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リセエンヌ  作者: 松本龍介
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山雅応援1(/3)

山雅応援


 五月三日。藍は、普段より一時間早く起床した。無論、玉子焼きを焼くためだ。昨夕、碧から電話が入り、好天予報のため弁当作戦決行とのことで、藍はツルヤ渚店へ卵を買いに急いだのだった。今朝は、碧が五時半に来て手伝ってくれることになっている。

 当然目覚ましを一時間早めて設定したのだが、結局いつものように時計が鳴るより僅かに早く目を覚まし、目覚ましを切って蒲団から出た。ここ一週間は最低気温が氷点下ということも無く、快適に起きることが出来るようになってきている。

 まずは枕元の眼鏡を装着し、便所へ。用を足し、自室へ戻って紺のブラウスに着替え、髪を束ね、腕時計を左手首に巻いて台所へ行く。寝間着のままでも調理は出来る訳だが、そこは気分の問題で、藍が台所に立つ時はブラウスにスカートと決まっているのである。

 予定として、碧が到着次第玉子焼きに取りかかり、定数に達するまでひたすら作る。その後自分たちの朝食を作り、碧と二人で食べる。そして玉子焼きを回収に来るのを待ち、渡したらアルウィンへ向けて出発だ。碧は自転車で行くと言っていたが、二人乗りで行くには少し距離が長く危険だということで、松本駅前から出ているシャトルバスを利用することで決着した。復路は長蛇の列に並ばなければならないという情報も得ているが、帰宅までかなり時間に余裕が有るので、それはよしとすることにした。

 台所に入って照明を点けた藍は、早速調理の準備に取り掛かった。まずは冷蔵庫から玉子を取り出す。普段二個乃至四個のところ、今日は三十二個だ。取り出し作業でつまずかないように、容器の封を切っておく。卵を取り出し、割り、混ぜるのは碧の役割だ。藍の役割は焼いて俎に置くだけ。切るのも碧の担当ということになっている。藍としては、碧に色々と押し付ける形になってしまって申し訳無いのだが、最も時間の掛かる工程が焼きなので、時間制限内に収めるにはどうしてもそういう配分になってしまうのだ。混ぜる工程には気をつけるべき事が有るが、別に難しいことではない。碧ならば何の問題も無いだろう。

 次に、切った卵焼きを仮置きする大皿。重箱の蓋を開けたら中が露でびしょびしょという事態を避けるため、或いはその程度を軽減するため、仮置きして水分を飛ばそうという目論見で、毎日の弁当でも踏んでいる工程だ。藍は在るだけの大皿をまとめて食器棚から出し、食卓に置いた。全部で五枚である。今日焼く数は全部で十六本の予定で、一枚に四本くらい載るだろうから、これだけ有れば足りるはず。

 次に、重箱。使用するのは最後なので、当面の作業の邪魔にならぬよう、重ねたまま食卓の端に置いておく。

 次に、卵を混ぜるための深皿と箸。深皿は同じ物を四つ。箸は、先日の昼食時に碧が使った物だ。

 次に、大匙。出汁の量を量るのに使う。正確な計量は、安定した味付けには必須だ。

 次に、包丁と俎。

 次に、卵の殻を捨てるまで仮置きするためのボウル。四個組のうち最大のものを使う。

 そして出汁。鰹出汁と醤油に日本酒を足したもので、昨夜のうちに作っておいた。

 以上を食卓に置いたら今度は自分の使う道具だ。まずは角フライパンとフライ返し。

 油と油引き。玉子焼きを作るに於いては、油の引き方は重要だ。玉子を薄く焼くため、油の加減にムラが有ると、仕上がりに大きく影響するのである。

 調理の準備は以上だが、続いて茶の用意が有る。今日の調理は休憩無しでも二時間程度が見込まれるので、途中で喉も渇くだろう。作業開始前に茶を淹れておいて、好きな時に飲んでもらうつもりだ。急須と茶筒を出し、急須に茶葉を入れる。次に茶漉しと湯呑を出し、食卓上の沸騰ポットの隣に置いて準備完了。

 全速で作業したのだが、時刻はもう五時二十五分。じき碧が到着する。藍は戸外へと急いだ。よく晴れていて、この時刻でももうすっかり明るくなっている。

 つっかけ履きで門を開け一分ほど待つと、自転車に乗った碧が姿を現し、

 「おはよう!」

 「おはよう…!」と挨拶する間に藍の前までやって来た。

 「今日は大仕事だね!」自転車から降りて門を通りながら碧が言う。

 「うん…!」出来栄えは無論のこと、時間に間に合わせることも重要になる。鈴音と美奈子を除く五組の弁当担当者のうち、藍・碧組のところへ回収に来る順番は四番目、予定では九時半だ。

 「精一杯サポートさせて頂きます」自転車をとめた碧が頭を下げたので、

 「よろしくお願いします…」藍も深々と一礼した。

 「がんばろ!」

 「うん…!」

 二人は家に入った。

 「おお! 準備万端!」台所に通された碧の一言目だ。

 「あ、荷物はその椅子に…」扉から一番近い椅子を示す。普段は父親の(いわお)が座っている。

 「はい!」碧は背嚢を降ろした。

 「ちょっと待ってね…お茶淹れるから…」

 「ありがと! あ、手洗うね」

 「あ、うん…」

 碧が流しで手を洗う間に、藍は急須いっぱいに湯を入れた。

 「玉子、割っちゃっていいのかな?」手を洗い終わった碧はもう始める気だ。

 「うん…二つ割って、出汁を小匙半分入れて下さい…」急須をくゆらせてから茶を淹れる。本当はもう少し待ってから淹れるべきなのだが、今は時間が惜しい。

 「らじゃ! 二つずつね!」

 「うん…まとめると、配分が分からなくなりそうで…」

 「うん! いつも通りがいいよね!」碧は玉子を取り、上から食卓に当てて割った。

 「うん…手間掛けちゃうけど…」藍は茶の入った湯呑を自分の前に置いた。

「なるべく休憩しないで作るから、手が空いてる時に飲んで下さい…」碧の湯呑にも茶を注ぐ。普段と順番を入れ替えたのは、その方が少しでも碧に美味い茶を提供できると考えたからだ。

 「らじゃ! ありがとう!」碧は二つ目の玉子を割った。

「小匙半分ね」

 「うん…」藍も玉子を両手に取り、玉子同士を当てた。右手に持った方が割れる。

 「おお! そうやればテーブルに白身が付かないね!」

 「うん…それと、簡単に割れるの…」不器用な藍でも、この方法で失敗したことは無い。

 「へー! 一石二鳥だね! さすが先生!」過分な称号に恐縮しつつ、藍は玉子に出汁を足す。

「では見本をお願いします、先生」

 「あ、はい…」藍は菜箸を取り、深皿を持ち上げると、玉子を溶いた。碧にじっと見られているので多少緊張してはいるが、もうすっかり慣れてしまった動作に淀みは無い。一分ほどかけて、玉子は僅かに不均一さを残した状態まで溶かれた。

 「はい、質問!」藍が菜箸をボウルから上げると、碧が右手を挙げた。

 「あ、はい…」

 「混ぜながら箸で突いてた?」

 「あ、うん…そうすると黄身がとけやすいから…それと、白身の固い部分は箸で挟んで切ると混ざり易いの…あ、あと、泡立てないように気をつけて下さい…」

 「はい! やってみるね!」

 「うん…」

 藍の返事を待たずに碧は箸と深皿を持つと、深皿の中の玉子を数秒眺め、

 「ここ? 固いところ」深皿を藍の方へ差し出して、箸でその部分を指し示した。

 「うん…」箸先が示すのは、黄身と白身の境目辺りで、そこだけ白身の透明度が低くなっている。

 「ここをはさんで…切る」碧は箸先でその部分をつまみ、剪断するように箸を動かした。

「お、切れた切れた。では混ぜます!」

 「お願いします…」

 碧は藍の動きを真似て軽快に玉子を溶いたた。自分の動きを見たことが無い藍には分からないことだが、物真似と言ってもよいほど似ている。藍と同じく一分ほど混ぜ、碧は深皿を藍に差し出した。

 「どうでしょうか、先生?」先生はやめて欲しいが、今は時間が惜しい。藍は深皿を受け取って玉子の溶け具合を箸で確かめた。

 「うん…いいと思います…」自分がしたのと同じ程度に溶かれている。これならいつも通りに作れるだろう。

 「よし!」

 「じゃ、始めるね…」

 「はい!」

 藍は、深皿を左手に箸を右手に持ち、碧に背を向けた。フライパンに油を注ぎ、焜炉に火を入れ、フライパンが熱されるのを待つ。

 油がフライパン全体に広がっていったのを確認し、藍は油引きを取ってフライパンの上を滑らせた。余剰の油を吸わせると共に、フライパンの表面に乗った油の厚さを均一にするのである。

 中火に落とすと準備完了だ。藍は早速玉子を流し込んだ。正確なところは分からないが、自分としては四分の一を投入したつもりである。 端から玉子が固まり始めるが、巻き始める目安である半熟の状態になるまでには意外と時間が掛かる。初めて玉子焼きに挑戦した時には、ここで急ぎ過ぎて生焼けの玉子を破ってしまった。

 今はもう慣れたもので、藍は玉子の様子をじっと見つめ、頃合いと見たところで、玉子の下にフライ返しを挿し入れて巻き始めた。巻く方向は、手前から奥である。一般的にどちらから巻くのか藍は知らないが、自分としてはこちらの方が圧倒的に作業し易い。速くはないが淀み無く玉子を巻くと、その玉子を一番手前に押し戻して、藍はフライパンに油を敷き直し、また四分の一を流し込み、焼けるのを待った。

 「藍ちゃん、スゴい! 職人みたい!」碧が背後から声を掛けてきた。この様子ならば話しかけても大丈夫、と判断したのだろう。

 「え…そんなこと…」ない。職人ならばもっと手早く巻くはずだ。

 「あるある! 動きにムダがないし、必要な時以外動かずに待ってるし!」

 「え…? そう、かな…」本当に碧はよく観察している、と藍は心中で舌を巻いた。当の本人が考えずにやっていることまで見抜いている。

 「そうだよ! 毎日こうやって焼いてくれてるんだねー! 何か感動!」

 「え…ただの玉子焼きだよ…」恐らく一般的な作り方で、特殊な作業は全く無い。敢えて言うならば、箸を使って巻く人の方が多いのかも知れないが、フライ返しを使って巻く人も決して少なくはないはずだ。

 「『ただの』じゃないよ! わたしが毎日食べてる『あの』玉子焼きだよ!」

 「……」そんなに思い入れてもらって、嬉しいやら恐縮するやら。

 「でも何か、鶴が機織ってるところを見ちゃったみたいな気もするー」

 「え…全然…見られても大丈夫だよ…」恥ずかしくはあるが。

 「うん、て言ってくれると思ってたけど、何かね」碧にしては不明瞭な物言いが却って重大な何かを伝えている気がして、藍は少し緊張した。

 藍は話しながらもフライパンから目を離しておらず、ちょうどフライパンの上の玉子が頃合いになったのを看て取り、すぐそちらに意識を集中させた。

 先程と同じように巻いていくのだが、既に形が出来上がっているため、二枚目以降は極端に斜めに転がらぬよう気をつけるだけでよい。 藍はこの工程を数秒で終え、すぐ油を引き直して次を流し込んだ。

 「意外と時間かかるんだね」また碧が話し掛けてきた。

 「うん…」

 「あ、次の玉子はどこに置いとけばいいかな?」

 「あ、えっと、じゃあここに…」と、使っていない焜炉を指差す。

 「はーい!」碧は藍の隣に来て、深皿を焜炉の上に置き、

「あ、今持ってるやつは終わったらそのへんに置いといてね」

 「あ、うん…ありがとう…」

 「なるべく時間削らないとね」碧は持ち場に戻った。

 「うん…そうだね…」そのためには、とにかく焼きの工程を止めてはいけないので、心苦しくとも自分はここから動いてはならない。

 「えっと、この感じだと一本焼くのに十分くらいかかるの?」

 「うん…余裕見てそれぐらい…」

 「1本で2人分だっけ?」

 「うん…」

 「てことは…2時間40分! 藍ちゃん、途中で休憩してね!」

 「うん…」いけるところまでいくつもりだが、とにかく藍の身体能力は低い。必ず腕が重くなって、一回は休憩を挟むことが予測される。

 「えーと、取りに来るの9時半だよね?」

 「うん…」答えたところで玉子の方がちょうど良い焼け具合になった。藍は先程の動作を繰り返した。あと一巻きである。

 「包むのに5分」藍にはそんなに素早く作業出来ないが、碧ならば可能だろう。

「5分前に準備完了とすると9時20分には詰め終わらないといけないね」

 「あ、水抜きの時間も十分か十五分欲しいです…」

 「水抜き?」怪訝顔で碧が訊き返す。

 「すぐ蓋すると開けた時びしょびしょになっちゃうかも知れないから…」

 「おお! なるほど! え? てことは毎日そうやってくれてるの?」

 「うん…」藍から見れば当然のことである。放置しておくだけで労力は要しないのだから、そうしない方がおかしい。

 「藍ちゃんスゴいなあ。わたしだったら10分も待てないよ~」

 「え…と、いつもはその間に朝ごはん食べてるから…」

 「あ、そっか。じゃあ効率いいね!」

 「うん…」

 「でも今日はそんなに余裕ないね…」

 「うん…ごはんは、全部焼き終わってから…」

 「だね! あ、朝ごはんにも玉子焼き出る?」碧は、明らかに期待を籠めた目で見ている。

 「あ、え…と、それなんだけど…今日は切れ端がたくさん出るから、朝ごはんはそれで…」藍は話しながら玉子を巻き、仕上げに少しだけフライ返しで上から押した。

 「あ、そっか! いっつも見ないから考えたことなかったけど、切れ端があるんだよね」

 「うん…」フライパンとフライ返しを手に食卓の方を向き、焼けた玉子を俎の上に下ろした。

「お願いします…両端落として四等分して下さい…」

 「はい!」応えて碧は無造作に端を切り落とした。

「おお! よく切れる!」

 「うん…玉子だし…」

 「いーや、わたしには分かる。これはすごくきっちり研いであるね!」そう言って反対側の端を切り落とす。

 「え…うん…昨日の夜、お父さんが…」

 「え! お義父様スゴい! て、この包丁微妙に小さいと思ったんだけどもしや」本体を半分に切って揃えると、一㎜のずれも無い。藍は大きさを揃えるのが苦手なので、驚きを持ってそれを見た。流石は碧だ。

 「うん…研いで小さくなったんだって…」何でも、母親が結婚前から持っているもので、かなり値の張る一振りだったそうだ。藍が初めて握った時にはもう今くらいの大きさになっていて、元々がどれくらいの大きさだったのかは知らない。

 「やっぱり!? お義父様相当な腕前だね」

 「え…そうなの…?」確かに、家の庖丁の切れ味に不満を抱いたことは一度も無いが、他所の家庭でもそうなのだろうと藍は思う。

 碧は揃えた玉子焼きをさらに半分に切り、一列に並べ直して庖丁に載せ、大皿に移した。

 「これでいい?」

 「うん…」藍は次の深皿を取ってフライパンに向かった。

 その背に向かって碧は話す。同時に、玉子同士をぶつける音も聞こえた。

 「庖丁きちんと研ぐのって難しいんだよ~。わたしもやってみたことあるけど、なかなか均一に研げないんだよね」最近ではほぼ居なくなってしまったが、往時は金物屋が研ぎ師も兼ねることがよく有った。それだけ多くの需要が有ったということで、即ち一般人には難しい仕事だということだ。

 「碧ちゃん、研いだことあるんだ…」玉子液をフライパンに注いだ藍は軽く振り返って話す。碧はちょうど玉子をといているところだ。

 「うん、うちの庖丁があまりに切れないから、スーパーで砥石買ってきて。でもどうしても研げ具合にムラができちゃうんだよね」

 「そうなんだ…」藍が思っていたより繊細な作業のようだ。

 「この庖丁はスゴいよ! スゴい均一!」箸で庖丁を指す。

 「そうなんだ…」

 「うん! 切れ端おいしそう!」話が変わった。

 「え…そう…?」と言ったが、実際のところ、藍は卵焼きの切れ端が好きだ。表面の凹凸が生み出す不均一感が堪らない。

 「うん! ほら、パンの耳もおいしいじゃない?」

 「あ、うん…そうだね…あの、よかったら冷える前に…」

 「え! 藍ちゃんが作ってるのにわたしだけ頂くわけにはいかないよ!」

 「あ…うん…ありがとう…」藍はフライパンの方へ向き直った。半分くらい火が通っている状態なので、もう目を離すことは出来ない。

 「あ、でもお義父様とお義母様の朝ごはんは?」

 「今日はこれが終わってから…」

 「藍ちゃんが作るの?」

 「うん…私達の分と一緒に…」

 「藍ちゃん大変だ!」

 「うん…こんなに作るの初めてだから…」

 「だよねー。プロみたいだよねー」

 「え…そんなには多くないよ…多分…」頃合いと見て、藍は玉子を巻いた。普通は、箸先で触れたりして頃合いかどうかを確かめるのだろうが、藍は見た目だけで判断する。作り始めた頃に何度かやってみて、その都度玉子を破ってしまったからである。

 「でも味は絶対プロ並だよ!」次の玉子液を注いで振り向いた藍に碧の絶賛が放たれる。

 「そんなこと…」

 「いーや! 今日これ食べたみんなの顔が見物だね!」碧は愉快そうに笑って両手に玉子を取る。碧の言葉は頼もしいが、藍はどうしてもその評価を鵜呑みには出来ない。碧と美奈子が自分の玉子焼きを気に入ってくれていることには疑いを挿し挟まないが、贔屓目が入っていることもまた疑い無い。好みの違いということも考えると、他の人達にも気に入ってもらえる自信など全く湧いてこないのである。

「レアチーズも大好評完売御礼だったし!」玉子同士をぶつけて割る。

 「あ、うん…」確かに、レアチーズについては、前回集まった四人全員が美味しいと言ってくれた。その時の食べっぷりから判断しても、社交辞令ではないだろう。もしかしたら、と藍は考える。この玉子焼きも皆が美味しいと思ってくれるかも知れない。藍は、自分の中に少しだけ欲が出てきたのを感じた。

「気に入ってもらえるといいな…」

 「気に入るとかってレベルじゃないよ! それはもう、嫁にもらいたいだのお母さんになってほしいだの行列ができるくらいだよ! そうなるとメンドーだから、誰が何作ったか公表しないように鈴音ちゃんに言っとこっと」そんな心配は全くの無用だと藍は思うが、逆に負の評価を受けた時のことを考えると、そうしてもらう方がいいかも知れない。

 と、その後も話しながら、時々茶で口を湿らせながら、藍は玉子を焼き続けたが、十本を仕上げたところで両手が痛くなってきて一旦火を止めた。

 「休憩?」

 「うん…手が痛くなってきちゃって…」

 「え!? それは一大事! どの辺が痛いの?」

 「手首と…指、かな…」

 「フライ返し置いて置いて!」

 「うん…」

 藍は碧の右手を取ると、人差し指の先を自分の親指と人差し指で軽く挟んで揉み始めた。圧する力はごく軽いのだが、振動のように速い揉みが心地好い。藍は我知らず目を閉じてその振動を感じた。

 一分ほど続けてから中指に移り、薬指、小指も同様に揉むと、今度は親指の付け根と人差し指の付け根の間、所謂水掻きをつまんで圧し始めた。指先を揉まれていたときよりもかなり強い力だったので、

 「あ…!」つい声を出してしまった。

 「あ、ごめん、痛かった?」

 「あ、え…と、ううん、大丈夫だけど、ちょっとびっくりして…」

 「そっか。痛かったら言ってね」指先と同じように、しかしもっとゆっくりと揉む。

 「うん…ありがとう…」

 「いやいや全然。焼くの手伝えないからせめてこれくらいは」

 「ありがとう…」

 碧は加減が巧い。これ以上強くすると痛いというギリギリの力で親指の付け根を揉まれ、藍は目を閉じてうっとりとした。実に気持ちがいい。

 それから手首、腕と徐々に上がってきて、肘の手前まで来たところで次は左に移り、右と同じように指先から肘まで揉まれた。全部で十分くらいだろうか。

 「どう? 少しは楽になった?」

 「うん…!」指先と手首の鈍い痛みが嘘のように消え、腕が軽くなった。

「最後まで止まらずにいけそう…」藍は早速焜炉に火を入れた。

 「そっか、よかった! あと3分の1、がんばってね!」

 「うん…! あ、碧ちゃん、お願いが…」

 「うん、何なに?」

 「お米、炊いて下さい…」一本焼くのにかかった時間は八分と少し。藍の想定を大幅に短縮している。今から炊き始めれば、全て焼き上がる頃にはちょうど良い蒸らし具合に仕上がるはずだ。

 「らじゃ!」碧は炊飯器の蓋を開けて釜を取り出し、米櫃の前で動きを止めた。

「何合?」

 「あ…五合、お願いします…」

 「らじゃ! 5合っと」碧の呟きに続いて米が釜に落ちる音が聞こえ、釜を持った碧が隣に来た。

 「お願いします…」ちょうどフライパンに玉子液を注いだばかりの藍は横目でその様子を見る。何となく、じっと見つめるのは憚られたのである。

 「お任せあれ!」流しに釜を置き、水を注いで右手を入れた碧は、

「お! 意外と冷たい!」

 「あ…ごめんね…」碧にそんな作業を頼むのが心苦しい。

 「ううん、全然! 何か水が冷たい方がお米がきれいになる気がする!」

 「うん…そうだね…」確かに藍もそんな気がするが、やはり冷たい水で米を研いでもらうのは申し訳無い。

 玉子の焼け具合も確認しつつ、碧が米を研ぐのを横目で眺めていると、

 「3回だったよね!」隣から訊かれ、それを予期していなかった藍は驚いてフライ返しを取り落としそうになった。

「あ、ゴメン」

 「ううん…三回でお願いします…」米を研いで流す回数のことである。

 「らじゃ!」応えた碧が再び米を研ぐのを見ていたが、視線を玉子に戻すとちょうど良い焼け具合になっていたので、藍は慌ててそちらに取り掛かった。

 碧が炊飯器を起動させると、そこからは休憩前の作業の繰り返しで、四十五分ほどかけて残り五本の卵焼きを完成させた。その間に炊飯器も仕事を終え、その旨を電子音で控えめに主張した。

 「藍ちゃん、お疲れさま!」玉子焼きの置かれた俎を引き寄せながら碧が笑顔で労う。

 「碧ちゃんも…手伝ってくれてありがとう…!」焜炉の火を落としながら藍も笑顔で応じる。とにかく無事出来上がってよかった。最善を尽くせたと思うので、仕上がりに悔いは無い。

 「ううん、全然! あ! 今なら藍ちゃんも食べられるよね、切れ端!」と言いながら、碧は玉子焼きに庖丁を入れる。

 「うん…そうだね…!」

 藍はフライパンに水を注いで流しに置くと、隣の焜炉に火を入れた。上には、味噌汁の入った鍋が置かれている。昨夜作っておいたものだ。そしてそれをとりあえずは放置して、冷蔵庫に向かう。無論、自分達の朝食の準備だ。

 「藍ちゃん、あーん」呼び掛けに振り向くと、碧が玉子焼きの切れ端を菜箸でつまんで差し出している。

 少し恥ずかしさを感じながら、藍は口を開けた。碧に玉子焼きをそっと差し入れられ、口を閉じる。普段、一口で食べることが無いためか、薄い切れ端が意外と大きく感じられる。

 咀嚼し嚥下すると、

「わたしもあーんして~」と甘えた声で要求された。

 「うん…」菜箸を受け取り、俎上の切れ端を挟んで碧の顔の前に持っていく。そして、やはり少し恥ずかしいと思いながら、

「あーん」と言うと、

 「あーん」鸚鵡返しにしてから碧は首を伸ばして玉子焼きに食いついた。そして、必要以上に咀嚼してから飲み込み、

「おいしい! 内側とけっこう違う食感なんだね!」

 「うん…すぐご飯の用意するから…」

 「一緒にやろ! わたしごはんよそうね!」

 「ありがとう…私は鮭焼くね…」冷蔵庫の扉を開ける。

 「らじゃ!」その向こうで、食器棚の扉を引く音がした。

 藍は鮭の切身を出して焜炉に入れ、火を点けた。後ろでは食器を出す音。

 続いて味噌汁の入った鍋を覗くと、対流が激しくなっているのが見て取れた。もう少しで沸騰しそうだ。藍は火を止め、椀を取ろうと食器棚の方を向いた。

 すると、碧が二つ重ねた椀を両手で持って差し出してきた。

 「あ、ありがとう…」

 「ううん」

 受け取って、藍はまた焜炉の方へ向き直った。後ろでは、炊飯器の蓋が開く音。

 味噌汁を椀に移して食卓に置いた時、碧はまだ一杯目の茶碗に飯を盛ったところだった。茶碗に摺りきり一杯より僅かに多いくらいで、藍にとっては多いが、明らかに碧にとっては物足りない量だ。きっと碧は遠慮しているのだろう。

 「碧ちゃん、たくさん食べてね…」藍がそう声を掛けると、碧は藍の言いたいことを察したらしく、

 「ありがとう! お言葉に甘えて」と、ほぼ茶碗一杯分と思われる飯を盛り足した。見ていて気持ちいい上乗せぶりである。

 藍はそれを見ながら急須に沸騰ポットの湯を注いだ。

 「藍ちゃんはこれぐらい?」呼び掛けられて顔を上げると、碧が茶碗をこちらに差し出していた。半杯ほどの飯がちょこんと載っている。普段より一口二口多いが、それぐらいの差を調整してもらうのは悪い気がして、

 「うん…ありがとう…」とだけ言った。

 碧は、飯と味噌汁を席の前に、玉子焼きの切れ端を二人の間に配置すると、少し手持ち無沙汰な様子を見せた。

 「あ、座ってて下さい…。魚焼けるまでもう少しかかるから…」茶を淹れながらそう言うと、

 「うん!」碧は椅子を引いてストンと座った。

 碧をなるべく待たせないようにと思い、湯呑みを食卓に置くと、藍も椅子に掛けた。

 「いただきます!」碧が手を合わせ、

 「頂きます…」藍もそうする。

 「今って8時過ぎくらい?」問われて藍は腕時計を見た。

 「うん…八時三分…」碧の腹時計の正確さに驚きながら答える。

 「じゃ、余裕だね!」

 「うん…」鈴音と美奈子が回収に来る予定時刻まで一時間と二十七分弱。食べてからゆっくりするだけの時間も有ろう。

 「鈴音ちゃんたちは大変だね」

 「うん…」恐らくは藍逹よりも早くから下島邸で飯を炊き、その後四箇所を回ってから球場へ向かうのである。無論、どちらかの家族が自動車で送ってくれるのであろうが、それでも大変な作業であることは間違いない。

 「いいにおいしてきた!」碧の言う通り、鮭の焼ける匂いが漂ってきている。

 「うん…」藍は焼け具合を確認するため、席を立った。

 焼けている。が、あと少しだけ、と思い、心の中で十数えてから火を止め、焼き網を引き出した。網の上の鮭は、身の表面は橙色と茶色の中間に、皮は所々黒く焦げ、見るからに美味しそうだ。

 二切れの焼き鮭のうち一切れを庖丁で半分に切り、事前に碧が用意しておいた皿二枚を食卓から取って、片方の皿に一切れ半、もう片方に半切れを載せる。

 「お待たせしました…」一切れ半が載った皿を置くと、

 「すんごいいいにおい! こんなにもらっちゃっていいの?」

 「うん…私、いつもこれくらいだから…」藍が席に着くと、

「では遠慮なくいただきます!」箸をつけた。

 「どうぞ…」藍も、玉子焼きは一旦措いて、鮭に箸をつける。

 「おいしい~! お弁当のもおいしいけど、焼きたては格別だね!」

 「うん…」全く碧の言う通りである。

 「玉子も鮭もおいしいから迷い箸しちゃう」碧はそう言ったが、全然迷っているようには見えない。鮭、飯、玉子、飯、味噌汁、飯、鮭、飯、玉子、飯、味噌汁、飯、と規則的な順で滞り無く口に運んでいく。

 藍は、その様子を見て喜ばしく思いながら、自分も少しずつ食べていった。

 十分ほど後、碧の茶碗と椀が空になった。藍は、鮭も飯も味噌汁も、三分の一程度を食べたところだ。

 「お茶もらうね」碧が席を立った。

 「あ、私淹れるよ…」藍は慌てて自分の右側に置いてある急須に手を伸ばしたが、

 「練習してみたいからやらせて~」と言われ、

 「あ、うん…」引っ込めた。

 碧は藍の右側に立って急須を取り、蓋を開けると、

 「お茶替えた方がいいのかな?」と訊いてきた。茶葉のことであろう。

 「うん、そうだね…もう二煎淹れちゃったから…」

 「らじゃ! えーと」珍しく碧が止まる。それを見て藍は、茶殻を捨てる場所を指示していないことに気づいた。

 「あ、三角コーナーにお願いします…」

 「はいー」碧は流しの方を向き、急須を三角コーナーの上で逆さにして茶殻を落とした。そして急須に水を注ぎ、また逆さにして水と一緒に茶殻を落とす。それを二度行なって急須を食卓に置くと、

「あ、茶こしもだね」今度は茶漉しを取り上げた。

 「あ、うん…お願いします…」

 碧は茶漉しも洗うと、食卓に置いて茶筒を取った。蓋を開けてすぐ、

「どれくらい入れればいいの?」

 「そのスプーンに一杯くらい…」青井家では、茶筒に匙を入れている。透明な樹脂製のもので、掬う部分は内径二㎝ほどの半球だ。何かに付属していたものだが、ちょうどいい大きさなので流用、なかなか重宝している。

 「これくらい?」匙の縁から五㎜ほど上まで茶葉が見えている。

 「うん…」

 碧は急須に茶葉を入れた。

 「お湯入れる時は何かコツあるの?」

 「ううん、温度だけ…」沸騰ポットから湯を直接注ぐ場合は、急須の位置即ち湯の落ちる落差くらいしか調整出来る項目が無い。

 「80℃でいいんだよね?」

 「うん…」青井家の沸騰ポットは、緑茶を淹れるのに最適な八十℃に常時設定されている。

 碧が沸騰ポットの上面に触れ、湯が流れ出る。

 「いっぱい入れちゃっていいんだよね?」

 「うん…」

 数秒後、

 「入りました! くゆらせるんだっけ?」

 「あ、少し置いてから…」松本城本丸庭園で見た煎茶道の人もそうしていた。

 「はい!」碧は急須を食卓に置いた。

 藍はそれを見ながら、箸が止まっていることに気づき、慌てて鮭に箸をつけた。碧を待たせてしまうのは仕方が無いとして、その時間を出来る限り短縮したい。

「どれくらい置くの?」

 「え…と、私はいつも一分…」藍は一応腕時計を看て秒針の位置を確かめた。一分という数字に明確な根拠は無いのだが、それだけ置けば茶の成分が沁み出しているような気がするし、置き過ぎて渋が出てしまうのは避けたい。

 「はい!」

 「あの…クロちゃん元気…?」何となく気になっていたことを訊いてみた。

 「うん、元気元気! 今日わたしが出る時はまだ寝てたけど、今頃悪さしてるんじゃないかなー」

 「悪さって、どういうことするの…?」

 「んー、まず、棚に入れてある餌を勝手に出して食べる」

 「うん…」如何にも有りそうな話だ。

 「その時に袋をビリビリに破く」

 「掃除大変そうだね…」

 「そうなの! ビリビリっていうと、ティッシュもだね」

 「箱ごと破っちゃうの…?」

 「ううん。どうも一枚ずつ出してからビリビリにしてるみたいなの。箱はつぶれてたけど破れてなかったから」

 「え…猫ってティッシュ出せるの…?」

 「猫器用だからね。爪でひっかけて出すんだよね」

 「あ、なるほど…」

 「そろそろ一分かな?」

 「あ、うん…」藍は時計を見て答えた。

 「ここでくゆらせるの?」

 「うん…」根拠は不明なのだが、煎茶道の人がそうしていたのを真似している。一応、急須の底の方に茶の成分が沈み、それを撹拌する目的なのではないかと藍は考えている。

 「こんな感じ?」碧は急須を持ち上げ、僅かに傾けてゆっくりと回した。

 「うん…」

 三回転ほどしたところで、

「それくらいで…」

 「はい! もう入れていいの?」

 「うん…ちょっとずつ、交互に…」

 「はい! これくらい?」碧が注いだのは、湯呑五分の一程度だ。

 「うん…」

 「これって、濃さを均等にするため?」

 「うん…」

 「じゃあ順番入れ替えながら入れた方がいいね」

 「うん…」特に、湯呑の数が増えるとその気遣いは重要になる。

 それ以上の質問も、正さなければならない部分も無かったので、藍は鮭を口に運んで、碧が茶を淹れるのをじっと見つめた。

 「こんなのでよかったかな?」二杯の湯呑に茶を注ぎ終え、碧は急須を食卓に置いた。

 「うん…」

 「では先生、お召し上がり下さい」碧が両手で湯呑を藍の方へ押し出してきた。

 「ありがとう…頂きます…」受け取って早速一口飲む。碧が淹れてくれたので熱いのを我慢して、という訳ではなく、藍は淹れたての熱い茶が好みなのである。

「美味しいです…」と言うと、碧は嬉しそうに、

 「やった! 今後ますます精進いたします」と右拳を食卓について頭を下げた。左拳も同じ高さだが、藍の方を正面にすると食卓に対しては斜めになるため、左は宙に浮いている。藍は、自分も、より喜んでもらえる弁当を作れるよう頑張ろう、と思った。

「あ、どうぞ食べて食べて」頭を上げた碧に言われ、

 「あ、うん…」藍はまた鮭に箸をつけた。

 「えーと、何話してたっけ?」碧は椅子に掛けた。

 「え…と…、クロちゃんが袋とかティッシュをビリビリに…」

 「あ、そだそだ。でね、新聞もビリビリ」

 「うん…」

 「しかも当日の」

 「え…」

 「なぜか古新聞ではやらない」

 「え…」それは悪党だ。

 「それと、取り込んでこれからたたむっていうタオルにダイヴ」

 「毛が付きそうだね…」天日に干されてふかふかになったタオルはとても気持ちが好いので、飛び込みたくなる気持ちは理解出来るが。

 「そうなの! 一枚だったら洗濯しなおしてもいいんだけど、だいたい5、6枚犠牲になるんだよね」

 「洗濯しなおすの…?」

 「ううん。エチケットブラシで毛を取ってたたむの」

 「手間だね…」畳むよりそちらの方が時間が掛かりそうだ。

 「そうなの! 隙を見せると畳んだタオルにもダイヴ」

 「え…」当に二度手間。

 「あと、勝手にいろんなリモコンいじる」

 「テレビとか…?」

 「うん。お母さんの目撃によると、リモコン床に置いてテレビのチャンネル変えてたって」

 「すごいね…」何度もやっているうちに覚えたということだろうか。だとすると、猫というのは藍が思っていた以上に頭がいいようだ。

 「そしてなぜか車のCMが好き」

 「そうなんだ…」

 「車のCMになると必ずそっち見るんだって」

 「へえ…」

 「まだ車に乗せたことないんだけど、乗ったら大興奮かも」藍は車内を大はしゃぎで跳ね回るクロを想像して可笑しくなり、ふふ、と笑ってしまった。

 「うん…」

 「松江って車で行くのかな?」

 「うん…多分…」列車に犬を乗せていいのかどうか藍は知らないが、自動車ならば確実に連れて行ける。それに、そのことを抜きにしても、梨乃ならば列車に乗るより自動車を運転する方を選ぶ気がする。

 「それまでにクロ慣らしとかないと」

 「うん…そうだね…」

 「梨乃さんにお願いして今度乗せてもらお! ワンコローズと一緒に」

 「うん…!」アスランが一緒ならばクロも安心して乗るだろう。

 「で、えーと、リモコンね。勝手にエアコンかける」

 「え…」

 「どうもさわるのは電源ボタンだけっぽいんだけどね、お母さんが部屋空けて戻ってきたらエアコンかかってた事件が頻発。毎回リモコンが床に落ちていたことから犯人はクロと断定」

 「賢いね…」

 「ね! 悪さする方向にしか発揮しないんだよね、これが」

 「……」なるほど、悪党と断言する理由が少し理解出来てきた。

 「エアコン事件で一番完璧だったのがね、夏の暑ーい時にお母さんたちの部屋でエアコンかけて部屋を冷やしたあげくベッドに入って寝てた事件」

 「そんなに冷房利かせたの…?」

 「ちょっと肌寒いくらいだったって。しかもね、お母さんの枕使って、仰向けで、布団から頭と前肢出して」

 「え…人間みたい…」

 「その証拠写真が…」碧は立ち上がって、隣の椅子に置いたポシェットから携帯電話を取り出し、少しの間操作して、

「これです」と携帯電話を差し出した。

 画面には、碧が今説明した通りの写真。クロは、瞼を閉じ、少し開いた口から牙を覗かせている。

 「猫ってこんな姿勢で寝れるんだね…」丸くなって寝るものとばかり思っていた。

 「体柔らかいから変な姿勢で寝ても平気みたいなんだけど、こんな整った姿勢で寝てるの見たことないよー」

 「碧ちゃんも見たことないんだ…」

 「わたしがいる時はこういうことしないねー。好き勝手できないって分かってるんだろね」

 「なるほど…」

 「こうやって寝るだけならわたしも怒らないんだけどねー」

 「うん…」

 「むしろかわいいからもっとやれって感じ」

 「うん…」全くである。この前相生邸で見た時も、とても可愛かった。

 「けどとにかく悪さするんだよねー」

 「そうなんだ…」

 「一日一悪、や、三悪ぐらい」

 「そうなんだ…怒られても平気なのかな…」自分だったら、そんなに怒られたら心がもたないだろう。両親や教師に怒られた記憶が無い藍には、想像するのも難しいが。

 「うーん、多分そう。怒られ中は耳が垂れててごめんなさいのポーズなんだけど、絶対反省してないね。その証拠写真が…」再び携帯電話を操作して、

「これです」画面を藍に見せる。

 「ああ…!」思わず声をあげてしまうほど、反省の色が見られなかった。確かに、耳が根元からペタンと折れ、外形としては神妙そうに見える。が、目が全く反省していない。目尻を吊り上げてこちらを睨んでいるのが、反省していないどころか、今にも反抗して暴れ出すのではと思わせる。

 「これでクロが悪党だということを理解して頂けたと思います」

 「はい…」何となくだが解った。クロは、怒られて行動を改めるような性格ではないようだ。

 「ホントアっちゃんの爪の垢煎じて飲ませないと」

 「うん…。あの、クロちゃんはいつもどこで寝るの…?」

 「決まってないけど、冬の間はお母さんたちの布団で寝てるのが多かったかな」

 「あ、一緒に寝るんだ…」ワンコローズのように隣で寝ているのを想像していた。

 「夏は布団に入ってこなかったけどねー」

 「うん…どっちも暑いよね…」入った方も入られた方も。

 「部屋で一番涼しい場所見つけてそこキープ」

 「毛皮着てるから暑いよね…」今は全然暑くない時期なので、実感を籠めては言えないが。

 「ね。アっちゃんとか夏大丈夫かなって心配になっちゃうよね」

 「うん…」自身もクロを飼っている碧に言われると、すごく心配になってきた。高辻邸内に居る間は問題無いにしても、散歩の時などが心配だ。かと言って、暑いからと陽光に当てなければ、それはそれで身体に悪そうであるし。

「碧ちゃんも一緒に寝ることあるの…?」

 「うん、最近二日に一回くらい。秋口もわたしのところによく来てたし。朝寒い時とかありがたいよー」

 「うん…」ほぼ暖房機扱いな発言だが、悪党呼ばわりしながらもクロを愛でているのが伝わってくる。

 「でも夜中布団から抜け出されると、そこから冷たーい空気が入ってきて目が覚めるんだよね」

 「え…寒そう…」松本の冬は冷える。そして、察するに碧は就寝時暖房を使わないようだ。自分との共通点に、藍は嬉しくなった。

「クロちゃん、何で布団から出ちゃうの…?」

 「不明なんだよねー。戻ってくる時もあれば来ない時もあるし」

 「そうなんだ…」猫というのは本当に勝手気儘なものらしい。

「何回も出たり入ったりするの…?」

 「ううん、一回だけ。何度も出入りされたらツラいなー」

 「うん…」

 「出てかれた時も寒いけど、戻ってきた時も寒いし」

 「え…そうなの…?」戻ってくればまた暖かくなるのではないのか。

 「うん、毛が冷え冷え。冬、部屋に置きっぱにされた毛布みたいな感じ」

 「あ…目が覚めちゃうね…」

 「そうなの。すぐ温かくなるけど、一回起きちゃうと寝れない時もあるんだよねー」

 「けっこう大変だね…」

 「一旦寝ちゃえばこっちのものだけどね。悪さしないし、寝相もいいし」

 「そうなんだ…」そう言う碧の寝相は酷かった。

 「わたし寝相悪いじゃない? 起きたらだいたい枕の上に足が乗ってるんだけど、わたしがどっち向いててもクロはわたしの左側にいるんだよねー」

 「そうなんだ…」

 「クロが先に起きると上に乗ってたりすることもあるけどねー」

 「へえ…」

 「最初の頃は何かに押さえつけられてる夢とか見て寝ながら焦ったけど、最近は似たような夢見ても焦らず普通に起きれるようになっちゃった」

 「すごいね…」慣れというのはそういうものなのか。

 「でも上に乗ってるのがアっちゃんだったらめっちゃ焦るだろうね!」

 「うん…」藍だったら本当に動けないかも知れない。アスランより体重が軽い上に、小学生中学年並の筋力なのである。

 「アっちゃん甘えんぼだから呼んだらホントに乗ってきそう!」

 「うん…!」アスランは体の大きな子供のようなものだ。

 「ラブ子も呼んだら飛び乗ってきそう」

 「うん…」碧の布団の上に飛び乗るラブが容易に想像出来、藍はくすりと笑ってしまった。

「クロちゃんは呼んだら来るの…?」

 「7:3(ななさん)6:4(ろくよん)で来ないねー。ヤツは自分の好きな時しか来ない」

 「そうなんだ…」

 「うちに来た頃はずっとわたしの後ついて来てたのにね!」

 「かわいいね…」碧の後をトコトコとついて回る小さなクロを想像し、藍は頬を緩ませた。

 「そうなの。かわいかったの。あの頃は悪党じゃなかったの」

 「そうなんだ…」

 「まあ猫は子供の時は人なつっこくて大人になるとクールになるっていうから、仕方ないんだろうけどね」

 「でも今のクロちゃんも可愛いよ…」

 「うん。外見は今の方がかわいいと思うんだけど、とにかく悪さするからなー。うちはしつけに失敗しました…」

 「今からだともう遅いの…?」猫については全くと言っていいほど無知な藍だが、一歳ならばまだ手遅れではないような気がする。

 「どうなのかなあ。クロが大丈夫でも、問題はうちの親だからなあ」

 「あ…」そうだった。両親が甘やかすのだと怒っていた。

 「希望はアっちゃんだけだよー」

 「うん…上手くいくといいね…」両親の心を入れ替えさせるのは無理らしい。

 「うまくいったらアっちゃんに足向けて寝られないよー」

 「うん…」少し大袈裟だが、碧は心からそう思っているに違い無い。

 「どの道梨乃さんに足向けられないから、うまくいかなくてもアっちゃんに足向けられないけどね!」

 「うん…」藍も同じだ。梨乃本人との交友もさることながら、彼女がいなければ碧とこんなに仲良くなれたかどうか怪しい。

「あ、レアチーズまだあるけど食べる…?」昨夜碧、緑子とで作ったのは五ℓ強。密封容器に詰めた後、三人で食べ、お土産に少し持って帰ってもらったのだが、それでもマグカップ二杯分残った。ちなみに、食事はクロ叱られ中の写真を見た頃に終えている。碧が遠慮したのかどうか分からないが、玉子焼きの切れ端は半分近く残った。これはこの後両親の朝食になる予定だ。

 「食べる食べる!」碧は目を輝かせた。

 「ちょっと待ってね…」藍は冷蔵庫からマグカップを、食器棚から匙を取り出し、食卓に置いた。

 「うひョー! 朝からゼータク! いただきます!」手を合わせてから碧は匙を取った。

 「どうぞ…」藍も匙を取り、しかしマグカップには手を付けず碧が食べるのを眺めた。碧が美味しそうに食べてくれるのを見るのが、藍はとても好きだ。しかし碧は二口ほど食べたところで手を止め、怪訝顔で、

 「藍ちゃん食べないの?」と訊いてきた。

 「私、少しでいいから…碧ちゃんがそっち食べ終わったら、移そうかなって…」

 「えー!? うれしいけど、待たなくていいよ! 藍ちゃんが先に食べて、残りもらうよ!」藍としては、それは残り物を出すみたいで気が引けるのだが、碧がそう言った以上従う(ほか)無い。

 「うん…」藍は匙をレアチーズに入れた。

 「三食連続だよ~!」碧は実に嬉しそうだ。

 「うん…」

 「やー、これは誰が何作ったかホント秘密にしといてもらわないと! 公開したらホレる男子続出だからね!」

 「え…そんなこと…」無い。有る訳が無い。

 「あるよー、あるある! でもわたしの奥さんでいてほしいからね!」

 「……」無論、藍としてはそのつもりだ。

 「好きな子がいるなら別だけど」

 「え…いないよ……」そう言う碧はどうなのだろう。誰か好きな男子がいるのだろうか。今までの言動からはそれらしい匂いが全くしなかったが。だが、それを訊く度胸も覚悟も無い。

 「はー、おいしかった!」碧がマグカップを食卓に置いた。藍は、まだ匙をつけただけで全く口に運んでいない。

 「あ、どうぞ…」藍は、一口分を匙に乗せて取り、マグカップを碧に差し出した。

 「え! 藍ちゃん一口だけ?」

 「うん…」もちろん自分も好きなのでレアチーズを作っている訳だが、今は自分が食べるより碧が喜んでくれる方が嬉しい。

 「えー。悪いよ」と碧は言うが、いつもの、決定事項な口調ではない。

 「ううん…碧ちゃん、食べて…」

 「えー。じゃ、遠慮なく」と言いつつ多少遠慮気味に受け取ったが、

「いただきます!」口に入れる姿には本当に遠慮が見られなかった。

「ん~、しあわせ~」目を閉じて味わう姿を見ているだけで藍は幸せだ。が、二秒後、碧はカッと目を見開いた。

「ヤバいな! この分どっかでスゴい不幸が来るんじゃない!?」

 「え…」

 「例えば今日の昼ごはん、わたしの目の前で玉子焼きとレアチーズが両方品切れするとか…」

 「え…人数分作ってあるよ…」

 「そう。余分まで見て作ってるはずなのに、それ以上に飛び込みでやって来るとか…」

 「……」絶対無いとは言えない。山雅の人気は凄いらしいし、碧目当てで当日来る男子もいるかも知れない。鈴木は当然大歓迎するだろう。いや、しかし鈴木も、食事配給の優先順位には気を使うだろう。一見何も考えていないようだが、頭の回転が早いし、意外と気も遣っているように思える。結論、碧の心配は杞憂だ。校長や教頭が飛び込みで入り、自分も皆と同じものを食べたいなどとでも言い出せば分からないが。

「多分…大丈夫だと思うけど…」

 「おお…! 藍ちゃんに言われると大丈夫な気がする! よし! 味わって食べよう!」

 「……」何もしていないが、碧の不安が払拭されたのならまあ良しだ。

 味わってと言いつつ前と変わらない速さで食べるのを藍は眺めた。

 「頂きました!」碧はすぐ食べ終わってマグカップを置き、合掌した。

 「頂きました…」藍も手を合わせる。

 「まだ時間あると思うけど、もう準備しちゃってもいいかな?」

 すっかり寛いでしまって玉子焼きとレアチーズのことを半ば忘れていた藍は、慌てて腕時計を見た。定刻まであと五十分余り。

 「うん…レアチーズはぎりぎりまで待った方がいいけど…」玉子焼きの蒸気はもう抜けているだろう。

 「だね! じゃ、玉子焼きだけ包も!」

 「うん…!」

 「わたし片付けるから、藍ちゃんはお弁当の方お願いします!」言いながら席を立つ。

 「はい…!」藍も立ち上がり、流しに置かれたボウルから菜箸を拾って水で軽く洗い、碧の席の向かいに移動した。その辺りに玉子焼きを載せた大皿と重箱が置いてある。

 大皿一枚と重箱を手元に引き寄せ、玉子焼きを一つ一つ菜箸で移す。もちろん大した作業ではないし、慣れてもいる。が、それでも箸が食い込まないよう気を遣って藍は作業した。人に食べてもらうものなので、可能な限り見た目もきれいにしておきたいのである。そして、輸送中に崩れないよう、なるべく隙間無く並べる。偶然だが、重箱一段につき三十二個が入り、隙間もさほど大きくはなかった。

 二段を重ね、その上に空の一段を乗せる。念のため三段借りたので、一つ余ったのだ。さらに蓋を乗せ、風呂敷で包む。風呂敷を使うのは初めてだが、簡単な包み方は知っていて、本当に簡単なので藍でも一回で成功した。

 結び目が緩くないことを確認した後、米櫃に向かうのだが、流しで碧が洗い物の最中なので、食卓の反対側を通る。いつも父親が座る席の後ろだ。

 米櫃の上には保冷袋を置いてある。昨夜の裡に準備しておいたもので、内側の底面と壁面を新聞紙で覆ってある。無論、保冷用だ。新聞紙というのは、見た目は良くないが断熱材としては非常に優秀で、薄っぺらい一枚だけでも効果を発揮する。保冷袋と併用すれば正午まで保冷剤が融けきることは無いだろう。昨夜父親からその説明と共に新聞紙の推奨を受け、藍はそれに従った。藍の行動をいつも黙って見守っている父親がわざわざ口を出してきたことに驚き、それは余程の効果が有るからだろうと考えたのである。

 保冷袋を取った藍は、それを食卓の端に持って行って置いた。米櫃や流しから一番遠い角だ。

 次に食器棚から透明なポリエチレン袋一枚とキッチンペーパー一巻を取り出して、ポリ袋を保冷袋の隣に置く。キッチンペーパーの方は、ミシン目が現れるまで引き出して切り、それを四つ折りに畳む。四つ折りを五枚作ってポリ袋の上に重ね、今度は食器棚からステンレス製の大匙を出す。レアチーズの移し替えに使用することを想定しているものだ。

 キッチンペーパーの上に匙を乗せ、一番上の紙を四つ折りのまま巻きつけて端を折り返したら、まとめて持ち上げてポリ袋に入れ、保冷袋の隣に戻す。

 当面の準備はここまでだ。藍は、両親が待っている居間の戸を開けた。

 「終わったよ。出かける前にもう一回来るね」

 「うん」朱美が立ち上がったので、戸をそのままに藍は廊下への扉に向かった。碧がその前で待っている。しかし藍が扉を開けても碧は動かず、朱美が台所に入るのを見て、

 「おはようございます! おじゃましてます!」と挨拶した。碧が今日まだ自分としか会っていないことを、藍は失念していた。

 「おはよう。早くから御苦労様ね。今日も藍をよろしくお願いします」

 「はい!」碧が軽く一礼し、二人は廊下に出た。

「藍ちゃんの部屋?」

 「うん…」

 「着替えるよね?」この質問は、藍の衣裳が紺色だからであろう。

 「うん…」着ていく服は白のブラウスだ。時間短縮のためには着替えを入れない予定の方が望ましかったのだが、調理中の油撥ねを恐れたのである。

 二人は階段を登り、藍の自室へと入った。カーテンを閉めているので室内は薄暗い。藍は照明を点けた。

 「ここに置くね!」

 「うん…ありがとう…」

 碧は重箱の風呂敷包みを机の上に置いた。その隣には、藍が巌から借りた背嚢が置かれている。ユニフォームとタオルマフラー、財布が入っているものだ。

 藍はそれを見ながら壁際に寄った。昨夜就寝前に白のブラウスと梨乃が貸してくれた緑のスカートを掛けておいたのである。

 「おお! 藍ちゃんの生着替え!」

 「え…」着替えどころか裸まで見られたことがあるにも関わらず、藍は恥ずかしくなった。顔が真っ赤になるのが自分でも分かる。

 「おー! やっぱり藍ちゃんは恥じらってくれる! さすがわたしの奥さん! 萌えー!」

 「え…」実に脱ぎづらい。とりあえず壁に掛けた白ブラウスのボタンを外して間を取ると、

 「あ、任せてー!」碧が傍に来て白ブラウスをそっと取り上げた。

 「あ、ありがとう…」と礼を言ったが、碧の意図は分かっていない。

 碧が動く気配が無いので、藍は着ているブラウスのボタンを上から順に外した。ちなみに、着る時も上から順にボタンを留める。

 この服は洗濯機に行くので、壁には掛けず、寝台の上に置く。床に置くのはだらしない気がして嫌なのである。

 壁際から寝台まで三歩半。藍が紺ブラウスを寝台に置くと、

 「姫様、どうぞ」すぐ後ろで碧が言った。男っぽい口調で、声も低く作っている。その一言で、藍は碧の意図を漸く理解した。着るのを手伝ってくれるつもりなのだ。

 少しだけ振り向いて碧の姿を確認すると、やはり白ブラウスを構えている。

 「ありがとう…」下に伸ばした両腕を少し後ろに引くと、碧がブラウスを動かして腕を通してくれた。胸のボタンを留めようと腕を前に持っていくと、

 「いけませんぞ、姫様。ここはじいにお任せ下され」低い声で叱られ、藍は腕を下に垂らした。

 碧じいは恭しく藍の前に回り、跪くと、ブラウスの一番下のボタンとボタン穴付近を抓み、

「ああっ、白い肌がまぶしい!」と言ってまた藍の顔を赤くさせた。確かに藍は色が白い。傷痕や染みもほとんど無い。が、自分では、幽霊のような不健康な白さだと思っている。

 藍が項まで赤くしている間に碧は手際よくボタンを留め、十数秒後には襟元まできっちりと仕上がった。

「ふう~、じいは寿命が延びましたぞ」碧はそう言うと、再び壁に向かい、今度はスカートを取ってきて、寝台に広げて置いた。

 「ありがとう…」藍は履いているスカートを脱いで紺ブラウスの隣に掛け、緑スカートに脚を通した。流石に碧も手伝うとは言わない。

 梨乃の部屋で試着した時にも思ったが、腹周りの寸法が少し、恐らくは数㎜ほど緩い。梨乃は自分より数㎝背が低いが、その腹囲は明らかに細い方であるから、つまり自分が痩せ過ぎなのである。

 「せっかくだからユニフォームも着ない?」

 「え…でも、汚れないかな…」借り物なので、気を遣うところである。

 「バス乗るだけだから大丈夫だよ!」

 「うん…」

 「着てった方が鈴木君喜ぶだろうし」

 「え…」

 「わざわざお父さんから借りてくれたんだし」

 「あ…うん、そうだね…」こういうところに藍は感心する。自分だったら、借りた服を汚したり傷めたりしないように、という方向にしか思考が向かわない。どちらがいいのかは相手次第だろうが、鈴木ならば碧の言う通りだろうと藍も思う。

 「では」碧が背嚢を降ろしたので、

 「うん…」藍も机に寄った。鞄から袋を出し、その袋からユニフォームを出す。裾を持って垂らしたところ前後が逆だったので反転させ、両腕と頭を通した。

 碧の方を見てみると、両腕を横へ伸ばして少し上下させている。実に可愛らしい。美奈子が見ていたら「萌えー!」と言うだろう。それを想像して笑いながら髪を掻き上げると、

「その髪の毛ふぁさーってなるの何回見ても萌えー!」

 「え…」藍にはそれのどこが萌えなのか全く分からない。碧が大きなユニフォームを着て腕をパタパタさせている方が、絶対に萌えだと思うが。

 「また寿命が延びてしまった…!」

 「……」まあ、碧が喜んでくれているのならそれは結構なことだ。

 「では次はお(ぐし)ですな」

 「あ、うん…そうだね…」緑子から借りた髪留めで髪を縛るのである。

 「このゴムとった方がいいのかな?」今、髪を縛っている黒いゴム輪のことである。

 「あ、え…と、一回とってもらって、緑ちゃんのゴムで括ってもらって、それからもう一回それで縛って下さい…緑ちゃんの、落とすといけないから…」

 「らじゃ!」碧は掌を上に向けて左手を差し出してきた。

 「お願いします…」One Sou1と書かれた髪留めを碧の手に乗せると、碧はすぐ藍の背後に回った。

 「どれぐらいの位置がいいかな!?」

 「え…と…」全く予測していなかった質問に藍は困った。

 「私の好みにしていい?」

 「あ、うん…お願いします…」藍としては願ってもない。

 「ちょっと引っ張るから、痛かったら言ってね」

 「うん…」

 応えるとすぐ、髪が輪ゴムから抜かれるのが感じられた。そして髪が根元から持ち上げられ、上下左右に動かされる。括る位置を探っているのであろう。確かに少し引っ張られているが、痛いということはない。三十秒ほどの試行錯誤の後、

 「やっぱここだね!」との宣言がなされ、場所が決定されたようだった。恐らく頭頂から拳一つ分ほど後ろの正中線上だ。

 髪が括られるのを二度感じると、

「できました!」と完了が告げられ、碧が自分の向かいに戻ってきた。

 「ありがとう…」

 「こっちこそありがとうだよ! 藍ちゃんのサラツヤブラックを堪能しました! 藍ちゃん、くるっと回って!」

 「え…うん…」この要求は初めてではないので、藍は戸惑うこと無くその場でくるりと回った。

 「くはーっ! 萌えー! よし! 写真撮ろ!」藍の返事を待たず碧はポケットを探り、携帯電話を取り出した。

「あ! 梨乃さんからメイル来てる!!」

 「え…!」それは気になる。梨乃とは、ばらの湯に一緒に行って以来会っていない。今は、マルタに旅行に行っているはずだ。

 「えー、『マルタは遺跡がたくさんあって楽しいです』

『野良猫がたくさんいます。日本の猫と柄は同じだけどみんな二回りくらい大きくて、中にはラブくらいある子もいます! 港町(規模的には村)のオープンカフェでご飯を食べていると、そばに来てじっと待っているので、分けてあげずにはいられない!』あ、これわたしも無理なやつだ」

「『街並みもなかなか綺麗なので、二人にも見せてあげたい。いつか一緒に来ましょう』だって! 行ってみたいね!」

 「うん…!」

 「『今日は山雅の応援に行く日だったね。わたしの分まで応援してきて下さい』だって! 藍ちゃん、梨乃さんの分までだよ!」

 「え…! うん…」藍としては、大きな声を出して応援するのは恥ずかしいが。

 「写真も来てる! ちょっと待ってね」

 「うん…!」

 碧は画面を見たまま固まっている。藍は黙って待った。十数秒後、

 「来た来た! あ、ホントだ! キレイ!」と言って藍の右側にくっつき、画面を藍の前に差し出してきた。

「うん…!」画面に映っているのは、港に並んだ小型船。どの船にも帆柱が見えるから、ここは所謂マリーナであろう。その向こうに、小さな家が軒を連ねる丘。その家々が日本の家とは違っていて、異国情緒を醸し出している。

 「うわ、スゴいね! びっしり!」

 「うん…!」次の写真は、恐らく別の港。数人乗りと思われる小舟が、何十艘と並んでいる。写真に写っている範囲がどれくらいか分からないので何とも言えないが、港全体では何百艘にもなるのではと推測される。

 「何か、どの船も目があるね」

 「あ、ホントだね…」どの船の舳先にも、両目が描かれている。

 「何だろ? 魔除けかな?」

 「うん…そんな感じだね…」目はいずれも吊り目で、エジプトのファラオのように隈取りされている。その隈取りに魔術的なものを藍は感じた。恐らく、伝統的な意匠なのであろう。船の形状には、特に目を引くところは無い。どこにでもありそうな形だ。

 碧は次の写真を表示させた。

 「わ、おしゃれ! ここでごはん食べたんだ!」

 「うん…!」本文にあったオープンカフェというのがここだろうか。白い日傘の付いた丸い食卓が五卓×二列、コンクリートの上に並んでいるが、客の姿は無い。その奥には舳に目の描かれた小舟がびっしりと並んでいるから、前の写真と同じ港なのだろう。それら全てを陽光が照らし、輪郭と色彩を際立たせると同時にコンクリート張りの地面へ濃い影を投げかけている。水面(みなも)に於いても同じことが起こっているはずだが、影が見えない程に舟が犇めき合っている。

 碧は次の写真を表示させた。料理の写真だ。

 「魚おいしそう!」

 「うん…!」画面中央で、鱸と思われる魚の丸焼き、付け合わせのマッシュポテトとピクルスが一枚の皿に載せられている。その右で五個のロールパンが別の皿に載り、パンの向こうには透明な液体の入ったグラスと少し黄みがかった透明な液体の入ったグラス。藍には酒についての知識が全く無いが、グラスの形がワインっぽいような気がする。きっと白ワインと水なのだろう。藍は想像でそう決めつけ、梨乃は大人なのだな、と妙に感心した。

 「これワインだよね?」

 「うん…多分…」

 「梨乃さんもう二十歳(はたち)だもんね!」碧も藍と同じようなことを考えていたらしい。

 「うん…」

 「向こうはもっと前からワイン飲んでそうだけど!」

 「あ、うん、そうだね…」そうだ。藍も、二十歳まで飲酒が法律で禁じられている国は珍しいと聞いたことが有る。

 「この魚…大きいよね?」

 「え…」碧に指摘されてよく見てみると、確かに、魚の載った皿と他の食器との大きさの比率が何となく変だ。ナイフ、フォークやグラスを基準に見てみると、魚の皿は三十㎝以上有るのではないだろうか。そして、魚は頭と尾の一部が皿からはみ出しているのである。

「うん…」藍には、この魚の四分の一も食べきれないだろう。

 「梨乃さんこれ全部食べたのかな?」

 「うん…」根拠は無いが、梨乃は出されたものを残さないだろうと藍は思う。

 「碧ちゃんだったら食べられる…?」

 「うん。多分ね」多少自信の無さそうな言葉だが即答だ。

「わ! かわいい!!」次の写真を表示させた碧が叫んだ。

 「うん…!」写っているのはトラ猫だ。ちょこんとおすわりして、こちらを見上げている。食べ物をくれとねだっているのだろう。見上げる角度が、絶妙な可愛らしさだ。

 「これ無視とかムリムリ! 絶対魚あげちゃう!」

 「うん…」藍でもあげてしまうだろう。

 「たくさんあるし!」

 「うん…そうだね…」多少あげてしまっても惜しくないほどの量だ。寧ろ、食べきれない分をあげると考えれば、食べ物を無駄にしないとも言える。

 「はっ! もしかして店がわざと大きい魚出してる!?」

 「猫にあげさせるために…?」

 「うん! ナイス店の人!」

 「……」

 「やっぱり」次の写真は、そのトラが何かを食べているところだった。間違いなく、梨乃が魚をやったのだ。

 「うん…」

 「まだあるかな?」碧は携帯電話を操作した。

「わ! この子もかわいい!!」

 「うん…!」画面には別の猫が映っている。白地に茶の(ぶち)猫だ。先程のトラと同じ姿勢でこちらを見ている。

 「これもあげちゃうなー!」

 「うん…」

 「やっぱりあげてるし」次の写真は、斑猫が食べているところだった。

 「うん…」

 「この調子で入れ替わり立ち替わり来るのかな!?」

 「え…」と言ったが、十分有り得る、と藍は思い直した。

 「次は」碧は次の写真を表示させた。

「違ったね」

 「うん…」レストランの写真だった。写真に写っている範囲は満席だ。

「このレストランの外なのかな?」

 「うん、多分…」恐らく、この店の屋外席に梨乃は座ったのであろうが、好天にも関わらず外に席を取る客が居ないということは、屋外はかなり暑いのであろうか。

 「あ、これで終わりだ。すごい外国って感じだね!」

 「うん…」何がどうと訊かれても答えられないが、とにかく異国だと感じる。

 「梨乃さんスゴいね! 一人で行ってるんだよね」

 「うん…」

 「わたし一人で松本から出たこともないよ~」

 「私も…」

 「日本語通じないだろうし」

 「うん…」そこが一番の難関だと藍は思う。実際には、路銀さえ持っていれば何とかなることがほとんどなのだが、無論藍にはそんなことは分からない。

「碧ちゃん、英語だったら大丈夫…?」

 「いやー、どうかなー。映画見てても何て言ってるか分からないこと多いし」

 「そうなんだ…」碧がそれでは、自分にはとても無理だ。

 「やってみないと分かんないね」

 「うん…」

 「言葉が通じるとしても梨乃さんと一緒に行きたいけどね!」

 「うん…!」それはその通りである。

 「よっし! わたし達も写真撮って梨乃さんに送ろ!」

 「うん…」

 「あ、わたし帽子かぶる! ちょっと待ってね!」

 「うん…」

 碧は携帯電話をそっと寝台の上に置ぃた。操作しかけたところであったので画面が見えたが、壁紙に使われているのは梨乃、藍と三人で撮った写真だった。藍はそれを見てとても嬉しく思うと同時に、何だか切なく感じた。

 藍が激しく動揺している間に碧は足元の背嚢から帽子を取り出して被った。梨乃から借りた(つの)付きのものである。

 そして、携帯電話を拾い上げて操作すると、持った腕を前に伸ばした。画面には今の二人が映っている。

 それを見ていると、碧の腕が腰に回り、優しく抱き寄せられた。自分の手が碧の腰骨に当たったので、そっと手を後ろに抜く。しかし碧の腕に上から押さえられているため大きくは動かせず、掌はちょうど碧の尻に重なった。

 「む、ちょっと暗いな。カーテン開けていい?」

 「あ、うん…」着替えのためにカーテンを閉めていた訳だが、もうその必要は無い。藍が窓際へ寄ろうとすると、腰に腕を回したまま碧も並んでついてきた。窓際まで僅か一歩半の距離でも自分を放してくれなかったことが藍には嬉しい。

 二人でカーテンを片方ずつ開けると、部屋の中が格段に明るくなった。

 「うん」と言って碧が藍の腰を抱いたまま後ろに下がり、藍も引っ張られて同じように下がる。

「では改めまして」碧は右手を前に伸ばした。

 「はい…」

 「いくよー! 3、2、1、はい!」1の辺りで脇腹をくすぐられたかと思うと、すぐペロレン、という電子音がした。碧が右手だけで携帯電話を操作すると、今撮れた写真が表示された。碧はいつも通りの元気な笑顔だか、藍はくすぐられたせいで少し表情が崩れている。

「うん! 我ながら天才的! 藍ちゃん萌えー!」碧の評価では合格だったようなので、藍は何も言わぬことにした。碧は藍の腰を開放すると、両手で携帯電話を操作し、

「梨乃さんに送りました! スタジアムでまた撮ろ!」

 「うん…」

 「あ! 玉子焼きも撮っていい!?」

 「え…うん…」

 「では失礼して」碧は机上の風呂敷包みに寄って結び目を解き、蓋と最上段の重箱を取った。

 「おいしそう!」さっき切れ端を食べたばかりであるのにそう言って、碧は携帯電話を構えた。

 しかし構図が気に入らないらしく、何度か構え直し、一分ほど後、ようやくペロレン、と音がした。すぐ操作して画面を見つめること数秒、

「いかがでしょうか?」と携帯電話を突き出してきた。画面には、二段の重箱とその上段に入った玉子焼き。

 「いいと思います…」元々写真にケチをつけるつもりなど毛頭無いが、碧が撮った写真は実際にいいと思う。なかなか美味しそうに写っているし、数をたくさん作ったということも伝わる。

 「ホント!? じゃ送信!」碧はまた少し操作して、

「よっし! 完了!」と言って帽子に手を遣ったが、すぐに、

「速っ! もう返事来た! 『気合い十分ね。私もマルタから応援します』だって! 梨乃さんが応援してくれたら負ける気しない!」

 「うん…!」藍もそんな気がしてきた。

 「さらに来た! 『玉子焼きおいしそう。今度私にも作ってほしいわ』だって! 作るよね!」

 「うん…!」

 「わたしも手伝わせて~」

 「うん…!」

 「また来た! あ、鈴音ちゃんから! うをっ! 『ちょっと早いけどこれから料亭サーヤ出るよーん。15分くらいで着いちゃうから夜賂死苦!』だって! 準備しよ!」

 「え…! うん…!」

 碧は被った帽子もそのままに、すぐさま重箱の梱包に取り掛かった。

 「あ、わたしリュック置いてってもいーい?」

 「うん…」

 「ありがとう! 藍ちゃん、レアチーズあるよね? 先に行っててー」

 「うん…」藍は二人分の荷物を持ち、部屋を出る。玄関の前まで階段を下りた時、自室の扉が閉まる音が聞こえ、台所に至る前に碧が追いついてきた。

「お母さん、入るよ…」そう言って扉を開けたが、台所は無人だった。とっくに朝食を作り終わって居間で食べているのだろう。普段は台所で朝食を摂るのだが、今日は気を遣ったに違い無い。

 手近な椅子に荷物を置いて、藍は冷蔵庫の前に行き、レアチーズの入った密封容器を冷蔵庫から出す。碧は食卓に風呂敷包みを置いて、藍の傍に来た。

 今日持っていくレアチーズは四ℓで、二ℓ容器二つに分けて詰めてある。単に四ℓ容器が家に無く、二ℓ容器が三つ有ったからだ。その二つを上下に重ねて袋に入れた。

 それから冷凍庫を開けて保冷剤を出し、密封容器の周囲に挿し入れ、上にも乗せる。

 さらにその上から新聞紙を掛けて、先程包んだ大匙を乗せる。最後に袋の口を閉じて完成。予告通りであれば鈴音と美奈子が来るまでまだ十分ほど有るはずだが、無論早く着く可能性も有る。一息つくのは、すぐ渡せる準備を整えてからにすべきだろう。

 藍は、保冷袋を手に取った。碧がすっと扉の横へ移動して、開けてくれる。藍は自分で扉を開けるつもりだったのだが、それを見て、食卓の風呂敷包みも取った。

 「ありがとう…」

 「ううん!」

 藍は玄関まで行くと、とりあえず風呂敷包みと保冷袋を上がり框に置いた。ちらりと振り向いてみると、二人分の荷物を持った碧はもう外に出る気のようなので、藍も靴を履くことにし、框に腰掛ける。

 藍は必ず左足から靴を履く。多くの人と同じように、そう決めている訳ではなくいつの間にかそういう癖になっている。そうして左足に靴を履かせ終わった時、

 「お、メイル。鈴音ちゃんかな?」後ろで碧が呟き、

「今、警察署の信号で止まってるって! もうすぐ来るね!」と声を掛けられた。

 「うん…」藍は急いで右の靴に取りかかった。

 履き終わって立ち上がり、弁当を持つと、碧がすぐ入れ替わる。

 藍と違って、碧は座らずに靴を履いた。藍と同じように紐付きの運動靴を履いているが、紐を結びっぱなしにして、踵だけを手で持って足を入れるのである。

 碧が素早く靴を履いたのを見て、藍は玄関の扉を開けた。鈴音達に無駄な時間をかけさせないよう、家の前で待つつもりだ。警察署前の信号が青になれば、二、三分でこの家の前まで来るだろう。ちなみに、青井邸の玄関扉は、上下に長い把手を押し込めば閂が解除されるので、両手が塞がっていても問題無い。元々違う扉だったのを、建てつけが悪くなったため四年半ほど前に付け替えたものだ。

 外に出てみると、碧を迎えに出た時に比べ、すっかり空気が暖かくなっている。今日は快適に過ごせそうだ、と思った時、

 「藍ちゃん、持つよ!」後ろから声を掛けられ、ほぼ同時に碧の手が伸びてきて、右手に持っていた風呂敷包みを優しく奪われた。

 「あ、ありがとう…」少し驚きながら振り向くと、

 「ううん!」碧がにっこりと笑ったので、自分も笑顔を返したが、我ながら、驚きの表情からの切り替えが上手く出来なかったと思われた。

 藍は前に向き直って門に向かい、開いて外に出る。右側を見てみたが、道路上に自動車の姿は無い。そちらを見ていると、隣に碧の立つ気配がし、僅かに遅れて門扉の閉まる音が聞こえた。

 間も無く鈴音達が到着するのは間違い無い。藍は、以前下島の祖母が重箱を学校に運んできた白い貨物車を想像していたが、十秒余り待つと、想像とほぼ同じ形、同じ大きさの自動車が姿を現した。運転しているのも老婦人で、鈴音が助手席に座っていることから鈴音の祖母と推察される。

 当然だが、自動車は自転車より速い。碧が来る時よりも短い時間で二人の前までやって来ると、自動車の扉が前後同時に開き、鈴音と美奈子が出てきた。

 「おはよう!」「おはよう!」異口同音に言われ、

 「おはよう!」「おはよう…!」二人も異口同音に返した。

 「気合い入ってるじゃん」と美奈子。何のことかと藍は思ったが、

 「せっかく借りたからね!」碧の答えで、ユニフォームの事と分かった。碧は梨乃から借りた帽子も被ったままだ。

 「藍さんもポニテいいじゃん」

 「え……」ぽにてが何の事か分からず言葉が出なかったが、

 「でしょー! ヘアスタイリストわたし!」碧の応えで髪型のことだと飲み込めた。

 ちなみに、鈴音は緑子から借りた野球帽を被っているが美奈子はミニスカートを穿いておらず、二人ともユニフォーム姿ではない。

 美奈子と鈴音が自動車の後部に向かったので、藍と碧も後に続く。

 美奈子が後部ハッチを開けると、回収した風呂敷包みと段ボール箱、そして大きな紙の手提げが並んでいた。段ボールと紙袋の中身はペットボトル入りの茶のようだ。

 「これごはん? おひつでかっ!」碧が指差すのは二つの大きな風呂敷包みだ。重箱三段の包みの一・五倍くらいある。

 「三十人分だからなー。二つに分けてもこのサイズ」

 「うわー。ご苦労様!」

 「あの…重箱一段使わなかったけど…」藍は、鈴音に風呂敷包みを差し出した。

 「一緒に包んであるんだ?」鈴音はそれを受け取り、重箱の並びの右端に加えた。

 「うん…一番上…」

 「りょーかい」

 続いて碧が保冷袋を渡し、これも右端に置かれた。

 「レアチーズ大きいね」と鈴音。保冷袋は、玉子焼きの重箱の倍近い体積だ。

 「四ℓだけど、保冷剤沢山入ってるから…」

 「あ、ナルホド。ここのチームだけデザートも作ってもらってご苦労様でした!」

 「え、ううん…」三十人分の飯を炊いた鈴音達に比べれば大したことではない。

 「昨日緑ちゃんも来て手伝ってくれたよ!」と碧。

 「ところで二人はアルウィンまで何で行くの?」

 「駅からシャトルバス」

 「じゃ乗ってく? ただしすぐ出発するけどな!」

 藍と碧は顔を見合わせた。藍は碧の決定に従うつもりなのだが、それが伝わったらしく、

 「じゃ、お願いします! 荷物これだけだから!」それ以上相談すること無く、碧が決定した。

 「オッケー、乗って乗って! 狭いのはガマン!」鈴音は後部ハッチを閉じた。その間に美奈子が左側後席の扉を開け、

 「はい、入って入って」乗り込まずに二人を手招きするので、藍は碧に続いて車内に入った。

 「よろしくお願いします!」

 「よろしくお願いします…」運転席に向かって挨拶すると、老婦人は振り向き、

 「がんばって応援してきな」

 「はい!」「はい…」

 すぐ美奈子も乗り込んできて、扉を閉めた。ほぼ同時に鈴音も助手席に座り、扉を閉める。

 「ばあちゃん、オッケー」

 「はいよ」五人を乗せた自動車はゆっくりと動き出した。

 青井邸の前の道路は幅員数メートルの細い道だ。鈴音の祖母は、以前碧が藍を後ろに乗せて走った道を時速二十㎞ほどで走らせた。

 「何このぞうり!」墓地の前に掛けられた大草鞋を見て鈴音が驚く。

 「この地区の風習なんだって」碧が答える。「えーと、土地の守り神にはいてもらうんだっけ?」

 「え、と…履いてもらうのかどうかは書いてなかったけど…」

 「守り神足デカっ! て片足だけ?」

 「別のところにもう片方あるって」

 「ふーん、全体がデカいのか。でもなんか幅のわりに長さが短かったな」

 「足半なんじゃね?」美奈子が割って入った。

 「美奈ちゃんよく知ってるね! 足半だって書いてあったよ!」

 「あしなかって何?」鈴音の問いに、

 「足半草鞋の略。前半分だけの草鞋」美奈子が答える。

 「何その美容サンダルみたいなの。後ろないと歩きにくいじゃん」

 「だよな。何でかは知らね。携帯用だったらしいから、コンパクト優先なんじゃねーの」

 「ふーん」

 「美奈ちゃん詳しいね!」碧が驚いているが、藍も同様である。

 「信長公記の解説に書いてあった」

 「何それ?」

 「織田信長の右筆が信長の言動を記録した文書。信長公の記で信長公記」

 「ゆうひつって何?」

 「代筆係?みたいなの」主君と共に居る時間が長く、側近中の側近と言えるが、権力を持っているとは限らない。信長公記の記録者太田牛一も、織田家中で大きな権力を握っていた訳ではなかった。

 「『有る』『筆』?」

 「違う。右の筆」

 「ふーん。どういう意味?」

 「知らね」

 「藍ちゃん知ってる?」

 「え…と、『筆をたすける』かな…?」

 「おお~」何故か三人の声が重なり、藍は恐縮する。この場合、足半や信長公記を知っている美奈子の方が賞賛されて然るべきだと思うのだが。ちなみに藍は、信長公記の存在すら知らなかった。

 「その本に足半は何て出てくるの?」碧が話を元に戻した。

 「えーと、一乗谷の戦いだったかな、スゲーがんばって戦った部下がいたんだけど、裸足だったから、信長が腰につけてた足半を褒美にやった、って話」兼松正吉という武将で、信長の馬廻衆であったらしい。

 「へー! 信長もっと怖い人かと思ってた!」

 「そだな」鈴音と同時に藍も無言で頷く。織田信長というと、そんな気遣いをしない人物という印象だった。

 「その人、その足半はいて戦ったのかな?」

 「それは書いてなかったな」信長のことを記録した文書であるから、それは致し方有るまい。

 「その人生き残ってたら足半家宝だね!」

 「だな」「うん」

 「その足半今でも残ってるよ」意外にも運転席から解答が示された。

 「ホントですか!?」美奈子が前に身を乗り出そうとしてシートベルトに止められた。

 「前に名古屋の博物館で見たね」

 「名古屋のどこですか!?」

 「名古屋市博物館だったけど、企画展だったからねえ」

 「あー…」

 「まー、またそのうち展示されんじゃないかい?」

 「ですね!」

 「てことは、その人生還?」と碧。

 「じゃね?」全く興味が無さそうだった鈴音も、少し嬉しげな声だ。ちなみに、江戸時代になるまで生き残った。八十五歳まで生きたというから、天寿を全うしたのであろう。

 「何かスゴいね! 何百年も前の話なのに!」

 「だなあ」美奈子は感慨深げである。この逸話に思い入れが有るのだろう。

「てーか、あれ? おばあちゃん信長公記読んでるんですか!?」

 「信長が好きでね。ほかの武将にゃ全く興味ないんだが」

 「おうっ! わたしと同じだ!」

 「私も知らなかった衝撃の事実!」鈴音が驚いている。

 「おばあちゃん何で信長だけ好きなんですか?」

 「何でって言われても答えにくいが…まあ、ほかと違うんだねえ」

 「やっぱり違いますか!」

 「商売重視だったり軍隊作ったり、当時の常識にはないことやってるね」

 「戦国時代なのに軍隊なかったんですか?」碧が割って入った。藍も碧と同じことを疑問に思う。

 「戦専業の軍隊はね。武士は兼業農家がほとんどだったらしいじゃないか」

 「へえー」碧と共に藍も感心している。なるほどこれが、梨乃の言う「学校では教える時間がない歴史」か。武士は兼業農家、という言葉に少しだけ興味を覚えた。

 「うまく言えないがとにかくほかと違う感じがするんだね」

 「へえー」碧と美奈子が声を揃え、

 「美奈ちゃんは何で信長だけ好きなの?」

 「戦国無双でかっこいいからだ」

 「ほかにもかっこいいのいるんじゃね?」鈴音の疑問に対し、

 「いるけど信長が一番だな」美奈子はそう断言した。

 「わたし三国しかやったことないー」

 「ゲームとしては三国の方が面白いけどな。かっこいいのは信長だ」

 「三国無双は誰使ってるの?」

 「夏候惇」

 「鈴音ちゃんは?」

 「趙雲」

 「相生ちゃんは」

 「孫尚香」

 自分を挟んで交わされる会話を藍は黙って聞いていた。ゲームの話だということしか分からないが、碧も美奈子も鈴音もやっているとなると、少し気になる。

 そんなことを話している間に自動車は狭い道を抜け、川を渡り、また住宅街の狭い道に入っていた。

 「あ、ばーちゃん、そこ右」鈴音の指示に祖母は返事せず、黙って操舵輪を操作する。曲がる前、左斜め前方に木の鳥居とその奥に木立が見えたのが藍の印象に残った。

「えーと、そこ斜め左」次の指示は少し遅れてしまったが、祖母は指示より先に操舵輪を切った。目的地までの道程を鈴音よりよく知っているようだ。

「突き当たり右で」

 「その先の突き当たり左だろ」

 「ばーちゃん道覚えたの?」事前に地図で説明したのだろう、と藍は推測する。

 「もともと知ってんだよ。で、信号右ですぐ左斜めだろ。その先が次の家」

 「そう!」

 「どの家かは指示しろよ」

 「おっけー」

 「おばあちゃんスゲー」美奈子の賞賛に、

 「うん」碧も同意し、藍も頷いた。

 「たまたまだね。知り合いがその通りに住んでんだ」

 「ばーちゃん、あとどのぐらいで着く?」

 「五分ぐらいじゃねえかな」

 「りょーかい」鈴音は携帯電話を取り出し、何やら打ち込み始めた。恐らく、もうすぐ着く旨を連絡しているのだろう。

 田圃の間をまっすぐ通る道はすぐ民家に突き当たり、五人を乗せた自動車は右に曲がった。そこからは民家に挟まれた細い道だ。青井邸の前の道と同じくらいだろうか。古い道なのか、細い上にくねくねと曲がっている。数百メートルその道を進み、また別の神社の前を通り過ぎると、信号が現れ、交差点の手前で急に道幅が広がった。

 赤信号で停止すると、鈴音が携帯電話を見ながら、

 「えーと、曲がって左側の六軒目だって」と告げた。

 「六軒目な」

 信号が青に変わり、右折してすぐ左折、と忙しく操舵輪を動かして鈴音の指示する道に入り、

 「一、二、三、」と三まで数えたところで、

「なんだ、テルちゃん家じゃないか」と鈴音の祖母が呟いた。

 「えっ、マジで?」

 「真田さんだろ」

 「そう! えー、そんなことあんだなー」鈴音が呆れたような口調で言う。それを聞いて、藍はまたか、と思った。何だか最近、自分の周りで世間の狭い事例が続発している。

 「はいよ」鈴音の祖母は、その六軒目の前に自動車を停止させた。

 「さんきゅー」鈴音がすぐシートベルトを外して車外に出る。美奈子が扉を開けたので、藍もシートベルトを解除し、後に続いた。居ても役に立たないのだが、車内で待っているのは悪いような気がするのである。

 真田邸も青井邸と同様、建物の前に門が在る構造だった。

 まだ真田も片倉も外に出てきてはいなかったが、玄関辺りで待機していたのか、藍に続いて出てきた碧が自動車の扉を閉めた直後、二人は家の中から姿を現した。片倉が風呂敷包みを持っている。

 「おはよー!」「おはよー」「はよ!」「おはよう~」「おはよう!」「おはよう…」六人が挨拶し、

 「相生さんと藍さんも一緒だ?」真田に言われ、

 「一緒に乗せてってもらうの!」碧が簡潔に説明した。

 「そか」

 「弥生ちゃん、ご苦労様!」鈴音が風呂敷包みを受け取りながら言うと、

 「鈴音ちゃんたちこそ~。これで全部~?」のんびりとした口調で片倉が応えた。

 「うん!」

 「弥生のメンチカツ超ウマいよー! 期待して!」真田が自分のことのように自慢する。藍は、あれ?と思った。打ち合わせの時には片倉さん、と呼んでいたが。

 「それは楽しみですなあ!」碧が言うと、

 「余ったらわたしが食べる!」美奈子がいつかと同じことを言ったが、

 「仕方ない。譲りましょう」碧は張り合わなかった。

 「よしよし。その調子で玉子焼きも」

 「それはダメー!」

 「はいはいそれは後でな」鈴音が呆れ声で話を収め、

「じゃまた後で!」真田と片倉に挨拶した。

 「うん。わたしたちもすぐ出る」「またね~」

 鈴音と碧が自動車に向かったので、藍も慌てて会釈し、乗り込んだ。美奈子が扉を閉めると、

 「ばーちゃん、夜賂死苦ー」

 「はいよ」自動車はまたゆっくりと動きだした。

 「ばーちゃん、どれくらいで着く?」

 「十五分」

 「そか」

 「第十二駐車場でいいんだな?」

 「うん」

 真田邸前の道はすぐ高速道路にぶつかり、左に折れて高速道路沿いの道を走った。

 「鈴音ちゃん、お弁当いつ食べるの? 開場12時って言ってたけど、緑ちゃんたち11時半に入っちゃうんでしょ」碧が助手席に問いかけた。

 「まだ決めれてないんだよなー。列長いから開場して30分は入れないらしいんだよ。ほんで1時半から練習で、そこから応援始まるから、できれば緑たちが入る前にしたいんだけどー」

 「なるほど。じゃ、そうしようよ! 一応みんなに念押しして。絶対遅刻してくる人いるし」十一時集合ということになってはいるが、碧の言う通り二十九人もいれば遅刻者が出ることは予測出来る。

 「そだな。美奈子、女子チームにメッセージ送っといて。私鈴木に送る」

 「あいよ」

 二人して携帯電話に打ち込んでいると、

 「あ、SL」碧が左の方を見て呟いた。それにつられて見てみると、

 「うん…」木立の向こうの公園らしき空間に大きな黒い機関車が置いてあるのが見えた。

 鈴音と美奈子は携帯電話に集中していて会話には加わって来ない。碧も特別興味がある訳ではないらしく、話はそこで打ち切りになり、二人は何となく黙った。十秒ほど後、

 「お」碧が携帯電話をポケットから取り出した。「連絡来た。美奈ちゃんが今打ってたやつだ」碧は数秒携帯電話を操作し、携帯電話を仕舞った。

 「相生ちゃん返事速っ」美奈子が電話を見たまま呟く。

 「来るの分かってたしね」

 「まあそだけど」

 隣に居るのだからわざわざ携帯電話で返事せずとも直接話せばいいようなものだが、と藍は思ったが、

「さんきゅー。これでみんな返事してくれるだろ」美奈子の言葉に、藍は事情を理解した。碧の返事も全員に送られていて、それにより他の女子陣も返事してくる可能性が上がる、謂わば呼び水ということだ。

「おー、来た来た。真田っちと片倉さんオッケー。お? ミドリから先行組オッケー。ほかの男子と先生は鈴木が連絡するって」

 「私鈴木に連絡しなくてもよかったな。先に食っちまうぞって言えばよかった」

 「そだな。来なかったらホントに食っちまうけどな」容赦無い美奈子の言葉に、

 「分け前増えるね!」碧もそちら側に回った。

 「お主も悪よのう」

 「いえいえお代官様にはかないません」

 「こいつめ」

 「がっはっは」「ひゃっひゃっひゃ」自分を挟んで交わされていたのが何の引用なのか藍には分からないが、二人の間では通じているらしい。

 鈴音が振り返って藍を見、両掌を胸の前で上に向けた。

 「お」美奈子が携帯電話を見る。

「ワダっちもオッケーだって」

 「女子チームは快調だな」

 「自分たちで作ってるしな」

 「そだな。何っ!?」鈴音は素っ頓狂な声を上げた。

 「何?」美奈子が身体を藍の方へ寄せて、鈴音の携帯電話を覗き込もうとする。

 「鈴木から。『男子全員オッケー。もうほとんどみんな来てる』って!」

 「マジか! 絶対男子の方が返事遅い、てか返事来ねえぐらいに思ってた!」美奈子は身体の位置を元に戻した。

 「だよなー」

 「何か負けた感じするな」

 「いやいやそれだけお弁当が魅力的ってことだよ!」と碧。

 「男子の食欲恐るべし」美奈子はあまり人のことは言えないだろう。

 「食べた時の顔が()(もの)だね!」

 「メンチカツもうまいって言ってたしな」

 「あ、鈴音ちゃん。誰がどの担当か秘密にしとこ」

 「んー…分かった」少しだけ考え、鈴音は何も聞かず承諾した。行間を読んだのであろう。妙にしおらしいその様子を見て、鈴音は今日来る男子のうちの誰かに想いを寄せているのだろうか、と藍は考え、自分がそのようなことを思った事実に驚いた。これまでは、誰が誰を好きでも気にしなかったし、そんなことを考えることすらなかったのだが。

 「サーヤ了解だって」

 「あとは大村ナギー組だけか」ナギーとは遠藤のことであろう。

「何で来るんだっけ?」

 「ナギーの父ちゃんが送ってくれるって言ってたぞ」

 「んー、じゃあ見てるはずだよな」

 「メッセージ?」

 「うん」着信があったらしく鈴音はまた携帯電話を見た。

「ん何いィィ!!」先程よりさらに大きな声で叫び、

 「びっくりすんだろ。心臓止まったらどうしてくれんだ」祖母に叱られた。

 「あ、ごめん。その時はわたしが喪主務める」

 「よし」

 「よしなんですか!?」碧が後ろから割って入る。

 「孫に喪主務めてもらうなんてそんなババアなかなかいねえよ。ババア冥利に尽きるってやつだ」

 「冥利が尽きたら大変ですね」今度は美奈子が割り込んだ。

 「なかなか巧いこと言うね」

 「え? どういうことですか?」碧には会話の意味が分からなかったようだが、それは藍も同じだ。

 「冥利に尽きるは分かるよな?」

 「はい」

 「冥利が尽きるってのは、仏さんの恩恵がなくなるってことさ。これから仏さんとこに行こうって時に冥利が尽きたらいかんだろ」

 「なるほどー! 愛想尽かされないようにってことですね!」碧が感心する。

 「そうそう。悪いことしねヤツなんていねから、その分いいことして冥利が尽きねようにしろってことだだよ」

 「なるほど! いいことするぞ!」

 「委員長さんは素直だな」

 「でへへへ」素なのか照れ隠しなのか判別できない口調で碧は笑った。

 「わたしの『ん何いィィ』が完全にどっか行ってんだけど!」今度は鈴音が割って入った。

 「おお! 何だっけ?」

 「鈴木から。『校長先生が飛び入り参加。』」

 「ん何いィィィ!?」美奈子が鈴音に向かって叫んだ。

 「美奈子うるさい。 何いィィだろ?」

 「何でまた」

 「経緯は書いてねーな。そんでな、『弁当余りある?』だとよ」

 「オヤビンの言いつけ通り32人分作りやした」碧が答える。

 「多少足りなくても納得してもらうしかねーな」と言いながら、鈴音は携帯電話に指を軽く当てた。

 「だな。でもほかに飛び入り来たらアウトだな」

 「その時はしゃーねーな。飛び入りは早い者順だろ」

 「だね! オヤビン名奉行!」

 「フツーだろ」謙遜している風もなく鈴音は言ったが、藍は鈴音のことを凄いと思った。自分だったら、校長飛び入りという異常事態の時点でどうしていいか分からなくなる。

「ま、着いてからだな」

 「そだな」「うん」三人が落ち着いている中、藍だけは気が気でない。

 「ばーちゃん、あとどんぐらい?」

 「七、八分。渋滞してなけりゃな」

 「今9時47分か…時間はヨユーだな」

 「でも30人座れる場所探さないと」と碧。確かに、三十人というとかなりまとまった面積が必要だ。

 「相生ちゃんナーイス。男子に確保させよう」

 「だね」

 鈴音はまた携帯電話を操作し始めた。少しして、

 「ナギーから来た!」美奈子が小さく叫び、

「『ギリギリになるから先に食べといて』だってよ」

 「りょーかい。先行組以外は慌てなくても大丈夫だろ」

 「だな。『P.S. 私たちの分残しといてよ!』だと」

 「りょーかい」

 「『リョーカイ』っと」美奈子は素早く携帯電話に入力した。

 「男子こんなに早く着いて何してんだろな」

 「サッカーとか?」

 「そんな場所あんのかな」

 「河内君たちはトランプやってるね!」

 「やってるな」「やってる」三人の意見に藍も賛成である。あの四人がトランプ以外のことをやっている方が想像出来ない。

 「どうしよ、全員でやってたら」

 「校長も?」美奈子の問いは、藍の問いでもある。

 「贄先生も」

 「17人だぞ。何やる?」

 「大富豪」

 「札、少な! 革命とかまず出ねーな!」全くである。一人三枚である。藍は、十七人が車座に座ってたった三枚の手札と睨めっこしている様子を思い描き、可笑しくなってくすりと笑ってしまった。

 「トランプ二組使うとか」

 「…なるほど。アリだな」少し考えて美奈子はそう言った。碧もだが、単なる冗談ではなく、その人数でトランプを楽しむ方法を考えているようだ。

「でもトランプ二組も持ってきてねーんじゃね?」

 「あ、そだね。残念!」

 「大富豪ってローカルルール多いよな」鈴音が振り向いてトランプ談議に入ってきた。

 「そうか?」と美奈子。

 「まず名前が一つじゃないし」

 「そうなの?」今度は碧が意外そうに訊く。

 「大貧民って言うとこもあんじゃん」今度は鈴音が意外そうに言い返した。

 「えー!? そっちが主役!?」碧の驚きは尤もだ、と藍は思う。普通、勝者の名前にしそうなものだが。

 「わたしもそう思うけどな。あーでも主役と思えば負けても楽しいか」

 「えー。楽しいかー?」美奈子が疑問の声を上げる。

 「いや、分かんねーけど、桃鉄で借金王になるみたいな」

 「あー。じゃ、半端な負け方じゃダメだな」

 「だな。あ、ちなみにな、名古屋のいとこは大貧民のことド貧民って言ってた」

 「そっちの方がより底辺って感じすんな」

 「だねー。鈴音ちゃん、面白かったローカルルールってある?」

 「ジョーカーだな。どのカードの代わりにしてもいいけど単品では出せないルール。それと、最初のカード交換の時に出さなくてもいんだ」

 「あ、面白そう! 逆転起こりやすくなるね!」

 「そうなんだよ」

 「今度そのルールでやってみよ!」

 「いいね。緑も呼んで五人でやるか」自分も頭数に入っているらしい、と藍は軽く驚いた。

 「そうだね! 5人か6人が一番面白いしね」

 「また藍さん()だな!」美奈子が、勝手に決めた上に、

「母さんまたレアチーズ作って!」と図々しく要求してきた。

 「え…うん…」しかし、それも藍にとっては喜ばしい。

 「スズネも今度は何か作ってくれよ」

 「そうだな…じゃあショートブレッドでも焼くか」

 「何それ?」すぐにそう訊き返した美奈子同様、藍もショートブレッドというものを知らない。

 「何って…バタークッキー…が近いか?」

 「いいねえ。それ頼む。いつやろ」

 「中間終わったら?」無論、中間試験のことであろう。連休明けの翌々週に予定されている。

 「だね」と碧。

 「よっしゃ! それ目標に試験勉強がんばる!」

 「やる気出てきたね!」碧の言葉は美奈子に向けられたものであろうが、藍も意欲が湧いてくるのを感じる。但し、勉強ではなく、レアチーズを作ろうという意欲だ。彼女にとって勉強は毎日の習慣であり、試験前に特別頑張るということではないのだ。

「今度はみんなで買い出し行こ!」

 「いいねえ」と言って鈴音は藍の方を見、

「じゃあさ、朝からみんなで買い出し行って昼ごはんも作っちゃおっか」

 「え…うん…」

 「マジか! 何!? スズネと藍さん天使!?」

 「その分体で払え」天使の片方がそう言い放ったが、

 「よかろう」美奈子は全く動じずに即答した。

 「わ、わたしもカラダで払うんですか…?」

 「相生ちゃんはいらね」

 「ぐはーっ、受け取り拒否! 碧ショック!」碧は両拳を口の前に持っていった。紫の真似だろうと気がついて、藍はくすりと笑った。

「で、では何で払えば…?」

 「体で払えないなら金を払ってもらおうか」

 「いやわたしはカラダでもいいんだけど…て、それ普通逆じゃない!?」

 「何が」

 「何がって、カラダとおカネ! 普通『金がないなら身体で払ってもらおうか』じゃないの!?」

 「えー。ワタシそんなシチュエーションなったことないから普通が分かんなーい」

 「くっ…こんなところでそんな正論…!」

 「フフフ」

 「仕方ない…美奈ちゃんのセクシーブロマイドを売りさばいて稼ぐか…!」

 「わたしかよ!?」

 「もう着くよ」鈴音の祖母がバカ劇場を打ち切った。

「その駐車場」と、右手前方を指差す。自動車は今、赤信号で停止したところだ。駐車場の背後、百か二百m奥には、大きな建造物が横たわっているのが見える。あれがアルウィンだろう。

 「はーい」鈴音が前に向き直ると、信号が変わり、自動車はまたゆっくりと発進し、信号を右折してすぐ左手の駐車場へと進入した。

 駐車場の奥には観光バスが一台停まっており、鈴音の祖母はそのすぐ後ろに自動車をつけた。

 「到着」

 「ばーちゃん、サンキュー」鈴音が素早くシートベルトを解除し、車外へ出る。少し遅れて、

 「ありがとうございました!」美奈子と碧もそれぞれ左右の扉から車外へ出た。藍はさらに遅れて、

 「ありがとうございました…!」座ったまま頭を下げてから碧の後を追う。その時、ちょうど後部ハッチが開く音がした。

 「はいよ。忘れ物ねえようになー」

 「はい…!」

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