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リセエンヌ  作者: 松本龍介
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第三回弁当会議

第三回弁当会議


 翌朝。藍と碧が話していると、登校してきた鈴木が碧の席へやって来た。

 「ユニ持ってきた」と言って半透明な緑色の袋を碧の机に置く。

 「わ! ありがとう! 見てもいい!?」

 「おう!」

 碧が袋から取り出してみると、服は二着有った。どちらも綺麗に折り畳まれていて、意匠は同じだが寸法が違う。上に乗っている方が明らかに小さい。碧はその小さい方の服を両手で持って広げ、

 「藍ちゃん、当ててみて~」と渡してきた。

 「うん…」受け取った服の肩の部分を持って吊り下げ、自分の胴に当てる。その際に服の背中側が見えたが、中央部分に大きく誰かのサインが書いてあった。GANSと読める。

 「おおー。これだけでサポーターっぽくなったよ!」

 「だな。アルウィンにこれが一万人集まんだぜ」アルウィンとは松本山雅のホームスタジアム、松本平広域運動公園球技場の愛称である。

 「スゴいね!」松本や近隣自治体の人口を考えれば、驚異的な集客と言える。

 「上は90から下は3歳、どころか犬まで着てるからな」残念ながら犬の入場は認められていないが、球技場の南側と東側に広い芝生があり、そこを犬連れで散歩している人はけっこう居る。

 「ユニフォーム犬!? 見たい!」

 「遭遇できるといいな」

 「うん!」

 「お、藍さんユニ借りたの?」背後から声を掛けられ、藍は驚いて振り向いた。いつの間にか中川が立っている。

 「あ、うん…碧ちゃんと…」

 「お揃いで貸してくれるんだ!」と碧も振り向いて中川に言い、すぐに向き直って、

「鈴木君、着てもいい?」

 「おう!」

 「藍ちゃん、着てみて~」

 「え…!?」持って身体に当てている分には何も感じなかったが、着ろと言われるととても恥ずかしい。しかし、着用時の様子を碧が確認するためには誰か碧以外の者が着なければならない。指名されたのは自分だし、この役を他人が務めればきっと妬ましく思うだろう。

 そんなことが一瞬の間に頭をよぎり、藍は服を着た。制服の上からであるにも関わらず、すっぽりと入る。

 「髪の毛出して~」次なる指令が出され、藍は従った。両手を首の後ろに持っていって髪を束ね、右手を持ち上げる。服の首穴から髪が抜け、手を放すと髪が背中に掛かった。と、

 「藍さん、今の萌えるわー!」美奈子が碧の肩越しに声を掛けてきた。碧が振り向き、

 「だよねー!」と相槌を打つ。が、

 「え…」どこがどう受けたのか藍には分からない。そして、「もえ」とはどういう感情を指しているのだろうか。碧の口から何度か聞いた言葉だが、まだ理解出来ていない。

「イヤこれいいね! わたしも着てみよ!」碧はもう一着を手にし、

「デカっ!!」と驚いた。広げた服は、確かに大きい。碧と藍が二人で入れそうな程の胴回りだ。

 「4Lだからな」

 「こっちは?」と藍の胸の辺りを指差す。

 「L」

 「え、どっちが鈴木君の?」袖を通しながら碧が訊く。

 「藍さんの方」

 「お父さんこんなに大きいの?」

 「いや? 冬の試合でもベンチコートの上から着れるようにっつって、いっつもそのサイズなのよ、うちの親父」

 「おおー、なるほどー」碧は頭から服を被り、首の穴から頭を出した。

 「やっば! メッチャかわいい!」と再び美奈子。

 「えー?」碧が頬を赤くして照れる。

 「何この萌え! (ちっ)ちゃい()(おっ)きい服着るのってこんな破壊力!?」

 確かに可愛らしいと藍も思う。服の裾が膝上辺りに達し、袖も肘を覆うかという位置だ。一言で言えば子供が大人の服を着ているよう、ということになるが、それが何とも愛らしい。しかも普段碧が見せない照れた表情。

 ここで、先程の疑問の答えが稲光のように藍の脳裡に閃いた。これか。これが「もえ」か。

 「逆だとこうはいかないもんなー」と、高木が会話に入ってきた。高木は美奈子の隣に立って碧を見ている。

 「体型次第でエロいかっこいいにはなっても、カワイイになることはねえな」と鈴木。

 「誰だったらエロい?」高木が踏み込む。藍は、高木が美奈子からは見えないように美奈子を指差しているのを見た。

 「そうだなあ…高橋とか」鈴木が応える。鈴木からも見えているだろうから、出来レースなのは間違い無い。しかし藍は美奈子がぴったりとした服を着たところを想像した。梨乃よりも大きな胸が強調されるのだから、艶っぽいを通り越して淫靡な感じがするかも知れない。

 「鈴木穂高、放課後体育館裏に来いや」美奈子が低い声を作る。

 「あれ? ほめたんだけど」

 「そうだよ、美奈ちゃん! セクシーだよ! 起伏美人だよ!」碧が援護に入った。

 「起伏の『伏』の方がイマイチなんだけど」と美奈子。

 「そんなことないって! じゃ、美奈ちゃん当日小さい服で来て!」碧が踏み込む。

 「オイ。どのみちそんな服ないから心配無用だけどな!」

 「中川さん、ユニフォーム余ってない?」碧が、美奈子の後ろに来ていた中川に訊く。中川は藍や美奈子より僅かに背が高いが、すらりとした体型で、服も小さいものを着用していると推測される。

 「あるよー」

 「オイ」

 「サイズいくつ?」

 「S」

 「入んないって」

 「Mもあるし」

 「なくていいよ! て言うか、わたしがその4L借りてどっちかがミドリから借りればいいじゃん!」この呼び方からすると、美奈子は中川と仲がいいようだ。

 「いやー、ほらわたしたちお揃いじゃないといけないし。そもそも鈴木君がオッケーしてくれないといけないし」

 「いやー、これ親父のだし。学級委員長たっての頼みだっつったから貸してくれたんだし」鈴木がしれっと、あまり間を置かず応える。しかも角の立たない口実だ。藍はまた驚いた。この男の頭の回転速度は碧並みだ。

 そして、碧が後ろ手に右手を握って親指を立てるのを見た。明らかに鈴木に対するものだろう。理由は分からないが、碧、高木、鈴木、中川は明らかに結託している。

 「くっ、四面楚歌か」

 「美奈ちゃん絶対いけるって! わたし見たいー!」碧がさらに攻め込むと、

 「そうそう。男子も期待してるって!」中川も後詰めに入る。

 「…………」美奈子は無言になった。抵抗を諦めたのか、中川の言葉が威力を発揮したのか、表情からは判断出来ないが。

 「じゃあ明日やりますか! 試着会」碧はこのまま押し切る体勢だ。

 「いいね! 緑ユニフォーム持ってきて!」暫く黙っていた高木が繋ぎ、

 「いいよ! 美奈子いいよね」中川が駄目押しして、

 「…分かったよ」美奈子を渋々ながら頷かせた。

 ふと気付くと、学級の半分以上が自分達の周りに集まってきている。男子の目当ては碧だろうが、女子も多い。けっこう騒いだから無理も無いが、にも関わらず見物人が一人として自分に目を向けていないのは有り難い。

 「じゃ、また後で場所決めよ! では解散します」委員長的な口調で碧が言うと、皆は自分の席へと戻っていった。

 「おっと、脱がないと」席に着いた碧が服の胸の辺りをつまんでそう言ったので、

 「あ、そうだね…」少し遅れて座りかけた藍も、自分が同じ状態であることを思い出した。

 しかし、二人揃って服の裾に手を掛けたその時、教室前方の扉が音を立てて開いた。

 「あ」「あ…」二人の声が重なり、

 「二人ともやる気満々だな」愉快そうな声と共に贄教諭が教室に入ってくる。二人は服の裾を放した。

 「鈴木君が貸してくれましたので、試着していました」学級委員長の声で碧が応える。

 「そうか。クラスの親睦が深まっているようで結構結構。日直」

 結局借りた服を制服の上から着たまま朝礼を過ごし、一時間目の教師が教室に入ってくるまでの間に二人は大急ぎで服を脱ぎ、畳んだ。


 「藍ちゃん、ユニフォームの畳み方なんだけど」一時間目が終了し教師が退出すると、碧がそう言ってきた。

 「うん…」

 「これで合ってるよね?」と、机に置いた袋から服を引き出す。

 藍が着ていた服をその袋に入れる時間的余裕は無かったので緊急避難的に机の中に入れてあったのだが、藍はそれを出して机の上に置いた。

 元の畳み方通りに畳んだと、藍は自信を持って言える。碧が服を広げる時に、畳み方を観察していたのだ。藍の見たところ、畳む規則は簡単で、文字や紋章の印刷されている部分に折り目が来ないようにしてあるだけだ。鈴木は一見適当人間に見えるが、意外と几帳面なのかも知れない。或いはやっぱり適当人間で、松本山雅に対する情熱がそこだけ几帳面にさせているのだろうか。

 碧の畳んだ服を見て、自分の畳み方と同じだと確認した藍は、

 「うん…」と頷いたが、

「あ、袖は…?」袖にも印刷があったことを思い出した。

 「袖もエンブレムにかからないように折ったよー」

 「うん…」碧の台詞から判断して、自分と同じ法則で折っている。

 碧はそれで納得したらしく、藍が渡した服の畳み方を確認することも無く、二枚を重ねて袋に入れた。

 「よっし! 次は」袋を鞄に仕舞った碧が向こうを向いた。明日のことについて美奈子と話すつもりだろう。

「美奈ちゃん()どこ?」碧が話しかけると、美奈子は振り向いて、

 「明科」と答えた。明科は松本の北に隣接する安曇野市の北東部で、平成の大合併以前は南安曇郡明科町であった。国道十九号、JR篠ノ井線の両方が通っており、松本からの便は良い。距離が長い分時間は多少かかるが、長野へも簡単に行ける。

 「じゃ、電車通学?」

 「うん」

 「よっし。藍ちゃん、明日の会場藍ちゃん家でもいい?」

 「え…うん…」急に話がこちらに向いて驚いたが、碧の意図は分かる。碧、自分、中川、美奈子の家の位置を勘案すると、会場として最も効率のいいのは自分の家だ。高木も来る可能性が高いが、高木の住所はまだ分かっていない。

 「中川さーん」碧が窓際に向かって呼び掛け手招きすると、中川がやって来た。それを聞きつけた高木も合流する。

「明日のファッションショウなんだけど」

 「オイ」美奈子が突っ込むが、

 「うん」「うん」それを無視して中川と高木が話を進める。

 「ランウェイは藍ちゃん家に決まりました」

 「渚だったよね」中川がこちらを向いたので、

 「うん…」と答えた。

 「渚ってどこだっけ?」今度は美奈子が訊いてくる。

 「松本から松電で二駅…」

 「7番線のやつ?」

 「うん…」

 「鈴音も来るよね?」中川が訊き、

 「トーゼン」高木が答える。

 「午後でいい?」今度は碧の問いに、

 「うん」藍を含む全員が頷いた。

 「じゃ、1時? 2時?」

 「お昼食べてくるから2時がいいー」美奈子の主張に反対する言葉は出ず、

 「じゃ、2時渚駅(しゅう)ご…美奈ちゃん電車で来るよね?」

 「うん、でも近そうだったら松本駅から歩くよ」

 「推定1キロくらいかな?」

 「なら歩く」美奈子が即答したことに藍は驚いた。運動が好きではないような印象を持っていたからである。

「えーっと松本着が…2時前だわ。その前は…1時間以上前!」と携帯電話を見ながら言う。検索したのであろう。

 「じゃ、2時15分集合にしよっか。高木さんは?」

 「私自転車で行くよ」

 「家近いの?」

 「並柳。近いって言うほどじゃあないけど、自転車ならまあ行けるー」

 「そっか! じゃ、2時15分渚駅ホーム集合で決定ね!」

 「うん」「はいよ」「りょうかーい」「うん…」四人が全く息を合わせること無く返事して、解散となった。

 「あの、碧ちゃん…」藍は、今の会話で分からなかったことについて訊くことにした。

 「うん」

 「ランウェイって何…?」聞いたことの無い単語だった。自分以外は皆分かっていたようであるが。

 「ファッションショウでモデルが歩くところ~」

 「あ、なるほど…」あっさりと疑問は氷解した。

 「歩くのにランウェイって変だよねー」

 「うん…」変と言われれば、この企画自体が藍にとっては変だ。お洒落を求める服でないとは言え、女子で集まって試着会など、夢にも思わなかったことである。

 「楽しみー! わたしも藍ちゃんに合わせてスカートにしよっかなー」

 「うん…」この企画を変だと思いつつ、自分も楽しみに思っていることに気づき、藍は驚いた。


 「藍ちゃん、お願いがあるんだけど」二時間目が終了し、便所に行って戻ってくると、碧がそう言った。

 「え…うん…」

 「明日、お昼ごはん藍ちゃん()で食べたい~」

 「え…と、うん…がんばるね…」当然、自分が作れということであろう。手際にはまだ不安を残しているが、副菜を事前に作っておけば何とかなるはずだ。

 「ホント!? イヤッホホーゥ!」碧は椅子に座った姿勢のまま小さく飛び跳ねた。器用なものである。

 ということは、正午頃には碧は来る。それならば。

 「あの…明日もレアチーズ作ろうと思うんだけど…」

 「ホント!? じゃあわたしも!」

 「うん…碧ちゃんが手伝ってくれると上手く出来るから…」

 「よっしゃー! 今日は勉強がんばるぞ!」こんなに喜んでもらえて藍はとても嬉しい。自分もがんばろう、と思う。

「あ、みんなに連絡先教えとかないと。ちょっと行ってくるね!」碧は立ち上がった。美奈子は教室内にいないから、高木か中川の所へ行くのだろう。

 「うん…ありがとう…」自分が携帯電話を持っていれば話は早かったのだが。

 「一応藍ちゃん()の電話番号も教えていい?」全く、碧はよく気がつく。

 「うん…ありがとう、中川さんには伝えてあるけど…あの…踏んだり蹴ったりで…」碧が以前使った言葉を真似してみた。

碧は一瞬驚いた顔を見せ、

 「うん!」にっこりと笑った。


 三時間目が終わってすぐ。

 「あ、そうだった。藍ちゃん、松江のことなんだけどね」

 「うん…」

 「月曜うちの親に話したらね」

 「うん…」

 「うちの親も一緒に行くとか言い出してね」

 「うん…え…?」

 「忘れてたんだけど昨日思い出したから梨乃さんにメイルしたら『トーゼンOK』って返事でね」

 「うん…」それはそうであろう。藍の両親はよくて碧の両親は駄目ということは有るまい。

 「大所帯になりそうなの」

 「そうなんだ…」

 「でね、わたしがお世話になってることでもあるし、青井さんと高辻さんにご挨拶したいとか言い出してね」

 「うん…」

 「とりあえず藍ちゃん家の電話番号教えてもいいかな?」

 「え、うん…もちろん…」

 「それとね、お義父様とお義母様に、うちから電話がいきますって伝えといてほしいんだけど…」

 「うん…」お安い御用である。

 「お兄ちゃんだけは一緒に来るの阻止するから」

 「え…うん…」確か三年生だと聞いたから、夏休みに旅行へ行っている場合ではないだろう。

 「でもクロは一緒に行くかも」

 「そうなの…?」

 「うん、ワンコローズが来るならね! 来ないならペットホテル。でもせっかくだから一緒に行きたいな!」

 「うん…!」それは賑やかで楽しい旅行になるだろう。ワンコローズやクロも喜んでくれるに違い無い。

 「紫先輩も誘いたいけど、良くないよね」

 「うん…」紫も受験生でしかも医学部志望、旅行などもっての外、のはずだ。知れば行きたくなるだろうから、梨乃と一緒に旅行へ行く計画が有ることは黙っておいた方が親切というものだろう。

 「ま、具体的なことはもっと先にするとして、とりあえず今日にでも電話がいきますってことで」碧が手を合わせ、

 「うん…」藍はもちろん頷いた。


 午後零時五十五分頃、今日も女子が教卓の周りに集まってきた。

 碧と藍はその場で立ち上がる。

 すぐに全員が揃い、教壇に上がった高木が、

「みんな揃いましたねー。今日もお昼休みにご苦労様です」と始めた。

「今日はまずご飯から。サーヤどう? お釜使えるー?」

 「大丈夫! でも研ぐの大変なんで一組ヘルプ入ってほしい」

 「料亭サーヤってどこ?」

 「中町。パルコからちょい行ったとこ」

 「はい、家近い人!」高木が右手を挙げて募るが、名乗りを上げる者はいない。

「いねーですか。じゃ、我々チーム(たか)(たか)が出張りましょう」

 「りょーかい」と美奈子。

 「次にお重。これもサーヤ」

 「あったよー、山ほど」

 「サーンキュー。じゃー次はそれをどうやってみんなに配ろうかな」

 「それなんだけどさ」

 「うん」

 「みんな今日の放課後ちょっと時間あるかな? ばーちゃんが車で校門まで持ってくるっつってっから」

 「踏んだり蹴ったりだ」碧が藍に小声で言う。

 「うん…そうだね…」

 「じゃ、ホームルーム終わったらペアのどっちかが校門まで取りに行くってことで。二人とも都合の悪いペアある?」高木が訊くと、各組が確認し合い、

「はい、大丈夫そうだねー。じゃ、次ー。当日朝、うちの車が弁当を回収に回るので、各ペアどこで作るか教えてくださいー。一番最後のところへ10時に着くように出発しますー」

 「はい! わたしたちは藍ちゃん家で!」碧がすぐ手を挙げ、

 「はいー。原さんは料亭サーヤだよね?」

 「うん」原は即答した。事前に下島と打ち合わせていたものと見られる。

 「ほかは決まって…ないね。今日帰るまでに決めて下さいー。次ー、お金の話ー。材料費は、すいませんが立て替えでお願いしますー。後で合算してワリカンにするので、レシートもらってきて下さいねー。ここまでで何か質問(しつもーん)

 手を挙げる者は居ない。高木は話を続けた。

「ないですねー。今後は細かい話になるので、個別に連絡しようと思います。いいですかー」

 皆が頷く。

「じゃ、これで終わりまーす。皆さんがんばりましょうー」

 皆はもう一度頷き、解散していった。

 「あ、わたしトイレ行ってくるー。戻ったら英語やろ!」

 「あ、私も…」

 「じゃ、一緒に行こ!」

 「うん…」


 「ねえねえ」五時間目が終わるとすぐ碧が声を掛けてきた。

 「うん…」

 「明日、レアチーズって何時から作るの?」

 「え…と、お昼食べた後…」

 「午前中でも大丈夫?」

 「え…うん…」

 「早く作った方がよく冷えるよね!」

 「あ、うん…そうだね…」

 「てわけで10時に行っていーい?」

 「うん…!」

 「お昼ごはんも手伝わせて~」

 「うん…!」

 「やった! 楽しみ~」

 「うん…!」


 「弁当班の人ー、校門まで移動して下さーい」放課後。贄教諭が教室から退出すると、高木が呼び掛けた。下島が先頭をきって廊下に出、その後ろをぱらぱらと女生徒が追っていく。

 放課後の流れとしてはいつもと同じなのであるが、皆一様にきびきびと動いている。部外者を待たせているかも知れないと思って自然とそうなっているのであろう。

 藍と碧も帰り支度を整えてその一団に加わった。

 「何かアレだね、イベントって感じがしてきたね!」碧は楽しそうだ。

 「うん…」藍は正直それほどでもないが、碧と一緒に料理をするのは楽しみだ。

 「サッカーより弁当みたいな気分になってきたわー」前を歩いていた美奈子が振り返って言う。

 「分かるー。言ったら鈴木君がショック受けそうだけど」碧も食い気が勝っているらしい。

 「そだな!」美奈子が愉快げに同意し、

「鈴木穂高め!」一転、忌々しげに吐き捨てた。が、台詞や口調とは違い、表情は明るい。その理由は藍には分からないが、鈴木を憎らしく思っている訳ではないのだろう。

 「鈴木君はいい人だね」

 「そうかー?」賛同しかねる、という感じの言い方だ。

 「ユニフォーム貸してくれたし」

 「わたしには貸してくれなかったけどな!」

 「わたしが先に借りてたからね! 藍ちゃんとお揃いがいいって無理言って、お父さんから借りてきてもらったの」

 「朝言ってたのは本当だったのか」

 「うん」

 「まー、そうじゃなくても4Lは相生ちゃんが着るべきだけどな。すげー萌えだった」

 「ほめても何も出ないよー」照れた顔で言う碧に、

 「いーや、もう出てる」美奈子は満足げだ。

 「え?」碧は何の事だか分かっていないようだが、隣で見ている藍には一目瞭然。頬を赤くした碧がとても可愛らしいのである。

 その横顔を見ていると、美奈子に対する感謝が湧き上がってきた。碧のこのような表情を見ることが出来たのは(ひとえ)に美奈子のお陰だ。藍は、朝碧が親指を立てた右拳を鈴木に見せていたのを思い出した。同じことを美奈子に向かってしてやりたい気持ちだが、恥ずかしさの方が勝って出来なかった。相手が碧ならば出来たかも知れないが。

 「藍さんも萌えてるし」

 「え?」「え…?」碧と藍の声が綺麗に重なった。

 「でしょ?」

 「え…うん…」もえという言葉を使われると何だか恥ずかしいが、嘘はつきたくない。相手が碧であれば尚更だ。

 「藍ちゃん…」赤い顔のまま碧が見つめてくる。心なしか目が潤んでいて、それだけなのに藍はどきりとした。

 見つめ返しながら藍は微笑んだが、我ながらぎこちない笑みのような気がする。

 しかし碧は目を逸らしたりすることなく微笑み返してきた。

 藍はそれをまた見つめ、碧も見つめてくる。そうして見つめ合ったのは恐らく一秒にも満たない時間だったのだろうが、藍は階段を踏み外しそうになり、我に帰った。

 碧が機敏に左腕を伸ばして藍の腰を支える。

 「ありがとう…」

 「ううん。藍ちゃん、重箱何段借りてくの?」いつもの碧に戻り、話も変わった。

 「え…と、三段…。二段で収まるかも知れないけど、念のため…」

 「そっかー。ま、三段でも四段でも藍ちゃんの玉子焼きは残らないよ」

 「残ったらわたしが食べるからな!」美奈子が振り向いて言う。

 「わたしが食べる!」碧が張り合い、

「てわけでたくさん作って~」藍に向かって手を合わせた。鞄は右腕に通している。

 「そだな!」美奈子も合掌する。荷物は教室に置いてきたらしい。

 「うん…ありがとう…がんばるね…」自分の拙い料理をこんなにも評価してくれて、本当にありがたいことだ、と藍は思う。

 「よろしく!」と美奈子。

 「わたしはアシストがんばる!」碧が両手を拳に固めて軽く上下に振る。

 「あ、そっか。作った端から食べるなよ!」

 「うをっ!? その手があったか!」

 「しまった! 余計なこと教唆しちゃったか!」

 「大丈夫、半分は残しとくから」

 「半分食うのかよ」

 「ブフフフフ」

 下らない話に変わった頃、一行は一階に着き、靴を履き替えた。藍は靴を履くのがとても遅いので、次々と後続に追い抜かれる。

 藍が校舎から出た時には、下島の姿は既に視界には無く、先行する女生徒も数名が体育館の向こうに消えようとしていた。急いだところで大差無しと分かっていても少し焦ってしまう。

 「大丈夫、多分まだ重箱配り始めてないよ」碧がそう言って藍の右手を取る。

 「うん…」乱れかけていた心がすっと落ち着くのを藍は感じた。

 碧に手を引かれて校門まで行くと、果たして、校門脇にとまった白い箱型の自動車の後部から下島が重箱を出すのが見えた。その横で弁当班が並び、下校する生徒が何事かと覗いていく。藍達も列の最後尾についた。

 下島の用意はなかなか周到で、重箱だけでなく、大きな手提げ袋も持ってきてもらっている。

 各組が必要な重箱の段数を申告し、下島が重箱と蓋を袋に入れて渡していく。藍は殿(しんがり)だ。

 「藍さんは?」

 「三段お願いします…」

 「はいよー」藍は重箱と蓋の入った袋を下島から受け取った。

 「ありがとう…」

 「玉子焼き期待してるよ!」

 「え…ありがとう…」

 下島は藍に向かってニヤっと笑うと、藍の後方に向かって、

 「行き渡ったよねー?」と訊いた。

 「うん」全員が頷いて、

 「オッケー。ばーちゃんサンキュー」下島が運転席の老婦人に言ったので、

 「ありがとうございます…」藍も頭を下げる。

 「エニタイム」老婦人は振り向いてそう応え、下島が自動車の後部扉を閉めると自動車を発進させた。

 「みんなよろしくねー」自動車に手を振ってから皆の方を向いた下島がそう言って、皆が頷き、解散した。

 「じゃわたしこのまま部活行くねー」一歩後ろに控えていた碧に声を掛けられ、藍は慌てて振り向いた。

 「うん…」

 「図書室行く?」

 「うん…」

 「紫先輩によろしくね」

 「うん…」

 「また後でー」碧が右手を顔の高さに挙げる。

 「うん…」藍も同じようにしたかったが、両手が荷物で塞がっているので、代わりに少し大きく頷く。

 小走りに部室棟へ向かう碧の背中を見送りながら、藍は校舎へと戻った。

 向かうのは図書室である。今週から、藍にとって図書室の存在意義が大きく変わった。無論、今日も本の返却と新たな本の借り受けという用事は有るが、足早になっているのはそのせいではない。

 昨夜寝床でも不思議に思ったのだが、藍は紫のことが大好きなのである。どこがどうと訊かれても答えられない。藍は紫について、崇拝と言ってもいいほど梨乃を慕っている、ということしか知らないのだ。にも関わらず、自分が紫を好きなことに疑問の余地は無い。恐らく、好き嫌いというのはそういうものなのだろう、と半ば強引に己を納得させて昨夜は眠りに就いたのだった。

 かように、藍の気分としては驀らに図書室へ向かっているのだが、靴を履き替えて廊下の角を曲がった時、ちょうど部屋から出てきた校長と鉢合わせた。

 「こんにちは…」特に緊張しているという自覚は無かったが、蚊の泣くような声であった。それでも校長はにこやかに、

 「こんにちは。一年F組はみんなでアルウィンに行くそうだね」

 「あ、はい…」

 「贄君が随分喜んでいたよ。生徒が自分達でそういう企画をして、自分もクラスの一員として参加させてくれる、って。私も参加したいくらいだ」

 「あ、え…と、幹事は鈴木君なんですが…、言えば多分…」

 「それは朗報。鈴木君はまだ校内にいるかな?」

 「え…と、すみません、それは…」全く分からないが、過去のことを思い出してみても、鈴木が放課後教室に残っていた記憶は無い。

 「いいよいいよ。強権発動だ」にこやかに不穏な事を言い、

「ありがとう。引き留めて悪かったね」

 「いえ…」藍は恐縮しつつ歩みを再開した。

 後ろで、校長が同じ方向に歩いてくる音がしたが、藍は振り向かず図書室へ急ぎ、中に入った。

 「藍さん、毎度!」勉強していたらしい紫が顔を上げ、藍を認めると、筆記具を持ったまま右手を顔の高さに上げた。

 「こんにちは…」我知らず微笑んで、藍は受付の方へ歩み寄る。

 「何それ」と言う紫の視線が自分の左手の方へ向かっている。

 藍は受付台に手提げを置いて、

 「重箱です…」と袋の中身を見せた。

 「何でまた」紫は怪訝顔だが、当然だろう。

 「今度、クラスの人達でサッカーを観に行くんですけど、そのお弁当を入れるのに借りました…」

 「藍さんお弁当作るの!?」

 「あ、え…と、分担で、私は玉子焼きだけ…」

 「え? これ全部玉子焼き用? スゴい量じゃない?」

 「え…と、二十九人いるので…」

 「そんなに? 一大イベントじゃない」

 「そう…なんでしょうか…」藍には、行事に参加しているという実感が無い。

 「クラスの七割だよ。学校の外でそんなに集まらないでしょフツー」

 「あ…そうですね…」紫の言う通りであろう。中学の時も、そんな行事が開催されたという話を聞いたことは無かった。

 「楽しそうじゃん。碧ちゃんも行くの?」

 「はい…」でなければ参加していない。

 「じゃ、碧ちゃんも玉子焼き食べるんだ」

 「はい…」実は昨日も今日も食べたのだが。

 「私も食べてみたいね」

 「え…と、月曜作ってきます…」

 「いいよいいよ、冗談冗談。わざわざ作ってもらうの悪いから」

 「あの…毎日作ってますから…」

 「え? 本当に? すごいね、藍さん」

 「え…いえ…」

 「じゃ、お願いしてもいい?」

 「はい…!」

 「ありがと! せっかくだから一緒に食べたいね。食堂でいい? 混んでるけど」

 「はい…あの、いつも碧ちゃんと一緒なんですけど…」

 「やっぱり? 碧ちゃんも連れてきてー」

 「あ、はい…」碧も喜んで来るに違いない。

 「ああーん! ユカリ楽しみー♡ で、今日は借りてかないの?」

 「あ、借ります…」藍は、読み終わったファウスト第二部を学生鞄から取り出し、裏表紙を上にして受付台に置いた。

「返却します…」

 「畏まりました」紫は読み取り機をかざしてバーコードを読み取り、

「返却、っと。あとよろしくー」全く畏まっていない感じで本を押し返してきた。

 「はい…」受け取った本を手に、藍はドイツ文学の棚へ向かう。

 ファウスト第一部の右に一冊分の隙間が空いていた。昨日、藍が空けた隙間だ。そこへ第二部を挿し込み、さて次は何を借りようかと棚を眺める。ふと、「アイルランド」の六文字が目に入った。

 月曜の時点で反応していてもよさそうなものだが、と思いつつそちらに寄る。スウィフト、ジョイス、ダンセイニ、イエィツ、ショー、ワイルド…ガリヴァー旅行記や幸福な王子はアイルランド文学だったのか。名を知った本もある中で、「妖精族の娘」という題が藍の心を捉えた。一月(ひとつき)前には惹かれなかったであろう題名だが、今は妖怪や妖精といった単語に興味を覚える。無論、碧と梨乃のせいだ。

 藍はその文庫本を取り、引き返した。

 「決まった?」本棚の向こうから受付が姿を現すと、紫が訊いてきた。まだ三メートルほどの距離がある。

 「はい…」答えて藍は受付に戻り、また紫の前に本を置く。

 「ロード・ダンセイニか…読んだことないな」呟きながら読み取り機をかざし、紫は本を押し返した。

「面白かったら教えてねん。そのうち読むから」

 「あ、はい…」

 「じゃ、また月曜。食堂で!」

 「はい…!」

 藍が一礼して図書室を出たその直後、鈴木を職員室に呼びつける校内放送が流れた。

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