

 「藍ちゃん、そろそろ十一時半かな?」藍が箸を口から離したところで碧が訊いてきた。自分の携帯電話を見れば分かるのに、毎回わざわざ訊いてくれるのが藍には嬉しい。

 「うん…ぴったり…」左手首を自分の顔に向けて藍は答える。

 「ピッタリ!? わたしの腹時計スゴい!」自画自賛の後、

「デザートは一旦打ち切りまーす! まだ食べてない人は入場してから配りまーす!」碧は一座に向けて声を張り上げた。

 ほぼ時を同じくして先行入場が始まったらしく、鈴木が真剣な表情で進み始めたのが人波の向こうに見える。

 藍は食事に集中することにした。一般入場開始まであと三十分。片付けに十分かけ、入場十分前に列に並ぶとすると、猶予はあと十分だ。参加者全員の中で自分が一番食べるのが遅いという自覚が有るので、藍は時間については気にしている。が、皆が早起きして作った弁当である。味わって食べたい。

 そうして食べていると、どこからともなくゴーっという音が響き渡り、驚いて顔を上げると、飛行機が着陸するところだった。一座の皆も同じように驚き、飛行機を見ている。そうか、ここは空港のすぐ近くだったと、思い出して藍は独り口元を緩めた。先程碧に松本空港から飛行機に乗った話をしたのに、それと現在とが頭の中で繋がっていなかったことが可笑しく思えたのである。

 それから、猶予の十分をほぼ使い切って藍は食べ終えた。

 食器を纏め始めると、

 「そろそろ片づけた方がいいね」碧が言った。藍と同じ時間感覚らしい。

 「うん…」

 「じゃ」碧は正面を向いた。

「そろそろ入場待ちの列に並んだ方がいいと思いますので、後片付けをお願いしまーす! デザートまだ食べてない人には入場してから配りまーす!」

 デザートまだ、の辺りで男子の半数ほどは立ち上がった。男子は既にデザートを食べ終わり、食器をごみ袋に捨てるところまで済ませてしまっているのである。

 トランプバカ一代の三人も手札を敷物の上に置いて、河内と洞はすぐ立ち上がり、斉藤はトランプを片付け始める。

 藍は食器を捨てるため、美奈子の元へ行った。椀と皿がごみ袋の中で分別され、それぞれ積み重ねられている。体積を小さくする工夫であろう。バラバラに入れるとこの二倍三倍になるはずだ。ごみを置いて行く訳にはいかないから、座席の下に収まるくらいの大きさに抑えなければならない。藍は食べた後のごみの始末については失念していたので、美奈子の工夫にいたく感心しつつ、

 「お願いします…」自分の使った食器をそれぞれ上に重ねた。

 「今日もおいしかった」美奈子がニカっと笑い、藍は恐縮する。その時左隣から、

 「贄さん、すんません。こっちのシートたたみます」という声が聞こえてきた。見てみると、贄教諭に岡田が呼び掛けたらしい。

 「お、そうか」贄教諭と、横で聞いていた信さんが急いで立ち上がり、自分の荷物を持って靴を履く。

 無人になった敷物を岡田が数m引き摺っていくと、敷物の両辺に男子が三人ずつ付き、持ち上げてぱたぱたと上下に振った。裏面に付着していた芝がぱらぱらと落ちる。もう一度振り、六人は敷物を山折りに半分にした。

 慣れた手つきとは言えないが、手順はしっかりしている。一言も話さずに意思統一されている様子に、藍は少しだけ感銘を受けた。

 しかしその時、碧が重箱の風呂敷包みを敷物の端へ移しているのが目に入り、人の作業を見ている場合ではない、と我に返った。

 が、見渡してみても、手付かずの作業はもう無さそうで、手持ち無沙汰な者も数人いる。女子も十二人いるのだから当然である。ここは、保冷袋と自分の荷物を持って靴を履いた方がいいだろうか。そう思い、保冷袋に向かって一歩踏み出した時、

 「イチゴの箱どうする?」と声が上がった。和田である。

 すぐ鈴音がやって来て箱の中を見、

 「レアチーズの袋に入るか…な?」と言った。それが自分に対する問いのような気がして、

 「入るよ…」と答えた。箱の中身は見なくても分かっている。我ながら蚊の泣くような声だと思ったが、鈴音は藍の方を見て微笑んだ。

 「中身入ってるパック出して置いといてー。箱はつぶしちゃって」

 「りょーかい」和田は指示を素早く実行し、折り畳んだ段ボールと空の透明容器を美奈子の元へ持っていく。

 藍は、保冷袋を開けて密封容器を覆っている新聞紙を出し、まだ苺の入っている透明容器を密封容器の上に、新聞紙をさらにその上に乗せて、袋の口を閉じた。保冷袋を持って靴を置いた所に行き、靴紐を結ぶため一旦保冷袋を置いた時、

 「チケット配りまーす! 手があいた人から取りに来て下さーい!」背後で碧の声が聞こえた。

 振り向くと、既にほとんど全員が靴を履いていて、碧の前に並び始めていた。藍は少し慌てて靴紐を結び、最後尾につく。と言っても、藍が並んだ時、前にいるのは二人だけになっていた。

 藍の順が来ると、

 「楽しみだね!」と言って碧が入場券を渡してくれた。

 「うん…」藍にとっては、試合そのものではなく碧と過ごすことが楽しみなのであるが。

 入場券をチケットホルダーに入れ、そのチケットホルダーを首に掛け、保冷袋を取りに行こうとそちらを向いたが、既に袋だけでなく敷物まで撤去されていた。

 どこに行ったかと視線を泳がせると、鈴音の近くに立った河内が持っていた。河内だけでなく、男子は全員、風呂敷包みやポリ袋、畳まれた段ボール箱など何かしらの荷物を手にしている。鈴音に使役されているのであろう。藍が驚いたことに、贄教諭も例外ではなく、段ボールを持たされている。信さんが手ぶらなのは、持たせる荷物が尽きただけということのようだ。

 レアチーズは自分で運びたい気もするが、ここは有り難く楽をさせてもらい、その分何か別のところで働くとしよう。藍はそう決めて碧の動きを待った。そろそろ、列に並ぶよう呼び掛けるはずだ。

 藍がそう思ったほんの少し後、

 「これから入場の列に並びますがその前に注意事項!」碧の声が響いた。

「入場する時はなるべく固まっていって下さーい! チケット確認の前に荷物検査があります! 入場したらまっすぐ進んで、一つ目のS1(エスいち)っていう入口から中に入りまーす! 入ったら左に進んで、鈴木君達を見つけて下さい! 通路沿いの場所を鈴木君達が押さえてくれてまーす! いいですかー」

 「はーい」全員が異口同音に返事し、

 「では行きまーす! て言ってもそこだけど!」碧が指差したのは隣の芝生だ。隣と言うか、同じ芝生なのだが生け垣で区切られているのである。便所沿いに列が始まり、遊歩道を挟んで計四度折り返した最後尾がそこまで来ている。

 碧が歩き出し、藍もいつも通りの位置について歩いた。生け垣を迂回して、待機列の最後尾まで僅か数十歩。

 碧は、全員が列に加わるのを見届けると、

 「藍ちゃん、今何時?」

 「十一時四十八分…」

 「ありがと!」碧は両手を口元に当て、声を張る準備をした。

「開門12時でーす! チケットなくさないように気をつけて下さい!」

 碧が話し終わると、藍と碧以外の全員がその場に腰を下ろした。藍は、梨乃から借りたスカートが汚れるのではないかと恐れて座れないでいる。芝が乾いているので、自分でも杞憂だと思うが。

 「藍さん座らねーの?」美奈子が訊いてきた。碧に訊かないのは、引率役の故と思っているのであろう。ちなみに、列の順は、碧、藍、美奈子、鈴音、洞…となっている。

 「え…うん…」説明しようかどうか迷う。その間に、

 「藍ちゃんのスカート借り物だから、汚れないように気を使ってるんだよ」碧が数秒で説明してしまった。

 「なるほど。洞!」斉藤と河内の方を向いている洞の背中に呼び掛ける。いや、印象としては、呼びつける、の方が合っているだろう。

 「へい?」洞は、いつも通りのとぼけた口調で応えながら振り向いた。

 「そのシート貸してくれ」先程まで皆で座っていた敷物の一つを洞が持っているのである。

 「お安い御用で」

 鈴音を中継して敷物が送られた。

 「鈴音尻上げて」

 「はいよ」

 鈴音が座っていた場所に敷物を置いて四つ折りにまで広げ、自らその上に座り、

 「藍さん、ここ座って、ここ」と自分の右側を叩く。

 「ありがとう…」気遣いに感謝しつつ腰を下ろすと、碧と鈴音も敷物の両端に座った。

 座った途端、碧が携帯電話をポケットから取り出す。

 「緑ちゃんから! 『モクロミ通りの場所確保!』だって!」

 「バッチョリだな!」と美奈子。

 「ね! 『ありがとう! ごくろうさま!』っと」碧は素早く返事を送って携帯電話をポケットに戻した。

「藍ちゃん、入場してみんなの座席が決まったら、レアチーズまだ食べてない人に配るから手伝ってー」

 「うん…」そのつもりである。

 「食べてないのって何人?」美奈子が訊く。

 「4人と先行入場の8人で計12人」碧が答える。

 「レアチーズの残りは?」

 「大体半分かな」

 「朗報だな」三十二人のうち二十人が食べて半分残っているということは、八人分ほど余剰が出るということだ。

「しかしみんな料理上手だなあ」

 「全部おいしかったよね!」

 「うちもあんな弁当だったらなあ」

 「美奈ちゃんもお弁当だよね」

 「作ってもらって言うのもなんだけど、冷凍だからなあ。旨くねえ訳じゃねーんだけど」

 「今日のお弁当すごーくおいしかったもんね」

 「な」

 「鈴音ちゃんに作ってもら…あれ? 鈴音ちゃんて昼休み教室にいないよね?」

 「学食。な、スズネ!」

 「あ?」藍を挟んで交わされていた会話を、鈴音は聞いていなかったようだ。

 「鈴音ちゃん、毎日学食なの?」美奈子の向こうに座る鈴音に聞こえるよう、碧は少し声を張る。

 「うん」鈴音も大きめの声で答える。

 「何で?」

 「うちの母親仕事行くの早いから」

 「自分で作らないの?」碧と同じ疑問を藍も覚える。自分と違って鈴音は色々作れるのではないのか。

 「メンドくさいじゃん」

 「やっぱり面倒?」

 「作るのはいいんだけど早起きすんのがヤだ」

 「あー。どれぐらい早起きになるの?」

 「内容次第だけど、ザックリ言って、まあ30分」

 「そっかー。30分は大きいね」

 「だろ? 毎朝弁当作るとか偉人だよ偉人」それを聞き、藍は恐縮する。

 「だねー。鈴音ちゃん、朝ごはんはどうしてるの?」

 「ハニートースト」

 「お。わたしベーコンレタストースト。ハチミツもよさそうだねー」

 「簡単でうまいけど、冬はちょっとメンドーなんだよな」

 「何で?」

 「硬くなるから。湯煎すりゃいんだけどそっちのがメンドーだし」

 「うん、それは面倒そうだね」

 「なんで冬は広口のビンに入れんだけど、硬くなるのに変わりはねーからな。スプーンから落ちるのに時間かかんだ」

 「あー。それはイラっとしそう」

 「寒いと糖分が固まってザラザラするしな」

 「おいしくなくなる?」

 「私は好きじゃねーな。ハチミツはなめらかなのがいいんだ」

 「なるほどー。美奈ちゃんは? 朝ごはん」

 「うちはごはんと味噌汁と野沢菜と夕飯の残りだ」

 「おお! 王道だね!」

 「王道か? 藍さんは」

 「え…うちもご飯と味噌汁…と野沢菜と魚と玉子…」

 「藍さんが作ってんの?」と鈴音。

 「え…うん…魚と玉子焼くだけだけど…」

 「で、弁当も作ってんの?」

 「うん…」

 「チョー偉人だな!」

 「え…そんなこと…」

 「藍さん何時に起きてんの?」

 「六時…」

 「6時起きで朝ごはんと弁当作って間に合うの!?」

 「うん…駅近いし…おかずは前の晩に作るから…」

 「あ、そっか。夜仕込めばいいのか…え!? もしかして晩ごはんも作ってんの!?」

 「え…ううん、晩御飯は手伝いだけ…」最近では、朱美の指導の下、練習を兼ねて作ることも増えてきているが。

 「遊ぶ時間なくない?」

 「え…うん…私、本以外に趣味ないから…」

 「マジか…! 煩悩なさそうって思ってたけど、そこまで解脱してたとは…!」何だか変な方向に、且つひどく誤解されているようで、藍は困る。

 「スズネは煩悩まみれだもんな」美奈子が茶々を入れる。

 「美奈子もだろ。てーか、フツーそうだろ」

 「()(ちげ)ーねえ」

 「あ、入場始まった!」会話打ち切りを告げる碧の声が終わると同時に、球場の方から鐘の音が聞こえてきた。正午の鐘だろう。そう言えばさっきも鳴っていたような気がする。一時間毎に鳴るのだろうか。

 「やべ、シート畳まねーと」美奈子が慌てて腰を上げる。藍は、敷物の事が念頭に有ったので慌てなかったが、動きが鈍いので立ち上がったのは美奈子より少し後になった。

 藍も手伝うつもりだったのだが、手を出すより早く碧が敷物の端を掴んで鈴音の方へ歩いて行き、鈴音と二人で手早く畳んでしまった。

 そして、鈴音は無言で敷物を洞の胸に押し付け、洞も何も言わず受け取って小脇に抱えた。ほぼ主人と使用人の体である。小中学校で藍の同級生だった男子は皆、女子に対して威張りたがるような印象であったので、このような男子もいるのかと藍は軽く驚いた。

 数分後、列が前進し始め、藍は碧と離れないよう、すぐ後ろを歩いた。

 列は芝生の上を牛耕式にゆっくりと進む。二回折り返したところで先ほどよりも更に大きな音が轟いてきた。轟音は数秒の裡にどんどん大きくなり、飛行機の姿となって現れ、上空に消えていった。

 さっき到着した飛行機がもう出発していったのだろうか、と藍は考える。いや、まだ三十分ほどしか経っていない。着陸してから機外に出るまで何分も待った記憶が有る。搭乗時にも同じくらいかかるだろうし、清掃だの忘れ物の確認だの、次の乗客を迎えるまでに色々済ませなければならないだろうが、それら全てが半時間で終わるとは思えない。別の飛行機だろう。

 「スゴい音だったね!」すぐ前を進む碧が振り返る。

 「うん…」

 「飛行機ってあんなにスゴい音だって知らなかったよー」

 「うん…」

 「中は静かなの?」

 「ううん、中でも聞こえたけど、あんなに大きな音じゃなかったよ…」

 「やっぱりそうなんだ」

 「あの…今飛んでいったのって、さっき着陸した飛行機かな…?」違うと思いつつ気になって訊いてみた。

 「うーん、分かんないけど、色は同じだったね」

 「あ、そうなんだ…」ということは、同じ機体である可能性も有る。もしそうなら、どのようにしてこの短時間で作業しているのだろう。

 「福岡以外にも飛行機飛んでるのかな?」

 「え…と、確か札幌って書いてあったような…」空港内に設置された運行状況掲示板に、である。

 「そっかー。札幌って時計台しか知らないよー」

 「私も…」地域を問わず観光名所や名物に興味の薄い藍は、そういったことについてほとんど知らない。

 「福岡ってどこが有名なの?」

 「え…全然知らなくて…福岡で寄ったの、博物館だけで…金印が置いてある博物館…」福岡市博物館である。

 「金印ってあの金印⁉ 邪馬台国の」

 「え、と…邪馬台国じゃなかったけど…教科書に載ってる金印…」

 「あれ? 邪馬台国じゃなかったっけ?」

 「うん…奴国だって…」時代も、金印の方が古いというのが定説である。

 「そっか。でもスゴい! やっぱり大きいの?」

 「ううん、二センチ四方ぐらい…」

 「()っちゃ! 王様のハンコだからこんなの想像してた!」両手の親指と人差し指を伸ばして組み合わせ、一辺十㎝ほどの正方形を形作る。

 「うん…私も…実物見た時びっくりしたよ…」想像していたのとあまりに大きさが違っていたので現物を見てもそれと判らず、説明文を読んでああこれが教科書に載っていた金印かと二度見した。

 「だろうねー。金印置いてあるぐらいだから立派な所なの?」

 「うん…すごく大きくて、建物の前にも大きな彫刻が立ってて、宮殿みたいだったよ…」当然藍が宮殿を見たことなど無いのだが、そのような印象を受けるほど立派な外観だった。

 「えー! そんなにスゴいの見てみたい!」

 「あ…でも中はそこまで豪華じゃなかったけど…」中も綺麗ではあったが、贅沢さは感じられなかった。

 「金印のレプリカとか売ってたら面白いね!」

 「売ってたよ…レプリカとゴム印…」

 「ゴム印!?」

 「うん…文字の部分に、学校で使う赤いゴム印みたいなのが貼ってあるの…」

 「それ、バカっぽくていいね!」

 「うん…」藍もそう思う。博物館で見た時は下らないとしか思わなかったのだが。

 「わー、そのゴム金印、いらないけどほしい! それか、金印の形なんだけど自分の名前のはんこ!」

 「うん…」そちらの方がまだ使い道が有ろう。

 話している間に、列は少しだけ前進し、もう一度折り返した。この後、さらにもう一度折り返して芝生から遊歩道に出、便所の建物に沿って右に曲がり、球技場の柵へと向かう。

 柵に突き当たったところでもう一度右に折れて柵沿いを進むのだが、その突き当たりの位置にテントが建てられている。そこにごみ回収所が設置され、臙脂のポロシャツに青のビブスを着用した係員がごみ袋を広げて持ちつつ分別を呼び掛けていることが藍を驚かせた。出先でのごみは持ち帰るもの、と小学校でも中学校でも言われてきたからである。ちなみに臙脂のポロシャツはボランティアの人の制服だ。

 ごみを引き取ってもらえれば荷物が減って助かるけど自分達のごみは量が多過ぎて申し訳無いな、と思いつつ前を通り過ぎると、

 「荷物検査をいたしますので、カバンの口を開けてお進み下さい」右前方で列の脇に立った係員が拡声器を使って呼び掛けるのが聞こえ、藍は背嚢を背から外して開いた。中身は財布と先程配給された茶だけだが。

 碧はポシェットだけなので特に準備はしていない。その右手に茶を持っていることに今更ながら気付き、

 「碧ちゃん、お茶入れて…」と申し出た。片手が塞がっていては切符を取り出しづらいだろうと気を遣ったのである。後ろに並んでいる男子には敷物や弁当関連のごみを持たされて手が塞がっている者が複数いて、藍もその事は認識しているのだが、そこは藍にとって関与の埒外である。

 「わ! ありがとう!」振り向いた碧は藍の差し出した背嚢にペットボトルを滑り込ませた。

 ごみ回収所の数m先にもテントが二つ並べて建てられ、その下で係員が入場者の切符をもぎっているのが見えた。あんなに人が並んでいたのに入口まで意外とすぐだったな、と思いながら左に曲がると、

 「わたし一番奥行くから藍ちゃんその隣ね!」碧に言われ、藍は我に返った。

 「うん…」これまで一列だったのが荷物検査の手前で四つに分かれており、碧はどの列に入るかの指示を出したのである。指示が無ければ藍は碧の後ろに並んでいたところだった。

 分岐したらすぐ荷物検査だったが、検査員は背嚢の中を一瞥しただけで、

 「オッケーです!」と、先に進むよう促した。藍は進みながら、たったこれだけでいいのだろうかと思ったが、中身の量を考えればそのようなものかと納得した。

 数歩先には別の係員が立っていて、切符の半券をもぎられ、藍は入場した。直前に碧も切符をもぎられている。

 さらにその二mほど先に別の係員が居て、厚手の白いポリエチレン袋を渡された。袋の外には「市民タイムズ」と緑色で印刷されている。中身は分からないが、薄い物であることは確かだ。紙か何かであろう。

 後続の美奈子達も相次いで入場してきたのを見て、碧は歩みを止めずに前方に向かった。もちろん藍もついて行く。

 右前方に飲食物を商う屋台が在ることに、藍はまた驚いた。外にあんなに屋台が出ていたのに、中にもあるのか。

 屋台の少し前方に腰くらいの高さで申し訳程度の幅の柵が設置され、「これより先、アウェイチームのグッズを御着用のお客様は入れません」という貼り紙がされていることにまたまた驚かされる。わざわざ遠くからお金を払って見に来ている人に対して意地悪なのではないだろうか。

 と思っていると、

 「相生ちゃーん!」緑子の呼ぶ声が聞こえてきて、藍はその姿を探した。

 碧はすぐに見つけたようで、少し見上げて大きく右手を振る。それを見て漸く緑子が観客席の最上段から呼び掛けたのだと分かった。

 しかし藍がそちらに目を向けた時、緑子はもうこちらに背を向けて歩き出していて、野球帽を被った頭が少し見えただけだった。

 視線を戻すと碧がこちらを向いて立ち止まっており、藍は危うくぶつかりそうになった。すぐ前の右手には観客席へ続くらしい通路がある。

 碧は一度振り向いて後続を確認すると、切符の半券を取り出してその通路の方へ曲がった。藍も慌ててついていく。切符はさっきから右手に持ったままだ。

 曲がってみると、連絡通路は間仕切りで出口と入口に仕切られ、それぞれに係員が一名ずつ立っている。通路の奥には向かい側の観客席が見えている。通路手前の頭上には「S-1入口 南サイドスタンド」の表示板。そのさらに上から「最後は気持ち!」と白字で書かれた緑色の幕が垂らされている。

 梨乃と同い年くらいと思われる女の係員が碧の差し出した切符を見て「はい、どうぞ」と頷き、碧は足早に奥へと進んだ。

 藍も同じように半券を提示する。急いで碧に追いつきたいところだが、係員が半券を見ている間に碧は突き当たりを左に曲がって見えなくなってしまった。突き当たりと言っても、太い丸管か丸棒を曲げた白い柵があるだけだが。

 「どうぞ」頷いた係員に小さく会釈して、藍は先を急ぐ。

 七、八歩進んだ時、予測に反し碧が戻ってきて、藍を手招きした。観客席通路への数歩を全速で歩いて碧の傍に行くと、緑子が左手から姿を現した。

 「緑ちゃん、よろしく!」

 「アイアイ」

 緑子が角に立つと、碧が藍の右手を取り、左の方へ歩き出した。緑子が誘導係を務めるというのであろう。弁当計画に於ける鈴音もそうだったが、本当によく気がつくものだと感心する。

 左に曲がると、すぐに先行入場班の姿が目に入ってきた。通路のすぐ左手即ち上側の立見席三段に七人が分かれて立っている。

 席と言っても、奥行一mほどの足場の前に白い柵が設置されているだけだ。前の座席の背後に設置されている落下防止用の柵と同じものだが、こちらから見ると柵と言うよりは手摺だ。足場から一.二mほどの高さを通路に平行に梁が走り、〇.八m間隔の柱がそれを支えているだけの、実に簡素な構造物である。

 その足元に鞄や折り畳み椅子が置かれ、手摺にはタオルマフラーが等間隔に幾つも巻かれている。恐らくこれが席確保の印なのだろう。皆たくさんタオルを持っているのだな、と藍は驚いた。

 ちなみに、通路より下の観客席には長椅子が設置され、座席となっている。

 係員の居た連絡通路の壁に沿って階段が最前列から最上段まで通っており、この階段から一つ向こうの階段までの立見席を三列分確保したものと思われる。

 「相生、好きなとこ入ってくれ!」前から三段目に立っている鈴木が声を掛けてきた。

 「うん!」碧は応え、通路をそのまま歩いて島の中央付近で手摺を潜って立見席に上がった。無論、手を引かれる藍も倣う。

 「ご苦労様でした!」碧が、一番近くに立っていた緑子の友人に声を掛ける。まだ名前が分かっていない方の子だ。

 「御苦労様でした…」藍も一番近くにいた山田に頭を下げた。藍からは見えなかったのだが、山田は意表を突かれたらしく、慌てて一礼を返した。

 藍が頭を上げる時、

 「ううん! お弁当ごちそうさまでした!」緑子の友人が碧に応えるのが聞こえてきた。

 「どういたしまして! みんな揃ったらデザート配るから!」

 「きやー! たのしみー!」

 「ご期待下さい」

 碧が緑子の友人と話している僅かな間、藍は手摺を掴んで球技場を眺めた。ここからは全体がよく見渡せる。飛行機から見た時よりも、芝の色が鮮やかな気がする。そよ吹く風も実に心地好く、日差しが強いものの、それほど暑くは感じない。

 向かいも左右も観客席があまり埋まっていないように見えるが、席を確保して離れているのだろう。

 向かい側の観客席中央に大きな広告が掲出されているのを藍は不思議に思った。かなり大きな広告が縦に三枚連なって、完全に一島(ひとしま)、最前列から最上段まで覆ってしまっている。まるで観客席を潰すために広告を張っているかのようだ。無論何か故あってのことだろうが。

 釈然としない気持ちで立っていると、手摺を(くぐ)って緑子が隣にやって来た。もう案内は不要なのだろうか。

 「あ…緑ちゃん、御苦労様でした…」左側を向いて頭を下げると、

 「ご苦労様でした!」後ろから碧の声が追いかけてきた。

 頭を上げると、緑子は両手を胸の前で振りながら、

 「いやいや、みんなこそお弁当ご苦労さま! 全部おいしかった~!」

 「だよねー!」

 「毎日あの弁当が食べたい」美奈子の声がしたので振り向くと、碧の隣に美奈子、鈴音が入ってくるところだった。後続もやって来ている。

 「美奈ちゃん、それプロポーズだよ」

 「おお、図らずも。いやー、6人も囲うのか、スゲー稼がねーと」

 「藍ちゃんはわたしの奥さんだからダメー」

 「言うと思った。洞!」ちょうど自分の前を通り過ぎようとしていた洞を呼び止める。

 「へい」一歩通り過ぎて洞は立ち止まり、振り向いた。後続の河内と斉藤も止まる。

 「それくれ」

 「へい」洞は美奈子に敷物を渡した。

 「ご苦労」

 「へい」洞は先へ向かった。緑子の向こう側に居る山田と合流するつもりなのだろう。

 「河内君」今度は碧が河内を呼び止めた。

「袋、ありがとう」と言って右手を差し出す。レアチーズを収めた保冷袋のことだ。

 河内は無言で碧に保冷袋を渡した。

「ありがとう!」碧が笑顔で言うと、河内は会釈し歩いていった。そちらに気を取られていると、

 「ちょっとどいて」敷物の端を持った美奈子に言われ、藍は慌てた。見ると、反対の端は鈴音が持っている。

 どこまで敷くつもりなのか分からないので、とりあえず手摺を潜って通路に下りる。それを見てか、隣で碧も同じことをした。が、例によって藍は動きが鈍いので、碧の方が先に通路に下り、藍の手を取ってくれた。

 「ありがとう…」

 「ううん!」

 と言っている間に美奈子は緑子のいた辺りに移動して、敷物を延ばした。鮨詰めに詰めれば鈴音から緑子までの五人が座れるくらいの幅だ。

 そして、敷物をさらに開くと、ほぼぴったり足場くらいの奥行きになった。

 「おお! いいね!」と碧。

 「藍さん、座って! レアチーズの準備して!」美奈子はそう言って、一旦通路に下りてから敷物に腰掛けた。階段二段分、約四十㎝の段差だ。

 「あ…! うん…」なるほど、そういうことか。もしかしたらそれにかこつけて座りたいだけかも知れないが、大義名分が有るならその方が良い。

 「斉藤! それ貸して!」また美奈子が呼びつけ、斉藤からポリエチレン袋を受け取った。中身はコップだ。

 尻から腿にかけてスカートを押さえながら藍は座った。膝から下が通路に出ているのを少し心苦しく思うが、通行の妨げになる程ではないだろう。

 すぐに碧も隣に座るが、右側の柱にもたれかかるようにして藍との間を少し空けている。手摺を支える柱と柱の間は八十㎝余、大の大人二人が並んで座るには窮屈に違い無いが、碧と藍にとっては十分な幅なのである。

 碧は、保冷袋とコップをそこに置いた。いつの間にか美奈子が渡したらしい。保冷袋を開封し、苺の入った透明な容器を取り出すと、

 「お願いします!」藍の胸前に差し出した。

 「はい…!」受け取った容器はひんやりとしている。保冷剤と一緒に入れられていたのだから当然なのだが、それを失念していた藍はその冷たさに驚いて危うく取り落としそうになった。

 「大丈夫?」訊く前に碧は容器の下に手を伸ばしている。

 「うん…冷たかったからびっくりしただけ…」

 「そっか」

 「うん…ありがとう…」

 「ううん」

 藍は気を取り直して箸を取ろうとしたが、先程手摺に手を乗せてしまったことを思い出し、一旦容器を右腿の傍に置いた。

 背嚢を肩から降ろして側面のポケットからウェットティッシュを取り出すと、

 「あ! 後でわたしにも下さい!」隣から要請が来た。

 「はい…」後で、と言われたのでとりあえず自分の分を取り出して手と容器の外側を拭き、スカートのポケットに入れる。

 「みんな入ってきたね」碧に言われて後ろを見てみると、三列分がほぼ埋まっていて、前に目を戻すと贄教諭が階段に足をかけるところだった。

 「うん…」並んでいた順に入場してきたとすればこれで全員揃ったはずだ。

 碧は手摺を潜って通路に立つと、くるりと百八十度向きを変え、

 「デザート食べてない人、あと5分くらいしたら配りまーす!」と呼び掛けた。けっこうな大声だったので、近くにいた人が振り返って碧を見る。自分が見られている訳でもないのに藍は恥ずかしさを感じたが、当の本人には全く気にする様子が無い。

 それだけ言って碧は藍の右隣に戻ってきた。

 「碧ちゃん…」待ち構えていた藍は、ウェットティッシュを一枚取って差し出す。

 「ありがとう!」勢いのある返事とは裏腹にそっとウェットティッシュを取り、丁寧に手を拭く。それをズボンのポケットに入れてから、碧は保冷袋を空け、レアチーズの入った密封容器を取り出して蓋を取った。

 藍も箸を右手に構え、コップを左手で支える。先程と同じだ。

 掛け声も無く碧がレアチーズをコップに流し始めた。今回は百㎖の見本を見ることすらしていないが、数秒後、碧は自信を持って流し込むのを止めた。正確なところは量ってみないと分からないが、恐らく±数㎖の範囲に入っているだろう。

 藍は苺を箸で抓んでコップに入れる。ゆっくりと、しかし淀み無く二つを投入すると、碧の右手がコップを持ち去り、美奈子との間に置いた。

 「美奈ちゃん、よろしく!」

 「はいよ」どうやら美奈子が配給するらしい。

 そしてすぐ次のコップが供給され、藍にとっては目まぐるしい速さでコップへの投入が繰り返された。

 数分後、十杯が出来上がったところで、

 「藍ちゃん、緑ちゃんに渡して」と碧に言われ、藍は左を向いた。

 「緑ちゃん…お待たせしました…」左手でコップを差し出すと、

 「お待ちしました!!」緑子が嬉しそうにそれを取った。碧や美奈子もそうだが、こんなに喜んでもらえるのは調理者冥利に尽きる。

 「藍ちゃん、もう一杯!」碧の声に、元の態勢に戻る。碧から次のレアチーズを渡され、

「山田君の分です」

 「はい…」受け取ってまた左を向く。しかし、山田を直接呼ぶ勇気は無く、

 「緑ちゃん…山田君に渡して下さい…」緑子に頼ることにした。

 「アイアイ」緑子は匙を袋から出して食べ始めようとしていたが、匙をレアチーズに浸けて、藍の差し出したコップを受け取ってくれた。

「山田君」緑子が呼ぶのを聞きながら、藍は作業に戻るべく元の体勢に戻った。ほぼ同時に、

 「美奈ちゃん、取りに来てもらってー」碧が美奈子に要請し、

 「うい」ぞんざいな返事のあと、美奈子が振り向いて、

「デザート食べてない人取りに来てー」と後ろに呼び掛けた。

 すぐに、藍の斜め後ろから、

 「高橋さん、配るから回して」と男子の声がした。誰かは分からない。藍に聞き分けられるのは河内だけだ。

 「ん」美奈子の返事は短い。

 十杯目のコップを支えながら藍は、美奈子がレアチーズを両手に(はん)()を捻るのを見た。後列の男子の姿までは視界に入らない。

 そうしてあと三杯作ると、

 「これで全員分かな」と碧が確認を求めてきた。

 「うん…」入場前に配ったのが二十杯だったから、これで行き渡るはずだ。

 「だいたい予定通り余ったかな?」

 「どんぐらい?」と美奈子。後ろを向いて渡しながらだ。

 「700ぐらい」単位は㎖である。

 「けっこうけっこう」

 「イチゴどれだけ余ったかな?」これは藍への質問だろう。

 「ちょっと待ってね…」一目で答えられない程度に残っている。藍は数え、

「十七個…」と答えた。

 「意外と余ったね。10個いかないと思ってた」

 「うん…」

 「じゃあ山分けターイムか!?」

 「ちょっと待って」碧は手摺を潜って立ち上がり、

「デザート行き渡りましたかー」後ろに呼び掛けた。

「もらってない人ー?」

 名乗り出る者はいない。碧は座り、

 「藍ちゃん、とりあえずあと2つお願いします」と言い、コップを置いた。

 「うん…」美奈子と碧の分だろう。

「あの、苺は三つずつでいい…?」苺の残数十七個をレアチーズの残量七杯で割り、余りを一つずつ上乗せした結果だ。

 「うん、そうだね! さすが藍ちゃん、気がきく!」

 「……」自分より余程気の利く碧に言われて藍は恐縮する。

 その数量で二杯を作ると、碧は両手にそれを掴み、

 「これ鈴音ちゃんと美奈ちゃんの分」美奈子との間に置いた。なるほどそういうことか。

「朝早くからご苦労様でした!」二人に向かって軽く頭を下げる。これならば美奈子が余分に食べても大義名分がある。

 「御苦労様でした…」藍は深々と下げた。想像しか出来ないが、実際かなりの大仕事だったはずだ。

 「藍さんたちもご苦労さん。まあまあ好評だったみたいでよかったよ」と鈴音。彼女にとっては、今日の仕事は全て終わったというところであろう。

 「まあまあじゃないよ! 大絶賛だよ!」碧の異議に藍も頷く。食べ終わった後、各所から賛辞が聞こえてきたし、女子も含めていい食べっぷりだったと思う。

「ことあるごとにやってほしいね!」言いながら、次のコップを置いた。すぐ藍が左手で支える。

 「ことあるごと、とは」

 「遠足とか運動会とか文化さ…記念祭とか」話しながらレアチーズを注ぐ。

 「遠足なんてあんの?」

 「え? ないの?」

 「あるよ…」学校行事にさして興味は無いのだが、藍は一応年間行事予定表に目を通してある。

 「ほら、あるって! で、どう? やってほしいけど!」

 「そんくらいの頻度だったらいんじゃね? ほかのみんな次第だけどな」

 「おお! 美奈ちゃん、やったね!」碧が注ぎ終えたので、藍はまた苺を投入する。

 「朗報朗報」美奈子もほくほく顔である。

 「ただし、今度から米は自分持ちな」

 碧が次のコップを置き、藍がそれを持つ。

 「やっぱり大変だった? スゴい量だったもんね」

 「(わたし)的にはあれさえなければもっと品数増やしてもいいな」

 「うおっ!? それステキ!」

 「じゃ、また声掛けるか」

 「やった! 鈴音ちゃん天使!」

 「その分美奈子のおっぱいもませろ」

 「いいけど、おっぱい言うな! ハズかしい」と美奈子。

 「えー、やっぱり昨日ももんだんですか?」何故か丁寧語で碧が訊く。そう言えば、昨日から美奈子が高木邸に泊まる、という話だった。

 「もんだもんだ」両掌を美奈子に向けて、手を開閉する。

 「もまれたもまれた。もーエンリョねえったら」

 「遠慮せんでいいっつったろ」

 「言ったけどな」

 「じゃあ次は…中間終わったら球技大会あったよね?」

 「そだっけ?」鈴音の問いに、

 「さあ?」美奈子も疑問符を付けて返す。

 「あるよ…」

 「ふーん、分かった。藍さん参加でいいよね」

 「うん…玉子焼きしか出来ないけど…」

 「全然オッケー! あれはハズしたくないからね」

 「……」鈴音にも喜んでもらえたようで藍は嬉しい。それに、自分より遥かに腕前の優れる彼女に誉められたのは自信になる。

 「あとのメンツは朝礼で募集すっか」

 「そうだね!」

 「なるべくなら今回のメンツは次回も参加してほしいけどなあ」

 「全部おいしかったもんね!」

 「情報交換もしたいしな」鈴音の意見に藍も頷く。どれも美味しかったので、調理が簡単な順に挑戦していきたい。

 「緑ちゃん」碧が、藍の左に座っている緑子に呼び掛けた。

 「うん」

 「緑ちゃんの友達、おかわりいるかな?」

 「ちょっと待ってー」緑子は右の方に向きを変え、

(じゅん)ー」三列目で手摺にもたれながら鈴木と談笑している女子に呼び掛けた。その女子が鈴木から緑子へ視線を移す。

「おかわりいる?」緑子が自分のコップを胸の高さに持ち上げて軽く振ると、

 「う…食べたい…けどもう時間過ぎたからやめとくー。あんま食べると声出なくなっちゃうからー」じゅんと呼ばれた女子は緑子にそう答えた。藍はその言葉を不思議に思う。空腹で力が入らないというなら何となく分かるが。いつでも声の小さい、大声を出そうとしたことすらない藍には想像も出来ないことだ。

 「翼はー?」藍が内心で首を捻っている間に緑子がつばさに訊く。

 「わたしも…」小さいが明瞭に聞き取れる声でつばさは答えた。

 「緑ちゃんは?」

 「ちょうだいちょうだい。でも今の半分くらいで!」緑子が空のコップを持った手を突き出す。

 「はーい」碧はそのコップを受け取って敷物の上に置き、藍もすぐ支えの手を出す。

「ありがとー、おいしかったー!」緑子と碧の会話が切れた途端すぐ近くからじゅんの声がして、藍は驚いた。

 いつの間にか、じゅんが美奈子の後ろに来てしゃがみこんでいる。スカートが短いため脚の大部分が露になっていて、僅かに日焼けした健康的な脚と薄桃色のスカート、それより少し濃い桃色で踝までを覆う靴下が藍の印象に残った。

 ちなみにじゅんは今靴を履いていないのだが、それは二列目三列目でも銀色の敷物が使われているからだ。

 「それはよかった。デザートは私ノータッチだけど」鈴音が振り向いて応える。

 「誰が作ったの?」

 「それはナイショなんだけど」と言って鈴音はちらりと藍を見る。次に美奈子が、そして碧が。これでは全然内緒ではない。

 じゅんは一つ頷いて、碧の後ろに移動してきた。藍は半身になってそちらを向いたが、その時背後で気配がして、捻った上体を反転させた。そこにいたのはつばさで、緑子が右手で抱き寄せている。何だか碧と自分のようだ、と藍は思う。つばさは、さっき見ていた限りでは人見知りする性格のようだから、その点も自分に近い。

 「いただきました! すごいおいしかった!」じゅんが、藍に向かって小声で、しかし満面の笑みで言う。

 「いただきました…」今度は背後からつばさの声。

 「ありがとう…」誉められた恐縮と喜んでもらえた嬉しさと理由の判らない恥ずかしさに赤くなりながら、藍は何とかそれだけ言った。

 じゅんは身体を少し右に回し、

 「ごはんもおいしかった! 応援ガンバろう!」右手を拳にして少し前に出した。

 「おー!」碧がその姿勢を真似る。少し遅れて、

 「うぃー」「うん」美奈子と鈴音も笑顔で応えた。藍は、声も手も出さなかったが、はっきりと頷いた。

 じゅんは立ち上がって鈴木の隣へ戻って行き、つばさは緑子の左隣に座った。

 手元に視線を落としてレアチーズ注入作業がとっくに完了していることに気づいた藍は、慌てて苺を一つコップに入れた。

 「あ、イチゴもいっこ」緑に要求され、

 「あ、うん…」藍はまた慌てて一つ入れ、コップを渡した。

 「美奈ちゃんと鈴音ちゃんは? おかわり」

 「愚問」美奈子は待ってましたとばかりにコップを出す。

 「だよねー」碧に手渡されたコップが目の前に置かれ、藍はまた左手で支えた。

 「鈴音ちゃんは?」

 「私もー」

 「だよねー」碧がレアチーズ容器と匙を引き上げたので、藍は苺を入れる。

 もう一杯、鈴音の分を作って渡すと、碧は容器に蓋をした。

 「相生ちゃん食わねえだ?」美奈子が不思議そうな顔で訊く。藍も同じ疑問を抱いている。

 「うん、試合終わった後でつばさちゃんとじゅんちゃんにあげたいなって」

 「なるほど。いんじゃね?」鈴音がすぐ賛意を示した。藍も、なるほどそれはいい考えだと感心する。余ったら山分けだなどと軽口を叩いていたのに。

 「父ちゃんまで天使かよ!」美奈子の言葉に、

 「みんなには黙っていたが父さん実は天使だったんだ」碧は低い声を作って応える。

 「自分で言ったら台なしなヤツだな」と鈴音。その通りなのだが、この場合は碧の照れ隠しかも知れない。

 「えー。せっかく父さんの評価上がったと思ったのに」

 「心配しなくても簡単には上がらねえだよ」

 「すぐ下がるしな」

 「ぐはーっ! 父さんショック!」

 「さてと。ごみ袋どこかや」美奈子が話を終わらせ、後ろを向いた。数秒探した後立ち上がって、

「野沢くん、ごみ袋は?」右手の方に向かって大声で呼びかけた。君付けで呼ぶということは、親しくないのだろう。

 「外で捨ててきた」鈴木の前に立って向かいの観客席を眺めていた野沢が答えた。

 「え? 大丈夫?」

 「何が?」

 「ごみ袋大きかったし」

 「おれもそう思ったけど、ボランティアの人がいいってよ」

 「あ、そ。ありがと」

 「おう」

 美奈子は前に向き直ると、

 「どっかごみ捨てるとこあるかや?」と訊いてきた。藍には心当たりが無かったが、

 「入場ゲートの横にごみ回収所あったよ」碧が即答した。

 「そうだったかや。行ってくるわ。スズネ、ついでにそれも捨ててきちゃる」

 「サンキュー」鈴音は空コップと匙を渡した。

 「ミドリもツバサちゃんも」

 「アイ。翼」緑子は左手をつばさの前に出して軽く上下に振った。

 「うん」つばさは緑子に渡すと、少し前へ身を乗り出して美奈子を見、

「お願いします…」と言った。美奈子は重々しく頷く。

 「じゅーん!」緑子が今度はじゅんを呼び、まだ鈴木と話していたじゅんが緑子の方を向いた。

 「捨ててくるから持ってきてー」重ねた空コップを顔の前に上げると、じゅんが右手を挙げて応えた。

 じゅんは鈴木の方に向き直り、空コップを奪って自分のと重ねると、小さく手を振りながら鈴木から離れた。

 そして手摺を潜り、緑子の方へまっすぐに来る。と藍は思ったのだが、じゅんは水平方向に動いて、左隣に立っていた教諭陣から空コップと匙を回収し、鈴木の方へ戻ったと思ったら通り越して岡田と松岡からも回収、さらに二列目の面々とトランプバカ一代の四人からも受け取って、結局、席にいる全員から回収してしまった。

 「すまないねえ」じゅんを迎えた美奈子が妙に年寄くさい口調で言う。さっき碧が言ったのと同じ口調だ、と藍は思った。

 「それは言わない約束よ」こちらは普通の口調でじゅんが返す。初対面で約束などしているはずも無いだろうし、碧と美奈子が同じような口調であったから、これも何かの引用なのだろうか。

「じゃ、お願いします」じゅんは重ねた空コップを美奈子の足元に置くと、元の位置へ戻っていった。それを見届け、

 「じゃ、ちょっと行ってくるわ」美奈子が手摺を潜って立ち上がる。

 「あ、手伝うよ、美奈ちゃん」碧が素早く通路に降り、置かれた空コップを持った。

 慌てて藍も背嚢を取って通路に立つ。三人も必要無いと分かってはいるが、何か手伝えることが有るも知れないし、碧と一緒に居たい。

「チケット持った?」

 「うん…」「えーと、あるある」美奈子は左の尻ポケットに差し込んだチケットホルダーを取り、一瞥してまた戻した。藍も首に掛けたチケットホルダーを見て半券を確認する。

 美奈子、碧、藍の順に並んで出入口へ向かう。藍としてはいつもの位置につきたいところだが、そうすると向かってくる人とすれ違えない。

 「出られる際はシーズンパスまたはチケットをお持ち下さい! 入場時確認させて頂きます!」出入口では係員が声を張っていた。切符やシーズンパスを確認していた係員とはまた別の人である。

 観客席の外周通路は数mの幅が有るが、往来が激しく、藍は碧の真後に居ることを余儀無くされた。

 美奈子と碧はすたすた歩いて、4ゲート入場口横の外周側に位置する、黄色いテントの「ゴミ分別所」へ向かった。藍は半ば駆け足で後を追いながら、入場時に外側から見たテントであることを認識し、一つのテントで内と外両方に面しているのは効率が良いと感心した。

 大きな半透明のポリプロピレン袋に空コップと匙、それに先程使ったウエットティッシュを捨て、観客席を立ってから三分もしない間に任務は完了した。

 「さんきゅーう。わたし外出て自販機で茶買い足してくるわ」S-1入口から離れる方向に歩き出しながら美奈子が言った。

 「りょうかーい」美奈子に応えると、碧は藍の方を向いた。

「わたしスタジアムの中探検したいー。藍ちゃん、一緒に行こ!」

 「うん…!」

 ちょうど4ゲート入場口の前で通路は左に折れ、その少し先に「再入場ゲート」と朱書された白いテントが見える。三人はそこまで並んで行った。ゴミ分別所前から通路幅が広がり、並んでも迷惑にならないと判断したのである。

 「じゃ」

 「うん」「うん…」

 美奈子が係員から紙片をもらい、テントの下を通って場外に出るのを見送ると、碧が手を繋いできた。

 「行こ」

 「うん…」

 碧に手を引かれて藍も先の方へ歩き出す。恐らく碧はぐるりと一周するつもりなのであろう。

 「わー、こういうのホームって感じだねー」歩きながら碧が右を見て言う。柵沿いに並んでいる、選手の写真が印刷された幕のことだろう。いかめしい表情で腕組みするその写真をカメラや携帯電話で撮影している人もちらほら見受けられる。

 「うん…」

 「みんなユニフォームだねー」

 「うん…」すれ違う人の九割方がユニフォームらしき服を着用している。

 「わ! あの子かわいい!」

 「え…」少し視線をさまよわせると、碧が誰のことを指しているのか分かった。

「本当だ…!」二、三歳と覚しき女の子が、大人用のユニフォームを着せられてトコトコと歩いて来るのである。碧と同じ状態であるが、その程度が著しい。地面に擦りそうな裾から出ているのはほぼ靴のみ。踝が僅かに見えている程度だ。袖の方も腕を全て被い、左右とも親指を除く四指が覗いているだけである。当然首周りも大きいので、こちらは逆に、下に着ているシャツが顔を出している。そのシャツも緑色だ。無論、女の子は独りではなく、数十㎝後ろを母親と思われる婦人が歩いている。

 「足元オバQみたい!」

 「おばきゅう…?」聞いたことがあるような気もするが、それが何なのかは知らない。

 「オバケのQ太郎。知らない?」

 「名前だけ…」

 「そっか。後で画像見せるね」

 「うん…」普段の碧ならばすぐに見せてきそうなものだが、そうしないのは藍と手を繋いでいるからだろうか。そう思って藍は嬉しくなった。少なくとも藍の方は、手を繋いでいたい。

 「やっぱりかわいいね!」その女の子とすれ違い、振り向きながら碧が言う。

 「うん…!」足元の覚束ない感じが可愛さに拍車をかけている。

 「あ、藍ちゃん、前階段だよ」

 「え…」慌てて前を向くと、二歩先から下りの階段になっている。碧に手を引かれているので安心しきって後ろを見ながら歩いていた。

 階段には両端と中央に手摺が設置されている。二人は通路の中央やや右を歩いていたので、藍は中央の手摺に身を寄せながら階段を下りた。

 階段の下は、外側即ち二人から見て右側に張り出した矩形の広場になっていて、広場を挟んで二人の正面にはこちら側と同じような階段。つまり、階段に挟まれた広場の部分だけが数m低くなっている構造だ。

 「すっごい並んでるね!」階段を下り始めるとすぐ碧がそう言った。

 「うん…」広場の左手に二つ、右手に三つのテントが立っているのだが、そのうち一番右奥の緑色のテント前に長蛇の列が出来ている。ざっと百人ほどが順番を待っているだろうか。テントの軒先部分に品物の写真が貼ってあるから、売店なのだろう。左手のテント二つにもそれぞれ列が出来ているが、十人ずつといったところで、右奥の比ではない。

 「何かの発売日なのかな?」

 「うん…」

 「行ってみよ!」

 「うん…」正直なところ、人ごみに近づくのは避けたいが、碧が言うのならば仕方が無い。

 碧に引かれて藍も少し歩を速めた。階段を下り、緑のテントへと向かう。

 列から一mほど距離をとって二人は商品の写真を眺めた。

 「やっぱり。タオルが今日発売なんだね」碧は納得した様子だ。

 「うん…」

 「鈴木君買いに来なくてよかったのかな」碧は少し心配そうだ。

 「うん…」確かに。鈴木はきっと買いたいと思っているだろう。

 「実は今じゅんちゃんと並んでたりして」碧が歩き出し、藍も従った。

 「え…うん…」有り得る。

 「鈴木君すごい気に入られてたよね」

 「うん…」男女のことには疎い藍にもそれは分かった。

 「緑ちゃん鼻高々だね!」じゅんも鈴木も、そして間接的には自分達も、緑子の行動の恩恵を蒙っているのである。

 「うん…そうだね…」得意顔で胸を張る緑子を想像し、藍はくすりと笑ってしまった。試着会の時に見たその表情が印象に残っていたからだが、緑子は得意気にしていても嫌味が無く、寧ろ愛嬌があって可愛らしい。

 「じゅんちゃんは鈴木君でいいとして、つばさちゃんにも何か、喜んでくれることできるといいね」

 「うん…」

 「何すればいいか分かんないけど」

 「うん…」初対面で挨拶を交わしただけであるから当然である。

 「あ、でもレアチーズがあるから安心だけどね!」

 「え…だといいけど…」好感触だったとは思うが、今日来て手伝ったくれた礼としては不十分だろう。

 「あれは絶対!」しかし碧の言葉は力強い。

「そこで売ってたらバカ売れ間違いなしだよ~」そこ、とは今二人が居る広場の外を指している。樹脂製の簡易な柵に隔てられた向こう側に、五台の移動販売車が来ているのである。いずれも購買待ちの列を抱えている。

「行こ!」野次馬活動に満足したのか、碧がまた手を引いた。

 「うん…」

 二人は緑テントから離れ、再入場口である白テントの前を通って右に曲がる。

 階段を上って通路を進むと、突き当たりに一軒、その手前を斜め左に曲がった先の広場に一軒ずつ屋台が出ていた。どちらに並ぶ列も、青いユニフォームを着た人が三分の一程を占めている。

 「屋台いっぱいあるね!」碧は少し驚いた様子である。ライオン丸を撫でた広場に数軒、4ゲート前に二軒、先ほどの広場に二軒、その外に五軒、そしてここに二軒。

 「うん…」

 「どこもいっぱい並んでるし」

 「うん…」藍はその点に驚いている。これだけ多くの店が全て行列を抱えているとは、皆どれだけ買い食いを楽しみにしているのだろう。

 広場を通過すると、また通路だった。松本高校一年F組有志の陣取っているゴール裏の向かいに当たるはずだ。

 観客席への入口前で碧が立ち止まった。S-1入口と同じように係員が二名立っている。頭上の壁には「N-4入口 北サイドスタンド」の表記。

 「えーと、『ホーム自由席』だから入れるよね。行ってみよ!」

 「うん…」向かい側から眺めようというのであろう。

 碧は藍の手を離し、ポシェットからチケットホルダーを取り出した。藍も、首から掛けたチケットホルダーを手にして、係員に見せる準備をする。

 「お願いしまーす」

 「どうぞ!」

 「お願いします…」

 「どうぞ!」

 若い女性係員と短い遣り取りをして、二人は入口を潜った。

 「あ! いるいる! じゅんちゃんと鈴木君!」観客席内の通路に至る前に碧が歓声をあげた。真正面のほんの少し右にいるはず、と考えながら探すと、すぐ見つかった。手摺にもたれて話しているのがじゅんと鈴木に違い無い。

「隣は先生…鈴音ちゃんと緑ちゃんいた! つばさちゃんも! 二人とも気をつけないとパンツ見えるよ! ね!」

 「え…うん…」と相槌は打ったが、そのように細かいところまで藍には見えていない。眼鏡を掛けた補正視力が左右一・〇ずつの目には、鈴音、緑子、つばさと思われる人物が座って話し込んでいるらしいということまでしか見て取れない。

 「よし! 呼び掛けてやろ!」そう聞いて、まさかここから大声で呼ぶのかと藍は驚いたが、碧は黙ってポシェットにチケットホルダーを戻し、代わりに携帯電話を取り出した。それを見て、自分もチケットホルダーを持ったままであることに気付いた藍は、右手を開いた。

 碧は十秒ほど携帯電話の画面に触れてからポシェットに戻し、向かいの観客席を眺めた。

 数秒後、鈴音と緑子に動きがあった。よくは判らないが、携帯電話を取り出して見ているように思える。

 さらに数秒後、こちらを向いたのが藍にもはっきりと分かった。すぐに碧が両手を大きく上げて振る。藍は、大きい動作は恥ずかしいので、顔の高さで右手を振った。

 数秒続けたが向こう側の体勢に変化が見られず、碧は手を振る動作を続けながら飛び跳ね始めた。こうなると、片手を軽く振っているだけでは申し訳無いような気がしてくる。藍は、恥ずかしさを押し殺し、右手をいっぱいまで高く上げて振った。

 するとすぐ、緑子が立ち上がって手を振り返してきた。

 「気づいた!!」碧が跳躍をやめ、左腕を下げた。その代わり、右手の振幅を倍くらいに大きくする。

 「うん…!」

 すぐにつばさと鈴音も立ち上がって加わった。意外なことに、つばさの動作が大きい。

 藍は、不思議な感動を覚えた。向かいの三人と心が通じ合ったような喜び。ただ手を振り合っているだけだというのに。

 「あ、美奈ちゃんも戻ってきた!」

 「今の、美奈子ちゃん…?」ちょうど今、S-1入口から入ってきた人物が居たのである。

 「うん! あの胸は間違いないよ!」顔ではなく胸で判断したのか、と藍は少し呆れつつ納得した。あれほど立派な胸の持ち主はそうは居ないから、判断材料としては適切であろう。

「あ! しかもスカートにはきかえてる!!」

 「あ、本当だ…!」間違い無く、膝上十㎝くらいの緑色のスカートを穿いている。緑子から借りた物に違い有るまい。

 手を振り続けながら見ていると、美奈子は少しの間三人の方を見た後、通路に立ったままこちらを向いて手を振ってきた。

 ほんの少し前まで感じていた恥ずかしさを完全に忘れ、藍は美奈子に向けて手を振った。

 「あ、じゅんちゃんも手振ってくれた!」

 「あ、本当だ…!」つばさほど大きな動きではないが、はっきりそれと分かる程度に腕を伸ばして振ってくれている。

 そのまま十秒くらい手を振って、碧が手を下ろしたので、藍も倣った。

 ふと気付くと付近の人が何人かこちらを見ていたが、不思議なことに少ししか恥ずかしく感じない。

 「はー、楽しかった!」

 「うん…!」

 「例のヤツ実行に移したくなってきた!」

 「例のやつ…?」思い当たる節が無い。

 「ほら、城山と弘法山で」

 「あ…」その事か。確かに、望遠鏡を使って通信してみたいのだと言っていた。

 「後でみんなに話してみよ!」

 「うん…」みんな、が誰を指しているのか気になるところであるが、まさか今回のように学級行事として呼び掛けるつもりではあるまい。

 「あれ!? 鎧武者がいる!」突如、碧が訳の分からないことを言った。

 「え…?」

 「ほら、画面の左下! 最上段!」向かいの客席の最上段のさらに後ろに据えられた大きな画面のことだ。黒い背景に二つの紋章が表示されている。左の紋章はチケットホルダーに描かれているものと同じだから、右側が横浜の紋章なのだろう。

 言われた方に視線をさまよわせると、

 「あ、本当だ…」緑色の鎧兜に身を包んだ人物が立っているのを捉えた。正確には、鎧兜かどうかは分からないがそれらしく見える衣装である。背には旗指物も負っている。

 「山雅の応援キャラかな? ガンズくんだけだと思ってた!」

 「かな…?」藍はがんずくんなる人物も知らないが。

 「戻ろっか」

 「うん…あの、一周しないの…?」

 「したかったんだけど、『この先ホームチームの応援グッズを身に着けた方は入場できません』だって」

 「あ…そうなんだ…」なるほどそれならば不公平ではない、と話題から外れたところで藍は納得した。対戦相手に意地悪な訳ではなかったのだ。しかし。

 「どっちのサポーターも一周できればいいのにね」碧が残念そうに言う。

 「うん…」全くである。無論それなりの理由有ってのことだろうが、分けなければならないというのは残念に思う。

 「でも中は通り抜けられるっぽいから行ってみよ!」碧は球技場の角の方を指差している。確かに、球技場の長辺側まで観客席が繋がっているように見える。

 「うん…」

 碧がまた藍の右手をとり、左の方へ歩き出した。が、一歩で立ち止まり、

 「あ! さっきのおじさんたちじゃない!? あそこ!」こちら側のゴールの方を指差した。

 「え…と…」後ろからではよく分からない。

 「お礼言いに行こ!」碧は返事を聞く前に歩き出した。

 「え…うん…」

 最前列まで階段を下り、右に向かって(ひと)(しま)(はん)歩いたところで碧は止まった。

 「あの、すいません。さっきはありがとうございました!」碧が前から声を掛けると、最前列と二列目に座っていた男達十数人が一斉にこちらを向いた。藍は少したじろいだが、碧は涼しい顔で、

「おかげで全員まとまって応援できます!」と続けてお辞儀をした。それを予測していた藍も同時に頭を下げる。

 「そりゃよかった。銀ちゃんが『折り入って頼みがあんだ』とか言うからよ」と、銀さんからてっつぁんと呼ばれていた男が応えた。

 「こんなベッピンさんたちがわざわざ挨拶に来てくれるなら頼まれなくてもやるけどな!」その隣にいる黒太縁眼鏡の男が軽口を叩く。たち、の部分に藍は恐縮した。明らかに世辞であるから、気を遣ってくれたに違い無い。

 「間違いない」「そりゃそうだ!」「たしかに」周りの面々も口々に同意する。全く嫌味もいやらしさも無く聞こえるのは、年の功だろうか。

 「嬢ちゃん、その帽子なかなかいいな!」てっつあんの三人向こうの男が言う。

「どこで買っただ?」

 「借り物なんですけど、ダブリンのおみやげ屋で買ったって言ってました」碧は帽子を取り、折った部分を伸ばしてIRELANDの文字をその男に向けた。

「アイルランドのおみやげだそうです」

 「おう! そりゃ相当ずく出さねえと買いに行けねえな!」

 「やめとけやめとけ! こんなカワイ子ちゃんだからいいけどな、お前がかぶったらただの不審者」右斜め後ろの席から野次が入った。無論、冗談だろう。言われた方も気分を害した様子無く振り返った。

 「俺もそう思うけどな、ゴール裏がみんなこれかぶって跳ねてたら絵的にユカイだろ」

 「魔術結社の儀式的な」

 「そうそう」

 角帽子から話題が外れそうだと藍が思った時。

 「おうタツ、ご苦労さん!」一つ向こうの階段辺りから大声が聞こえてきて、藍と碧を含む全員の注意がそちらに向いた。

 中肉中背の男が大きなボール紙細工の盆を両手に階段を下りてきたところで、階段脇の前から二列目に座っていた男が立ち上がって盆から一杯取った。透明なコップで、緑色の液体が九分目辺りまで入っている。

「オブリガード! ちょうど穂高のクラスのカワイ子ちゃんたちが来てるぞ!」コップを持った男はまた大きな声で言い、こちらを見た。盆を持った男もこちらを見る。

 「もしかして鈴木くんのお父さんですか!?」碧が誰にともなく尋ねる。

 「そうだよ。嬢ちゃんよく覚えてるな!」てっつぁんが答えた。タツという名は一度しか口にされていないし碧達に向かって発せられたものでもなかったから、聞き流していてもおかしくない。

 「ありがとうございます!」碧は小さく一礼し、歩き出しかけてやめた。たつやが飲み物を配りながらこちらへ向かっているので、それが終わってからと考えたのであろう。

 全て配り終えた時、たつやは二人から一.五mほどの所まで近づいて来ていた。

 碧が小股で二歩前に踏み出し、手を引かれた藍も隣に並ぶ。

 「鈴木君のお父さんですよね? ユニフォームありがとうございます! お借りしてます!」碧が勢いよく一礼したので、少し遅れて藍も頭を下げた。

 「ああ、じゃ学級委員長の」

 「はい! 相生といいます。こっちは青井です」自分の名が呼ばれたので藍は軽く頭を下げた。

「鈴木君にお願いして二人分お借りしました」

 「そうでしたか。役に立ったようでよかった。お互い頑張って応援しましょう」

 「はい! ありがとうございます! 失礼します!」碧がまた一礼する。今度は予測出来たので藍も碧に合わせて礼をした。

 碧に手を引かれるまま藍は向きを変え、少し頭を垂れながら中年男達の前を通る。

 「じゃあな! そっち側のゴール頼むぜ」てっつぁんに呼びかけられ、

 「はい! がんばります!」元気よく碧が応え、二人は下りてきた階段を上った。

 そして一つ目の通路で右に曲がって進んで行くと、やはりゴール裏の観客席と長辺側の観客席とは繋がっていたことが分かった。角部が扇形になっていて、両者の橋渡しをしているのである。

 「この角っこちょっといいかも! 狭いから自分達専用っぽいよね!」碧が扇形の二等分線上辺りで立ち止まり、下の方を見て言った。

 「うん…でもあそこ観客席なのかな…」二人が居る通路のすぐ下は逆台形の広告幕に覆われているが、その前の三段は空いていて、碧の言葉通り小ぢんまりとした空間になっている。しかし、その部分には座席が設置されておらず、一年F組が陣取った所のようにコンクリートのみなのである。柵も設置されていないので、通路なのではないか、と藍は思ったのだ。

 「あ、そう言われるとそうかも。うーん、残念!」本当に残念そうに言って、碧は歩き出した。そして二、三歩で、

「さらに残念! 通り抜け禁止だって」また残念そうに言った。足は止めていないので、手を引かれるまま藍も前進する。

 「うん…」(さん)島ほど先に綱が張られていて、どうやら席種が違うようだ。長辺側の中央付近で見易いからだろう、と藍は納得した。

 碧は綱まで行かず、一つ手前の階段を上ると、そのまままっすぐ進んで観客席から出た。自分達が陣取ったゴール裏の方、即ち右側へ通路を曲がると、すぐ下りの階段、その下は例の矩形の広場である。

 今度は広場に立ち寄らず、4ゲートの横までまっすぐ戻った時、

 「まだ時間大丈夫かな!?」と碧が訊いてきた。時計を見ると、針が指しているのは、

 「うん…一時十三分…」

 「わ! けっこういい時間だね!」

 「え…そうなの…?」試合開始までまだ五十分あるが、と藍は思ったが、

 「半ぐらいからピッチ練習なんだって! じゃあとりあえずトイレ行って、向こうの角見に行ってみよ!」碧は簡潔に説明し、ゴール側の辺に沿う方向を指差した。二人がまだ行ってない方である。

 「うん…」藍に異論は無い。

 球技場の角付近を斜めに走る通路沿いの便所に入って用を済まし、二人はホーム側ゴール裏に戻ってきた。そのまま進むと、左手に売店があり、ここでも松本山雅の関連商品を売っていて、二十人ほどの人が購入を待っている。

 「グッズ人気だねー」

 「うん…」

 「新発売が全部売り切れ!」

 「本当だ…」

 「さっきの所はまだ売ってたよね」

 「どこに売ってました!?」藍が何か言う前に、列に並んでいる若い女性が声を掛けてきた。

 「あっちの売店です」碧が概ねの方向を指差して答えると、

 「ありがとう!」と言って列から抜け、4ゲート方向へ大股に向かって行った。

 藍は呆気にとられてその背中を見送ったが、手を引かれてまた歩きだした。

 そうして競技場の角近くまで達した時、

 「あ! ガンズくんいる!」碧が歩を速め、

 「あ、さっき言ってた…?」歩いてついて行けなくなった藍は小走りになった。

 「うん! 山雅のマスコットのガンズくん!」

 前方に目を遣ると、4ゲート前と対称な形状の空間の中央付近に鈴木と同じユニフォームを着た白い着ぐるみがいて、その前に十人ほどの列が出来ている。鳥であることは間違い無いと思うが、一体何の鳥だろう。

 碧はその最後尾につくと、ポシェットから携帯電話を取り出した。

 「写真撮るの…?」

 「うん、梨乃さんに送ろうと思って」

 「あ、なるほど…」それは如何にも、試合を観にきました!という感じがする。

 「むぅ、みんなポーズがこうだな…」数組が撮影を終えた時、碧が言った。見てみると、碧は右手の人差し指だけを立てている。その二、三秒後、

「あ、そっか。One Soulだからか!」納得した様子で、

 「藍ちゃん、こうね!」と、もう一度右手の人差し指を立てた。

 「うん…」藍にはよく飲み込めていないが、とりあえず指示通りにしよう。

 そうして自分達の順番が来ると、碧は藍の手を放して、お付きの人に携帯電話を渡した。

 「お願いします!」こういう時も碧は礼儀正しい。

 「お願いします…」藍も頭を下げた。

 「じゃ、藍ちゃん左側ね!」碧はがんずくんの右側に立った。

 「うん…」少し遅れて藍も反対側に立とうとしたが、がんずくんが碧の方を向いて帽子の角を両手で握ったので、足を止めて見てしまった。

 「でへへへ、柔らかいでしょー」少しだけ照れた碧の笑顔を見て、藍は心の中でがんずくんに対して両手の親指を立てた。

 がんずくんのちょっかいはまだ続く。角から離した右手で碧のポシェットを指差し、左手で自分の肩に掛けたポシェットを持つ。

 「あ、おそろい?」察しの良い碧はすぐそう言った。がんずくんのポシェットはB4の紙がそのまま入りそうな矩形で、蓋部分にがんずくんの顔の貼り絵が縫い付けられている。はっきり言って碧のものとは全然違うが、右肩に掛けている点は碧と同じだ。

 がんずくんが大きく二回頷く間に、

「ガンズくんのポシェットかわいいね!」と碧が誉めると、がんずくんは両手で顔を覆って恥ずかしがった。その仕草がなかなかに可愛らしい。

 がんずくんは顔から手を離すと、藍の方を向いた。隣に来いということだろうと判断し、藍はがんずくんの左隣に立って右手の人差し指を立てた。

 お付きの人が携帯電話を構え、

 「はーい、いきますよー。ワンソウル!」周囲の喧騒にかき消されてシャッター音は聞こえなかったが、お付きの人は撮影されたことを確認したようだった。

 「ありがとうございました!」碧がお付きの人に駆け寄り、携帯電話を受け取った。その間に藍が、

 「ありがとうございました…」頭を下げると、がんずくんも礼を返してきた。

 「ガンズくん、バイバイ!」手を振った碧にもきちんと振り返してから、がんずくんは次の客を迎える。その一連の行動と仕草に、藍は好感を持った。

 「ガンズくん、いい人だね! いや、鳥か」藍の右手を取り、S-1入口の方へ向かって碧が歩き出した。

 「うん…あの、がんずくんは何の鳥なの…?」近寄ってみてもよく分からなかった。

 「雷鳥! 英語の複数形がptarmigansで、そこから取ったんだって!」

 「あ、なるほど…」雷鳥が長野県の県鳥であることは藍も知っている。ちなみに県の木は白樺、県の花は龍膽、県の獣は氈鹿である。

 「マルタって時差何時間だっけ?」

 「八時間だと思うけど、サマータイムなのかどうか分からなくて…」藍は、梨乃がマルタに行くのだと聞いた晩に、地図帳で場所を調べてみた。地図上で東経十五度の線がすぐ近くを走っていたので、日本との時差八時間と判断した訳である。

 「8時間だとすると今5時半くらい…起きてるような気がするけど…、ハーフタイムに送る方がいいかな?」

 「うん…」五時半というと梨乃の普段の起床時刻だが、今梨乃は普段ではない時間を過ごしている。そして、サッカーの試合時間を藍は知らないが、ハーフタイムまであと一時間は有るだろう。その時刻ならば起きているはずだ、と藍は判断した。

 実際のところは、マルタ共和国ではサマータイム制を導入しており、五月三日はその期間中なので、日本との時差は七時間ということになるのであるが。

 ふと気付くと、通路はかなり(ひと)()が少なくなっている。そろそろ応援が始まるのだろう。

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