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リセエンヌ  作者: 松本龍介
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試着会

試着会


 翌日。雨こそ降っていないものの、朝からぱっとしない空模様だ。

 藍は、朝食の後の時間を勉強に使い、九時五十七分に家の前の道路に出て碧を待った。過去の実績では毎回定刻二分前に碧が青井邸に到着しているのである。

 そわそわしながら右の方を見ていると、三十秒ほどで自転車に乗った碧が現れ、

 「藍ちゃん、おはよう!」遠目から大きな声で呼び掛けてきた。それだけで、分厚い雲が晴れていったような気分になる。

 「おはよう…!」藍が応えた時にはもう目の前に停止するところだった。今日も二分前の到着である。

 「今日お義父様とうちのお父さんが会うらしいね!」

 「うん…」昨夜両親から聞いて、自分を呑み込んだ渦が徐々に勢力を広げていると感じた。最初は碧と梨乃、自分の三人だったのが、今は同級生や親を巻き込みつつある。もちろん中心で渦を起こしているのは碧だ。

「お母さんも月曜にお邪魔するって…」言いながら藍は門を開け、脇に立った。

 「ね! クロが悪さしないといいけど!」碧が自転車を押して門の内側に入る。

 「この前、いい子だったよ…」藍も入り、門を閉める。碧は自転車を門の脇にとめた。

「あ、雨降るかも知れないから、自転車こっちに…」と、軒下を示す。

 「ありがと!」碧は素早く自転車を移した。

「確かにあの日はいい子だったんだけどねー。寝て起きたらもういつもの悪党に戻ってたんだよねー」

 「あ、そうなんだ…」藍は玄関の扉を開け、屋内に入った。碧もすぐ後ろをついてくる。藍の家なのだから当然の順番だが、いつもと逆であることに藍は違和感を抱いた。

 「すぐ始めるよね?」当然レアチーズ製造のことであろう。

 「うん…」頼もしい助手のお陰で自分一人で作るより短時間で終わるだろうが、その後昼食も作ることを考えれば時間にたっぷり余裕が有るとは言えない。

 「ユニフォーム持ってきたから、藍ちゃんの部屋に置いといて~」

 「あ、うん…」服を預かり、全速で自室まで往復してから碧を従えて台所へ入った。もちろん材料と道具の準備は調えてある。

 しかし二人が台所に入るとすぐ、待ってましたとばかりに居間への戸が開いて朱美が入ってきた。

 「お邪魔してます!」すぐに碧がそちらを向き、元気よく挨拶する。

 「いらっしゃい。明後日、お邪魔させて頂くわね」

 「はい! あの、うちのクロが悪さしたらすみません…しつけがなってなくて」

 「そうなの? 藍からは、いい子だったって聞いてるけど。碧ちゃん、お母さんみたいね」

 「クロに関してはそんな感じです。うちの両親が甘やかすので、どうしても」

 「そうなのね。晶さんにもクロちゃんにも会うのが楽しみだわ。じゃ、ゆっくりしていってね」

 「ありがとうございます!」

 朱美は居間に戻り、戸を閉めた。

 「うーん、やっぱりお姉さんみたい。お母さん驚くだろうなー。お義母さま何歳?」

 「四十一…」

 「え!? わたしのお母さんより年上!?」

 「うん…」クロヒデ洗濯未遂事件が昨年秋で晶が当時三十九歳と碧は言っていたから、今は四十歳ということになろう。

 「肌とかめっちゃきれい! なにかヒミツが…!」

 「特に何もしてないけど…改まった所に行く時しか化粧しないし…」

 「それだ!!」碧が左掌に右拳をぽんと置き、すぐに離して右手の人差し指で藍の胸の辺りを指した。

「藍ちゃんもメイクしないって言ってたよね!」

 「え…うん…」しようと思ったことすら無い。藍は、自分を美しく見せたいという欲求をまるで感じないのである。

 「よし! わたしも普段はすっぴんで行くぞ!」

 「え…碧ちゃん化粧してるの…?」そんな風には見えないが。

 「やー、今までしたことないんだよねー」

 「あ、そうなんだ…」藍は何だかほっとした。

 「そのうち必要になるだろうから、今度梨乃さんに教えてもらお!」

 「え…うん…」碧の誘いであるにも関わらず、全く気乗りがしない。

 「まあ梨乃さんはメイクしてもしなくても目がパッチリだけどねー」

 「うん…」同じことが碧にも当てはまると藍は思う。

 「おっと、話してる場合じゃなかったね。ゴメンゴメン」

 「え…ううん…」と言ったが、確かに時間に余裕が有る訳ではない。

 「えーと、今日のレアチーズは固めるの?」

 「あ、うん…両方作って、味見してもらうつもり…」

 「わたしの期待通りだ! ブフフフフ」

 「固める方も、コップに入れようと思うんだけど…」市販のケーキのような形態では作らない、という意味で藍はそう言った。前回は誕生祝いだったから見た目にも力を入れたが、今日は中身だけでいいだろうという判断だ。

 「いいと思います!」碧は右手を高く上げて賛同してくれた。

「ということは早速本体を製造開始ですな!?」

 「うん…よろしくお願いします…」

 「よろしくお願いします!」

 二人はそれから小一時間ほどかけてレアチーズを仕込んだ。まだ二回目で前回は二週間も前だったというのに碧は段取りを完璧に覚えており、藍は一切指示をすること無く作業を終えた。

 そして、滑らかに仕上がったレアチーズをティーカップに小分けして、後は冷蔵庫に任せるだけとなった。

 「完了だね!」

 「うん…」

 「引き続いてお昼ごはんの用意!?」

 「うん…そうだね…先にお米を…」少し早いかも知れないが、と思いつつ藍は答えた。

 「なるほど! 今日のメニューは何ですか!」

 「ハンバーグです…」二人で出来る作業が多いと判断して、決定した。

 「おお~、楽しみ~! じゃ、お米はわたしが研ぎます!」

 「お願いします…お米出すね…」

 「らじゃ!」

 藍は炊飯器から内釜を取り出し、米櫃の前に置いてレバーを押し下げた。ざーっという音を立てて米が釜の中に落ちていく。

 五合を釜に入れ、

 「お願いします…」釜を流しに置くと、

 「はい!」碧は蛇口の栓を開けて釜に水を入れ始めた。

 同時に藍は俎を取り、流しの隣に置いた。

 次に米櫃の隣に置いた玉葱を一つ取って外側の粗い皮を手で剥いでから俎上に載せ、包丁を取る。

 「ちょっと水もらうね…」そして流しの上の蛇口を自分の方に向け、

 「うん!」

 水を出して包丁を濡らし、俎に置いてから手を洗う。

 「あ…玉葱切るから目に泌みるかも…」

 「おお…背中向けちゃうけどごめんね」と碧は身体ごと斜めを向いた。玉葱は苦手らしい。

 「うん…」どれほどの効果が有るか分からないが、とりあえず換気扇を作動させる。目に泌みる成分の拡散が抑えられるとよいが。ちなみに、藍はまだ知らないことだが、この成分は硫化ジアリルという物質で、大蒜などにも含まれる。

 ここから漸く作業開始だ。

 まずは玉葱を半分に切り、片方を俎の端に置き、片方は中央に残す。転がって行かぬよう、両方とも切口は伏せておく。

 それから、中央に残した方をさらに半分にし、そこから微塵切りなのだが、藍は手先がとても不器用であるので、トントントントン、という速さで庖丁を使うことが出来ない。ストン、ストンという音が我ながら間抜けに聞こえるが、今はこれで仕方無い。今日のところは、とにかく能う限り丁寧に、且つ能う限り速く作業するのみだ。

 「お米って何回ぐらい研げばいいのかな?」藍にとっては唐突に、碧が訊いてきた。己の世界に没入しかかっていた藍は我に帰り、

 「えっと、普通は研ぎ汁が透明になるまでらしいんだけど、うちは三回…栄養が全部流れちゃうから…」

 「え!? もう4回流しちゃった! じゃあこれで終わり! これ何合?」

 「五合…」

 「はーい!」

 碧が釜に水を入れるのを横目で見てから、藍は微塵切りに戻った。

 しかしすぐに碧から、

 「『炊飯』ボタン押していいんだよね?」と声が掛かった。

 「うん…お願いします…」

 「よっし! ポチっとな!」背後で楽しげに言ってから碧が隣に戻ってきた。

 「ごめんね、わたし玉ねぎ苦手で。すぐ涙出てきちゃうの」

 「うん、大丈夫…でも私手が遅いから、もうちょっと待ってね…」

 「うん! あ、その間に何か用意するものある?」

 「あ、うん…とりあえずバターをお願いします…」

 「らじゃ! では失礼して」碧がまた離れ、冷蔵庫の扉が開く音がした。

 バターは扉の上から二段目に入れてある。目につき易い位置だから、目敏い碧なら一目で見つけるだろう。

 見込み通りすぐ扉が閉まる音がして、碧がバターを俎の横に置いた。

 「ありがとう…」

 「ううん! 玉ねぎ、肉と混ぜるの?」

 「うん、軽く炒めてから…」

 「あ、なるほど! それで肉はまだ出さないんだね!」

 「うん…あと、パン粉と玉子…」

 「わ、意外と色々入ってた!」

 「肉だけだとバラけやすいから…」

 「へえー! あ、フライパン出した方がいいよね?」

 「うん…お願いします…コンロの下です…」

 「はーい!」

 碧がフライパンを取り出している間にちょうど玉葱を切り終えたので、一旦庖丁を水で濯いでからバターを薄く切る。玉葱を炒めるのに使うのだ。

 そして、藍がバターを切っている間に碧がフライパンを焜炉の上に置いた。

 二人の動きが見事に噛み合ったことが、何とも言えず快い。ちらりと碧の顔を見てみると、碧も楽しそうだ。もしかしたら自分と同じ感覚を味わっているのではないか。そう思うと藍は嬉しくなった。

 「ありがとう…」

 「火つける?」

 「うん…お願いします…」藍が言い終わらぬうちに碧は焜炉に火を入れた。

 フライパンが温まるのを待つ僅かな間に、藍は抽斗から木篦を取り出す。そして、バターを庖丁でフライパンに落とした。みるみるうちにバターが融けていく。

 フライパンを回すように傾けてバターをまんべんなく馴染ませてから、切った玉葱を投入し、木篦で混ぜながら一分ほど強火で炒める。芯が少し残る程度だ。

 「お肉と玉子出す?」藍が火を止めたのを見て碧が訊く。

 「お願いします…」答えて藍は流しの上の棚からパン粉を、流しの下からサラダ油とボウルを取り出した。

 同時進行で碧は冷蔵庫の中から挽き肉と玉子を取り出す。肉は、豚と牛の合挽きである。世の中では豚より牛の方が格上に見られている感が強いが、藍はこれと意見を異にしている。焼肉以外の調理法では豚の方が美味しいような気がするし、ハンバーグには合挽きが一番だと思う。今日の昼食の食材は母親から全権委任されて昨夜買い出したもので、全面的に自分の好みを反映させた。

 「逢い引きってロマンチックな呼び方だねー」背後で碧が意外なことを言った。

 「え…?」合挽きのどこにそのような要素が有るのか藍には分からない。

 「『あいびき』って二人でこっそり会う逢い引きじゃないの?」俎の横に肉と玉子を置く。

 「え…多分、合わせて挽いてるから合挽きなんじゃないかな…」

 「なるほどそうだったのね!? ひらがなで書いてあるから自動変換しちゃった」

 「あ、なるほど…」藍は、炒めた玉葱をボウルに移し替えた。それを見て、

 「入れますか!?」碧が肉の包みに手を掛ける。

 「うん…全部お願いします…」碧が手にしている包みの内容量は概ね六百グラム。碧と自分に加え、両親の四人分である。

 「はーい!」碧が包みを開いて肉をボウルに投入する傍らで、藍は玉子を割り、卵黄を取り出す。卵黄と卵白の分け方と言うと、玉子の殻を使って交互に移し替えながら卵白を落としていくというのが一般的であろうが、不器用な藍はもっと簡単な方法を採用している。玉子の中身を一度容器に入れ、大匙で黄身を掬う、これだけである。しかしそれでも初めての時は失敗し、黄身を割ってしまった。

「パン粉も?」碧はいつの間にかパン粉袋の口を開いている。

 「うん…二分の一カップお願いします…」指示して藍は卵黄を肉の上に落とし、二つ目の玉子に取り掛かった。

 「はーい!」すかさず目の前に掛かっている計量カップを取り、パン粉を注ぐ。碧のきびきびとした動作は見ていて気持ちいいが、見惚れている場合ではない。横目で見るに止めて、藍は二つ目の卵黄を取り出し、ボウルに入れた。

「パン粉も入れる?」

 「あ、えっと、一旦、粗く混ぜてから…」同時に入れても味や食感に違いは出ないはずだが、何となくパン粉は後から混ぜたい。ここは単なる藍の好みである。

 「了解。いよいよこねこねターイムですな!」碧は藍の右側、流しの前に移動してハンドソープを左掌に出し、両手を揉み合わせた。

 「うん…」

 「サラダ油は入れないの?」水で手を濯ぎながら碧が訊いてくる。

 「うん…混ぜた後分ける時手に付きにくいように塗るの…」

 「おお、なるほど!」

 「あ、そのタオル手拭きに使って下さい…」流しの下の扉に掛けてあるタオルだ。

 「はーい!」碧はさっと手を拭いて、

「こねていい?」ボウルの上にかざした両手を開閉する。

 「うん…お願いします…」うん、の時点で碧は具材を掴み、こね始めた。

 「とにかく混ぜればいいの?」

 「うん…ざっと混ぜたらパン粉入れるね…」

 「らじゃ!」一緒にこねるつもりでいたが、碧はこの作業を一任されたつもりのようだ。そのやる気に水を注したくはない。

 藍はフライパンを流しに置き、水を注いだ。玉葱を炒めた時の焦げ付きを落とすためだ。調理面に軽くたわしを走らせ、水で流す。青井家のフライパンは弗素加工などの表面処理がされたものではないため、洗剤を使って洗うことはしない。油分を落とし過ぎると、その次に使う時確実に焦げ付くのだ。

 フライパンを焜炉の上に置きながらボウルの中身を覗いてみると、かなり均一に混ざったようだ。

 「パン粉入れるね…」

 「はーい!」碧は手をボウルから引き上げた。

 ボウルの上で軽量カップを傾けると、ざざっという音と共にパン粉が落ちた。藍はこの音が好きで、いつもわざと少し時間をかけてパン粉を落とす。

 「また、お願いします…」

 「らじゃ!」

 「耳たぶの固さくらいになるまでこねます…」

 「はーい! こねこね~、こねこね~、混ぜてーこねるとー、おいしくなるよー」レアチーズ製造時と同じような節をつけて碧が歌いだす。曲も歌詞も全く素晴らしくないし、本人の申告通りお世辞にも歌が上手いとは言えないが、これを聴くのは藍にとってとても楽しい。

 二分ほど歌って碧は手を止め、

 「これぐらいでどうかな?」と訊いてきた。随分早いなと思いながら触ってみると、想像よりもかなり粘りが有ったが、まだ少しもの足りない。

 「あともう少しお願いします…」

 「らじゃ!」碧はすぐ手を動かし始め、三十秒ほどでまた、

「どうかな?」手を止めた。

 触ってみると、やはりまだ足りない。

 「もう少し…」

 「はい!」さらに三十秒。

「どうでしょう?」

 「うん…」

 「よっし! 次は? 分ける?」

 「うん…」ここも任せて、自分が入るのはこの次の作業からにしよう。しかしどう分けるか指示はせねばならない。

「ちょっと待ってね…」藍は卵黄を分ける時に使った大匙を取り、軽く水で濯いで、

「手出して下さい…」

 「うん」何をするのか碧は分かっていないらしく、両手を出すが、作業は片手ずつしか出来ない。藍は碧の右手を取った。

 掌や指に付着した挽き肉を、匙でこそぎ取るのだ。くすぐったいのだろう、碧が微妙な表情になる。五回匙を走らせて左手に移り、こちらも五回走らせて終了。

 「油つけるね…」

 「うん!」碧は両掌を上に向けたままだ。

 容器を慎重に傾けて三滴左掌に落とす。碧は手を擦り合わせ、油を両手に行き渡らせた。その間に、藍は俎を水で濯ぐ。洗うのが目的ではなく、濡らすためである。

  「オッケーです!」

 「うん…まず半分ずつに分けます…」

 「うん」碧はボウルの中の塊を毟るようにして二つに分けた。

 「あ、俎の上に置いて下さい…」

 「はい!」今度は両手で掬うようにして、片方ずつボウルの外に出す。

「大体半分になってるよね?」と言って形を整える。大きさの比較をし易いようにという配慮だろう。

 「うん…」適当に分けたように思えたが、比較してみると正確に二等分されているように見える。

「両方とも二:一に分けて下さい…」

 「はーい! こんなもんかな?」片方の塊を碧はまた分けた。やはりぞんざいに扱っているように見える。

 しかし碧が四角く形を作ると、またしても正確な比で分けられているようだ。

 「うん…」やはり碧に任せて正解だった。混ぜるから分けるまでの工程を、自分の半分くらいの時間で済ませてしまった。

 「これってお義父様お義母様とわたし達の分?」藍にとっては意外なことを訊いてきた。が、考えてみれば一度も説明していない。

 「うん…」

 「じゃあね、わたし達の分このままでもいい?」まだ手を着けていない塊を碧は指している。

 「え…? うん…」フライパンの大きさにはまだまだ余裕がある。六百g全てを入れてもまだ隙間は有るだろう。

 「やった! こんな大きいのあんまり見ないもんね!」

 「あ…うん…そうだね…」実際には三百gくらいのハンバーグを出している飲食店は数多く在るが、二人ともそれを知らないのである。

 「大っきいプリンとかもアコガレるー!」

 「市販の粉使えば作るのは簡単だよ…固まるのに時間かかるだけ…」丼一杯分を冷蔵庫で固め、冷やすのに、軽く二、三時間かかる。

 「そうなの!? 今度やってみよ!?」

 「うん…」

 「やった!」碧はぴょんと跳び上がった。

 「あ…、でも、作った入れ物からお皿に移すのは出来ないかも…」

 「あー、空気入れないといけないもんね」容器とプリンとの間に、である。

 「うん…」

 「それでも楽しそう! プリン(どん)!」

 「え…」その表現は如何なものか。白米の上にプリンが載っているかのようである。碧も自分で変だと思ったのだろう、

 「あ、逆だった。(どんぶり)プリン!」訂正した。

 「あ、うん…」それならば言葉の響きもまだおかしくない。

 「あ、ごめんごめん、脱線脱線。時間ないのに」

 「ううん…碧ちゃんがやってくれたからすごく速く進んでるよ…」

 「ホント!?」

 「うん…ごはんまだ炊けてないし…」

 「あ、そうだね。じゃ炊飯器待ちですか!?」

 「ううん…タネの空気を抜いて形を整えます…」

 「どうやって抜くの?」

 「え…と」藍は一番小さな塊を俎から取り、

「軽く投げて取るの…」胸の高さから二十cmほど投げ上げ、落ちてきたところを両手で受けた。

 「へー! やってみるね!」碧は一番大きな塊を手に取り、投げ始めた。

 「うん…」藍も同じ動作を繰り返す。

 「これって投げるの上じゃなくてもいいんだよね?」二回投げただけで碧が訊いてきた。この動作では効率が悪いと思ったのだろう。

 「うん…」答えた時、炊飯器が炊き上がりの電子音を鳴らした。

 「お、ナイスタイミング!」

 「うん…」

 碧は右手に持った塊を左の方に投げて左手で取り、すぐ右側へ投げ返して右手で取り、というのを繰り返した。藍が一度投げて受け取る間に碧は二往復くらいするので、明らかにこちらの方が効率が良い。元々藍が教わった方法もこれなのであるが、片手では落としてしまうような気がして、藍にはこれが出来ないのである。

 「こんなもんでいいかな?」十往復ほどさせた頃、碧が訊いてきた。

 「うん…」藍の返事を聞くと碧はすぐ手を止め、投げていた塊を俎に置き、

 「じゃ、もう一個~」次を取って投げ始めた。

 「ありがとう…」藍も自分の投げていた塊を俎の端に置き、碧の置いた塊を上から押さえる。長円型に整えながら厚さ十五mmほどまで潰すと、如何にもハンバーグという見た目になった。この工程には不安が無いので、藍の手も滑らかに動く。

 碧が二つ目を俎に置くのと相前後して藍も形を整え終わり、木篦を手に取った。木篦で外周の亀裂を消すのである。

 「念入りだね!」

 「うん…大きな亀裂があると焼いた時に汁が洩れちゃうから…」

 「おお! それはもったいない!」

 「うん…」

 最後に、中央部を少しだけ窪ませる。

 「藍ちゃん、それは?」

 「火が均一に通るように、かな…前に、窪みつけなかったら真ん中から割れちゃったから…」

 「うわ、もったいない!!」碧の脳内では、亀裂から(こぼ)れる肉汁が映像化されているのであろう。

 「うん…」

 「くぼみ大事!」

 「うん…」

 一つ目を終えた藍は、小さい方の塊に手を着けた。両親の分を先に焼いて居間へ持っていき、自分達は台所で食べるという算段だ。

 先程と同じ工程を繰り返す藍を、碧は黙って見守った。そして外周の亀裂を消し終わると、

 「わたしもやってみていい?」と訊いてきた。

 「うん…」碧は器用な上に観察眼にも優れている。初めてでも自分より上手くやるだろう。

 「こねこね~、こねこね~、叩いてー延ばすよー、こねこね~こねこね~、形をー整えー」また即席の適当な、作業の内容を実況する歌を口ずさむ。歌はともかく、手つきは藍の見込んだ通りだ。

「ペタペタ~、ペタペタ~、周りをー固めてー、肉汁ー守るよー、ペタペタ~、ペタペタ~、くぼみをーつけたらー後はー焼くだけー」

「かなっ!?」と言って庖丁を俎の上に置いた。

 「うん…」藍は手を洗い、フライパンを再び焜炉の上に置いて火を点ける。碧が歌っている間に温めておけば時間短縮になったのだが、その碧を見ていたかったのだから仕方無い。碧のお陰で多少時間に余裕も出来た。

 大匙一杯のサラダ油を調理面に垂らし、フライパンを回す。油が恰も水であるかのような速さで調理面を滑っていくのを確認して、藍は抽斗からフライ返しを取り出し、これを使って二番目に大きなタネを調理面に載せた。窪みをつけた方が上だ。じゅ~っという音が心地好いが、聞き入っている場合ではない。自分にとっての最高速で小さなタネもフライパンに載せ、左腕に装着した時計の秒針を見る。焦げ目がつくまで強火で熱するのだが、その目安が一分なのだ。

 時計の針をじっと見詰め、五十五秒が過ぎた時、藍は視線をフライパンの上に移してフライ返しを大きい方のタネの下に差し入れた。僅かに抵抗が有ったが易々とフライ返しは入り、焦げ具合を確認することが出来た。全体に焦げ目がついているが、焦げ具合は少しもの足りない。藍はあと十五秒と決め、フライ返しを抜いて再び時計の秒針を見た。

 十三秒経ったところで再びフライ返しを差し入れ、今度は確認せずに裏返した。すぐ小さな方も引っくり返す。実は事前に一番心配していたのはこの工程だったのであるが、焦げ目のことに集中した結果、気付いたらもう裏返し終わっていた。

 ほぼ自動的に身体が動いて火を中火に落とし、流しの下から蓋を取り出してフライパンに乗せる。取り敢えずここから五分は待つだけだ、と考えながら腕時計を見る。

 「こっち側焼いたらできあがり?」碧に訊かれて藍は我に返った。

 「うん…五、六分かな…」

 「そっか。藍ちゃん、スゴいよ! 動きがプロっぽい!」

 「え…そんなこと…」

 「あるあるー! フライパンに乗せてから引っくり返すまで、すごい集中してて声かけられなかったし! 鬼気迫るってやつ?」

 「え…」確かに、今は碧が隣に居ることすら忘れるほど集中していたが、自分が鬼気を発するとは思えない。

 「いやー、毎日あのクオリティでお弁当作ってきてくれるんだもんねー」またも過大評価されているようだが、それを正すことが不可能なのはもう分かっている。

「これも絶対おいしいよ! 楽しみ~!」

 「え…と、失敗しないように頑張るね…」ハンバーグは失敗しにくい料理だが、裏返す時は注意せねばならない。特にフライ返しからはみ出る大きさになると、亀裂の入る危険が倍増する。自分たちの分を焼く際はより慎重を期さねば、と藍は思った。

 「お願いします! あ! でもわたしもひっくり返してみたい!」

 「あ、うん…私達の分焼く時にお願いします…」渡りに舟である。例え初めてであったとしても、自分より碧の方が断然信頼出来る。

 「やった!」

 藍は時計を見て経過時間を確認した。一息つくのはいいが油断は禁物、まだ両親の分も完成してはいない。それに、ハンバーグ以外にも準備するものが有った。右奥の焜炉に朝から乗りっぱなしの鍋に入っている味噌汁だ。

 焜炉に火を入れ、鍋の蓋を取る。数秒で、鍋の中身が対流を起こすのが看て取れるようになった。

 「お味噌汁もあるの?」

 「うん…ハンバーグには合わないかな…?」

 「んーん、いいと思います!」

 今ならまだ目を離しても大丈夫。藍は冷蔵庫から野沢菜を取り出した。最近は何かと楽が出来るようになっていて、この野沢菜も切られた状態で袋に詰められている。ちなみにツルヤの自社商品で、わさび風味と銘打たれたものだ。

 野沢菜を載せる小皿も必要だ。藍は野沢菜の袋を俎の横に置き、食器棚の方を向こうとした。その時、

 「器出すよ! ここ?」碧が先回りして食器棚を指差したので、

 「うん…ありがとう…上から三段目に小皿が入ってるから…」そちらは任せて味噌汁の様子を見守ることにした。

 「はーい! あ、ハンバーグ載せるお皿も出すよね?」

 「うん…適当なの取って下さい…」肝心なところを忘れていた。

 「あとお茶碗とかお箸とかも出していい?」

 「うん…ありがとう…あ、棚の下の方にお盆もあるから…」

 「はーい!」食器棚の扉を開く音、盆や皿を取り出して重ねる音がし、背後の食卓に置かれたようだった。

 そして皿と小皿が俎の隣に置かれた。すぐに碧は食器棚の前に戻り、

 「お茶碗とお箸、これでいいのかな?」と訊いてきた。藍は振り向いてそれを見、

 「うん…」頷いた。茶碗は碧が手に持ち、箸は盆の上に置かれている。黒と赤の夫婦茶碗に同じ色の夫婦箸で、確かに両親のものだ。藍が物心ついた時にはもうこの家に在った。

 「かっこいいね、このお茶碗」そう言って炊飯器の前に茶碗を置く。

 「え、うん…」藍もそう思っている。この茶碗に青色のものが有るなら自分も欲しい。

 「何か有名な焼き物っぽい!」

 「津軽焼だって…」

 「津軽焼! 初めて聞いたー! 津軽って青森だっけ」

 「うん…」

 「もしかしてお義父様焼き物集めるのが趣味とか!?」

 「ううん…それも全然高くない物なんだって…でもお土産屋に置いてあったのを一目で気に入って買ったって言ってた…」

 「へー! かっこよくて安いなら言うことないね!」

 「うん……あ、碧ちゃん、玉子焼き作ったら食べる…?」

 「食べる食べる! 実は期待してました!」と腕を真っ直ぐ伸ばして右手を挙げる。

 「ありがとう…」碧がそう言ってくれて、藍はとても嬉しい。今や、毎日弁当を作っているのは碧のためで、父親と自分の分はついでと言っても過言ではない。

 藍は流しの下から四角いフライパンを取り出し、手前右側の焜炉に置いた。

 「時間大丈夫?」碧の問いに藍は腕時計を見て、

 「うん…とりあえずあと一分くらい…」

 「そっか。けっこう長いね、五分」

 「うん…」碧は空腹になってきたのだろう、と藍は思った。もうすぐ正午であるからそれもおかしくはない。

 「あ、お味噌汁沸いてきたね」

 「あ、うん…」藍は火を瀞火に落とし、また時計を見てじっと待った。碧も無言で藍を見守る。

 焼き始めから五分が経過したのを確認して、藍はフライパンの蓋を取った。ハンバーグの表面を指で押さえてみると、微妙に弾力が足りない気がする。まだ何度も作った訳ではないので、全く自信は無いが。

 藍は指を離すとそっと蓋を閉じた。

 「まだだった?」

 「うん…あと一分待ってみるね…」

 「うん。今のって、固さで焼け具合が分かるの? ぷにぷにしてたよね?」

 「うん…焼けてくると弾力が強くなるの…」

 「あ! 確かに! さっきこねてた時は全然弾力なかったけど、ハンバーグってけっこうぷにぷにだもんね!」

 「うん…」

 また暫く無言の時間を過ごし、藍は再び弾力を確認した。今度は良さそうだ。藍は火を止めた。

 「お! 完成!?」

 「うん…あの、お皿に載せてもらってもいい…?」

 「らじゃ!」待ってましたとばかりに碧が敬礼した。

 その間に藍は味噌汁用の椀を出し、鍋の火を止めた。

 「味噌汁もお願いします…おたまは抽斗に入ってます…」

 「はーい!」

 そちらは碧に任せて自分は茶碗に飯を盛る。二人分を盆に置いた時、ちょうど碧も一杯目の味噌汁を俎の横に置いた。ハンバーグは既に盆の中央に座を占めている。

 藍が味噌汁を盆に運ぶ間に碧が二杯目を入れ、自分で盆へと運んだ。運ぶと言っても振り向いて一歩だが。

 藍が父親用の盆を持ち上げると、碧は手を空けたまま前に立って居間への扉へ向かい、引き戸を右へ滑らせた。

 「ありがとう…」藍の礼に笑顔で軽く頷いて、碧は道を空けた。

 藍は居間に入り、無言で父親の前に盆を置く。父親も無言でごく小さく頷いた。

 台所に戻ると、母親用の盆を持った碧が既に扉の脇で待機しており、藍に盆を差し出してきた。

 藍は盆を受け取って向きを変え、母親の前に盆を置いた。ちなみに、普段は母親が扉に背を向けた位置に座り、その左に藍、さらにその左に父親という配席で固定されているのだが、今日は藍の定位置に父親が、父親の定位置に母親が座っている。料理を運び易いようにとの配慮だろう、と藍は思った。

 母親も無言で小さく頷き、藍は台所に戻って扉を閉めた。

 「次はわたし達の分だね!」

 「うん…」

 二人は焜炉の前に戻った。すぐに藍はフライパンを取り、洗う。

 「あ、お茶、用意しなくてもよかったの?」碧が訊いてきた。

 「うん…向こうに沸騰ポットとお茶があるから…」青井家は三人とも茶道楽なので、居間には茶と道具一式が常備されており、朝食から既に何杯かが消費されている。

 「あ、なるほど」

 藍はフライパンを焜炉に戻し、点火した。水滴が蒸発してゆくのを見届けて、サラダ油を垂らし、フライパンを回して油の走りを確認する。碧がフライ返しを持っているのを見て、

 「お願いします…」ここも任せることにした。自分は時計係だ。

 「はい!」碧はタネと俎の間にフライ返しを挿し入れた。そしてフライ返しでタネを持ち上げて、と藍は予想したのだが、碧は左手で俎を持ち上げると、フライパンに向かって傾けながらフライ返しでタネを引き落とした。それからフライ返しを傾けてタネをフライパンに落とす。調理面中央でじゅーっと音があがった。

 なるほど、と感心しながら藍は時計を見た。こちらの方がタネに亀裂を入れてしまう可能性はより低いだろう。

「ふー、緊張したー」碧の言葉に藍は軽く驚いた。碧でもこういう作業で緊張するのか。尤も、口調は弛緩していたが。

「でもこの次が山場! 一分だったよね」

 「うん…」

 碧はフライ返しを握ったまま、じっとフライパンの上を見つめている。藍はその様子を見ていたかったが、時間を見るという重要な役目が有るため、あまり堪能出来なかった。

 「あと十秒です…」

 「はーい」

 十秒後、碧はフライ返しをタネの下に挿し入れ、少し持ち上げた。

「どうかな?」

 「うん…焼け具合は大丈夫…」

 「はい! じゃあひっくり返すね」

 「お願いします…」

 碧は少しずつフライ返しを前進させてタネを載せると、

 「ちょわっ!」ふざけているのではないかという気合と共にタネを裏返した。

「割れてないかな?」と言われたので一応覗き込んでみるが、周囲に亀裂は見当たらない。

 「うん…大丈夫…」藍は時計を確認した。

 「よしっ!」碧は蓋をして、「次はもっと楽だもんね」

 「うん…」

 「あとは待つだけ! 6分だっけ?」

 「うん…五分半で一度見てみるね…」

 「うん! じゃその間にほかの準備~」

 「うん…」

 「あ! わたしあれ使っていい!? ドラ茶碗!」ドラえもんの絵が入った樹脂製茶碗のことであろう。先々週レアチーズを製造した時に発掘した物だ。

 「え…うん…」

 「やった!」碧が嬉しそうなのを見ていると、よくある子供用の樹脂茶碗が有り難い品に思えてきた。

 「藍ちゃんのは?」碧が食器棚の方を向いて訊く。

 「これ…」普段から使っている茶碗を指差した。青っぽい釉薬で木と鳥を簡単に描いただけの、何の変哲もない茶碗だが、藍はけっこう気に入っている。薄くて軽いのもいい。

 「おー、やっぱり青!」その茶碗を取り、ドラえもん茶碗も取って炊飯器の横に置く。

 「うん…」自分が選んで買ってきた訳ではないが。

 「湯呑は?」コップと言わないところが碧らしい。

 「それ…」五口同じ物を重ねてあるのを指差す。茶碗と同じ色の釉薬で幾何学模様が描かれたもので、五客組として売られていた。

 「湯呑は専用じゃないの?」

 「うん…」日本人としては少数派だろうか。

 「わたしトムとジェリー使いたい!」これも先々週発掘した子供用の樹脂製品である。

 「うん…」

 「お箸は?」

 「これ…」食器棚の一番手前側に置かれた箸立てから、藍は箸を抜いた。藍色に塗られた丸箸で、標準的なものより心持ち細い。

「碧ちゃんはこの中から好きなの取って…」客用に、五膳の箸が待機している。水色の物があれば良かったのだが、残念ながら青井家には無い。

 「うん! じゃあこれ!」碧は朱塗りの箸を抜いた。こちらは女性用として標準的な大きさのものだ。

 藍は箸を受け取ると、箸置きも出して食卓に置いた。どの席に座りたいと碧が言うか分からないので、とりあえず食器棚の近くに仮置きだ。

 続いて玉子焼きの準備に取りかかる。直径十五㎝、深さ五㎝ほどの深皿を取った時、

「箸立てかっこいい!」意外な感想が飛び出した。

 「そう…?」箸立てとして使われているのは肉厚の木製ビールジョッキだ。両親ともビールをほとんど飲まないから、戴き物だろう。ちなみに、中元や歳暮でビールをもらうことが有ると、それはたまにやって来る叔父に振る舞われる。

 「うん! ファンタジーに出てきそう!」

 「そうなんだ…」藍は玉子を三つ取り出した。

 「うん! 指輪物語とか!」

 「指輪物語…」読んではいないが、その題名は見たことが有る。

 「映画にもなってるよ! こんなのでビールみたいなの飲んでた!」

 「へえ…」子供の頃から箸立てとして使われているのを見続けている藍にとっては、これで飲み物を飲むということの方が新鮮だ。

 「お義父様お酒飲むの?」

 「え…? うん…」深皿に卵を割る。

 「そっかー。うちもビールはよく飲んでるよ。お母さんと一緒に」

 「え…!? そうなの…?」藍は驚いた。朱美が酒を飲むところを見たことが無いので、女は飲酒しないものだと思っていたのだ。

 「うん。お母さんの方がお酒強いし」

 「そうなんだ…」お酒強い、の意味が今一つよく分からないが。

 「お義母様お酒飲まないの?」

 「うん…いつもお茶…」深皿の中で玉子を溶く。この作業は慣れたもので、考えなくても身体が動く。

 「藍ちゃんもお茶好きって言ってたよね?」

 「うん…お茶はだいたい何でも好き…」

 「お茶の種類ってたくさんあるの?」

 「多分…私もよく知らなくて…煎茶と抹茶と焙じ茶があるくらいしか…」

 「茶道で飲むのは抹茶?」

 「うん…多分…」

 「煎茶道とか焙じ茶道はないのかな?」

 「煎茶道はあるよ…」

 「あるんだ!」

 「うん…お城の庭園で振る舞ってるの見たことあるよ…」醤油と味醂を流しの下から出し、深皿に入れる。

 「え!? 松本城で!? やっぱりお茶碗回したりするの?」

 「ううん…飲む人は普通に飲むだけ…お茶淹れる人は急須回してたけど…」次は日本酒だ。藍は米櫃の横から一升瓶を取った。非力な藍にとってはかなり重い。

 「え!? お酒入れるの!?」碧が驚いた声を上げた。

 「うん…試してみたら、よかったから…」銘柄は、父親がその時飲んでいるものになるのだが、今は(くめ)()(ろう)純米である。但し、酒の銘柄があまり味に影響しないことは分かってきている。

 「おお~!? それがあの味のヒミツかー!」

 「え…うん…そうなのかな…」藍としては秘密でも何でもないのだが、母親以外に話したことは無いから、秘密ということになるのだろうか。

 「えーと、それで…、え!? 急須回すの!?」碧が目を輝かせて話を元に戻した。大道芸のようなのを想像しているに違い無い、と藍は察し、誤解を解くべく説明を試みる。

 「え…と、回すと言うか、くゆらせるの…」

 「くゆらせる……」碧の表情は曇っている。どうやらこの単語は通じなかったらしい。ならば実演してみせよう。

 「え…と、こんな風に…」藍は玉子の入った深皿の縁を両手で持ち、傾けてゆっくりと回した。倒れる少し前のコマのような動きだ。それをごくゆっくり。

 「おお~、それ『くゆらせる』って言うんだ!」理解してもらえたようだ。

 「うん…」

 「どういう意味があるんだろ!?」

 「お茶がおいしくなるのかな…儀式みたいな動作じゃなかったから…」

 「よし! 今度梨乃さんに聞いてみよ!」

 「うん…」確かに、梨乃なら知っていそうだ。

 「藍ちゃんも飲んだの?」

 「え…?」

 「煎茶道!」

 「あ、うん…」深皿の中身を混ぜる。レアチーズと違い、均質にし過ぎない方が美味しいと藍は思っている。

 「おいしかった!?」

 「うん…」

 「じゃ、やっぱりくゆらせるとおいしくなるんじゃない!?」

 「あ、うん…そうだね…」

 「やってみよ!」

 「うん…」

 「おっと! 時間大丈夫!?」碧の言葉に、手を止めて時計を見る。

 「あ…うん…今四分…」

 「そっか。煎茶道の人も着物だった?」

 「うん…」

 「男の人?」

 「ううん…二人いて、二人とも女の人だったよ…」

 「おお~。藍ちゃんやったら似合いそう!」

 「え…そうかな…」和服を着たことが無いので、どんな風なのか想像がつかない。が、煎茶道の所作や服装には派手派手しいところや勿体ぶったところが無かったので、藍は好感を抱いた。それに、難しい動きも無かったから、不器用な自分でも何とか出来そうな気がする。

 「うん! 藍ちゃん着物ある?」

 「え…!? ううん…」まさか今から着せようというのであろうか。いや、碧なら有り得る。

 「残念! 『若女将藍ちゃんの煎茶道でおもてなし』見たかったなあ!」そう言ってくれるのは嬉しいが、やっぱり恥ずかしいし、そもそも旨い茶を淹れる自信が無い。

 「着方も分からないよ…」

 「え? 帯ぐるぐる巻くだけじゃないの?」

 「え…と、そうだけど、多分形を整えるのが難しいんじゃないかな…着付け教室があるくらいだから…」

 「そっかー。『よいではないか』の逆をやるだけと思ってたー」藍には『よいではないか』が何を指しているのかがよく分からないが。

 「それに、帯の結び方も分からないし…」

 「あ! 確かに! どうやってあんなに四角く結ぶんだろ!? …あ! それ教えてるんだ、着付け教室!」

 「うん…多分…」

 「でも昔の人はみんなやってたんだよね?」

 「うん…」

 「すごいね!」

 「うん…」藍は時計を見た。

「そろそろだね…」

 「おお! じゃ、先生お願いします!」碧が蓋を取った。

 「はい…!」先生はやめてほしいが、今はそれどころではない。

 藍はハンバーグの表面を指で押さえた。僅かにもの足りない。

 「どう?」

 「まだ少し…」

 「うん…!」碧は蓋を戻す。

 藍はあと三十秒と決め、秒針を見つめた。碧はフライパンの上を見つめている。そのフライパンは、まだ僅かにじゅー、という音を立て続けている。

 息詰まる時間の後、

 「お願いします…」藍が言うと、

 「はい!」碧は素早く蓋を上げた。

 しかし触れた指先に伝わる弾力はまだほんの少しだけもの足りない。

 「もう少し…」

 「はい! やっぱり大きいから時間かかるのかな?」

 「うん…そうかも…」先程と同程度の厚さだから同じ時間かと思っていたのだが。

 しかしもうすぐなのは間違い無い。藍は隣の焜炉に角フライパンを置き、火を入れた。本当は出来上がりが同時になるように並行して進められれば良かったのだが、何れか或いは両方とも失敗しそうな気がして挑戦に踏み切れなかった。

 そこから三十秒待ち、

 「お願いします…」

 「はい!」

 これでよしと思える弾力になっていたので、藍はすぐ火を止めた。

 「お願いします…」

 「らじゃ!」

 藍は、フライ返しを手にした碧に場所を譲り、皿を焜炉の傍に寄せると、四角フライパンに油を垂らした。

 碧は慎重にフライ返しをハンバーグの下に挿し入れる。少し焦げ付いているらしく、二度、勢いをつけて入れた。それから左手で皿を取り、フライパンに近づけると、フライ返しでそっとハンバーグを持ち上げ、皿に移し替えた。

 油が行き渡ったので溶き玉子を投入しようとした時、

 「あ、フライ返し使うよね!?」碧が慌てた顔で言った。

 「あ…! うん…」忘れていた。今、ハンバーグに使っていたのだった。

「それと、フライパンに水張って下さい…」

 「うん」

 碧は丸フライパンに水を入れて焜炉の上に戻し、ついでにフライ返しをざっと水洗いした。藍はその間に味噌汁の鍋を隣に移す。自分が玉子焼きを作っている間に碧に味噌汁を準備してもらおうと思っているのだが、今の位置では碧が取り辛いし火が近くて危険だ。

 それから、藍は改めて深皿の中身を角フライパンに流した。またじゅーっという音が上がる。

 すかさず碧がフライ返しを差し出す。藍が取り易いように、柄の中央部をつまみ、握りを藍の方に向けている。

 藍はフライ返しを受け取り、巻きの工程に入った。この工程にも不安は無い。初めて作ってからかなり長い期間、焦がしてしまうことが多かったが、高校生になってから失敗は一度も無い。

 碧が傍を離れた。皿を食卓に置く音、続いて炊飯器が開く音。飯を盛るのであろう。一度コトリと音がして、暫くすると、

 「ごはん、これくらいでいい?」と問いかけられた。振り返ると、碧が差し出した茶碗には、摺り切り一杯くらいの飯が盛られている。

 「うん…ありがとう…!」

 「ううん! 箸置きかわいいね!」黒猫と白猫を象った箸置きで、恐らく一対の物であろう。

 「え…うん…おじさんが買ってきてくれたの…」

 「へー! おじさんいい趣味だね! わたし黒猫の方使っていい!?」

 「うん…」そう言うと思っていた。実は普段は藍が使っているのであるが、これを機に黒猫は碧用にするのもいいだろう。

 背後でカチャカチャと音がする。箸や茶碗を配置しているのであろう。ということは、配席は決まったということだ。

 音が収まると、椀を手に碧が隣に戻ってきた。玉子の方はあと二巻き程で出来上がる。

 「味噌汁、もう一回あたためた方がいいよね?」

 「うん…」鍋の中身は少なくなっているから、もうぬるくなっているだろう。

 碧は焜炉に点火したが、すぐ、

 「火どれぐらいにすればいいかな?」と訊いてきた。

 「弱火でお願いします…」それでもすぐ熱くなるはずだ。

 「はーい」

 藍が残りの一巻き分をフライパンに流し込んだ時、

 「よし、これくらいかな」碧が火を止め、椀へ移し始めた。すぐ、

「わ、ぴったり二人分!」

 「うん…」量って作ったのでそうなるはずだ。

 碧は椀も食卓へ運び、

 「藍ちゃん、椅子動かしていーい?」予想外の質問を打ち出してきた。

 「え…うん…」ちょうど最後の一巻きで、振り返れない。

 椅子の動く音を背後に聞きながら、藍は火を止めて、俎に玉子焼きを載せ庖丁を入れた。

 そして、細長い角皿を取ろうと振り向くと、食卓の準備がきれいに整えられているのが見えた。碧は食卓の長辺の端、焜炉のすぐ前に座り、藍の席は短辺の中央辺り、炊飯器の前に用意されている。

 「もう少し待ってね…」急いで皿を取り出しながら言うと、

 「うん!」元気のいい返事が返ってきた。

 全速力で玉子焼きを皿に載せ、食卓へ運ぶ。急いでも一秒か二秒しか変わらないのだが、そこは気持ちの問題だ。

 まだ茶を淹れていないことに気づいてはいるが、まずは碧に食べ始めてもらおう。皿を食卓に置き、椅子に腰掛けて、

 「お待たせしました…」と言うと、

 「ううん! じゃ、いただきます!」碧は手を合わせた。

 「頂きます…!」

 碧はまずハンバーグに箸をつける。箸で裂くと、肉汁が流れ出した。

 「おお! おいしそー!」端の一欠けを口に運ぶ。

「予想以上! 藍ちゃんも食べて食べて!」と、自分も二口目を切り取る。

 「え…うん…」急かされて、藍は反対側を切って口に入れた。確かに美味しい。いつもよりよく出来ているような気がする。碧の採点がいつも大甘なので一抹の不安が残っていたのだが、これならば及第点をかなり越えている。

「いつもより美味しい…」

 「え!? ホント!?」

 「うん…多分、よくこねられて、空気もよく抜けてたんだと思う…」

 「ホント!? やった!」左手で拳を作りつつ、右手で玉子焼きを取る。

「玉子もおいしいー! 作りたてとお弁当とで、全く別物だね!」

 「あ、うん…かなり違うね…」

 「ワッフルと同じ!」

 「うん…」

 「やっばい! これごはん止まらない!」碧の言葉に偽りは無く、ハンバーグ、玉子焼きと共に飯もパクパクと食べている。見ていて気持ちいい食べっぷりだ。しかも、自分の作った料理なのである。こんなに喜んでくれて、藍はとても嬉しい。

 その様子をもっと見ていたいが、そろそろ茶が欲しくなってくるだろう。急須と湯は居間に在るから、取りに行かねばならない。

 「お茶取って来るね…」藍は席を立った。

 「ありがとう!」

 台所での会話は筒抜けだったらしい。居間への扉を開けると、母親が急須と沸騰ポットを差し出してきた。

 「お茶っ葉入れてあるから」

 「うん。ありがとう」藍は受け取り、いそいそと戻った。

 食卓に沸騰ポットを置いて電源を繋ぎ、引き戸を閉めてから湯呑二杯分の湯を急須に注ぐ。そして、そっと急須をくゆらせてみた。

 「おー! それでおいしさ倍増だね!」碧が箸を止める。

 「うん…」本当にそうなるといいが。

 藍は急須を持って席に戻り、二人分の茶を淹れた。

「熱いから気をつけてね…」トムとジェリー湯呑を碧の左前に置く。

 「うん!」碧は早速手を伸ばし、茶を飲んだ。

「うん! おいしい!」一口だけで湯呑を置き、

「藍ちゃんも食べて食べて! じゃないとなくなっちゃうよ!」

 「うん…」こんなに喜んでもらえるなら全部食べてくれても本望だが、それでは碧が申し訳無く思うかも知れない。

 「全然違う話だけどね」

 「うん…」

 「トムとジェリーどっちが好き?」

 「え…トム…かな…」

 「やった!」

 「碧ちゃんも…?」

 「うん! でもみんな大体ジェリーって言うんだよねー。いやジェリーもかわいいけど!」

 「え…そうなの…?」意外である。猫なのにいつも鼠のジェリーにしてやられるトムの方が圧倒的に可愛く思えるが。

 「そうなんだよねー。いっつもやられるのがかわいいのに!」

 「うん…!」

 「あと、毛皮の下にトランクスはいてるし」

 「え…? そうだっけ…?」記憶に無い。尤も、熱心に観たことも無いのだが。

 「うん! たまに毛皮がスポッと脱げる時があって、その時に出てくるよ!」

 「へえ…」それは何ともヘンテコな絵面だろう。如何にもトムとジェリーらしい。

 「藍ちゃんがトム派でよかった!」

 「うん…」藍も、ほかならぬ碧が自分と同じトム派でよかったと思う。

 「今度梨乃さんにも聞いてみよ!」

 「うん…!」

 「梨乃さんのことだから予想外の回答が来るかもだけど」

 「うん…」藍にとっては、碧も予想外の範疇に入るが。

 「スパイクとか」

 「え…と、ブルドッグ…?」

 「そう! 梨乃さん犬飼ってるしねー」

 「うん…」藍は、アスランがスパイクの役どころだったらどうなるだろう、と空想した。きっと、トムのこともジェリーのことも大好きで、二匹が喧嘩しないように画策するがいつも失敗、という感じだろう。

 「もしラブ子がスパイクの役だったら」碧が自分の考えていたことと同じようなことを言いだした。が、今一つどういう行動をとるか想像出来ない。

「やっぱり我関せず、かなあ」

 「うん…」そんなところだろうか。

 「昼寝しながら二人のドタバタを全部かわす、みたいな」

 「うん…!」それだ。ラブの得体の知れない能力が発揮されるとしたらその方向だ。

 「アっちゃんの場合…」

 「…………」碧はどう見るか。

 「どっちのことも好きそうだからなー」

 「うん…!」その見解は自分と同じだ。

 「めったに登場しないけど、出てきた回は二人も喧嘩しない」

 「ああ…!」自分の想像とは違ったが、それもアスランらしい。碧も随分とアスランのことを買っているのだな、と藍は嬉しくなった。

 「クロがトムだった場合…」

 「うん…」

 「悪さしようとしてジェリーに止められる」

 「え…?」そんなに悪党なのだろうか。

 「で、二人はドタバタするんだけど、全部未遂に終わって結局飼い主たちには認識されない」笑劇としてはそれもありだろう。

 「アっちゃんがスパイクでクロがトムだった場合」

 「…………」それではジェリーが完全に蚊帳の外になってしまいそうだ。

 「アっちゃんとクロがいちゃいちゃし過ぎて話が成立しない」

 「うん…」やはり。

 「てところかな」

 「うん…」

 いつものことであるが、碧は話しながらでも食べる速さがほとんど鈍らない。対して藍は、一度会話が始まるとほぼ箸が止まる。食事の間に話をするということに慣れていないのだ。学校での昼食時は大体相槌だけだが、それでも碧より先に食べ終わったことは無い。今日はいつもの三倍近く制限時間が有るが、碧を待たせる時間が長くなるだけとも言える。

 事前にそう予測してなるべく箸を止めないようにと意識したものの、結果はいつもと変わらなかった。ハンバーグも玉子焼きも野沢菜も大方を碧が食べてしまい、飯をおかわりまでしたのだが。

 「いただきました! すっごいおいしかった!」

 「ありがとう…」

 藍が新たに茶を淹れようとすると、

 「あ、先に洗い物やっちゃおうよ」碧に提案され、

 「うん…」そうすることにした。先に仕事を片付けておけば気分的にのんびりできる。

 食卓の上の物を碧に任せ、藍は両親の分を回収するべく居間に入る。

 「いただきました。おいしかった」重ねた食器を差し出す母親の言葉に、

 「うん。いただきました」父親も頷いた。

 「うん…」藍は少しだけ照れ臭さを感じながら食器を受け取り、台所に戻った。

 流しで洗い物を始めている碧の傍に行くと、

 「あ、ここに置いて~」泡の付いたスポンジを右手に持ったまま、碧が一歩右側に動いて流しの前を空けた。

 「うん…ありがとう…」流しに残っているのは御飯茶碗と箸だけだ。茶碗は、中に湯を入れた状態で置かれている。内側に付いた米を取り易くするためだろう。これを見て、碧も普段から洗い物をしているのだな、と藍は思った。

 藍は空いた場所に洗い物を置き、左側に動いて碧に場所を譲った。碧に全部押しつけてしまったのは申し訳無いが、自分が作業するより早く終わるに決まっている。

 隣で見ていると、やはり碧の手つきは慣れたもので、蛇口の真下に御飯茶碗を置き、少しだけ水を出して、箸、木の椀、皿と次々洗っていった。途中、茶碗一杯に水が張られると蛇口を少し動かして二つ目の茶碗に水が落ちるようにした。藍がしようと思っていた手順と同じだが、動きの洗練度がまるで違う。自分よりもずっと長くこの作業をしてきたに違い無い。

 「いつも洗い物してるの…?」

 「うん。家の中で洗い物担当なのー」やはり。

 「どれくらい…?」

 「小学3年から~」やはりか。自分の倍以上だ。

「たくさん食べるんだからその分働けってお母さんから言われて」

 「そうなんだ…」その時の様子が目に浮かぶ。

 「その頃お兄ちゃんがスゴい少食だったし」

 「そうなんだ…」

 「うん。お兄ちゃんがわたしより食べるようになったの去年くらいかなあ」

 「そうなんだ…」

 「わたしと違ってインドア派だしね」

 「へえ…」

 「て言うか、家族でわたしだけアウトドア」

 「え…!? そうなの…!?」意外である。

 「うん。お父さんは映画、お母さんは洋裁、お兄ちゃんはマンガとかゲームとかいろいろ」

 「へえ…」趣味がバラバラだ、と藍は思った。しかし、考えてみると、青井家も似たようなものだ。父親が音楽鑑賞、母親が料理、自分は読書である。

 「映画以外家族で出かけたりとかほとんどないし」

 「やっぱり映画は行くんだね…」

 「うん! 近いから平日行くこともあるよ。藍ちゃん家は!?」

 「うちも出かけることほとんどないかな…」多分自分が外出を好まないからだろう、と藍は思っている。

 「そっかー。で、そんなだからね、松江についてくるって言われた時はビックリしたー」

 「うん…うちも…」

 「だよねー。単に一人で旅行に出すのが心配なだけかも知れないけど、そんな感じじゃないんだよね。なんか温泉とかそばの話で盛り上がったりして。温泉もそばも近くにいっぱいあるのにね」

 「うん…でも出雲も蕎麦が名物だし…」

 「え? そうなの?」

 「うん…」

 碧が濯ぎまで終え、席に戻った。椅子は流しのすぐ後ろである。

 「ありがとう…」

 「いやいや、ありがとうはこっちだよ! お昼食べさせてもらって。めっちゃおいしかったし!」

 「ありがとう…」藍は沸騰ポットの横に立ち、急須に湯を注ぐ。

 「あ、松江城って国宝だよね?」

 「うん…」

 「城が国宝でそばが名物…松本と同じだね!」

 「あ…そうだね…」急須をくゆらせる。

 「親近感わいてきたー!」

 「うん…」

 「境港も楽しみー。妖怪列車っていうのがあるらしいよ! お父さんが言ってた」

 「へえ…」一体どんなものなのだろう、と考えながら藍は茶を淹れた。模型のようなものを展示してあるのか、それとも実際に乗れるものなのだろうか。

 湯飲みを差し出し、自分の茶も淹れて、藍は席に着いた。

 「いただきます!」

 「どうぞ…」

 碧は一口だけ口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。

 「おいしゅうございます!」

 「ありがとう…ございます…」碧につられて丁寧語になってしまった。

 「お義父様とお義母様は? 境港の話とかしてる?」

 「うん…昔行ったことがあるみたいで、二人でその時の話してるよ…。松江と出雲大社も行ったんだって…」

 「へー! 出雲大社って松江の近くなの?」

 「え…と、車で一時間って言ってたと思う…」

 「ますます松本と似てるね! 松本から諏訪も一時間くらいだよね」碧が言うのは、もちろん諏訪大社のことだ。

 「あ、そうだね…」

 「ほかにはほかには!?」

 「島根県はそれだけだったけど…その後宮島に行ったって…」

 「宮島って何があるの?」

 「厳島神社…」

 「いつくしま神社…」

 「あの…海の中に赤い鳥居があるところ…」

 「あー、写真見たこと…え!? あれ『いつくしま』って読むの!?」

 「うん…」

 「『きびしま』だと思ってた~!」

 「あ、なるほど…」誰にでもこのような思い込みは有るだろう。

 「世界遺産なんだっけ?」

 「うん…それと、日本三景なんだって…」

 「日本さんけいって何?」

 「え…と…日本を代表する三つの景色…かな…」

 「へー、初耳! 残りはどこ?」

 「天橋立と松島…」

 「松島って『ああ松島や松島や』の?」

 「え…うん、多分…」

 「松尾芭蕉が俳句人生最大の危機だったところだね!」

 「え…そうなの…?」

 「絶対そうだよ! だって『ああ松島や松島や』だよ? よっぽど句が出てこなかったんだよ!」

 「あ…なるほど…そうだね…」

 「それなら『ああ松本や松本や』でもよかったじゃない、って話だよね!」

 「うん…そうだね…」お説御尤もであるが、肝心なところを間違えている。この句は芭蕉の句ではなく、狂歌師の田原坊という人が詠んだものだ。さらに、元の句は「ああ」ではなく「さて」である。狂歌と思えばそれなりの出来と言えるし、そう思う人がいたからこそ現代にまで伝わっているのだろう。が、残念ながら二人はそんなことなど知らない。

 「松島と天橋立ってどこにあるの?」

 「私も名前しか…」

 「そっか。じゃあ調べとくね! 梨乃さんも誘っていつか制覇しよ!」

 「うん…!」

 ちょうど二人同時に茶を飲み干し、藍は湯を急須に注いだ。

 「で、いつくしま神社の次は!?」

 「え…と、洞窟に行ったって…いくら洞だったかな…」どんな字を書くのかは聞いていない。

 「えー! 洞窟!? わたし洞窟入ったことない!」

 「私も…」

 「どんなところだって!?」予想外の食い付きように戸惑いながら、

 「詳しくは聞いてなくて…お母さん呼んでくるね…」

 「わ! ありがとう!」

 藍は席を立った。

 「お母さん」

 「うん?」扉を開けた藍に朱美は軽く驚いたようだった。

 「いくら洞の話してほしくて」

 「うん」朱美はすぐに立ち上がる。

 藍は碧の斜向かいの椅子を碧の正面へずらしてから席に戻った。

 すぐに朱美が台所に入ってきてその椅子に座る。

 「何を話せばいいかしら」

 「洞窟ってどんな感じなんですか!? 入ったことなくて」碧の質問は漠然とした質問であったが、朱美はすぐに答えた。

 「そうねえ、まず暗くて」当然である。

 「はい」

 「湿気が多いわね」

 「ジメジメですか?」

 「んーと、そんな不快な感じはなかったわ。暖かったからかな」

 「暖かいですか」

 「冬行ったからね。夏は涼しいんだって」

 「ステキですね!」

 「そうね。気温的には快適ね」

 「快適じゃないところもありますか」

 「そうね。ほとんどの所が狭かったし、急坂だし、それなのに足元滑りやすいし」

 「え!? 坂なんですか!?」

 「うん。何十メートルって高低差あったと思うよ」

 「へー! 洞窟って水平にのびてるものだと思ってました!」碧の言葉に藍も頷く。多少の傾斜は有っても、全体としては水平なものだと思っていた。

 「うん、秋芳洞はそんな感じだったね。井倉洞が特殊なのかも」

 「登ったら行き止まりになってるんですか?」

 「ううん、外に出るよ」

 「え! 貫通してるんですか?」

 「貫通と言えば貫通だね…途中で横向いて、崖の途中に口開けてるの」

 「わ! 怖い!」

 「柵はあるから大丈夫。それに、間口はすごく広いの。幅十メートルはあったと思うよ。祠が置かれてるくらい」

 「へー! 崖の下は何があるんですか?」

 「川」

 「川! 滝にはなってないんですか!?」

 「滝はなかったかな」

 「残念!」碧は本当に残念そうな顔で言った。何か、洞窟と滝の組み合わせに思い入れがあるのだろう。

「えと、滑りやすいっていうのは、下が濡れてるんですか?」

 「うん、上から水が流れてきてて、全面濡れてる感じ」

 「え! 崖から雨が入って流れるんですか?」

 「ううん、崖の間口はむしろ乾いてたよ」

 「じゃあどこから流れてくるんですか?」

 「多分地下水じゃないかな。鍾乳洞だし」

 「鍾乳洞には地下水があるんですか?」

 「うん。鍾乳洞って石灰岩が水に浸食されてできるものだから」

 「雨垂れ石を穿つみたいなことですか?」

 「ううん、物理的にじゃなくて化学的に。石灰岩の成分炭酸カルシウムが炭酸水と化合して炭酸水素カルシウムになると水に溶けちゃうんだって」知らなかった。十五年の間、母親は一言もそんなことを言わなかった。と、いうことは。

 「へー! なるほど! そもそも水があったから洞窟ができて、穴があいたからその中を流れていってるわけですね!」

 「そうね」

 「え…ということは、今も溶け続けてるってことですか?」碧も藍と同じことを思ったようだ。

 「ということになるかな。一方で、溶けた炭酸カルシウムが析出して氷柱状の鍾乳石や石筍ができていく訳だけど」

 「水が乾いちゃうからですか? でも湿度は高いんですよね?」

 「乾くのもあると思うけど、それよりも影響の大きいのが、ええと、何だっけ」朱美は席を立つと居間への扉を開け、

「地下水に溶けた石灰岩が再析出するメカニズムって何だっけ?」と訊いた。

 「圧力差」答えはごく短かったが、

 「あ、そうそう」十分だったようだ。

「圧力差ね」呟きながら朱美は席に戻った。

「さっき私炭酸水に炭酸カルシウムが溶けるって言ったけど、具体的には、炭酸カルシウムと水と二酸化炭素が一対一対一で反応して炭酸水素カルシウムになって、これが水に溶けるの」

 「へー、炭酸カルシウムが溶けるんじゃないんですね」

 「そう。水だけじゃなくて二酸化炭素が必要。だけど炭酸水の中に含まれる二酸化炭素は水に比べて圧倒的に少ないから、二酸化炭素をもっと溶かしてやれば炭酸水素カルシウムももっと溶ける」

 「はい」

 「ではどうやったら二酸化炭素がより多く溶けるか」

 「圧力をかける、ですか?」

 「そう。圧力というのは体積を小さくしようとする力のことだから、体積を小さくするためにより多く溶けるわけ」

 「はー、なるほど」

 「地下では土や岩の重みが常にかかっているから地表に比べて高圧なの」

 「あ!」藍は思わず声をあげてしまった。説明の行き着くところが分かったのである。

 「藍ちゃんもう分かったんだ!? えーと、つまりより多く二酸化炭素が溶けるから、よりたくさん反応して石灰岩がよりたくさん溶ける…」

 「そう。それが流れていって、どこかで広いところに出ると」

 「! ああ! 圧力がなくなって二酸化炭素が抜けて、その分炭酸カルシウムが余っちゃうから!」

 「そう。それで析出するんだって」

 「えー! そうやって鍾乳洞ができるんですね! 地球スゴい!」

 「うん。すごいよね」

 「ありがとうございました! ひとつ賢くなっちゃいました! いくら洞行きたくなってきました!」

 「どういたしまして。夏休みに行けるといいね」朱美は椅子から立ち上がり、

「ポット持ってっていい?」沸騰ポットの把手に手を掛ける。

 「あ、うん…ありがとう…」

 「うん」朱美は沸騰ポットの電源を抜き、沸騰ポットと急須を両手に居間へと戻った。

 「お義母さまスゴい! 梨乃さんみたい!」

 「うん…びっくりした…」本当に驚いた。両親ともに論理的思考を好むのは子供の頃からよく知っているが、母親の口から化学物質の名称を聞いたのは初めての気がする。

 「そしてやっぱりお姉さんみたい!」

 「え、そう…?」何と言うか、お姉さんという言葉には華やかな要素を感じるのだが、我が母には全く華やかさの欠片も無い。誰からもよく似ていると言われる親子で、その点でも自分と同じだと藍は思っているのだが。

 「うん! 見た目も若いけど、雰囲気がおばさんっぽくないよ~」

 「そうかな…」碧の母親に比べてそんなに若く見えるとは思えないが、

 「うん!」碧がそう言うならばそうなのだろう。

「あ、そうだ! ユニフォーム交換して着てみない!?」空の湯呑を置いた碧が唐突に言った。

 「え…うん…」

 藍は時計を見た。待ち合わせまでまだ四十分以上ある。自分がもたもたと着替えても、待ち合わせに遅れることはあるまい。

 「じゃ、湯飲み洗うね!」碧が立ち上がる。

 「あ…お願いします…」藍も茶を飲み干して湯呑を差し出した。

 「はーい!」

 藍が椅子を元の位置に戻す間に、碧は洗い物を終えてしまい、二人は藍の部屋へと向かった。

 藍の部屋に入ると、碧は自分の手提げからユニフォームを取り出し、寝台に広げた。藍が借りたユニフォームは、皺や折り目がなるべくつかぬよう、衣紋掛けに掛けてある。背広用の、奥行方向が立体的になっているもので、父親から借りた。

 「やっぱり大きいね」広げた服を見て碧が言う。

 「うん…」藍のセーラー服の一・五倍くらい横幅が有り、比例して裾も長い。

 「これ絶対わたし達二人分あるよね」

 「うん…」胴回りは、二人どころか三人でも入るのではないか。

 「やってみよ!」

 「え…?」何を?

 戸惑う藍に一言の説明も無く、碧は肌着まで脱いで寝台の上に広げると、L寸の方のユニフォームに手早く袖を通した。

 藍も全速力でまずは眼鏡を取って机に置き、ブラウスの袖、襟、胸のボタンを外して脱いだ。普段は全てのボタンを外す藍だが、今は碧を待たせている。行儀の悪さに目を瞑り、速さをとったのだ。

 ブラウスを椅子の背凭れに掛け、肌着も脱ぐ。二枚一度に脱げればよかったのだが、何分(なにぶん)慣れぬ動作である。

 肌着も椅子に掛け、ユニフォームを取る。形状としてはTシャツと同じであるので、まずは両腕を通したが、まるで七分袖か八分袖くらいの長さであることに藍は驚いた。しかし思い出してみれば、碧が着た時も確かにこんな風になっていた。

 衝撃を受けつつ頭を通せばもう装着完了である。が、ここでも強烈な違和感が藍を襲う。服を着ている感じがまるでしないのである。肩から首にかけてと肩甲骨の辺りに、微かに服の感触が有るだけ。普段からブラウスのような服ばかり着用している藍にとって、服とはある程度身体を圧迫してくるべきものであり、その感覚が無い今の状態は何とも居心地が悪い。見ているだけではこんな違和感だとは分からなかった。但し、服の感触はサラサラでとても心地好い。

 「わ! かわいい! これが美奈ちゃんの言ってたブカブカ萌え…!」藍が眼鏡をかける間に碧が言い、いや美奈子はそのような単語を使ってはいない、と藍は思った。

「あ、あれやって! 髪の毛出すの!」

 「え…うん…」藍は両手の親指を髪の下に通し、持ち上げた。親指に乗った髪が襟から抜け、手を離すと軽い音を立てて服の上に掛かる。

 「くはーっ! やっぱり萌えー!」藍には何がそんなに受けているのか全く分からないが、碧が楽しそうなのを見るのは嬉しい。

「藍ちゃん、横に腕伸ばして!」碧はまた何か思いついたらしい。

 「え…うん…」言われた通り両腕を左右に伸ばす。こうしても七分以上の袖の長さ、そして自分の身体の倍くらいの身幅だ。これならば、梨乃以上に胸の大きい美奈子でもぶかぶかであろう。

 「腕パタパタして~」上下に動かせということだろうか。藍は両腕を同時に上下させた。

 「ウヒョー! かわいい~!! よし! 後で美奈ちゃん達にも見せてあげよ!」

 「え…!」全然よしではない。碧相手でも恥ずかしいというのに。

 「ではいよいよ実験に入りましょー! 藍ちゃんそのままー」

 「え…うん…」両腕を水平に伸ばした姿勢のまま待っていると、碧は藍の背後に回って服の裾を軽く引き、裾から服の中に潜り込んできた。

 一旦緩んだ服が下に引かれると、碧の頭が自分の背中を滑り、今度は襟が後ろに引かれて碧の顔が自分の顔の右後ろに出てきたのを感じた。すぐに、碧の頬が自分の頬に当たる。

 「やっぱり二人入れたねー。首は苦しいけど」声と同時に、碧の頬が動くのが感じられる。

 「うん…」胴回りはきつくないから、まだ余裕が有るのだろう。

 「あ、写真撮りたい! 私のかばんまで移動!」

 「え…うん…」藍が応えると、碧が腰に両腕を回してきた。大きなユニフォームの中で、碧はユニフォームを着ているが、藍は上半身には下着のみである。碧の腕と手が自分の肌に直接触れ、藍は恥ずかしさに赤くなった。

 「はい左足からー。いち、に、いち、に」碧に操られるまま前に進み、寝台の傍に置かれた鞄に辿り着くと、

「中から電話出してー」と指令が出され、

 「うん…」藍は碧の操縦に従って携帯電話を取り出し、鞄を寝台の上に置いた。

 「電話かしてー」藍の胴を抱えていた両手が離れ、服の裾からにゅっと出てきた。

 「うん…」渡すと碧の両手は上に上がり、当然服の裾も持ち上げられて藍の腹部が露わになった。碧が背後にぴったりとついている今、その腹部を見る者など一人も居ないのだが、それでも藍は顔を赤くした。

 赤面する藍が俯くこと数秒、

 「準備オッケー! 藍ちゃん持ってー」新たな指令が発せられ、藍ははっと顔を上げた。

 「うん…」携帯電話を受け取ると、碧の腕が再び藍の胴に絡みついてきた。

 「それシャッターね! じゃ、よろしくー!」

 「え…! うん…」自分が撮るのか。右腕を前方に伸ばして、

「この辺りでいい…?」と訊く。画面には、概ね上半身が全て映っている。

 「うん! あ、レンズ見てね!」

 「あ、うん…」藍は意識してレンズに視線の焦点を合わせた。

「じゃあいきます…三、二、一…」緊張を感じながらシャッターを切ると、

 「あと二枚!」すかさず指令が出、

 「うん…三、二、一…」

 「最後の一枚!」

 「うん…三、二、一」まで行ったところで碧が急に脇腹をくすぐってきた。両腕でがっちり抱きかかえられているので身体が動かせず、藍は驚きつつ笑ってしまったが、撮影する態勢になっていた指はそのまま任務を完遂した。

 「ありがとう! かして~」再び碧の両手が裾から覗き、藍は携帯電話を渡した。再び藍の腹部が露わになる。

「さあ、どんな写真が撮れたかなー!?」碧が画面の端に触れると、撮影から再生に画面が切り替わった。

「藍ちゃんかわいいー!」画面には最後に撮った写真が表示されていて、悪戯っぽい笑みの碧と、驚き半分笑い半分といったところの藍が頬と頬をぴったりつけて写っていた。この一秒前では藍は緊張の面持ちだったろうし、一秒後では笑い崩れていたに違い無い。一瞬を切り取る写真の魔術とでも言うべきだ。写真の自分が可愛いとは、藍には全く思えないが。

「その前は」碧が操作して、一枚前の写真に変わった。

「その前は」さらに一枚前。最初に撮った写真だが、藍に関しては全くと言っていいほど二枚目と同じだ。碧がくすぐっていなければ三枚目も同じだったに違い無い。

「ふむ」碧は数秒黙った後、

「もう一回撮ろ!」と言って携帯電話を藍の手に押し付けてきた。お気に召さなかったようだ。

 「え…うん…」藍は先程と同じ姿勢で携帯電話を構えた。

 「藍ちゃん、レンズ見て~」

 「うん…」

 「そのままでちょっと思い出して~。アルプス公園でアっちゃんとキャッチボールした時ー。ボールくわえて持ってくるときのアっちゃんの歩き方ー」藍はその様子を鮮明に思い出すことが出来る。大きな口にボールを咥え、太い尻尾を振りながら、てってってってっ、と小走りに走る姿。大きな、いかついとも言える身体なのにとても可愛らしい。

 幸せな気分に包まれていると、シャッター音がして藍は我に返った。きっと碧はタイマーを設定して藍に渡したのだ。

 藍はそう悟って携帯電話を碧の手に戻した。

 「さーて、どうかな~」受け取った携帯電話をまた持ち上げて、碧は画面に触れた。三度藍の腹部が露わになる。

「作戦成功! 藍ちゃんいい笑顔~!」碧の声は心底楽しそうだ。画面の中にいる藍は実に締まりのない顔だが、幸せの真っ只中にいる笑顔だった。自分がこんな表情になれるとは、藍は想像もしていなかった。他人から見れば、確かにいい笑顔だろう。その藍に頬を寄せる碧は、いつも通りの楽し気な笑顔。写真なのに全くの普段通りというのが凄い、と藍は思う。

「梨乃さんに送っていい?」

 「え…うん…」こんなに緩みきった顔の写真を見られるのは正直恥ずかしいが、梨乃であれば見られてもいい。いや、見られること自体には抵抗を感じるが、自分達の現況を梨乃には知ってもらいたい。

 「よし! 善は急げ!」碧は十秒ほど操作し、写真を送ったようだった。

「じゃ、名残惜しいけどここから出るか…」碧がそう言うと、襟が後ろに引っ張られ、背中に当たっていた温かさが去った。それを寂しく感じていると、

「あ! もういい時間だね。駅まで行こっか」

 「あ…うん…」腕時計を見てみると、もう午後一時五十九分。集合時刻まで十五分余りだ。中川と高木、美奈子を迎えるため、そろそろ駅へ行くべきだろう。

 「服、このままでもいいよね? 寒い?」

 「え、ううん…大丈夫…」全く寒くはなく、今日が晴天であったなら寧ろ暑かっただろう。抵抗が有るとすれば、この格好が少し恥ずかしいとうことだ。試合会場以外で着用するのは変なのではないだろうか。実際、この服を着ている人を見かけたことはほとんど無い。

 しかし、碧は全く気にした様子ではない。それを見て、形状はただのTシャツなので奇抜な格好というほどではないか、と藍は思い直した。

 「あ、電話は持っていった方がいいか」昨日、碧は美奈子、中川と連絡先を交換していた。

 「うん…そうだね…」藍が携帯電話を所持していないので、家から出てしまうと高木達との唯一の連絡手段となる。

 扉に向かいかけた碧は、くるりと向きを変え、寝台の上に置いた携帯電話を取ってスカートのポケットに入れた。

 「では!」

 「うん…」

 藍を先頭に部屋を出、玄関で順番を入れ替えて外に出る。藍が靴を履くのが遅いからである。

 家の門を出ると碧が手を繋いできて、二人は並んで駅に向かった。

 「歩いて行くの初めてだね!」

 「うん…」

 「自転車だったらあっと言う間だけど、歩くとそうでもないかな?」

 「多分、歩いてもすぐだよ…」駅までの道のりは百m余り。藍の足でも門を出てから五分はかからない。今日は碧に手を引かれているから、もっと早いだろう。

 「わ、ホントだ、近い!」突き当たりを曲がったところで碧が言った。曲がればすぐに踏切、そして踏切を渡ればもう駅である。しかも上高地線は単線なので、踏切の手前と向こうの距離は僅か数m。見るからに近い。

 踏切の手前からプラットフォーム上を確認したが、人影は無い。美奈子も中川も高木もまだ来てはいないようだ。藍はほっと一息ついた。待ち合わせ場所への到着時刻は定刻の十分前でも一分前でも一秒前でも問題は無い訳だが、ここは自宅のすぐ近くであるし、美奈子も中川も渚駅に来たことは無いようだから、やはり先に着いて迎えたい。

 遮断機に止められることも無く二人は線路を渡り、短い斜路を登ってプラットフォームに上がった。

 「今何時~?」プラットフォーム上の自転車置場の前に立ち、碧が訊く。

 「二時五分…」

 「十分前か。ちょうどいい時間になったね!」

 「うん…」

 「あ、緑ちゃん!」

 「え…」

 「ほら、すぐそこ! おーい!」と踏切に向かって大きく手を振る。

 「あ、ホントだ…」ちょうど線路に差し掛かろうとする中川の姿が見えた。碧の呼び掛けに気づき、こちらを見て左手を振り返す。自転車だというのに、今日も短いスカートだ。

 二人はプラットフォームから踏切の方へ降りて行った。

 「けっこうギリギリだったね」

 「うん…」もう少し遅ければ中川の方が先に着いていたところだ。

 十秒ほど後、中川は踏切脇の駐輪場に自転車を置き、二人と合流した。

 「二人とももうユニ着てんの?」

 「ちょっと服を交換してみました」

 「あ、ホントだ。藍さんが大っきいの着てる」と言いながら背負った袋を自転車の荷台に降ろした。

 「緑ちゃん、大荷物だね!」

 「ユニのほかにもスカートとか帽子とかタオマフとか持ってきた」

 「おお~!! タオマフって何?」

 「タオルマフラー」

 「あー。あれ? あの、こうやって掲げるやつ?」碧は両手を握って斜め上に高く上げた。

 「そうそう。キックオフ直前と勝った直後ね。だけじゃなくて回す時もあるよ」

 「へー」

 「そのへんのルーティーンについては後で説明する」

 「そうだね。みんなそろってからだね」

 「鈴音と美奈子はまだ?」

 「うん。松本駅からここまで十五分はきつかったかな?」碧が藍に訊く。二人とも距離を調べたことは無いのだが、最短の道のりでほぼ一㎞である。

 「え…と、私だったら絶対無理だけど…」昨年、一度歩いたことが有ったのだが、家を出てから改札口まででほぼ三十分を要した。

 「あ、鈴音ちゃん来た! あれ? 後ろにも乗ってる?」碧はワッフルを買ったショップアサワの方を見ている。そのずっと先に自転車が見えた。

 「ホントだ。美奈子かな?」

 高木は頑張って漕いでいるようだが、その割に進みは悪く、一分近くかけて踏切まで辿り着いた。

 「お待たせ…」三人の許に着いた高木はそう言ったが、息が上がって苦しそうだ。最後が少し登りだったからであろう。

 「一緒に来たの?」碧が訊く。

 「そこで…たまたま、会った…」高木はまだ息が整わない。

 「で、後ろ乗せてもらった」と美奈子。当然だが息は乱れていない。

 「美奈ちゃん、ラッキーだね!」

 「おー」

 「鈴音息絶えだえだな」中川が愉快そうに言う。

 「美奈子、重い…」

 「失敬だな。事実だけど」

 「鈴音ちゃん大丈夫ー?」

 「おー…」

 「じゃ、行きますか!」碧がそう言ったので、藍は慌てて碧の隣に並んだ。行く先は自宅である。自分が先頭に立たないわけにはいかない。

 「仕方ないなあ、スズネ後ろ乗りなよ。引いてくから」美奈子が自転車のハンドルを取り、

 「おー…」高木は荷台に腰掛けた。

 「くっ、踏切強敵だ」坂になっているので、引くのも力が要るだろう。

 「お?」碧が振り向いて美奈子の状況を確認すると、「助太刀いたす!」数歩走って自転車の後ろにつき、荷台を押す。

 「かたじけなし」美奈子が礼を言うが、碧同様「忝し」という漢字をまだ知らないらしい。残念である。

 「踏切渡ってから荷台に乗せればよかったのにね」藍の左隣に来た中川が身も蓋も無いことを言う。二人は踏切を渡りきったところで止まり、碧達を待っている。

 「え…うん、そうだね…」藍もその通りだと思った。その方が効率が良いと判断したからである。

 「ああいうバカっぽいの楽しいけど」

 「うん…」最近、藍もバカが楽しいということを実感し始めている。

 「ところで藍さん電車通学?」

 「え、うん…松本駅で碧ちゃんと合流して…」

 「何時に乗ってるの?」

 「七時四十分…」

 「あれ、私と同じはずなんだけどなー」

 「あ、そうなんだ…」二両編成なので遭遇してもよさそうなものだが、藍も中川を見かけたことが無い。

 その時美奈子が二人の前に差し掛かり、

 「ちょっと楽するわ」と言ってサドルに跨った。この先少し下っているからである。

 「あ、そこを右です…!」藍は慌てて声を掛ける。

 「うーい」美奈子と高木を乗せた自転車は角を曲がり、見えなくなった。ほぼ同時に碧が傍に来たので、藍は歩き始めた。

 「鈴音ちゃんヘロヘロだね」碧の口調は少し心配そうだ。碧にとっては二人乗りでも楽勝で登れる坂なので、鈴音の体調が悪いと思ったのかも知れない。

 「美奈子が漕いでくればよかったのに」

 「だね」

 確かに、と藍も思う。高木は美奈子や自分と同じくらいの身長で、美奈子と自分の中間くらいの肉付きだろうか。つまり、高木の方が美奈子よりかなり体重が軽いと思われるので、美奈子が運転した方が楽だっただろう。

「緑ちゃんも自転車なんだね。定期あるんでしょ?」

 「あるけど、自転車好きなんだよね」

 「おー、わたしと同じだ」

 「アルウィンも自転車で行ってる」

 「へー! わたしもそうしよっかなー!」

 三人並んで右折すると、少し先で美奈子と高木が止まって待っていた。行き先が分かっていないので当然である。

 「鈴音ちゃん、復活した?」

 「復活復活。教会で怒られてきた」

 「じゃあ所持金半分になってんじゃないの?」と中川。藍にはこの遣り取りが理解出来ないが、何かの引用なのだろう。

 「大丈夫、今日サイフ忘れてきたから」

 「大丈夫じゃないじゃん」

 「買い物は午前中に済ませたから大丈夫」

 「何買ったの?」

 「プラ容器と割りばし。試合に持ってくやつ」

 「あー、ご苦労さん」

 「ご苦労様」「御苦労様でした…」碧と藍の声が重なる。

 「まー、言い出しっぺだからね」少し間をとって、

「楽しみにしてるよ藍さん」

 「え…」

 「玉子焼きとレアチーズ」

 「あ…うん…あの、レアチーズのことで相談が…」

 「うん」

 「あ、ここです…」藍は自宅の門を開けた。自転車を押す美奈子と中川が続いて入る。

「自転車はその辺に…」と、碧の自転車を指す。

 「うーい」と美奈子。二人は碧の自転車の隣に並べて置いた。

 「で何だっけ?」高木が話を戻し、

 「あ…ゼラチン入れて固めるのと入れないの、どっちがいいかな、って…」

 「えー、難しいこと聞くね。固まってないレアチーズなんか食べたことないからなー」

 「そこは抜かりありやせんぜ、お頭」碧が割って入る。今回の弁当企画の元締めが高木だからお頭と呼んだのであろう。

「午前中に両方作ってありやす」

 「レアチーズ?」

 「へい」

 「固まってるのと固まってないの?」

 「へい」

 「マジか! ハラショー! 藍さんステキ!」

 「わたしたちの分は!?」これは美奈子。

 「もちろん全員分で、へい」

 「マジか! ブラボー! 藍さん天使!」藍は女なのでBravoではなくBravaと言うべきなのだが、日本在住の高校一年生では知らなくても仕方無かろう。

 「あの…どうぞ…」全員揃っているのに何となく玄関前で話してしまっていることに気づき、藍は扉を開けて入った。先頭に立つということにどうにも慣れていないので、つい誰かが行動するのを待ってしまう。

 「おじゃましまーす」異口同音にそう言って、最後に碧が扉を閉めた時、浴室から朱美が出てきた。青井邸の脱衣所には洗濯機が置いてあるため、洗濯していたものと思われる。

 「いらっしゃい」

 「おじゃまします!」中川、美奈子、高木が声を合わせる。

 「ゆっくりしていってね」とだけ言って朱美は浴室に引っ込んだ。

 「上です…」藍は階段を上っていき、自室の扉を開けて廊下で待った。中川、美奈子、高木と部屋に入れ、碧と自分が入ると少し窮屈な感じがした。無理も無い。藍の部屋は六畳分の広さで、しかも部屋の約三分の一を寝台と机が占領しているのである。藍にとってはこれで十分どころか寧ろ普段は少し広いように感じているのだが。

「狭くてごめんね…適当に座って下さい…レアチーズ持ってくるから…」

 「いきなり出てきちゃう!?」美奈子の目が輝く。

 「後の方がいいかな…?」

 「イヤイヤすぐ食べたい!」

 「わたしもー」「私も」満場一致を受け、

 「ちょっと待っててね…あ、ベッドの上も使って下さい…」藍は台所へ向かおうとしたが、盆一枚に乗りきらないであろうことを思い出し、

「碧ちゃん…手伝って下さい…」と要請した。

 「はーい!」

 藍は急いで、しかし常人並みの速さで階段を降り、廊下を歩いて台所に入った。

 食器棚の上から長盆と丸盆を下ろして食卓に置き、冷蔵庫を開ける。そこから苺とバナナを取り出しつつ、

 「レアチーズ取り出しておいて下さい…」と碧に指示した。自分には苺を水洗いし、バナナを切る作業があるからだ。

 「らじゃ!」

 後は碧に任せ、流しの前へ移動。苺をざっと水で洗い、昼食時碧が使ったドラえもん柄の樹脂製茶碗に移して、軽く水気を切る。

 「藍ちゃん、スプーン出すよ?」

 振り向くと、碧が食器棚を指差している。箸の隣に匙類が置いてあるのを、碧は見逃さなかったようだ。

 「うん…あ、フォークもお願いします…」

 「らじゃ!」

 藍は向き直って俎を取り、皮を剥いたバナナ二本を輪切りにして、先程ハンバーグを乗せていた皿に移す。そして、再び苺の水気を切ってから、丼と皿を丸盆に載せた。

 「お待たせしました…」丸盆を持つ。碧は既に長盆を持っている。

 碧が前に立って二階へ上がり、藍の部屋の前で、

 「たのもう」と重々しく発する。

 「お」という声が聞こえて三秒後に扉が開き、美奈子が扉の向こうから顔を覗かせた。高木と中川は寝台に背を凭せ掛けて床に座っている。

 「お待たせしました…」部屋に入った藍が言うと、

 「お待ち申し上げました!?」ヘンテコな言い回しで美奈子が応えて扉を閉め、部屋の奥へ行って座った。

 碧と藍は三人の前へ盆を置いて自分達も座った。

 「えーと、どっちから食べてもらえばいいかな?」

 「あ…え、と…」予想外の質問に焦る藍。順番など全く考えていなかった。

 「ノーマルレアチーズからでいいんじゃない?」高木の提案に藍はほっと息をついた。

 「じゃ、こっち! 赤い方」と碧。容器は全て白い磁器なのだが、模様の色が赤のものと青のものに分けてある。ゼラチンを入れた方は表面にてかりがあるので判別は難しくないのだが、より判り易くするため、気を遣ったのである。幸い、客用の五客組茶器が三組あるので、そのうちの二組を使った。

 「ティーカップに入ってるとかオシャレ!」中川がウキウキした様子で言う。

 「え……」藍にはそんなつもりが毛頭無かったので、この評価に驚いている。

 「残念なお知らせー。当日はプラスチックのコップです」と高木。

 「じゃ今日ここに来た人だけのイベントか! おトクじゃん」

 「いや、それより二種類食べられるのがおトクだ!」美奈子は色気より食い気で分かり易い。藍はそこに好感を抱いている。

 「間違いない!」碧も美奈子に賛同する。

 「あ、あの…どうぞ…食べて下さい…」自分の言葉を皆待っているのではないかと気づき、藍は慌てて言った。

 「いただきます!」碧と美奈子の声が見事に重なり、高木と中川は少し出遅れた。

 「おいしいね!」最初の評価は高木からやってきた。

「酸味が効いてて私好み!」

 「店で売ってるのよりだいぶすっぱいな」

 「酸っぱいの苦手な人でも大丈夫かな…」作った時には碧以外の評価など気にしていなかったのだが、高木と美奈子の言葉を聞いて急に心配になってきた。

 「これぐらいなら大丈夫っしょ」

 「うん。赤ちゃんじゃないんだし」

 「好みに合わない人はいるだろうけど、おいしくないって人はいないと思うよ」高木の評価に、藍は勇気づけられた。

 「だよねー」碧が締め括り、

「ではでは次はゼラチン抜きです!」盆から青い模様の茶器を取る。

 「イチゴとバナナディップして食べるの?」

 「そのとーり!」パチンと指を鳴らし、同じ手の人差し指で中川を指す。

 「オシャレじゃん」中川の評価はこちらの方が上のようだ、と藍は思った。

 「残念じゃないお知らせー。こちらが当選した場合、試合当日も何かのフルーツを買っていきます。こっちの方が取り回しも楽ー。まとめて大きな入れ物に入れて持っていけばいいからね」

 「じゃ、決を採るまでもないんじゃないの?」と美奈子。美奈子は以前食べたことがあるから、既に比較を終えているのだろう。

 「ダメダメ。ちゃんと両方食べて決めないと」

 「そうだよ美奈ちゃん。食べずに決めるわけにはいかないよ!」

 高木と碧が言う間、中川は無言で苺を一つ取り、萼を外した。

 「…! だよねー!」美奈子は意見を変え、苺を取った。藍にはその理由は分からないが、せっかく作ったので食べてもらえる方が嬉しい。

 「いただきます」今度は藍の声を待たず高木が匙を取り、手を合わせた。

 「いただきます!」声を合わせた後、めいめい好きなように食べる。高木は匙で掬ってレアチーズだけを食べ、碧はバナナ、美奈子と中川は苺につけて口に入れた。

 藍もバナナにフォークを突き刺した。

 「旨し!」美奈子の評価は芳しいが、中川は黙ったままだ。お気に召さなかったとすればどこをどう改善すべきか意見を聞かねばと思っていると、

 「藍さん」と中川が口を開いた。

 「はい…」ゼラチン入りは好評のようだったのに、こちらは何が悪かったのだろう。

 「結婚して下さい」藍が全く予想しなかった言葉が出た。掌を上に向けた左手を藍の方へ突き出し、五指を曲げ掌を藍に向けた右手をその上に添えている。指輪の箱を開ける仕草だということは藍にも分かった。御丁寧に、左膝を立ててもいる。中川のスカートはとても短いので、藍の位置からはパンツの左半分が見えている。この会合に合わせたのか、薄緑だ。

 「ダメです!!」間髪を入れず碧が叫ぶ。

「藍ちゃんはわたしの奥さんになることが決まっています!」

 「えー。じゃ、藍さんがダンナさんで」

 「ブブー!! それもすでに席が埋まっています!」

 「マジか! 藍さんモテ過ぎ! 分かった、じゃ、藍さんちの子供でいいや」

 「む、それならまあいいでしょう」腕組みをして碧が言うと、

 「じゃ、わたしも~」

 「私も~」面白がってのことだろうが、美奈子と高木も便乗してきた。

 「藍ちゃんスゴい! あっと言う間に子供が3人! …ということはわたしが父さんか!」

 「父さんゲーム買ってー」と中川。

 「ならん。父さんの方が買って欲しいわ」

 「父さん旅行連れてってー」と高木。

 「ならん。父さんの方が連れてって欲しいわ」

 「父ちゃんパンツ買ってー」と美奈子。何故パンツ、と可笑しく思い、藍は小さく噴き出してしまった。

 「ならん。父さんのパンツを使いなさい!」

 「どんな父ちゃんか! て言うか入らんわ!」

 「いや入るでしょ」

 「は、い、り、ま、せ、ん!」

 「おお!? 子供ができたと思ったらもう反抗期か!」

 「そりゃ反抗もするわな」と中川。

 「全くだな、姉さん」高木が相槌を打つ。最初に子供を名乗ったのが中川だから姉、ということだろうか。

 「上と下の子まで反抗期!? しかも冷静に! 母さん何とかして!」

 「え…」急に自分にお鉢を回されて藍は焦る。

 「母さんレアチーズ作ってー」中川が口火を切ると、

 「クッキー焼いてー」高木、

 「玉子焼き作ってー」美奈子と続き、

 「母さん、父さんもごはんー」碧までそちらに回った。

 「あ…え、と…クッキーはまだ作ったことないから…練習するね…」生真面目に応えると、

 「ホント? じゃあ私教えるよ」高木がそう言って話を収束させた。

「その代わりこのレアチーズの作り方教えて!」

 「え…うん…」

 「これはまた美味いものが食べられそうな予感ですな、姉さん」

 「その時を逃さないようにしないとな」

 「父さんも仲間に入れて~」

 「仕方ないなあ」

 「ところで母さん、これってゼラチン入ってないだけ? 味付け変えてない?」高木が訊いてきた。

 「うん…ゼラチンだけ…」今のところ、微妙な使い分けという高等な技は藍には無い。そんなにも回数を重ねていないのだ。その少ない経験の中で、ゼラチンを入れる前の言わば半製品を果物につけてみたことはなかなかの工夫と言えよう。藍は何の情報も無い状態でこのことを思いついたのである。

 「へえー。ゼラチンだけでけっこう変わっちゃうんだね」高木は感心しながら苺を取った。

 「うん…そうだね…」藍はバナナをレアチーズに浸ける。

 レアチーズに浸けた苺を半分噛み取って食べた高木が、

 「いいねこれ! フルーツ変えたら色々楽しめそう」

 「うん…」

 「試合に持ってくの私はこっちがいいと思う。色んな味が楽しめるし、まとめて持ってけるからスペース少なくて済むし。各方いかがか」

 「さんせーい」

 「父さんもー」時間差で美奈子と碧が右手を挙げ、

 「異議なし」中川が締め括った。

 「満場一致で決定されました。フルーツは私と美奈子で買っとくから、母さんレアチーズよろしくね!」

 「誉露資駆!」美奈子が合いの手を入れる。

 「うん…!」がんばろう、と藍は思った。

 「さっき思ったんだけどさ、母さんクリソツ姉妹じゃん」中川が面白そうに言うと、

 「私も思った!」

 「なー!」高木と美奈子がすかさず反応した。

 「え…?」何の話か分からず藍は戸惑う。自分は母親役だったはずだが、どういうことだろうか。

 「だよねー! でもお姉さんじゃないんだなー」と碧。

 「え? 従姉とか?」意外そうに中川が訊き返す。

 「なんと! お義母様!」ここまで聞いて漸く藍にも話が飲み込めた。

 「いやウソだろ」美奈子は全く信じていない様子だ。

 「本当(ホント)だよー! ね!」

 「うん…」それほど若く見えているのだろうか、と訝しみながら藍は頷く。

 「え⁉ マジで⁉ 二十代と思った!」美奈子が驚く。二十代とは言い過ぎにも程がある、と藍は思った。

 「なー」しかし高木も美奈子と同じ感想らしい。

 「じゃ、クリソツ親子なのか…」

 「てか、じゃあ藍さん歳とらないってことか! いいなー」

 「確かに!」

 「……」

 「ところで緑ちゃん」碧が呼びかけ、藍は心中ほっと息をついた。碧は、藍が困っているのを察して話題を変えてくれたのかも知れない。

 「ん?」中川はバナナを口に入れたところだ。

 「どんな服持ってきたの?」

 「んー。出すわ(はふは)ー」中川は隣に置いた袋の口を開いた。中には、半透明緑色の袋がいくつか入っている。小分けしてあるのだろう。全部まとめて取り出し、

「母さん、ベッドに置いていい?」

 「あ、どうぞ…」

 「まずユニねー。こっちは鈴音ので、こっちが美奈子の分」二枚のユニフォームを寝台に広げる。鈴音用の方が美奈子用より明らかに小さい。

 「けっこうデザイン違うね」碧の言う通り、基調色の緑色は同じだが、意匠も生地の質感も違う。

 「毎年変わるからね」

 「やっぱちょいキツそうだな…」と美奈子。寸法の話であろう。

 「けっこう伸びるよ。まあ着てみ」

 「分かったよ」美奈子は膝立ちになって寝台の方を向いた。高木が場所を譲って中川の向こう側へ移り、壁を背に座る。

 「いよっ! 待ってました! 生着替え!」碧が囃すが、

 「エロいようちの父ちゃん。てーか体育の時いっつも生着替えだろ」全く動揺の様子無く、美奈子は着ていた長袖のTシャツを脱いだ。

 「ちえっ。赤くなるかと思ったのにー」碧が右拳を顔の横から斜めに振り下ろして言う間に、美奈子はさっさとユニフォームを着た。

 「思ったより着心地いいな、これ」藍達の方に向き直って言う。

 「だよねー。サラサラで」碧の言葉に藍も頷く。

 「プロが着てるのと同じ仕様だからな」緑の解説に、

 「あ、そっか」碧が納得する。

 「ちょいキツいけどな」確かに、胸周りは服が身体にぴったりとついている。

 「そんぐらいならいけるっしょ」

 「まあな。思ってたよりは楽」

 「美奈ちゃんやっぱりセクシーだよ!」碧が親指を立てた右拳を美奈子の方へ突き出す。

 「セクシーじゃねえって」

 「おなか周り余裕だし」

 「そこは思ったより余裕だったな」当然である。このユニフォームには男女の区別は無く、基本的に上から下まで同じ幅の布を重ね、縫い合わせて作られているのである。身幅が多少の曲線を描いていたとしても、前後の布の大きさが違うということは無いので、胸が大きく且つくびれの有る人が胸周りぴったりに着れば、その下には必ず空間が出来る。その点ではセーラー服と同じと言えよう。立体的に仕上がるよう布を裁断する女性用の服とは違うのである。

 「美奈子それでいいね」

 「んー、まあ」

 「んじゃ次は鈴音だな!」

 「ん」

 中川は寝台の上に広げたユニフォームを裏返し、藍の左隣へ移動してきた。高木に場所を譲ったのであろう。

 「今度は鈴音ちゃん生着替えか!」

 「だから体育の時いつも生着替え」

 「くっ、鈴音ちゃんも恥じらわぬか。父さんつまんないー」

 「姉さーん、うちの父ちゃん変な性癖だよー」と美奈子。

 「そうね。でもこんなでもわたし達のたった一人の父さんなの」ここでもヘンテコ劇場が始まった、と藍は思った。碧の周りに集まる人物は皆こうなのだろうか。一度台詞を切った中川は、また喋り始めた。

「それにね、どこがいいのかわたしには全っ然分かんないけど、こんなでも母さんが愛してる人なの」

 「うん、そうだね、ミドリ姉さん」ユニフォームに着替えて座り直した高木が相槌を打つ。

 「あんまり責めるとかえって喜ぶから、生温かいくらいの目で見守ってあげて」

 「うん」「分かったよ」美奈子と高木が頷くと、

 「うちの娘はいい子たちだ…!」碧が左腕で両目を覆った。

「これが娘萌えってやつか…!」

 「姉さーん、やっぱり変な性癖だよー」

 「そうね」

 「あの…生温かい目って…?」どうにも意味を汲み取ることが出来なかったので、藍は思い切って訊いてみることにした。

 「温かい目と冷ややかな目の間?」明快に、しかし疑問形で回答が返ってきた。

 「あ、なるほど…」分かった。だから生温かい目なのか。理解すると、中川の台詞が急に可笑しく思えてきた。それが顔に出たのか、

 「どうしたの?」中川に訊かれた。

 「あ…えと…緑ちゃんの話が面白いなって思って…」藍は、中川さんと言おうかとも思ったが、自分が名前で呼ばれていることと碧や美奈子が名前で呼んでいることを鑑み、再び思い切って緑ちゃんと呼んでみた。

 「姉さーん、母さんは変な人じゃなくてよかったね」

 「そうね。でもこの父さんを愛してるのよ」

 「でへへへ」右手を頭の後ろに置いて碧が笑う。

 「さてと。鈴音、だいたいピッタリ?」

 「んー、ちょい緩いくらいだけど、もっと緩い方がいいな」

 「じゃ、美奈子とエクスチェンジしてみっか」

 「いやいやそんなの入んないって」

 「胸はちっとキツいかもだけど、入る入る」

 「いけるよ美奈ちゃん! さっきウエストスカスカだったじゃない!」

 「いやいや」

 「そもそもこの会の目的それだったじゃん」と緑子。

 「今の今まで忘れてたろ、絶対!」

 「美奈子ー、まだー?」鈴音は半脱ぎの状態で止まっている。美奈子を急かすため、意図的にそうしているのだろう。

 「えーい、分かったよ!」美奈子はユニフォームの首周りを両手で持って男脱ぎで一気に脱いだ。大きな胸が服に持ち上げられ、服が脱げたところで元の位置に戻る。ブラジャーの一番盛り上がっている部分が、恐らく十五センチくらい揺れただろう。真正面から見てしまった藍は、あんなにも揺れるものかと驚き、すぐ恥ずかしくなって頬を赤くした。

「ん!」と今脱いだユニフォームを鈴音の方へ突き出す美奈子。

 「はい」鈴音はそれを受け取りつつ自分の着ていたSサイズを美奈子に渡した。

「おー、ゆるゆる。楽でいいわー」頭からすぽっと被った鈴音は両腕を袖から出す。本人の申告通りかなり余裕が有るように見える。鈴音は藍や碧、それに緑子と比べればずっと胸が大きく、先程の服では多少それが強調されていたが、今はかなり目立たなくなった。

 「鈴音はこれでもヨユーだったろ! やっぱキツいわこれ」対して美奈子は、袖と首はすぐ通ったが、胸に引っ掛かって止まった裾を引き下ろしている。

 「全然余裕で入ってるって。ウエストまだ隙間あんじゃん」

 「美奈ちゃんスゴいよ! 超セクシー!」

 「もはや『エロい』の領域だな」鈴音の言葉には遠慮が無いが、碧の表現よりも的を射ていると藍は思った。恐らく、碧は美奈子に気を遣って表現を控えめにしたのだろう。

 「これはヤバいな。男子試合どころじゃなくなるわ」緑子の口調にからかいの調子は無いが、

 「~~~~!」美奈子は顔を真っ赤にする。何か言おうとして言葉が見つからないようだ。

 「じゃ、鈴音、そのユニでいい?」

 「いいよー」

 「オイ」美奈子は辛うじてそれだけ発したが、

 「ところでミドリ何でこんなゆるいの着てんの? 私より全然スレンダーじゃん」鈴音はそれを無視して話を続けた。

 「あー、鈴木君の父ちゃんと一緒。寒い時上着の上から着れるように」

 「サッカーってそんな寒い時もやってんの?」

 「やってるやってる。ヘタすっと雪の中で応援だよ」

 「マジか! そりゃ上着いるわ」

 「だろ」

 「ミドリって冬もミニスカ?」抵抗を諦めたのか、美奈子が会話に加わってきた。

 「トーゼン。タイツでミニスカ」

 「マジか。(オトコ)だな」松本の冬は冷える。ミニスカートで冬中過ごすという者はほぼ居ない。

 「慣れ慣れ。タイツ意外とあったかいし」

 「ムリムリ。わたしタイツの上から暖パン」

 「私もー」

 「藍さんと相生ちゃんは?」

 「スカートだったりズボンだったり。スカートの時はストッキングはくー」

 「私は…スカートとタイツ…」藍の場合、年中その組み合わせである。夏場はタイツが薄手に、冬場は厚手になるだけだ。夏にもタイツを着用するのは、肌を見せるのが憚られるからだ。

 「二人とも風の子だな」鈴音は軽く驚いた顔だ。碧はともかく、藍が意外と薄着だと感じたのであろう。

 「そう? みんなそんな感じだったけど」

 「みんなとは」と美奈子。

 「陸上部の子とか」

 「やっぱスポーツマンは違うか」

 「相生ちゃん陸上部?」今度は緑子。

 「中学はね。今は水泳とスキー」

 「掛け持ちかよ!」叫んだのは美奈子だが、鈴音と緑子も驚きの表情だ。

 「シーズン反対だからちょうどいいよね」

 「いや、そりゃそう言っちゃあそうだけど、なあ」美奈子が碧から隣の二人に視線を移す。

 「どっちも掛け持ちOKって言ってくれてよかったよー」

 「高校って…スゴいのがいるんだな…」美奈子の言葉に、いや、と藍は心の中で反論した。碧は中学でも運動部を掛け持ちだったのだ。もちろん、三人はその事を知らないだろうが。

 「陸上はやらないの?」

 「うん。中学でもホントはスキーやりたかったんだけど、部がなかったから代わりに陸上やってたんだ」

 「じゃ水泳やればよかったじゃん」

 「やってたよー」

 「なにっ!? 中学でも掛け持ち!? そんなヤツいた?」

 「ううん」「ううん」「ううん…」緑子、鈴音、藍と順に首を振る。

 「だよなー。訂正。高校になったらスゴいのがいるんじゃないわ」

 「うん。相生ちゃんが規格外なだけだ」

 「そんなにホメられると父さん照れるじゃないか」

 「いや、ほめてるんじゃなくてあきれてる」

 「ぐはーっ。父さんショック!」

 「ほら鈴音。あんまり言うとかえって喜ぶから」

 「あ、そっか」

 「緑ちゃん、ユニフォーム以外は?」漸く碧が本題に戻した。

 「ああ、まずはタオマフな」緑子はまた別の袋からタオルを複数取り出して広げた。何れも緑色、幅十五㎝長さ一m余りの細長いタオルで、MATSUMOTO YAMAGAと書かれている。字体は品物によって様々だ。以前、鈴木が頭を拭きながら教室に入ってきた時の物も同じような寸法だった。

 「いっぱい種類あるねー」碧が寝台の傍に寄って言う。藍も碧の肩越しに見てみると、寝台には五本のタオルが広げられており、全て違う意匠だった。

 「毎年3、4種類出るから。ユニに比べたら安いから買いやすいんだよね」概ね一桁値段が違う。

 「ナルホド」

 「これは必須アイテムだから一本ずつ持ってって」

 「らじゃ!」碧が一番手前に置かれたタオルを取り、

「おお! 今治タオルだ」裏面の端を見て驚く。

 「へー」

 「高級品じゃん」鈴音と美奈子も感心しているが、藍には何の事だか分からない。

 「あの…いまばりタオルって…?」いまばり、という単語を藍は初めて耳にした。

 「四国の、何県だっけ?」碧が回答し始めるが、すぐに躓いた。

 「愛媛」緑子が即答。支援を受け、碧はすぐ回答を再開した。

 「愛媛の今治市で作ってるタオルのブランドでね、いろいろ基準があって、満たしてないと今治産でも今治タオルを名乗っちゃいけないんだって」登録商標なのである。

 「だから高級品なんだね…」

 「そゆこと~」美奈子が締め括り、手前のタオルを取った。

 鈴音が続き、残った二本のうち手前に置かれた方を藍が掴むと、緑子が最後の一本を手に取り口を開いた。

 「んじゃ説明するねー。まずキックオフ前にみんなで歌う時ー。最初こうやって掲げて」緑子はタオルの両端を持って頭上に掲げた後、

「途中から振る」長いタオルを半分に折り、合わせた端から三分の一辺りを右手で掴んで、頭上前方でタオルを振り回す。

 「どんな歌ー? 歌ってー」碧の要求に、

 「うん」緑子は軽く応えて藍を驚かせた。相手が碧を含む同級生四人であっても、人前で歌ってみせるなど恥ずかしくてとても出来ない。

「おーお、おおっおー、おーおおー、おおっおー、勝利を、目指しーてー、さあ行くぞ山雅、走り出せーーーーー、松本山雅ーーーーー、掴み取れーーーーー、今日の勝利をーーーーーーーー。以下繰り返し。回数は日によって違うけど二回か三回がほとんどだね。はい、覚えたね?」恐らく緑子は冗談で言ったのだが、

 「はーい!」碧が元気よく返事し、

 「え!?」美奈子と鈴音、それに緑子までが驚きの声をあげた。声には出なかったが、藍ももちろん驚いている。

 「え?」三人の反応に碧は戸惑っている様子。

 「歌ってみ」緑子が促すと、碧は今の歌をそのまま歌った。

 自分が覚えきれていないため判定は出来ないが、緑子が歌った通りであるように藍には思われた。

 「合ってるわ」

 「マジか。相生ちゃんスゲー」

 「オウム返し能力異常に高いな」

 「え? みんな覚えてないの?」

 「そんなすぐ覚えらんね」

 「うん」「うん」鈴音と緑子が声を合わせて美奈子に同意し、藍も頷く。

 「ま、覚えられなかったらタオマフ掲げとくだけで大丈夫。んで、一回途中でドラムが止まったら、そっから速いテンポになって、タオマフ振る。歌詞は同じ」

 「楽しそう!」と碧。

 「うん。けっこう盛り上がるよー。お! 『One Sou1』忘れてた! 今の歌の前にOne Soulって連呼する。それと、選手紹介の前にアナウンスで『一つになろう!』って言ったら一回だけOne Soulって叫ぶ。やると気分上がるから外さないように!」

 「はーい!」

 「うわー、わたし絶対忘れる」自信満々に美奈子が宣言する。

 「都度合図すっから。当日鈴木君が言うと思うけどな」

 「言うな」

 「言う言う」

 言うだろうな、と藍も思う。

 「鈴木君に感謝!」碧が突如合掌した。

 「何を」美奈子が訊く。

 「今回の企画」

 「あー」

 「それはそだな」

 「うん」緑子の言葉と同時に藍も頷いた。こうして美奈子や鈴音、緑子と少し仲良くなれたのは、元を辿れば鈴木がこの企画を提案したからだ。

 「鈴木君のおかげで娘が三人もできたよ~」

 「いやー、そこは感謝できんな」

 「父ちゃんヘンタイだからな」

 「そうだね、ミドリ姉さん」

 「もうー、そんなにホメられると父さんやる気出ちゃうじゃないか」

 「ダメだこりゃ」

 「次行ってみよう」

 「じゃ話を戻して」緑子の説明はまだ終わっていないようだ。

 「どこまで」美奈子が訊く。

 「タオマフ振るところがあと二ヶ所」

 「そこか」

 「ゴールした時ね。歌は覚えなくてもとにかくタオマフは振って」

 「どんな歌ー?」と碧。覚えるつもりなのであろう。

 「デデン、デデン、デデデンデン、ってドラムが入って」ここで一度言葉を切った。

「止まらねえ俺ーたちまつもーとー暴れーろ荒ーれー狂えー、ラララーララーラララー、叫び、オイ、うーたーえー! を三回」

 「おー、景気いい歌だねー!」碧はもう覚えたようだ。

 「試合で一番盛り上がるとこだからな、思いっきり振ってよ」

 「たくさん振れるといいね!」

 「今季の平均では一試合一回とちょいだけど」

 「サッカーってあんまり点入らないもんな」

 「だからゴールしたらサクレツしないと」

 「そうだね! レッツ炸裂!」

 「と、最後に勝利の踊り。選手がピッチ一周してゴール前で礼したら、すぐ始まるから」

 「どんなの!?」

 「よし、相生ちゃん、立って」

 「うん」返事と同時に、飛び上がるような勢いで碧は立ち上がった。少し遅れて緑子も立ち上がり、碧の右側に並んだ。

 「踊りっつっても前半は手だけ」緑子は右手を手刀にして頭の少し上くらいの高さに上げた。

「勝利を信じてガンガン行こうぜ、山雅の勢いは止められない、オイ!」歌いながら緑子は右手を前方に振る。中空に手刀を打ちつける動きだ。これは藍にも一回で覚えられた。曲が、アルプス一万尺だったからである。中川は、右手を下ろし、左手で碧の腰を抱いた。

「ラーンラララララララ、ラーンララララララ、ラーンララララララララララララ、オイ!」歌いながら、緑子は足を左右交互に二十センチほど上げた。それを見た碧も緑子に動きを合わせる。そして、オイ、のところで緑子はまた右手を上げて振った。事前の説明が無かったので、流石の碧も動きを合わせられない。

 「はい、全員立って!」

 「はいはい」ぞんざいな返事をして美奈子が立ち上がる。返事はしなかったが鈴音も立ち上がった。藍は、碧が手を差し伸べてくれたので、それを掴んで立ち上がり、碧の左側に立った。

 「いくよー。勝利を信じてガンガン行こうぜ、山雅の勢いは止められない、オイ!」緑子に合わせて碧も歌う。藍はやはり恥ずかしくて歌うことが出来なかったが、碧と同じように上げた右手を前に振った。

 碧の左手が腰に当てられ、藍も慌てて右手で碧の腰に触れた。右腕の下に当たるのは緑子の左腕だろう。

「ラーンラララララララ、ラーンララララララ」ここも、碧を手本に足を上げる。なるべく碧に動きを合わせようと藍は頑張った。

「ラーンララララララララララララ、オイ!」

オイ、で右手を挙げるのも忘れなかったが、ここも少し遅れてしまった。碧は、ぴったりと緑子に合わせた。

「そんな感じー。ちなみに今の×3」

 「これ勝った後にやったら楽しいだろうねー!」

 「楽しいよー。勝てるようにがんばって応援して!」

 「らじゃ!」碧は敬礼した。

 「試合中のチャントは何回も繰り返すから自然に覚わる。から割愛。あ、一回しかやらないのがもう一個あったけど、いっか、タオル振らないし。長いし」

 「えー! せっかくだから教えてー」

 「うむ、熱心でよろしい。練習前に選手がゴール裏に来て挨拶したら歌うチャント。ドラムがデン、デン、デン、デン、デン、デン、デケデケデケデケ、って入って、松本山雅の(もののふ)たちよ、今日は横浜がやーって来たーぜ、相手は強いがおーれたちと、共に戦い、撃ちやーぶれ! おーれたーちのーー心ーー、一つにーー束ねーー、ゴールーー穿てーー山雅ーーーーーーー、おーれたーちのーー声をーー、力にーー変えてーー、勝利ーー掴めーー山雅ーーーーーーー。んで、『おーれたーちのー』以下一回だけ繰り返し」

 「かっこいい曲だね!」碧が言い、藍も頷く。勇ましくて如何にも試合前という感じの旋律だ。

 「今年の新作」

 「え? 毎年新しいの作るの?」

 「チーム全体のチャントは毎年じゃないね。選手は毎年入ってくるから毎年新作があるけど」

 「あ、そっか」

 「覚えた?」

 「やー、今のは長かったから自信ないなー。でも歌い始めたら出てくると思う」

 「マジか」

 「スゲーな」

 「じゃ、当日よろしく。デカい声で歌ってよ」

 「まあほどほどで。わたし大声になると音痴だから」

 「分かった。音痴にならない範囲でデカい声」

 「らじゃ! うおー、楽しみになってきたー! あ、ほかのアイテムは?」

 「ん」緑子は残った袋の中身を寝台の上に引きずり出した。かなり短いスカート、野球帽、腕カバー、髪を括る輪ゴム。長方形の柔らかそうな樹脂に鳩目を打って紐を通したものと、六センチ四方ほどの分厚い布は藍には用途が分からない。いずれにも紋章や絵が描かれているので、松本山雅の応援用品なのであろうとは思うが。

 「わー。見事に緑色だねー。山雅の応援以外でも緑色なの?」

 「『おれの名前を言ってみろ!』」緑子が低い声色を使って凄んだ。

 「あ、そっか、緑ちゃんだった。いやそれより、ここにも北斗の拳読者が!」

 「やはり相生ちゃんは読んでいたか」

 「え? 父さんが読んでるのを読んで言ったの? うちの娘コワい!」言いたいことは分かるが、字面だけ見ると変だ。

 「フフフ。読め読めだよ、父さん」

 「いやフツー読んでるだろ」美奈子が入ってきたが、彼女たちの世代では読んでいない人の方が多いだろう。昭和六十三年に連載を終えた漫画なのである。もちろん藍は読んだことが無い。

 「だよねー」碧も相槌を打つ。類は友を呼ぶ、という言葉が藍の脳裡に浮かんだ。

「おや。緑ちゃん」

 「何?」

 「藍ちゃん」

 「うん…」また碧が何か思いついたようだが、何なのか分からない。

 「そして碧…五人中三人も色関係の名前ってスゴくない?」

 「あー、言われてみれば確かに」緑子は少し感心した様子である。

 「うん…」

 「紫先輩入れてカルテット組むか…」

 「ゆかり先輩て誰」

 「三年生の人で、図書室の(ぬし)

 「紫って書いてゆかりさんってこと?」暫く黙って聞いていた鈴音が会話に入ってきた。

 「その通り! 鈴音ちゃんスゴい! よく知ってるね!」

 「そんな読みあんの?」美奈子は訝しげだ。

 「うん。ゆかりごはんのゆかりだって」

 「へー」

 「名付けて青基調カルテット」

 「間違ってねえけどセンス()」一秒も間を開けず美奈子がバッサリ斬り捨て、

 「だな」緑子も頷く。

 「藍ちゃーん、娘たちがキビシいよう!」

 「え…うん…」と言われても、藍には何をどう言えばいいのか分からない。評価としては藍も美奈子に賛成なので余計である。

 「甘やかしちゃダメだよ母さん!」

 「あ…え…、と…」混乱に拍車が掛かり、半ば恐慌をきたしていると、

 「こらー! 藍ちゃんを困らせちゃダメー!」碧が両手を拳にして頭上に上げた。その姿が可愛らしいと思い、自分では気づかなかったが、藍の口元が少し綻んだ。

 「最初に困らせたの自分だろ」美奈子の反撃。

 「え?」

 「この父さん分かってないよ」と緑子。

 「ダメだこりゃ」鈴音。

 「次行ってみよう」美奈子が締め括ると、

 「これ何?」と碧が長方形の樹脂製品を取った。松本城と思しき城が描かれている。

 「チケットホルダー」

 「おお。なるほど」碧が裏返すと、裏側には透明で薄い樹脂が貼ってあり、紙程度の薄いものを間に入れられるようになっていた。

 「再入場の時に便利」

 「一回出てまた入れるんだ」

 「うん。ハーフタイムのトイレとか激混みだから外まで行った方が早かったり」

 「へー! じゃ、これも借ります!」

 「わたしもー」

 「私もー」

 「私も…」藍は最後に残った一枚を取った。紋章が描いてある。当然松本山雅のものだろう。

 「緑ちゃんのはないの?」

 「わたしはシーパスだから。出すのめんどいからケースに入れっぱなし」シーズンパスは、クレジットカードやキャッシュカードと同じ大きさで、ICカードである。

 「あー」

 「チケットはもう渡ってるんだっけ?」

 「ううん。当日集合してからもらうことになってるよ」

 「鈴木君が忘れない限り大丈夫ってことか」

 「だね。人数多いからその方が安全だね」確かに、二十九人も居れば忘れる者が一人くらい居てもおかしくはない。

 「もし鈴木君が忘れても、取りに帰れるくらいの時間に来るし」

 「そんな早いの?」

 「キックオフの5時間前目標で来るって。シーパスホルダーの先行入場抽選前に、知り合いに席取り頼むんだって」

 「色々努力してるねえ」碧は感心しているが、

 「自分の企画だからな」美奈子は鈴木に対しては評価が厳しい。

 「実際29人分まとまった席確保すんのは大変だろな。わたしも中学の同級生に頼んでるし」観戦マナーとして、席の確保は一人一席までと決まっている。つまり、手伝ってくれる知り合いは、藍達が入場してくるまで自分の席を確保できないので、ホイホイ引き受けてくれるとは思えないのである。

 「同級生いいやつだ」と美奈子。

 「うちのクラスの男子紹介するからって言ったら快諾」

 「やるな姉さん」

 「誰紹介すんの?」

 「誰って、先行入場する男子。絶対顔合わせるじゃん」

 「姉さん天才!」

 「ミドリ姉さん(ワル)!」

 「もっとホメてホメて」緑子は両掌を上に向けて指を自分の方へ曲げる動作を二回繰り返した。

 「誰が先行入場するの? 鈴木君以外」碧が訊く。

 「百瀬君と」

 「戦国バカ一代か」と美奈子。先日の一件で、百瀬が戦国時代に詳しいことは、同級生全員の知るところとなった。

 「田沢君と」

 「三国バカ一代か」

 「そうなの?」

 「三国志スゲー詳しいよ」

 「三国一のバカみたいだぞ、その言い方」鈴音が茶々を入れるが、言っていることはその通りだと藍も思った。

 「そだな」と言ったものの、美奈子は訂正はしなかった。

「と?」

 「小林君と」

 「神社バカ一代か」

 「そうなの?」と碧。

 「松本市内の神社はあらかた自転車で回ったらしいぞ」

 「自転車で!? やるな、小林君」碧は感心したようだが、藍は驚いている。小林とは話したことも無いのだが、自分と同じ本の虫のような印象を受けており、自転車で駆け回るような人間だとは全く思っていなかった。しかも、松本市はかなり広く、地域によっては山坂が激しい。

 「見かけによらないタイプかな」と美奈子も言う。

「と?」

 「山田君」

 「トランプバカ一代」この評価には何の疑問も提出されず、全員が頷いた。学級の恐らく全員が知っていることだが、山田、洞、斉藤、河内の四人組は、休み時間には必ずと言っていいほどトランプで遊んでいる。授業の合間の十分の休憩でも、である。

 「緑ちゃんの友達が喜んでくれるならいい取引だよねー。win-winてヤツだ」碧が冷静に分析する。言葉の中に羨ましそうな響きが全く認められなかったことに藍は安堵した。

 「いやいや、取引材料にとってもいい話だろこれ」と美奈子。取引材料とは、先行入場する男子のことであろう。

 「わ、そだね! じゃあwin-win-winだね!」

 「一番おトク感あるのが鈴木穂高ってのがちょいアレだけどな」座席も確保出来、他校の女子とも知り合いになれるので二重に得ということだろう。

 「まあまあそう言わず、大ーきな心で」碧は美奈子の胸の輪郭に沿って手を動かした。

 「ミドリ姉さん、父ちゃん手つきがエロいよ」鈴音が緑子の方に身を寄せながら言う。確かに、と藍も心中で頷いた。

 「仕方ないだろう、父さん巨乳が好きなんだから」

 「開き直ったよ、ミドリ姉さん」鈴音が呆れたように言えば、

 「聞きたくなかったなこのカミングアウト」緑子も同じような調子の声で言うが、

 「リアル父ちゃんだったらもっとイヤだけどな」御尤もな美奈子の意見に、

 「確かに」緑子、鈴音に碧まで声を合わせ、藍も頷いた。父親の女性の好みというのは何だか生々し過ぎて知りたくない。

 「カミングアウトするほど好きなんだったら美奈子揉ませてやれば?」緑子が無責任に無茶を言ったところ、

 「別にいいけど」美奈子は逡巡なくそう応え、

 「マジか」一同を驚かせた。

 「ホントに?」と訊きつつ、碧は既に両掌を美奈子の胸の前で構えている。

 「いいよ別に。減るもんじゃなし」

 「むしろ増えると言うな」と鈴音。胸を揉むと大きくなるという風説はよく知られているが、真偽は定かでない。

 「これ以上増えなくていいけどな」

 「言ってみてー! そのセリフ」と緑子。

 「ミドリくらいスレンダーな方がいいだろ」

 「胸だけ大きくなりたい」

 「ゼータク者!」鈴音が横槍を入れるが、

 「鈴音はけっこう大きいじゃん! 美奈子がデカすぎて目立たないけど!」

 「オイ」咎めるように美奈子が言っても緑子は止まらない。

 「CかDくらいあんでしょ? わたしBだよ!? それもギリギリ」逆襲に遭った鈴音は、

 「や…確かに、Dだけど…」声が小さくなった。

 「あのー」美奈子の胸の前で手を開いたまま、碧がおずおずと声を掛けた。こんなに遠慮がちなのは彼女にしては珍しい。

 「いつでも来なさい」美奈子には碧の言いたいことは分かっているようだ。

 「なな生でもいいですか!?」

 「スゲーな父さん」また鈴音が緑子の方へ身を寄せる。

 「カミングアウトしちゃったらコワいものなくなるのね」緑子も心持ち鈴音の方へ身をもたせかけた。

 「要求がエスカレートしてきたな。まあいいけど」

 「いいの!?」碧を含む三人の声がぴったり重なった。が、藍には三人が何故驚いたのか分からない。生、に反応したことは間違い無いと思われるが。

「では失礼して」美奈子の気が変わらないうちにと思ったのか、碧はすぐ行動に移った。ユニフォームの裾から両手を入れ、上に移動させると同時に、膝立ちになる。

 ここで漸く生の意味が分かり、藍は衝撃を受けた。

 服の胴回りに余裕が無いため、碧の腕に持ち上げられて裾が捲れ、美奈子の腹部が垣間見える。想像していたよりずっと色白で、藍はどきりとした。

 そして、碧の手が胸部に差し掛かると、服はさらに捲れ上がり、腹部のほぼ全てが露わになった。碧や自分、梨乃に比べればずっと贅肉が多いが、本人が言うほど太っているということはない。

 碧の両手は乳房の上半分辺りに到達すると、乳房を軽く掴んだ。もちろん服で隠されているのだが、手の形が浮き上がっていて、どういう状態なのかは服の上からでも容易に判るのである。

 そして、服の下からちらりと覗くブラジャーの桃色が何故か藍の脳裡に焼きついた。ユニフォームへ着替える時にブラジャー全体を目にしていたのだが。

「おぉ~、柔らかい! スゴい! めっちゃ気持ちいい!」碧は驚嘆の声をあげるが、

 「相生ちゃん、エンリョねえなー」美奈子は何の感慨も無い様子だ。

 「ブフフフ。スゴい! この谷間! 深い!」碧の親指が乳房と乳房の間に入っているものと察せられる。

 碧は十数秒軽く揉んだ後、

「あ~、この胸下から持ち上げてみたい!」

 「それは有料コンテンツだな」

 「ぐはっ!? 初回無料キャンペーンとか…?」

 「ない。ブラをはずすところから有料だ」

 「わたしの胸も揉んでいいから…」

 「いらんわ!」

 「いらんな」

 「いらん」緑子と鈴音も美奈子に同意する。

 「くっ…せちがらい世の中だ…!」碧は名残惜しげに両手を引っ込め、裾を元に戻した。

 「おこづかいが貯まったら来るがよい」

 「相生ちゃん、そんな気持ちよかった?」緑子が訊く。

 「すんごい気持ちいい! 柔らかいし大きいし微妙に温かいし!」

 「マジかー。美奈子ー、わたしも」

 「ミドリも!?」愕然として鈴音が緑子の方を向く。が、

 「ついでだ、来なさい」当の美奈子は全く動じる様子が無い。

 碧に場所を譲られ、緑子は美奈子の正面に座った。

 そして、碧がしたのと同じようにユニフォームと身体の間に手を差し入れる。と藍は思ったが、緑子は裾を掴み、胸に印刷された「EPSON」の文字が見えなくなるところまで一息に引き上げた。代わりに美奈子の腹部と胸部が姿を現す。

 「オイオイ、相生ちゃんよりエンリョねえな」

 「だってメンドいし。美奈子気にしないっしょ」

 「まあな」

 「にしてもデカいな。両手で何とか片乳収まるぐらいか」美奈子の右胸を包むように両掌を当てた後、両乳房の上から両手を当てて軽く揉む。

「ホントだ! すっげー気持ちいい!」

 「でしょー」碧は何故か得意気だ。

 「やべコレやめらんね」緑子の手の動きが大きくなる。

 「でしょー」

 「おほめにあずかりコーエイだが、ちょい痛いな」

 「あ、ゴメン」緑子は動きを小さく、ゆっくりにして揉み続ける。十秒ほど経った頃、

 「よし。サービスタイム終了ー」美奈子が宣言し、緑子はいやいやながらという様子で手を引っ込めた。そして、美奈子のユニフォームはそのままにして鈴音に向かい、

 「鈴音も揉んどけ!」と言った。

 「えー」

 「絶対揉んどくべきだって!」

 「そうだよ鈴音ちゃん! この機会を逃したらもう一生来ないかも知れないよ!」

 「えー」

 「揉めば分かる!」

 「そうだよ!」

 「分かった分かった」

 鈴音の応えを聞いて緑子は美奈子の前から左手側へと移った。鈴音は美奈子の前に正座する。美奈子の右手側には碧が居るので、三人に囲まれている形である。

 座ってはみたが手を伸ばしづらそうな鈴音を見て、

 「いつでも来るがよい」美奈子が促した。ちなみに美奈子はさっきから胡坐をかいているのだが、ズボン着用なのでパンツが見える心配は無い。

 「じゃあ…失礼して…」碧と同じ台詞を口にし、膝立ちになって美奈子の乳房の上に掌を載せる。

 「柔らかっ!」

 「でしょー」「だろ」碧と緑子の顔に「ほらね」「だから言ったじゃねーか」と書いてあるのが藍には読みとれた。

 「なるほど気持ちいいわ」鈴音も、特に何も言われていないうちから乳房を揉んでいる。

 「でしょー」「だろ」

 「これは癖になるな」

 「だよねー」「だな」

 鈴音も十数秒ゆっくりと揉んでから正座に戻り、

 「堪能いたしました」自分の膝に両手をついて上体を前に倒した。本人は深々と礼をするつもりだったと思われるが、少し前のめりになり、額の上の方が美奈子の胸に当たってしまった。

 「あっ! 鈴音ちゃんズルい!」すぐ碧が叫べば、

 「気持ちよかったからってそこまでしなくてもいいだろ」緑子も呆れたように言う。

 「わざとじゃねって」鈴音の少し慌てた様子からすればその言葉に嘘は無かろう、と藍は思うが、

 「いーや! 鈴音ちゃんだけそんなことしてズルい! わたしもー」

 「そうだそうだ! わたしも!」

 「二人ともさわりたいだけだろ! まだ一人残ってんでしょうよ」藍を見ながらそう言い、鈴音は立ち上がった。

 「おっと、これはワタクシとしたことが、つい取り乱してしまいました。ささ、藍ちゃんどうぞどうぞ」碧は右手で藍の背に触れる。

 「え…!」藍はまた軽く恐慌をきたした。話の流れとしてこうなってもおかしくない、いや寧ろこうなることを予測して然るべきだったのだが、藍は完全に傍観者のつもりで一連の揉み倒し大会を眺めていたのである。

 「さあさあ!」碧に急かされ、藍は美奈子の前に座った。正座である。鈴音が正座しているのを見た時は演技と言うか冗談の表現としてそうしているものと思ったが、そうではなかったことが今分かった。美奈子の乳房に上から触れることになるので、床に尻をついた体勢では少し低いのである。

 「あの…よろしくお願いします…」先人の轍を踏まぬよう注意して頭を下げると、

 「藍さん藍さん、それかえってエロい」と、全く予想しなかった反応が返ってきた。

 「え……」藍は戸惑う。何がエロかったというのだろう。

 「今からコトに及ぶみたいだもんな」緑子が可笑しそうに言う。藍としてはそんなつもりなど毛頭無かった訳だが、そう言われればなるほどそう思えてきた。

 「しかも藍さんの方が店の女」鈴音も面白がっているような表情だ。

 出鼻を挫かれて困っていると、

 「藍さん、いつでも来なさい」助けてくれたのか、単に急かしただけなのか、美奈子にそう言われ、

 「じゃあ…失礼します…」美奈子の胸に両手を置く。それだけで、碧達の口から飛び出した感想に同意することが出来た。柔らかい。碧が以前に使った「ぷにぷに」「ぺもぺも」「ぽよぽよ」のどの単語でも表現しきれない柔らかさだ。敢えて言うならば「ぽよぽよ」が一番近いと思うが。

 藍は、誘惑に抗いきれず、両手で乳房を揉んでみた。梨乃の胸も素晴らしい触り心地揉み心地であったが、それとは全く違う揉み心地、全く違う気持ち良さ。それが単に大きさの違いに因るものか、それとも体質に因るものなのかは分からないが。

 数度ゆっくりと僅かに手を開閉させ、藍は手を離した。

 「藍さんはお気に召さなかったか」美奈子が少し残念そうに言う。

 「え…!」藍としては、美奈子が迷惑に感じないようにと気を遣い、後ろ髪引かれる思いで手を引いたのであるが、そのように誤解されるとは。

 「美奈ちゃん、藍ちゃんは遠慮しただけだと思うよ」すかさず碧が助けてくれる。

「ね?」

 「うん…!」

 「エンリョは無用だ、藍さん。改めて来なさい」美奈子は両掌を上に向けて四指を素早く二度折り曲げた。

 「あ、はい…」藍は再び両手を美奈子の乳房に置き、今度は手全体で押してみる。やはり、梨乃の時よりも抵抗が少ない。梨乃の、押し返してくる弾力も堪らないが、これはこれで素敵な感触だ。

 三度押し込んでから、十秒ほど軽く揉んで、藍は手を離した。やはり名残惜しい。

 「もういいの?」

 「うん…あの…ありがとうございました…」美奈子に答えてユニフォームの裾を本来の位置に戻す。

 「えー何それ! 藍さんだけ扱いが違う!」緑子が不平を吐いた。

 「そうだそうだ! エコヒイキ反対!」鈴音も同調する。藍はそれを聞いて心苦しく思ったが、

 「ヒイキするね! 藍さんにはおベントとデザート分けてもらってるからな!」美奈子の言葉に、藍は少し気が楽になった。贔屓される理由が明確になったからである。

 「えー! じゃ今日の晩ごはん私が作るんだからその分揉ませろ」鈴音がそう言うと、

 「しゃーねーなー。ゴハンの後でな」美奈子はあっさり承諾した。

 「よっしゃ!」鈴音はその場で右手を握って胸につけた。

 「鈴音ズルい!」緑子は納得しない。が、

 「ミドリもごはんかお菓子作ればいいじゃん」と反撃され、

 「くっ…!」引き下がらざるを得ないようだった。

 「美奈ちゃん、この後鈴音ちゃん家に行くの?」碧が訊いた。藍も少し気になったことである。

 「うん、泊めてもらう」

 「え!? じゃ寝込み襲ったら鈴音ちゃん揉み放題!?」

 「オイ」

 「いやー、それまで我慢できないだろうなー」

 「えー!? じゃ、今夜は寝かせないってヤツですか!?」碧の冗談を聞いて、確かにずっと胸を揉まれていては眠れないだろう、と藍は冷静に考えた。

 「オイ」「それそれ」

 「美奈ちゃん寝る時ブラする派?」

 「そんなヤツいんの?」

 「いるよー。美奈ちゃんはノーブラ派、と。鈴音ちゃん、朗報!」

 「だな!」

 「オイ」

 「じゃ今夜はわたしも泊めてもらうかー」

 「もらいますかー」緑子と碧が調子を合わせるが、

 「Fカップ未満は出入り禁止だ!」と鈴音に言い放たれ、

 「えー!」「えー!?」抗議の叫びをあげた。

 「あ、藍さんは別だよー。レアチーズ作りに来てねー」

 「あ、うん、ありがとう…」

 「くそう。美奈ちゃんも鈴音ちゃんも藍ちゃんヒイキして!」

 「人徳だろ」

 「人徳だな」自分をダシにしてふざけているのだと分かっていても、過分な評価に藍はやはり恐縮してしまう。

 「ですよねー!? あ、じゃあアレだ、Fカップのブラして行けばいいんだ!」

 「相生ちゃん…それ自分がダメージ受けるやつだ」憐れむような目で緑子が碧を見る。

 「ぐはーっ!」と碧は叫んだが、もちろんそれはただの冗談で碧はそんなことではダメージを受けないだろう、と藍は思う。何と言うか、碧は自分の容姿に無頓着なように感じるのだ。

「でも実際どうなるのかな? そんな大きいブラつけたら」

 「ピッタリしなくて気持ち悪いんじゃね? アンダーピッタリに合わせても上がスカスカな訳だろ」

 「かなあ。美奈ちゃんどう思う?」

 「ミドリ説で合ってんじゃね?」

 「ちえっ。新しい地平を切り拓いたと思ったのになー。じゃあそゆことでー」

 「それでOKなのかよ」美奈子は肩透かしを食らったという表情。

 「実験してみるとか言い出すと思った」

 「な」緑子と鈴音も同じ感想らしい。

 「実験…ということは美奈ちゃんがブラはずす…! いいね! ゼヒやりましょー!」

 「鈴音のブラで十分だろ! アンダーも合わんわ、わたしのブラじゃ」

 「えー? いくつ?」

 「70」

 「むー、大きいけど、詰めれば何とか…」

 「ならんわ。なるならサイズ分けして売らねーだろ」

 「くっ、正論(セイロン)だ…スリランカだ…」

 「コロンボでもスリジャヤワルダナプラコッテでもいいぞ」

 「それなんだっけ?」緑子が訊く。

 「スリランカの首都」

 「美奈子やるな! 舌かみそうだぞその名前」

 「区切って言えばいいんじゃね?」

 「どこで切んの?」

 「スリ・ジャヤワルダ・ナプラ・コッテ」美奈子は淀み無く答える。藍は、首都の名は覚えているが、一つの長い名前だと思っていた。

 「スゲーな美奈子!」

 「地理好きなんだ」

 「サンチアゴ?」と碧。

 「バルパライソだな、チリだったら」

 「聞いたことねー」緑子が即応し、

 「な」鈴音もすぐそう言った。が、

 「どっかで聞いたんだけど…」碧は腕組みする。

 「写真で見ただけだけどな、丘の上から夕日と海が見えててすげーキレイだった」

 「あっ、思い出した! 映画で見た! スゴいきれいだった!」

 「だろ?」

 「うん!」

 「何て映画?」と鈴音。

 「モーターサイクルダイアリー」

 「バイク日記?」

 「若者二人がバイク二人乗りでアルゼンチンからアメリカまで行く話。途中でバイク壊れちゃうんだけどね」

 「ガッカリな話だな」と美奈子。確かにその通りである。

 「実話なんじゃね?」緑子の推測は正解だ。正確には、事実に基いた創作、であろう。

 「途中でバルパライソ通るの。映像二、三秒だったけどめっちゃきれいだったよ!」

 「へー。バルパライソね」

 「いつか行ってみたい! チリだからイースター島行くついでかな!」

 「モアイな! 本土からスゲー離れてるけどな」美奈子は地図上の場所を把握しているようだ。

 「3500㎞って書いてあったかなあ」

 「どんぐらいか全然分からんな」さもありなん。実感のある人の方が圧倒的に少ないはずだ。

 「飛行機で5時間だって」

 「それも全然分からん。飛行機乗ったことねーし」

 「わたしもー」

 「わたしもー」

 「私もー」

 「藍ちゃんは?」

 「一回だけ…」

 「おお~!」何故か一同感嘆。

 「あ! 柳川行った時?」碧は察しがいい。

 「うん…ひいお祖父ちゃんのお葬式で…」

 「柳川ってこの前百瀬が言ってた?」意外と言っては失礼だが、美奈子もよく人の話を聞いているようだ。

 「かな…? 百瀬君が話してたのがどこのことか分からなくて…」

 「そか。藍さんが行ったのは? 何県?」

 「福岡…」

 「飛行機どこから?」

 「松本…」

 「アルウィンの横じゃん!」緑子が食いついてきた。

 「うん…」離陸の直後、窓から見えていた球技場の芝の緑を、藍は鮮明に覚えている。平日の夕方で、無人だった。

 「そっかー。あれ福岡に行ってんだー」

 「しょっちゅう飛ぶの?」碧の問いは緑子に向けたものだろう。

 「昼前から夕方にかけて何本か飛んでくなあ。ファンパークからスタジアムに行く途中の真上飛んでる」

 「へー」

 「緑の飛行機があるんだけどな、下半分は白だから、すげーダイエットしたアマガエル下から見てるみたいだぞ」ちなみにその機体は松本市の観光大使に任命されている。

 「わ! 面白そう!」

 「でも今回は試合中になるかなあ。もしかしたら終わった頃に飛んでくかも」

 「見れたらラッキーだね!」

 「緑が来るとは限らねーしな」

 「いっぱい色あるの?」

 「赤、黄色、オレンジ、紫、シャンパンゴールドくらいか?」実際は他にも有る。

 「へー、カラフルだね!」

 「緑が来てほしいけどな、やっぱ」

 「だね! で、次のアイテムは」碧は寝台の傍へ移動した。

 「脱線長かったなー」鈴音が言うと、碧が振り向き、

 「ホントだよ! 誰!? 脱線させたの!」

 「自分自分」三人が声を揃える。

 「父さんはいつでも本線ド真ん中だぞ!」

 「『本線』の定義が違ったか」

 「ダメだこりゃ」

 「次行ってみよう! で? 次のアイテムは?」自分からも見えているはずだが、鈴音がわざわざ碧に問いかける。

 「帽子」と言って野球帽を取り、皆に見せる。

 「相生ちゃん帽子似合いそうじゃん」美奈子が言うが、

 「ホメられて父さんうれしい! けどもう別の帽子借りちゃったの」

 「そか。じゃあ鈴音」

 「かぶってみっか」鈴音が碧の方へ手を伸ばす。碧も手を伸ばして野球帽を渡し、鈴音は被ったが、後ろの帯が長かったらしく、調整して再び被った。

 「いいんじゃね?」

 「うん。借りる」鈴音が緑子に向かって言い、

 「うん」緑子も軽く頷いた。

 「次はこちら!」碧が拾い上げたのは髪を括る輪ゴムだった。ハート形の飾りが付いている。

 「それは藍さんじゃねーか?」

 「だな」「うん」

 「藍ちゃん、つけてみてー」

 「あ、うん…」渡されたゴムの飾りを見てみると、緑のハート形で、中央に白い文字でOne Soulと印刷されている。藍は、髪を束ね、ハートが天地逆さまにならぬよう気をつけてゴムに通し、項の辺りまで引き上げた。

 「藍ちゃん、後ろ向いてー」

 「あ、うん…」藍は慌てて立ち上がり、後ろを向いて座った。

 「いいね」

 「髪の毛キレイだと映えるな」

 「え…」思いもよらず誉められて、藍は赤面する。後ろを向いているので顔は見られていないが、首まで赤くなっているので照れているのは一目瞭然だ。

 僅かな沈黙の後、

 「藍ちゃんいいよー」碧に言われ、藍はまた立ち上がって元の向きに戻る。

「次はこちらでございます!」碧が持っているのは緑色の腕カバーだ。

 「あ、それ私借りたい!」鈴音が勢いよく手を挙げた。

 「はい、決定!」碧が渡す。

 「5月の紫外線はお肌の大敵~」と言いながら左腕を腕カバーに通す。

「うん、ピッタリ」右腕は試すこと無く、鈴音は腕カバーを外して畳んだ。

 「最後に御紹介いたしますのはこちらでございます!」碧はスカートを拾い上げ、両手で吊ってみせた。ミニスカートだ。今緑子が着用しているものに比べれば少し長いが、それでも腿の半分くらいが露わになると推測される。

 「藍ちゃんは既にスカート借りてるから、美奈ちゃんか鈴音ちゃん!」

 「そりゃ美奈子だろ」鈴音が即応。美奈子に着せたいのか自分が着たくないのかは分からないが。

 「ムリムリこんな短いの!」

 「いやいや、上がこれなんだから下もそれなりにしねーと」

 「だよなー。とりあえずはいてみ」緑子も鈴音の援護をする。その口ぶりから、もしかすると最初から美奈子に着せるつもりで持ってきたのかも知れない、と藍は思った。

 「はい!」碧がスカートを美奈子の前に差し出す。

 「いやいやムリだって! ミドリのスカートなんかウエスト入るわけねーだろ」

 「それが入っちゃうんだなー」碧はそう言ってスカートの両端を持って左右に引っ張った。スカートが伸びる。

 「ゴムだからな!」緑子が簡潔に種明かしをした。

「ズボンの上からでいいからはいてみ」

 「分かったよ!」美奈子は碧の手からスカートを取ると、立ち上がってスカートに両足を入れ、腰まで引き上げた。やはり腿の上半分くらいしか蔽っていない。

「やっぱ短いって!」

 「短くないことはないけどな。全然いけるって!」と緑子。

 「そうだよ美奈ちゃん! 似合ってるよ! ね、藍ちゃん」

 「うん…」藍も、似合っていると思う。色気過剰であるとも思うが。

 「鼻血出す男子が出そうだけどな」鈴音の評価に、

 「その前に父さんが鼻血出しそうだ!」碧が冗談を言う。

 「ホントサイテーだな、この父ちゃん」

 「父さんはズボンとったところが見たいぞ」

 「それはそうだな」鈴音も碧の味方に回る。

 「いやムリムリ」

 「わたし達に脚見られたって気にしねーだろ」

 「それはそうだけど」

 「パンツ見えないかーとか今のうちにチェックしといた方が無難だろ」

 「分かったよ」美奈子は完全に碧達の誘導に乗っている。無理だ嫌だと言ってはいるが、もしかするとこういう服を着てみたい願望が有ったのかも知れない。

 美奈子はスカートの中に両手を入れ、ズボンのボタンを外し、ジッパーを下ろした。その仕草と恥ずかしそうな表情が妙に艶めかしく見える。

 寸法にかなり余裕の有るズボンであるせいか、ズボンはすとんと足元に落ちた。胸や腹と同じ白い肌の腿が現れる。藍の倍くらいの腿周りだろうか。同じ身長の女子の平均よりは太いだろうが、腹部と同じく、太っているとまでは言えない。

 「いいじゃん」緑子の声は満足そうだ。

 「美奈ちゃん、スゴいよ! グラビアアイドルみたいだよ!」

 「青年誌のな」鈴音がからかうように付け足す。

 「じゃジャンプしてみ」

 「何でだよ!」

 「パンツ見えないか確認」何を言っているんだという調子で緑子が答えるが、藍は、それがただの口実であることを疑わない。緑子、鈴音、碧は明らかに美奈子にこういう服を着せたがっている。昨日の時点ではそれが何故なのか皆目分からなかったが、今は何となく理解出来る。一つには、美奈子の反応が面白く可愛らしいこと、一つには、実際こういう服が似合っていること。

 「あ、そか」美奈子は素直に指示に従ってその場で軽く飛び跳ねた。大きな胸が揺れ、藍の目はそこに釘付けになる。恐らく数㎝しか跳んでいないが、倍くらい揺れたように見えた。

 「もっと高く高く。チャントに合わせて跳ぶんだから。それと、連続で」

 「分かったよ…」今度は十五㎝くらいを続けて五回。やはり藍の目は揺れる胸に吸い寄せられる。自分では、特に大きい胸が好きだという認識は無いが、自然と見てしまう。

 「やっべ、ずっと胸見ちゃった。ゴメン、もう一回」緑子の言葉に嘘は無いかも知れないが、スカートを見なかったのは意図してのことだろう。しかし藍は自分のことを指摘されたような気がして、次はちゃんとスカートを見よう、と意志を固くした。

 「これで最後だからな!」と言って美奈子は同じように跳ぶ。藍は胸の引力を感じつつ、スカートを注視した。跳躍の上昇から下降に転じた直後僅かに白い布が見えたが、座っている視点からであるので、現場では問題無いだろう。

 「あー、全然大丈夫! それでも気になるなら見せパンはきな」

 「ホントかよ。藍さん、大丈夫だった?」急に見解を求められて慌てるが、

 「うん…下から見上げなかったら大丈夫…」正直に言うだけなので、困ることは無かった。

 「そか」

 「じゃ、美奈子当日それでな!」

 「分かったよ」渋々といった様子で美奈子が頷くと、

 「じゃ、集合写真撮りましょー!」碧が携帯電話を持って机の前に移動した。

 「この格好でか!?」

 「うん、試着会の記念写真だから」碧は携帯電話をうまい角度で机上に置こうと工夫している。

 「相生ちゃん、自撮り棒あるよ」鈴音が鞄を探る。

 「マジですか! 用意周到!」

 「何でそんなもん持ってんだよ」

 「父さんがそんなこと言い出すと思ったのよ」

 「父さんまた読まれたー!」碧が嬉しそうに言う。

 「あ、あった。じゃ、わたしのケータイで撮るよ?」

 「はーい! 美奈ちゃんセンターね」

 「いやいいよ」

 「ダメダメ、今日は美奈子のための試着会だろ」

 「そうそう」

 「いつそんな風になったんだ」

 「最初から」

 「いや、いいよ」

 「ダメだ! 父さんこれは譲れんぞ!」

 「あー、分かったよ!」

 「はい、じゃ藍ちゃんここ入って!」碧は美奈子の右側に立ち、自分と美奈子との隙間を指す。

 「あ、うん…」端でいいのだが、と思いつつ碧の指示に従う。

 「じゃ緑がここか」美奈子を挟んだ反対側で、鈴音が碧と同じことをする。

 「はいよ!」緑子が美奈子と鈴音の間に入り、鈴音から携帯電話に装着された自撮り棒を受け取る。なるべく中央付近から撮影しようとの意図だろう。

 緑子が携帯電話をこちらに向けた。自分達五人が画面いっぱいに映っている。

 「ギリギリまで寄ってー」緑子の言葉に、藍は少し美奈子に身体を寄せる。美奈子の胸が自分の胸に当たるのが微妙に心地好い。

 三秒ほど後、美奈子が腕を背中に回してきたので、自分も両腕を美奈子と碧の背中に回した。すぐに碧が反応し、碧に腰を抱かれる。

 「オッケー?」緑子の問いに、

 「オッケー」「はいよー」「うん」「うん…」各人バラバラな返事をし、

 「藍さん画面じゃなくてレンズ見てー」先程碧と二人で取ったときと同じことを言われ、

 「あ、うん…」慌てて視線を移す。

 「じゃいくよー。3、2、1、はい!」藍はほっと息をつこうとしたが、

「はいもう一枚ー」その隙は与えられなかった。

 「今度はOne Soulでいこ! こうね!」と言って左手の人差し指を立てる。右手は自撮り棒だ。それを見て美奈子が腕を離し、緑子の真似をする。右側では碧も同じようにしているが、藍の腰に回した腕は離さないので、藍も美奈子の背に回した腕はそのままにした。

 「合図したらOne Soulって言って」

 「はーい!」返事をしたのは碧だけだったが、

 「じゃいくよー。せーの!」

 「One Soul!」

 「よしゃ!」

 「ミドリちゃん、見せて見せて~!」

 「ちょい待ちー。…はいよ!」

 緑子は撮影時と同じように携帯電話を目の前に出した。自撮り棒を縮めてあり、全員で写真を確認することが出来る。

 画面には一枚目の写真が表示されていた。藍以外の全員が楽しそうな笑顔で写っている。藍だけは微笑みだが、ぎこちなくない表情であることに、藍本人が驚いた。

 「いいね?」緑子が訊き、

 「うん」全員の声が合わさる。

 二枚目も皆同じく楽しそうな表情だ。全員が人差し指を立てていて、これについては藍も恥ずかしがらず皆と同じように出来ていた。

 「いいね?」

 「うん」また全員の返事が重なり、

 「じゃ、送るから。あ、藍さんアドレス教えて」

 「あ、うん…ちょっと待ってね…」藍は机の引き出しから紙を取り出し、メイルアドレスを書いた。藍は自分用のアドレスを取得していないので、父親のものである。

 紙を渡すと緑子はそれを見て手早く入力し、

 「はい、送りましたー!」

 二、三秒後、三人の電話が時間差で着信音を鳴らし、

 「はい、来ましたー」

 「来ましたー」

 「わたしもー」

 「藍さんも後で確認しといてー」

 「うん…ありがとう…」

 「じゃ、そろそろオイトマしますか」美奈子がそう言って、脱ぎっぱなしになっていたズボンを拾い上げた。

 「そだな」鈴音も、壁際に置いた自前の服を取り、

「ミドリー、その袋一枚ちょうだい」緑子が持ってきた半透明緑色の袋を指差す。

 「んー、持ってきな」

 「さーんきゅーう」鈴音は自分の服を畳むと、美奈子の着ていた服を取った。

 「あ、それ着る」と美奈子が言うが、

 「いいじゃん、これで帰ろうぜー」鈴音は美奈子の服を折り畳む。

 「ハズいって」美奈子は急いでズボンを穿くが、

 「何言ってんだ、試合の日は男子もいるんだぞ。そんなんで恥ずかしがっててどうすんだ」鈴音はさっさと畳み終わると、自分の服とまとめて袋に入れてしまった。

 「そうだよ、美奈ちゃん! 似合ってるんだからそれで帰ろ!」

 「こういうのは慣れだからな」と緑子。とても短いスカートを平気で穿いている彼女の言葉には説得力が有る。

 「分かった分かった」

 「おっと、わたし達は服入れ替えないと」碧に言われるまで、ユニフォームを交換したことを藍は忘れていた。

 「あ、そうだね…」急いで脱ぎ、碧に差し出す。碧も同時に服を差し出してきた。恐らく、藍の動作を見て動いたのだろう。

 服を交換し、急いで着る。幸いまだ鈴音がタオルマフラーを袋に仕舞っているところで、服も詰められるのを待っている。

 「萌えー!」交換したユニフォームに頭を突っ込んだところで美奈子の声が上がった。碧がユニフォームを着たのであろう。急いで首を出すと、思った通り碧が照れた顔をしている。藍は心の中で右手の親指を立てた。

 タオルマフラーと服を袋に詰め終え、野球帽を被り、半透明緑の袋を掴むと、

 「お待たせ!」鈴音は元気よく言った。

 「お忘れ物はございませんね?」碧の問いに、

 「うーい」美奈子が代表して答える。

 「では皆様、お名残惜しうございますが、藍ちゃんの部屋を後にいたしましょう」碧は扉を開け、廊下に出た。緑子、美奈子、鈴音の順で後に続き、藍は最後に廊下に出て扉を閉めた。何だかとても寂しい感じがする。

 一階の三段上まで藍が降りた時には、碧はもう靴を履き、玄関の扉を開けていた。後続が居るので急いだのだろう。

 二番手の緑子が靴を履きかけたところだ。框に腰掛けず、身体を二つに折って靴の踵を上に引いている。平均より多少細い脚とスカートの短さが相俟って、とても脚が長く美しく見える。その姿勢を見て、梨乃もこうしていたなと思い出した。

 「ミドリいい脚してんなー」藍の思っていたことを美奈子がズバリと言い、緑子の左腿を両手で撫でる。

 「ヤだ、もう!」と言いつつ緑子は足を動かしたりはしない。

 「だよねー。ほおずりしたくなるよねー」建屋の外から碧が相槌を打つが、

 「いや…、それはちょっと、アウトな気がするわ…」美奈子の同意は得られなかった。

 「えー!? 絶対スベスベマンジュウガニだよ、緑ちゃんの脚!」

 「てか何よ、スベスベマンジュウガニって」と緑子。美奈子と鈴音は無言で頷いている。

 「え!? 知らないの!? スベスベマンジュウガニ!」

 「知らねーよ。ホントにそんな名前?」

 「うん。おいしそうな名前だけど毒があるという」

 「スベスベなの?」緑子は靴を履き終わり、屋外へと出た。替わって美奈子が框に座り、靴を履く。

 「写真で見た限りではスベスベっぽかったよ!」

 「後で検索してみるわ」理由は分からないが、緑子は興味を持ったらしい。

 「うん! そして美奈ちゃんの胸はモチモチマンジュウガニだった!」

 「そんなのもいんの?」美奈子が顔を上げる。

 「ううん」

 「いねーのかよ。てゆーかモチモチって何だよ」美奈子が履き終わり、鈴音に替わる。

 「え!? モチモチだったよね?」碧の問いかけは自分にも向けられている、と思い、藍は後ろで頷いた。確かに、柔らかくて吸い付いてくるような肌であった。ああいうのを餅肌と言うのだろう。

 「うん」「もち肌だった」満場一致である。

 「まー確かに太いけどな」

 「太ってないよ! モチモチってふくれてるって意味じゃないよ!」

 「然り。もち肌とは、『搗きたての餅のように柔らかく滑らかな肌』のことだ」靴を履き終えた鈴音が説明する。藍は、美奈子を待たせないよう、朱美のローファーを履くことにした。紐靴よりは格段に短い時間で履けるはずだ。

 「あ、そなの?」美奈子が赤くなる。間違えていたことが恥ずかしいのか、誉められたと知って照れているのか、藍には分からない。

 「そうだよ! あー、モチモチしたい」

 「いやあれはモミモミだったぞ」

 「モミモミしたい」

 「完全にアウトな発言だな」

 「まあ父ちゃんだから」

 「仕方ないだろう! 父さん欲望に忠実なんだ!」

 「ダメだこりゃ」

 「次行ってみよう」

 三和土に留まっていた美奈子と鈴音が外に出、ちょうど藍も靴を履き終わった。もしかしたら美奈子達は待っていてくれたのかも知れない。

 「藍さんいただきました!」藍が玄関から出たところで鈴音が言うと、

 「いただきました!」残る三人も声を揃えた。

 「あ、お粗末さまでした…」

 「試合の日も期待してるよー」と緑子。

 「うん…がんばります…!」こんなに喜んでもらえるとは全然思っていなかった。そして、それがこんなに嬉しいことだとも想像しなかった。

 緑子と美奈子と碧が壁際に置いた自転車のハンドルを握る。藍は、慌てて門扉を開けに走った。

 まだまだ明るいが、道の方まで長く伸びた家の影が宵闇の到来を告げている。少し見上げてみると、垂れこめていた雲がいつの間にか散り散りになり、代わって青空が天空の大半を占めていた。

 「おジャマしましたー」「おじゃましましたー」口々に言って、皆が狭い門から出る。最後に藍も道路に出た。

 「あの…ありがとうございました…」何に対してありがとうなのかは自分でも分からないが、思ったままを藍は言葉にした。

 「いやいやこっちこそ!」

 「だね」美奈子と鈴音が発進の態勢を整え、

 「じゃあまたねー」右手の方へ漕ぎ出した。

 「レアチーズおいしかった! わたしも手伝いには来るから!」

 「うん…ありがとう…」

 緑子も二人の後を追った。碧と二人で手を振った後、

 「碧ちゃん…ありがとう…!」

 「ううん」と言って碧は左手で藍の右手を握った。右手は自転車を支えている。

「またね」

 「うん…!」

 碧が握った手を放し、藍に向かって小さく振る。藍も握られていた右手を振り返した。

 来た時に比べてずっとゆっくり遠ざかって行く背中が建物の陰に消えるまで、藍はじっと見つめた。

 そして、家の敷地に入り、門を閉じる。寂しい気持ちと幸せな気持ちを同時に、そして胸いっぱいに感じながら藍は玄関の扉を開けた。

 レアチーズの後片付けもあるが、まずは緑子が送ってくれた写真を確認しよう。藍は居間へと向かった。

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